🎍2〕─1─倭国大乱(弥生の大乱)は気候変動で食べ物がなくなったからであった。環濠集落は城。146年〜189年。~No.2 

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 倭国大乱(弥生の大乱)、146年〜189年。
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 日本列島では雑多な自然災害が複合的に同時多発し、農作物に深刻な被害をもたらし食糧が不足して飢餓が発生し疫病が蔓延していた。
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 前漢代に編纂された『漢書』では、倭の国には100以上の国が存在していると記している。
 『三国志』の『魏志倭人伝』では、倭の国は邪馬台国など約30ヵ国に統合されたと記されている。
 そして、ヤマト王国はヤマト王権となり、新潟から福島の以南以西を支配下に置いた。
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 弥生人は、食糧を守る為に環濠集落=城を築いて閉じ籠もり、食糧を奪いに来た敵を撃退した。
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 大津市地球温暖化防止活動推進センター
 卑弥呼の時代、倭国大乱の原因は気候変動?
 大津市センター2017/01/12
 弥生時代2世紀後半に起こった倭国の大乱の大きな原因は、当時の気候変動の結果、大雨・洪水や干ばつが盛んに起こり、そのため耕作物が地域によって大きく変化し、食べる物が無くて苦しんだ地方の住民が豊かな地域を襲撃して争いを起こしたという説が有力視されています。木の年輪の育ち方等から大きな気候変動があったのではないか、と言われています。
 これは昔話と簡単には片づけられない大きな問題をはらんでいます。地球温暖化が進むとこれからの世界で同じような事態が発生することも危惧されています。
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 現代日本人には、歴史力・文化力・宗教力はもちろん自然力さえない為に、縄文人弥生人が理解できない。
 現代日本人は、必要な食糧はカネで海外から買えばいいとの認識から、国内の食料生産量を増やして食糧自給率を回復させようという考えはない。
 現代日本人にとって大事なのは、自然・田畑・農作物・食べ物ではなく、経済・産業・カネである。
 現代日本人は、農作物は自然環境の中で田畑で1年に一回作るのではなく、食べ物は工場で科学技術・化学薬品を利用して1年中何度でも生産できると信じ安心している。 
 現代日本人にとって食糧とは、カネで海外で買うか工場で生産するもので田畑で作るものではない。
 現代日本では、食べ物ロスで、餓死者が出ているのに、まだ食べられる食材が大量に捨てられている。
 現代の日本人は、飽食で食べ物を粗末にしている。
 金を粗末に扱えば金に泣かされ、食べ物を粗末にすると食べ物に泣かされる。
 農作物は、自然と神様からの贈り物である。
 日本民族は、天皇・皇室につながる稲神話を信仰し、コメは女性神天照大神(皇室の祖先神)から戴いた食べ物と神聖視し、そして自然神(産土神)の田畑で農作物を作り、川や海で魚介類を山野で獣・山菜・果物などを貰って命を繋いでいると考えていた。
 昔の日本人は、「コメを粗末にすると目が潰れる」を信じていた。
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 2018年8月15日 産経WEST「弥生時代に謎の大量殺戮? 大量の人骨をDNA分析、弥生人のルーツたどる 鳥取・青谷上寺地遺跡
 DNA分析が行われる青谷上寺地遺跡出土の人骨(鳥取県埋蔵文化財センター提供)
 鳥取県埋蔵文化財センター(鳥取市)や国立科学博物館(東京都)などが連携し、鳥取市青谷町の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から出土した弥生時代後期(2世紀後半〜3世紀)の人骨のDNAを分析する研究を始めた。
 弥生後期は、大陸や朝鮮半島からの渡来人と在来の縄文人の混血が進んだ時期と考えられるが、人骨の出土例は全国的にも少なく、DNAが本格的に分析されるのは今回が初めて。日本人の成り立ちの解明につながる成果が期待される。
 研究には国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)も連携する。同センターが保管する頭蓋骨など人骨約40点からサンプルを採取。ミトコンドリアDNAを分析して塩基配列の特徴を調べ、世界のヒト集団の特徴と比較し、同遺跡の弥生人のルーツをたどる。
 また、血縁関係・親族構造など集落内での人と人のつながりや、髪や瞳の色、直毛か、毛深いかといった身体的特徴の解明も試みる。最終的な研究成果は、今年度末に発表される予定だ。
 低湿地にある同遺跡は、大気から遮断されて腐敗菌の繁殖が抑えられたことなどから、保存状態の良い遺物が多数出土し「弥生の博物館」と呼ばれる。中心部の溝からは、老若男女の人骨が少なくとも109体分、散乱した状態で出土。鋭い武器で切られたり、刺されたりした殺傷痕が残るものもあった。戦闘など凄惨(せいさん)な行為があったと考えられるが、その背景は明らかになっていない。
 「魏志倭人伝」「後漢書」などの書物には、この時期に「倭国大いに乱る」とする記述もある。同センターでは「大量殺戮(さつりく)の謎にせまれれば、大きな成果となる。『倭国乱』で何が起きたかを示す、唯一の痕跡になる可能性がある」と話している。」
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 横浜市歴史博物館
 弥生の”いくさ”と環濠集落 -大塚・歳勝土遺跡の時代-
人が跳び越えられないほどの幅と深さをもつ溝。その溝によってカシューナッツのような形に囲まれた弥生時代の集落の跡。そして、この集落に住んだ人々の方形周溝墓といわれる墓の跡。
 横浜市歴史博物館に隣接する国指定史跡大塚・歳勝土遺跡は、横浜を代表する弥生時代 の遺跡であり、また日本を代表する環濠集落と墓地の遺跡の一つです。
 横浜市歴史博物館では、常設展示室において、この大塚・歳勝土遺跡を中心とした市域の弥生時代の生活について展示しています。また遺跡は、弥生時代の環濠集落と墓地の姿を実感できる歴史公園として整備し、広く市民に公開するとともに、博物館と一体的に活用していく計画です。大塚・歳勝土遺跡は、横浜市歴史博物館の活動の中心になる遺跡といえます。
 開館記念特別展では、大塚・歳勝土遺跡のような環濠集落、及び大塚・歳勝土遺跡が形成された「弥生時代」に光をあてていきます。
 大塚・歳勝土遺跡のような環濠集落が日本列島の各地に形成された時代は、どのような時代であったのでしょうか。列島に水田稲作が導入され、文明社会へと成熟をはじめる時代であったことは確かです。しかし、決して「平和」な時代ではありませんでした。普通のムラびとたちが武器を手にとり、傷つけあい、殺しあうことをはじめた時代でもあったのです。ムラとムラとの「いくさ」のなか、環濠集落が出現し、やがて「クニ」が 誕生していくことになります。
 特別展では、このような激動の時代-「弥生時代」の特徴の一端を、朝鮮半島とのつな がりをふまえながら描き出していきます。
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 守山市教育委員会事務局
 文化財保護課
 守山市吉身二丁目5-22
 077-582-1156
 歴史のまち 守山
 巨大集落
 1.弥生時代後期の巨大集落
 伊勢遺跡は、東西方向がJR琵琶湖線のすぐ西側から阿村町東端まで、南北方向は栗東市立大宝東小学校から日本バイリーン南側までの範囲に広がり、面積は約30㌶です。弥生時代後期の集落としては佐賀県吉野ヶ里遺跡奈良県唐古・鍵遺跡などと並んで国内最大級の遺跡です。
 近畿地方の集落遺跡は、中期の巨大環濠集落が解体して、小さな集落に分散居住することが特徴で、後期になって伊勢遺跡のように巨大化する集落は稀です。?
 2.弥生の国の中心部を考える遺跡
 伊勢遺跡は、紀元140年~180年頃にあったという倭国大乱の時代に最盛期を迎える遺跡です。
 中国の書物である『三国志魏志倭人伝には当時、列島内には30ほどクニがあり、中国に物資を献上し外交を行っていましたが、140年頃から180年頃にかけて国内で大乱があり、その後、卑弥呼が共立されて女王になったとの記録があります。
 伊勢遺跡で発見された大型建物は、卑弥呼共立直前の建物であり、ここに近江を代表するクニの中心部があって、様々な政治的儀式やまつりごとが行われていたと考えられています。魏志倭人伝には卑弥呼の住まいには「居処、宮殿、楼観、城柵」などの施設があると記されていますが、伊勢遺跡は倭人伝に記された卑弥呼の住まいを彷彿とさせます。
 伊勢遺跡は国の中枢部の構造を探ることのできる遺跡として高い評価を受けています。
 3.国の成り立ちを探る遺跡群
 伊勢遺跡の西約1.7kmには栗東市下鈎遺跡があり、弥生時代後期の棟持柱をもつ大型建物が二棟発見されています。二つの建物は独立棟持柱をもつ大型建物です。下鈎遺跡では銅鏃や銅釧、銅滴などが出土していて青銅器を生産していた遺跡と考えられています。
 伊勢遺跡から北西約2km離れた守山市下長遺跡は弥生時代末から古墳時代前期に発達する遺跡です。
 下長遺跡でも弥生時代末の独立棟持柱をもつ大型建物が1棟みつかっています。下長遺跡では古墳時代前期に首長居館が造営され、儀仗などの威儀具が出土しており、古墳時代の王がいたと推定されています。
 川跡からは準構造船が出土しているほか、全国各地の土器が見つかっています。琵琶湖や川を利用して遠隔地と交流していたことが想像されます。
 伊勢遺跡、下鈎遺跡、下長遺跡の遺跡群は国の成り立ちや、強大な権力をもつ王の誕生を探ることのできる貴重な遺跡群と言えるでしょう。?
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 みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」
 みやこの「こと(歴史・あゆみ)」
 第二編 先史・原史
 第三章 弥生時代
 第一節 弥生時代概説
 四 クニの発生と展開
 倭国大乱と卑弥呼
 後期になると、『後漢書東夷伝』で「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更々(こもごも)相攻伐し、歴年主(あるじ)無し。」と伝えられるように、二世紀後半には各クニの間で争乱が激しくなった。
 『三国志』の『魏志倭人伝』には「其の国、本亦(また)男子を以って王と為し、住(とど)まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴(へ)たり。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼(ひみこ)と曰ふ。鬼道(きどう)を事とし、能(よ)く衆を惑わす。………卑弥呼死するを以って大いに冢を作る。径百余歩、徇葬(じゅんそう)する者、奴婢(ぬひ)百余人。」と記録されており、倭国の大乱を経て三世紀前半に共立されたのが邪馬台(やまたい)国の卑弥呼であった。このころ倭の国は三〇国あまりと記されてあり、紀元前一世紀の段階からクニの統合が進んでいたことが分かる。
 更に、卑弥呼が死亡した際に「径百余歩」の墳墓が作られたということは、弥生時代後期後半には埋葬方法が特定集団墓から更に一歩抜け出て、特定個人墓に移行していったことを裏付けている。
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 城びと 公益財団法人日本城郭協会 公認
 2019/06/17
 超入門! お城セミナー
 第70回【歴史】濠で囲まれた古代の城「環濠集落」ってどんな施設なの?
 縄文末期〜弥生時代の集落である板付遺跡(福岡県)。集落のまわりには壕がめぐらされている(福岡市提供)
 南北朝時代に造られた環濠集落・姉川城(佐賀県)。集落全体に濠をめぐらせる防御方法は、佐賀平野独自のものだ(国土地理院提供)
 弥生時代の大規模集落である吉野ヶ里遺跡。村全体を囲む壕の他に、祭事や政治を行う中枢部を守るための壕も築かれていた
 弥生時代の集落遺跡・唐古・鍵遺跡では楼閣風建物の他に、大型建物の柱や環濠が復元されている
 室町時代には現在の姿に形成されていた稗田の環濠集落。外郭を濠で、集落内を道に幾重にも折れをつけることで守っている(国土地理院提供)
 稗田集落の環濠。『古事記』に携わった稗田阿礼(ひえだのあれ)の出身地と言われており、集落の入口には稗田阿礼を祀る神社が建っている
 第70回は、古代の人が造った城がテーマ。
 一般的に城というと、中世山城や近世城郭が思い浮かびますが、実は古代にも濠で囲まれて防御を固めた“城”が存在していました。今回は、そんな古代の城・環濠集落について解説します!
 古代のムラも濠で守られていた!
 今回は、日本の城の起源といわれる、古代のムラにあった城のお話です。「古代人と城って何だかピンとこないけど…」と思う人も多いでしょう。という訳で、まずは城とは何か? をおさらい。──城とは、軍事的防御施設です。外敵から身を守るために工夫を凝らした、戦うための施設。つまり、争いごとのある社会でなければ発生しません。
 ということで、大陸から稲作文化が伝えられて集住生活がはじまり、水や土地・食糧などの奪い合いから、ムラとムラの間で戦いが行われるようになった弥生時代に、「環濠集落」が登場するのです。この新しい集落の形が日本における城の起源とされますが、これは日本オリジナルではなく、稲作と一緒に大陸から伝わったもののようです。さてさて、古代の日本人が築いた城とは、一体どのような構造だったのでしょうか。
 環濠集落の構造は字のごとく、集落の周りに濠(ほり)をめぐらせたもの。ちなみに、水堀と空堀で「濠」「壕」と漢字を使い分けることもありますが、一般的には「環濠」と書きます。大まかに、水田に近い平野では用水路と排水を兼ねた水堀、台地や高地では空堀となっていたようです。
 当初の環濠集落は、堀で囲っただけのシンプルな構造だったでしょうが、次第に防御の工夫も凝らされていきます。土塁に柵を設置したり、物見や横矢用に一部を張り出させたり、朝日遺跡(愛知県)や大塚遺跡(神奈川県)に見られるように逆茂木でバリケードを作ったり。これらを超えて侵入しようとする敵には、弓矢や石礫(いしつぶて)などで攻撃したのです。これらは中世城郭以降の日本の城と共通するものばかりですが、弥生時代の土塁の多くは環濠の外側に築かれたようで、これは後の城とは逆の構造。これは、土塁に柵を設置して壕との高低差を大きくし、壕内に侵入しにくくするためとみられています。
 全国に残る環濠集落
 こうして環濠集落は稲作とともに日本全国に広がりますが、ムラのリーダーの力が強大になっていくにつれて、集落の規模も大きくなっていきました。やがて「クニ」ができ、その支配者はムラを出て特別な場所に拠点を移すようになります。そして古墳時代には、力を持った豪族は濠で囲まれた自分の館(豪族居館)を持つようになり、環濠集落はほとんど消滅してしまったのです。
 在りし日の環濠集落の姿は、遺跡が物語ってくれます。物見櫓や祭殿があった吉野ヶ里遺跡佐賀県)、楼閣風建物が復元されている唐古・鍵遺跡(奈良県)などは有名ですね。他にも、3重の環濠があった伊場遺跡(静岡県)、多い場所で8〜9重もの濠があった下之郷遺跡(滋賀県)、大きな祭殿があった池上・曽根遺跡(大阪府)、といった大規模な遺跡もあります。
 遺跡では物足りない人は、現存遺構へ。実は日本全国にたくさんあるのです。ただし、道幅が狭くて車の進入ができなかったり、完全な住宅街だったりと、見学自体が困難な上に住民にも知られていないような所も多いとか。
 比較的整備され、案内板などがあって観光や見学にも対応している環濠集落は奈良県に多く、有名なのは大和郡山市の稗田(ひえだ)の環濠集落。この集落が造られた時期は不明ですが、室町時代には現在の姿が完成していたそう。喰い違いや斜めの道、行き止まりなど防御設備の数々が完存していて、歩くと何度も討死気分が味わえます。美しい環濠の風景は奈良県の景観遺産にも指定されています(詳細は「お城紀行」の大和郡山編で説明されています)。
 その他にも奈良県には、若槻環濠集落(大和郡山市)、番条環濠集落(同)、保津環濠集落(田原本町)などが、またお寺を中心とした寺内町の環濠集落として有名な今井環濠集落(橿原市)、三重県にも一身田寺内町(津市)があります。
 お城ファンなら、やっぱり城の起源はしっかりチェックしたいところ。意外に身近にあるかもしれないムラの城・環濠集落も、ぜひ訪れてみて下さいね!
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 倭国大乱は、弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱。中国の複数の史書に記述が見られる。倭国の地域は特定されていないが、列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある。
 概要
 女王国ではもともと男子を王としていたが70〜80年を経て倭国が相争う状況となった。争乱は長く続いたが、邪馬台国の一人の女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という。以上の内容が、中国の正史『三国志』(魏志倭人伝)や『後漢書』「東夷伝」に記述されている。ただし、三国志は、単に「乱」であり、「大乱」でない点に注意が必要である。
 『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人魏志倭人伝
 「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」
 其の国もまた元々男子を王として70〜80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。
 『後漢書』卷85 東夷列傳第75
 「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
 桓帝霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。
 以下の3正史の記述は上記2書の単なる引き写しである。
 『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭
 『隋書』卷81 列傳第46 東夷傳 俀國
 『北史』卷94 列傳第82 倭國
 三国志後漢書も、争乱の時期を2世紀後半としている。
 議論
 上記両書に若干の差異があることから、その解釈をめぐり多くの議論が行われている。
 男子王
 『後漢書東夷伝に、永初元年(107年)、倭国王帥升後漢へ使者を出したとあるが、帥升以前に倭国王の存在が史書に見えないことから、中国王朝が公認した初の倭国王帥升だったとし、魏志倭人伝の記述は、帥升に始まる倭国王の系統が70 - 80年存続したことを表す、とする議論がある[誰?]。これによれば、107年頃から帥升の王統が開始し、70 - 80年後の180年 - 190年頃に王統が断絶したことになる。ただし、魏志倭人伝に見える男子王を帥升に同定することに否定的な意見もある。また桓帝霊帝(146年 - 189年)の倭の大乱から逆算すると66年頃には倭国王が居たこととなり、帥升が初の倭国王だったことに疑問が生じる。
 原因
 桓帝霊帝(146年 - 189年)の倭国大乱は記紀に当てはめると成務天皇から仲哀天皇の統治の時期にあたる。
 九州においては熊襲が勢力を持ち、景行天皇やその息子のヤマトタケルの征伐が日本では有名である。これが戦前では日本における倭国大乱だと考えられていた。
戦後になると大乱の原因としてまず想定されるのは、倭国王位の承継をめぐる争いであるとし、弥生時代倭国は、多くの政治勢力(国)に分かれており、倭国王政治勢力間の利害を調整するために置かれていたと推定されるようになる。しかし、利害調整を担いうる人物の不在あるいは調整不可能な程の利害対立の発生などにより、倭国王位をめぐる大乱が生じたのではないかと考えられている。『後漢書』の「何年も主がいなかった」とする記述は、上記の議論を裏付けている。
 しかし邪馬台国以前に「倭国王」のもとでの政治的統合があったとする説には異論も多い。『後漢書東夷伝に出てくる帥升にしても、倭国の統一的な王ではなく、一地方政権の王に過ぎなかったとも見える。大乱の原因としては、倭国の王位の座をめぐる争いというよりは、2世紀後半より始まった地球規模の寒冷化の影響を受けた土地収奪争いにあったとする説がある。『新羅本記』に「十年(193年) 六月倭人大饑。来求食者千余人」と記されており、日本から朝鮮半島へ1千余人が渡ったとされる。いずれにせよ、2世紀後半から3世紀にかけて、近畿から瀬戸内一帯までの広域に出現した高地性集落が「倭国大乱」とどう関連するかが、大乱の性格を知る上では重要となると見られる。
 また、弥生系渡来集団が九州から畿内への拡大過程で各地に先住していた縄文系在来集団との間で摩擦、すなわち倭国大乱が起き、渡来系集団は在来集団の居る各地で防御のための環濠集落や高地性集落を作ったとの説(卑弥呼の国:冨川光雄など)もある。この説によれば、弥生系渡来集団が近畿地方にまで到達した際に両集団が協定して倭国連合政権を作り、卑弥呼邪馬台国女王をその連合政権の王に推戴して倭国大乱は治まったとする。
 時期
 魏志倭人伝は、男子王の系統が70 - 80年経過した後に争乱が起こったとしているが、『後漢書』は、桓帝霊帝の間(146年 - 189年)に大乱が起こったとしている。両者の時期が一致するかは、魏志倭人伝において男子王の開始時期がいつ頃に想定されているかによることとなる。上記「男子王」に見られる様に、男子王の系統が帥升に始まったとすれば、大乱発生時期が180 - 190年頃となり、『後漢書』のいう時期と重複する。なお、後世の『梁書』には、「霊帝光和年中」(178年 - 184年)とより限定的な記述もあるが、これについては卑弥呼の即位した年を示すものではないかと考えられている。
 規模
 倭国大乱がどの程度の規模のものだったかについては、諸説分かれている。九州の吉野ヶ里遺跡をはじめ複数の弥生遺跡からは矢じりが刺さったままの人骨や首から上が無い人骨の入った甕棺が発掘されており、山陰の青谷上寺地遺跡で刀傷のある人骨などが発掘されている。それらの傷が国同士の戦闘を示すといえるかは定かではないが、人間を殺傷する行為そのものは起きていたことがわかる。それらの例から倭国大乱は北九州のみあるいは出雲と畿内のみ、あるいは北九州から畿内山陰にかけてだったとする説がある。瀬戸内海地域から2世紀後半頃の高地性集落遺跡(山頂等に営まれた城塞的な集落の遺跡)が数例あることを根拠に、北九州から畿内山陰だけでなく瀬戸内海沿岸もそうであったとする説もある。
 意義
 倭国大乱の歴史的意義として、卑弥呼を中心とした新たな政治体制が再編成されたことが挙げられる。近畿地方・中国地方などで2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなっており、倭国大乱と3世紀前半の卑弥呼による新政治体制は文化面でも大きな影響を与えた可能性がある。
 否定意見
 戦前は仲哀天皇の時代でも熊襲の反乱は続き、仲哀天皇の統治の時期には九州に入る事もままならずに、数年は山口の穴門豊浦宮に滞在し、その後にようやく筑紫橿日宮に入り、そこで熊襲の矢で仲哀天皇は殺されたと言う記述もある。これが戦前では日本における倭国大乱だと考えられていた。 戦後になるとGHQにより神功皇后の存在は政治的な理由から否定されてしまい、『日本書紀』『古事記』において倭国大乱を想起させる記述が見られないと主張され、倭国大乱の存在を否定する意見もある[要出典]が、記紀はむしろ皇位継承をめぐる内乱などが何度もあったとしており、格別に齟齬をきたすものではない。また安本美典卑弥呼天照大神説をとっており、天照と素戔嗚の争いが倭国大乱の反映である可能性があるという。また、中国文献が倭に悪いイメージを与える目的で大乱の記事を載せたとする意見もある[要出典]が、正当な史料批判とはいえない。
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 弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。
 2003年(平成15年)に国立歴史民俗博物館歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。一方放射性炭素年代測定や年輪年代学の技術は充分に確立されたとはいえないことから、開始期の繰り上げに根強い反対も存在する。
 弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海・北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。
 倭国大乱
 魏志倭人伝には、卑弥呼邪馬台国を治める以前は、諸国が対立し互いに攻め合っていたという記述がある。また、後漢書東夷伝には、桓帝霊帝の治世の間、倭国が大いに乱れたという記述がある(倭国大乱)。
 近年、畿内弥生時代IV・V期の年代観の訂正により、これらはおおよそ弥生時代後期後半 - 末(V期後半 - VI期)に併行するという考えが主流になった。この時期には、畿内を中心として北部九州から瀬戸内、あるいは山陰から北陸、東海地域以東にまで高地性集落が見られること、環濠集落が多く見られることなどから、これらを倭国大乱の証拠であるとする考え方が有力となっている。
 ところが、前代に比べて武器の発達が見られず、特に近接武器が副葬品以外ではほとんど認められないこと、受傷人骨の少なさなどから、具体的な戦闘が頻発していたと主張する研究者はあまり多くない。倭国大乱がどのような争いであったのかは未だ具体的に解明されていないのが現状である。
 邪馬台国畿内説では、北部九州勢力が大和へと移動したことを示す物的証拠は考古学的にはほとんど認められないとしており、近年ではむしろ北部九州勢力が中心となって、鉄などの資源の入手や大陸からの舶載品などを全国に流通させていた物流システムを畿内勢力が再編成し直そうとして起こった戦いであったという。一方、邪馬台国九州説では、弥生時代後期中葉以降に至っても瀬戸内地域では鉄器の出土量は北部九州と比べて明らかに少なく、また、鉄器製作技術は北部九州と比べて格段に低かった。倭国大乱の原因については、古事記日本書紀などの神武天皇の東征の記述と結びつけ、北部九州勢力が大和へと移動してヤマト朝廷を建てたとする。
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倭国乱とは何か―「クニ」への胎動 (石野博信討論集)

☵17〕─1─ソウル中央地裁は慰安婦訴訟で日本政府に賠償命令。韓国内での対日悪化。日本共産党は理解。~No.143 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 韓国政府は、国際法に則って協議して成立させ、世界に公表し、諸外国から称賛・賛同・祝福を得た正式な国家間の合意を、反日国内世論を理由にして破棄する常習犯である。
 幾ら配慮して話し合っても信用も、信頼もできない政府であり、国際法に基ずく約束も、条約も、協定も、合意も全てが無意味な国家である。
 それでも友人として付き合いたいと切望する日本人が少なからず存在する。
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 韓国は、日本との友好関係など望んではいない。
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 日本人とって、反日で騒ぐ韓国人や朝鮮人は悪い知人になっても、良い知人にはならないし、友・友人にもならないし、親友にもならないし、まして戦友などになれるはずがない。
 つまりは、江戸時代のように敬して遠ざけ、相手にしない方が身の為である。
   ・   ・   ・   
 日本と朝鮮は、古代から友好関係など存在していない。
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 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗・古新羅渤海などの諸王朝であった。
 敵日派・反日派は、統一新羅・高麗・李氏朝鮮大韓帝国などの諸王国である。
 日本にとって、敵日派・反日派は虐殺・強奪・拉致を繰り返して行った悪の侵略国家であった。
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 日本にとって、朝鮮を如何に助けても恩を感じず感謝しない張り合いのない相手である。
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 2021年1月8日10:33 産経新聞慰安婦訴訟 日本政府に賠償命令 ソウル中央地裁 日韓関係、一層の危機に
 ソウル中央地裁の入る庁舎=8日(共同)
 【ソウル=名村隆寛】韓国の元慰安婦らが日本政府を相手取り損害賠償を求めた訴訟で、ソウル中央地裁は8日、原告側の請求を認め、日本政府に対し原告1人当たりに1億ウォン(約950万円)の賠償支払いを命じる判決を言い渡した。日本政府を相手取った元慰安婦らによる訴訟としては今回が初の判決。悪化の一途をたどる日韓関係は、一層危機的な状況に陥った。
 日本政府は、他国の裁判権に国家は服さないという国際法上の「主権免除」の原則に基づき、訴えの却下が相当として、これまで審理に出席していない。韓国の司法府は今回、この原則を適用しなかった形だ。
 訴訟は2013年8月に起こされ、故人を含む元慰安婦12人が1人当たり1億ウォンの賠償を請求。原告側や元慰安婦の支援団体などは、慰安婦問題を「反人権的な国家の犯罪行為」とし、主権免除に反対してきた。
 原告勝訴となったことで、日本政府が控訴しなければ、判決は今回の1審で確定する可能性が高くなった。韓国国内の日本政府の資産が差し押さえの対象となることもあり得る。
 日韓両政府は2015年の合意で、慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した。しかし、韓国の文在寅ムン・ジェイン)政権は「この合意で問題は解決しない」(文在寅大統領)との立場を取り続けており、合意は事実上、韓国側が一方的に破棄したも同然の状況にある。
 いわゆる徴用工訴訟で韓国最高裁が日本企業に賠償を命じた判決を受け、韓国では日本企業の資産現金化に向けた手続きが進められている。ただ、今回の訴訟は、訴えの対象が民間企業ではなく、日本政府であることで判決は注目された。主権免除の原則を無視した形で、日本の主権も尊重されず、国家への強制執行が現実味を増したことで、日韓関係はさらに悪化の勢いに歯止めがかからなくなった。
 今回の訴訟とは別に、ソウル中央地裁では今月13日にも同様の訴訟の判決が言い渡される。この訴訟では、元慰安婦ら20人が計約30億ウォンの賠償を求めている。」
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 1月8日11:39 産経新聞「【慰安婦判決】外務次官が韓国大使呼び抗議 「断じて受け入れられぬ」
 外務省で記者に囲まれる韓国の南官杓駐日大使(中央)=8日午前
 韓国の元慰安婦らが日本政府を相手取り損害賠償を求めた訴訟で、ソウル中央地裁が日本政府に賠償支払いを命じる判決を言い渡したことを受け、外務省の秋葉剛男事務次官は8日、南官杓(ナム・グァンピョ)駐日大使を同省に呼び、抗議した。
 外務省によると、秋葉氏は「(同地裁が)国際法上の主権免除の原則を否定し、原告の訴えを認める判決を出したことは極めて遺憾で、日本政府として断じて受け入れられない」などと抗議した。
 日本政府は日韓間の請求権の問題は1965年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決済み」だとの立場で、慰安婦問題についても2015年の日韓合意で「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した。
 外務省幹部は、判決について「常識的にも国際法上もありえない判決だ」と述べ、韓国側に国際法違反の状態を是正するよう求めた。」
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 1月8日13:04 産経新聞「加藤官房長官「控訴する考えはない」 韓国の慰安婦判決
 会見に臨む加藤勝信官房長官=8日午前、首相官邸(春名中撮影)
会見に臨む加藤勝信官房長官=8日午前、首相官邸(春名中撮影)
 加藤勝信官房長官は8日午前の記者会見で、韓国の元慰安婦らが日本政府を相手取り損害賠償を求めた訴訟で、ソウル中央地裁が日本政府に賠償支払いを命じる判決に関し、日本政府として断じて受け入れられないと表明し、強く反発した。「極めて遺憾だ。断じて受け入れることはできない」と述べた。
 同時に「韓国が国家として国際法違反を是正するために適切な措置を講ずることを強く求める」とも語った。加藤氏は外務省の秋葉剛男事務次官が南官杓(ナム・グァンピョ)駐日大使を同省に呼び、抗議したことも明らかにした。
 日本政府は、他国の裁判権に国家は服さないという国際法上の「主権免除」の原則に基づき、訴えの却下が相当として、これまで審理に出席していない。加藤氏は「国際法上の主権免除の原則から韓国の裁判権に服することは認められず、控訴する考えはない」とも強調した。」
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 1月8日17:15 産経新聞「約束を破り続ける韓国 慰安婦判決
 ソウルの日本大使館前に設置された従軍慰安婦の被害を象徴する少女像=8日(共同)
 元慰安婦らへの賠償を日本政府に命じたソウル中央地裁の判決は、日本との過去絡みの問題では国家間の合意や協定、国際法を破ることもいとわない韓国の対日姿勢を改めて鮮明にした。
 日本政府は慰安婦問題に関する2015年の日韓合意を守り、10億円を拠出。韓国政府が設立した財団を通じ、当時存命だった元慰安婦の70%以上に金が支給された。だが、文在寅ムン・ジェイン)政権の韓国は財団を一方的に解散し、合意をほごにした。
 韓国の約束無視はいわゆる徴用工問題でもあり、18年には韓国最高裁が日本企業に賠償を命じる判決を出した。日韓請求権協定で「完全かつ最終的」に解決済みの問題は蒸し返され、日本企業の韓国内資産は売却される危機にある。ただ、今回は企業でなく日本という国家に賠償を命じた。請求権協定と日韓合意をいずれも無視した判決で、問題は極めて深刻だ。
 徴用工訴訟での判決について文政権は「三権分立の原則に基づき司法判断を尊重する」との立場で、今回も同様の姿勢をとるのは確実だ。根底には「不法な日本の朝鮮半島統治下で起きた出来事の全責任は日本にあり、賠償は当然」という一方的な解釈がある。
 判決は「現在まで被告(日本政府)からきちんとした謝罪も受けていない」と指摘した。日本が何度も謝罪し合意を守っても認めない。同時に対日関係への影響に目を向けようとしない。国同士の約束を守らず常識が通じない。これが現在の韓国の姿だ。(ソウル 名村隆寛)」
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 1月8日17:34 産経新聞「野党も慰安婦判決を批判 立民「日韓関係悪化」 共産は理解
 新型コロナウイルス対策政府・与野党連絡協議会に臨む立憲民主党泉健太政調会長=8日午後、国会内(春名中撮影)
 韓国の元慰安婦らへの損害賠償支払いを日本政府に命じた8日のソウル中央地裁判決について、野党各党も同日、国会内で記者団の取材に対し、判決への批判と懸念を相次ぎ表明した。
 立憲民主党泉健太政調会長は「全く受け入れられない」と強調。慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した平成27年の日韓合意をあげ、「日韓両政府が努力をしてたどり着いた合意の原則を崩し、日韓関係の悪化につながる判断(判決)は承服しかねる」と語った。
 日本維新の会の浅田均政調会長は「(昭和40年の)日韓請求権協定で決着済み。(元慰安婦らが)訴えるべき相手は韓国政府だ」と一蹴した。国民民主党舟山康江政調会長も「受け入れられない。過去の合意に反し、良好な二国間関係をつくる上でも非常にマイナス」と批判した。
 一方、共産党の田村智子政策委員長は「国際法上、個人の賠償(請求)権まで規制されない」と判決に一定の理解を示した。「戦争被害者の救済が本当になされたのかどうかに最大の主眼を置いた日本政府の対応や、韓国政府との話し合いを求めたい」と語った。」
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 1月8日17:51 産経新聞「首相「断じて受け入れられない」 韓国の慰安婦判決
 韓国地裁の元慰安婦訴訟の判決について、断じて受け入れ無いことを表明する菅義偉首相=8日午後、首相官邸(春名中撮影)
 菅義偉首相は8日夕、韓国の元慰安婦らが日本政府を相手取り損害賠償を求めた訴訟で、ソウル中央地裁が日本政府に賠償支払いを命じた判決について「この訴訟は却下されるべきだ。判決を断じて受け入れることはできない」と述べた。首相官邸で記者団の取材に答えた。
 また、慰安婦問題に関して「1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決済みだ」と重ねて強調。「韓国政府として国際法上、違反を是正する措置をとることを強く求めたい」と語った。」
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 1月8日20:45 MicrosoftNews AFPBB News「元慰安婦訴訟、日本政府に賠償金命令 ソウル地裁
 © Jung Yeon-je / AFP 韓国・ソウルの日本大使館付近に設置された慰安婦像の周りで抗議する人々(2019年7月24日撮影、資料写真)
 【AFP=時事】韓国の元慰安婦の女性12人が日本政府に損害賠償を求めた訴訟で、ソウル中央地裁は8日、日本政府に対し、原告1人当たり1億ウォン(約950万円)の支払いを命じる前例のない判決を下した。
 これは第2次世界大戦(World War II)中に日本軍に従事していた元慰安婦らが、日本政府を相手取って韓国で起こした初の民事訴訟
 慰安婦問題をめぐり日本政府は、1965年の日韓請求権協定で解決済みという立場を取っている。
 同地裁は判決で、「慰安婦制度」の責任は日本にあったと主張。「当時10代後半~20代前半だった原告らは、繰り返し性的搾取を受けた」「これは人道に対する犯罪行為に当たり、被告には被害者らの精神的苦痛に対し賠償する義務がある」という見方を示した。
 日本外務省は、この判決を国際法違反だとして強く批判。駐日韓国大使を呼んで抗議するとともに、韓国政府の介入を要求した。同省は、同地裁が「国際法上の主権免除の原則を否定し、原告の訴えを認める判決を出したことは、極めて遺憾」だと表明している。【翻訳編集】AFPBB News
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 1月9日 産経新聞「韓国内、評価の一方で対日悪化に懸念も 慰安婦訴訟判決
 韓国の文在寅大統領(聯合=共同)
 【ソウル=名村隆寛】韓国のソウル中央地裁が日本政府に対し、元慰安婦らに賠償支払いを命じたことについて、韓国では判決支持の一方で、日韓関係への悪影響を懸念する見方も出ている。
 9日付の韓国の主要各紙は判決について一斉に1面トップで報じた。左派系のハンギョレ紙は「日本政府に“慰安婦”賠償責任を問うた歴史的判決」と題した社説で「国際的な反人道犯罪の責任の所在を法的に明らかにした歴史的意味が大きい」と強調。「現代の国際法的根拠から導き出した極めて常識的な法解釈だ」と判決を評価した。
 その上で韓国政府に司法判断の尊重を求め「日本政府は過去の反人道的犯罪に対し歴史的・法的責任を認める態度への転換なしでは、未来志向的な韓日関係がさらに一層困難になることを明確に認識せねばならない」と主張した。
 京郷新聞も「厳重に(日本を)断罪した点で意味が大きい」とし、日本政府に対し「姑息(こそく)なやり方はせず、被害者にまず謝罪せねばならない」と要求した。
 一方、保守系朝鮮日報は「両国関係改善に向け水面下で行われていた努力が振り出しに戻りかねない」と深刻視している。さらに、「韓国政府は司法府の判決に介入しないという原則を守りつつも、慰安婦問題を解決する方法がないため頭を痛めている」と韓国政府が当惑している状況をも伝えた。
 東亜日報は、判決を受け日本政府の韓国国内資産を差し押さえた場合、「徴用工訴訟の判決よりも大きい波紋が予想される」と指摘。「判決だけに寄りかからず、能動的に解決法を探るべきだ」と韓国政府に求めた。このほか、日韓の首脳や両政府による解決を求める意見も見られる。
 韓国外務省は「(韓国)政府は裁判所の判断を尊重する」との報道官の論評を8日に発表している。論評は「2015年の韓日両国政府の慰安婦合意が両国政府の公式合意である点を想起する。判決が外交関係に及ぼす影響を綿密に検討し、両国の建設的かつ未来志向的な協力が続くよう努力を傾ける」と表明した。日本政府の反発をなだめるかのような言い訳がましい内容、日韓関係の悪化を強く懸念している様子がうかがえる。
 左派系メディアや元慰安婦の支持団体が歓迎する中、韓国大統領府は判決について沈黙を続けている。保守系メディアが指摘するように、判決による対日関係の悪化に対し、韓国政府には適切な対策法を見いだせないようだ。」
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🎍5〕─1─日本全国にあった古代王国。ヤマト王権は征服王朝。~No.11 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の平和と戦争そして発展は、中国大陸や朝鮮半島に影響されて動いていた。
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 『漢書』地理志。紀元前1世紀ごろ、倭人は日本国内で100余りの国に分かれ、大陸の中華帝国へ定期的に使いを送っていた。
 弥生の大乱。強大国は、弱小国を侵略して攻め滅ぼして臣下に組み従え領土を拡大した。
 弱小国が、軍隊・兵隊の弱さゆえに淘汰されていった。
 日本の古代・弥生時代は、殺すか殺されるかの強者必勝、弱者必滅の世界で、平和な時代ではなかった。
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 ヤマト王権がまだ地方王国であった時代は戦乱の時代(弥生の大乱)で、日本全国に10以上の大小の王国が乱立し、戦争・殺し合いを繰り広げていた。
 ヤマト王国は、日本を統一する為に他の王朝に対する侵略戦争を開始した。
 日本統一は、ヤマト王権侵略戦争で幕を開けた。
 諸王国は、自国だけが安泰で平和に暮らせる事を望み、ヤマト王権のように日本を統一して我が領土にしようという野望を持っていなかった。
 つまり、古代日本は東アジア情勢による影響で、ヤマト王権による強力な統一国家か、諸王国による対等関係での連合体かの二者択一を迫られていた。
 朝鮮半島最南端に住んでいた倭族は、北方から侵略してくる黄河文明圏勢力から身を守る為に、同じ縄文人倭人であるヤマト王権に助けを求めていた。
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 ヤマト王権による侵略戦争は、全国を統一するまで、奈良時代そして平安時代に受け継がれ、平安中期頃には青森までを、蝦夷地の一部は江戸時代に、明治には琉球蝦夷地・北方領土4島・千島列島をも日本領土として日本国は完成した。
 ヤマト王権侵略戦争で、多くの地方王国が滅び、地元民が殺されそして消えた。
 その意味で、日本民族は侵略者であり、蝦夷琉球人・アイヌ人は被害者である。
 日本民族琉球人・アイヌ人は、元を辿れば同じ縄文人を祖先とする兄弟部族である。
 ヤマト王権による侵略的統一は、中国大陸や朝鮮半島からの侵略を撃退し、中華帝国(中国王朝)と朝鮮王朝の支配を拒絶する為に、必要な犠牲「必要悪」であった。
 日本にとって、中国と朝鮮は敵であった。
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 現代の日本歴史は、ヤマト王権の侵略的統一戦争を否定、もしくは評価していない。
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 日本民族琉球人・アイヌ人は、南方系海洋民・揚子江流域民・北方系山野の民・西方系草原が民による混血・雑種した子孫で長江文明の後継者であった。
 中国人漢族と朝鮮人は、西方系草原の民・黄河流域民による純血・純種の子孫で黄河文明の後継者であった。
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 日本民族は、地獄のような中国大陸や朝鮮半島からの逃げてきた・追い出された弱者・敗者の子孫であったがゆえに、中国・朝鮮から独立を守ろうとした。
   ・   ・   ・   
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 倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。隋書倭国伝や北史倭国伝では、その国境は東西に五カ月で南北に三カ月とされる。倭人は紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。7世紀後半に倭国と呼ばれていたヤマト王権は対外的な国号を日本に改めたが『漢書』以来の倭国との関連は定かでない。中国正史の旧唐書新唐書の間でも記述に差異がある。
 歴史
 小国の形成と倭国大乱
 詳細は「倭#倭の国々」および「倭国大乱」を参照
 「倭」ないし「倭人」が、中国の歴史書物に登場するのは、弥生時代中期の紀元前150年頃のことであり、中国では、『漢書』に記された前漢代にあたる。『漢書地理志』によると、紀元前2世紀から紀元前後ごろにかけて、倭人が定期的に漢の植民地楽浪郡を介して(前)漢王朝朝貢しており、多数の(『漢書』には「100余」と記す)の政治集団(国)を形成していたことが知られている。
 1世紀中葉の建武中元2年(57年)になると、北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国邑すなわち囲まれた町のこと)の首長が、後漢光武帝から倭奴国王に冊封されて、金印(委奴国王印)の賜与を受けている。
 {『後漢書』東夷傳 「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」}
 これは北部九州における倭人の政治集団の統合が進み、その代表として倭奴国後漢へ遣使したと考えられている。
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 古代王国。
●あ
・明石国:明石国(あかしのくに)は、現在の兵庫県に存在した律令制成立以前の国の一つ。
 播磨国および兵庫県にあった明石郡、美嚢郡加古郡印南郡 の4郡が明石国だったとされる。
 大化の改新以降に針間鴨国とともに針間国に編入され、播磨国の一部とされた。
●い
一支国一支国(いきこく、いきのくに、一支國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。『魏志倭人伝』では「一大國」とされるが、他の史書(魏略逸文梁書や隋書・北史など)では「一支國」とされ、対馬国から末廬国の道程に存在することから、『魏志倭人伝』は誤記ではないかとされている。一方誤記ではないとする説もある。
 1993年、長崎県教育委員会壱岐島原の辻遺跡一支国の跡であると発表し、話題となった。
・伊都国:伊都国(いとこく)は、『魏志倭人伝』など中国の史書にみえる倭国内の国の一つである。末廬国から陸を東南に500里進んだ地に所在するとされ、大和時代の伊覩縣(いとのあがた)、現在の福岡県糸島市の一部と福岡市西区の一部(旧怡土郡)に比定している研究者が多い。
●き
吉備国吉備国(きびのくに)は、古代日本の地方国家である。現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがり、筑紫、出雲、毛野などと並ぶヤマト王権を支える有力な地域の一つだった。
 別名は、吉備道(きびのみち、きびどう)、備州(びしゅう)。
 概要
 後の令制国では備前国備中国備後国美作国にあたる。
 後代には、単に吉備といえば美作を含めないことが多かった時期もあった。
 現代では備前・備中・美作(つまり岡山県の別称)を指すか、備前・備中・美作・備後(岡山県広島県東部)を指して使用されることが多い。
 九州王朝説:九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府(だざいふ、「大宰府」とも表記する。)がその首都であったとする説である。
 邪馬台国から5世紀の「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から太平洋戦争後では長沼賢海らがいるが、本説はこれらを7世紀まで敷衍した点に特徴がある。当初古田は九州倭国は白村江の敗戦により滅亡したと考えていたが、近年の九州王朝説では7世紀末まで存在したとする見方をとっている。近年、古田以外の多くの研究者から多くの発表がなされ、古田の同説に対する影響力は低下してきている。
●く
・狗奴国:狗奴国(くぬのくに/くぬこく、くなのくに/くなこく、こなのくに/こなこく)は、中国の三国時代の歴史書三国志』(西晋陳寿の作)のうちの『魏書』の中の「魏書東夷伝」に記載されている邪馬台国と対立していた倭人の国。
・熊毛王国:熊毛王国(くまげおうこく)とは、現在の山口県熊毛郡域にあたる室津半島周辺を支配地域とした古墳時代の地域首長勢力に対する現代の呼称。この呼称は『記紀』や『風土記』などの古代史料には見えず、一般的な歴史学用語でもないが、現代人がこの勢力を「王国」と表現したもので地元田布施町山口県の歴史関係書籍等で使われている。
熊襲熊襲(くまそ)は、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗したとされる人々、また地域名自体を表す総称である。古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。
●け
毛野国:毛野(けの/けぬ)は、日本の古墳時代の地域・文化圏の1つ。群馬県と栃木県南部を合わせた地域を指すとされる。
●こ
・越国:越国(こしのくに)は、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域の、大化の改新以前の日本古代における呼称である。その後、7世紀に設けられた地方行政区分としての「国」に引き継がれた。当時は高志国と書かれ、越国は8世紀以降の書き方である。のちに令制国への移行に際して分割され、越後国越中国能登国加賀国越前国となった。越州(えっしゅう)・三越(さんえつ)などの地域名称の語源である。
●さ
・佐斯国:佐斯国(さしのくに)は、本居宣長が唱えた律令制以前における東海道の地域名。後の令制国では相模国武蔵国を合わせた範囲に当たる。
●し
・秦王国:秦王国(しんおうこく)は、『隋書』に倭の地域にあったとして現れる国または土地の名称。
 概要
 秦王國は『隋書』の「列傳第四十六 東夷 俀國」に現れる。遣隋使が持参した俀国(倭国)多利思比孤(『隋書』では多利思北孤)から隋の煬帝へ宛てた国書に現れる「日出處天子(日出る處の天子)」の文章の直後に記述されている。主に、中国地方西部に比定されている。
●た
・丹後王国論:丹後王国論(たんごおうこく ろん)は、日本古代史が専門の歴史学者・門脇禎二が提唱した古代王国説。古墳時代に丹後地方(今日の京都府京丹後市辺り)を中心に栄え、ヤマト王権吉備国などと並ぶ独立性があったと考えられる勢力を丹後王国(たんご おうこく)と呼んだもの。ただし丹後国和銅6年(713年)に丹波国の北部5郡を割いて分国したものであることから、これを丹波王国(たんば おうこく)と呼ぶこともある。
 門脇は、丹後王国は4世紀中頃ないし4世紀末頃から5世紀にかけてが最盛期で、6世紀中頃にヤマト王権による出雲征討に伴いヤマト王権支配下に入っていったと推定している。
●ち
・竹斯国:竹斯国(ちくしこく)は、中国史における『隋書』や『北史』に倭の地域にあったとして現れる国または土地の名称。筑紫国に比定[1]されている。
●と
・投馬国:投馬国(とうまこく、又はつまこく)は、3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつである。
・豊国:豊国(とよのくに)は、かつて日本にあった律令制以前の国の一つ。『国造本紀』によれば、成務朝に伊甚国造と同祖の宇那足尼が豊国造に任じられたとされる。
 概要
地理的には、九州の北東部に位置し、現在の福岡県東部および大分県全域に相当する。
 『古事記』・国産み神話においては、隠岐の次、壱岐の前に生まれた筑紫島(九州)の四面のひとつとして語られ、別名を「豊日別(トヨヒワケ)」といったといわれる。
●な
・奴国:奴国(なこく、なのくに)とは、1世紀から3世紀前半にかけて、『後漢書』「東夷伝」や「魏志倭人伝」「梁書」・『北史倭国伝』にあらわれる倭人の国である。大和時代の儺県(なのあがた)のちの那珂郡・席田郡・御笠郡・糟屋郡、現在の福岡市から春日市に存在したと推定する研究者が多い。
那須国:那須国(なすのくに)は、『先代旧事本紀』『国造本紀』に景行天皇の時代に建沼河命の孫の大臣命を定めたと記される那須国造が治めた、東山道に位置する令制国以前の国で、現在の栃木県大田原市を中心とする地域。
 那須国造碑によれば、那須国造の那須直韋提が永昌元年己丑(持統天皇3年、689年)四月に評督に任命されたとあり、この年に同族と考えられる下毛野国造が治めた下毛野国とともに那須国は令制国下野国編入され那須郡となった。
●に
・新治国:新治国(にいはりのくに)は、古代律令制以前に、現在の茨城県西部に存在した国。大化の改新以後の律令制下では常陸国新治郡となる。『古事記』の倭建命(やまとたけるのみこと)の歌に邇比婆利(にひばり)とある。
 2006年(平成18年)まで存続していた近世の茨城県新治郡(にいはりぐん)とは、新治の呼称こそ同じであるが別である。
●ひ
・日高見国:日高見国(ひたかみのくに)は、日本の古代において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語。『大祓詞』では「大倭日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと。
・火国:火国・肥国(ひのくに)は、令制国以前に存在した国の一つ。
 概要
 『国造本紀』によれば、大分国造と同祖で神八井耳命の後裔の志貴多奈彦命の子遅男江命が、崇神朝に火国造に任じられたとされる。また、健磐龍命を火国造の祖とする説もある。
 のちに有明海を挟んで前・後に分けられ、肥前国肥後国となった。この二国をあわせて、またはいずれか一国を指して、肥州(ひしゅう)と呼ぶことがある。また、肥前国肥後国の両国をさす語としては、二肥(にひ)も用いられる。
 廃藩後曲折を経て、肥前国長崎県佐賀県となり、肥後国熊本県となった。
●ふ
・総国:総国(ふさのくに、捄国)は、上古の坂東の国。現在の千葉県を主たる地域とし、茨城県や東京都の一部にわたる律令制以前の旧国名
・不弥国:不弥国(ふみこく)は、3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつである。
●や
・邪摩堆:邪摩堆とは 北史(隋書)に記述される倭国の都。大和のことである。隋書では「邪靡堆」と記述される。
●わ
倭国倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。隋書倭国伝や北史倭国伝では、その国境は東西に五カ月で南北に三カ月とされる。倭人は紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。7世紀後半に倭国と呼ばれていたヤマト王権は対外的な国号を日本に改めたが『漢書』以来の倭国との関連は定かでない。中国正史の旧唐書新唐書の間でも記述に差異がある。
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 多元王朝説は、古代および中世の日本列島には複数の王朝と大王が並立・連立して存在したとする仮説。
 論拠は前方後円墳の形が地域によって微妙に異なること、「その時代の日本列島は一つの統一王朝によって運営されていた」という明確な記録がどの文献にも存在していない事、そして、古代中国王朝側の文献からの歴史の記述に頼らざるを得ない点などである。 主な提唱者は古田武彦。「多元的古代史観」という用語もある。主に、ヤマト王権を中心として王朝が各地に分布していたという説、そして、大和王権と九州倭王朝の両勢力が並立して存在していたとする九州王朝説に分かれる。
・九州王朝:天孫降臨として伝えられる出来事(BC2世紀)から、702年(670年、704年とする説もある)の間、筑紫に中国王朝に朝貢し、朝鮮半島に出兵した王朝があったとする。邪馬壱国(邪馬一国)や倭の五王、『隋書』「東夷伝」に記された俀国(俀国は倭国の誤記後刻ではなく、俀(タイ)国と考える)も九州王朝とする。磐井の乱や継体の乱はなかった、と最近主張されている。詳しくは(九州王朝説)を参照
・出雲王朝:出雲国(いづものくに)古代出雲を参照。(『出雲国風土記』、『国引き神話』)
・近畿・大和王朝:ヤマト王権を参照。 神武天皇は、実在したとする。神武天皇は福岡県の日向川のあたりから銅鐸の中心地である大和に東侵したとする。継体天皇の時に王朝交代があったとするが、応神天皇の時は王朝交代はなかったとしている。また、仁徳天皇の前に宇治天皇がいたとする。(播磨国風土記から)
・関東王朝:稲荷山古墳の被葬者は関東に存在した王朝の「加多支鹵大王」に仕えていたとする。
・東北王朝:角塚古墳において出土した埴輪より、ヤマト王朝勢力が北上した、と一般的には考えられているが、和田家文書(東日流外三郡誌、等)から、九州王朝から逃げた安日彦の子孫による王朝があったとする。和田家文書にでてくる長脛彦は九州の豪族としている。ただし偽書が根拠なので、学会からは全く認められていない。(例外として、笠谷和比古がいる)

 主な論者
 主な論者として、教授・元教授では古田武彦北村泰一笠谷和比古平野貞夫が、在野では古賀達也、竹下義朗などがいる。主に左翼に多かった支持者だが、平野や竹下のような保守派の支持者も存在している。
・12年誤差説
 日本書紀継体天皇から皇極天皇に関する記事は12年の誤差があるとする。聖徳太子乙巳の変もこれによる。
・筑紫朝廷論
 この邪馬台国は、やがて筑紫朝廷に発展したとするのが九州王朝説である。
 根拠
 次のことから、近畿天皇家は本来九州王朝の臣下であり、白村江の戦いの前後から次第に独立していったと考えられる。
 「中国正史」によると、用明天皇は九州王朝のタリシホコの補佐官であったという(なお、新唐書によると多利思比孤が用明天皇であったとされ、「中国正史」が何を指すのか不明)。
神武天皇は九州から東征した。
 「大倭」や「真人」といった名称を付ける天皇もいるが、これらは九州王朝の官職名であると考えられる。
 また、次の王朝も九州王朝に服従していたと考えられる。
・東北王朝は『東日流六郡誌』によると、邪馬壹国に朝貢していた。
・吉備王朝も九州王朝に従っていた可能性が高い。
・讃岐王朝は九州王朝に滅ぼされ、その後、伊予王朝が成立した。
・四国南西部にも九州王朝に服従する王朝があり、倭国と環太平洋文明圏の入り口となった。
 ただし全ての「根拠」は正しい根拠に基づいておらず、九州王朝が実在したとは到底証明できるものではない。
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 邪馬台国(やまたいこく / やまとのくに/やまいこく)は、2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる国(くに)のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合(邪馬台国連合)の都があったと解されている。古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが[注釈 1]、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読した[注釈 2]ことから「やまたいこく」の読み方が広まった。邪馬台国の所在地については21世紀に入っても議論が続いている。
 概要
 中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしている。なお、現存する三国志の版本では「邪馬壹國」(新字体:邪馬壱国)と表記されているが、晩唐以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である(台の旧字体「臺」は壱の旧字体「壹」と似ているため。また誤写ではないとする異論がある)。現代人の著作の多くは、それぞれ「壱」「台」で代用しているので、本項でも「邪馬台国」と表記する。
 倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで卑弥呼という巫女を王に共立することによって混乱が収まり、邪馬台国連合が成立した。弟が彼女を補佐して国を治めており、他に官として伊支馬、次に彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮を置いていた。戸数は七万余戸あったとされるが、誇張ないし伝聞基づくものとする意見もある。
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☵16〕─11─慰安婦問題をめぐる日韓合意から5年。韓国は約束を破る常習犯である。~No.142  

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 韓国は、約束を平然と破り信用できない。
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 日本人にとって朝鮮人は、古代から、信頼できる友人ではなく、頼れる親友でもなく、命を預けられる戦友ではなく、恐ろしい敵国人であり、油断すると寝首を掻きにくる悪い知人であった。
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 2020年12月25日10:16 産経新聞「韓国軍が竹島「防衛」訓練、非公開で実施 日本への刺激抑制か
 島根県竹島(聯合=共同)
 【ソウル=桜井紀雄】韓国軍が今月4日、韓国が不法占拠する竹島島根県隠岐の島町、韓国名・独島=トクト)の防衛を想定した訓練を非公開で実施していたと、韓国の聯合ニュースが25日、複数の韓国政府消息筋の話として伝えた。
 島への上陸部隊である海兵隊や空軍部隊の参加が見送られるなど、例年より規模が縮小されたという。新型コロナウイルスの感染拡大に加え、文在寅ムン・ジェイン)政権が日本との関係修復を模索する中、日本への刺激を抑制しようとした可能性がある。
 毎年上半期と下半期ごとに行う定例訓練で、海軍や海洋警察の艦艇と航空機が投入され、民間船舶の「領海」侵入や軍事的脅威が迫った状況を想定して実施された。日本による輸出管理厳格化に反発して韓国内で反日ムードが高まった昨年8月の訓練では、過去最大規模で行われ、訓練映像も公開した。
 今回の訓練について、政府消息筋は「通常、訓練日程は事前に公開しない。訓練は定例のものだ」と説明した。」
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 12月26日20:27 産経新聞「【日韓合意】常態化する韓国の違反 28日に5年 
 韓国の文在寅大統領(聯合=共同)
 平成27年12月の日韓合意から28日で5年を迎える。合意では当時の岸田文雄尹炳世(ユン・ビョンセ)両外相が慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した。だが、文在寅ムン・ジェイン)政権は合意に基づいて設立された「和解・癒やし財団」の解散を決定。ソウルの日本大使館前の慰安婦像はいまだ撤去されず、ドイツ・ベルリンなどで新たな像の設置も相次ぐ。文政権はいわゆる徴用工訴訟をめぐっても国際法違反の状態を放置したままだ。
 日本政府は28年、合意に基づき、財団への10億円の拠出を閣議決定。これまで元慰安婦47人のうち35人に現金が支給された。
 だが、文政権は30年11月に財団の解散を発表。合意で国際社会での非難や批判は控えると確認したにもかかわらず、ドイツなどでの像の設置を正当化するような発言を繰り返している。
 徴用工訴訟で韓国最高裁が日本企業に賠償を命じる判決を出したことをめぐっても、日本政府は昭和40年の日韓請求権協定で解決済みだとの立場だが、韓国政府に国際法違反を是正する動きはない。日本側は韓国側が差し押さえた日本企業の資産を現金化すれば対抗措置に踏み切る構えだ。
 岸田氏は26日までに産経新聞のインタビューに応じ、「世界が評価した合意だ」と韓国側に合意の履行を要求、徴用工訴訟についても「日本として譲る余地はない」と強調した。
   ◇   
 慰安婦問題をめぐる日韓合意 平成27年12月28日、日韓両政府が慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した合意。お互いに国連など国際社会でこの問題の非難・批判は控えると確認したほか、安倍晋三首相が「心からのおわびと反省」を表明。韓国政府はソウルの日本大使館前の慰安婦像の問題が適切に解決されるよう努力するとした。韓国政府が「和解・癒やし財団」を設立して日本政府が10億円を拠出し、元慰安婦らに現金が支給されたが、韓国政府は30年11月に一方的に財団解散を発表した。」
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 12月26日20:28 産経新聞「」【日韓合意】当時外相の岸田文雄氏インタビュー「世界が証人、韓国は履行を」
 「日韓合意から5年」について話す、岸田文雄元外相=16日、東京都千代田の衆院第1議員会館(寺河内美奈撮影)
 --外相として確認した日韓合意を韓国の文在寅政権は事実上、破棄した
 「合意は日韓関係の未来にとって重要な合意だった。世界が評価した合意であり、日本は履行すべきことは全て履行している。韓国には合意の内容をしっかり履行してもらい、未来に向けて日韓関係を動かしていくことが大事だ」
 --合意を結んだ理由は
 「日本としてこれ以上、国際社会で慰安婦問題をめぐって非難されるのは放置してはいけない。お互いが非難するのはやめようと決着をつけることは今後、日本が外交を進める上で重要なことだと思った」
 --合意によって韓国側に「約束を守れ」といえるようになった
 「国際社会を証人にするという意図で、両国の外相が記者会見し、テレビカメラを通じて全世界に映像を流す形を取った。合意後、間髪入れずに世界の大使館に合意について各国にコメントしてもらうよう指示した。当時のバイデン米副大統領はじめ、30カ国以上が合意を高く評価すると発表した。ケリー米国務長官には合意前から慰安婦問題や日本の取り組みについて再三説明していたし、理解が進んでいたと思う」
 --国内には保守層を中心に否定的な意見もあった
 「賛成の声と反対の声の両方があり、日本政府としてもギリギリの決断をした。日本が何も努力をしてないと韓国側がいうのは心外だ。当時の安倍晋三首相は慎重な部分もあったが、最後は決断した。何度も官邸で外務省などの関係者が集まって意見交換したし、私と首相との電話のやりとりも韓国への出発間際まで続いた」
 --いわゆる徴用工判決でも韓国は昭和40年の日韓請求権協定を無視した
 「徴用工の問題はまさに国際法、条約を守るかどうかの問題で、日本として譲る余地はない。司法も含めて国全体が条約に縛られる。『韓国は三権分立だ』『司法には注文をつけられない』という理屈は通用しない。事実、韓国側は文政権までは協定に徴用工は含まれ、解決しているとの姿勢を取ってきた」
 --米次期大統領就任を確実にしたバイデン氏は日韓関係の改善を働きかけるのではないか
 「バイデン氏は日韓関係や同盟国との関係に深い関心を持っているが、関係を大事にするためにも日本として正論を訴えるのがあるべき姿だ。仲良くしろといわれても理屈を譲るわけにはいかない。政府は米国に理屈を理解してもらう努力をする必要がある」(田村龍彦、永原慎吾)」
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☳17〕─3─在日朝鮮人による長田区役所襲撃事件。昭和25(1950)年11月~No.59No.60 

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 長田区役所襲撃事件とは、1950年(昭和25年)11月20日から11月27日にかけて、兵庫県神戸市長田区で発生した在日朝鮮人による公安事件。
 第一神戸事件(阪神教育事件)に続く、神戸で起きた第二の騒乱事件という意味から第二神戸事件ともいう。
 事件の発端
 1949年から始まったドッジ・ラインにより、デフレーションが進行し失業や倒産が相次いだ。在日朝鮮人も例外でなく、失業者が激増した。こうした状況の下で、朝鮮人は「朝鮮人生活擁護闘争」を展開、地方税の減免や生活保護の適用を求めるために、各地の役所に押しかけるようになった。
 事件の概要
 1950年11月20日午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。
 11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。
 11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還などを求め、姫路市明石市尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約1000人(児童300人を含む)の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。
 遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された。
 裁判
 神戸地方検察庁は、騒乱罪公務執行妨害罪、占領目的阻害行為処罰令違反で、合計118人を起訴した。裁判の結果、騒乱罪と占領目的阻害行為処罰令違反の成立は認めず、17人についてのみ公務執行妨害罪等で有罪となった。
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 敗戦国の日本人とって、日本人とは正反対の性格をしている在日朝鮮人在日韓国人朝鮮人・韓国人が理解できず、理解できない為に恐ろしい存在で、知人として付き合いたくない人間であった。
 そこに、日本人の朝鮮人に対する軽蔑と差別が生まれ、身近に近寄らせない為に暴力的に迫害して追い出し遠ざけた。
 真面な日本人の朝鮮人認識は、古代から同じであった。
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 在日朝鮮人は、自分達にも「生活保護を貰う権利がある」として暴動を起こして長田区役所襲撃した。
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 在日朝鮮人は、凶暴で、全国で凶悪な暴動や犯罪を起こし、傷害・強姦・殺害など日本人の被害者は増えていった。
 朝鮮総連朝鮮人学校は、在日朝鮮人犯罪集団の隠れ家であった。
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 左翼・左派や反天皇反日的日本人達は暴力的共産主義人民革命を起こすべく、日本人を襲撃し凶悪犯罪を繰り返す在日朝鮮人に協力し支援していた。
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 日本人にとって、在日朝鮮人在日韓国人朝鮮人・韓国人は友人でも親友でもなく、信用も信頼もおけない、油断も隙もない、それこそ命を奪いに寝首を掻きに来るかもしれない恐ろしい反日派・敵日派であった。
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🎍25〕─1─正統男系父系天皇神話の『古事記』は滅びの物語であり滅びの美学の手本である。~No.74 

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 近代西洋歴史学を学んだ現代の日本人は、民族主義皇国史観を学んだ昔の日本人に比べて歴史力・文化力・宗教力が劣っている。
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 日本民族神話は、天皇の物語である。
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 2020年6月25日号 週刊文春「文春図書館
 名著のツボ
 『古事記
 天皇に排除された人間、悲劇的な死に方をした人間を中心にした〝滅びの物語〟
 石井千湖
 712年に成立したと言われる『古事記』 には、イザナキの黄泉の国訪問やアマテラスの天の岩屋戸ごもり、スサノヲのヤマタノヲロチ退治など、日本人にとって馴染み深い神話が収められている。その魅力を、前回の『日本書紀』に続き古代文学・伝承文学研究者の三浦佑之さんに伺った。
 『「古事記」は「日本書紀」と同じ神々の話と天皇家の歴史で構成されています。ただし「古事記」は「日本書紀」より神話の割合が大きく、文学的な要素が非常に強い。また、「日本書紀」には300回近く国家を意識させる〈日本〉という言葉が出てきますが、「古事記」には一度も出てきません。すべて〈倭(やまと)〉です。天皇に排除された人間、しかも悲劇的な死に方をした人間を中心にした〝滅びの物語〟になっています』
 〝滅びの物語〟とは具体的に何を指すのか。
 『まず、「日本書紀」にはほとんど書かれていない出雲神話が「古事記」には入っています。有名な「稲羽の素兎」も出雲神話です。出雲は、日本海側の地域で勢力を持ち、ある段階で倭に滅ぼされたと考えられています。また「日本書紀」のヤマトタケル律令国家が理想とする遠征将軍ですが、「古事記」では父と断絶して関係を修復できないまま死ぬ悲劇の英雄です』
 『古事記』の〝滅びの物語〟のなかで、三浦さんが特に注目しているのはマヨワの話だ。舞台は5世紀後半の都。安康天皇はある男を殺して、その妃を奪う。妃はマヨワという7歳の息子がいた。宮殿で暮らし始めたマヨワは、天皇と母の会話を盗み聞きし、父の死の真相を知ってしまう。そして夜中に天皇の寝室に忍びこみ復讐を遂げる。
 『「ハムレット」を彷彿とさせる悲劇ですが、本当に感激するのは、天皇を殺して追われる身となったマヨワが葛城氏という豪族の頭領を頼るくだりです。朝廷の軍勢に取り囲まれ、負けることがわかっていながら矢が尽きるまで戦う葛城氏に、マヨワは〈今は、われを殺したまえ〉と言う。葛城氏はマヨワを殺した直後に自分の首を切って死ぬ。同じ出来事を「日本書紀」はあくまでも国家の側でドライに書いていますが、「古事記」は滅んでいく人々の内側に入り込んで語る。「日本書紀」が政府の公式発表だとすれば、「古事記」は血の気が通っている人間臭い、いわば「週刊文春」ですね』
 序文によれば『古事記』は天武天皇の勅命によって編纂されたことになっている。しかし、三浦さんは、序文は後年付け足されたものではないかと考えている。
 『「古事記」と「日本書紀」は内容だけでなく、文体もかけ離れているし、序文を引用した史料も9世紀まで出てこない。「古事記」は国家の中枢から外さた、どこか異端の場所で作られています。「古事記」と「日本書紀」が〈記紀〉と呼ばれセット扱いされるようになったのは20世紀に入り、明治政府がクーデターで打ち立てた国家に正統性を持たせるために、天皇という錦の御旗と歴史を必要としたからです。「日本書紀」だけでは味気ないので、わかりやすくて面白い「古事記」をミックスして教科書に載せたのでしょう。戦争のプロパガンダにも利用されましたが、「古事記」に罪はない。なんといっても物語として面白いので、楽しんでほしいと思います』
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 日本国は、異民族である日本民族が海の外から侵略してきて暴力征服し武力統治した征服王朝ではなく、土人であった縄文人の中から自然に生まれた寄り合い国家であった。
 日本天皇は、そうした寄り合い国家の中から立ち現れた。
 ヤマトの国・ヤマト王権ヤマト大王(日本天皇)そしてヤマト人が生み出されたのは、弥生の大乱が原因であった。
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 船乗りの子孫であった縄文人には、戦いや争いはなく、イジメ・意地悪・嫌がらせもなかった。
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 「日本書紀」も「古事記」も、近代歴史学ではなく、言い伝え・伝承・逸話・寓話を集めた神話・物語である。
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 『日本書紀』は、日本民族・日本国民が学ぶべき歴史書ではなく、中華世界・中華帝国・中華皇帝=中国に対する独立宣言書である。
 中華世界には、中華皇帝だけが持つ唯一の正統と朝鮮国王・琉球国王ら諸国王が与えられた数多くの正当があった。
 日本天皇は、中華世界に国王位を裁可・承認・授与する2の正統性を打ち立てた。
 それが、『日本書紀』である。
 日本国は第2の正統性を基に、第1の正統性が支配する中華世界から切り離された。
 東アジアの正統性は一つの絶対から二つの相対に変貌し、中華皇帝しか持たない不可侵の統制権が揺らいだ。
 つまり、東アジアには、中国を中心とした大きな中華世界に対する日本を中心とした小さな中華世界が誕生したのである。
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 正円は、一つの中心核・起点しか存在しない。
 楕円であれば、二つの中心核・起点が同時に存在できる。
 が、儒教の絶対価値観は中華の一点正円にこだわり日本との二点楕円を好まなかった。
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 日本小中華世界は、シルクロードを通じてオリエント・ヨーロッパ・インドでも独立した存在として通用し、その為にシルクロードの最終的終着地となった。
 『日本書紀』の歴史的世界的意義とはそこにあった。
 『日本書紀』が、世界を引き入れた。
 つまり、日本国は『日本書紀』で世界レベルの磁石を手に入れ、ヨーロッパ・オリエント・インド・中華などの各磁石との間に磁力線を生み出し繋がりとしての「ロード(道)」を築いた。
 日本国がシルクロードの最終的終着地になったのは必然であり、偶然ではなく、中国のお情け・お零(こぼ)れでもなかった。
 それは、日本民族として誇るべき快挙であった。
 中華世界の歯車に組み込まれた朝鮮国や琉球国には、他者の影響を排除し独立を保障する正統性がなかった為に遠い地域と直接繋がる磁石はできなかった。
 日本の中華思想は正統性の確立であって、侵略的犯罪ではないし、世界制覇のファシズムでもない。
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 『古事記』は国内向けの神話であり物語であり寓話である。
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毎日新聞
 「古事記」「日本書紀」同時期登場の謎(上) 敗者の歴史を語る「古事記
 会員限定有料記事 毎日新聞2020年1月22日 18時02分(最終更新 1月22日 18時02分)
 伊藤和史
 日本国最初の正史「日本書紀」は720(養老4)年の完成なので、今年で1300年になる。膨大な研究があるが、今も謎が多い。最たるものが、もう一つの歴史書古事記」がほぼ同時期につくられたことだ。
 古事記は712(和銅5)年の成立。ともに天武天皇の意向で編さんされたとされるが、両書には違いも多く、一人の天皇が意図した歴史書としては不可解極まる。
 この謎に「古事記は敗れた側の歴史を語る。勝者(天皇側)の日本書紀とは成り立ちが違う」と答えるのが、三浦佑之(すけゆき)・千葉大名誉教授(古代文学)の新刊「出雲神話論」(講談社)である。 【伊藤和史】
 ヤマトによる全国制圧前の列島の姿をほうふつ
 両書とも大筋では、天上の神々の世界、高天原(たかまのはら)を主宰するアマテラスの子孫が日本の国土を治める物語に収束していく。しかし、そのプロセスや描写ぶりは大いに異なる。その代表が本書のテーマ、出雲神話である。
 出雲神話とは、高天原を追放されたアマテラスの弟スサノオや、その子孫のオオクニヌシが出雲を舞台に活躍する物語。有名なヤマタノオロチやイナバの白うさぎの話が含まれ、オオクニヌシが地上世界の国造りを果たす様子が描かれる。
 古事記では神話の3分の1ほども出雲神話が占める。ところが、日本書紀の本文はごく簡単に触れるだけだ。オオクニヌシの国の支配権が高天原に移ること(国譲り)を正統とする点は両書で共通するが、書紀本文は国造りのプロセスなど目障りだと言わんばかり。
 古事記は違う。「読んでいると、日本海文化のネットワークが浮かび上がってきます」と三浦氏は話す。ヤマト中心史観の周縁にある出雲と北九州、北陸、諏訪、さらに木の国(紀伊)とのつながり。ヤマトによる全国制圧前の列島の姿をほうふつとさせるという。
 滅びの物語を紡いだ語り部
 ところが、古事記の致命的な読み違いがあるというのだ。その象徴が国譲り。よくある読み方では、国を譲る代償に、高天原オオクニヌシの住居となる高大な宮殿を建てることになっている。出雲大社の創建伝承とされる重要シーンだ。
 しかし、大社創建はヤマトではなく出雲側が行った、というのが三浦説の要点の一つ。「オオクニヌシは自ら建て、住み続けるための修繕を要求した。出雲には弥生時代から、高い建物が建っていたことは考古学的に確認できる。ヤマトに建ててもらわなくてもいいんです」。鳥取県米子市の稲吉角田遺跡から出土した弥生土器に高層建築を思わせる線刻画があり、論拠の一つという。
 ただ、そうした独自の文化を誇った列島の各地域も、やがてヤマトに制圧される。彼ら敗者の歴史を語ったのが古事記であり、中でもヤマトとの対立が抜きんでて激しかった出雲が敗者の象徴として入念に神話に描かれた、と考えるわけだ。
 律令国家の論理を支える日本書紀とは全く違う歴史観をもつ書を誰がつくったのか。個人の特定は難しいそうだが、王権周辺の語り部の存在が想定されている。ヤマトの列島制圧を受けて、各地から中央に集まってきた歴史や伝承を素材に滅びの物語を紡ぐ人々。
 「語りとはそういうもの。語り部は生きた人間に向かって語るより、死者に向かって語るのです。琵琶法師が『平家物語』を語ったように」とも三浦氏は話す。「神話はもちろん歴史そのものではないが、現状のように古事記が誤読されたり、記紀神話と平気に一括されたりしたま…」
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 日本民族心神話はローカルで、世界宗教ユダヤ教キリスト教イスラム教の天地創造・人間創生や世界神話の古代ギリシャ神話、古代エジプト神話、古代メソポタミア神話、北欧神話、古代中国神話、古朝鮮神話などとは違い、世界的英雄叙事詩ギルガメシュ物語、オイディプス王物語、ジークフリート物語、アーサー王物語などとも違う。
 黄河文明系古代中国神話や古朝鮮檀君神話の影響を受けていない。
 類似性の神話・物語のルーツは探れば、揚子江以南の山岳に住む儒教に縛られない長江文明系古代神話を持つ江南少数民族に行き着く。
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 シルクロードの最終的終着地であった日本(倭、ヤマト)には、世界中の宗教・神話、寓話・物語が人の移動と共に流れ着いている。
   ・   ・   ・   
 滅びの美学・滅びの物語は、昔の日本にはあったが、現代の日本にはない。
 その証拠は、弱者・敗者へのイジメ・意地悪・嫌がらせ、差別・迫害が多いからである。
 原初の滅びの美学・滅びの物語は、朝廷の大軍と勝てない戦いをして滅びた葛城氏の悲劇である。
   ・   ・   ・   
 昭和天皇を始め歴代天皇は、人を差別する事に反対し、弱者である病弱者や災害弱者、敗者・罪人などを見捨てる事なく寄り添い、生きる為の精神的支柱であり明日の為の希望であろうと誓い、八百万の神々に全身全霊で祈られていた。
   ・   ・   ・   
 中華(中国や朝鮮)世界は、日本とは違って、宗教的な中華神話や民族物語はない。
 神話を起源とする物語は、如何に言い繕うとも取るに足らない文化度の低い下級な歴史書とされた。
 中華世界は、正しい儒教を持たない日本国と日本民族を教養なき野蛮な土人と軽蔑し、差別し、見下していた。
 だから、東夷であり倭人である。
 倭とは、差別用語で、人間ではない獣という意味である。
 日本人は、倭・倭人と侮蔑され嘲笑されているのに怒らず、むしろ名誉な事だと喜んでいる。
 昔の日本人は朝鮮人とは違い、自分から中華帝国(中国)に対し、倭国を日本国に、倭人を日本人に言い改める様に要求し、外交交渉の末に中華常識を覆し中国皇帝の裁可を得て改称に成功した。
 何故か、中華は、日本を仙人が住む不老不死の蓬莱国・蓬莱島と勘違いしたからである。
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 日本民族は、東アジアで、中華世界(中国)の影響を受けないという、日本独自の、日本は特殊であるとした日本民族だけの神々の物語=天皇の神話を創った。
 そして、日本を朝鮮とをハッキリと切り離し、日本は朝鮮とは関係ない事を明確に否定している。
 日本民族国家とは、天皇家・皇室の祖先である神々が毎日重労働をしモノを作って自給自足の生活をする自然神話国家である。
 日本神話とは、天皇家・皇室を中心とした神代物語である。
 反宗教無神論マルクス主義共産主義)、異教根絶のキリスト教、神仏を認めない中華儒教などは、日本民族中心の日本神話を否定し破壊し消滅させようとした。
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 古事記を含めた多くの物語は、ヤマト大王大和王権、日本天皇・朝廷の日本統一という栄光の物語ではなく、日本を一つにまとめる為にやむを得なく滅ぼした相手を忘れずその魂を鎮め、その犠牲の上に日本国がある事を子孫に伝える鎮魂の物語であった。
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 滅びの美学は、敗れて死んでいった人々を忘れず歴史の物語として残す為であった。
 日本神道神社神道は、滅びた人々が怨霊・悪神となって生き残った人々を祟り苦しめないようにするべく、各地に神社を建て日本の神として祀った。
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 日本神道最高神は、女性神天照大神である。
 天照大神は、現天皇家・皇室の祖先神である。
 天皇の正統は、天照大神から発する男系父系の血筋・血統・皇統で保証され、皇室に縁のない他家に嫁いだ女系母系の血筋は赤の他人の血で正統性はないとして皇統譜から排除されている。
 つまり、天皇の正統性は、一個人の教祖が修行の末に自分の思い込みで作り上げた創作宗教ではなく、民族中心神話にある。
 教祖宗教は、新たな教祖宗教の出現でいとも簡単に滅びる。
 民族中心神話は、民族が生存する限りは滅びない。
   ・   ・   ・   
 人間が哲学・思想・イデオロギーなどで身勝手に作った憲法・法律は、何時でも、何度でも、人が自由に手を加えて書き換えられる事ができる為に正当性はあっても、不変的な冒してはならない正統性はない。
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 國學院大學メディア
 古事記は誰のために作られたもの?
 ―古事記の成り立ちを知る―
 古事記の不思議を探る
 文学部全ての方向け国際文化
 文学部教授 谷口 雅博 2018年8月24日更新
 (※画面の右上のLanguageでEnglishを選択すると、英文がご覧いただけます。This article has an English version page.)
 日本最古の書物『古事記』。世界のはじまりから神様の出現、皇位の継承まで、日本の成り立ちがドラマチックに描かれています。それぞれの印象的なエピソードには今日でも解明されていない「不思議」がたくさん潜んでいます。その1つ1つを探ることで、日本の信仰や文化のはじまりについて考えていきます。
 『古事記』は日本に現存する最古の書物(作品)です。序文と上・中・下の3巻からなり、世界のはじまりから神々の出現、そして天皇家皇位継承の様子が描かれています。序文には『古事記』の成立過程が記されています。それによると、『古事記』はまず天武天皇(在位673~686)の意志によって作成がはじまり、約30年後の元明天皇(在位707~715)在世中の712年に太安万侶(?生~723没)が完成したといいます。
 では『古事記』は何のために作られたのでしょうか?同時期に成立をした歴史書日本書紀』と比較をしてみましょう。
 『日本書紀』は中国の歴史書に倣って、日本でも本格的な歴史書を作ろうという動きの中で作られたものです。そのため、中国でも読めるものを意図して、漢文体で、時系列順に記録されています。『日本書紀』は成立の翌年から宮中において読書会が行われた記録があり、中央政府の官人が勉強目的で読んでいたことがうかがえます。
 一方で『古事記』はどうでしょうか。『古事記』は、日本の古語を書き記すために、崩れた漢文体を用い、国内向けの文章で書かれています。内容は、神々の世界から各天皇の時代の出来事を描く点では『日本書紀』と変わらないのですが、登場する神々や人々が個性豊かに描かれ、それぞれの物語がドラマチックに描かれています。そのため皇后の娯楽用、または皇子の教育用に作られたという見方があります。完成後に広く読まれた形跡がないのも、宮中内部の私的な文書であったからとも言われます。しかし一方で、氏族系譜に対してこだわりを見せているところから、天皇家と各氏族との関係性を明示し、天皇中心の国家体制を確立するために作られたという見方等もあります。
 いずれにしても、国の正史と位置づけられる『日本書紀』と比較すると、『古事記』は成立の意図や性格など、謎に包まれた部分が多くあり、それが逆に魅力となって読み継がれているのでしょう。
 ~國學院大學平成28年文部科学省私立大学研究ブランディング事業に「『古事記学』の推進拠点形成」として選定されています。~
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 2018年8月20日付け、The Japan News掲載広告から
 ※國學院大學博物館では、企画展「モノで読む古事記」を開催しています(会期:~令和2(2020)年10月31日)。詳細は國學院大學博物館ホームページをご確認ください。
 谷口 雅博
 研究分野
 日本上代文学(古事記日本書紀万葉集風土記
 論文
 『日本書紀』の素戔嗚尊(2020/11/15)
 『古事記天皇御代替わりの記載形式(2019/11/15)
 詳しく見る
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 BOOKウォッチ
 「古事記」と「日本書紀」の決定的な違いとは?
 本書『オールカラー 地図と写真でよくわかる! 古事記』(西東社)はビジュアルを重視して古事記を解説した本だ。活字本で読んでも、頭には入りにくい古事記の内容をわかりやすく説明している。
 本書を別な角度から見ると、古事記にゆかりの場所を案内する観光ガイドブックにもなっている。
一時は偽書とされ埋もれていた
 本書はまず、49ページから始まる「古事記とは」から読み始めるといいだろう。「古事記」は712年、「日本書紀」は720年の成立。「古事記」の方が神話時代の物語が豊富で、「日本書紀」は少ない、など両書の違いを端的に記す。「古事記」は文学的な色彩が濃厚なのにたいし、「日本書紀」は日本の正史として年代を追って書く編年体。中国や朝鮮の歴史書の内容も参照されている。「古事記」は漢字の音・訓を使い分け、和文で表現しようとしているが、「日本書紀」は漢文なので、中国の人が読んでも理解できる...。
 面白いのは、こうした漢字表記の違いなどをもとに「古事記」は国内向け、「日本書紀」は対外向けと解説しているところだ。「古事記」は天皇家が統治する根拠と正統性を示すために、国譲り、天孫降臨などの神話に力を注いだとしており、このあたりは「国内向け」と言う話と符合する。「日本書紀」は遣唐使が中国に持参したという話もあるそうだ。
 現実の権力基盤が確立されると、神話満載の「古事記」はもはや余り重要でなくなったのかもしれない。次第に大事にされなくなり、一時は偽書とされ埋もれていた。評価が復活したのは本居宣長の「古事記伝」からというのは有名な話だ。
文庫本並みに安い
 戦前、皇国史観で各種の神話が過剰に強調された反動で、戦後は冷遇されていたが、90年ごろから再び脚光を浴びるようになる。時を経て、客観的な扱いが可能になったということだろう。左翼系とされていた学者や文化人も、忌憚なく「古事記」について語り、著書を出すようになった。
 本書が楽しいのは、写真、イラスト、絵画、平面・立体地図などを駆使して神話の舞台を巡っていることだ。物語の概要が理解できるだけでなく、行ってみようかなと思える。観光ガイドのゆえんだ。黄泉の国への入り口としては、島根や広島の3か所の候補地が現在の写真とともに紹介されている。
 名前は知っていても、読んだ人は非常に少ない「古事記」。奇想天外な物語が満載で、古代版のファンタジーノベルのような一面もある。神の嘆きや復讐、人間の愛情や哀切も多数の歌と共に描かれ、最近では漫画化もされている。類書は少なくないが、本書は文庫本並みに安いのでおトクだ。著者の山本明さんは多数の歴史関連書を執筆している。
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愛と涙と勇気の神様ものがたり まんが古事記
マンガ 面白いほどよくわかる!古事記

🎍26〕─1─男系父系天皇を正統とする正史『日本書紀』と皇国史観。~No.78No.79No.80 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 NHKオンデマンド - 歴史秘話ヒストリア - NHK
 2020年11月27日 (金)
 歴史秘話ヒストリア「日本誕生 知られざる物語 日本書紀1300年」
 日本書紀に描かれていたのは、神話の世界…だけではなく、実際のモデルとなった出来事がありました。一つ一つをひもとくと、古代の日本人が、クニという形を作るために何が必要だと感じていたのかが分かります。ロケで訪れた島根県出雲市は、日本書紀で描かれた時代の雰囲気を留めているようで、とても穏やかな空気に包まれていました。古代の交易で栄えた出雲地方は、大和政権から見ても、豊かな土地だったのでしょう。
 スサノオノミコトをまつる須佐神社。境内は、緑のなんともいい香りが~!これも、木の神様・スサノオノミコトにゆかりがあるからなのか、木の深い生命力を感じました。ご神木である大杉の木は、20メートルを超える高さ、樹齢は日本書紀と同じ1300年ほどというから驚きです。禰宜の須佐建央さんのご案内で木の根元まで歩み寄ると、まるで木に優しく包まれているような穏やかな気持ちに。須佐さんが「大杉さん」と呼んでいたように、神聖であり、身近な存在として大切にされてきたのですね。
 稲佐の浜の海岸線は、日本書紀に描かれた時代よりも、今は海の方にせり出しているといいます。住宅地の一角に残る、「屏風岩」。日本書紀では、この岩陰で、国譲りの話し合いが行われたとあります。ご案内いただいた吉川誓一さんの解説では、神々のやりとりが生き生きと語られ、神話にぐんぐん引き込まれました。番組ではご紹介することが叶いませんでしたが、写真中央にいらっしゃる新宮基弘さんからは、興味深いお話を。新宮さんが小学生のころは、この屏風岩の周りを年に一度、掃き清める行事があったそうです。その時は、揃いのはちまきにふんどし姿で、身を清めてから掃除をするのが習わし。とても気が引き締まる、大切な行事だったと教えてくださいました。
 発掘調査からも分かってきた、かつての出雲大社にあった巨大な本殿。高さ48メートル、階段の長さ100メートルもの本殿は、空を見上げるようなものだったのだろうな~と想像していたら、現在の本殿の近くに、かわいいウサギの置物を発見!ウサギと一緒に見上げながら、古代の人々の建築技術の高さ、神に対する気持ちの大きさに思いを馳せました。
 今回は、藤原不比等についてご紹介するということで、お着物は藤の花をあしらったものでした。実は、去年「興福寺」の回でも着用したものなのですが、今回の帯には、古代の話に合わせて個性的な花の模様が描かれたものを。帯や髪型が変わるだけで、雰囲気が変わるのがお着物の楽しさですね~。自分で並べるのは、ちょっと恥ずかしいのですが…ご笑納いただければ幸いです。
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 1月5日火曜NHK総合1 午後3時10分~ 午後3時55分
 歴史秘話ヒストリア「日本誕生 知られざる物語 日本書紀1300年」
 完成から1300年、日本最古の正史「日本書紀」。謎多き歴史書から見えてきたのは日本誕生の知られざる物語。スサノオの子孫が守るヤマタノオロチの骨!?謎の古墳群と出土品から神話の舞台・出雲の実態に迫る。オオクニヌシからアマテラスへの“国譲り神話”に秘められた史実とは!?なぜ日本書紀が必要だったのか?最新研究が語る中国人と日本人との合作説!古代日本最大の政治家・藤原不比等の編纂(さん)に込めた狙いに迫る。
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 「日本書紀」編纂の狙いとは?1300年の歴史に迫るNHK
 2020.11.25 21:45
 藤原不比等日本書紀 (C)NHK
 歴史情報番組『歴史秘話ヒストリア』(NHK総合)で日本書紀を特集。11月25日に放送される。
 今年は、日本に伝存する最古の正史『日本書紀』の完成から1300年の記念イヤー。また、『日本書紀』に「比べる者がいないほど優れている」と記されている藤原鎌足の息子で飛鳥・奈良時代の政治家、「藤原不比等(ふじわらのふひと)」没後1300年の節目の年でもある。
 同番組では、古代の体系的な法典『大宝律令』『養老律令』の作成に関わったことから、『日本書紀』編纂にも深く関わったといわれている藤原不比等に注目。
 国内向けに天皇の歴史を記した『古事記』と異なり、国外に向けて日本をアピールするため編纂された謎多き歴史書日本書紀』から見えてきた日本誕生の知られざる物語を最新研究から迫る。
 また、謎の古墳群と出土品から判明した神話の舞台・出雲の実態や、中国人と日本人との合作説といった驚きの学説も登場する。
 『日本書紀』は、奈良県などのゆかりの地で1300年を記念するイベントも開催されるなど、古代史ファンの注目も高い。放送は、11月25日・夜10時30分からNHK総合にて。
 文/いずみゆか
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 日本人の祖先は、特に皇室は「日本国と日本人子孫の為に良かれと想い」命を賭けて祈り戦ってきた。
 子孫である現代日本人は、顔も見た事もない祖先が頼みもしないのに勝手にやっておきながら、それを「恩に着せられるのは大迷惑だ」と嫌っている。
 それが反天皇反日的日本人達である。
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 『日本書紀』とは、中華世界・中華帝国・中華皇帝に対する、日本国は日本天皇=帝(みかど)が統べる自主独立国である事を宣言する「正史」であった。
 『日本書紀』は、日本天皇による日本国統治の正統性を証明する歴史である。
 古代に編纂された歴史である以上、近代西洋歴史学に基づく事実ではなく、民族的思い込みの物語が含まれていても構わない。
 重要なのは、歴史的事実を探求する事ではなく、日本国家は独立国として中国帝国の支配を受けず、日本天皇は中国皇帝に対して対等の地位にあって臣下ではないと証明する事であった。
 つまり、自主独立国である事を世界に認めさせる事が目的であった。
 外交交渉を成功させる為ならば、真実ではなく、正しくなくても、多少の嘘、誇張・はったり、改竄・歪曲・捏造があろうとも許される。
 日本国が、臣下として属国・保護国を受け入れた朝鮮などとは違う独立独歩の道を歩き始めた「一里塚」である。
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 朝鮮の歴史は、中華世界の正員として、中国帝国の支配を受け、中華皇帝に忠誠を誓う臣下の歴史である。
 それは、琉球王国とて同じである。
 朝鮮国王も琉球国王も、中華皇帝から国王位を叙任される事で正統な統治者と認められた。
 日本天皇が、朝鮮国王や琉球国王と明らかに違うのは正統である。
 朝鮮国王や琉球国王の統治は、中国の政治・軍事・経済の影響を完全排除した主体性を持った自主独立国としての正統性ではなく、中国の絶対権力に屈服し中国の絶対権威から授かる受け身としての正当性であった。
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 中国の正史の原型は、司馬遷の「史記」である。
 正統史記は、滅んだ王朝史である。
 中国には、普遍宗教の絶対神による天地創造・人間創生の開闢(かいびゃく)神話や中華民族史や中国人物語はなく、あるのは儒教の徳価値観・正統史観に基づく非宗教の王朝興亡記録だけである。
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 毎日新聞
 「古事記」「日本書紀」同時期登場の謎(下) 出雲神話は「蘇我王朝」へのノスタルジー
 会員限定有料記事 毎日新聞2020年1月23日 15時00分(最終更新 1月23日 15時00分)
 伊藤和史
 なぜ、古事記日本書紀という二つの歴史書が並行してつくられたのか。日本古代史の重大問題への答えとして、「古事記は敗れた側の歴史を語る。勝者(天皇側)の日本書紀とは成り立ちが違う」と考える三浦佑之・千葉大名誉教授(古代文学)の新刊「出雲神話論」(講談社)を紹介した。
 さて、まるで方向の異なる大山誠一氏の出雲神話論にもぜひ触れたい。古事記日本書紀の神話を分析していくと「蘇我氏の王朝」の存在に帰結し、その過ぎ去った時代への郷愁の物語が出雲神話である、というのが大山説の眼目だ。著作としては、「神話と天皇」(平凡社・2017年)、「天孫降臨の夢~藤原不比等のプロジェクト」(NHKブックス・09年)に詳しい。【伊藤和史】
 乙巳の変は王朝交代のクーデター
 通説では、645(大化元)年、横暴を極めた蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子が中大兄皇子と忠臣の中臣(藤原)鎌足に滅ぼされた。この「乙巳(いっし)の変」を契機に大化の改新が始まるとされている。しかし大山説によれば、この暗殺劇の真の姿は、蘇我王家に対する中大兄側のクーデターにほかならない。
 蘇我氏奈良県の葛城地方を本拠とする豪族で、もともと葛城氏の配下にあったが、外交などで活躍し台頭したという。その蘇我氏の王朝の実在性については、中国の史書「隋書倭国伝」で当時の倭国王が男性であることの記載や、奈良県・飛鳥地域の考古学的実態、さらに日本書紀自体の記述でも蘇我氏が実質的に大王として描かれていることなどを論拠に、もはや疑いえない、と結論づける。
 こうしたことから、乙巳の変とは剣による王朝交代のクーデターにほかならず、その神話上の表現が同じく剣にものをいわせた「国譲り」だと導かれるわけである。
 天孫降臨は「藤原氏に都合のよい天皇制」創始の根拠
 「国譲り」と並ぶ日本神話の核心が、アマテラスの孫のニニギが地上支配のために高天原から降りてくる「天孫降臨」である。大山説では、この神話は、鎌足の息子不比等による草壁王家擁立の物語と説明される。
 天武天皇没後、妻の持統が政務を行ったものの、皇統の行方は不安定な状態にあった。それを天武・持統の息子である草壁皇子(早世のため即位せず)、草壁の子・軽皇子文武天皇)、文武の子・首皇子聖武天皇)と順次皇位につけていくという不比等の政治理念を神話化したものが天孫降臨神話というわけだ。その創作途上では、草壁早世といった予期しない事態も起こったため、物語の整備は段階を踏んで行われた。もちろん、そうした苦心の跡も神話に残っている。
 この創作により、天皇の神格化が達成される。ただし、天皇は権威はもっても権力をもつ存在にはなりえなくなった。実質的な支配権を握るのは天皇外戚である藤原氏であって、そういう「藤原氏にとって都合のよい天皇制」を創始するための根拠となる神話がつくられていったのである。
 こ…」
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 2020年7月号 正論「編纂から1300年『日本書紀』に学ぶ国難突破の処方箋
 久野潤
 現代にも通ずる指針
 昨年は令和改元という、誠にめでたき佳節(かせつ)であった。平成改元の折は自粛ムードを、当時8歳の小学生であった筆者も覚えている。この度は打って変わって、大変なお祝いムードで皇位継承そして元号の根拠でもある『日本書紀』編纂(養老4年=西暦702年)から1300年という年を迎えている。
 しかし、現存する我が国最古の正史『日本書紀』1300年にあたって、世間の盛り上がりは8年前の『古事記』1300年と比べてもイマイチと言えよう。
 …… 
 たとえば昨今の東アジア国際関係を見るにつけ、隣国の行動についての本質は『日本書紀』に描かれた時代から何も変わっていないことに気付く。ところが戦後の日本人は、その意義の一角から『日本書紀』を失うことで、国家の重大局面においても〝想定外〟だらけになり、そして日本人としてとるべき行動・心構えも忘却してしまったかのようではないか。これは、今回のような感染症拡大に際しても当てはまるのである。
 伊勢の神宮創建の由来
 『日本書紀』が伝える最初の国家レベルの感染症の事例は、2000年以上前の第10代崇神天皇の御代にさかのぼる。当時は御世替わりごとに遷都しつつ、その皇居内で天神地祇(てんしんちぎ)すなわち天上界と日本本土の神をお祀りしていた。それぞれを天照大神(あまてらすおおみかみ)と日本大國魂神(やまとおおくにたまのかみ)が代表する恰好である。崇神天皇5年(干支で換算すると西暦紀元前93年)疫病が発生して民の過半数が犠牲となり、翌年には『百姓(ほほみたから)流離(さすら)へ、或いは背叛(そむくもの)有り』(以下、『日本書紀』訓読は小学館『新編日本古典文学全集』シリーズ参照)という事態に陥った。
 ……
 仏教受容を機に『和の国』へ
 『日本書紀』で次に疫病の記述が見えるのは、まさに神道にもとづく祭祀が危機を迎えたかのような時期においてである。第29代欽明天皇13年(552)、朝鮮半島百済より仏像や経典が献上され、これが我が国への仏教公伝となる(『上宮聖徳法王帝説』など異説あり)。この外来宗教受容までの道のりは、教科書などで知られる通り平坦ではなかった。欽明天皇が群臣に下問したところ、天皇の政治を補佐する大臣(おおおみ)の蘇我稲目は、諸外国はみな仏を礼拝しているから日本もならうべきだと主張。しかし朝廷で軍事を担当する大連(おおむらじ)の物部尾輿中臣鎌子が、外来のものを信仰すれば日本古来の神々の怒りを招くとして仏像の礼拝することを断念される(藤原鎌足を輩出した中臣氏は、祭祀を担当する氏族であった)。
 試しに仏像を与えられた稲目は私邸に安置し、自ら修行も行い、寺院まで建立した。疫病が起こったのは、この時である。国中に蔓延し、しかも長引いたため若死にする人が『愈(いよいよ)多(おほ)く、治療(をさめいや)すること能(あた)はず』という惨状となった。これを見て尾輿・鎌子が改めて仏像を廃棄すべきと欽明天皇に奏上し、仏像は難波(なにわ)の堀江(現・大阪市の大川)に流し捨てられた。ところが、風もないのに皇居に大火災が起こったという。外来宗教をむやみに導入してはいけないという一方で、仏教を排斥することも神々は許さなかった、あるいはそのように解釈するよう望まれていることがうかがえよう。
 次いで第30代敏達天皇14年(585)、稲目の子で大臣の蘇我馬子が病気となった。馬子は仏像を礼拝し延命を願ったが、再び国中で疫病が発生する。この時は尾輿の子で大連の物部守屋や中臣勝海らが、先代から疫病が已(や)まず民が死に絶えようとしているのは、蘇我氏が仏教を信仰しているからに違いないと奏上。敏達天皇もこれを認めたため、守屋自身が指揮して蘇我氏の寺を焼き討ち、焼け残った仏像はやはり堀江に捨てられた。すると今度は雲もないのに大風が吹き、大雨が降った。さらに今度は悪性の天然痘で亡くなる者が国中に満ちあふれ、敏達天皇や守屋までが罹患した。そこで馬子は『三宝(さむぽう)』(仏教)の力に頼らねば治癒は難しいと上奏し、敏達天皇も馬子個人による仏教信仰を認めた。2年後に守屋と馬子との政争で敗死したのち、仏教は国家的に受容されることになる。
 『三宝』と聞いて、読者も推古天皇12年(604)制定の『十七条の憲法』第二条における『篤く三宝を敬(うやま)へ』を想起するのではないか。これは我が国へのあらゆる外来宗教伝来以前の信仰である神道の存在を自明のものとしたうえで、仏教との調和をもとめるものだ。同憲法第一条には、調和すなわち『和』を貴ぶべきと書かれているのは周知の通りである。
 ここで注意すべきは、蘇我氏による仏教受容の主張が、その教義解釈によってではなく『諸外国はみな仏を礼拝しているから』という理由であったと伝わっていることである。現代で言えば(雑駁{ざっぱく}ながら)グローバリゼーションあるいはTPP推進派のような立場となろうが、国際社会において国境のさまざまな垣根を必要以上に下げるリスクは多くの論者が警鐘を鳴らしてきた。現下の武漢ウイルス国別感染者数で、『グローバリゼーション発祥地』(エマニュエル・トッド)であるアメリカと、『大航海時代発祥地』ともいうべきスペインやイタリアが上位に入っているのが象徴的ではないか、ひりがえって最終的に日本で仏教が受け入れられたのは、往事(おうじ)の東アジア国際社会の趨勢が理由なのではなく、古来の神道と調和できたからに他ならない(その逆の例が、戦国~江戸時代におけるキリスト教であろう)。往事の度重なる疫病の発生・蔓延は当時、外来宗教を受容する際にも和の精神をもってせねばならないという神意と受け止められたことだろう。
 やがて日本が今次の武漢ウイルスを克服したところで、社会的な人間関係がギクシャクし、政治の場では悪者探しばかり行われ罵詈雑言が飛び交う国家になり果てていればどうであろうか。『日本書紀』に描かれた先人たちが、疫病を和の力で乗り越えたことにも学ぶべきである。
 疫病蔓延中にも隣国の脅威
 仏教論争に端を発した政争はいったん蘇我氏の勝利に終わったが、その後専横を極めた蘇我氏は第35代皇極天皇の御代、皇極天皇4年(645)乙巳(いっし)の変で中大兄皇子中臣鎌足らに粛清される。ここに始まる一連の政治改革が大化の改新と呼ばれるが、その皇極天皇重祚(譲位したのち再び即位)した第37代斉明天皇の御代に、『日本書紀』で再び疫病の記録が見える。斉明天皇6年(660)朝鮮半島百済が唐・新羅連合軍の攻撃で滅亡し、百済王子を擁立する遺臣たちが日本に救援を求めた。斉明天皇百済救援を命じ、さっそく瀬戸内海に面する難波宮(現・大阪市中央区)へ行幸して新羅征討の軍備を始めた。ところが前線目指して集結途上の軍船が、あらぬことか夜中に前後逆さにひっくり返っていたり、天にも届くほどの蝿の大群が標高1,500メートル以上の小巨坂({おおさか}現・岐阜─長野県境の神坂峠)を越えて西へ向かったりと不吉な前兆が続く。それでも斉明天皇は翌年早々に朝倉橘広庭宮({あさくらたちばなのひろにわのみや}現・福岡県朝倉市)に遷幸(せんこう)した。ところが、近くの朝倉山の木を木材にしたことで神の怒りを買って宮殿が倒壊し、さらに宮中に鬼火が現れて役人や近侍の多くが病気で死んでいった。同年7月には斉明天皇崩御し、百済救援は頓挫。翌月難波へと戻るその柩を、大笠を着た鬼が朝倉山上から見下ろしていたと伝わる。
 天智天皇2年(663)、第38代天智天皇は再び百済復興のため日本海を越えて出征したが、白村江の戦いで大敗している。斉明天皇の命まで奪った先の疫病は、隣国に与する何者か(鬼)の妨害であったのか、はたまた出征の時期ではないとの神からの警告であったのか。いずれにせよ当時から、大量の亡命者流入や疫病といった日本側の非常事態を斟酌(しんしゃく)してくれるほど東アジア国際情勢も甘くなかったということになる。
 武漢ウイルス感染拡大のさなか、本年1~4月における中国公船の領海侵入は延べ28隻で、尖閣諸島沖の接続水域侵入にいたっては381隻にのぼり、過去最多を記録した昨年の同時期286隻をはるかに上回るペースとなっている。(5月17日付『時事通信』)。先人たちが疫病への対応中にも警戒を怠らなかった時代と同じく、中国は日本からのマスク大量支援などといった善意に応じる国ではないのである。
 『日本書紀』の教訓を取り戻せ
 ここまでの話を、単なる昔の日本人だけの作法なのだと笑い飛ばすわけにはいかない。武家社会成立後に仏教が庶民に浸透してゆき、特に江戸時代は幕府により儒学が公式の学問とされ、仏教が統治の一翼を担っていたため、『日本書紀』にもとづく価値観・歴史観がある面では失われかけた。しかし同じ江戸時代にいわゆる国学が興り、幕末の国難を乗り越える際にその精神を取り戻したおかげで、国家の再統合による近代化にも成功している。これは権力者による政策のみならず、国民一般の〝下からの力〟なくしてはなし得ないことであった。そのクライマックスが、神武天皇による建国から2600年の節目にあたるとされた昭和15年(1940)の紀元2600年奉祝であろう。これは戦後、その根拠となった『日本書紀』否定と相まって、軍国主義の産物であるように評価される事が多い。しかぢ当時の大日本帝国陸海軍も、たかだか数十~百年レベルのイデオロギー次元を越えて、自分たちの建国以来2000年以上の歴史を背負って戦っているのだという矜持をもっていた。
 大東亜戦争期、たとえば前出の天照大神伊勢の神宮)や日本大國魂神({やまとおおくにたまのかみ}大和神社{おおやまとじんじゃ})がそれぞれ戦艦『伊勢』そして世界最大の戦艦『大和』の艦内神社として分霊されお祀りされたことも象徴的である(艦内神社については、拙著『帝国海軍と艦内神社』祥伝社、平成26年参照)。また当時の日本人の多くも、『日本書紀』に記されたことをかならずしも字面だけ教条主義的な信奉していたわけではなく、何より古代から継承され続けてきたことの方を尊いと考えていたのではないか。國學院大學出身の特攻隊員であった山口輝夫海軍少尉の遺書(抜粋)にも表れているだろう。

 実に日本の国体は美しいものです。古典そのものもよりも、神代の有無より、私はそれを信じて来た祖先たちの純心そのものの歴史のすがたを愛します。美しいと思います。国体とは祖先たちの一番美しかったものの蓄積です。実在では、我国民の最善至高なるものが皇室だと信じます。私はその美しく尊いものを、身を以て守ることを光栄としなければなりません。(北川衛編『あゝ特別攻撃隊徳間書店、昭和42年より)

 現今の歴史教育の影響で、日本人が昭和天皇による昭和21年(1946)元日の詔書、いわゆる『人間宣言』で『古事記』『日本書紀』の神話から解放されたと考えるのは大いなる誤解である。
 その詔書では『朕(ちん)ト爾等(なんじら)国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依(よ)リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非(あら)ズ』、すなわち皇室の根拠として、神話だけでなくてその歴史上一貫して国民との信頼関係が重要であることが述べられ、また天皇が神の子孫であるということも否定されていない。にもかかわず、戦後の日本人は自ら『日本書紀』を、その貴重な教訓ごと封印してしまっていたのである。
 ……1300年後これだけ見た目が変わり果てた社会においても、変わらず皇室が存在し、間違いなく皇位継承が行われ、『日本書紀』に記された神々が全国の神社でお祀りされ続けているからである。
 ……本稿で悠長な精神論ではなく、異形の感染症対応に追われる現場の方々をも無にしないための、日本再生への実践的提言と受け取られることを切に願う。」
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 現代日本は、正史『日本書紀』を否定している。
 ちなみに正史『日本書紀』では、女性は男性と同権かもしくは男性よりも上位者とされている。
 日本の最高神は女性神天照大神であり、天照大神は現皇室の祖先神である。
 日本天皇の正統性とは、女性神天照大神を源とする直系の血筋・血統と男系の皇統という民族中心神話・天孫降臨神話・高天原神話である。
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 日本には、私欲・俗欲・強欲な政治権力と宗教権威、そして神聖不可侵の清明天皇の御威光が存在していた。
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 日本列島には、民族中心神話・天孫降臨神話・高天原神話が隅々まで息づいている。
 日本民族日本人は、惟神(かむながら、かんながら)の道を心の支えとして生きてきた。
 惟神の道とは、絶対神を信仰する宗教ではなく、八百万の神々を念(おも)い祈る宗教である。
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 現代日本人の歴史理解力では、敗者の滅びの物語を含む倭(やまと)の『古事記』を読めても勝者の正統性を主張する日本国の正史『日本書紀』は読めないし、ましてや北畠親房の『神皇正統記』や徳川光圀が編纂を命じた『大日本史』は理解不能である。
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