☵40〕─3─韓国原発の汚染水や放射性物質が日本を直撃する。~No.325 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2021年3月29日 MicrosoftNews zakzak「放射能が日本直撃!? 韓国の“原発危機” 「ケンチャナヨ運転」で世界トップ水準と妄信 12年の事故の損傷、未だに復旧せず
 日米の外務、防衛担当閣僚による安全保障協議委員会(2プラス2、16日)では、「日米韓の連携強化」が確認された。ただ、数々の「反日」暴挙を放置してきた文在寅ムン・ジェイン)大統領率いる韓国を、そう簡単に信用することはできない。そもそも、25日に聖火リレーがスタートする東京五輪についても、隣国は最近まで「放射能五輪」などと揶揄(やゆ)してきた。ところが、何と韓国の原子力発電所自体が危険だという。ジャーナリストの室谷克実氏が衝撃の事実に迫った。
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 韓国の原発が危ない。原発技術そのものの低さ、不良部品の採用、オペレーターの未熟さと、危険不感症による「ケンチャナヨ運転」(=まあいいや運転、大丈夫運転)などが重層的に積み上がっているからだ。
 韓国の原発は、釜山(プサン)市周辺に密集している。大規模事故が起きたら、日本列島は偏西風に乗った放射能に直撃される。どんな対策を講ずればいいのか、見当すら付かないが、日本政府部内から「韓国の原発の危険性」を指摘する声がまったく聞こえてこないのは不可解極まりない。
 韓国の経済界と保守系紙は、「韓国の原発技術は世界トップ水準」という“神話”に膠着(こうちゃく)されている。誰かが言い始めたウソを何十回も書いているうちに、すっかりその気になってしまっているのだ。
 反日派が「朝鮮の少女が日本軍に強制連行されて慰安婦になった」と大声で叫んでいるうちに、学術的疑問すら拒否する“慰安婦神話”が出来上がったのと同じメカニズムだ。
 韓国の原発国産化率は6割程度だ。核心部品は国産化できていない-。この1点だけ見ても「原発技術は世界トップ水準」とは大ウソと分かりそうなものだが、“神話”にドップリ漬かっていると分からないらしい。
 中央日報(2021年3月9日)の「韓国原発、大規模な地震津波・戦争でも安全」という見出しの記事の背後にも“神話”が脈打っている。
 昨年9月には、台風14号の影響で、韓国の原発24基のうち、13基が停止した。発電所内部と周辺の送受電線に海水の塩分が付着したためだ。原発は冷却水排出のため、海岸線に造られる。だから塩害防止措置は基本中の基本だ。が、事実として塩害から守れなかった。
 ところが、台風の直後、中央日報(20年3月10日)は「原発が自動で停止したのは正常稼働していること」とするソウル大教授の見解を伝えた。
 19年5月のハンビッ原発事故では自動停止しなかった。「10日午前10時30分。制御棒制御能力測定試験中に原子炉の熱出力が事業者の運営技術指針書制限値の5%を超過して約18%まで急増。午後10時2分になってようやく原子炉を手動停止」
 これも中央日報(19年5月21日)の記事だ。あの時に比べたら「正常」とでも言いたいのだろうか。
 19年の記事には、「関連免許がない職員が制御棒を操作した」「当時の現場運転員は関連規定を熟知していなかった」とある。驚くべき危険不感症、「ケンチャナヨ運転」が行われているのだ。
 文政権は「脱原発」を掲げながらも、「韓国の原発技術は世界トップ水準」という“神話”は否定していない。それで、「優秀な韓国原発の購入を」と世界でセールス活動をしている。その点、左翼紙ハンギョレは“神話”を明確に否定している。
 「台風のたびに原発不安」(21年3月12日)は、中央日報の「…戦争でも安全」の記事を完膚なきまでに打ちのめしている。
 長文のため紹介しきれないが、例えば、「12年に月城(ウォルソン)1号機に濾過(ろか)排気装置を設置するための基礎工事の過程で、使用済み核燃料プール下部の遮水幕に穴が開く事故が起きた。この損傷部はいまだに復旧されていない」。読むほどに背筋に冷たいものを感じる。
 文政権の「韓国内での脱原発」は、廃炉第1号決定過程での経済性データの捏造(ねつぞう)疑惑、風力・太陽光など電力補完策の失敗で揺らいでいる。
 日本政府はとりあえず、「危険な韓国原発」をしっかり監視し、その結果を随時、日本国民に公表すべきだろう。(室谷克実)」
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🎍29〕─2─聖武天皇は自然災害の「責めは予(われ)一人にあり」との詔を宣布した。自然災害は神の天罰。~No.91 

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 聖武天皇は、天下を騒がせ民草を苦しめる政変、旱魃、飢饉、地震、疫病などの災厄は自分にあり、「責めは予(われ)一人にあり」との詔を宣した。
 天譴(てんけん)論=天罰。
 天皇の譴責(けんせき)。
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 文帝「罪人が出るのは、朕の徳が薄くて、教化が明らかでないからであろうか。罪人に肉刑を与えてどうして民の父親と言えようか。肉刑を廃止せよ」
 聖武天皇(文帝の治世に日食が起こった事に関して詔「朕は聞いている『天が万民を生じ、これがために君をおいて養い治めさせる。人主が不徳で、その施政が公平でないと、天は災いを示してその不治を警告する』と。ところで、この 11 月に日蝕があったが、これは譴責(けんせき)が天に現れたのである。これより大きな災いがあろうか。天下の治乱の責めは朕一人にある。ただ、2,3の執政の大臣がいるが、これはわが股肱のごときものである。朕は、下は万民を治め養う事も出来ず、上は日・月・星の三光の明を煩わせている。その不徳は大きい。この令状が至ったならば、みなみな朕の過失、知見の至らざる点、思慮の行き届かぬ点について考え、朕に告げよ。また、賢良方正の士でよく直言・極諌する者を推挙して、朕の及ばざる点を匡正せよ。・・・・・』」
 聖武天皇「春より旱天が続き、夏になっても雨が降らない。百川は水を減らし、五穀は実を萎ませたままである。誠に朕が不徳の致すところである。百姓に何の憂いあってか甚だしき憔悴に至るや。・・・また京と諸国において冤罪と主張し続けるものあらば、詳細に記録し報告せよ。また、放置されている白骨や遺骨が有れば埋葬し、民は酒を断ち、牛馬などを屠殺を禁じよ。高齢の徒、自存出来ぬ者にはしかるべく賑給せよ。なを天下に大赦を与える。但し、群れを成す強盗犯、受託収賄せる官人、納税物横領者、贋金造り、などを除き悉く免罪とする。」
 「今、疫病と旱魃が同時に起こり、田も苗代も干からびてしまった。そこで除災を願って名山大川・天神地祗に祈りを捧げたが、霊験は現れず、民は今に至っても苦しんでいる。実は朕の不徳がこの災禍を招いた。よって寛大な仁徳の施策を行って民の苦患を救おうと思う・・・」だ
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 キリスト教における自然災害の解釈は、昔は絶対神による罪人に対する天罰とされた。
 不運に死んだ善人の救済とは、父なる神の御光によって魂が天国・神の王国に召され、永遠の命を得る死後の楽園で生きる事とされた。
 つまり、天災で死ぬ事は不幸ではなく喜ばしい事であると、された。
 肉体とは、父なる神が土地・塵芥から創った器に過ぎない。
 人は生まれる前から、強者か敗者か、成功するか失敗するか、金持ちか貧乏人か、生きるか死ぬか、全ては絶対神によって運命が定められている。

 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
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 荻原井泉水(明治17{1884}年~昭和51{1976}年)「天を楽しむとはさ、天より自分に与えられたことを凡(すべ)て楽しとして享受することである。……雨がふるならば、その雨もまた楽しとする気持ちである。禅の言葉に『日々(にちにち)これ好日』という。この心境である。考えてみるまでもなく、今日、ここに私というものが生きて息をしていること、このことだけがすでに大きな天の恵みではないか。……人間はたえず成長していなければならない……70になっても、80になっても、成長しているべきものだ。長寿ということは、即ち生長ということなのだ。生長なき長寿はナンセンスである」『益軒養生訓新説』
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 日本の凶暴な自然災害に比べたら、如何なる戦争も子供の火遊びに過ぎない。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
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 2021年4月4日号 サンデー毎日五木寛之のボケない名言
 津波てんでこ  ──三陸地方の伝承
 『自己責任』の重さとつらさ
 10年を過ぎても東日本震災の記憶は消えない。天災か人災か、今後も長く議論されることだろう。
 『津波てんでこ』
 という言葉が、深い悔恨(かいこん)とともにふたたび語られた。三陸地方に言い伝えられてきたという、古人の戒めである。
 激烈な災害時に、家族、知人、近隣の人びとの安否を気づかうのは、人情というものである。相互扶助の心なくしては人間社会は成りたたない。しかし、おのれの脱出よりも他者の安全を気づかうあまりに、もろ共に犠牲になった人びとの数も少なくなかった。
 『てんでんこ』とは、『それぞれに』『各自の判断で』行動せよ、という深い体験からの言い伝えである。
 それは無闇とお上の指示にしたがうだけでなく、自己判断で行動せよ、という庶民・大衆の覚悟ではないかと思う。
 私の郷里である九州でも、同じような表現があるのが不思議だ。『てんでん勝手にやればよか』などと言う。その『てんでん』には、自由気ままに、ではなく『自己責任において』というニュアンスがある。
 東北と九州で同じ方言が残っているのは、不思議なことだ。
 仏教でいう『自利利他』の教えが残っているのだろうか。いや、重い体験からの民衆の智慧かもしれない。痛みを乗りこえての名言であると思う。」
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 江戸時代。徳川幕府は、約10万人が犠牲になった振袖火事(明暦の大火)の跡始末として、思いつく限り、考えられる限りの手だてで町の防災と復興、被災民の救済と救護に全力を尽くした。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
 日本は、異種異文の朝鮮や中国を差別して排除し、同種同文に近い琉球人とアイヌ人を同化させた。但し、特権を有していた高級知識階級の久米三十六姓は区別し差別した。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 日本民族集団主義は、中華や西洋とは違い、共感と共有のる運命共同体である。
 日本には、西洋的ボランティアがいない。
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 2019年11月14日 産経新聞天皇と国民つなぐ祭祀、大嘗宮の儀 「災害はらう」古代から継承
 14日夜に始まった大嘗祭(だいじょうさい)の中心的儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」は皇位継承に際し、最も重要とされる儀式で、7世紀後半以降、中断を挟みながらも歴代天皇により継承されてきた。専門家は「天皇と国民をつなぐ祭り」「現代に通じる自然災害をはらう祈り」といった意義があると分析する。
 天皇陛下は即位した5月1日に「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」で皇位継承の正統性を示し、10月22日の「即位礼正殿(せいでん)の儀」で即位を国内外に宣明された。しかし、皇室研究者で神道学者の高森明勅(あきのり)氏は、大嘗祭を除くこれらの皇位継承儀式に欠けるのが「民との接点」と指摘し、大嘗祭に際して納められる米に着目する。
 高森氏によると、時の天皇が臨む例年の「新嘗祭(にいなめさい)」では前近代の場合、都を取り巻く畿内(大和、山城、河内、和泉、摂津)の官田(かんでん)(天皇の田)の米が使われるのが原則だった。これに対し、平安時代に編集された法令集延喜式(えんぎしき)」では、大嘗祭の米を「民の耕作する田」と規定。畿外の一般民衆の田が、亀の甲羅を使った占い「亀卜(きぼく)」によって選ばれた。「天皇と民が、稲作を媒介としてつながるのが大嘗祭。すべての民の奉仕を象徴するという位置づけで、日本人が日本人としての同一性を御代ごとに確かめる祭儀ともいえる」(高森氏)
 米の供納に関し、天皇と国民の従属的な関係を表すという指摘もあるが、高森氏は「大嘗祭の成立以来、天皇は国家の公的統治の体現者であり、専制君主だったことはない。階級闘争史観の先入観を持ってみない限り、強権支配の表れとみるのは見当違い」との見方を示す。
 国学院大名誉教授の岡田荘司氏は、大嘗祭の意義を「古代の衣食住への回帰」にあるととらえる。岡田氏は「清浄」を保つために新設される大嘗宮について、かつての天皇の居住空間を再現したものとみる。神々に供する米などは柏の葉で作られた簡素な器に盛られ、陛下が身につけられる「御祭服(ごさいふく)」も粗い絹が用いられる。
 「現代と比べ厳しい状況にあった衣食住の環境下で、陛下が自然が鎮まるよう祈られる。近年は国内でも災害が続くが、日本国中に住む人々の祈りを、天皇の立場で共有するところに現代的な意味がある」。岡田氏はこう分析する。
 宮内庁は陛下が五穀豊穣(ほうじょう)を祈られる「御告文(おつげぶみ)」の内容を明らかにしていない。ただ、これまでの研究で判明している過去の大嘗祭御告文では、自然災害を被らないよう祈る言葉は共通しているという。
 国学院大学研究開発推進機構長の武田秀章氏は、平安時代に東北地方を襲った貞観地震(869年)の際、当時の清和天皇が救済のための詔(みことのり)を出した例などを挙げ、「被災者への気持ちは東日本大震災などにおける皇室のなさりようと同じ」と指摘。今回の大嘗祭での御告文の内容も継承されていると推測し「自然の恵みを祈り、災いを未然にはらう歴代天皇の祈りが凝縮されているのではないか」と話した。(伊藤弘一郎、篠原那美)」
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 YAHOO!JAPANニュース
 度重なる感染症と自然災害で生まれた奈良時代平安時代の文化と制度
 福和伸夫 | 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
 2020/6/1(月) 7:30
 災禍と歴史
 新型コロナウィルスの感染拡大の中、過去の感染症や自然災害を調べるようになりました。海外では、14世紀の黒死病(ペスト)とルネッサンスコロンブスアメリカ大陸発見と天然痘による16世紀のアステカ文明やインカ文明の衰退、18世紀のリスボン地震ポルトガルの衰退、アイスランドラキ火山噴火による飢饉とフランス革命、1918年の第一次世界大戦終結スペイン風邪など、大規模な感染症拡大や自然災害は、世界の歴史と密接な関係があるように感じられます。そこで、日本の歴史についても調べてみました。今回は、手始めに、奈良時代平安時代感染症と自然災害について考えてみます。
 天平時代の天然痘地震天平文化
 729年から749年まで続いた聖武天皇が治めた天平は、奈良時代の最盛期で、天平文化が花開きました。一方で、地震や疫病の大流行がありました。734年5月18日には、畿内七道を揺るがす地震が起きました。生駒断層の活動が疑われており、誉田山古墳の一部が崩壊しました。その直後、735年から737年には、天然痘と思われる疫病が大流行しました。総人口の3割前後が死亡したとも言われます。この疫病で、藤原不比等の息子4人兄弟(藤原武智麻呂藤原房前藤原宇合藤原麻呂)が病死しました。735年に大宰府に帰国した遣唐使や、新羅使が平城京に疫病を持ち込んだ可能性があります。
 地震や疫病、飢饉に悩んだ聖武天皇は、仏教の力を借り、国分寺国分尼寺を各地に作らせ、その総本山の東大寺法華寺を建て、大仏を建立しました。多くの農民が命を落としたため、743年には、農業振興のため墾田永年私財法を制定し、農地の私有化が図られました。直後の745年6月5日には、天平地震が発生しました。この地震は養老断層が活動したもので、養老断層は、1586年にも天正地震を起こしています。
 天平文化成立の裏には、感染症と大地震があったようです。ちなみに、節分のときに行う豆まきは、宮中で行われた追儺に起源があるそうです。疫病を持ち込む鬼を国外に追い払うために行われたと言われ、8世紀に始まったそうです。天平の疫病との関りが想像されます。
 貞観の時代の疫病・地震・噴火と摂関政治・国風文化
 859年から877年まで続いた貞観時代には、富士山の噴火、疫病、京都での洪水や飢饉、東北地方の大震災などが続発しました。藤原良房摂関政治が始まった時代でもあります。
 861年5月24日に、福岡県の直方に隕石が落下します。目撃記録が残る世界最古の隕石のようです。863年7月10日には、越中・越後で地震が起きます。同年には、都でインフルエンザと思われる疫病が蔓延し、終息後、霊を鎮めるため神泉苑で御霊会が開かれました。翌年864年7月2日には、富士山が大噴火します。貞観噴火と呼ばれる割れ目噴火で、青木ヶ原を溶岩が埋め尽くしました。866年には、応天門の変が起き、伴氏が滅亡して、藤原良房が摂政に就き、摂関政治が始まります。868年8月3日には播磨国地震が発生します。山崎断層が活動したようです。869年7月13日には、東日本大震災とよく似た貞観地震が発生し、大津波が東北の拠点・多賀城を襲いました。この年に神泉苑に当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈りました。これが、祇園祭の起源になりました。
 翌年870年に菅原道真が方略試を受験しました。問題は、「明氏族」「弁地震」の2問で、地震について弁ぜよとの問いに対し、道真は中国で張衡が発明した世界初の地震計の地動儀のことを答えて合格します。そして、871年に鳥海山、874年に開聞岳が噴火しました。
 元慶時代になっても、878年11月1日に関東地震が疑われる相模・武蔵地震、880年11月23日に出雲の地震が、さらに仁和時代になって、887年8月2日に京都の地震、8月26日に南海トラフ地震の仁和地震が発生します。まさに、大地動乱の時代でした。その後、894年には、菅原道真の意見で、遣唐使が廃止されます。901年に道真は大宰府に左遷され、903年に落命します。こういった中、日本独自の国風文化が芽生えていきました。
 11世紀末の疫病・災害・改元武家社会の到来
 10~11世紀、清少納言紫式部などが登場して王朝文化が花開く中、疫病が頻発しました。大都市・平安京は地方と交易が多く、密集した社会で疫病が感染しやすい環境でした。11世紀末には、1096年12月17日に永長東海地震、1099年2月22日に康和南海地震南海トラフ地震が続発します。この時期には、災異改元が何度も行われました。
 古事類苑の歳時部によると、1095年の寛治から嘉保への改元は疱瘡、1097年の嘉保から永長への改元は天変と永長東海地震、同年の永長から承徳への改元は天変と地震、1099年の承徳から康和への改元は康和南海地震と疾病によるとあります。たった4年間に4度も災異改元があり、原因は感染症地震でした。この時期は、院政が始まった時代で、末法思想も広がったようです。
 嘉保への改元以降の100年間に、改元が38回も行われ、そのうち災異に関わる改元は27回を数えます。うち、疾疫や疱瘡に関わる改元が12回、地震に関わる改元が4回あります。日本は、大化以降、1375年間に248の元号を持ち、疾疫や疱瘡が関わる改元は42、地震が関わる改元は25あります。100年平均で、18の元号を持ち、疫病に関係する改元は3.1回、地震に関係する改元は1.8回です。平安時代後期の疫病による改元の多さは異常です。この時代、平治の乱保元の乱が起き、武士が台頭し、その後、平清盛源頼朝の時代へとつながっていきました。
 災禍を乗り越え、新たな文化を作ってきた奈良や平安の先人の苦労が思い浮かびます。
 福和伸夫
 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
 建築耐震工学や地震工学に関する教育・研究の傍ら、地域の防災・減災の実践に携わる。民間建設会社の研究室で10年間勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科で教鞭をとり、現在に至る。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。
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 エホバの証人
 聖書の見方
 神は自然災害を用いて天罰を下されますか
 神が自然災害を用いて天罰を下すと信じる人もいれば,そんなことはないと考える人も​います。どちらか分からない,という見方もあります。ある宗教学教授はこう述べてい​ます。「ほとんどの宗教伝承によれば,自然災害が神意によるものかどうかはだれも断言できない」。
 しかし聖書は,納得のゆく答えを与えています。神が自然災害を用いて天罰を下すかどうかを明らかにしているのです。さらに,多くの人の苦しみの原因も明らか​にしています。
 聖書の記録から分かる一定のパターン
 聖書は,エホバという神に関する二つの基本的な真理を教えています。一つは,神は創造者であるゆえに地球の自然力を制御する力と権威をお持ちである,という真理です。(啓示 4:11)もう一つは,神の行動は常に神の性格や特質や原則と調和している,という真理です。神はマラキ​3章​​6​節で,「わたしは​エホバであり,わたしは変わっていない」と​述べておられます。では,これらの点を念頭に置き,過去の二つの出来事を考えてみましょう。洪水と干ばつです。聖書の記録を見ると,神は自然力を用いて裁きを執行する時​に必ず(​1)警告を与え,(​​2)理由を示し,(​​3)従順な人々を保護なさる,ということが​分かります。
 ノアの時代の洪水
 警告を与える。
 洪水より何十年も前に,エホバはノアにこうお告げになりました。「わたしはいま,地​に大洪水をもたらして,……すべての肉なるものを……滅ぼし去ろうとしている」。(創世記 6:17)「義の伝道者」ノアは人々に警告しましたが,人々は「注意しませんでした」。―ペテロ第二​ ​2:5。マタイ24:39。
 理由を示す。
 エホバはこう言われました。「すべての肉なるものの終わりがわたしの前に到来した。彼らのゆえに地は暴虐で満ちているからである」。――創世記 6:13。
 従順な人々を保護する。
 エホバはノアに,洪水を生き残るための箱船の建造に関する詳しい指示をお与えになり​ました。「ノア,および彼と共に箱船の中にいたものだけがそのまま生き残(り)」ました。―創世記 7:23。
 イスラエルでの干ばつ
 警告を与える。
 エホバがイスラエルに厳しい干ばつをもたらされる前に,預言者エリヤはこう布告しました。「[神の]言葉の命令によらなければ,ここ何年間かは露も雨もないでしょう!」―列王第一17:1。
 理由を示す。
イスラエルが偽りの神バアルを崇拝したため,エホバは行動を起こされました。エリヤ​はこう説明しています。「あなた方はエホバのおきてを捨て,あなたはバアルに従って行った」。―列王第一18:18。
 従順な人々を保護する。
 エホバは干ばつの間ずっと,従順な人々に食物をお与えになりました。―列王第一17:6,14; 18:4; 19:18。
 パターンから明らかなこと
 人々が災害で苦しむのは神のせいではない
 現代においては,人類を罰するために自然災害が用いられているとは言えません。公正​の神エホバは,これまで一度も「義人を邪悪な者と共にぬぐい去(った)」ことがありません。(創世記​18:23,25)従順な人々を守られました。しかし,現代の自然災害は男女​子どもを無差別に苦しめています。
 ですから,現代の自然災害は聖書に記録されている神の介入のパターンとは一致しませ​ん。さらに,そうした無差別な災害は神の性格と調和しません。ヤコブ1章​​​13​節が述べるとおり,神が悪い事柄を用いて人に試練を与えることはなく,ヨハネ第一 ​4章​​8​節にあるとおり,「神は愛」だからです。罪のない人々が暴風雨や地震などで苦しむのは,神のせいではありません。では,そうした災害はいつかなくなるのでしょうか。
 苦しみはなくなる
 エホバ神は,人類が自然災害に悩まされることを意図してはおられません。人間が平和​な地上で永遠に生きることを願っておられます。近い将来,ノアの時代と同じく,悪を除き去るために地上の物事に介入されます。それで,これまでと同様に事前の警告を発し,世界中で警告の音信を伝えさせておられます。生き残る機会を人々に与えるためです。―詩編 37:9,11,29。マタイ 24:14。
{考えたことがありますか
 ・神は人々を罰するために自然災害をお用いになりますか。―ヤコブ 1:13。
 ・神は罪のない人を滅ぼしたりはされない,とどうして言えますか。ヨハネ第一​4​:8。
 ・災害による苦しみはなくなりますか。―啓示 21:4。}
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 情報・知識&オピニヨンimidas
 圧倒的な死に日本人はどう向き合ってきたか
 死者と生者、この世とあの世との霊魂観をつなぐもの
 川村邦光大阪大学名誉教授)
 2011/06/10
 東日本大震災では多くの命が失われ、いまだ生死も定かでない人たちが大勢いる。「圧倒的な死」を前に、人は何ができるのか? 歴史と習俗を通して私たち日本人の死生観を、もう一度見直してみたい。
 震災は天罰か?
 東日本大震災が起きてまもなく、これを「天罰」だと言った政治家がいた。なるほど地震津波などの天災や自然災害は、歴史をさかのぼれば、かつて天罰(神罰・仏罰)とみなされたことがあった。この国の神話・伝説において、「天罰」を下した神もいないわけではないが、むしろ天災はもっぱら怨霊や無縁仏、成仏できない霊によるものとされた。また、儒教思想などの影響により、為政者はこれを「自らの不徳によるもの」と表明することもあった。
 たとえば奈良時代聖武天皇は、地震旱魃(かんばつ)、疫病の流行など、自分が即位してからの相次ぐ災いに対し、神々を祀(まつ)り祈祷をしたが、いまだ効果が現れず、人民が苦しんでいるのは、朕(ちん;天皇の一人称)の不徳による、という自責の詔(みことのり;天皇の命令、宣言)を出した。そして、741年、仏教の力にすがってこれを治め防ごうとして、全国に国分寺国分尼寺の建立を命じ、次いで2年後、大仏造立に着手したのである。天災を人民の不徳による天罰とするのは、当時であれ現代であれ、為政者としての資質にまったく欠けていると言わざるを得まい。
 死者への悼みと祈り
 今回のようなおびただしい被災死者に対して、生者がなしえるのは、死者に思いをはせ弔うことだろう。かつて行われていた弔いの作法を振り返ってみるなら、死者を思いやり、死者と生者がともに悲哀を分かち合おうとした、この国の人々のつつましやかな心根を知ることができよう。
 今から800年ほど前、源平合戦で国中が乱れた養和(1181年)のころ、戦乱の京都をはじめとして、諸国では旱魃や台風・洪水などにより大飢饉(ききん)となり、疫病がそれに追い打ちをかけて、さらに大地震、山崩れ、津波といった災禍に見舞われていた。鴨長明の「方丈記」によれば、都では2年続きの飢饉により、数えきれない餓死者の遺体が街路や河原にあふれていたが、片づけられることもなく腐れ果てていった。これを見かねた仁和寺の隆暁法印(りゅうぎょうほういん)という僧が、仲間の僧侶とともに遺体の額に大日如来を表す梵語の「阿(あ)」の字を記して回ったという。その数4万2300余り。この僧は、おびただしい被災死者たちを悼みながら、一人ひとりをねんごろに埋葬することはできないが、せめてこの字によって仏との縁を結び、仏に導かれて成仏することを願ったのである。これは今回のおびただしい看取(みと)られない「死」にも、何らかの参考になりはしないだろうか。
 また、源平合戦より少し前の12世紀初め、奥州藤原氏の初代清衡(きよひら)は、中尊寺建立に際し、鐘楼を建てて大きな鐘を掛けた。1126年に清衡が記したとされる「中尊寺建立供養願文」によれば、この鐘の鳴り響く限り、戦で倒れた敵味方の区別なく、果ては人が命を養うために殺生した鳥獣魚介に至るまで、仏の慈悲と救いにより浄土へ導かれることが祈念されている。このような「あらゆる生き物の霊魂はすべて平等だ」とする霊魂観は、日本人の特徴であり、今回の震災でも、飼われていた牛馬や犬猫ばかりでなく、水族館の魚類などの死さえも悼む人々に違和感がないのは、私たちがこうした心性に支えられているからである。
 弔いの風習
 一般に、大規模災害の被災死者は無機質な数字で表されるが、そこから死者や生者の悔しさ、無念さはにじみ出てこない。むしろ死者を標準化してしまい、生者を鈍感にする。死者は生前おのおの個別の名前を持ち、それぞれの生を送っていたがゆえに、その名を呼ばれ、悼まれ、記憶されることを望んでいよう。それが弔いの基本となる。こうした思いに基づく弔いの作法は、今日に至るまで培われてきた。災難死者は命を途中で断たれた者であり、非業の死を遂げたとされた。生者はその無念の死に思いをはせて悼み、鎮魂や供養の儀礼を執行し、歌舞音曲をもって慰め、また供養碑を建立して記憶にとどめ、後世に伝えようとした。それは今日民俗行事や郷土芸能として存続し、多くの供養碑や鎮魂碑として各地に残されている。
 たとえば今回の被災地東北には、「イタコ」「オガミサマ」などと呼ばれる巫女(みこ)が死者の霊を呼び寄せ、その思いを語らせる「口寄せ」の風習がある。また、未婚の者が亡くなった場合、山形では婚礼(ムカサリ)の光景を描いた「ムカサリ絵馬」の奉納が、青森では花嫁・花婿人形の奉納が行われている。あの世で結婚式を挙げさせて、若くして亡くなった死者の霊を弔うのである。この風習は「冥婚」と呼ばれ、地域を越えた広がりを見せている。ここには、死してもなお霊魂は成長するという霊魂観がある。
 弔いと芸能
 日本では、お盆(盂蘭盆会)になると死者の霊が供養され、盆踊りが各地で催される。岩手県では、「鹿踊り(ししおどり)」や「剣舞(けんばい)」(鬼剣舞)、福島県では「念仏踊り」などの芸能が、多くの地域で弔い法として行われている。これらは主に若者たちが担い、特に新盆の家々を門付け(かどづけ)して巡り、新しい精霊の成仏を願って舞い踊る。
 民俗学者折口信夫によると、若者たちが念仏踊りを懸命に行うことが、早世した者や非業の死を遂げた者の霊魂も成長・成熟させ、往生へと導くとしている。ここにも、死してなお霊魂が成長するという霊魂観が見られる。死者と生者、この世とあの世とは、自らの成長・成熟プロセスにおいて、ともに連携し共存しているのである。
 このような霊魂観は、もはやそれとは意識されないほどに薄らいでいるかもしれない。しかし、今回の被災により、いくつかの郷土芸能が存続の危機にあるとも言われる今だからこそ、連綿と受け継がれてきた民俗行事や郷土芸能の中にひっそりと息づく、こうした弔いの作法を改めて見直し、実践してみるよい機会となるのではないだろうか。
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☴4〕─5─東アジア反日武装戦線(狼)と在日朝鮮人、韓国。~No.15 ② 

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 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
 何時の時代も、天皇家・皇室は国内外の敵に狙われ存続の危機にあった。
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 “狼”、“さそり”、“大地の牙”ら東アジア反日武装戦線が行ったテロに共感する反天皇反日的日本人達。
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 2021年3月28日 MicrosoftNews ハーバー・ビジネス・オンライン「なぜ彼らは連続企業爆破事件を起こしたのか。東アジア反日武装戦線に迫る『狼をさがして』キム・ミレ監督インタビュー
 © ハーバー・ビジネス・オンライン キム・ミレ監督
 ◆東アジア反日武装戦線に迫った『狼をさがして』
 ビデオプレーヤー: YouTube (プライバシー ポリシー, ご利用条件)
 日本が高度経済成長に浮かれていた1974年、東アジア反日武装戦線の“狼”、“さそり”、“大地の牙”のメンバーたちは、旧財閥系企業や大手ゼネコンを標的として、連続企業爆破事件を起こす。8人が死亡、376人が負傷した三菱重工業本社ビルの爆破を皮切りに、三井物産本社ビル、大成建設本社ビルなどに次々と爆弾を仕掛けていった。
 翌年にはメンバーが一斉に逮捕され、グループの中心にいた大道寺将司は1987年に死刑が確定。2017年に獄中で死亡した。齋藤和は逮捕直後に青酸カリで自殺。大道寺あや子は、収監中に日本赤軍に奪還され、現在も国際指名手配中だ。それ以外にも、未だ収監中の者や全国に指名手配されている者がいる。
 彼らはなぜこのような事件を起こしたのか。事件後、獄中で何を思うのか。韓国人のキム・ミレ監督が、彼らの思想や後半生に迫ったドキュメンタリー『狼をさがして』が3月27日に公開された。今回は、映画を撮り始めたきっかけなどについて、監督に話を伺った。
 ◆日雇い労働者だった父を追って
 キム監督は、この映画を撮り始めたきっかけについてこう語る。
 「父が日雇い労働者だったことがきっかけで、“土方(ノガタ)“について調べていました。すると、植民地時代まで歴史を遡ることになり、日本の釜ヶ崎まで行ってもっと詳しく調べてみようと思ったんです。
 釜ヶ崎で取材していたところ、在日朝鮮人に出会い、彼らの生き方に共感しました。当時、建設業における日雇い労働者たちの労働運動について調べていたのですが、その中で『東アジア反日武装戦線』に出会いました。2006年には支援者たちと集まりを持つこともしました。しかし、当時の私には力量が足りないと思い、東アジア反日武装戦線を題材にすることは一度断念しています。
 しかし2014年にセウォル号沈没事故が起きて、韓国社会はとてつもない衝撃を受けました。私はこの事件の報道に接して、『果たして誰の責任なのだろうか』と考えたり、国家が持っている権力や暴力性について考えたりしました。その後、日本の日雇い労働者を描いた『ノガタ』(2005)の続編にするつもりで撮影を始めたんです」
 ◆良心とテロリズム
 東アジア反日武装戦線は、三菱重工本社ビルの爆破後、「日帝の侵略企業・植民者に対する攻撃である」と宣言を出す。彼らは、日本の植民地支配と戦争責任を問い直そうとしていたのだ。
 日本の戦争責任を告発するため、当初はA級戦犯刑死者を祀る記念碑などを爆破していた東アジア反日武装戦線。しかし、爆弾テロの矛先を企業に向けたことで、一般人を巻き込んでしまうことになった。
 キム監督は、「こうした一連の行動について評価するのは難しい」と話す。
 「私は、東アジア反日武装戦線のメンバーたちが、行動を起こしたことで考え方が変わったのだろうか、そのことについてどのように感じていたのだろうかということに関心を持っていました。そうしたことを映画を通して見つめてみたいと思ったんです。撮影を終えてみて、そこには普遍性があると感じました。
 私自身の20代の頃を振り返ってみると、80年に起きた光州事件について怒りがありましたし、全斗煥(チョンドゥファン)政権に抵抗することは正しいと思っていました。学生運動に直接参加したわけではありませんが、共感していました。
 世の中が変わっていくという希望や夢を持っていたわけですが、そうしたなかで無謀な行為もあったと思います。たとえ正しい意図を持って行ったことであっても、誰かが犠牲になったり、誰かを傷つけたりすることがあるのではないかと年を取ってから考えるようになりました」
 ◆韓国での反応
 本作は、韓国では2020年に公開されている。監督によると、「『日本でこのような事件があったとは知らなかった』というのが最も大きな反応だった」という。
 「韓国国内では、加害者としての日本を問うという事件や動きがあるということがあまり知られていませんでした。そのため、そもそもこの事件をどのように受け止めていいかわからないという反応が少なくありませんでした」
 映画は、日本の加害責任について責めたてるような受け止め方をされないように製作したつもりです。しかし一部には、日本に反省を促すような報道もありました」
 東アジア反日武装戦線は、日本の植民地主義を鋭く問い返そうとした。しかし監督は、日本を責めるような映画にはならないようにしたという。そして「韓国の加害性についても問い直すきっかけになればいいと思っています」と話す。
 ◆抑制された演出
 「狼をさがして」は、とても“地味”な映画である。「さそり」のメンバーだった宇賀神寿一や2017年に出所した浴田由紀子らの姿を淡々と映し出す。なぜこうした抑制された演出にしたのだろうか。
 「この映画は、人生の生き方のジレンマ、善悪のジレンマを描こうとしています。彼らは、目指すものは間違っていなかったとしても、犠牲者を出すという間違いを犯してしまい、取り返しがつかなくなってしまいました。
 私自身、共感はしているけれども、犠牲者がいるのは事実です。過去を振り返れば、日本の戦争や虐殺があり、アジアにたくさんの被害者が生まれました。抑制をきかせて、そうした事件の背景を表現しようというのがありました。
 逮捕されたメンバーたちは、監獄で何度も何度も繰り返し事件を振り返るしかありません。そうした心の動きを表現しようと、抑制をきかせて、派手にはならないようにしました。霧をかけるといった工夫で表現しようとしたのです」
 最後にキム監督は「このような事件がなぜ起きたのか、日本社会でもっと議論が起こればいいと思います」と話した。」 <取材・文/HBO編集部>
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☵15〕─5─韓国の反日運動団体は旭日旗狩りでヒットアニメ映画「鬼滅」に難癖を付けている。~No.115 

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 大正から昭和初期にかけて、日本軍(陸軍)に助けられたロシア人避難学道やポーランド人戦争孤児そしてポーランドユダヤ人難民にとって「旭日旗」は救いの象徴・生きる希望であった。
 「旭日旗」は、戦犯旗ではなく、国際法で正式に認められた日本の準国旗・軍隊旗であった。
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 2021年3月25日 産経新聞「「鬼滅」にも難癖 旭日旗狩りの波紋 韓国の反日運動団体
 旭日旗
 サッカー日韓戦が25日に横浜市で行われる。国際親善試合としては10年ぶりの顔合わせだが、とあるネットメディアによれば、「因縁の対決」への関心はピッチよりも、コロナ禍の日本で開催されることへの反発の方が大きいらしい。
 むろん、首都圏の緊急事態宣言が明けたばかりの開催に賛否があるのは当然だが、こと日韓戦は過去にも大きな物議を醸す出来事が多々あった。中でも忘れられないのが、2011年のアジア杯日韓戦で、韓国選手がゴール後に見せた「猿まねパフォーマンス」であろう。
 この選手は試合後、「観客席の旭日旗を見て怒りが抑えられなかった」などと差別的言動への理由を釈明したが、件の真相はともかく、これが現在に連なる旭日旗問題の契機になったと指摘する専門家もいる。
 その旭日旗をめぐって、最近もちょっとした騒動が起こった。韓国でも大ヒットしたアニメ映画『鬼滅の刃』の主人公の耳飾りが「旭日旗に似ている」として韓国版では原作と異なるデザインに変更した、というのである。
 もとより、耳飾りのデザインとストーリーに何の関係性もない。「旭日旗は戦犯旗」と思い込む一部の韓国人の過剰な反応に過ぎないのだが、むしろ彼らの難癖を唯々諾々と受け入れ、デザインを修正してしまったことの方が理解に苦しむ。
 しかも、この騒動は劇場版だけにとどまらず、同アニメをネット配信した米ネットフリックスに対しても抗議が殺到し、これまた韓国版のデザインを修正したというのだから、もうあきれるほかない。
 まるで「旭日旗狩り」とも言える騒動だが、これを主導しているのが韓国の市民団体VANK(バンク)である。表向きは「サイバー外交使節団」を名乗るが、その実態は慰安婦問題や日本海の呼称変更、竹島の領有権主張など反日キャンペーンが主な活動らしい。
 バンクと言えば、昨年もソウルの日本大使館周辺に、防護服の聖火ランナーが緑の炎を持って走るポスターを突然掲示し、波紋が広がった。バンク側は「五輪参加者らの健康と安全を守るという公益のためにパロディーとして作った」と開き直ったが、日本と東京五輪を貶める意図は明白である。
 今回の騒動も、この団体が深く関与している時点でその思惑は見え見えだろう。ただ、個人的には日韓関係をこじらせる旭日旗問題でもっと腑に落ちないことがある。なぜバンクをはじめとする過激な韓国人たちは、旭日旗そっくりの朝日新聞の社旗には抗議しないのか。ダブルスタンダードを地で行く彼らの行動は、いつもながら不思議でならない。
(大阪正論室次長 白岩賢太)」
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🎌2〕─2─日の巫女・卑弥呼の死。天皇下駄論。天皇人身御供論。天皇生け贄説。〜No.5No.6No.7 

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 太陽の化身・天照大神は日の巫女・卑弥呼とする説がある。
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 先史時代。霊力ある巫女は霊力を失うと領主や領民に殺されていた。
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 天皇下駄論。人智を超えた面倒な事・どうにもならない事・始末におえない事は全て天皇に任せて預けてなかった事にする。
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 下駄を預ける
 デジタル大辞泉の解説
 相手に物事の処理の方法や責任などを一任する。「あとの処理は君に―・けるよ」
 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
 精選版 日本国語大辞典の解説
① ある問題について、その処理の方法や責任などを誰かに一任する。
 ※浄瑠璃天智天皇(1692)二「とても叶ふまじと御覧じ、奉公せよ召使はんなどとげたを預け給ひしか」
② 自分の身のふり方、あることの決断などを他に一任する。
 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
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 故事ことわざ辞典
 下駄を預ける
 【読み】げたをあずける
 【意味】下駄を預けるとは、物事の処理などを相手に一任することのたとえ。
【下駄を預けるの解説】
 【注釈】万事を頼んで、無条件で相手にまかせること。
 人に預けた下駄を返してもらうまでは、どこへも行けないという意味から。
 物事の処理を引き受けることは、「下駄を預かる」という。
 【出典】-
 【注意】相手を信頼しているという意味で使うのは誤り。
誤用例 「外出中は、お隣りさんに下駄を預けて、息子を見ていてもらうことになっている」
 【類義】-
 【対義】-
 【英語】I left everything to him.(彼にすべてを任せた)
 【例文】「責任を取って私がこの会社を辞めるかどうかは、社長に下駄を預けている」
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 笑える国語辞典は、日本語と日本文化を楽しく解説する辞典です。日本語を通じて、日本と日本人を知るガイドブックとして、また、言葉の意味、語源、由来、用例等を知る現代用語のムダ知識事典としても利用できます。
 ※本稿は無断転載、無断引用を禁止します。
 www.waraerujd.comへのリンクは大歓迎ですので、ぜひお知り合いにご紹介ください。
 この辞典の使い方(ホーム)>「け」で始まる言葉>下駄を預けるの意味
 カテゴリー:慣用句
 カテゴリー:言動、態度、表情、状態
 下駄を預ける げたをあずける
 下駄を預けるとは、仕事や決断を他の人に任せるという意味。「部下の処遇については下駄を預けられた格好だったので、頭にきて、端から首を切ってやった」などとヘンリー・ミラーみたいなことを言うときに用いる。仕事を任せるという意味では、「丸投げする」に近いが、「丸投げ」が最初からやる気がなくて全部他人に預けるときに、「下駄を預ける」はある程度まで自分でやっていたが(下駄を履いて歩いていたが)、手に負えなくなって他の人に押しつける、あるいは最終的判断を他人に任せるといったときに使われる。(KAGAMI & Co.)
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 丸投げ まるなげ
 丸投げとは、受注した仕事を丸ごと全部他の会社や人に委託することをいう。仕事を右から左へ流すだけならよいのだが、それだけでいくらかの金をかすめとろうとする汚いやり方が問題なのであって、建設業界では仕事を下請け会社に丸投げすることを建設業法で禁止している。つまり、放っておけば、みんなが当たり前のようにやっている行為だということである。それもそのはずで丸投げは、下請け業者に仕事を与え、上位の業者もラクして儲けられという、建設業界全体が潤うやり方だからである。ムダな中間搾取により、建設費がハネあがるのではないかと心配するむきもあろうが、そんなのは談合によっていくらでもクライアントから金をふんだくればよい(特に公共団体は予算の使い場所に困っているので、いくらでも金を出してくれる)ので、なんの問題もない。(CAS)
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 宝島社 TJmook(抜粋)「最新科学で探る日本史
 弥生時代 卑弥呼は『日食』が原因で殺された?  北條芳隆
 シャーマンにとって日食は不吉な前兆
 弥生時代に、巫女(シャーマン)であり、邪馬台国の女王として国を治めていたのが卑弥呼である。シャーマンとして宮殿の奥で『鬼道』という占いを行い、政務はすべて弟に任せていたという。
 ミステリアスな卑弥呼の歴史の中で、最も神秘的といわれているのが、その死にまつわるものだ。
 中国に伝わる歴史書魏志倭人伝』には当時の日本についての記述があるが、邪馬台国の南方にある狗奴国(くなこく)との戦争中に死亡したと記載されている。ただ『卑弥呼、以死(もってし)す』とだけ書かれており死因はわからない。
 卑弥呼が死んだという248年は、日本で皆既日食が起きた年。そのことが卑弥呼の死と何らかの関係があるのではないかとする説がある。特殊な自然現象はすべて神からのメッセージであるとされた時代に、太陽が欠けて日中が暗闇(くらや)になるというのは間違いなく非常に不吉なメッセージである。
 しかも狗奴国との戦争の渦中だったため、その不吉な現象は大凶の兆と受け止められ、巫女の責任にして解決するといういわゆる『王殺し』のプロセスは容易に考えられるからだ。
 この『日食が原因で民衆がパニックを起こし不穏な風潮が渦巻いて卑弥呼が失脚し、死に至った』という説は、それなりに説得力がある。
 この一説を基に、作家や学者たちはさまざまな仮説を立てて今も研究を続けている。中でも興味深いのは、卑弥呼は実は天照大神のモデルとなっており、天岩戸(あまのいわよ)神話は、卑弥呼の死の物語…………。」
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 ウィキペディア
 卑弥呼(ひみこ、生年不明 - 242年~248年)は、『魏志倭人伝』等の中華の史書に記されている倭国の王(女王)で、邪馬台国に都をおいていたとされる。諱は不明で、封号は親魏倭王
 日本列島における皆既日食
・247年3月24日日没
・248年9月5日日出
 卑弥呼の死
 魏志倭人伝では、卑弥呼の死の前後に関し以下の様に記述されている。
 「倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告諭之 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人」
 {倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ) とは平素から不仲であった。それゆえ倭国は載斯烏越(さしあえ) らを帯方郡に派遣して狗奴国との戦闘状況を報告させた。これに対し(魏の朝廷は) 塞曹掾史の張政らを派遣した。邪馬台国に赴いた張政らは証書と黄幢を難升米(なしめ)に授け、檄文を作って諭した。卑弥呼が死んだので大いに冢を作った、径は100余歩である、殉葬された奴婢は100余人である。}
 この記述は、247年(正始8年)に邪馬台国からの使いが狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。また247年(正始8年)の記述は、240年(正始元年)に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとすれば、卑弥呼の死も240年から246年ごろに起きた可能性が高い。
 「以死」について
 「以死」の訓読についても諸説ある。通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死スルヲ以テ」つまり「死んだので」墓が造られた、あるいは、「スデニ死ス」と読み、直前に書かれている「拜假難升米 爲檄告諭之」(難升米が詔書・黄幢を受け取り檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。一方、「ヨッテ死ス」つまり「だから死んだ」と読んだ場合、この前に書かれている、卑弥弓呼との不和、狗奴国との紛争もしくは難升米の告諭が死の原因ということになる。そのため、狗奴国の男子王の卑弥弓呼に卑弥呼は殺されたと考える説もある。
 卑弥呼の死と皆既日食について
 天文学者の斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では9月4日)に北部九州で皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。さらに、橘高章と安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で魔力が衰えたと卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。
 しかし、現在の正確な計算によると皆既日食は日本付近において、247年の日食が朝鮮半島南岸から対馬付近まで、248年の日食が隠岐付近より能登半島から福島へ抜ける地域で観測されたと考えられ、いずれの日食も邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり[15]、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。
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 西日本新聞2021年3月24日(水)
 死せる孔明 卑弥呼を… 古賀 英毅
 2019/10/4 11:15
 三国志は2世紀後半から3世紀の中国を記した史書だ。これを基にさまざまな物語が作られた。九州国立博物館(福岡県太宰府市)の特別展「三国志」(来年1月5日まで)に原画が展示される横山光輝さんの漫画で知った人も多いのではないか。劉備玄徳に関羽雲長…。英雄たちのストーリーは魅力的だ。
 一、二を争う人気者は諸葛亮孔明だろう。三国志関連の書籍を数多く出している渡邉義浩・早稲田大教授は卒業論文孔明について原稿用紙400枚書いたそうだ。玄徳に三顧の礼で招かれた孔明は、ライバル司馬懿(しばい)仲達と対陣中の五丈原で234年に没した。「死せる孔明生ける仲達を走らす」。名場面の一つだが、孔明の死は日本の歴史にとっても重要な出来事だった。
 当時、中国で最も勢いがあったのは仲達が仕えた魏。魏は西方で孔明がいた蜀と戦い、南で呉と対する。さらに「五丈原」の時は地方政権の公孫氏とも争っていた。公孫氏が支配した朝鮮半島の付け根あたりは伝統的に倭(わ)(日本)との関係も深い。ここの銅剣は、弥生時代の倭の銅剣に影響を与えたとされる。
 独立しようとする公孫氏の討伐を魏は試みるが、うまくいかない。孔明死去で蜀の脅威が減り、切り札仲達を指揮官に投入した。仲達は238年に公孫氏を滅ぼし、翌239年、邪馬台国の女王・卑弥呼の使いが魏にやって来る。公孫氏滅亡がなかったら、少なくともこの年に使者が魏に来ることはなかっただろう。
 魏志倭人伝は約2千字の漢字で記される。正史「三国志」にある各国伝の中で最長だ。渡邉教授によると、三国志以外の中国正史では倭の記述が最長のものはないそうだ。「邪馬台国という“大帝国”がはるばる貢ぎ物を持ってきたのは仲達の功績。だから編者の陳寿倭人伝をいっぱいまとめなければならなかった」と渡邉教授は言う。
 三国志は仲達の孫、司馬炎が建てた西晋の時代に作られる。仲達は「高祖」と追号され「王朝の創始者」になる。皇帝と同格だ。中国の皇帝はその徳を慕って異民族が貢ぎ物を持ってくるとされる。邪馬台国の遣使は、仲達が皇帝と呼ぶにもふさわしいことを証明する絶好の素材だった。仮に公孫氏を滅ぼしたのが仲達でなかったら、倭人伝は重視されず、卑弥呼は歴史に残っていないかもしない。「死せる孔明-」は「卑弥呼を残す」と締めることもできる。
 「三国志」はあくまで中国の話。だが日本の古代史論争とも密接に絡み合う。そんな視点で特別展を見るのも面白い。 (伊万里支局長)
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 強欲で無責任な日本人は、人智の及ばない事、自力ではどうにもならない事、の全ての責任を天皇に押し付け逃げた。
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 正統な神の裔にして唯一の祭祀王である天皇は、人智の及ばない自然災害・疫病蔓延・飢餓・餓死などの複合災害が起きるのは「自分の不徳」であると「詔(みことのり)」を発布して、天・神々そして民草・民族に不徳を侘び、民草・民族に代わって天・神々に一心に祈った。
   ・   ・   ・   
 歴代天皇は、正統な神の裔にして唯一の祭祀王として、八百万の神に国の平和と民草の安寧、そして五穀豊穣を、災害を引き起こす悪い神・荒神を懇願して福の神・和神に、祟りを為す怨霊・荒魂を鎮めて御霊・和魂に、祈り、祀った。
 正統な神の裔にして唯一の祭祀王は、万世一系の男系父系天皇・皇室と定められ、傍系の女系母系皇族は排除された。
 それは、世襲制の歌舞伎に似ている。
 何故か、天皇の祭祀・皇室祭祀・宮中祭祀は、男性神伊邪那岐命が女性神伊弉冉尊の住む死の国から生還した黄泉国神話に基づき、「死・死霊・怨霊」をまとうからである。
 日本人男性は、命を繋ぐ為に子供を産み育てる女性を守る為に神聖な祭祀から遠ざけ、死・死霊・怨霊が女性の子宮に入り胎児を死なせ死産を引き起こさない様にした。
 日本の女人禁制とは、女性差別ではなく女性保護の為であった。
 同じような意味から、女系母系天皇は排除された。
 歴史に残る女性天皇は、子供を生まない事を絶対条件として未亡人か未婚者が即位した。
 日本の天皇は、絶対神から祝福されて即位するわけではなく、天・天帝から唯一の統治者と認められて即位するのでもなく、重大な義務と責任を引き受ける者だけが即位した。
 日本人は、その耐え難き重い責務を負わされる事を嫌い、絶対断らない「一番のお人好し」の一家・一族に押しつけて逃げた。
 現・万世一系の男系父系天皇家が、滅ぼされず、今日まで存続したのはその為である。
 つまり、神仏を祀り祈る存在・日本人は一人で充分なのである。
 現代日本人からその伝統信仰が消え始めている。
 現代日本では神殺し・仏殺しが流行り、それが「天皇殺し」に発展しようとしている。
 その証拠が、「あいちトリエンナーレ2019」における不敬事件である。
   ・   ・   ・   
 女王・卑弥呼は、太陽が隠れた日食が原因として殺された。
   ・   ・   ・   
 最高神である女性神天照大神は太陽の化身とされ、天岩戸に隠れ、そして男神等によって強引に天岩戸から引き出され、神々の前で反省・謝罪、そして2度と隠れないと誓わされた。
 万世一系の男系父系天皇は、日本中心神話と血の神話に基づき、女性神天照大神の血を正しく引く者として正統性を認められている。
 女系母系天皇は傍系であり、法律的恣意的な正当性はあっても歴史的伝統的文化的民族的宗教的な正統性はない。
 男系父系天皇は不変であり、女系母系天皇は可変である。
   ・   ・   ・   
 日本の自然は、心癒やされるほどに豊で美しい。
   ・   ・   ・   
 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
   ・   ・   ・   
 日本の凶暴な自然災害に比べたら、如何なる戦争も子供の火遊びに過ぎない。
   ・   ・   ・   
 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
   ・   ・   ・   
 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして宗教は無力で役に立たない。
   ・   ・   ・   
 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
 日本は、異種異文の朝鮮や中国を差別して排除し、同種同文に近い琉球人とアイヌ人を同化させた。但し、特権を有していた高級知識階級の久米三十六姓は区別し差別した。
   ・   ・   ・   
 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
   ・   ・   ・   
 日本民族集団主義は、中華や西洋とは違い、共感と共有のる運命共同体である。
 日本には、西洋的ボランティアがいない。
   ・   ・   ・  
 戦後民主主義世代教育で量産された高学歴な知的エリートや進歩的インテリ(知識人)は、西洋化もしくは中国化して伝統的日本民族性を失っている。
 彼らは、グローバル崇拝信者として、ローカルを未開として嫌い、民族主義ナショナリズムを野蛮として破壊・消滅させようとしている。
   ・   ・   ・   
 正統な男系父系天皇を嫌い、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を消滅させようとする、左翼・左派・ネットサハ、日本共産党マルクス主義の高学歴知的インテリ(グローバルな進歩的知識人)などの反天皇反日的日本人達。
   ・   ・   ・   
 日本は、偏見・差別、蔑視、イジメ・嫌がらせ・意地悪などが多く、そして自粛警察などの陰湿陰険な同調圧力、場の空気が強いブラック社会である。
 北海道・東北地方に対する偏見・差別、蔑視。
 放射能関連での福島に対するイジメ・嫌がらせ・意地悪。
 口では真面らしく絆、繋がりを言うが、実際の行動はその正反対である。
   ・   ・   ・   

🎌2〕─1─万世一系の男系父系天皇は心柱論。世界最古の法隆寺五重塔。〜No.2No.3No.4 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代の日本人と昔の日本人は、別人のような日本人である。
   ・   ・   ・   
 天皇制度は、木造建築を守る免震構造の心柱(しんばしら)のような日本国と日本民族の心柱=神柱である。
   ・   ・   ・   
 劣等下級の天皇論としての、心柱論、下駄論、中骨論・背骨論、脳脊髄論、心肺論・・・。
   ・   ・   ・   
 法隆寺五重塔は約1300年の昔に建てられた世界最古の木造建築であるが、そこには日本民族が持っていた確かな科学的証拠が2つ存在する。
 1つ目は免震構造としての心柱で、2つ目は伝統的たたら製法国産和釘(わくぎ)である。
   ・   ・   ・   
 法隆寺五重塔は、当時の、現実主義経験論と理想主義観念論、伝統土着技法と最新渡来技術、そして宗教・政治・外交・軍事目的で建設されていた。
   ・   ・   ・   
 約1300年に創建された木造建築の法隆寺五重塔は、科学的建築学的に計算された土台の上に立てられた「心柱」で、創建時代のままの姿を今日まで伝えている。
 約2000年の歴史を持つ日本は、縄文時代弥生時代以来の伝統・文化・宗教の上に立つ天皇制度によって縄文人弥生人倭人・日本人・日本民族という単一で一系の民族国家日本を受け継いできた。
 万世一系とは、天皇家・皇室であり日本民族の事である。
 日本の万世一系を繋いでいる「縦糸」が、日本列島で生きる人の営みと先祖が語り継いできた民族中心神話・血の神話である。
 寸分狂いのない弛み歪みのない美しい「縦糸」とは、正統性男系父系天皇(Y遺伝子神話)の事であって正当性女系母系天皇(X遺伝子物語)ではない。
   ・   ・   ・   
 西洋製鉄生産の鉄製洋釘やボル・トナットを使用した木造建築では、日本の激しい温暖差と多湿な気候風土によっての洋釘やボル・トナットは錆びて木を腐食させて木造建築を短期間で駄目にした。
 鉄製洋釘やボル・トナットで腐った部材は、切り取って新しい部材に取り換えるか、最悪は古い伝統的文化的木造建築を取り壊して新しい現代風建築物に建て替えるしかなかった。
   ・   ・   ・   
 西洋の科学技術基準が万能でない証拠は、2011年の東日本大震災における福島第一原子力発電所アメリカ・GE製原子炉事故を見れば明らかである。
 GE製原子炉は、アメリカの地震・竜巻などの数少ない自然災害には強かったが、日本の地震津波など数多い自然災害には弱かった。
   ・   ・   ・   
 ウクライナチェルノブイリ原子力発電所における原子炉炉心溶解事件(チェルノブイリ原発事故)の原因は、ソ連政府が安全性より低予算を優先して原子力発電所を建設したからである。
 何故か、ウクライナチェルノブイリには深刻にして甚大な被害をもたらす自然災害がないに等しかったからである。
 豪雪や強風では堅牢な原子力発電所は壊れる事はない。
   ・   ・   ・   
 日本に存在するモノには、科学的安全神話など通用せず、永遠に残り、続くもの何一つなかった。
 その証拠が、最高神である女性神伊勢神宮は20年ごとに式年遷宮で祭殿である創建当初の姿で新しく建て替え、古い廃材は全国の神社に下賜され再利用されている。
   ・   ・   ・   
 日本には2種類の安全神話がある、日本民族の伝統的神話的自然的な受けて流す再生可能な安全神話と西洋由来の科学的合理的論理的な受けて攻める再生不可能な安全神話である。
   ・   ・   ・   
 巨大な古墳や高い建築物は、侵略してくる危険性のある中国や朝鮮からの使節団に対す文化的宗教的軍事的威圧施設であった。
   ・   ・   ・   
 日本建築の代表的木造建築は、インド発祥仏教寺院の三重塔・五重塔などの仏舎利堂塔である。
 その特徴が、心柱である。
 心柱は、自然災害で雷以外には強く、木造高層建築の倒壊を防いでいた。
 それは、天皇制度に似ている。
   ・   ・   ・   
 中国仏教は貧民救済の革命宗教で、皇帝独裁を守る中華儒教と対立し、その為に何時の時代でも迫害され弾圧されていた。
   ・   ・   ・   
 天皇家・皇室の心柱を補強したのは、日本儒教論語儒教であって中華儒教(中国儒教・朝鮮儒教)ではない。
 中華儒教とは、心柱を切り倒し破壊する易姓革命放伐禅譲)という毒牙を秘めていた。
   ・   ・   ・   
 木造建築の心柱とは縄文時代からの精神性ヤマト心であって、中華儒教(中国や朝鮮)の漢意(からごころ)や西洋キリスト教の絶対愛信仰とは相容れなかったし、反宗教無神論の近代的マルクス主義とは相反していた。
   ・   ・   ・   
 トリスミ集成材株式会社 
 とりすみコラム
 匠の技を読み解く ~法隆寺五重塔はなぜ地震で倒れないのか?~
 2019.09.03 とりすみコラム
 世界最古の木造建築「法隆寺
 法隆寺境内にある五重塔は、地震国日本にあって、1300年以上も創建時の姿を現在に留めています。歴史上、五重塔や三重塔など、木塔といわれるものは全国に500ヶ所以上ありますが、地震で倒れた事例はほとんどありません。1995年の阪神大震災でも、兵庫県内にある15基の三重塔は1基も倒壊していません。
五重塔はなぜ倒れないのか?
 まずは法隆寺を例にとり、その構造上の特徴をあげます。
【1】庇の張り出しが大きく、建物全幅の50%以上が庇で、重い瓦屋根となっています。その結果、法隆寺五重塔の総重量は1200トンにも及び、単純平均すれば1層あたり240トンとなります。
【2】五重の各層は上に行くほど細くなっており、各層は下の層の上に乗せているだけで一層ごとに独立しています。※通し柱で各層をつなげていないため、現在の建築基準では違反になります。
【3】中央に心柱(しんばしら)と呼ばれる柱があります。心柱の周囲は吹き抜けになっており、各層の荷重を支えていません。塔全体の荷重は、心柱の周りにある4本の四天柱と12本の側柱によって支えられています。
地震がくると、どのように揺れるのか?
 前述の構造を踏まえ、地震がくるとどのように揺れるのか?
【1】庇の重さを支える16本の柱は、礎石の上に置いてあるだけの構造です(※専門的にはピン接合と呼ばれます。)そして、庇の膨大な質量には、慣性力が働きます。その結果、強震が襲っても、建物は振動するというより、むしろ柔らかく揺り動かされることになります。幅広で重い庇は、巨大な安定装置として機能しているのです。
【2】各層がただ単純に重ねられている点も、地震では大変な強みになります。初層が右に揺れると、二層は左に、三層は右にと、互い違いに揺れることで全体で衝撃を吸収する仕組みです。各層がお互いに逆方向にくねくねと横揺れするため、この動きはスネークダンスとも呼ばれます。
【3】五重の各層は接合されていない柔らかい構造ですが、一方であまりにも各階が柔軟になりすぎるのを避けるため、日本の大工たちは、ある独創的な解決法に行き着きました。それが心柱です。
 心柱は制振ダンパーの役割となって、塔自体が右に傾こうとすれば、心柱は左に動いて自立を保とうとする効果があり、地震の揺れを軽減します。揺れが大きいと、心柱が各階の床組みにぶつかることで、崩壊するほどの横揺れを防ぎます。
言うなれば、十分な質量のある「振り子」であり、各階の床組みが横揺れしすぎないように歯止めをかけているのです。
 最後に、法隆寺の解体復元を行った宮大工・故西岡常一氏の言葉を引用します。
 「古代の建築物を調べていくと、古代ほど優秀ですな。木の生命と自然の命とを考えてやってますな。飛鳥の工人は、自分たちの風土や木の質というものをよく知っていたし、考えていたんですな。」
 西岡氏の言葉から、古代人ほど対象となる建築物への同化度が高かったことがわかります。大陸からきた技術を鵜呑みにせず、風土や木の質に同化し、建物の荷重はもとより、風や地震の横揺れにさえ同化していたと考えられます。この同化力、追求力には、我々も学ぶべき点が多々あると思います。(斑鳩町観光協会資料より抜粋)
   ・   ・   ・   
 現代日本に残っている日本文化は、死んだ日本文化である。
 何故なら、現代日本日本民族民族主義ナショナリズムを否定しているからである。
 伝統的日本文化は、昔の日本民族が生活の中から生みだしたローカルな固有文化であって、現代の日本人が大金を投じ作り上げた生活臭のない無機質なグローバルな文化ではない。
 現代日本の「クールジャパン」政策は偽物・贋作で、張りぼて、中身のない箱物に過ぎず、失敗に終わる。
 何故なら、現代日本人が信用している「日本は世界で信頼されている、日本人は世界で愛されている」は嘘だからである。
   ・   ・   ・   
 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
   ・   ・   ・   
 日本の自然は、心癒やされるほどに豊で美しい。
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の凶暴な自然災害に比べたら、如何なる戦争も子供の火遊びに過ぎない。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして宗教は無力で役に立たない。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
 日本は、異種異文の朝鮮や中国を差別して排除し、同種同文に近い琉球人とアイヌ人を同化させた。但し、特権を有していた高級知識階級の久米三十六姓は区別し差別した。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」の助け合いに根差している。
   ・   ・   ・   
 日本民族集団主義は、中華や西洋とは違い、共感と共有のる運命共同体である。
 日本には、西洋的ボランティアがいない。
   ・   ・   ・  
 昔の日本は、人口微増の人生50年時代で、若者が多く老人が少なかった。
 現代の日本は、人口激減の人生100年時代で、老人が多く若者が少なく、年ごとに少子高齢化が加速していく。
 日本政府は、人口回復の為に外国人移民(主に中国人移民)1,000万人計画を進めている。
 現代日本は、世界だ第4位の移民大国になり、一番多いのが中国人移民で、次ぎに多いのが韓国人・朝鮮人の移民である。
   ・   ・   ・  
 現代の日本人は、昔の日本人と比べて見たい架空に近い時代劇が好きだが見たくない不都合な事実に基づいた歴史が嫌いな為、歴史力・伝統力・文化力・宗教力が乏しいかない。
   ・   ・   ・  
 現代の日本人が持っている言霊は悪い言霊で、昔の日本人が持っていたいい言霊とは全然違う。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、甚大な被害をもたらし夥しい犠牲者を出す自然災害を、昔ながらに神の怒り・神の神罰ととらえ、神に怒りを鎮める様に祈る事は、科学的ではないとして否定し口にする者を批判し非難する。
 火山が噴火して、山の神や火の神に「御鎮まり下さい」と祈ると攻撃の対象とされる。
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 日本は、偏見・差別、蔑視、イジメ・嫌がらせ・意地悪などが多く、そして自粛警察などの陰湿陰険な同調圧力、場の空気が強いブラック社会である。
 北海道・東北地方に対する偏見・差別、蔑視。
 放射能関連での福島に対するイジメ・嫌がらせ・意地悪。
 口では真面らしく絆、繋がりを言うが、実際の行動はその正反対である。
   ・   ・   ・   
 戦後民主主義世代教育で量産された高学歴な知的エリートや進歩的インテリ(知識人)は、西洋化もしくは中国化して伝統的日本民族性を失っている。
 彼らは、グローバル崇拝信者として、ローカルを未開として嫌い、民族主義ナショナリズムを野蛮として破壊・消滅させようとしている。
 その結果、歴史・伝統・文化・宗教・習慣・風習などその他多くの民族由来のモノが消えつつある。
   ・   ・   ・   
 日本の伝統的文化や文化財・文化的建造物の大半が、現・男系父系天皇と深い関係にあり、貨幣で換算できない、値段が付けられない、揺るぎない歴史的価値は現・万世一系の皇室が保証している。
 男系父系天皇万世一系皇室を否定した時、歴史的価値は消滅して、タダのがらくた物となる。
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 正統な男系父系天皇を嫌い、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を消滅させようとする、左翼・左派・ネットサハ、日本共産党マルクス主義の高学歴知的インテリ(グローバルな進歩的知識人)などの反天皇反日的日本人達。
 彼らは、アイチトリエンナーレ2019での「昭和天皇肖像画写真を燃やし踏みつける映像」を表現の自由として擁護し、正当な女系母系天皇即位を目指している。
 国民世論は、それを支持している。
   ・   ・   ・   
 現代日本人が憲法から考えている「統合の象徴」としての天皇とは、雛人形の様に好き嫌いで取り換え自由なお飾りである。
 つまり、そこには神聖不可侵の玉体は存在しない。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人が求める天皇制度、天皇家・皇室とは、無宗教に近い政教分離と現代的世界常識のジェンダーフェミニスト・性差別反対による、古い歴史・伝統・文化・宗教を持った世襲ではなく新しい無宗教で非世襲である。
   ・   ・   ・   
 日本民族国家日本は、民族中心神話・血の神話からの血を正統性とする万世一系皇室による2000年以上前の天皇制度(国體)を心柱として守られてきた。
 血の正統性は、男系父系のみに存在し、女系母系にはない。
 西洋キリスト教価値観による王権神授説や社会契約論は、日本神話の正統性心柱論には馴染まない。
 そして、西洋キリスト教人権論に基づく正当性女系母系天皇即位待望論は日本神話の心柱論を破壊する邪説である。
 まして、宗教・文化・伝統の破壊を最優先とするマルクス主義共産主義は日本列島では有害無益・百害あって一利無しである。
   ・   ・   ・   
 正当性女系母系天皇即位待望論者は、ジェンダーフェミニスト・性差別反対派、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、左翼・左派・ネットサハ、護憲派人権派、反天皇反日的日本人、などである。
 国民世論の70%以上が、正統性男系父系天皇即位から正当性女系母系天皇即位への変更を望んでいる。
 それを例えるのなら、木造建築の心柱を、純国産の檜・桐・杉の木材から外国産の輸入材、化学製ベニヤ合板材、金属製棒材に変える様なものである。
 現代の日本人は科学的合理的論理的思考で、心柱であれば何でも構わないと考え、見た目重視で材質にこだわらない。
   ・   ・   ・   
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、異教徒日本人を奴隷として人間以下の獣として扱い、そして売り買いしていた。
 日本人の命は、家畜の様に金で買えた。
   ・   ・   ・   
 日本人共産主義テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
   ・   ・   ・   
 宝島社 TJmook「最新科学で探る日本史
 奈良時代 聖徳太子が建立した法隆寺五重塔は驚くべき免震構造だった
 平林純
 『五重塔』なのに実は中は『1階建て』?
 今から1300年以上前の飛鳥時代に建てられた法隆寺。その象徴である五重塔は、現存する最も古い『木造による高層建築』として知られている。
 ところでその五重塔、名前からも外見からも、当然のごとく『5階建て』にしか見えないが、実際にはそうではない。驚いたことに、法隆寺五重塔は、『1階建て』なのだ。
 誰にも到底納得できそうもない話だが、法隆寺五重塔の、『2階から5階』に見える部分は、実はすべて現代でいう『屋根裏』。実際、屋根裏だけって、2階~5階と見える部分の内部は柱で埋め尽くされ、人間が入れるようなスペースはどこにも見当たらない。また、法隆寺五重塔はよく見ると建物の上のっほうほど小さくなっている。屋根や塔の太さも、上に行くほど小さく、細く造られているのだ。なぜ全部の屋根を同じ大きさに造らなかったのか。
 それは、地上から塔を見上げたときに、上の階が小さいことで『より遠くに』あるように見え、結果として『より高く』見える、『遠近法』を応用する手法。つまり一種のからくりなのである。法隆寺五重塔が建てられたのが今から1300年以上も前であることを考えると、驚かされずにはいられない。8階建てのビルに相当する32mほどの高さは、奈良時代当時の建物としては相当大きい。しかし実は1階しかないうえに、さらに高く見せるように造られていたのである。
 また、土台の上の『心柱』を中心に、5層の屋根がそれぞれ緩く接合された構造になっている。
 法隆寺五重塔の驚くべき『免震構造
 この構造のため、地震の際には建物全体が同じように揺れるのではなく、それぞれの屋根が、しなって揺れる心柱にぶつかりながら逆方向に揺れ、全体の揺れが減衰(げんすい)されるように働く。そのため、建物全体として大きく揺れることがなく、五重塔地震に極めて強い。また、上に行くほど小さくなっている構造にも、やはり耐震性を強める効果がある。
 建物の各所が緩やかに揺れる五重塔の『免震構造』は、その後も世界中の超高層建築にしばしば応用されている。あの東京スカイツリーにも、『質量付加機構』という、最新の技法でありながら、実は五重塔によく似た設計が取り入れられているのだ。
 地震や台風に強い五重塔。現代でも通用するその『免震構造』が、あらかじめそのことを計算して作られたものであることは間違いない。
 しかし、なぜ1300年以上前にそのようなことが可能だったのか、その秘密は現在も完全には明らかになっていないのだ。

 世界で2番目に古い木造建築は?
 奈良県にある薬師寺の東塔が、世界で2番目に古い木造建築物である。天武天皇の発願で建立され、東塔は730年(天平2年)建立説が有力視されており、平城京最古の建造物ともいわれる。各階に裳階(もこし)とよばれる飾り屋根がつけられている珍しい建築物である。」
   ・   ・   ・   

🗾7〕─5─日本人DNA分析で判明。渡来系弥生人は母系、土着系縄文人は父系。〜No.35No.36No.37 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 渡来系弥生人は母系女系=X染色体。 
 土着系縄文人(日本土人)は父系男系=Y染色体
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 日本民族は、流れ着いた人々・漂着した人々が乱婚して生まれた血が汚れた混血の雑種民族で、異人種異民族に侵略され占領され支配された事のない、争いを嫌い、平和を好む、穏やかな民族であった。
 日本民族は、人殺し・戦争と強奪・強姦を好む猟奇的な中国人や朝鮮人とは違うのである。
 東アジア人を差別用語の蔑称「イエローモンキー」とするなら、中国人や朝鮮人チンパンジーで、日本民族ボノボ(ピグミー・チンパンジー)である。
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 SciencePortal
 ニュース「縄文時代の終わりから弥生時代にかけて急激な人口減少があった DNA解析で判明
 2019.06.25
 縄文時代の終わりに急激な人口減少があった—。約2500年も前のこうした興味深い現象を東京大学の研究グループが現代の日本人男性のDNA解析から明らかにした。寒冷化により狩猟生活をしていた縄文人の食料が減ったことが原因らしいという。研究成果はこのほど英科学誌「サイエンティフィック・リポーツ」に掲載された。
 東京大学大学院理学系研究科の大橋順准教授と大学院生の渡部裕介さんらは、同大学大学院医学系研究科の徳永勝士教授(研究当時)らと共同で、日本人男性345人の男性だけが持つY染色体塩基配列を解析した。Y染色体は父親から息子へ受け継がれるため、変異をもとに系統を調べることができる。
 現在の日本人は縄文人と大陸からの渡来系弥生人の混血と考えられているが、解析の結果、日本人のY染色体は七つの系統に分かれ、縄文人に特有の型を持った系統の男性が122人いることが判明した。このため研究グループはこの122人を対象に共通祖先をさかのぼる遺伝子系図解析を実施。遺伝子の変異が起きる速度を基に、過去にさかのぼって人口の推移を推定した。
 すると、約2500年前の縄文時代晩期から弥生時代初期にかけて、人口が大幅に急減していたことが明らかになった。男性の人口だけでなく女性を含めた全人口が急減したと推定できるという。この時期は、日本を含み世界的に気候が寒冷化しており、気温が下がったことで食料供給の減少が人口減につながったとみられる。研究グループによると、その後人口が増加したのは、気候が再び温暖化し、渡来系弥生人がもたらした水田稲作技術によって、安定した食料供給が可能になったためと考えられるという。
 縄文後期の人口減は遺跡の発掘などで推定されていたが、遺伝子解析からも裏付けられた形だ。
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 KAKEN
 「本土日本人の起源の解明:弥生時代人のゲノム分析研究課題」
 キーワード 日本人の起源 / 弥生時代 / 古人骨DNA / ミトコンドリアゲノム / 核 ゲノム / SNP解析 / ゲノム分析 / 縄文時代 / 旧石器時代 / 人類学 / 古人骨 / 渡来系弥生人
 研究成果の概要
 列島日本人の成立を考えるためには、弥生時代人(渡来系弥生人)とはどのような人たちであったのかを明らかにすること、特に、ゲノム情報からその遺伝的多様性を明らかにすることは不可欠である。しかし、これまで限定的な報告しかない。そこで本研究では、大陸から渡来した人たちが最初に移住したと考えられている北部九州ならびに山口西部地域の弥生時代の複数の遺跡から出土した渡来系弥生人(古人骨)のミトコンドリアゲノムならびに核ゲノムの分析をおこない、渡来系弥生人の遺伝的特徴を明らかにした。
 研究成果の学術的意義や社会的意義
 現代日本人には多層性があり、その多層性は南方由来の在来系縄文人集団に渡来系弥生人集団が混合したためであると考えられている。弥生時代土人骨は地域や時期によって異なる特徴があり、均質な集団ではなかったと考えられる。従って、大陸から渡来した人たちが最初に移住したと考えられている北部九州ならびに山口西部地域の渡来系弥生人の遺伝的背景を明らかにすることは、日本列島人の形成を考える上で意義は大きい。
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 渡来系弥生人の中国江南起源に関する人類学的研究
 研究課題
 キーワード 弥生人 / 渡来人 / 日本人の起源 / 縄文人 / 中国江南地方 / 古人骨 / 江幸地方 / 縄文じん / 江南地方 / 渡来系弥生人 / 稲作の起源 / 時代変化 / 抜歯風習
 研究概要
 北部九州から出土する弥生人骨を大陸からの渡来人、もしくはその遺伝的影響を受けた人々とする見解が定着しつつあるが、彼ら渡来人の源郷についてはいまだ不明点が多い。これまでは華北朝鮮半島を候補地とする研究結果が発表されているが、その背景には人骨資料そのものが大陸北半でしか出土していないという問題が隠されており、人骨の空白地域であった江南地方は、永く論議の対象から外されていた。しかし同地方は稲作を初めとして、考古、人類、民俗など各分野で古代日本との関係が指摘されているので、平成8年度から10年度にかけて、まずこの地域の古人骨資料の探索を行い、人類学的な検討を加えた。
 その結果、まず新石器時代のウトン遺跡から出土した人骨(51体)については、同時代の華北集団とも、また日本の縄文人とも異なる特徴を持つことが判明した。しかし春秋戦国〜漢代の人骨(30体)は、同地方の新石器時代人とは大きく異なり、日本のいわゆる渡来系弥生人にその形態的特徴が酷似することが初めて明らかにされ、同時に、劉王城遺跡出土の春秋時代末期の人骨2体から抽出されたミトコンドリアDNAの塩基配列が、北部九州弥生人のそれと一致することも判明した。また、この劉王城人骨では、2体に上顎両側の側切歯を対象とした風習的抜歯痕が確認され、この風習でも日本の弥生人集団との共通性が認められた。
 全体的に資料数がまだ十分ではなく、多くの検討課題を残すが、関連分野からその重要性を指摘されながら永く資料空白地域として残されていた中国江南地方において今回初めて人類学的な研究が実施され、渡来系弥生人との形態、遺伝子、抜歯風習にわたる共通点が明らかになったことは、今後、日本人の起源論はもとより、考古、民俗など各分野に大きな影響を与えるものと考えられる。平成11年3月に中国人側共同研究者を招聘して研究結果を公表したところ、朝日新聞新華社、読売新聞、産経新聞など各紙に大きく報道され、NHK、フジテレビでも放映されて広く一般の関心を集めた。
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 日本各地の縄文系対弥生系人口比率と日本人成立過程;ミトコンドリアDNAによる
 キーワード 人類学 / ミトコンドリアDNA / 縄文人 / 弥生人 / 飛騨地方 / 縄文 / 弥生 / Dループ領域 / ハプログループ / ひだ人 / 分子・遺伝 / 地理的多様性
 研究概要
 日本人は先住の縄文人(狩猟採集民)と後入り渡来系弥生人(水田稲作民)の混血により成立した。渡来系弥生人は、今から3千~2千5百年前、大陸から朝鮮半島を経て、北九州近辺に入って来た。大陸の先進文化(稲作技術や金属器など)を携えていた。やがて彼らは縄文人を圧倒するようになり、更に日本列島上を東に進んで、3世紀末に畿内大和朝廷を打ち立てた。それでは、縄文人の遺伝子は現代日本人の中にどれほど残っているんだろうか?また、山地や東北地方にはそれが多く残っているのではなかろうか?母方由来で伝わるミトコンドリアDNAの多型を使って、この質問に答えるための基礎理論を開拓し、その答を初めて明らかにした。
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 朝日新聞デジタル>記事
 縄文人直系でなかった西北九州弥生人 ゲノム解析で判明
 米山正寛
 2019年7月23日 13時01分
 下本山岩陰遺跡から出土した人骨の一つ。臼歯を用いてDNAを抽出した(国立科学博物館提供)
 弥生時代に現在の長崎県周辺にいた「西北九州弥生人」は、縄文人直系と考えられていたが、実は渡来系弥生人との間でかなり混血が進んでいたことを、国立科学博物館などのグループが人骨に残された遺伝情報(核ゲノム)を解析して明らかにした。日本人類学会の機関誌Anthropological Science(日本語版)に発表した。
 九州の弥生人は三つに大別される。大陸から北部九州にやって来た渡来系弥生人、鹿児島県付近に住んでいた、頭の前後が極度に短いなどの特徴を持つ南九州弥生人、そして、西北九州弥生人だ。渡来系弥生人が在来の縄文人と交じり合う形で、現代の日本人につながる人々が生じていったとされるが、西北九州弥生人は影響をほとんど受けず、顔の彫りの深さや腕の太さなどに縄文人と共通する特徴を残していたと考えられてきた。
 今回、下本山岩陰遺跡(長崎県佐世保市)から1970年に発掘された約2千年前の西北九州弥生人の男女各1体の人骨を対象に、核ゲノムを構成するDNAの変異に注目して遺伝的特徴を解析した。2体はともに縄文人現代日本人との中間に位置付けられた。縄文人直系と考えられてきた西北九州弥生人も、渡来系弥生人との間で混血が進行していた可能性が高まった。
 解析を進めた科博の篠田謙一・人類研究部長は「この結果をすべての西北九州弥生人に当てはめるのはまだ難しいが、対象となる古人骨を増やせば日本人が成立する過程の詳しいシナリオが分かってくるだろう」と語る。(米山正寛)
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 日本経済新聞
 縄文・弥生人の「混血」 遺伝子解析で裏付け
 総合研究大学院大など発表
 2012年11月1日 0:38
 日本列島の先住民である縄文人と、朝鮮半島から渡ってきた弥生人とが混血を繰り返して現在の日本人になったとする「混血説」を裏付ける遺伝子解析の結果を、総合研究大学院大(神奈川県)などのチームがまとめ、日本人類遺伝学会が編集する1日付の国際専門誌電子版に発表した。
 これまでも同様の研究結果はあったが、今回は1人当たり最大約90万カ所のDNA変異を解析し、結果の信頼性は非常に高いとしている。
 チームはこれまで公開されている本土出身者(主に関東居住者)、中国人、欧米人など約460人分のDNAデータに、アイヌ民族と沖縄出身者の計71人分を新たに加えて解析した。その結果、アイヌ民族と遺伝的に最も近いのは沖縄出身者で、次が本土出身者と判明した。本土出身者は韓国人とも近かった。
 この結果は、日本人全般が縄文人の遺伝子を受け継いでいる一方、本土出身者は弥生人との混血の度合いが大きく、混血しながら北海道や沖縄方面に広がっていったと解釈できるという。
 日本人の起源は縄文人がそのまま各地の環境に適応した「変形説」、縄文人弥生人が追い出して定着した「人種置換説」も知られているが、総研大の斎藤成也教授(遺伝学)は「研究結果は混血説のシナリオに一致した」と説明している。
 チームは今後、縄文遺跡で見つかる人骨のDNAを分析するなどし、日本人のルーツの解明を進める。〔共同〕
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 発掘ばい!九州古代ヘリテージ
 弥生文化の成立に迫る 人類学と考古学から
 2019年12月11日
 考古学者の高島忠平氏が監修する古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く~遠賀川の古代文化と邪馬台国」の第5回フォーラムが11月10日、飯塚市で開かれた。国立科学博物館(東京)副館長の篠田謙一氏が「DNAで語る弥生人の成立」をテーマに講演し、高島氏は「考古学からみた渡来と在来」と題し、弥生人弥生文化成立の謎に迫った。2人の主な発言をまとめた。
 日本人 多様な集団混血か/国立科学博物館副館長 篠田謙一氏
 篠田謙一氏
 現代人や、発掘された古代人のDNAから、人類の成立を知ろうという研究をしている。縄文人弥生人の骨格を比較すると、縄文人骨はアイヌの人に似ていて全国どこでも同じ特徴を持つ。一方、弥生人現代日本人に近く、地域差がある。このことから人類学では、全国に住んでいた縄文人と大陸からやってきた渡来人の混血が、北部九州から日本列島に進み弥生人が成立したという、「二重構造説」が唱えられていた。
 しかし、DNAを解析すると、そんな簡単な構造ではないことが分かってきた。弥生後期の青谷上寺地遺跡(鳥取市)で見つかった複数の人骨のDNAを見ると、ほとんどは母系の遺伝が分かるミトコンドリアは「渡来系」であったのに対し、父系の遺伝を示すY染色体は「縄文系」だった。同遺跡では、弥生後期なのに渡来人と縄文人の混血が進んでいなかったことや、多様な母系と父系が混ざっていたことが分かる。
 現代日本人は、縄文人弥生時代以降の混血で成立したのは言うまでもない。ただ、縄文人にあったであろう地域差や時代差に加え、渡来系弥生人の実態もまだ分かっていない。今後は、渡来系弥生人のルーツである弥生時代朝鮮半島集団のDNAを解析し、弥生から古墳時代にかけてどう日本人のDNAが変化したかを捉えることで、混血の様子が解明できるだろう。
 文化形成 渡来人に三つの波/講座監修の考古学者 高島忠平氏
 高島忠平氏
 弥生時代、渡来人は大きく3波に分けてやって来たと考える。文化は担い手である人の往来により伝わる。この三つの波が、弥生、そして古墳時代の文化形成に大きな役割を果たした。
 第1波は、稲作技術を伝えた人たちだ。福岡平野では、防衛機能を持つ環濠を伴う集落で稲作がなされていたが、九州の他の地域では環濠が無く小規模な営農をしており、埋葬様式も地域によって異なる。こうしたことから、日本の初期の稲作文化は、朝鮮半島から複数のルートで伝わったと考えられる。
 第2波は、弥生時代前期の後半、中国系の青銅器が出現した頃。青銅器は、実用的な武器でもあり、政治的支配を示す権威にもなった。紀元前2世紀後半の北部九州で見つかっており、政治的権威を持つ社会が出てきたと推測できる。この時代は、中国系の移民が入り、彼らが政治を主導したとも考えられる。
 第3波は3世紀頃、魏志倭人伝の時代だ。朝鮮だけでなく中国王朝とも、物資に加え政治的な往来があった。朝鮮半島では倭人との戦いの記録もあり、多くの人の行き交いがあった。
 これらの3波の渡来を出発点に、多様な人が交わり合った社会が北部九州に出現した。今後は、どう遺伝し、広がったか、考古学的に事実を組み立て、人類学的にも解明されていくことを期待する。
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 産経新聞iRONNA
 DNA分析で縄文人弥生人の混血が進んでいたことが判明
 『NEWSポストセブン』 SAPIO 2014年12月号
 われわれの祖先はどのように日本に渡り、どのように変貌したのか。最先端のDNA分析により得られた新事実を、ヒトゲノムによって日本人の起源を探る研究の第一人者、国立遺伝学研究所の斎藤成也教授が明かす。
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 DNA分析という手法の開発により、分子生物学によって日本人のルーツを探る研究は劇的に進歩した。
 DNAは「たんぱく質の設計図」とされる物質で、親から子に遺伝情報を継承する。
 人体を構成する約60兆個の細胞は、すべて最初の1個の受精卵が起源であり、細胞増殖によって体が作られる。この増殖でDNAが複製されるとき、稀にDNAが部分的な突然変異を起こすことがある。変異が精子卵子などの生殖細胞で起きると、部分的に変異したDNAはそのまま子や孫へと引き継がれていく。
 アフリカで誕生した人類は7万年前から世界に拡散していったが、特定の集団のなかで誰かの生殖細胞に変異が起き、集団内でそれが広まり蓄積することがあった。また、別の集団との交流により、混血で変異が共有されることもあった。
 つまり、現代人と遺跡から出土する人骨のDNAを分析し変異の痕跡を比較すれば、どこで変異が発生し、どう受け継がれてきたかが分かり、人類がアフリカからどのようなルートを辿って拡散したかが見えてくるのだ。
 では、日本人はどこからやってきたのか。若干の想像を交えて、最新のDNA分析の結果から推定されるルートを提示してみよう。
 およそ7万年前に我々の祖先がアフリカを出たことはすでに判明している。数度に亘る「出アフリカ」の何回目かにアフリカを出た人々がアラビア半島を渡り、ユーラシア大陸の南側に進出。5万年ほど前に台湾や琉球諸島を経て、日本列島の地を踏んだと考えられる。これがいわゆる「縄文人」だ。1万年前までは最終氷河期で、海面は今より70m低かった。氷河にも覆われていたので、台湾、琉球からの渡来はそう難しくはなかっただろう。
 一方、7万年前にアフリカを出て東アジアに渡った人々は、小麦農耕の技術を身に付け、今でいう中国の中原と呼ばれる地域で人口を爆発的に増やした。そこからあふれ出た人々が稲作の技術を携えて移動し、およそ3000年前に朝鮮半島を経て、北九州に渡った。それが「渡来系弥生人」と考えられる。
 実はこの説は、DNA分析が行なわれる前からあったが、従来は、農耕民の弥生人により狩猟採集民の縄文人が駆逐され、北海道に追いやられたのが「アイヌ人」、南に追いやられたのが「沖縄人」と考えられていた。しかし、現代日本人のDNA分析によって縄文人弥生人の混血が進んでいたことが判明し、両者の間で交流があったことが認められた。
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 ウィキペディア
 弥生人(やよいじん)は弥生時代に日本列島に居住した人々。大きく、弥生時代に中国大陸や朝鮮半島等から日本列島に渡来してきた「大陸系弥生人」、縄文人が直接新文化を受け入れた結果誕生した「縄文系弥生人」、および両者の混血である「混血系弥生人」とに分けられる。
 概要
 縄文人骨の顔立ちや体形は一定しており、あまり大きな時期差や地域差は認められないが、広義の弥生人骨は割合と多様であり、地域差や時期差が大きい。縄文人そのもののような弥生人縄文人に似た弥生人(縄文系弥生人)、大陸側(中国吉林省近く)にいた人々と身体的特徴が似ている弥生人(渡来系弥生人)、縄文系と渡来系が混合したような弥生人(混血系弥生人)、古墳時代の墳墓から抜け出てきたような弥生人(新弥生人)、さらに南九州には琉球諸島貝塚人に似た弥生人(南九州弥生人)がいた。
 ミトコンドリアDNAハプログループやY染色体ハプログループの研究によって、日本人と中国人・朝鮮人とのY染色体には違いがみられ、弥生時代開始以降に断続的に渡来人がやって来たものの、先住の縄文人とは完全に対立していたわけではなく、融和、混血していったものと考えられる。また日本列島には縄文時代以前から各方面から様々な人たちが日本へ流入し、弥生人も複数の系統が存在していたと推定される。
 国立遺伝学研究所集団遺伝研究室の斎藤成也教授等によると、縄文系弥生人や渡来系弥生人の混血は古墳時代から始まり、その後に現代日本人が誕生した。現代日本人には14パーセントから20パーセントほどしか縄文人の血が入っていないという推定値が出ている。
 起源
 弥生時代は一般に2400年前ほどに開始したとされてきた。そもそも弥生時代とは、弥生土器が使われている時代という意味であったが、現在では水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。2003年、国立歴史民俗博物館の研究グループは、炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとする説を提示した。これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる。しかし、現在では放射性炭素年代測定では、土器等に付着する塩分などの海産物による海洋リザーバー効果により年代が約400年古く推定されることが明らかになっており、再度年代についての論争は続いている[5]。なお、水稲には朝鮮半島から海を渡って直接日本に渡来したものと、山東半島から日本へ渡来したものがあるとする説が有力視されている。
 一般には、弥生人朝鮮半島山東半島から水稲栽培を日本にもたらした集団と考えられてきた。崎谷満によれば、日本に水稲栽培をもたらしたのはY染色体ハプログループO1b2に属す集団である。O1b2系統は、オーストロアジア語族の民族に高頻度にみられるO1b1系統の姉妹系統であり、満州朝鮮半島などの東アジア北東部に多く分布する。崎谷はO1b系統(O1b1/O1b2)はかつては長江文明の担い手であったが、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東省、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている。しかしながら、長江流域や江南地方などの華南地域においてはO1b2系統はほとんど分布が確認されないため、弥生人の祖先が長江文明の担い手であったという説を疑問視する見方や、上記の説より遥か早期に北上したという見方もある。
 弥生人に連なる東アジアのY染色体ハプログループと民族移動
 土井ヶ浜遺跡の弥生人が北部モンゴロイドの特徴を持つことや、日本人にみられるミトコンドリアDNAハプログループやGm遺伝子が北方型であることなどから、弥生人の起源地を沿海州南部(ロシア)に求める見方もある。岡正雄の日本人起源説の「父系的、「ハラ」氏族的、畑作=狩猟民文化(北東アジア・ツングース方面)」、鳥居龍蔵説の「固有日本人(朝鮮半島を経由して、あるいは沿海州から来た北方系民族)」がこれに対応すると思われる。[独自研究?]東アジア北東部にはハプログループO1b2が比較的高頻度に確認され、弥生時代に広くみられる刻目突帯文土器と似たタイプの土器が沿海州南西部のシニ・ガイ文化にもみられることから、近年ではこちらの説を推す声も多くなっている[誰によって?]。
 また、日本人の約20%に見られるO2系統も弥生人に含まれていたと想定されるが、O1b2とO2はルーツが異なると思われ、その渡来時期、ルートなどの詳細はまだまだ不明な点も多い。O2はその後のヤマト王権の成立に前後する渡来人によるものだとする見方も強い。
 なお、渡来した弥生人単一民族ではなく複数の系統が存在するという説も主流である。
 「日本人#民族学」、「日本人#HLAハプロタイプの流れ」、および「騎馬民族征服王朝説」も参照
 特徴
 頭蓋骨の計測値で渡来系弥生人に最も近いのは新石器時代河南省青銅器時代の江蘇東周・前漢人と山東臨淄前漢人であった。
 また、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。また、歯のサイズも縄文人より大きい。平均身長も162〜163センチぐらいで、縄文人よりも高い。しかしながら、こうした人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものである。南九州から北海道まで、他の地方からも似た特徴を持つ弥生時代の人骨は発見されているが、それらは人種間の形態とその発生頻度までを確定付けるには至っていない。近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、渡来系の人骨だと判定されている。つまり、最初に渡来系が展開したと考えられている北部九州や瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは渡来系の人と判定される人骨の出土数は縄文系とされる人骨より少ない。そのことから、水田稲作の先進地帯でも縄文人水稲耕作を行ったのであり、絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。 一方、1960年代になると金関丈夫が、山口県土井ヶ浜遺跡や佐賀県の三津永田遺跡などの福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から、弥生時代の人の身長は高く、さらに頭の長さや顔の広さなどが中国大陸の人骨に近く、縄文時代人とは大きな差があると指摘し、縄文人とは違った人間が朝鮮半島を経由してやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えた。その後の調査で、前述のように中国山東省の遺跡から発掘された人骨との類似も指摘されている。また、埴原和郎は、アジア南部に由来する縄文人の住む日本列島へ中国東北部にいたツングース系の人々が流入したことにより弥生文化が形成されたとの「二重構造モデル」を1991年に提唱した。埴原は、人口学の推計によれば弥生時代から古墳時代にかけて一般の農耕社会の人口増加率では説明できない急激な人口増加が起きていることから、この間、100万人規模の渡来人の流入があったはずだとする大量渡来説も提唱していた。
 佐原真は福岡平野佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人弥生人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血して名古屋と丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着したとしている。
 弥生人の種類(九州)
 九州の弥生人は、大陸から北部九州に渡来した「渡来系弥生人」、鹿児島県付近に住み極度な短頭型(絶壁型)の「南九州弥生人」、長崎県付近に住んでいた「西北九州弥生人」がある。南九州弥生人と北西九州弥生人については、血統的に縄文人の子孫と考えられてきた。近年の核ゲノム分析によって、西北九州弥生人については、渡来系弥生人との間で混血がかなり進んでいたことが示された。
 下戸
 弥生人に関連する体質として、下戸が存在する。下戸遺伝子の持ち主は中国南部と日本に集中しており、水耕栽培の発祥と推測される中国南部での、水田農耕地帯特有の感染症に対する自然選択の結果ではないかとも推測されている。
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