☲29〕─1─見放されたメレヨン島、餓死・病死5,000人~No.117No.118No.119No.120 @ ㉒ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 餓死と病死に支配された地獄の日本軍陣地に、朝鮮人の兵士、軍属、慰安婦はいたのか?
   ・   ・   ・   
 2020年8月15日 AERA dot.「戦わぬまま餓死・病死5千人…見放されたメレヨン島、何が生死を分けた?
 © AERA dot. 提供 日本軍が設営した本島・フララップ島の滑走路=2003年、友松撮影
 戦死者約300万人の太平洋戦争末期、一度も本格的な戦闘をしないまま、兵士の7割以上、約5千人が命を落とした島がある。ほとんどが餓死か病死だったという。何が生と死を分けたのか? ノンフィクションライター・友松裕喜氏が真相を追った。
  *  *  *
 赤道に近い北緯7度東経143度、太平洋のメレヨン島=ウオレアイ環礁は、東西約8キロ、南北約5キロに海抜約3メートルの約16の島が点在している。
 久米宏氏が出演していたテレビ朝日ニュースステーション」のディレクターとして、2001年、私は、「スターナビゲーション・星の航海術」の取材で初めて、この島に渡った。取材が不調に終わり、何もすることがない私の視界に入ってきたのは、「戦争の残骸」である野砲、銃器、壕などが散在する光景だった。本島・フララップ島の中心部には日本人が戦後、建立した慰霊の鐘「メレヨンの鐘」が設置され、コンクリートの台座には「友よ安らかに眠れ」の銅板が貼られていた。私はこの環礁が「戦地」だったことを初めて知る。鐘の台座の裏には「全国メレヨン会」という組織が建立した旨が明記されていた。
 帰国後、『メレヨン島生と死の記録』(朝日新聞社)などの資料を読んだ。戦争中、現在のミクロネシア連邦・ウオレアイ環礁には、約7千人の日本兵が駐留した。そのうち戦没者概数は約4900人に上る(厚生労働省調べ)。
 1941年、フララップ島に滑走路の建設が始まった。兵士にとって「太平洋の防人」として守備に就く準備を整える。メレヨン島に部隊本隊が上陸したのは、44年4月。3カ月後の7月にサイパン、8月にグアムが玉砕。そのため、それらの南に位置するメレヨン島への米軍の攻撃は皆無になった。加えて日本軍からの食糧補給は、ほぼ完全に止まった。米軍からも日本軍からも「見放された島」がメレヨン島である。
 しかし、兵士に食料は必要だ。やせた土地で農作物を作るなど現地自活生活を余儀なくされる。米の支給は制限され、飢餓はその極に達した。さらに風土病のデング熱に加えて、アメーバ赤痢などの併発により、多くの犠牲者が出た。
 65年、メレヨン島からの生還者と遺族で構成される「全国メレヨン会」が発足。それ以降、慰霊、遺骨収集、島民との交流などの活動を行っている。
 メレヨン島の「戦わない戦争」を記録したいと願った。「全国メレヨン会」の関係者に電話をかけ、手紙を書き、ファクスを送り、取材を始めた。
 03年6月には生還者1人、遺族3人とともに、再びメレヨン島に行く機会を得た。遺骨収集、台風災害見舞い、そして慰霊の旅だった。
 現地を2度訪ねたライターとして数年をかけて6人の生還者を取材した(現在は5人が故人)。生還者のインタビューで欠かせない質問があった。極限に際した時、「生と死を分けたものは一体何か?」と──。(亡くなった方の年齢は取材当時。五十音順)
 三重県志摩市の石野晋さん(77)は運のよさと言った。
 「運がよかった。上司に恵まれた。大発(80人ほど乗船可能な船)に乗っていたという運や。食糧不足が深刻化したころ、ようやく潜水艦が入ってきた。大発は潜水艦に積んだ食糧を島に陸揚げする。その時、ワシが乗っていた大発の下に25俵の米を隠した。その後、幕舎の前に野菜やカボチャが植えてあった場所に移動させた。それで助かったな。規則違反はわかっている。良心が痛む? それはな、『役得』や」
 福島県白河市の大塚君夫さん(89)は、中国から転戦したことを挙げた。
 「中国で少年兵として捕虜を銃剣で殺すところを見せられました。自分にはできないと感じたのです。それが嫌で、ちょうど『潜水艦乗組員希望者』を募っていたので、そちらを志願しました。そこが生死の分かれ目です。本当はトラック諸島に行くはずだったのが、なぜかメレヨンに行くことになりました。それも運命の分かれ目で、生と死を分けたことです」
 奈良県生駒郡の沖中慶二さん(83)は、ウイスキーのロックを傾けながらこう話した。
 「木のぼりが得意だった。ヤシの木に実がなっとるでしょ。統制品だったあれを、こっそり夜、取るわけですよ。それを隠して自分の大切な食糧にした。軍隊という組織のなかには目の前で兵隊が死んでいっても知らん顔をする人もいる。ところが『それではいかん、供養しよう』、そう言って優しい気持ちを持っていた人ほど早く死んだ。死んだ兵隊の墓標を作るために体力を奪われたのかもしれん。メレヨンであった事実を、それがどんなにひどいことであってもきちんと伝えるべきだ。最近この年になって思う。死んだ戦友の心にこたえる道だとね」
 札幌市で今もなおトヨタカローラ札幌の取締役相談役を務める99歳の柿本胤二さんは今年7月の取材で両親への感謝と答えた。
 「両親が健康な体で私を生んでくれたことが、まずは生と死を分けたことです。加えて、正直言ってね、やはり小隊長をやっていたことが大きく関与しています。畑を作って働いたわけですが、ただ、それを監督する立場で、体力の消耗は少なかったと言えますね。それとウニなんです。沖のかなり難しいところにウニがたくさんいるんですよね。体力があるもんだから、波に打ち勝ってウニを取ることができるんです。それをかなり食べていた」
 北海道小樽市の平野晴愛さん(83)は、どんなに質問を重ねても、「……」。無言を貫いていた。
 千葉県印旛郡の渡辺義尊さん(91)は、キノコで命をつないだという。
 「腐れたヤシの葉っぱにね、雨が降るとキノコがね、うっそうと生えるのです。みんな怖がって食べなかったね。私は食べた。なんともない。そりゃね、名前がわからない。扇を開いたような小さなヤツ。コケのようになっているキノコが……」
 メレヨン島防衛の最高責任者・北村勝三氏は生還者。彼は全国各地の遺族を訪ねて弔問を続け、1947(昭和22)年8月15日、故郷・長野県の山中で自決している。北村氏の次男・内田崇(たかし)さんから「自決の仕方」を私は耳にした。彼自身に非があった、という死のメッセージが残されていた。
 厚生労働省によれば、メレヨン島の遺骨収集はこれまで10回。収容遺骨概数は3052柱(はしら)、直近では14年の32柱。未収容遺骨概数は1850柱。遺骨は千鳥ケ淵戦没者墓苑に納骨されている。
 今、私にできるのは「友よ安らかに眠れ」と祈ること。
 それにしてもメレヨン島で見た澄んだ青空に浮かぶ入道雲、海の青さ、夜空に輝きを放つ南十字星の美しさが、私の脳裏に焼き付いている。
 ※週刊朝日 8月14日・21日合併号」 
   ・   ・   ・   

☵39〕─4─韓国、75%が不買運動を継続 日本製品排除、1年たち定着~No.318No.319No.320 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2020年8月13日 Microsoft News  KYODONEWS 共同通信社 「韓国、75%が不買運動を継続 日本製品排除、1年たち定着
 © KYODONEWS 2019年7月、ソウルの日本大使館前で日本製品の不買を呼び掛ける韓国の高校生ら(共同)
 【ソウル共同】韓国で日本製品不買運動が本格化して1年がたち、政府系機関の韓国放送広告振興公社は13日までに全国の男女千人を対象とした調査結果を発表した。現在も不買運動を続けているとの回答は75%で、70%が今後も続けるとした。日韓関係悪化が長期化し、日本製品排除が韓国社会で定着している。
 不買運動は、日本政府が昨年7月に半導体材料の輸出規制を強化したことに反発して始まった。新型コロナウイルス流行も追い打ちとなり、日産自動車など韓国からの撤退を決める企業も出始めている。
 調査は7月中旬に実施。購入をやめた日本製品の分野はファッション、酒類などが多かった。」

・・・

☲40〕─1─ヒロシマ原爆被曝者。朝鮮半島出身者は数千人。アメリカ人兵士捕虜12人。~No.158No.159No.160No.161 ㉛ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本には、朝鮮人原爆被曝者に対しての責任はない。
   ・   ・   ・   
 2020年8月6日 産経新聞「「後世に事実を伝える」被爆米兵を調査する森重昭さん
 オバマ米大統領(当時)と抱き合う森重昭さん=平成28年5月、広島市中区平和記念公園(鳥越瑞絵撮影)
 抱き寄せられたその手は、温かかった-。平成28年5月27日、現職の米大統領として初めて広島を訪れたバラク・オバマ前大統領の抱擁を受けた被爆者の森重昭さん(83)。米国も公にしてこなかった被爆死した米兵捕虜について、40年以上にわたり1人で調べてきた。被爆から75年の今夏は、新型コロナウイルスが猛威をふるう中で思うように調査が進まない。それでも、オバマ氏との出会いを糧に、真相を明らかにするために調査を重ねている。(石川有紀)
 「遺族も真相がわからず苦しんできた。これからも犠牲者の無念を世界に伝えていかなければ」
 6日午前、広島市中区に自らが設置した米兵捕虜の慰霊銘板に花を手向け、改めて自身の使命をかみしめた。脳裏に刻まれているのはあの時の光景だ。
 「言葉はなくとも心が通じ合った瞬間だった」
 4年前、米大使館から招待された森さんは、平和記念公園オバマ氏の17分間のスピーチに耳を傾けた。
 《私たちはなぜ、広島を訪れるのか。(略)10万人を超える日本の男女や子供たち、数千人もの朝鮮半島出身者、そして12人の米国人捕虜ら犠牲者の死を悼むためだ》
 そして、学ぶべき被爆者の物語としてこう述べた。 《米兵の遺族を探し出した被爆者がいる》
 スピーチを終えたオバマ氏は、森さんに歩み寄る。「長年にわたる調査が認められた」。涙にむせぶ森さんの背中に腕を回し、そっと抱き寄せた。
 米国は長年、自らが投下した原爆で自国の兵士が犠牲になった事実を公にせず、遺族にも伝えてこなかった。「広島で被爆死した彼らは自国の大統領の広島訪問という名誉で報われた」と森さんは振り返る。
 広島訪問は、オバマ氏にとっても特別な意味を持った。今夏の原爆忌を前にオバマ氏から広島県に寄せられたメッセージには、こう記されていた。
 《原爆投下の日の記憶を持つ被爆者の方々とあいさつを交わしたことを忘れることはないでしょう》
 森さんが被爆米兵のことを知ったのは偶然だった。昭和20年8月6日、8歳だった森さんは通学途中に爆心地から約2・5キロで被爆。当時の光景が忘れられず、会社勤めの傍ら、当時のことを調べるようになった。ここで偶然目にしたのが、市民が当時の記憶を記した絵。米兵が亡くなった様子を描いたものが複数あった。
 「後世に事実を伝えなければ」と、38歳のころ、目撃者探しや文献調査を始めたが苦労の連続だった。「なぜ敵兵のことを調べるのか」「米兵が被爆死した事実はない」との批判を受けたこともあった。
 その後、計12人の米兵捕虜全員が被爆死したことを突き止め、居場所が判明した遺族にたどたどしい英語で国際電話とエアメールを繰り返した。多くの遺族は、被爆死したと公式に知らされておらず、最期を知りたがった。
 被爆時の足取りを1人また1人と特定し、国立の追悼平和祈念館に遺影を順次登録。12人目を登録し終えたのは平成21年だった。その後は、長崎で被爆死した外国人捕虜について調査を続けている。
 今夏は、広島に遺族を招いての法要を計画したが、コロナ禍で延期になった。収束の兆しは見えず、森さんも心臓病などを抱えており不安がよぎる。それでも、探究への熱意は消えない。
 「これまで一人で調査・慰霊を続けてきた。当時を知る被爆者は次々と亡くなっているが、後世に伝えるべきことはまだまだある」」
   ・   ・   ・   

 

☵21〕─17─元徴用工側が日本政府批判。徴用工資産現金化。日本企業の韓国離れ加速か。~No.211 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 韓国は、日本の隣国として友人として知人として、対等な関係での友好を望んでは射ない。
   ・   ・   ・   
 2020年8月3日07:49 産経新聞「元徴用工側が日本政府批判、資産売却時の報復措置巡り
 徴用工像=韓国・釜山(鈴木俊輔撮影)
 韓国人元徴用工訴訟の原告側代理人は2日夜、声明を発表し、差し押さえられた日本企業の資産が売却された場合の日本政府による報復措置について「(韓国内の)適法で正当な法執行手続きについて他国が報復をすることは違法で、非理性的だ」と批判した。
 日本政府は資産が売却された場合、日本企業に実害が出たと見なし、報復措置を講じる構えだ。
 原告側の林宰成弁護士らは2日の声明で「(日本企業が)責任感を持ってこの問題に向き合うよう希望する」とし、賠償を命じた韓国最高裁判決の履行方式などの協議を望むなら、応じる用意があるとした。(共同)」
   ・   ・   ・   
 8月3日16:30 産経新聞「日本製鉄の韓国内資産、4日から現金化可能に 徴用工訴訟の確定判決
 韓国最高裁判所=ソウル(桐山弘太撮影)
 【ソウル=名村隆寛】いわゆる徴用工訴訟で韓国最高裁新日鉄住金(現・日本製鉄)に賠償を命じた問題で、韓国の大邱(テグ)地裁浦項(ポハン)支部が6月にとった日本製鉄への資産差し押さえ命令の「公示送達」の効力が4日に発生する。これにより、韓国国内の同社の資産の現金化手続きが可能となる。
 公示送達は、裁判所の掲示により書類が被告側に届いたとみなすもの。日本製鉄の韓国内での保有資産は、韓国鉄鋼最大手「ポスコ」との合弁会社の株式。原告側はすでに約19万4千株を差し押さえており、日本製鉄は売買や譲渡の権利を失っている。
 11日までに日本製鉄による抗告がない場合、差し押さえは確定。裁判所が命令を出せば、原告は資産評価など株式売却に向けた次の手続きを進めることができる。
 韓国最高裁は1965年の(日韓)請求権協定では元徴用工らの個人請求権は消滅していないとし、計4億ウォン(約3700万円)の賠償を命じた。日本政府は「個人請求権の問題は日韓請求権協定で解決済み」との立場で、同社は賠償支払いや協議を拒否してきた。
 日本企業の資産現金化は、韓国最高裁の判決同様、日韓関係の法的基盤を根本から覆すもので、両国関係の一層の悪化は不可避となる。
   ・   ・   ・   
 8月3日16:50 産経新聞「徴用工訴訟で解決策見いだせない韓国 望みは司法の裁量のみ
 事態の黙認を続けてきた韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領(聯合=共同)
 【ソウル=名村隆寛】いわゆる徴用工訴訟で韓国最高裁新日鉄住金(現・日本製鉄)に賠償を命じた判決で、大邱(テグ)地裁浦項(ポハン)支部が出した日本製鉄への資産差し押さえ命令の「公示送達」の期限(8月4日)が迫っても、韓国の文在寅ムン・ジェイン)政権は「司法判断の尊重」や三権分立の支持を理由に事態の黙認を続けてきた。
 最高裁が確定判決を出した2018年10月末以降、韓国政府と文政権の姿勢に変わりはないが、この1年9カ月余り、韓国側は「知恵を集めて」(文在寅大統領)問題解決に向けた議論は進めてきたとしている。しかし、判決直後から問題への対処を任された知日派の李洛淵(イ・ナギョン)前首相が事実上、さじを投げるような発言をするなど、韓国側で解決策は見いだせていない。
 文喜相(ムン・ヒサン)前国会議長が昨年末に提出した解決法案も、5月下旬に廃案となった。韓国は国際的な協定を無視し、自国の司法判断を尊重したがために“自縄自縛”の状態が続いており、文在寅政権による強い介入がない限り、日本企業の資産現金化(韓国での保有株式の売却)は時間の問題だ。
 韓国は一方で、資産の現金化を強行した場合の日本の「報復」を警戒している。韓国メディアは「日本の報復措置」としてビザ(査証)発給の厳格化や韓国産製品に対する追加関税措置、韓国への送金規制などを挙げており、日本からの逆襲が続くものと予測している。
 また、日本の報復への対抗策をどう取るかの議論も出ている。
 原告側代理人は2日、「(韓国内の)適法で正当な法執行手続きに他国が報復をすることは違法で、非理性的だ」との声明を出した。
 問題の日本製鉄の資産現金化について韓国では「年内か年末がヤマ場」との見方が多い。事態打開の糸口は、韓国の裁判所が命令を出さず株式売却に向けた次の手続きに「待った」をかけるなど、司法(地裁)の裁量のみにかかっているというのが実情だ。」
   ・   ・   ・   
 8月3日21:02 産経新聞「徴用工資産現金化 日本企業の韓国離れ加速か
 徴用工訴訟で韓国側による日本製鉄の資産の現金化が現実になれば、日本企業の韓国離れが加速しそうだ。現金化は日本企業が保有する財産への不当な侵害で、多くの企業にとって看過できない行為といえる。今後、日本企業の間でリスク回避を念頭に置いた動きがさらに強まる可能性がある。
 韓国側が差し押さえているのは日鉄と韓国鉄鋼大手ポスコ合弁会社の株式のうち日鉄の保有分。現金化の対象は約3700万円相当だ。現金化は国家間の合意を一方的に覆す、私有財産の不当な侵害といえ、韓国事業がはらむリスクが鮮明になった形だ。一連のいわゆる徴用工訴訟では日鉄以外にも三菱重工業不二越など70社超が被告となっているとされ、「明日はわが身」の立場に置かれている。
 日本企業の韓国熱はすでに冷めつつある。2012年時点で約45億ドル(約4700億円)あった韓国への直接投資は19年には14億ドルまで減少した。最近も日本製品不買運動が展開される中、ファーストリテイリングが低価格衣料品ブランド「ジーユー(GU)」で韓国の全3店舗を閉めると発表し、日産自動車オンワードホールディングスも韓国撤退を決めた。
 韓国にはサムスン電子などの大企業や人口5千万人の市場もあり、大半の日本企業が「政治とビジネスは別」(化学大手)と切り離して考えてきた。しかし資産の現金化が行われれば、政治関係が経済に影響を及ぼす「政冷経冷」が進みかねない。」
   ・   ・   ・   

☵16〕─10─韓国の良識。韓国の植物園に慰安婦像に謝罪する安倍首相像。~No.141 

    ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 人としての良識は日本と韓国では極端に違い、日本の良識・当たり前が韓国では通じない。 
 日本人と韓国人の価値基準が異次元的に食い違っている為に、幾ら話し合っても分かり合えない、時間と労力の無駄である。
   ・   ・   ・   
 反日に関する韓国人の行動の大半が、常識や良識がなく分別がわからず、自己満足的な〝悪ふざけ〟をしてはしゃいで喜ぶ子供の行動ににている。
 つまり、福沢諭吉伊藤博文らが呆れた朝鮮人そのままで、あの当時と比べて品格・品位における成長の跡が見られない。
   ・   ・   ・   
 歴代中華皇帝は、面倒臭い相手として嫌い、併合して中国人にするほどの人間とは認めず、むしろ中華帝国の外に放置して遠ざけていた。
   ・   ・   ・   
 韓国の大統領や政治家は、公然と、昭和天皇の子や孫に対して土下座して謝罪する事を度々要求している。
 それ故に、天皇・皇族は韓国を訪問してはならないのである。
   ・   ・   ・   
 2020年2月27日 産経新聞「「慰安婦像に謝罪する安倍首相像」 韓国の植物園が設置
 韓国・平昌にある「韓国自生植物園」に設置された少女像とひざまずいて謝罪する安倍首相をモチーフとした像(同園提供・共同)
 【ソウル=名村隆寛】韓国北東部の江原道(カンウォンド)平昌(ピョンチャン)にある「韓国自生植物園」が27日までに、慰安婦像にひざまずき謝罪する安倍晋三首相を模した像を園内に設置した。複数の韓国メディアが報じた。
 像は「永遠の贖罪(しょくざい)」と題され8月に一般公開される。韓国メディアによると、像を作成した彫刻家は「日本がぬかずき、われわれがいいと言うまで贖罪して初めて許しが考えられるということを形にした。安倍首相が(日本の朝鮮半島に対する)植民地支配や慰安婦問題への謝罪を避け逆の行動をしていることを刻み、反省を促す作品だ」と語ったという。
 同植物園の園長も「贖罪の対象を形にする必要があり、少女像(慰安婦像)と安倍首相で象徴させた」と説明している。ただ、この像をめぐって韓国国内ではネット上で称賛する声がある一方で、「外交的に非礼だ」「幼稚だ」との批判も出ており、賛否が分かれている。」
   ・   ・   ・   
 7月2811:53日 産経新聞「韓国の慰安婦に土下座像「日韓関係に決定的影響」 菅官房長官
 会見に臨む菅義偉官房長官=28日、首相官邸(春名中撮影)
その他の写真を見る(1/2枚)
 菅義偉(すが・よしひで)官房長官は28日午前の記者会見で、韓国北東部の江原道(カンウォンド)平昌(ピョンチャン)にある「韓国自生植物園」が慰安婦像にひざまずき謝罪する安倍晋三首相を模した像を設置したことについて「事実関係は確認していない」としつつ、「国際儀礼上、許されない」と強い口調で非難した。その上で「仮に報道が事実であれば日韓関係に決定的な影響を与えることになる」とも語った。
 同時に「韓国側に対し、慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決を確認した日韓合意の着実な実施を引き続き強く求めていく」と重ねて強調した。
慰安婦像に謝罪する安倍首相像」 韓国の植物園が設置」
   ・   ・   ・   
 7月28日13:46 産経新聞慰安婦に土下座像「逆の方向に荒立てる」 公明・山口代表
 会見で記者団の質問に答える公明党山口那津男代表=28日午前、国会内(春名中撮影)
会見で記者団の質問に答える公明党山口那津男代表=28日午前、国会内(春名中撮影)
 公明党山口那津男代表は28日の記者会見で、韓国北東部の江原道(カンウォンド)平昌(ピョンチャン)にある「韓国自生植物園」が慰安婦像にひざまずき謝罪する安倍晋三首相を模した像を園内に設置したことを批判した。設置の経緯は「詳細には存じ上げない」としながらも「(問題の収束とは)逆の方向で荒立てていくことを遺憾に思う」と述べた。
 山口氏は、慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した平成27年末の日韓合意を念頭に、「それを覆すような動きが韓国側で起きている」と指摘。「問題解決にあたった双方の努力をよく受け止め、問題の収束に努力する必要がある」と強調した。
慰安婦像に謝罪する安倍首相像」 韓国の植物園が設置」
   ・   ・   ・   
 7月28日17:14 産経新聞「韓国の慰安婦に土下座像、立民・福山幹事長「極めて遺憾。強く抗議したい」 
 立憲民主党福山哲郎幹事長=15日午後、国会内(春名中撮影)
 立憲民主党福山哲郎幹事長は28日、韓国北東部の江原道(カンウォンド)平昌(ピョンチャン)にある「韓国自生植物園」が慰安婦像にひざまずき謝罪する安倍晋三首相を模した像を園内に設置したことを批判した。「報道が事実であるとすれば、極めて遺憾だ。強く抗議したい」と述べた。国会内で記者団の質問に答えた。
 同時に「日韓の二国間関係に非常に悪い影響を及ぼす。事実ならば、韓国政府に速やかに撤去するように求めていきたいし、日韓関係が決定的に悪くならないように善処を強く求めたい」とも語った。」
   ・   ・   ・   
7月28日18:03 産経新聞「韓国外務省「外国首脳には国際礼譲」 慰安婦に土下座像で
 韓国・平昌にある「韓国自生植物園」に設置された少女像とひざまずいて謝罪する安倍首相をモチーフとした像(同園提供・共同)
 【ソウル=名村隆寛】韓国北東部・江原道(カンウォンド)平昌(ピョンチャン)の「韓国自生植物園」に慰安婦像にひざまずき謝罪する安倍晋三首相を模した像が設置された問題で、韓国外務省報道官は28日の定例会見で、他国の首脳を礼遇するという国際慣例を考慮すべきだとの立場を示した。
 報道官は、事実確認の必要があるとした上で、「一般的に外国の指導者級の人に対しては国際礼譲がある」と述べた。また、問題の像は私有地にあることから、とりうる対応については「法を綿密に調べねばならない」と語った。」
   ・   ・   ・   
7月28日19:06 産経新聞「共産・志位氏「コメントしない」 韓国の慰安婦に土下座像で  
 共産党志位和夫委員長=28日午後、東京・永田町(春名中撮影)
 共産党志位和夫委員長は28日の記者会見で、韓国北東部の江原道(カンウォンド)平昌(ピョンチャン)にある「韓国自生植物園」が慰安婦像にひざまずき謝罪する安倍晋三首相を模した像を園内に設置したことに対し、「韓国政府としての行動ではないと認識している。コメントしない」と述べた。」
   ・   ・   ・   
 7月28日20:48 Microsoft News KYODO 共同通信社「韓国の謝罪像「安倍首相を侮辱」 日本政府が反発、ネットの声意識
 © KYODONEWS 「韓国自生植物園」に設置された少女像と、ひざまずいて謝罪する男性の像=28日、韓国・平昌(聯合=共同)
 日本政府は28日、安倍晋三首相を侮辱する像が韓国国内で建てられたとして、反発した。旧日本軍の慰安婦問題を象徴する少女像の前でひざまずいて謝罪する首相をモチーフにしていると受け止めたためだ。像設置をきっかけに、韓国を非難する声がインターネット上で拡大していることを意識した対応。
 この像について、政府は「日韓関係に決定的な影響を与える」(菅義偉官房長官)との立場を韓国側に伝え、今後の推移を見守る構え。韓国の文在寅政権がどう反応するかが焦点になる。展開次第では、慰安婦問題を巡る日韓対立が再燃することも予想される。」
   ・   ・   ・   

🎍33〕─2─新羅仏教は弥勒菩薩。弥勒信仰は救世主(メシア)信仰で革命宗教。~No.105No.106No.107 

  ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 仏教はインドで生まれた宗教であった。
   ・   ・   ・   
 新羅花郎と日本の武士・サムライは無関係である。
   ・   ・   ・   
 親日派知日派の王朝は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海であった。
 反日派・敵日派の王朝は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国であった。
   ・   ・   ・   
 倭人(古日本人)は、百済と古新羅の建国に重要な役割を果たしていた。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 花郎ファラン、かろう)は、新羅で10世紀まで続いた軍事的訓練や文化的教育機関としての青年組織制度またはそのリーダーを指す。花郎制度は原始社会によく見られる男子集会所(メンズハウス)の性質を特徴としている。新羅の貴族時代には仏教の影響もあり、花郎徒は、道義、歌楽、山川渉猟を学び、宮廷に臣下や兵士として仕えたことが伝えられている。 
   ・   ・   ・   
 弥勒菩薩信仰による反乱、515年・大乗の乱、1351年・紅巾の乱、1796年・白蓮教の乱、1813年・天理教徒の乱(日本の天理教とは無関係)、1899年・義和団の乱
   ・   ・   ・   
 2020年8月号 月刊誌ムー「文=古銀剛 
 『日本書紀』成立1300年
 謎の渡来人『秦氏』と光明神ミトラの暗号を解く!!
 神道最高神天照大神』は仏教のメシア『弥勒菩薩』だった!!
 日本人ならだれでも知っている天照大神の天岩屋(あまのいわや)神話が、じつは、仏教伝来後に成立したものだった!?
 『日本書紀』に残された謎の言葉を手がかりとして、日本史上最大のタブーを暴き、秘められた弥勒(みろく)=メシア信仰の系譜を浮き彫りにする!
 ……
 第参章 朝鮮半島弥勒信仰と新羅花郎
 56億7000万年後に下生する弥勒菩薩
 ところで、弥勒とはいったいどんな仏尊なのだろうか。
 ここで弥勒信仰の歴史についてざっと触れておきたい。
 弥勒サンスクリットでは『マイトレーヤ』という。ミロクはその音写だが、マイトレーヤには『友愛・慈(いつく)しみ』という語義があることから、中国では『慈氏(じし)』『慈尊』とも呼ばれた。
 弥勒は釈迦(しゃか)の弟子のひとり弥勒(メッテイヤ)がモデルともいわれるが、はっきりとはわかっていない。インド古来の神ミトラやイランの太陽神ミトラ(ミスラ)などが習合して形成されたと考える立場もある。
 経典によれば、弥勒は、釈迦から自分が将来ブッダ(仏、如来)になるという予言(授記{じゅき})を受けたという。つまり、現在は如来になることをめざす修行者である『菩薩』という状態にあるが、遠い将来には『如来(仏)』になることが約束されているということだ。したがって、弥勒とは、菩薩でもあり、如来でもあるわけで、仏像としては菩薩像が一般的だが、如来形に造像(ぞうぞう)されたものも少数ながら存在する。
 この信仰が発展すると、『弥勒菩薩は現在ははるか天上に広がる兜率天({とそつてん}如来となるべき菩薩が地上に下るまで最後に過ごす世界)にいて神々に対して説法をしているが、釈迦の入滅から56億7000万年後には再びこの世に降臨し、竜華樹({りゅげじゅ}龍が花を吐くような枝をつけた巨木な木)の下で悟りを得て弥勒菩薩弥勒仏)となり、人々に説法して悟りへと導いてくれるのだ』と信じられるようになった。
 これを『弥勒下生(げしょう)信仰』といい、その典拠になっているのが『弥勒下生経』という経典だ。より詳しく説明すると、まずインドで『弥勒への約束』というサンスクリット経典が成立し、それが4世紀以降に中国へ伝えられ、『弥勒下生経』あるいは『弥勒下生経成仏経』として漢訳されたと考えられている。
 『第2の釈迦』として人気を集めた弥勒
 また5世紀ごろには、中国で『弥勒上生(じょうしょう)経』も漢訳された。こちらは、『弥勒菩薩を信じる者は死後、弥勒が常住している兜率天に昇ることができる。そして弥勒の下で56億7000万年を過ごし、弥勒とともにこの世に降り、だれよりも先に真理に目覚めた弥勒の教えに触れることができる』という内容になっている。
 つまり、死んだら一気に弥勒の側に昇って悟りをめざそうという信仰で、弥勒がこの世に降りてくることをひたすら待つ下生信仰に対して、『弥勒上生経』と呼ぶ。上生信仰は、本人だけでなく亡くなった親族が弥勒のいる兜率天弥勒浄土)へ昇ることを願うという追善供養(ついぜんくよう)のスタイルもとった。
 このようなプロセスをたどりながら、弥勒信仰は中国で隆盛し、弥勒像が盛んに造像されるようになった。たとえば、北魏が都・洛陽の南郊に5世紀末から造営をはじめた龍門石窟の石窟寺院には、弥勒菩薩像が数多くつくられている。
 なぜ、弥勒信仰が隆盛したのか。それはひとつには、遠い将来に仏になることを釈迦に約束された弥勒が、当時の人々には釈迦の後継者、いわば『第2の釈迦』として理解されたからだろう。釈迦そのものは紀元前500年ごろにインドで滅して涅槃(ねはん)に入ってしまったわけだが、しかし弥勒は、信仰上では、兜率天という天上彼方の世界においてとはいえ、現在している 〝ほとけ〟なのだ。そういう点で、人々は、釈迦より弥勒に親近感、リアリティをおぼえ、釈迦に代わる真の救済者として信仰したのである。
 朝鮮半島に伝わった弥勒信仰と半跏菩薩像
 弥勒信仰はさらに東へ、朝鮮半島へと伝播(でんぱ)していった。
 朝鮮半島には4世紀までには中国から仏教が伝わっていたが、早い段階で弥勒信仰も受容されていたようだ。
 当時(4~7世紀)の朝鮮半島をみると、北部に高句麗、南西部に百済、南東部に新羅があり、この3国が覇を競っていたが、このうちとくに弥勒信仰を積極的に受け入れたのは百済新羅である。そして両国では6世紀以降、銅像、石像あるいは磨崖仏(まがいぶつ)というかたいで弥勒仏がさかんにつくられるようになった。
 百済新羅弥勒像には、様式の点で大きな特色があった。多くが『半跏思惟(はんかしい)像』という姿をとったのである。台座に腰掛け、片足をもう片方の膝の上にのせ、頬杖(ほほづえ)をついて考えこんでいると言う姿である。
 日本の広隆寺にある弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)を思い浮かべる読者も多いだろうが、この弥勒像は朝鮮産のアカマツを材としており、飛鳥時代朝鮮半島から将来されたものと推測されている。
 半跏思惟像はインドやガンダーラ、中国でもはやくからつくられていたが、じつはそれらは弥勒を表現したものではなかった。では何の像だったのかというと、出家する以前の思惟し苦悩する釈迦すなわち悉達太子({しつたたいし}シッダールタ)を表現したものだった。弥勒自体は、インドや中国では立像や倚像(いぞう)、交脚(こうきゃく)像、坐像、あるいは大仏によって表現されていた。
 ところが朝鮮半島では、どういうわけか、弥勒が半跏思惟像の姿で造形されるようになったのだ。悉達太子としての半跏思惟像が、未来の釈迦としての弥勒菩薩の姿と重ねられたからだというのが、よくみられる解釈である。
 弥勒の化身とされた新羅花郎
 朝鮮の3国のなかでもっとも成立の遅れた新羅では、弥勒信仰が非常にユニークなかたちをとって隆盛している。
 政治的には有力貴族の合議制というかたちをとった新羅では、有力貴族の子弟が集まって結社をつくり、ともに肉体を鍛錬したり、詩を吟じたり、歌舞に興じたり、あるいは酒を酌み交わしたりしながら、絆を深め、成長してゆくという伝統があった。このような結社は新羅各地に点在したが、各集団の首領はとくに『花郎ファラン)』と呼ばれて、強いカリスマ性をもった。『花』とは、『美しい』というような意味であり、花郎に奉戴(ほうたい)されるのは15、16歳の眉目秀麗な美青年で、それぞれの花郎は数百人から1,000人の若者を束ねた。
 花郎を中心とする若者集団は新羅のエリート青年たちによる勇敢な戦士団であり、精神修養団であり、同時にまた国政を担う有為な人材の育成機関でもあった。
 花郎の起源は、朝鮮半島最古の史書である『三国史記』(1145年成立)に書かれているが、それによると花郎の役はもとは若い女性が務め、『源花(ウォンファ)』と呼ばれていた。ところが、西暦567年、源花に選び出されていた娘が、もうひとりの源花を無理矢理酒に酔わせたあげく、河に投げ込んで殺してしまった。原因は嫉妬であった。事件が発覚すると、殺害した娘は誅殺(ちゅうさつ)され、若者たちの集団はもろくも崩壊してしまった。
 そのため、これを機に、女子ではなく美貌の男子が若者集団のリーダーに選出されることになり、花郎が誕生した。花郎は白粉をつけて化粧し、美しく着飾り、そんなリーダーのもとに多くの若者たちが集まって心身の鍛練にはげみ、あるいは遊楽に興じた。そして、彼らの中から 優秀な者が廟堂に推薦され、国家の柱石となっていった。
 このように『三国史記』にもとづけば、花郎制度は6世紀なかばにはじまったことになっているが、ただしこれはあくまで起源説話であって、実際には6世紀初頭にはすでに花郎は存在していたとみられている。
 こうしたなかで、いつしか、こんなこともいわれるようになっていた。
 『花郎弥勒の化身(けしん)である』
 花郎は岩崫で弥勒と一体化する修行に励んだ
 花郎弥勒とむすびつけられたのは、前途を嘱望(しょくぼう)される花郎としての優美な若い男性の姿が、青年の姿でイメージされてきた未来仏・救世主としての弥勒菩薩に重ね合わせられたからだろうか。『三国史記』とならんで重視される朝鮮の史書『三国遺事(いじ)』(13世紀成立)には、こんな話がある。
 6世紀後半のこと、新羅の真慈(しんじ)という僧侶が寺の弥勒像に『どうか花郎となってこの世に現れてください』と祈ると、後日、彼は山から降りてきた天涯孤独のりりしい少年に出会う。少年の名を未尸(ミリ)といったが、『未尸』とは古代朝鮮語弥勒を意味する。この少年こそがまさしく弥勒の化身であった。
 真慈が未尸を王のもとに連れてゆくと、王はこれを喜び、未尸を花郎として敬った。未尸の名声はしだいに知れわたり、彼のもとに多くの若者が集まった。だが7年後、突然行方をくらまし、姿を消してしまった──。
 この話では弥勒の化身としての花郎は山から降りてきたことになっているが、実際、花郎になるには山中での厳しい修行も必要とされたらしい。
 前出の三品彰英によれば、花郎とその仲間には山林でしばしば遊興に及んだと伝えられているが、現実には、神霊が降臨すると信じられた聖地に集まって、宗教的な修行や儀礼を行っていたと考えられるという。
 とくに花郎は、そうした神聖視された山の洞窟の中に忌み籠(こ)もったのだろうとも三品は指摘する。3国統一に貢献した新羅の英雄的将軍・金庾信({きんゆしん}595~673)は15歳のときに花郎となったが、花郎時代には山中の石窟に籠もって斎戒(さいかい)修行したと『三国史記』に伝えられていることは、その証左のひとつであるという。韓国の慶州(けいしゅう)南部にある断石山(タンソッサン)は金庾信が修行した山と伝えられているが、頂上近くにある神仙寺はかつては石窟寺院の形態をとり、岩壁には巨大な弥勒像のレリーフが残られている。
 かた、新羅では花郎の籠もる洞窟は『弥勒堂』とも呼ばれたという。洞窟に籠もる花郎弥勒の化身、あるいは生まれ変わりとされたからだろう。そしてその洞窟には、弥勒像──おそらく弥勒半跏思惟像──が奉安されたに違いない。
 すなわち新羅では、絶世の美青年である花郎が山中の洞窟に忌み籠もるという習俗があった。そしてそこには弥勒像が安置され、岩屋で修行中の花郎弥勒と一体化することを願って修行にはげんだのである。『弥勒成仏経』には『仏弟子の大迦葉(だいかしょう)は、釈迦から託された法衣(ほうえ)を弥勒に渡すべく、山の中で深く禅定(ぜんじょう)に入って弥勒下生の時を待っている』といったことが書かれているが、花郎の修行は大迦葉のひそみにならったものでもあったのだろうか。
 そして、弥勒の化身、生まれ変わりとされた花郎の活躍とともに、後進国であった新羅はめざましい発展をとげ、7世紀には朝鮮半島の統一を成し遂げている。
 まとめると、新羅花郎の隆盛には岩窟修行と弥勒信仰が重要な役割を果たしたことになるわけでが、ここから読者は何かを連想しないだろか?
 そう、日本の九州北部の岩窟信仰と弥勒信仰である。
 九州の岩窟信仰と弥勒信仰の融合は、新羅花郎がルーツだったのだ!」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 大乗の乱は、中国北魏の宗教反乱である。人を殺せば殺すほど、教団内での位が上がるという教説に従った殺人集団であり、その背景には弥勒下生信仰があるとされる。また、同時期に中国に伝来していたとされるマニ教によるとする説もある。北魏の正史である『魏書』が、その顛末を伝える一次資料である。
 515年(延昌4年)6月、沙門の法慶が冀州で反乱を起こし、渤海郡を破り、阜城県の県令と官吏を殺害した。法慶は自らを「大乗」と称した。それより先に、法慶は幻術をよくし、渤海郡の人であった李帰伯の一族を信徒とし、法慶が李帰伯に対して「十住菩薩・平魔軍司・定漢王」という称号を与えた。その教えでは、一人を殺すものは一住菩薩、十人を殺すものは十住菩薩であるという。また狂薬を調合し、肉親も認知できない状態にして、ただ殺害のみに当たるようにさせた。
 冀州刺史の蕭宝寅が征討を図ったが敗れた。凶徒は5万余人に及び、至る所で寺舎を破壊し、僧尼を惨殺し、経像を焼き捨てた。そのスローガンは「新仏が世に出んとす、旧魔を除き去れ」というものであったという。
 7月、征北大将軍に任じられた元遥が討伐に向かった。元遥は、反乱の徒を撃破して鎮圧し、法慶と妻で尼の恵暉ら数百人を斬り、その首を都に送った。李帰伯も後に捕らえられ斬殺された。
   ・   ・   ・   
 世界史の窓
 浄土教/浄土宗
 宋代に形成された、仏教の浄土信仰から生まれた宗派。
 中国仏教の初期の南北朝時代に始まった末法思想の中から、苦難に満ちた現世から離れて極楽浄土に往生しようという浄土思想が起こった。このような仏教の一派を浄土教といい、宗派としては浄土宗という。浄土教の思想は東晋の慧遠に始まり、6~7世紀の曇鸞(どんらん)、道綽(どうしゃく)をへて、唐時代の善導によってその信仰は深められ、唐の仏教の中で発展した。同時期に成立した禅宗の難行に対して、一切を阿弥陀仏によって救済されることを信じる他力本願であり、誰でもできる易行を説いて民衆に広がった。特に宋代にはいると民間の仏教として浄土宗が主流となった。 → 宋代の文化
 浄土宗の系統は、蓮教とか白蓮教といわれ、南宋末には弥勒仏信仰と結びついて民間教団を作っていく。
 日本の浄土教
 また日本では平安時代源信の往生要集などによって始まり、法然が専従念仏を説いて浄土宗の開祖となった。さらに鎌倉時代親鸞悪人正機説などを体系化して浄土真宗一向宗)を開き、鎌倉仏教の一つとして広がった。日本でも浄土教系の宗派は度々弾圧され、また一向一揆のように民衆蜂起の精神的紐帯となったが、中国においても、元の紅巾の乱にとどまらず、清代にも白蓮教徒の乱が起こっている。
  ・  ・  
 白蓮教
 民間の浄土教系の仏教教団。元末に反乱を起こした。
 白蓮教は仏教の一派で、起源は東晋の僧慧遠が402年に廬山の東林寺で門弟たちと結成した白蓮社にさかのぼる。唐代に善導によって大成され浄土宗として宗派となり、禅宗とともに盛んになった。宋代には読書人(士大夫などの知識人層)のなかの念仏結社が白蓮社と言われるようになった。南宋の頃から民衆に広がって有力な宗教結社となり、元のモンゴル人支配への不満のなかでさらに大きな勢力となった。元朝の末期にはその勢力は黄河淮河の流域を中心に、各地に拡大し、1351年に紅巾の乱に発展した。清朝の1796年には白蓮教徒の乱を起こしている。その後、たびたび弾圧を受けながらも、中華民国時代の近年まで続いた。
 白蓮教の教え
 本来、念仏を唱えて阿弥陀仏の浄土へ往生を願うのがその信仰であったが、やがて弥勒仏による救済を求める弥勒信仰を加え、唐代にはイランから伝わったマニ教(イランで起こり、中国に伝わり摩尼教、または明教と言われた)と混合して、世界は明と暗の二宗(根源)あって、明は善、暗は悪であり、弥勒仏が下生(現世に現れること)して明王が支配するようになれば明宗が暗宗にうち勝って極楽浄土が出現すると説くようになった。このような現世否定、来世願望の考え方は、現状に不満な民衆を引きつけ、大きな勢力となったので、南宋も元も危険な邪宗として取り締まりの対象となった。
  ・  ・  
 紅巾の乱
 1351年 元朝の末期に白蓮教徒の起こした民衆反乱から広がった反乱で、元朝が倒れ、反乱の指導者から現れた朱元璋が、1368年に明を建国することとなる。
 1351年、元の支配のもとで起こった白蓮教信徒を中心とした農民反乱。「白蓮教徒の乱」ともいう。直接的な原因は、元朝政府が黄河で大氾濫が起こったため農民に無償で修復を命じたことに反発した河南省などの農民が、白蓮教のリーダー韓山童を押し立てて反乱を起こしたことに始まる。反乱軍は紅色の頭巾をつけて目印にしたので「紅巾の賊」といわれた。首謀者の韓山童はまもなく捕らえられ殺されたが、その子韓林児が引き継ぎ、反乱はかえって全国に拡がって大勢力となり、各地に呼応する反乱が各地に起こった。紅巾の乱を含む一連の大反乱を、「元末の反乱」と総称する場合もある。
 元末の反乱のいくつかの勢力のなかから登場した朱元璋は、はじめは白蓮教の反乱に加わっていたが、農民だけでなく次第に地主層にその支持を広げるなかで、白蓮教徒への攻撃に転じて反乱を鎮圧する側に廻り、1366年までに反乱を鎮定し、1368年に自ら皇帝となって「明王朝」を開いた。
 なお、清末にも白蓮教徒は反乱を起こしており、そちらは一般に白蓮教徒の乱といわれている。また、コウキンという音が同じだが、後漢末に起こった黄巾の乱と混同しないこと。
  ・  ・  
 白蓮教徒の乱
 清朝の1796年に起こった仏教系秘密結社に率いられた農民反乱。鎮圧されたが清朝の衰退が明らかとなった。
 清の嘉慶帝即位の年、1796年に起こった白蓮教徒に指導された農民叛乱。清朝の郷勇の力によって1804年に鎮圧されたが、清朝の衰退の始まりとなった反乱事件であった。元末の紅巾の乱も白蓮教徒が最初に起こした反乱なので、白蓮教徒の乱という場合もあるので注意しよう。
 白蓮教
 白蓮教は12世紀の南宋に始まる仏教の一派。呪術を取り入れて布教し民衆に広がるが、正統な仏教からは邪宗とされ、社会不安と結びつくのを恐れた権力側からきびしく取り締まられた。元末には、貧民を弥勒菩薩が救済してくれるという弥勒信仰と結びつき、たびたび農民反乱が起きた。元末に白蓮教徒が起こしたのが紅巾の乱で、1351年の韓山童とその子韓林児が指導して反乱を拡大させた。明を建国した朱元璋ははじめ紅巾の乱に参加したが、後に韓林児を殺して反乱を鎮定、権力を握り、その後は白蓮教を弾圧した。
  ・  ・  
 天理教徒の乱
 清朝の1813年、白蓮教徒の一部が天理教と名を変えて起こした反乱。
 仏教系の民間宗教団体の白蓮教徒が起こした白蓮教徒の乱が、郷勇の手によって1804年に鎮圧された後、その信者の一部は逃れて天理教と改称し、なおも団結をつづけていた。1813年、指導者の大工李文成と薬局局員の林清は反乱を計画、李文成が山東省で挙兵、林清は紫禁城の宦官の不満分子と連絡し、200名の反乱部隊を城内に侵入させた。反乱は結局鎮圧されたが、清朝の心臓部である紫禁城に反乱軍が侵入したことは清朝の衰退の始まりを示していた。
   ・   ・   ・   
 義和団(読み)ギワダン。
 百科事典マイペディアの解説
 1899年中国,山東省で起こった反キリスト教(仇教)暴動をきっかけに,華北一帯に広がった反帝国主義運動の主体。義和団(義和拳)は白蓮(びゃくれん)教の一派ともいわれる宗教的秘密結社で,当時の社会矛盾,キリスト教布教,ドイツの進出などへの反感から,〈扶清滅洋〉を唱え,武力的排外運動を行った。太平天国のような統一指導部は持たず,各地の義和団の集合体であった。山東袁世凱に退けられるや,北上し1900年6月には北京および天津に進出。河北,山西,河南,満州の各地に波及し,教会襲撃,宣教師・外国人の迫害を行った。清朝義和団を支持し対外宣戦を布告したため,暴動は一層激しくなった。このため日本を含む8ヵ国(英,米,独,仏,ロシア,イタリア,オーストリア)連合軍の出兵となり,8月には鎮圧された。1901年清は列国と辛丑(しんちゅう)条約(北京議定書)を締結,外国軍隊の駐留を認めるなど半植民地化が進展した。日本では義和団の京・津進出から連合軍の鎮圧にいたる戦争を〈北清事変〉と呼んだ。
 →関連項目頤和園|永楽大典|黄禍論|黒旗軍|サトー|粛親王|清|清華大学西太后東亜同文会日露戦争|ハート|ブラゴベシチェンスク|ペリオ|山県有朋内閣|レイ
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
   ・   ・   ・   

 百済と古新羅は、一時、ヤマト大王ヤマト王権の臣下となって王子を人質として差し出していた。
 その逆に、ヤマト大王ヤマト王権百済新羅に臣下となって皇族を人質に差し出した事がない。
 日本民族日本人が、朝鮮を格下と見なすのはこの為である。
 朝鮮が、観念的に、小中華主義や事大主義から日本を格下と見下すのとは本質が違う。
   ・   ・   ・   
奈良時代ごろの日本は、インド・中国・中央アジアさらにはペルシャ・ローマの文化・宗教・技術・芸能・演芸など多くのモノを朝鮮半島経由で輸入していたが、平安時代初期に統一新羅鮮との国交を断絶し、朝鮮半島との人的交流を明治まで遮断した。
   ・   ・   ・   
 高麗までの朝鮮半島は仏教国家であった。
 李氏朝鮮は、中華皇帝の臣下ととなり、国学を中華儒教朱子学)として、中華帝国に倣って仏教を革命宗教とみなして弾圧した。
   ・   ・   ・   
 古新羅は、自主独立国として主体性を持って行動していた。
 統一新羅は、大中華帝国の唐の軍事支援を得て百済高句麗を滅ぼし朝鮮半島を統一し、初期はヤマト王権に臣下を誓って唐帝国と敵対したが、ヤマト王権からの軍事支援を受けられないと知るや、唐皇帝の臣下となり、唐帝国の属国となり、独立国としての主体性を捨てた。
 古新羅時代は、百済高句麗と対抗する為に中華から最新の学問・宗教・技術を積極的に受け入れ極東アジアでは栄えていた。 
 統一新羅時代は、対抗する相手がいなくなった為に急速に国力を衰退させ、日本に対する海賊行為を繰り返し、虐殺・強奪・拉致を行っていた。
 日本民族日本人の統一新羅朝鮮人への憎悪は、こうして生まれ激しくなっていった。
   ・   ・   ・   
魅惑の仏像 弥勒菩薩―京都・広隆寺 (めだかの本)

🗾22〕─1─縄文・弥生時代の石器・土器・土偶には、多様で豊かな地域性がある。~No.101No.102No.103 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2020年7月1日 読売新聞「文化 歴史
 『発掘された日本列島2020』展
 石器や土器 地域性豊かに
 国内の重要な考古学の成果を紹介する『発掘された日本列島2020』展が、東京・両国の江戸東京博物館で開かれている。今年は旧石器~古墳時代の代表的な遺跡の出土品を集め、各時代の地域性を浮き彫りにした特集展示が目を引く。
 旧石器時代の約3万年前に発生した姶良(あいら)火山(鹿児島湾北部)の大噴火は、日本列島全土に大きな環境変動をもたらした。広域を移動する大型動物が減り、限られた範囲を生息域とする中小型動物の狩猟を重視したころで、生活文化の地域化は進行したとされる。
 黒曜石の一大産地である北海道・白滝遺跡、特徴的な割れ方をする石材サヌカイトを活用した大阪府・翠鳥園(すいちょうえん)遺跡など、約2万5000年前頃の各地の石器を紹介するコーナーでは、同じ時代の石器でも石材や技法が様々である点を実感できる。その多様性こそ旧石器時代の地域性の象徴であり、各地の環境に応じた適応戦略の表れと言える。
 縄文・弥生時代では、地域性の違いが土器に鮮明に見て取れる。力強い造形の火焔(かえん)型土器(新潟県・吉野屋遺跡)、祭祀用に用いられ、ギリシャクレタ文明の壷(つぼ)に似たパレススタイル土器(愛知県・山中遺跡)など、美しい装飾の土器が各地で生み出されている。
 ……
 縄文から近世まで7遺跡の最新の発掘成果を紹介する速報展示では、弥生時代の大規模集落・八日市地方(じかた)遺跡(石川県)の柄付き鉄製ヤリガンナや、富士山麓に栄えた古墳時代の首長墓・伝法古墳群(静岡県)の豪華な副葬品などが見ものだ。
 ………」
   ・   ・   ・   
 日本列島は、南北に細長く、中央部を高い山々が連なり、大小様々の河川が山々の谷を激流の如く海へと流れ出し、複雑な海岸線から大量の人が住めるような平地が少なく、平地があって深い森林に覆われて住める土地は狭かった。
 そして、日本列島は甚大な被害をもたらす雑多な自然災害が複数同時多発的に発生する災害多発地帯であった。
   ・   ・   ・   
 日本列島は中国大陸と違って、草木が鬱蒼と生い茂り、柔らかく濡れた土地が多く、馬が全力疾走できる大地はなかった。
 日本の馬は、力は強いが速く走れず、忍耐力があり性格が大人しく、田畑で働く農耕馬や荷物を運ぶ荷駄馬に適していたが、戦などの騎馬・軍馬には向いていなかった。
 日本の馬は縄文人に似ている。
   ・   ・   ・   
 縄文人達は、歩いて森林の多い陸地や高く険しい山地を越せない為に、手漕ぎ舟を使って海や川を行き来していた。
 その名残として、日本の都市や町村は海や川の岸辺に自然と生まれ、盛んな水運で発達していた。
 日本各地で催される伝統的祭りで引き回される山車(だし)の原形は、舟である。
   ・   ・   ・   
 縄文人アニミズムは、中国や朝鮮のアニミズムとは違う。
 現代日本人は、中華の儒教価値観や西洋のキリスト教価値観そして経済優先主義で縄文人アニミズムを否定し破壊し消滅させた。
 現代日本人が自慢する自然愛・自然保護は、縄文人アニミズムと無関係である。
   ・   ・   ・  
 縄文に、魅力を感じる日本人は2割で、嫌いな日本人は3割で、魅力を感じない好きでも嫌いでもない興味も関心もない日本人は5割。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人・アイヌ人・琉球人は、数万年前の同じ縄文人の子孫で同一種である。
 黄河流域大陸系漢族と朝鮮人は、縄文人との血の繋がりは薄い。
 日本民族日本人と中国人・朝鮮人とは同根同種ではない。
 中国共産党との一衣帯水はあり得ない話である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、大陸や半島から逃げてきた弥生系帰化人や西域の民・南方海洋民などと乱婚を繰り返して生まれた混血(ハーフ)の雑種民族で、混じりけなしの血を受け継いだ純血種ではなく汚れに汚れている混血種である。
 日本民族の単一性・画一生・同調性とは、異種をのみ込み同化して混血度が高いという事である。
   ・   ・   ・   
 人道貢献に関与した昭和天皇御真影肖像画を焼き・引き裂き、踏みつける行為を芸術とする前衛的現代アートより、日本神道や皇室祭祀の深層に流れる縄文時代の土器や土偶の古き良き芸術心を見た方が精神衛生上好ましい。
   ・   ・   ・   
 2020年7月16日 産経新聞尖閣周辺に中国船 94日連続
 尖閣諸島。手前から南小島、北小島、魚釣島沖縄県石垣市鈴木健児撮影)
 沖縄県尖閣諸島周辺の領海外側にある接続水域で16日、中国海警局の船4隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは94日連続。平成24年9月の尖閣諸島国有化以降で、最長の連続日数を更新した。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、1隻は機関砲のようなものを搭載。領海に近づかないよう巡視船が警告した。」
   ・   ・   ・