☲23〕─2─泰緬鉄道敷設での志願者・朝鮮人監視員(コリアン・ガード)の個人的戦犯。~No.74No.75 ⑰ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 泰緬鉄道敷設は大東亜鉄道網による食糧大輸送計画の起点であった。
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 歴史の常識では、朝鮮人・韓国人は完全な善・正義で、日本人は完全な悪・犯罪者である。
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 日本人にとって朝鮮人は、友・友人、親友、戦友、知人だったのか、敵であったのか。
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 日本人B級・C級戦犯は、上官の命令に従って敵軍兵士を殺害した罪で有罪となり犯罪者として処刑された。
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 2021年5月20日号 週刊新潮「変見自在  高山正之
 個人的戦犯
 ビルマとタイを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道は昭和17年夏に着工され、僅か1年余で415キロの鉄路が完成した。
 1日ほぼ1キロという驚異的な進捗率で、おまけに戦後も両国の民の生活の足になるよう、やっつけ仕事ではない本格的な架橋技術も施された。
 それを支えたのが1万余の鉄道連隊と6万余の連合軍捕虜だった。
 他にビルマとタイから作業員が徴募されたが、ともに最悪で、前払い賃金を貰うと彼らはすぐに飯場から姿をくらました。
 連合軍捕虜はマラリアなどで実際に働いたのは半数以下だったが、断崖に鏨(たがね)で穴を穿(うが)つ意味が分かるから作業は捗(はかど)った。
 以上は日本側関係者の記録で、全線開通したときは『日本軍兵士と捕虜が手を取り合って喜んだ』場面も報告している。
 捕虜は十分な休養が与えられたあと、本土を含む各地収容所に送られたが、そこに悲劇が待っていた。
 周辺の海域は米潜水艦が跳梁(ちょうりょう)し、捕虜護送中の阿里山丸など19隻が沈められた。それで捕虜1万1,580人が死んだ。
 何とか収容所に入っても今度は米軍機が空から収容所を標的にした。
 ボルネオ、香港、奉天などの収容所は繰り返される掃射(そうしゃ)で318人が死亡。奉天に収容されたパーシバル将軍も殺された。
 広島と長崎の原爆でも米蘭の捕虜212人が被爆死している。
 戦後、日本軍の捕虜死亡率は圧倒的に高いと非難された。あの執拗な空襲はそんな虚構を創るための作為とも言われる。
 そういう非難に乗じて戦後、英豪蘭の捕虜が泰緬鉄道の現場で虐待されたと日本軍関係者を告発した。
 告発は二つ。一つは不当な労働を強いた鉄道敷設計画の責任を問うもの。もう一つは捕虜虐待。
 それで法廷は鉄道責任者の石田英熊中将ら2人を、また捕虜虐待で中村鎮雄大佐ら12人を訴追した。
 裁判結果は鉄道関係の2人は10年の禁固刑、虐待の件では最終的に中村大佐と後任の佐々木誠少将の2人を死刑とした。
 開戦早々に白旗を上げて戦時中は収容所でごろ寝していたオランダ軍捕虜は戦後、報復に224人の日本軍将兵を処刑した。
 それに比べ泰緬鉄道では捕虜1万余が病死、衰弱死している。『死の鉄道』と呼んで残虐日本軍の代名詞にもされた。
 その割に極刑が少なかったのは英軍の軍事法廷がオランダ人よりはまともだった、ということなのか。
 ただ、戦犯法廷はもう一つあった。
 先の戦争では開戦早々にフィリピンで米兵が、シンガポールでは英兵が、ジャワでは蘭豪兵が、計25万人もさっさと手を上げた。進出日本軍と同数だ。 彼らの面倒を見ていたら戦争もできない。急ぎ看守役に朝鮮人が募集され3,008人が配備された。
 『彼らは残忍だった』と豪州軍捕虜は証言する。中でも悪質な148人が有罪とされ、23人が処刑された。『トカゲ』と綽名(あだな)された李鶴来も死刑組だったが後に減刑された。
 先日の朝日新聞に彼の死亡記事が載った。『捕虜を泰緬鉄道建設に従事させて多数お死なせた』罪で一度は死刑を宣告されたとある。
 いやいや彼はそんな要職にはない。捕虜を苛めた個人犯罪で断罪されただけだ。全く嘘っぱちだ。
 驚いたことに朝日は社説と編集委員コラムでも同じ嘘を繰り返す。
 主張は『日本人軍属として辛酸を嘗めたのに戦後は国籍消滅を理由に恩給も出さなかった』と日本政府をひたすら糾弾する。
 社説では彼のサディスティックな行状を庇うためか『ジュネーブ条約も教えられなかった』と書く。
 そこまで事実を捻じ曲げて個人的で陰湿な犯罪を『日本軍の犯罪』に仕立てようとする。そのわりには素材がちと悪すぎたか。
 因みに故人は生前、苛めた捕虜に謝罪したという。
 でも、謝罪すべきは相手は故人らの不始末の責任を取らされて処刑された中村大佐らではなかったのか。」
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 泰緬鉄道は、太平洋戦争中にタイとミャンマーを結んでいた鉄道。旧日本陸軍によって建設・運行されたが、戦後英国軍が日本軍捕虜に命じて部分的に撤去され、現在はナムトックサイヨークノイ停車場で途切れている。日本軍の公式名称は泰緬連接鉄道。英語名称は「Thai-Burma Railway(またはBurma Railway)」だが、大量の死者を出した過酷な建設労働から、英語圏ではむしろ「死の鉄道 (Death Railway) 」の名で知られる。存置部分はタイ国有鉄道南本線ナムトック支線として運行されている。深い自然の中を通っているため風光明媚であり、「チョンカイの切り通し」「タム・クラセー桟道橋(アルヒル桟道橋)」など見所も多いため、観光客に人気の路線となっている。
 歴史
 建設までの経緯
 この鉄道の建設は20世紀初頭の英領ビルマ時代にイギリスが検討していたが、地形が複雑で建設を断念した。戦時中の1942年、旧日本軍は海上輸送の危険を避け、またビルマ戦線の物資輸送のためのルートを確保するために建設を開始した。建設計画はイギリスが検討した5つの案(チェンマイ - トングー、ピッサヌローク・ターク - モールメン、現在のルート、カンチャナブリー - タボイ、チュンポン - メルグイ)の内の一つを踏襲している。背景としては、当時ビルマとタイの間にマラッカ海峡経由の海上輸送路以外に補給に適したルートが少なく、その海上輸送路もミッドウェー海戦などで日本側が劣勢になったため、海上輸送路とは別に陸上輸送路が求められたことによる。
 発案者は、当時タイに駐留していた第25軍第2鉄道監部の広池俊雄中佐で、1941年11月に参謀本部辻政信中佐によって大本営にプランが持ち込まれた。
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 WEDGE REPORT   2016年8月15日
 ミャンマーは本当に“親日国”なのか?両国の忘れてはならない歴史
 根本敬上智大学総合グローバル学部教授)

 三つめの理由は、戦後の日本が50年代前半まで極端な食糧不足で苦しんでいたとき、まだ外交関係も結ばれていないなか、独立したばかりのミャンマーが入札に基づかない特別な配慮を通じて、コメを日本に安く輸出してくれた事実に基づく。のちにコメの自給が達成できるようになると、日本はミャンマー米を冷たく扱うようになったが、それでも困っているときにコメを売ってくれたミャンマーに対する「恩」を語る日本人は少なくなかった。
 しかし、こうした事例を基にした「ミャンマー親日」言説は、次に説明する日本占領期に起きたネガティヴな諸事実を前にした場合、冷静にとらえなおす必要が生じよう。ミャンマー(人)が「反日」でないことは間違いないにしても、一般に流布する「親日」説は、ミャンマーの人々の歴史認識を軽視した表面的なものであることを知るべきである。

 日本ではあまり知られていない抗日闘争の歴史
 現在のミャンマーでは3月27日を「国軍記念日」として盛大に祝う。この日はしかし、戦時中の抗日蜂起を起源に有している。ビルマ国軍(先述のビルマ独立義勇軍BIAが日本軍監視の下で発展したもの)が、日本軍に一斉蜂起した日が45年の3月27日なのである。48年1月の独立以来、70年代半ばまで「ファシスト打倒の日」(抗日記念日)と呼ばれ、その後、抗日闘争の武力的中核を担った国軍を英雄化すべく、現在の「国軍記念日」に呼称が変更されている。

 蜂起後3カ月がたった45年6月末、アウンサンらの勢力は英軍に認知され、名称を愛国ビルマ軍(PBF)に変更のうえ、英軍の下に入って公式の共闘関係を築いた。ミャンマー側の史料を客観的に検証する限り、彼らはゲリラ戦を通じて日本の敗戦までに最小で1000人、最大で4700人前後の日本軍将兵を倒している。
 この蜂起は戦後のミャンマー歴史教育のなかでアウンサンの功績とつなげて強調され、関連図書も数多く出版された(ピークは60年代)、また抗日(愛国)文学の格好のテーマにもされてきた。日本ではあまり知られていなくても、ミャンマーでは国民が世代を超えて学んでいる史実が、この抗日闘争なのである。

 泰緬鉄道建設工事の悲劇――「汗の兵隊」
 日本占領期のミャンマーにあって、もうひとつ負の記憶として語り続けられているのが、戦時中に強行されたタイとミャンマーを結ぶ鉄道建設工事である。一般に泰緬鉄道と呼ばれるこの路線は、タイのノーンプラドゥクからミャンマー南部のタンビューザヤッをつなぐ全長415kmの軍事鉄道で、海にかわる陸上の補給ルートとして大本営によって計画された。真珠湾奇襲から約7カ月後の42年6月下旬に工事が始まり、険しい山間のジャングルに路盤をつくってレールを敷設していく難工事が機械をほとんど用いず人力でおこなわれ、わずか1年4カ月後の43年10月25日に開通している。
 日本軍の鉄道連隊は世紀の鉄道工事としてこれを誇りにしたが、現実には連合軍捕虜と東南アジアで徴用された労務者を合わせて10万人以上の犠牲者を出した悲惨な工事だった。戦後、日本軍の捕虜虐待の最も悲惨な事例として日本と英国、オーストラリア、オランダとの戦後和解を困難にさせた。一方で、東南アジアで徴用された労務者の犠牲については十分な認知がいまだなされていない。
 東南アジアの労務者に関する動員記録は日本軍の敗戦時に廃棄されたため、ほとんど残されていないが、推計でミャンマー人10万6000人、タイ人3万人、マレー人およびジャワ人(現在でいえばマレーシア人とインドネシア人)8万5000人とみなされている。ミャンマー人の多さが目立つ。
 工事現場は、道具、衣服、食事、衛生環境のすべてにおいて劣悪で、かつ日本軍将兵や日本の植民地だった朝鮮半島から動員された監視員(コリアン・ガード)による威圧的で暴力的な行為がたびたび生じ、抵抗した者に対しては日本軍憲兵隊による拷問もおこなわれた。そのため、連合軍捕虜だけで1万2000人もの犠牲者を出した。東南アジアから徴用された労務者に至っては、推定で最小に見積もっても4万2000人、最大に見積もると12万5000人が命を失っている。
 ミャンマーでは対日協力政府を率いたバモオ博士が日本軍の命令で労働力の供出を義務づけられ、やむをえず国内各村から指定した数の成人男子を労務者として日本軍に提供する割当制を実施した。泰緬鉄道建設工事への従事者は「汗の兵隊」と呼ばれ、そこに動員されることは多くの場合「死への近道」を意味したので、村人らを恐怖に陥れた。建設工事現場に移動する途中や工事中に、巧みに脱走して村へ逃げ帰った者も少なくなかったが、結果的に約10万人が現場に送り込まれ、少なくとも3万人が命を失ったと見積もられている。そのため、戦後のミャンマーでは「枕木1本につき一人が死んだ」と語られるまでになり、歴史教育においても泰緬鉄道建設工事の悲劇は教えられている。
 過去の歴史と現在を分けて考えるミャンマー
 以上、私たちが知る機会の少ないミャンマーにおける日本占領期のネガティヴな側面を重点的に見てきた。戦時中の東南アジアではフィリピンで100万人を優に超える多くの民間人犠牲者が出たが、ミャンマーも犠牲者の数では大きく下回るものの、民間人の経験した苦しみは大きかった。
 しかし、いまのミャンマー人が日本人にこうした事柄を語ることは稀である。こちらから特別に聞かないかぎり、向こうから進んで話すことはまずありえないといってよい。彼らは学校の歴史教育を通じて日本占領期の苦しみと抗日闘争について学んで十分な知識を有しているが、一方で、そこで得た知識を今の日本と直接的に結び付けることはしない。そもそも学校で現在の日本に批判的な教育をおこなっていないので、占領期の事柄はあくまでも「歴史的過去」として学ぶにすぎない。
 このことに私たち日本人は感謝すべきである。と同時にミャンマー(人)のこうした「歴史と今を分けて考える」姿勢にけっして甘えてはならない。私たちは過去の日本が東南アジアで犯した過ちに関する史実を冷静に学び、先方が抱くこの時代の歴史認識に対し、謙虚な対応を心がけるべきである。これは「自虐」を意味しない。東南アジアの人々と対等な関係を深めていくための「よりよき」姿勢を意味するものである。
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 キリスト教朝鮮人テロリストは、日本人共産主義者テロリストと同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
 反日韓国にとってキリスト教朝鮮人テロリストは、国家の英雄であった。
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歴史和解と泰緬鉄道 英国人捕虜が描いた収容所の真実 (朝日選書)
泰緬鉄道からの生還―ある英国兵が命をかけて綴った捕虜日記一九四二‐一九四五
死の鉄路―泰緬鉄道ビルマ人労務者の記録 (1981年)
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韓国人元BC級戦犯の訴え―何のために、誰のために (教科書に書かれなかった戦争)
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 日本が太平洋戦争を始めた真の原因は、エネルギーの石油問題(油断)ではなく食糧の外米問題(食断)であった。
 つまり、輸入食料を食べて生き残る為の積極的自衛戦争であった。
 が、現代では、日本はおろか世界から戦争犯罪とされている。
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 泰緬鉄道敷設の目的は、中国人商人が支配していた東南アジアの外米独占権を剥奪し、食糧の流通を大東亜鉄道網で快適化して、日本、朝鮮、中国・華北における食糧不足を解消し、河南省大飢饉で餓死線上に苦しむ中国人1,000万人以上を救う為であった。
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 東南アジアの三大穀物(コメ)生産地帯は、ビルマ(現・ミャンマー)、タイ、仏印ベトナム)であった。
 最大な難問は、如何にしてビルマ産米をタイの大東亜鉄道網に運びこむかであった。
 輸送船でマレー半島を迂回させる事は、平和な時でも時間が掛かるし、まして戦時中であれば連合国に攻撃される危険性があった。
 日本陸軍鉄道連隊は、食糧・外米大輸送網を完成させる為に泰緬鉄道敷設に取り掛かった。
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 鉄道連隊の鉄道敷設技術は、西洋列強に負けず劣らぬ世界トップクラスにあった。
 その鉄道敷設技術は、戦後、世界初の高速鉄道である新幹線を造り上げた。
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 ビルマ産米を泰緬鉄道でタイに運び、タイ産米をベトナムに運び、ベトナム産米を輸送船で日本、朝鮮、中国に運ぶという、遠大な食糧輸送計画であった。
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☴14〕─1─北朝鮮のマルクス主義・苦難の行軍・主体思想による犠牲者200万人以上の餓死者。~No.48No.49No.50 ④ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 餓死者の陰には、餓死した犠牲者の数倍にのぼる飢えて苦しむ人々がいる。
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 2016年1月9日 産経新聞「秘録金正日(59) 失政で餓死者200万人超、「米韓のスパイだ」責任転嫁し仕掛けた粛清劇
 1995年夏、北朝鮮は100年に1度といわれる大洪水に見舞われる。金日成(キム・イルソン)時代に「主体(チュチェ)農法」と称して造成した段々畑はもろくも流され、韓国側の推定で穀物収穫量は年間345万トンに落ち込む。
 国内需要には約130万トン足りず、手立てを講じなければ、餓死者が出るのは明らかだった。しかし、金正日(ジョイル)は「苦難の行軍」をスローガンに掲げて乗り切ろうとした。抗日闘争時代、日成の部隊が木の皮で飢えをしのいで行軍した逸話にちなみ、国民にただ我慢だけを強いたのだ。
 食糧不足がピークに達した96年には全国に飢餓が広がり、人口約17万人の北東部、金策(キムチェク)市だけでも毎日200人以上の餓死者が出た。元朝労働党中央委資料研究室副室長の金徳弘(ドクホン)が後に見た内部の統計資料では「96年11月までに少なくとも100万人が死んだ」という。この大飢饉(ききん)での犠牲者は最終的に200万人以上に達したといわれる。
 爆弾テロ画策し韓国反共団体が潜伏?
 全ての責任は、権力を独占する金正日にあったが、言い逃れに終始する。
 「(金日成)首領さまは生前、私に絶対、経済生活(運営)には深く関与してはならないとおっしゃった。党や軍事活動もできなくなると、何度もおっしゃったのです」(96年12月、金日成総合大学での談話)
 民心が離れていくなか、正日は「思想戦」(党員・住民の思想検閲運動)を打ち出す。 「首領さまがいなくなった隙を狙い、米帝南朝鮮(韓国)傀儡(かいらい)らが侵略戦争を仕掛けようとしている。革命の首脳部を暗殺しようとテロ分子を浸透させていることを知らせろ」
 党宣伝扇動部にこう命じ、全国民を巻き込んだ集会を展開させる。
 タイミングを計ったように96年夏には、警察に当たる社会安全部の報告書によって「間諜(スパイ)事件」が明るみに出る。平壌市竜城(リョンソン)区域で住民登録簿を調べたところ、爆破テロを仕掛けようと紛れ込んでいた韓国の反共組織「西北青年団」のメンバーを摘発したとの内容だ。
 実際には、前年末に市安全局住民登録課職員が同区域の行政委員長を「スパイ」として申告、後にでっち上げと判明したはずの案件を社会安全部政治局長の蔡文徳(チェ・ムンドク)が蒸し返したのだ。
 朝鮮中央テレビは韓国団体員が隠し持っていたとする武器を公開する。だが、同部監察課出身の朴文一(パク・ムンイル)によると、「武器は塩水に漬け、さびを作ったものだった」という。事件に信憑(しんぴょう)性を持たせるために施された演出だった。
 蔡は、正日の大学同期生という理由だけで出世コースに乗り、平壌市安全局長に就いた。党の学習を怠ったとして一時、地方の分駐所に左遷されたものの、正日の妹婿の張成沢チャン・ソンテク)の口利きで党組織指導部副部長に昇進。96年から住民の政治動向を監視する社会安全部政治局長を務めていた。 
 「一発やってみせろ」
 蔡文徳からの報告書を読んだ金正日は「住民登録文書の了解(調査)をさらに深化させろ」と社会安全部に指示した。
 「私の登録文書から調査してもよい。スパイ組織を根こそぎ見つけ出すのだ」ともはっぱをかけた。「思想戦」は国を挙げた大捜査劇へと変貌していく。
 正日の指示で、調査を徹底するため、同部内に「深化組(チーム)」指揮部が設置され、蔡が最高責任者に就任した。総勢8千人を投入し地方の道、市、郡にも深化組が組織された。正日への報告役は、組織指導部で司法部門を統括する第1副部長になったばかりの張成沢に任された。
 深化組の捜査が動き出したのは97年初めとされる。農業担当党書記の徐寛煕(ソ・グァンヒ)が最初の標的となった。金日成の農業政策を現場で支えてきた人物だ。
 寛煕には、肥料30トンを親戚らに横流しした容疑がかけられた。配分をめぐる手違いにすぎなかったとみられるが、機を見るに敏な張が事件を利用した。
 張が上げた資料に目を通した後、正日は吐き捨てるようにいった。「肥料(事件)だけでは弱すぎる」
 義兄の言質を得たとばかりに張は蔡に告げた。「将軍さまから全権を委任してもらった。この機会に、社会安全部を動員して一発やってみせろ。背後を徹底調査しろ」
 正日や張の思惑を忖度(そんたく)した蔡は、寛煕を「何十年も前から共和国(北朝鮮)内部に潜伏して、米国と南朝鮮のために党の農業政策を破壊したスパイ」に仕立て上げた。朝鮮戦争期間中の経歴に「1カ月の空白」があり、この間に米韓に抱き込まれたとする罪状が捏造(ねつぞう)された。
 97年9月中旬、平壌南部、統一通り近くの丘で、3万5千人もの群衆が見つめるなか、寛煕の銃殺刑が執行された。現場に居合わせたという元党幹部の金哲鎮(チョルジン)は「拷問のせいでボロボロになっていた徐寛煕の口には、くつわがはめられていた。声を出すのを恐れたからです」と証言する。
 「刑場」には、スパイ組織の一味とされた西部、平安南道(ピョンアンナムド)の協同農場女性管理委員長の黄今淑(ファン・グムスン)ら17人も引きずり出された。群衆は「南朝鮮傀儡の手先を殺せ」と罵声を浴びせた。
 死者をもう一度「公開処刑処」
 徐寛煕の処刑は、摘発の幕開けにすぎなかった。死んだ人物の「公開処刑」まで行い、恐怖心をあおり立てた。
 84年に死亡し、革命烈士陵に埋葬された元農業担当書記の金万金(マングム)について、農業政策の失敗の責任が問われた。掘り出した遺骨を人民裁判にかけ、再度この世から葬られた。
 これを皮切りに、蔡文徳は本格的な北朝鮮魔女狩りに踏み切る。
 まず、「深化組」上層部が個人的な恨みを抱く幹部が餌食となった。象徴的人物が本部党責任書記の文成戌(ムン。ソンスル)だ。正日の異母兄弟やその親族を監視する役目を与えられていたが、しばしば、張成沢の越権行為や女性関係を金日成に報告し、張の恨みを買っていた。
 次に逮捕されたのは、党政治局委員で平安南道党責任書記の徐允錫(ユンソク)や、平壌近郊の南浦(ナムポ)市党責任書記の朴勝一(スンイル)ら。允錫は蔡を地方に左遷した元上司だ。
 文は、尋問中に顔の原形をとどめないほど殴られ、自ら独房の壁に頭を打ちつけて自殺。允錫は拷問で精神に異常をきたした。
 これを聞いた金正日は「文成戌は信念の強い人間だ。徐允錫は信念がない」と冷酷に応じたという。
 逮捕者は次第に膨れ上がり、98年までに金日成時代の老幹部を中心に3千人近くが処刑され、1万人以上の縁故者が収容所に送られた。しかし、深化組事件はその後の展開によって、人々に正日統治の恐怖をさらに深く植え付けることになる。=敬称略」
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 2021年9月9日 MicrosoftNews AFPBB News北朝鮮が軍事パレード 建国73年
 【9月9日 AFP】北朝鮮は建国73年を迎えた9日未明、首都平壌金日成広場(Kim Il Sung Square)で民兵組織「労農赤衛軍」や治安を担当する「社会安全軍」を中心にした軍事パレードを行った。国営朝鮮中央通信(KCNA)が報じた。北朝鮮が軍事パレードを実施するのは、この1年間で3回目。
 北朝鮮は、国際社会に制裁を科されているにもかかわらず、核兵器とミサイルの開発を続けており、軍事パレードでその成果をアピールすることが多い。
 しかし、今回はかなり控えめな内容で、戦略兵器も登場しなかったとみられる。パレードの最後に登場したのは恒例の巨大なミサイルではなく、社会安全軍の消防隊だった。
 KCNAによると、金正恩キム・ジョンウン、Kim Jong-un)朝鮮労働党総書記は「全国民に温かいあいさつをした」が、演説はしなかった。
 KCNAによると、共同農場の労働者らは、「有事の際に、侵略者とそれに従属する部隊を壊滅させる火力を持った大砲を積んだトラクター」で参加した。
 映像は国営朝鮮中央テレビ(KCTV)による放送の一部。」
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 苦難の行軍(朝鮮語:고난의 행군)とは、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)で1996年1月1日の朝鮮労働党機関紙『労働新聞』の新年共同社説で使われた、当時の飢饉と経済政策の失敗による経済的困難を乗り越えるためのスローガンである。1938年(昭和13年)12月から1939年(昭和14年)3月まで金日成抗日パルチザン満洲で日本軍と闘いながら行軍したとされることになぞらえている。
 概要
 北朝鮮では、金日成死去後・金正日体制に移行した1994年から1998年にかけて、朝鮮戦争休戦後最大規模となる飢饉が発生、1995年夏の大水害をきっかけとして深刻化し、1998年末までに30万人から300万人が死亡したといわれる。この飢饉が深化組事件の遠因となった。この時期は出生率も3割ほど低下しており、2014年にはこの時期に生まれた世代が徴兵されると、120万とされる現在の朝鮮人民軍の兵力を維持できなくなるため、北朝鮮は女性の徴兵義務化を発表している。
 北朝鮮は苦難の行軍が始まった1994年に徴兵検査基準を変更し、「身長150cm以上、体重48kg以上」を「身長148cm以上、体重43kg以上」に引き下げ、さらに、苦難の行軍期に年少期を過ごした子供が、徴兵年令である17歳に達した2008年からは、その徴兵検査基準も撤廃され、健康であればすべての若者を徴兵対象者にすると変更した。徴兵検査基準が変更されたのは若者の成長不足のためであり、大量の餓死者が発生した苦難の行軍により、著しく人口が減少し、兵士充足率が急減していることが分かる。さらに、CIAなど5つの情報機関が共同で作成し、国家情報会議のウェブサイトに掲載された「世界保健の戦略的示唆点」は、「北朝鮮では1990年代に広範囲に及ぶ飢餓が発生してから深刻な栄養不足状態が続いており、児童の半数以上が成長障害か低体重、青年層の3分の2に栄養失調や貧血がみられる」「2009年から2013年の潜在的徴集対象の17%から29%が知的能力に欠け軍生活不適格者となる」「北朝鮮の軍人らは自身に対する食糧配給がきちんと行われても栄養失調にあえぐ家族を心配するようになり、これが忠誠心の低下につながりかねない」と報告している。
 1999年4月30日『朝鮮日報』によると、テポドン1号発射には最低3億ドルかかり、3億ドルで国際市場のトウモロコシを買えば約350万トンになり、それだけで北朝鮮全国民の1年分の食糧となる。1999年4月22日『労働新聞』は、金正日の「(1998年8月のテポドン1号発射について)敵は何億ドルもかかっただろうと言っているが、それは事実だ」「私は、わが人民がまともに食べることができず、他人のようによい生活ができないということを知りつつも、国と民族の尊厳と運命を守り抜いて明日の富強祖国を建設するため、資金をその部門に振り向けることを承諾した」という発言を報じている。安明進によると、1990年代後半に金正日は「反乱が起きたら全部殺せ。餓死者は死なせておけばいい。私には2千百万全部の朝鮮人民が必要なのではなく、百万の党員がいればいいんだ」と発言した。
 北朝鮮労働者の国家的な海外派遣は、1960年代より行われていたが、苦難の行軍に伴う生活苦の経験を契機として、ロシアの森林(北洋材)伐採現場や中東の建設現場に、進んで出稼ぎとして赴く者も出るようになった。
 2021年4月に開催された朝鮮労働党第6次細胞書記大会で金正恩総書記は「自己の党(朝鮮労働党)を守るために数十年間もあらゆる苦難に耐えてきた人民の苦労を今は一つでも軽減し、人民に最大限の物質的・文化的福利をもたらすために、私は、党中央委員会から始めて各級党組織、全党の細胞書記がより厳しい『苦難の行軍』を行うことを決心した」と発言し、『苦難の行軍』に言及して体制の結束を高める方針を示した。
 餓死者数
 餓死者数は、政治的要因および統計制度・調査方法の不備から、識者によって諸説ある。
 ・韓国に亡命した北朝鮮最高人民会議常設会議議長の黄長燁は、「1996年11月に大量餓死が心配になって、腹心の部下を労働党組織指導部に送って尋ねさせたところ、1995年に50万人、1996年11月までに100万人死んだ。このままなら1997年も100万人、1998年までに300万人死ぬだろう」という結果を得たと証言しており、「自分が統治する人民、国民を300万以上餓死させ、そしてすべての国土を監獄にし、経済的権力、政治的権力、すべてのものを奪い、とうとう精神すらも奪ってしまう」「有事には急変して大勢の難民が韓国に来る、日本に来るという話もありますが、私はそういうふうには思いません。300万人が餓死した時もそのようなことはありませんでした」と述べている。
 ・1996年11月、朝鮮労働党中央委員会資料研究室副室長の金徳弘に対して、朝鮮労働党中央委員会書記局組織部の死亡者の統計担当者が「1995年に50万人、うち党員が5万人、1996年11月までの時点で既に100万人、1997年もこのまま行けば100万人は死ぬだろう」と伝えた[13]。これについて1999年3月に金徳弘と面談した西岡力は、「この統計が総死亡者数だとしても、1995年、1996年の2年間で150万人になる。1997年、1998年も状況は好転していないから少なくとも150万人以上が死亡したと見て間違いないだろう。となると、4年間では300万人以上の死亡者が出たことになる」「面談した際の印象とこれまで文章として発表されたものの内容から、死亡者の数に関する黄氏と金氏の証言は意図的な誇張や歪曲はないと私は判断している」と述べている。
 ・ジャスパー・ベッカー(BBC記者)が、国連などのデータをもとに指摘しているところによると、金日成が死去した直後の1995年、国連が調査した北朝鮮の人口は2400万人だったが、2005年には1900万人に激減しており、わずか10年余りの間に500万人も餓死していると指摘している。
 ・宮塚利雄は、2012年に「10年間で500万人以上の餓死者が出たと言われ、現在は(北朝鮮の人口は)2000万人を切っているとも言われる」と述べている。
 ・李栄薫は『産経新聞』のインタビューに対し、「たとえば、金日成主席の死亡(1994年)から1997年までに金日成の墓のために使われた資金は9億ドル(約970億円)にのぼる。その金があれば、1995年から1998年にかけ300万人が死んだとされる大飢餓の人々を救えたはずだ」と述べている。
 ・救う会事務局長の平田隆太郎によれば、韓国から北朝鮮に向けて風船で散布している北朝鮮向けビラには、「300万人が飢えて死んだ『苦難の行軍』の時、3年間も北朝鮮人民らを養うことのできる8億9千万ドルを投じて自分の父の金日成の死体を飾るのに費やしました。このお金で食糧を買い、飢える人民に食べさせたら、数百万人が餓死はしなかったはずです。これがまさに人民の父母、人民の指導者と騒ぎ立てる金正日の正体です」と書かれている[17]。平田は、「北朝鮮では1994年に飢餓が発生し、1996年、1997年、1998年の3年間で大量の餓死が発生し、1999年まで続き、その数は300万人と言われる。餓死者が大量に出たことは脱北者の証言で明らかであるが、北朝鮮は、この期間も人口が増加したと報告している」「北朝鮮の人口統計は少なくとも300万人の水増しである。特に金正日政権になって餓死者が多発したのである」と述べている。
 ・趙甲濟は、脱北した北朝鮮政府高官から「2005年に労働党の核心部署が最高人民会議代議員選挙のための人口調査をしたところ、1800万人という数字が出た」という情報を得たとして、「平壌の高官だった脱北者が驚くべき証言をした。彼は、『自分が労働党の核心部署から聞いたことでは、労働党最高人民会議代議員選挙(2003年8月)のため人口調査をしたら、なんと1800万人だったそうだ』『1994年から1998年の4年間で300万人以上が飢え死にした以降も人口の増加はなかった』」と述べている。
 ・李相哲は、「200万人に上る餓死者を出した1990年代後半の『苦難の行軍』」「『苦難の行軍』というのは1990年代後半、自然災害などで苦境に陥り300万人とも言われる餓死者が出た時の状況を指す」と述べている。
 ・近藤大介は、「北朝鮮では、金日成主席が死去し、金正日総書記の時代を迎えた1994年後半から1997年にかけて、3年飢饉が発生。数百万人が餓死したと言われる」と述べている。
 ・武藤正敏は、「1995年前後、餓死者数10万とも100万ともいわれる『苦難の行軍』の時期にも、金正日政権は国民救済ではなく核開発に財源を使ってきた」と述べている。
西岡力は、「1994年金日成死亡直後から配給がほぼ全面的に止まり人口の15%、300万人が餓死するに至った。その後も配給は復活せず党軍治安機関幹部らを除くとすべての住民が政権の統制の外で『チャンサ(商売)』を通じて生計を維持している」と述べている。
 ・私たちの民族助け合い仏教運動本部が中国に脱北した難民に対して、1997年9月30日から1998年9月15日の約11か月間かけて行った「北朝鮮食糧難民1694名面談調査」では、難民に本人を含む総家族数を確認後、1995年8月から1998年7月までの3年間に死亡した人数を尋ね、総家族数は9249人で死亡者は2653人、家族死亡率は28.7%に上る。家族内の死亡率が25%、即ち平均してどの家族でも1人以上死んでいる現象が、全国的に起きている[13]。私たちの民族助け合い仏教運動本部は、「北朝鮮の支配層(おおよそ15%、約300万人)と農民層(おおよそ30%、600万人)を除外した北朝鮮の人口1300万に家族死亡率28.7%をかけると1300万×28.7%≒350万人であり、1995年8月から1998年7月までの3年間で350万人が死亡したと結論付けている。「北朝鮮食糧難民1694名面談調査」では、難民に自分が所属していた人民班(典型的な人民班は平均26世帯、127人で構成されている)の死亡者についても尋ねており、死亡率が27.5%であることが分かり、家族死亡率とほぼ一致する。人民班の死亡率を地域別にみると、平壌11.7%、黄海南道22.4%、咸鏡南道31.2%であり、全国的に大量の死亡者が出ていることが分かる。
 ・1998年7月から9月にかけてジョンズ・ホプキンズ大学難民及び災害公衆保健研究所が440人の在中国北朝鮮難民を対象に実施した面接調査では、440人の難民が属する家族の総人数は1994年7月時点で1782人だったが、1995年から1997年の3年間で214人が死亡、死亡率は12%であり、北朝鮮にいる最も近い親戚259家族の同期間の死亡率は13%である[6]。これに「北朝鮮の支配層(おおよそ15%、約300万人)と農民層(おおよそ30%、600万人)を除外した北朝鮮の人口1300万人で餓死者数を計算すると、1300万×13%≒170万人となり、これに1998年分を加えると餓死者数は約225万人となり、西岡力は「黄元書記の証言から推計した300万人という数字の信憑性が分かる」と評している
 ・駐韓アメリカ合衆国大使館のLARRY ROBINSONが1998年8月にアメリカ合衆国国務省に提出した報告書には、「北朝鮮経済に対する国際社会の主要関心事は食糧不足に集中されている。最近伝えられている北朝鮮関連の断片的な報告は、ある面で過去2年間(1996年、1997年)の状況よりもこの夏(1998年)の状況がましになっているようではあるが、食糧不足が深刻であるということは疑う余地がない。そして過去数年間の累積した食糧不足により北朝鮮の状況は今世紀最悪の飢饉として記録されるだろう。正確な統計はない。しかし、黄長燁とWFPに派遣勤務中に亡命した北朝鮮政府官吏をはじめとする亡命者らと、私たちの民族助け合い仏教運動本部の中国居住脱北者調査の結果、そして一番最近では最高人民会議投票者数などをもとにした中国側の調査によれば1995年以後の飢饉のための死亡者は北朝鮮全体人口の10%から15%に相当する200万人から300万人におよぶものと思われる。これは比率で見る時、1959年から1962年の間の中国の飢饉の2倍以上になるものだ」と書かれている。
 ・朝鮮半島エネルギー開発機構事務局長のCharles Kartmanは、「アメリカ合衆国議会公聴会では北朝鮮で飢え死にした人の数が数百万人になるという主張が出ましたが、アメリカ合衆国国務省はどのように見ていますか」という質問に対して、「誰も分かりませんよ。そのような統計はこの数年間、栄養失調で死んだ人の数字をすべて合わせたものです。その中には栄養失調のために罹った病気で死んだ人たちも含まれています。そのように見れば過去3年間に100万人が死んだという統計も理に適うものかもしれません」と回答している。
 ・北京にある中国政府傘下研究機関が1999年に作成した報告書は大量餓死を認めており、「1995年の大洪水以後、国家の食糧配給は基本的に中断された。1998年、清津市と茂山郡では合わせて4回(ソルラル、太陽節、光明星節、建国記念日)の食糧配給があり、毎回2日分の食糧だった。即ち、365日中の8日分の食糧だ。残りは住民が自分で解決しなければならなかった。清津市と茂山郡だけではない。カネがある者たちは自由市場に行き、高価ではあるが食糧とその他食品を買える。しかし、カネのない者たちは木の皮、草の根、山菜だけを食べている。食品は、極度に不足し自由市場価格は大変高いため、労働者として給料生活をする層でははるかに手が届かない。通常労働者は月80-100ウォン、中佐・大佐の場合でもわずか150ウォン程度だ。このような収入で1キログラム80ウォン程度になる米をどうして買えるだろうか。また、多くの地域ではすでに長期間月給が正常に出なくなっている。ある脱北者は『北朝鮮の人たちはイネの根までみんな食べる』と語った。10キログラムの稲の根に1キログラムのトウモロコシを入れ砕いて麺を作って食べ、トウモロコシは軸まで砕いて粉を作って、山菜の根を入れて粥をつくり食べていると彼は話した。清津市から来たある女性は、女性たちの運命はとても悲惨だと語った。彼女らは夫と子どもの腹を満たすために数十里の道を歩いて田舎に行き食糧を交換してくるのだが、飢えと疲労で多くの人が路上で餓死しているという。海州市から来た脱北者は『海州から清津まで汽車に乗ってくる途中で老人と子供らが汽車の中で餓死した後、道ばたに埋められるのを直接目で見た』と語った。以上の悲惨な状況を総合するとき、1995年からの凶作により北朝鮮人口が300万人減少したという話は信じるに足る」と書かれている。
・牧野愛博(『朝日新聞』ソウル支局長)は、「北朝鮮はご存じのように、1995年から1996年ぐらいにかけて、『苦難の行軍』と言われる大規模な飢饉がありました。非常に食糧不足に陥って、少なくとも30万人ぐらい、多いと200万人ぐらいの人が亡くなったと言われていますけれども、少なくとも私の知っている人でも、地方の都市なんかではかなり餓死者が出て、大変なことになっていた」と述べている。
久保田るり子(『産経新聞』ソウル支局特派員)は、「1996年から1997年、悪天候北朝鮮式農業の失敗で北朝鮮では約300万人規模ともされる餓死者が出て、民心は爆発寸前だった」と述べている。
 ・三村光弘は、「そこにきて1990年代半ばは、北朝鮮にとってかつてない深刻な食糧難の時代でした。餓死者は三十数万人と推計されています。当時はソ連崩壊の直後で、東西冷戦の最前線に位置する北朝鮮がそれまで受けていたソ連、東欧諸国からの食糧援助が途絶えました。国際市場価格よりも有利な条件の貿易もなくなりました。当時は食糧の供給を国が徹底的に管理しており、国民が信じて待っていた食糧の配給が破綻し、多くの人が餓死したのです」と述べている。
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☴13〕─北朝鮮は飢える労働者を虐殺した。黄海製鉄所虐殺事件。~No.46No.47 

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 2021年9月7日 MicrosoftNews JBpress「脱北者が語る、飢える労働者を虐殺した黄海製鉄所虐殺事件の真実
 © JBpress 提供 「苦難の行軍」の頃の金正日総書記(写真:S009/Gamma/AFLO)
 © JBpress 提供 黄海製鉄所の前身の日本統治時代の日本製鐵兼二浦製鉄所(Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)
 © JBpress 提供 「苦難の行軍」の時の北朝鮮。軍人からや学生、子供が畑作業に従事している(写真:ロイター/アフロ)」
 かつて日朝両政府が推進した在日朝鮮人とその家族を対象にした「帰国(北送)事業」。1959年からの25年間で9万3000人以上が「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮渡航したとされる。その多くは極貧と差別に苦しめられた。両親とともに1960年に北朝鮮に渡った脱北医師、李泰炅(イ・テギョン)氏による今回の手記は1998年に起きた黄海製鉄所虐殺事件について。
 ◎李 泰炅氏の連載はこちら (https://jbpress.ismedia.jp/search/author/%E6%9D%8E%20%E6%B3%B0%E7%82%85)をご覧ください
 大韓民国に定着して12年になったが、北朝鮮にいた時に松林市に住んでいた縁から、「松林」や「黄海製鉄所」という言葉に敏感だ。
 インターネットで松林市や黄海製鉄所を検索すると、「民主化蜂起」「市民蜂起」「黄海製鉄所労働者暴動事件」「虐殺事件」「北朝鮮版5.18抗争(光州事件)」などの言葉が並ぶ。
 ピサの斜塔は横から見なければ傾いていることが分からないように、見る角度によって異なることがいろいろある。「松林事件」と検索すると、数百、数千人の労働者が虐殺されたという記録が並んでいるが、1998年8月に私が見たものとはだいぶ異なる。
 松林製鉄所の民間人虐殺事件とは
 事件を要約すると、金正日総書記の「苦難の行軍」時代、黄海製鉄所の幹部が銑鉄を集め、中国でトウモロコシと交換した。労働者を食べさせるためだった。しかし、党に報告しない秘密裏の行為だったことから、副支配人や販売課長、業務部支配人、生産課長など幹部8人が逮捕され、銃殺された。
 「南朝鮮のスパイが入り込んで黄海製鉄所の設備を毀損させた。幹部が韓国のスパイとつながっていた」という名目だった。
 ところが、労働者を食べさせるために努力した幹部の銃殺に労働者が激怒してデモを断行。翌日未明、保衛司令部が戦車と機関砲を動員して労働者を殺戮した。銃の乱射は10分にわたって続いた。戦車の車輪には肉片がつき、腕と脚があちこちに飛び散るなど凄惨な殺戮で、数百人から数千人が死んだという。
 金日成主席の担当看護婦で、故郷の松林に戻って市の病院に勤めていた看護婦も銃殺現場を見て激怒し、マイクを手に「このような無謀な銃殺をなぜ行うのか。自分のためにやったわけでもないのに、死刑にするとはあまりにもひどい」と抗議すると、その場で縛られ銃殺された。その後、銃殺された死体が埋められた盛土に、数百個の花が置かれたという。
 金日成の服喪期間に底をついた食料
 1998年8月当時、私は松林に住んでいた。松林市民に対する国からの配給は4年前が最後だった。その後、市民は何とかやりくりして食料を調達していたが、金日成主席が亡くなり、13日間の国家葬が続くと、どの家も食料が底をついた。金日成主席の服喪期間の商売は、首領の神格化を否定する行為と見做されたからだ。全国民が喪に服さなければならなかった。
 苦難の行軍は突然、襲って来るものではない。松林の「苦難の行軍」はこの頃に始まった。
 北朝鮮の行政区は大きい順に、「郡」「市」「群」「里」「洞」という単位で構成されている。松林の場合、6カ所の里の中に19カ所の洞がある。松林は人口密度が全国で最も高く、北朝鮮南端の開城から北端の穏城まで商売に出向く市民が少なくない。
 「苦難の行軍」の時代、地元の黄海製鉄所で働く労働者は、当局が黙認する中、工場で製造した石油コンロを持ち出し、自転車で郊外の村に行きトウモロコシと交換した。その後、工場が完全に止まると、労働者は工場の機械類を取り外し、穀物と交換した。電気がなければ何も製造することはできないため、工場にある機械類は意味がないと判断したのだ。
 その当時、黄海製鉄所は火力発電所から電力供給を受けていたが、文徳(ムンドク)、粛川(スクチョン)、价川(ケチョン)などの炭鉱で石炭が生産されず、火力発電所の稼働もままならなくなった。その中で、黄海製鉄所も稼働を維持できなくなったということだ。
 「朝鮮の心臓」と言われる平壌には電力が供給されていたが、時間別に供給される電気を松林に分けることはない。上水道も寸断され、水、火、米がすべてなくなり、餓死者が急増した。餓死者が増加し、道端にも死骸が放置されるような惨状である。
 ある日、朝起きてマンションのベランダに出ると、その下に身体が折れ曲がった遺体が横たわっていた。駆け付けた保衛員(警察官)が調べると、配給所の塀に「お腹が空いて生きていけない。米をくれ」と石炭で書いた書き込みが見つかったため、当初は餓死したものと思われた。ところが、遺体を見ると餓死とは思えないような損傷があった。
 その後、すぐに「殴られて死んだ○○作業班の秘書だ」という噂が流れてきた。私もよく知っている職員の夫で、この話は噂ではなく真実だった。食べていくことすら大変なのに、過度に党の忠誠心を要求したことに恨みを感じた人が真夜中に殴り殺したという。
 だが、防犯カメラも何もない松林では事件性があったとしても犯人を捕まえることは難しい。保衛員は検証を行うため、疑わしき人物のノートを取り上げて筆跡を調べたが、まともな筆跡鑑定員がいない中で犯人を見つけるのは不可能だ。結局、この事件も多くの餓死者の遺体として処理をせざる得なかった。
 新設された遺体処理作業班の報酬
 1996-1998年は全国が餓死者の死体が溢れた大餓死の時代だった。
 苦難の行軍であらゆる職業が消える中、松林補修事業所(住居を補修修理する事業所)に遺体を処理する「遺体処理作業班」が作られた。彼らの報酬は数本の酒と豆類を肉のように成型した精進料理のようなおつまみ数点だった。
 配給が途絶えて生産が中断した黄海製鉄所の党委員から、工場や職場の餓死を防ぐため、あらゆる手段で職場の従業員を食べさせるようにという指示が出された。私の勤務先もアイスクリームや薬を作って販売した。しかし、それだけで従業員と家族を食べさせることは難しい。
 1948年に北朝鮮政権が樹立して以後、暴動という言葉を多く耳にしたが、噂に過ぎなかった。一方、暴動の準備をしていた時に一網打尽になったという噂はたくさん聞いた。1976年の海州暴動で3万人以上が射殺されたという話や1995年に第6軍団がクーデターを起こそうとして摘発され、粛清されたという話もある。
 同じように、黄海製鉄所で数千人の労働者が暴動を起こしたのか。韓国メディアが言うような光州事件北朝鮮版だったのか。韓国で伝えられているように、銃殺現場を見て激怒した看護師がマイクを持って労働党の銃殺に反対することなどできたのだろうか。誰が遺体を埋める盛土を作ったのか。また、独裁政権下で、花を添える行為を行えたのだろうか。
 次回以降、筆者が目撃した真実を書いていこうと思う。
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 黄海製鉄所(ファンへせいてつしょ)は、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の黄海北道松林市にある製鉄所である。工場の敷地面積は330万m2(約100万坪)。
 関連事業を統合した企業体黄海製鉄連合企業所(ファンヘせいてつれんごうきぎょうしょ)を構成している。
 沿革
 前身
 詳細は「日本製鐵兼二浦製鉄所」を参照
 黄海製鉄所の前身は、日本統治時代に建設された「兼二浦製鉄所」である。兼二浦製鉄所は三菱系の三菱製鉄が建設して1918年に操業を開始し、後に日本製鐵の運営となっている。製銑設備と製鋼設備を備え、年間に約25万トンの銑鉄と約5.9万トンの鋼鉄を生産できた。
 第二次世界大戦
 朝鮮戦争では爆撃を受けて溶鉱炉がすべて破壊されるが、1954年6月の平炉復旧を皮切りとして1950年代後半の五カ年計画期に再建が進められた。1960年代に設備が増設されたことによって、製銑、製鋼、圧延の3要素を持つ一貫製鉄所になった。
 1970年代に小規模溶鉱炉を拡張、新設して銑鉄生産能力を約27万トン増大して、鉄線、ロープなどを生産する銑材圧延設備も建設された。
 1980年代にも生産能力を拡張して生産工程の自動遠隔調整システムを導入。年間約1万トンのステンレス鋼板設備、連続造塊機などが建設された。同製鉄所の年間の鋼鉄生産量は約145万トンは、北朝鮮全体の年間鋼鉄生産量、約600万トンの24%に当たる。
 1990年代後半以降は、電力事情の悪化や食料難や原料供給の不足などの経済危機の影響や、設備の老朽化により、鉄鋼生産量が減少している。1998年には製鉄所の労働者が食料の配給を求めてデモを起こしたものの、北朝鮮当局による弾圧に遭い、多数の死傷者を出した。
 黄海製鉄所は鉄鋼生産の効率を高めて原料供給、輸送を円滑に行うため、関連企業を統合した「黄海製鉄連合企業所」を構成している。
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 日本製鐵 兼二浦製鐡所(にほんせいてつ けんじほせいてつしょ)は、かつて存在した日本製鐵株式會社(日鐵)の製鉄所である。朝鮮の黄海道黄州郡(現在の朝鮮民主主義人民共和国黄海北道松林市)に建設された。
 概要
 1917年(大正6年)に、三菱財閥系の三菱製鐡によって建設された製鉄所である。三菱製鐡の製鉄合同への参加により、1934年(昭和9年)に日鐵の兼二浦製鐡所となった。1945年(昭和20年)の太平洋戦争終戦に伴い、日鐵の手を離れた。1920年代の一時期を除いて、高炉による銑鉄製造から製鋼、鋼材圧延までを手がける銑鋼一貫製鉄所であった。
 製鉄所の立地する兼二浦は朝鮮半島西側(黄海)の町である。周囲には鉱山(鉄山)があり、それらから供給される鉄鉱石で兼二浦製鐡所は鉄鋼を製造していた。

 戦後
 戦後は朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)において黄海製鉄所と名前を変え現在に至っている。
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☵22〕─7・A─安倍政権の明治産業革命遺産登録は日本に屈辱・恥辱をもたらした。〜No.223  

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 日本は世界で信用されている、日本人は世界で愛されている、は悪い冗談であり、ウソである。
 日本は、昔も今も孤立無援といった状態に追い込まれ、国内外に反天皇反民族反日本のマルクス主義者が多数存在している。
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 2021年10月号 Hanada「産業遺産情報センター
 国家の名誉を売った日本のユネスコ大使
 山岡鉄秀
 ユネスコが『強い遺憾』
 長崎市に属する端島(はしま)、いわゆる軍艦島が、他の遺跡群とともに『明治日本の産業革命遺産』としてユネスコ世界文化遺産に登録されたのは、2015年7月だった。
 それから6年、ユネスコ世界遺産委員会は去る7月22日、世界文化遺産登録後に日本政府によって新宿区に設置された『産業遺産情報センター』における朝鮮人労働者の境遇に関する説明が不十分だとして、『強い遺憾』を盛り込んだ決議を採択した。
 決議に付されたユネスコとイコモス(国際記念物遺跡会議)の合同調査報告書は、産業遺産情報センターは世界遺産の構成資産から離れた場所にあり、歴史を示す展示に乏しいと指摘。館内にある端島住民の証言パネル展示についても、労働を強制された人はいなかったという印象を与えるものだとして、現在の内容では不十分だと評価。犠牲者(朝鮮人労働者)の悲惨な境遇を記憶に留める説明が十分になされるよう『より暗い側面を含めた多様な証言』を加えるよう求めている。
 これに対し、元島民の方々は、朝鮮半島出身の人たちとも仲良くやってきた、なぜユネスコは元島民の話を聞かず、無関係な活動家や韓国の話だけを聞くのかと、怒り心頭に発しているとのことである。
 しかし、実はこれは起こるべくして起こったことなのである。6年前に外務省が埋め込んだ時限爆弾が破裂したに過ぎない。
 どういうことか。
 そもそも、明治日本の産業革命遺産とは何だったのか。ウィキペディアには次のようにある。
 『2015年の第39回世界遺産委員会でUNESCOの世界遺産リストに登録された日本の世界遺産の一つであり、山口・福岡・佐賀・長崎・熊本・鹿児島・岩手・静岡の8県(23箇所)に点在する。西洋から非西洋世界への技術移転と日本の伝統文化を融合させ、1850年代から1910年(幕末ー明治時代)までに急速な発展をとげた炭鉱、鉄鋼業、造船業に関する文化遺産
 この世界遺産登録の画期的なところは、複数の遺産をひとつのカテゴリーに入れ込んで登録に成功したことだ。つまり、単体では世界遺産に値しなくても、23箇所全体でひとつの世界遺産を構成するという考え方である。
 幕末から日本は高度に工業化された西洋諸国の圧倒的な力に接し、植民地化を防ぐために懸命に努力する。西洋の技術を見よう見まねで習得し、江戸時代に培(つちか)った伝統技術を融合させて急速に近代工業を発展させる。その必死の努力の痕跡を集めたものが、明治産業遺産群である。
 東京・新宿の『産業遺産情報センター』に行くと、生々しい歴史を学ぶことができる。
 韓国政府からの執拗な妨害
 しかし、優れた着想だったとはいえ、登録までの道のりは平坦ではなかった。いつものことながら、韓国政府からの執拗な妨害があった。
 韓国の尹炳世(ユンビョンセ)外交部長官は、構成遺産のうち、長崎造船所や端島炭鉱など7つの施設で第二次世界大戦中に多くの朝鮮人が徴用され、多くの犠牲者を出したという理由で、全23施設のうち7施設の申請撤回を求めた。また、中国外交部も韓国の動きに応じて、登録反対お表明した。
 これに対する当時の岸田外相の反論は、『この遺跡群の対象年代は1850年代から1910年であり、徴用が行われた年代とは異なる』というものだった。つまり、強制労働自体は否定しなかったわけだ。
 2015年6月21日、尹外相と会談を行うのだが、また日本はまんまと騙される。韓国も『百済歴史地区』の世界遺産登録を目指しているので、お互いに協力しようと合意する。
 日本は約束を守って応援し、韓国の申請は無事に全会一致で可決されるのだが、日本の番になって案の定、韓国は約束を反故(ほご)にして難癖をつけてきた。遺産群の描写に『強制労働』(forced labor)という表現を入れろというのである。
 これは卓袱台(ちゃぶだい)返しだ。日本側は反発するが、外務省が示した妥協案は噴飯(ふんぱん)ものであった。表現を和(やわ)らげて、『労働を強(し)いられた』(forced to work)で合意したというのである。
 私は当時、このニュースを聞いて耳を疑った。それら2つは全く同じ意味だからである。名詞形で表現するが、動詞形で表現するかの違いでしかない。難関大学を出て難関国家試験に合格したエリートの英語力と交渉力には、呆れかえるばかりだ。
 当然ながら海外メディアは『日本が強制労働を認めて世界遺産登録を獲得した』と報じた。
 私はたまらず、この馬鹿げた妥協と自滅を糾弾する論説を月刊『正論』に寄稿した。しかし、実は日本政府が示した自滅的な妥協である『forced to work』は、もっと長い文の一部でしかなかったのである。
 後先を考えない全面降伏
 協力し合うという合意を突然韓国が反故にした際、岸田文雄外相、杉山晋輔政務担当外務審議官、新美潤国際文化交流審議官らと連携をとっていた佐藤地ユネスコ大使は『Koreans and others who were brought against their will and forced to work under harsh conditions』(『多くの朝鮮半島の出身者なぢがその意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた』)という表現を提案し、相手の主張を丸呑みにして譲歩していたのだ。
 その結果、『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』の世界遺産への登録が全会一致で決定された。しかし、それは時限爆弾を埋め込まれたに等しい行為であった。
 2020年に産業遺産情報センター(加藤康子センター長)が開設され、軍艦島にも大きなスペースが割(さ)かれている。当時の日本人も韓国人も分け隔てなく仲良く働き、暮らしていたことが、豊富な資料と元島民の証言で示されている。
 しかし当然ながら、韓国政府と日韓の左派活動家団体などが反発し、ユネスコに言いつけた。それが、冒頭で紹介したユネスコでの決議に帰結するのである。
 この日本を糾弾するユネスコの姿勢に対して、茂木外相は7月13日、『わが国はこれまでの委員会の決議、勧告を真摯に受け止め、約束した措置を含めて誠実に履行してきている』『わが国のこうした立場を踏まえ、適切に対応していきたい』と述べた。
 佐藤大使の時限爆弾
 また、加藤官房長官は『明治日本の産業革命遺産について、わが国はこれまでの世界遺産委員会における決議・勧告を真摯に受け止め、政府が約束した措置を含めて誠実に履行してきた』と述べ、やはり『適切に対応してきた』と述べた。
 はたして、この二人が述べる『適切な対応』とは何なのことか。佐藤ユネスコ大使が埋め込んだ時限爆弾をどう処理するつもりなのか。
 常に本質的な議論を避け、その場しのぎの対応をしてきた日本の外交。ここに大きな汚点があった。
 韓国は早速、ユネスコの決議を盾にして、『日本が約束を破った』と大々的にネガティブキャンペーンを展開してきている。佐藤ユネスコ大使らが行った完全屈服外交は国家の名誉を売る行為であり、彼女こそもう一人の河野洋平だと言っても過言ではないだろう。
 もちろん、佐藤ユネスコ大使と協業する立場にあった当時の新美潤国際文化交流審議官も同罪であるし、このようなその場しのぎの亡国的対応を許した当時の岸田文雄外相の責任も問われなくてはならない。
 また、当時の駐大韓民国特命全権大使別所浩郎氏だが、この世界遺産登録騒ぎがあった翌年の2016年には韓国政府から日韓両国の友好親善に貢献した功績を称えられ、修交勲章光化章を授与されている。全面降伏外交への功労ではないかと勘繰りたくもなる。別所氏は現在、侍従長の職にある。
 彼らの責任は追及されなくてはまらない。そして、この理不尽な状況下に孤軍奮闘する元島民の方々と産業遺産情報センターを放置することがあってはならない。」
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 日本には、大航海時代の中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易(被害者として)と日本軍部・陸軍・A級戦犯によるポーランドユダヤ人難民(数万人)をホロコーストから守ったという人道貢献(実行者として)を世界記憶遺産に申請する資格・権利がある。
 これは、日本国家ではなく、生きている日本民族日本人としての責務である。
 日本人奴隷交易とA級戦犯の人道貢献には、その事実を証明する・裏付ける公文書・古文書・キリスト教会報告書など歴史的証拠が国内外に数多く残っている。
 もし、日本の申請が認められないというのならば、ユネスコとイコモスによる世界遺産世界文化遺産・世界記憶遺産には存在意義はない、無意味・無価値という事である。
 日本人奴隷交易の責任の一端は、乱取りで捕らえた日本人を奴隷として外国人に売った日本人にもある。
 A級戦犯が有罪となって見せしめ的リンチ縛り首で処刑にされた罪状は、政治家・官僚・軍人として戦争を始めた平和に対する罪であって、拷問・虐待・惨殺・虐殺を行った人道に対する罪ではなかった。
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 昔から、日本の国際交渉は、言葉・語彙・文言・文章を小手先で弄って玉虫色に誤魔化す事で解決しようとして、その大半が失敗してきた。
 相手の口約束・口車を証拠として契約書や誓約書を取らず信じる方が、バカなのである。
 特に、相手が韓国・北朝鮮中国共産党政府、ロシアであるならばなおされであるが、たとえ契約書や誓約書があるからと言っても信用できない相手である。
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 歴史的事実として、日本民族日本人にとって、中国人(漢族系)、朝鮮人・韓国人、ロシア人は、敵になっても、友・友人、親友、知人、戦友にはならない。
 特に、朝鮮人・韓国人は後ろから日本民族日本人に向けて発砲する。
 彼らは、日本国内に巣くう獅子身中の虫である。
 ただし、帰化して忠誠を誓う人々はそうではない。
 キリスト教朝鮮人テロリストは、日本人共産主義者テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 歴史的事実として、日本は被害者であり、朝鮮と中国は加害者である。
 高麗人は、元寇で蒙古軍(中国軍)と連合して日本を侵略し、日本人を虐殺し、日本人の子供達を戦利品として強制連行した。
 李氏朝鮮世宗大王は、応永の外寇(1419年)で対馬を侵略し、日本人を虐殺し、日本人を強制連行した。
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 韓国・北朝鮮中国共産党政府、ロシアを信用する日本人は、日本民族の歴史が理解できない。
 歴史的事実として、朝鮮(韓国・北朝鮮)、中国共産党政府(中国)、ロシア(旧ソ連)の反日天皇諸国は本気で日本との友好・善隣など望んではいない。
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 日本政府と外務省は、硬軟何れにも飜訳できるポツダム宣言条文の一部を好意的に解釈し、悪意的に解釈した軍部・抗戦派を退け受諾して降伏した。
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 大正時代以降の日本外務省は、歴史的な失敗を繰り返し、日本国に悲劇をもたらし、日本民族に甚大な犠牲を強いてきた。
 大正4(1915)年の対華二十一箇条要求。昭和16(1941)年の対米交渉。昭和20(1945)年の戦争終結交渉開始の仲介をソ連に依頼。
 日本外交が、ミュンヘン会談におけるチェコスロバキア国家消滅決定が理解できないかぎり、国際交渉では勝てない。
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 日本が置かれた歴史的地理的条件はチェコスロバキアに似ていて、島国イギリスと似ていると考えている限り日本に救いはない。
 フランクリン・ルーズベルトスターリンとのヤルタ会談で、ミュンヘン会談におけるチェンバレンヒトラーと同じ様な事をした。
 チェンバレンは、世界戦争を避ける宥和策としてチェコスロバキアヒトラーに与えた。
 フランクリン・ルーズベルトは、軍国日本との戦争に勝つ為に日本をスターリンに与えた。
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 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力はなく、よって歴史を正しく理解できない。
 そして、高学歴の知的エリートや進歩的インテリには、高度な国際交渉能力が乏しい。
 世界史的事実として、国際交渉において自国利益を増やす事を最優先とし相対的に相手国利益を削るだけ削って損をさせる事が正論・正攻法で、信用・信頼、信義・道義は建前で、陰険陰湿にして狡猾・狡知が本音である。
 大正時代から令和の今日までの日本外交の失敗は、ここに尽きる。
 日本人が好む「負けて勝つ」はバカの一つ覚え、無能の証拠で、現実は「肉を切らせて骨を断つ」で容赦無用である。
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💦4〕─1─韓国文化の模倣文化。法律無視のご都合主義。~No.11No.12No.13 

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 2021年9月4日 MicrosoftNews JBpress「大ヒットした海賊版小説『徳川家康』に見る韓国司法のご都合主義
 © JBpress 提供 元徴用工や遺族が日本企業16社を相手取り損害賠償を求めたが、ソウル中央地裁は訴えを棄却した(写真:YONHAP NEWS/アフロ)
 © JBpress 提供 初公判に臨む尹美香氏。元慰安婦支援団体「正義記憶連帯」の前理事長を務めた(写真:YONHAP NEWS/アフロ)
 日本で流行った商品は、韓国でもコピー商品が出回ることが多い。アニメや小説など著作物に関しても韓国版パロディは後を絶たず、しかも模倣品は韓国で堂々と受け入れられる。国民意識が低いためか、裁判になっても無罪放免で終わるケースも多い。
 そんな中の8月18日、ソウル中央地裁は山岡荘八のミリオンセラー小説『徳川家康』の海賊版翻訳に関する著作権違反裁判について、控訴を棄却したことを明らかにした。被告である韓国の出版社代表が2月に死亡したためである。長らく審理されてきた裁判が終結し、出版社は無罪となった。
 今回の裁判は、韓国にありがちな「ご都合主義」が垣間見られる。模倣に限らずだが、韓国では法の力に頼っても正義の証明が難しい場合が少なくない。韓国司法について、韓日・日韓翻訳家の石井友加里氏が解説する。
 (石井 友加里:韓日・日韓翻訳家)
1)『大望著作権問題の経緯・裁判の行方
 今回の裁判は『徳川家康』の無断翻訳版を出版した翻訳家と、韓国で正式な翻訳出版権を持つ会社との間で起きている。『徳川家康』の韓国語版翻訳小説『大望』は、1975年版と2005年版があり、問題になっているのは2005年度版だ。
 そもそも1975年版は、原作者の山岡荘八氏に許可を得ることなく韓国で翻訳出版された海賊版だ。当時の韓国には原作者の権利を守る法律が整備されておらず、法で裁かれることはなかった。
 徳川家康の生涯を描く歴史ロマンは、韓国内でも企業経営者や政治家など「人生に野望を抱く」人々に愛されてきた。2017年には収監中の朴槿恵氏が愛読していることが報道されていたほどだ。
 韓国でも人気の作品だが、日本の原作者には1円も渡ることなく出版社側が利益を収めてきた。後に著作権法が改正されたが、同作品を含む過去の著作物に関しては適用外となっている。その後、1999年に原告側が正式な翻訳権を得て『徳川家康』を出版した。
 しかし、被告側の出版社代表が2005年に無断で修正版を出版したことで問題が起きる。1996年の著作権法改正以降、翻訳書を出版する際には原作者、または韓国での出版権を持つ者の承諾が義務付けられていたからだ。
 裁判は当然の流れだった。1975年版と2005年版は別の作品であるとし、一審と二審では代表に対し有罪判決が下された。しかし、2020年12月の最高裁判決では一転し無罪。控訴審裁判所に回されたが、原告が死亡したことで棄却され、これ以上、審理を遂行できなくなった。何とも歯切れの悪い終わり方である。
 法の正義よりも国内情緒に左右される韓国の司法
2)モラルのない模倣文化、法があっても都合よく解釈
 韓国では模倣文化が蔓延しており、特に質の高い日本の漫画や小説はうってつけの存在である。かつては外国作品に対する著作権法が未整備だったため、まさにやりたい放題だった。「日本で流行したものには韓国でも流行る」「流行れば金になる」と考える人も多かった。
 問題の翻訳小説は、その先駆けだったと言っても過言ではない。
 2005年版では、読みやすく書き換えて販売部数を伸ばそうとした模様だ。もともと許可なく他人の創作物を翻訳販売し、法の網目をくぐってきたわけだが、法改正後も時代錯誤したまま発行に至ったようだ。同作が人気作品でなかったらここまでもめることはなかっただろう。
 ベストセラ―翻訳が著作権違反の状態にあったとしても、既に認知度が高いため、合法にしておくということかもしれない。最高裁での無罪判決は、状況によって法の正義が簡単に覆される韓国司法の不条理を示唆していないだろうか。
3)都合のよさは慰安婦、徴用工問題でも同じ
 韓国の司法判断は法律よりも国内情緒に影響を受ける傾向がある。慰安婦問題や元徴用工裁判の経過を見ていると、日韓関係の悪化には国内寄りに下された判決が起因している。国の都合を反映しているように思えてならない。
 文在寅政権の場合、慰安婦問題では2015年の日韓合意を反故にした。元徴用工裁判でも2018年に1965年の日韓請求権協定を無視し、日本に損害賠償を認める判決が下りている。どちらも、現大統領が日本に対して強硬姿勢をとっていた時期の出来事である。
 ところが「都合」というものは流動的だ。2021年に入ってから現政府が日本に歩み寄る姿勢を見せ始めると、法曹界の動きも変わる。
 元徴用工裁判では、6月と8月に原告敗訴判決が出ており、4月の慰安婦裁判でも国際法の原則から原告の訴えが退けられた。2019年には、慰安婦合意を事実上否定していた大統領だが、2021年1月には「公式的な合意だったと認定する」と反転した後のことだ。
 しかし、このままでは都合が悪すぎる政治家もいる。
 韓国で成立した「言論仲裁法」改正案とは
 共に民主党は8月24日の国会で、慰安婦関連団体の名誉毀損禁止を目的とした法案を発議した。この法律は、慰安婦支援団体に対する名誉毀損を禁止する法案で、元慰安婦支援団体「正義記憶連帯」の前理事長であり、6月に共に民主党から除名された尹美香(ユン・ミヒャン)議員も賛同している。補助金の横領や詐欺疑惑で騒がれた人物である。
 また、与党はメディアによる虚偽・ねつ造報道などに対し、損害賠償請求ができる「言論仲裁法」の改正案を強制可決させた。これらから分かることは、それぞれのご都合主義が司法を巻き込んで動き出していることである。
 韓国では、政権が交代するたびに反対勢力への粛清が行われてきた過去がある。現与党に関しては、朴槿恵前大統領時代の裁判に介入したとして、現役の判事を弾劾訴追に追い込んだ経緯がある。どうやら判事が法の正義のみに従えない複雑な事情があるようだ。
4)韓国司法のずさんな体制、日韓関係はどうなるか?
 国際問題にも発展した慰安婦、徴用工問題に比べたら、『徳川家康著作権法裁判は小さいかもしれない。しかし共通点がある。韓国では、いつの間にか真実が状況によって曲げられ、原則を無視した判決が通ってしまうことである。ここにも「ご都合主義」の言葉が浮かぶ。
 一方で最近、司法のずさんな管理体勢を象徴する事件があった。徴用工裁判で会社名取り間違え疑惑が起きたのだ。
 8月18日、韓国地裁は三菱重工業に対して取引がある韓国企業の支払い分を取り押さえ、原告への損害賠償にあてることを決定した。しかしその翌日、韓国企業は実際の取引先が三菱重工業ではなく、孫会社にあたる別会社との取引だとを明かした。つまり、裁判所は全く無関係の日本企業に対して損害賠償権を行使しようとしたことになる。確認しなかったのだろうか。韓国の司法にはこのような矛盾も起きる。
 偏った司法判断の被害を受けるのはいつも市民
 権力集中型の政府であるほど、立法・行政・司法それぞれがアンバランスに関連していく。
 誰かの都合で偏った司法判断が下されると、その被害を受けるのはいつも「規則を守り、誠実に対応してきた市民」である。今回の例では、正規の版権を持つ出版社である。視野を国際間に広げると、日韓外交に消極的な日本のように思えてならない。
 来年3月の次期大統領選挙戦によっては、新たな都合で現職の判事が弾劾されるかもしれない。恐ろしいが見守るしかない。」
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 東アジアの文明・文化、宗教、道徳、常識、礼儀、生活習慣、思想・哲学、言語、その他多くの面で、日本と中国・朝鮮とは全然違う。
 何れが、上位下位ではなく、高度で優れているかではなく、比べる事は低俗である。
 日本と中国・朝鮮との違いは、「自然環境に合った社会・世間をどう生きるか」という独自性である。
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 日本には、中国や朝鮮などは「眼中になかった」というより「意識する暇がないほど天災対応が忙しかった」のである。
 まして、日本にとって中国や朝鮮は古代から何時侵略し虐殺・略奪・強制連行を行うか分からない恐ろしい敵であった。
 それ故に、日本は中国や朝鮮を敵国と認識し友好国とは見なさず、偏見と差別で、冷たく「敬して遠ざける」とあしらって近付けなかった。
 日本人とって中国人や朝鮮人は、友・友人、親友、戦友、知人ではなく「ハッキリ」とした敵であった。
 事実、日本が中国や朝鮮と国交を遮断し自由な人の往来を完全遮断「鎖国」を行った時代が、最も安定した、最も安心できる平和な時代であった。
 日本が中国・朝鮮が国交を開き人の自由な往来を認めた時、日本は最も不幸になる。
 それは、歴史が証明している。
 それ故に、残念ながら、日本の中国や朝鮮に対する偏見や差別は日本民族が「生きている限り」なくなりはしない。
 日本民族とは、中国大陸や朝鮮半島の虐殺に次ぐ虐殺という生き地獄では生きられない知識と技術を持った弱者や生存競争に負けた敗者が日本列島に逃げ込んだ「弱っちい人々」の子孫である。
 日本民族とは、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた混血・雑種の血が汚れた住人で、元を辿れば釣り針文化と丸木手漕ぎ舟を操る南方系海洋民と揚子江流域民である。
 日本民族と中国人・朝鮮人とは別種の東アジア人である。
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🏹14〕─2─鎌倉時代。房総に未知の大津波襲来 M8級巨大地震。〜No.38No.39No.40 

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 2021年9月3日  MicrosoftNews 共同通信「千年前、房総に未知の大津波襲来 M8級巨大地震で、痕跡残る
 © KYODONEWS 千葉県山武市で実施した現地調査=2017年2月(産業技術総合研究所提供)
 千年ほど昔の平安―鎌倉時代に、房総半島沖でマグニチュード(M)8.5程度とみられる未知の巨大地震が起き、千葉県・九十九里浜地域が大津波に襲われた可能性を示す痕跡を確認したとの調査報告を、産業技術総合研究所などのチームが2日付の英科学誌ネイチャージオサイエンス(電子版)で発表した。
 震源域は房総半島付近の地下、深さ20~50キロにあるフィリピン海プレートと太平洋プレートの境界の可能性があり、10メートル程度ずれ動くことで海底が変形して津波が発生。海岸付近が断層の動きで沈降し、津波の浸水範囲が広がったらしい。」
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 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力そして自然力がない為に日本列島で発生する甚大な自然災害が理解できない。
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天災から日本史を読みなおす 先人に学ぶ防災 (中公新書)
日本災害史
日本災害思想史
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
   ・   ・   ・   
 庶民にとって、領主が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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🏹55〕56〕─1─室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界。~No.171No.172No.173No.174No.175No.176 

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 2021年9月9日号 週刊文春「文春図書館
 著者は語る
 『室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界』 新潮社
 清水克行
 自由で、凶暴で、寛容!?破天荒な中世人
 『おまえのカアちゃん、でべそ!』
 この子供同士が使う悪口には、素朴な疑問が浮かぶ。なぜ相手の母親のでべそを指摘するのが悪口なのか。なぜ発言者は相手の母がでべそであることを知っているのか。この言葉のルーツは、鎌倉時代の『母開(ははつび)』という悪口にあった。そこに秘められた、卑猥で強烈な意味とは──。
 『室町は今日もハードボイルド』は室町時代ブームを牽引してきた歴史学者の清水克行さんによる歴史エッセイだ。身の回りや時事的な話題を枕に、逞しく生きる中世人の驚愕の言動を次々と明らかにしていく。
 『最近、和を尊ぶはずの日本人による、SNSでの激しい誹謗中傷が問題視されていますが、自力救済の世界にあった中世人は、悪口で激しく相手を罵って自己の利益を守ろうとした。本質は変わらない。私たちの日常が意外と歴史に繋がっていることを感じてもらえると思います』
 描かれるのは、自らの命と利益を守るためには戦うことが当たり前、奪われたら奪い返す。奪われていなくても奪う。実にアナーキーで混沌とした自力救済の世だ。たとえば、外に愛人ができて夫に捨てられた妻は、夫を奪った女の家を集団で襲い、時にはその女の命さえ奪う(うわなり打ち)。少女を連れ去った人買いは、『人を買ったら再び返さないのが、俺たちの法だ』と臆面(おくめん)もなく主張する。
 『どんな時代にもおかしな事件は起きるものですが、室町時代はそれが慣習として受け入れられていました。現代の感覚では、不倫は許される行為ではないにせよ、うわなり打ちはさすがにやりすぎ。しかし、中世人は無理もない。と理解していたのです。今日では絶対悪の人身売買にしても、死ぬよりはマシだと身売りする人もいたかもしれない。いわばセーフティーネットの機能もあったのです。また、飢餓のときに買った子どもを働けるまで養育したのに、買い戻されては投資が無駄になる、という人買いなりの法=正当性もありました。様々な場面で固有のルールが認められていて、時にそれがぶつかり合う時代だったのです』
 つまり、統一されたルールや規格は存在しない。年貢米を量る枡(ます)の大きさは地域で違っていたし、いまなら幹線道路の信号と信号の間ほどの距離で、関所が勝手に設置された。年号すら場所によって異なっていた。
 そうした自由すぎる中世人として本書に登場するのは、農民や商人、職人、海賊、僧侶など、名前も知られていない人々。当然、まとまった史料などない。
 『北から南まで史料を幅広く集めて繋ぎ合わせていくので、なかなか骨の折れる作業でした。私の師である藤木久志先生からは、「ある習俗を復元しようと思ったら、史料を最低3つ用意しなさい」と生前によく言われていました。1例だけでは異常事態だったのかもしれない。2例あっても偶然の一致の可能性がある。しかし、3例あれば、社会におけるルールとしてある程度受け入れられていたと言えるのではないか、と』
 ちなみに、冒頭の『母開』は英語の『mother fucker』のような俗語だというのが・・・。
 『史料の合間に残された週刊誌ネタやゴシップ記事には、当時の人々の喜怒哀楽、恨みに嫉(そね)み、愛に呪いが込められている。そうしたものにこそ、中世らしさが残されています。信長や家康のような有名人すら、そうした中世人のひとりに過ぎません。この本は、固有名詞が多くて歴史が苦手だったという方にも、楽しんでいただけると思います』」
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室町は今日もハードボイルド―日本中世のアナーキーな世界―
喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)
世界の辺境とハードボイルド室町時代 (集英社文庫)
大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー)
耳鼻削ぎの日本史 (歴史新書y)
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 日本の歴史において、和を以て貴しとなす、惻隠の情があって心優しかった、助け合い・庇い合い・励まし合いなどの公助・共助があった、などは現実において存在しい作り事、戯言であった。
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 現代日本人には、地獄のような中世・戦国乱世を生き延びた人々の子孫である。
 日本を歴史において、個人の完全な自由が存在していたのは中世・戦国乱世であった。
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 現代社会で深刻な差別問題となっている同和民の賤民や部落民は、中世・戦国乱世では対して問題ではなかった。
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 日本には、中国のような輝かしく誇れる偉大な歴史はないが、朝鮮のような悲惨で卑屈になるような哀れで惨めな歴史はない。
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 日本の歴史とは、良くも悪くも、平々凡々として、世界に影響を及ぼすほどの特殊性のない特徴のない文化度の低い田舎の猿芝居的な歴史にすぎない。
 しょせん、世界の最果の海の外にある小国の歴史で、海に囲まれていた環境ゆえにあらゆるモノが流れ着く日本列島の歴史である。
 そんな歴史を生きてきた日本民族・日本人が特別に賢く優れているはずがない。
 そんな歴史しか生きてこなかったがゆに、現代日本人に民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、高度な歴史知識が乏しい為に歴史が理解できなくて当然と言える。
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 日本人は、先人が残した古文書・歴史書より小説家や歴史学者による分かりやすく噛み砕いた時代劇・時代小説・歴史エッセイを好んで読む、というより自力では難しい歴史書が理解できない、と言うのが正しい。
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 庶民にとって、領主が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 庶民にとって、領主が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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