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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
泰緬鉄道敷設は大東亜鉄道網による食糧大輸送計画の起点であった。
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歴史の常識では、朝鮮人・韓国人は完全な善・正義で、日本人は完全な悪・犯罪者である。
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日本人にとって朝鮮人は、友・友人、親友、戦友、知人だったのか、敵であったのか。
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日本人B級・C級戦犯は、上官の命令に従って敵軍兵士を殺害した罪で有罪となり犯罪者として処刑された。
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2021年5月20日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
個人的戦犯
ビルマとタイを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道は昭和17年夏に着工され、僅か1年余で415キロの鉄路が完成した。
1日ほぼ1キロという驚異的な進捗率で、おまけに戦後も両国の民の生活の足になるよう、やっつけ仕事ではない本格的な架橋技術も施された。
それを支えたのが1万余の鉄道連隊と6万余の連合軍捕虜だった。
他にビルマとタイから作業員が徴募されたが、ともに最悪で、前払い賃金を貰うと彼らはすぐに飯場から姿をくらました。
連合軍捕虜はマラリアなどで実際に働いたのは半数以下だったが、断崖に鏨(たがね)で穴を穿(うが)つ意味が分かるから作業は捗(はかど)った。
以上は日本側関係者の記録で、全線開通したときは『日本軍兵士と捕虜が手を取り合って喜んだ』場面も報告している。
捕虜は十分な休養が与えられたあと、本土を含む各地収容所に送られたが、そこに悲劇が待っていた。
周辺の海域は米潜水艦が跳梁(ちょうりょう)し、捕虜護送中の阿里山丸など19隻が沈められた。それで捕虜1万1,580人が死んだ。
何とか収容所に入っても今度は米軍機が空から収容所を標的にした。
ボルネオ、香港、奉天などの収容所は繰り返される掃射(そうしゃ)で318人が死亡。奉天に収容されたパーシバル将軍も殺された。
広島と長崎の原爆でも米蘭の捕虜212人が被爆死している。
戦後、日本軍の捕虜死亡率は圧倒的に高いと非難された。あの執拗な空襲はそんな虚構を創るための作為とも言われる。
そういう非難に乗じて戦後、英豪蘭の捕虜が泰緬鉄道の現場で虐待されたと日本軍関係者を告発した。
告発は二つ。一つは不当な労働を強いた鉄道敷設計画の責任を問うもの。もう一つは捕虜虐待。
それで法廷は鉄道責任者の石田英熊中将ら2人を、また捕虜虐待で中村鎮雄大佐ら12人を訴追した。
裁判結果は鉄道関係の2人は10年の禁固刑、虐待の件では最終的に中村大佐と後任の佐々木誠少将の2人を死刑とした。
開戦早々に白旗を上げて戦時中は収容所でごろ寝していたオランダ軍捕虜は戦後、報復に224人の日本軍将兵を処刑した。
それに比べ泰緬鉄道では捕虜1万余が病死、衰弱死している。『死の鉄道』と呼んで残虐日本軍の代名詞にもされた。
その割に極刑が少なかったのは英軍の軍事法廷がオランダ人よりはまともだった、ということなのか。
ただ、戦犯法廷はもう一つあった。
先の戦争では開戦早々にフィリピンで米兵が、シンガポールでは英兵が、ジャワでは蘭豪兵が、計25万人もさっさと手を上げた。進出日本軍と同数だ。 彼らの面倒を見ていたら戦争もできない。急ぎ看守役に朝鮮人が募集され3,008人が配備された。
『彼らは残忍だった』と豪州軍捕虜は証言する。中でも悪質な148人が有罪とされ、23人が処刑された。『トカゲ』と綽名(あだな)された李鶴来も死刑組だったが後に減刑された。
先日の朝日新聞に彼の死亡記事が載った。『捕虜を泰緬鉄道建設に従事させて多数お死なせた』罪で一度は死刑を宣告されたとある。
いやいや彼はそんな要職にはない。捕虜を苛めた個人犯罪で断罪されただけだ。全く嘘っぱちだ。
驚いたことに朝日は社説と編集委員コラムでも同じ嘘を繰り返す。
主張は『日本人軍属として辛酸を嘗めたのに戦後は国籍消滅を理由に恩給も出さなかった』と日本政府をひたすら糾弾する。
社説では彼のサディスティックな行状を庇うためか『ジュネーブ条約も教えられなかった』と書く。
そこまで事実を捻じ曲げて個人的で陰湿な犯罪を『日本軍の犯罪』に仕立てようとする。そのわりには素材がちと悪すぎたか。
因みに故人は生前、苛めた捕虜に謝罪したという。
でも、謝罪すべきは相手は故人らの不始末の責任を取らされて処刑された中村大佐らではなかったのか。」
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ウィキペディア
泰緬鉄道は、太平洋戦争中にタイとミャンマーを結んでいた鉄道。旧日本陸軍によって建設・運行されたが、戦後英国軍が日本軍捕虜に命じて部分的に撤去され、現在はナムトックサイヨークノイ停車場で途切れている。日本軍の公式名称は泰緬連接鉄道。英語名称は「Thai-Burma Railway(またはBurma Railway)」だが、大量の死者を出した過酷な建設労働から、英語圏ではむしろ「死の鉄道 (Death Railway) 」の名で知られる。存置部分はタイ国有鉄道南本線ナムトック支線として運行されている。深い自然の中を通っているため風光明媚であり、「チョンカイの切り通し」「タム・クラセー桟道橋(アルヒル桟道橋)」など見所も多いため、観光客に人気の路線となっている。
歴史
建設までの経緯
この鉄道の建設は20世紀初頭の英領ビルマ時代にイギリスが検討していたが、地形が複雑で建設を断念した。戦時中の1942年、旧日本軍は海上輸送の危険を避け、またビルマ戦線の物資輸送のためのルートを確保するために建設を開始した。建設計画はイギリスが検討した5つの案(チェンマイ - トングー、ピッサヌローク・ターク - モールメン、現在のルート、カンチャナブリー - タボイ、チュンポン - メルグイ)の内の一つを踏襲している。背景としては、当時ビルマとタイの間にマラッカ海峡経由の海上輸送路以外に補給に適したルートが少なく、その海上輸送路もミッドウェー海戦などで日本側が劣勢になったため、海上輸送路とは別に陸上輸送路が求められたことによる。
発案者は、当時タイに駐留していた第25軍第2鉄道監部の広池俊雄中佐で、1941年11月に参謀本部の辻政信中佐によって大本営にプランが持ち込まれた。
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WEDGE REPORT 2016年8月15日
ミャンマーは本当に“親日国”なのか?両国の忘れてはならない歴史
根本敬 (上智大学総合グローバル学部教授)
三つめの理由は、戦後の日本が50年代前半まで極端な食糧不足で苦しんでいたとき、まだ外交関係も結ばれていないなか、独立したばかりのミャンマーが入札に基づかない特別な配慮を通じて、コメを日本に安く輸出してくれた事実に基づく。のちにコメの自給が達成できるようになると、日本はミャンマー米を冷たく扱うようになったが、それでも困っているときにコメを売ってくれたミャンマーに対する「恩」を語る日本人は少なくなかった。
しかし、こうした事例を基にした「ミャンマー親日」言説は、次に説明する日本占領期に起きたネガティヴな諸事実を前にした場合、冷静にとらえなおす必要が生じよう。ミャンマー(人)が「反日」でないことは間違いないにしても、一般に流布する「親日」説は、ミャンマーの人々の歴史認識を軽視した表面的なものであることを知るべきである。
日本ではあまり知られていない抗日闘争の歴史
現在のミャンマーでは3月27日を「国軍記念日」として盛大に祝う。この日はしかし、戦時中の抗日蜂起を起源に有している。ビルマ国軍(先述のビルマ独立義勇軍BIAが日本軍監視の下で発展したもの)が、日本軍に一斉蜂起した日が45年の3月27日なのである。48年1月の独立以来、70年代半ばまで「ファシスト打倒の日」(抗日記念日)と呼ばれ、その後、抗日闘争の武力的中核を担った国軍を英雄化すべく、現在の「国軍記念日」に呼称が変更されている。
蜂起後3カ月がたった45年6月末、アウンサンらの勢力は英軍に認知され、名称を愛国ビルマ軍(PBF)に変更のうえ、英軍の下に入って公式の共闘関係を築いた。ミャンマー側の史料を客観的に検証する限り、彼らはゲリラ戦を通じて日本の敗戦までに最小で1000人、最大で4700人前後の日本軍将兵を倒している。
この蜂起は戦後のミャンマーの歴史教育のなかでアウンサンの功績とつなげて強調され、関連図書も数多く出版された(ピークは60年代)、また抗日(愛国)文学の格好のテーマにもされてきた。日本ではあまり知られていなくても、ミャンマーでは国民が世代を超えて学んでいる史実が、この抗日闘争なのである。
泰緬鉄道建設工事の悲劇――「汗の兵隊」
日本占領期のミャンマーにあって、もうひとつ負の記憶として語り続けられているのが、戦時中に強行されたタイとミャンマーを結ぶ鉄道建設工事である。一般に泰緬鉄道と呼ばれるこの路線は、タイのノーンプラドゥクからミャンマー南部のタンビューザヤッをつなぐ全長415kmの軍事鉄道で、海にかわる陸上の補給ルートとして大本営によって計画された。真珠湾奇襲から約7カ月後の42年6月下旬に工事が始まり、険しい山間のジャングルに路盤をつくってレールを敷設していく難工事が機械をほとんど用いず人力でおこなわれ、わずか1年4カ月後の43年10月25日に開通している。
日本軍の鉄道連隊は世紀の鉄道工事としてこれを誇りにしたが、現実には連合軍捕虜と東南アジアで徴用された労務者を合わせて10万人以上の犠牲者を出した悲惨な工事だった。戦後、日本軍の捕虜虐待の最も悲惨な事例として日本と英国、オーストラリア、オランダとの戦後和解を困難にさせた。一方で、東南アジアで徴用された労務者の犠牲については十分な認知がいまだなされていない。
東南アジアの労務者に関する動員記録は日本軍の敗戦時に廃棄されたため、ほとんど残されていないが、推計でミャンマー人10万6000人、タイ人3万人、マレー人およびジャワ人(現在でいえばマレーシア人とインドネシア人)8万5000人とみなされている。ミャンマー人の多さが目立つ。
工事現場は、道具、衣服、食事、衛生環境のすべてにおいて劣悪で、かつ日本軍将兵や日本の植民地だった朝鮮半島から動員された監視員(コリアン・ガード)による威圧的で暴力的な行為がたびたび生じ、抵抗した者に対しては日本軍憲兵隊による拷問もおこなわれた。そのため、連合軍捕虜だけで1万2000人もの犠牲者を出した。東南アジアから徴用された労務者に至っては、推定で最小に見積もっても4万2000人、最大に見積もると12万5000人が命を失っている。
ミャンマーでは対日協力政府を率いたバモオ博士が日本軍の命令で労働力の供出を義務づけられ、やむをえず国内各村から指定した数の成人男子を労務者として日本軍に提供する割当制を実施した。泰緬鉄道建設工事への従事者は「汗の兵隊」と呼ばれ、そこに動員されることは多くの場合「死への近道」を意味したので、村人らを恐怖に陥れた。建設工事現場に移動する途中や工事中に、巧みに脱走して村へ逃げ帰った者も少なくなかったが、結果的に約10万人が現場に送り込まれ、少なくとも3万人が命を失ったと見積もられている。そのため、戦後のミャンマーでは「枕木1本につき一人が死んだ」と語られるまでになり、歴史教育においても泰緬鉄道建設工事の悲劇は教えられている。
過去の歴史と現在を分けて考えるミャンマー
以上、私たちが知る機会の少ないミャンマーにおける日本占領期のネガティヴな側面を重点的に見てきた。戦時中の東南アジアではフィリピンで100万人を優に超える多くの民間人犠牲者が出たが、ミャンマーも犠牲者の数では大きく下回るものの、民間人の経験した苦しみは大きかった。
しかし、いまのミャンマー人が日本人にこうした事柄を語ることは稀である。こちらから特別に聞かないかぎり、向こうから進んで話すことはまずありえないといってよい。彼らは学校の歴史教育を通じて日本占領期の苦しみと抗日闘争について学んで十分な知識を有しているが、一方で、そこで得た知識を今の日本と直接的に結び付けることはしない。そもそも学校で現在の日本に批判的な教育をおこなっていないので、占領期の事柄はあくまでも「歴史的過去」として学ぶにすぎない。
このことに私たち日本人は感謝すべきである。と同時にミャンマー(人)のこうした「歴史と今を分けて考える」姿勢にけっして甘えてはならない。私たちは過去の日本が東南アジアで犯した過ちに関する史実を冷静に学び、先方が抱くこの時代の歴史認識に対し、謙虚な対応を心がけるべきである。これは「自虐」を意味しない。東南アジアの人々と対等な関係を深めていくための「よりよき」姿勢を意味するものである。
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キリスト教系朝鮮人テロリストは、日本人共産主義者テロリストと同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
反日韓国にとってキリスト教系朝鮮人テロリストは、国家の英雄であった。
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日本が太平洋戦争を始めた真の原因は、エネルギーの石油問題(油断)ではなく食糧の外米問題(食断)であった。
つまり、輸入食料を食べて生き残る為の積極的自衛戦争であった。
が、現代では、日本はおろか世界から戦争犯罪とされている。
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泰緬鉄道敷設の目的は、中国人商人が支配していた東南アジアの外米独占権を剥奪し、食糧の流通を大東亜鉄道網で快適化して、日本、朝鮮、中国・華北における食糧不足を解消し、河南省大飢饉で餓死線上に苦しむ中国人1,000万人以上を救う為であった。
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東南アジアの三大穀物(コメ)生産地帯は、ビルマ(現・ミャンマー)、タイ、仏印(ベトナム)であった。
最大な難問は、如何にしてビルマ産米をタイの大東亜鉄道網に運びこむかであった。
輸送船でマレー半島を迂回させる事は、平和な時でも時間が掛かるし、まして戦時中であれば連合国に攻撃される危険性があった。
日本陸軍鉄道連隊は、食糧・外米大輸送網を完成させる為に泰緬鉄道敷設に取り掛かった。
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鉄道連隊の鉄道敷設技術は、西洋列強に負けず劣らぬ世界トップクラスにあった。
その鉄道敷設技術は、戦後、世界初の高速鉄道である新幹線を造り上げた。
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ビルマ産米を泰緬鉄道でタイに運び、タイ産米をベトナムに運び、ベトナム産米を輸送船で日本、朝鮮、中国に運ぶという、遠大な食糧輸送計画であった。
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