🎌6〕─2─日本の皇室と西洋の王室はどう違う?廃絶を目指すマルクス主義・共産主義。~No.33 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年6月6日 MicrosoftNews dメニューマネー「「皇室」と「王室」はどう違う?
 © 「皇室」と「王室」はどう違う? (画像=dメニューマネー編集部)
 ロイヤルファミリーとも呼ばれ世界で注目を集める「皇室」や「王室」。2つの意味は微妙に異なります。
 皇室や王室がある国では、しばしば継承について話題になります。ヨーロッパでは女性の継承者が認められている国もありますが、まだ少数派ではあります。
 「皇室と王室」、どのように違うか分かりますか?
■皇室に関係する法律は、憲法皇室典範
 「皇室」とは、天皇・皇后両陛下、上皇上皇后両陛下、皇族殿下方の総称です。皇室の皇位は「世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」と憲法第二条で定められています。
 皇室典範日本国憲法と同じく1947年に制定されました。皇室典範では、皇位継承に関する内容のほか、重要事項の審議機関である「皇室会議」、天皇の代理で国事行為を行う「摂政」などが定められています。
 安定的な皇位継承を確保するために政府では検討を重ねているところですが、現行では父親が天皇の血を引く「男系男子」のみが皇位を継承できるとされています。
 一方、「王室」とは、一国の国王と王族の総称です。王室というとまず思い浮かぶのは英国かもしれませんが、世界にはさまざまな国に王室があります。日本から近いアジア圏にはカンボジア、タイ、ブータンブルネイ、マレーシアなどの国に王室が存在します。
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■解答:「皇室と王室」の違いとは……
 「皇室」とは天皇と皇族の総称で、「王室」とは国王と王族の総称です。皇室は長い歴史を誇り、天皇陛下は日本で126代目の天皇となります。
 文/編集・dメニューマネー編集部」
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 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 現代の日本人は、昔の日本人とは違って世界の国王・女王、皇帝・女帝が分からない、まして日本天皇・女帝が理解できない。
 その原因は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力を持っているかどうかで、現代の日本人は昔の日本人に比べて持っていない。
 持って理解している日本人は2割、持っていても理解したくない日本人は3割、持っていない・持てない・持つ気がない日本人は5割。
 現代の日本は、昔の日本とは違う。
 日本人と言っても、日本民族・日本国民と日本市民・地球市民日本人は違う。
 日本民族・日本国民とは、民族主義者であり、国家主義者・国粋主義者軍国主義者に陥りやすい。
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 国家と民族の成立は、日本とヨーロッパと中国・朝鮮とでは三者三様で全然違う。
 現代の日本人には、その歴史的事実が理解できない。
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 世界の開かれた王家とは、人種・民族、出自・出身、身分・家柄、血筋・血統に関係なく、個人の才能・能力・実力で即位できる事である。
 王位の正統性は、宗教による王権神授説・帝位神授説である。
 王位の正当性は、憲法・法律による社会契約説である。
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 世界の王国・帝国は、自国民でなくても他国民でも国王に即位させ、他国の女性でも自国の女王・女帝に即位させた。
 そこには、外国人に対する偏見や差別は存在しなかった。
 その意味において、日本の皇室は閉ざされた王家として世界の非常識で、人種差別・民族差別・宗教差別そして女性差別を含んでいる。
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 西洋諸王国の即位する正当必須条件とは、人種は白人、民族はゲルマン系、宗教は西欧キリスト教、職業が王族か軍人、人物・才能・能力優先で血筋・家柄・身分・階級は二の次、女性でも即位可能である。
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 イギリスの歴代国王の出身部族は、先住民ケルト人を征服したアングロ・サクソン系、ノルマン系、フランス系、スペイン系、ドイツ系であった。
 ヴィクトリア女王の共同統治者である夫アルバート公子は、ドイツ人でザクセンコーブルク=ザールフェルト公エルンスト(後のザクセンコーブルク=ゴータ公エルンスト1世)の次男。
 イギリス人のヴィクトリア女王は、インド皇帝を兼ねてインドを統治した。
 女王エリザベス2世の夫フィリップ (エディンバラ公)は、ギリシャ人(古代ギリシャ人との血の繋がりはない)でギリシャ王家の王子。
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 ロシア皇帝エカテリーナ2世は、ドイツ人でプロイセン軍少将の娘。
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 メキシコ皇帝マクシミリアンは、ドイツ人でオーストリアハンガリー皇帝フランツ=ヨゼフ1世の弟。
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 オーストリア皇帝は、スペイン国王を兼ねた。
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 スペイン国王は、ポルトガル国王を兼ねた。
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 フランス・平民階級出身のジャン=バティスト・ベルナドット将軍は、スウェーデンノルウェー連合王国国王に即位してカール14世ヨハンと名乗った。
 スウェーデンの政治家や国民は、フランス人国王を認め受け入れた。
 フランス・マルセイユの絹商人フランソワ・クラリーの末娘デジレ・クラリーは、ベルナドット将軍と結婚して王妃となる。
 カール14世ヨハンとクラリー王妃の王太子がオスカル1世として即位し、フランス系ベルナドッテ王朝第2代のスウェーデン国王およびノルウェー国王となった。
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 ギリシャは、15世紀以後イスラム教国オスマン帝国に支配されていたが、1829年に独立戦争に勝利し、1832年にキリスト教ギリシャ王国を建国して独立した。
 ギリシャ国会は、国王に南ドイツ・バイエルン王国を支配するヴィッテルスバッハ家出身のオソン1世を迎えた。
 ギリシャ軍は、1862年にクーデターを起こしてドイツ人オソン1世を退位させた。
 ギリシャ国会は、次の国王にデンマーク王(グリュックスブルク家)クリスチャン9世の息子ヴィルヘルムが迎えた。
 1863年 ヴィルヘルムは、ギリシャ正教に改宗してゲオルギオス1世として即位し、王妃にロシア大公女オリガ・コンスタンチノヴナを迎えた。
 男ドイツ系女ロシア系のグリュックスブルク朝ギリシャ王国は、1974年までギリシャを統治した。
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 グリュックスブルク家は、オルデンブルク家の流れを汲む由緒ある名家で、現在のデンマーク王国ノルウェー王国の王家で、一族からはギリシャ国王も出している。
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 オルデンブルク朝は、1448年から1863年まで続いた、デンマークを中心とした北欧の王朝で、祖先はドイツ・ニーダーザクセン州オルデンブルクの出身であった。
 オルデンブルク伯エギルマール1世(1108年没)はザクセン公家の家臣であったが、1180年に独立した。
 オルデンブルク家は、13世紀に同家はオルデンブルク伯系とデルメンホルスト伯系に分かれたが、15世紀前半のオルデンブルク伯ディートリヒがデルメンホルスト伯の女相続人アデルハイトと結婚し、デルメンホルスト伯領は本家に復帰した。
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 ウィキペディア
 ケルト人は、以前は中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族であると考えられていた。ケルトとは古代ローマで「未知の人」を意味し、もともとは民族を示す言葉ではない。
 大陸のケルト
 ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化(紀元前1200年 - 紀元前500年)を発展させたと考えられてきた。当時欧州の文明の中心地であったギリシャエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット文化はラ・テーヌ文化(紀元前500年 - 紀元前200年)に発展する。ちなみに、イギリスの世界遺産であるストーンヘンジはより古い新石器時代青銅器時代(紀元前3千年~2千年) の建造と以前は考えられていた。
 島のケルト
 ケルト人がいつブリテン諸島に渡来したかははっきりせず、以前は鉄製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされていたが、遺伝子などの研究から新石器時代の先住民(ケルト以前の巨石文化の担い手)が大陸の文化的影響によって変質したとする説もある。いずれにしてもローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器をもつ部族社会が展開していたがこれらはケルト人とはいえない。
 現代のケルト系諸言語
 ケルト語派の言語が話される国はアイルランドスコットランドマン島ウェールズ、及びブルターニュである(これにコーンウォールを加えることもある)。しかし、その5ヶ国の人々の中で、まだケルト系言語を使って日常的生活を送る人の数は30%程度を超えない。
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 ゲルマン民族は、東方の文明・文化を持たない野蛮な蛮族であった。
 現代の西洋白人は、ゲルマン人の子孫である。
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 インド・ヨーロッパ語族は、東はインドから西はヨーロッパまでの起源を共有する言語で、イタリック語派(現代のロマンス諸語)、ゲルマン語派、スラブ語派 、インド語派(インド–イラン語派)など幾つかの語派が存在する。
 イタリック語派の一つであるラテン語には、古代ローマ帝国時代に民衆が話していた俗ラテン語(ラテン口語)があり、後にローマ・カトリック教会が正式に使用していた公用語である古典ラテン語がある。
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 古代ローマ時代、アルプス山脈の北、ピレネー山脈ライン川の間のガリアにはケルト人が居住していた。
 紀元前58年頃 カエサル(英語名シーザー)はガリアを侵略し、ケルト人のガリアとブリタニアゲルマン人ゲルマニアを征服してローマの版図を広げた。
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 古代ローマ帝国は、広がった帝国属領に総督・軍団長を派遣して支配しが、皇帝の権威が弱まると地方の総督・軍団長が帝位を求めて反乱を繰り返した為に帝国は弱体化し、有力な総督・軍団長が皇帝に即位し帝国はさらに衰退した。
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 4世紀頃から6世紀頃まで、ヨーロッパではゲルマン人による民族の大移動が起きていた。
 476年 西ローマ帝国は、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルの反乱で滅亡した。
 その後の異民族の侵略で、ローマは大火に包まれ大虐殺で死者の都となった。
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 ザクセン人(サクソン人)は、ゲルマン民族のうち西ゲルマンに属する一部族で、ゲルマン民族大移動でエルベ川北岸のホルシュタイン一帯に移住して定着し集落を営んだ。
 2世紀から4世紀にかけて徐々に生存圏を拡大していった。5世紀には一部のザクセン人がユトランド半島のアングル人・ジュート人と共にイギリスに上陸し、いわゆるアングロ・サクソン人の元となった。
 ザクセン人は、ザクセン公家として、中世から近世にかけて北部ドイツ地方一帯を支配してザクセン公国を樹立した。
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 フランク人は、ゲルマン民族の一部族で、民族大移動でフランス北部とベルギーに移住し、5世紀末に原住民のケルトガリア人(ゴール人)を攻めて征服してメロヴィング朝フランク王国を建てた。
 ヨーロッパの階級ピラミッドの原型は、征服した部族によって積み重ねられて築かれた。
 732年 メロヴィング朝の宮宰カール゠マルテルは、イベリア半島から侵略してきたイスラム軍をフランク領トゥール゠ポアチエで撃破して宗教侵略からキリスト教とヨーロッパを守り、メロヴィング朝における統治権を握った。
 751年 カール゠マルテルの子ピピン(小ピピン、短軀王。)は、フラン国王の王位を簒奪し、メロビング朝を廃してカロリング朝を開いた。
 768年 ピピンの長子シャルルマーニュ(大ピピンカール大帝、チャールズ大帝。)は、ザクセン公国と北イタリ・ランゴバルド王国(東ゲルマン族の一部族ランゴバルド人)を滅ぼして中部ヨーロッパとイタリアに領土を拡大してゲルマン諸部族をまとめ、イスラム勢力をピレネー山脈以西に追いやり、800年にローマ教皇から西ローマ皇帝の冠を授かり西洋キリスト教文明世界の守護者に任じられた。
 フランク王国が、現代ヨーロッパの原形であり、西洋キリスト教文明を成立させた。
 フランク王国は、後に西フランク(フランス)、東フランク(ドイツ)、中部フランク皇帝領(イタリア・オランダ・ベルギー)に3分割され、後に数多くの王国や公国が建国され領土を巡る戦争を繰り返して起きたが、再統一される事はなかった。
 ヨーロッパ人とは東方の侵略者・征服者ゲルマン民族の事で、古代ギリシャ古代ローマ古代ローマ共和国、古代ローマ帝国との直接的な繋がりは薄い。
 ヨーロッパ人に正統な統治者としての権威を与えたのは、西欧キリスト教文明のローマ・カトリック教会であった。
 当時、現代のようなフランス人、ドイツ人、イタリア人、オランダ人、その他の人々は存在しなかった。
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 ヨーロッパを政治的に統合されたのがEU(欧州連合)であるが、イギリスは離脱した。
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 962年 ドイツ王オットー1世は、ローマ教皇ヨハネ12世から皇冠を戴いて神聖ローマ帝国を建国し、西洋キリスト教文明圏の保護者となった。
 現代に繋がる欧州大陸部であるドイツ、フランス、イタリア、その他の諸国は、この混乱状況の中から建国され、各民族や諸国民が生まれた。
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 ヒトラーが自称した第3帝国ナチス・ドイツとは、アーリア人ゲルマン民族ドイツ人の事である。
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 ローマ教皇に即位する絶対条件は、西洋系欧州系白人男性である事であった。
 コンクラーベ教皇選挙会議)を構成する枢機卿になる資格は、敬虔な経験と教会活動の実績があれば人種や民族は問わないが、性差別として女性には資格が認められていなかった。
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 Gigazine
 2018年03月19日 06時00分サイエンス
 古代人のDNAを分析することで「人類が長い歴史の中でどのように変遷していったか」が明らかになりつつある
 by University of Michigan School for Environment and Sustainability's photostream
 本や文章などの記録がない時代の人類については、かつて考古学で研究されていましたが、「人種や民族がどのように移り変わっていったのか」は、ジェノグラフィック・プロジェクトの例に見られるように、今や考古学よりも遺伝学によって多くの事が分かりつつあります。
 Ancient DNA is Rewriting Human (and Neanderthal) History - The Atlantic
 https://www.theatlantic.com/science/archive/2018/03/ancient-dna-history/554798/?single_page=true
 遺伝学者のデヴィッド・ライヒさんが、クロアチアの洞窟で発見された4万年前のネアンデルタール人の骨から抽出したDNAサンプルを分析した結果、ネアンデルタール人が当時ヨーロッパに住んでいた現世人類と交配していたということが明らかになりました。また、現代のヨーロッパ人よりも東アジア人のほうがネアンデルタール人のDNAをより多く受け継いでいることが判明し、「ネアンデルタール人が滅んだ後、ネアンデルタール人と交配していた人類はユーラシア大陸を東に移動していった可能性が高い」とライヒさんは主張しています。
 by nmmacedo
 ライヒさんの研究によれば、ヨーロッパに住む人類は今から4万1000年前~3万9000年前に、ネアンデルタール人から現世人類へ置き換わっていったそうです。ヨーロッパで見つかった最古の現世人類は、現代のヨーロッパ人と遺伝的には全く関連していないとのことで、今では絶滅してしまった人種とみられています。
 現在のヨーロッパの狩猟採集民につながる人種は3万7000年前~3万5000年前から見られるとのことですが、その後に氷河期が訪れたため、北ヨーロッパに住んでいた人類の多くが南へ大移動を行ったとみられていて、氷河期が終わると、トルコ・ギリシャ・スペインなどから人類が北ヨーロッパへ再び移住したと考えられています。
 例えば、1903年にイギリスで発見されたチェダーマンは約1万年前の骨で、ヨーロッパの南東から北へ移り住んだ人種のものといわれています。実際にチェダーマンのDNAを分析した結果、現代の北ヨーロッパ人の特徴である白い肌と金髪は有していませんでしたが、青い目を持っていたことが判明しています。つまり、現代の北ヨーロッパ人は元より単一の人種なのではなく、1万年前に北ヨーロッパへ移住してきたさまざまな人種が混ざり合った結果である可能性が高まりました。
 by Fenners1984
 他にも、人種による遺伝的な免疫の差がそれぞれの人種の広がりに大きな影響を与えていたことも分かりました。古代の人骨から抽出したDNAを分析・比較することで、はるか昔にさまざまな人類種の交配や大移動が見えるというわけです。
 ただし、ライヒさんたちの研究で分かったことの一部が、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが主張していた「アーリアン学説」に重なると解釈される恐れもあると判断され、ライヒさんたちは研究を一時中断したそうです。特に考古学の世界においては、考古学の研究がナチス・ドイツプロパガンダにゆがめられて使われたこともあり、「人種・民族の変遷」というテーマには神経質になっていることも影響しているとのこと。
 ライヒさんは「おそらく考古学者や言語学者は、私たち遺伝学者が考古学の専門用語や考え方をちゃんと学んでいないことにいらいらしていると思います。しかし私たちは、古代人類のDNA分析という強力な道具を手に入れています」と語っています。さらに「これらの研究データによって、人種の違いはせいぜい数千年の歴史で生まれたものに過ぎず、どれもみんな交配を重ね、混ざり合った結果だと分かりました。私たちは民族移住や異人種交配にもっと心を開くべきです」と、ライヒさんは主張しています。
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 地球上にはローカルな民族神話が数多く存在するが、心・精神、魂・霊魂を秘めた生きた神話物語は極わずかで、その大半は崇拝する・信仰する固有民族を失って形骸化した死んだ神話文学である。
 その意味で、ギリシャローマ神話、エジプト神話、メソポタミア神話、インド神話北欧神話、中国神話、朝鮮神話、マヤ神話、ハワイ神話、その他は、すべて死んだ古典的神話文学である。
 そうした神話物語を殺し神々の心・精神、魂・霊魂、命を殺し消し去ったのは、宗教であればキリスト教イスラム教であり、思想であれば儒教や近代啓蒙思想であり、イデオロギーであれば科学至上主義のマルクス主義社会主義共産主義である。
 現代まで生き残っている神話物語の代表が、日本の民族中心神話(天皇神話)である。
 現代日本では、科学万能論の元で民族中心神話を否定する神殺し・仏殺しが進行している。
 古代文明と古代神話は、荒涼たる生命感のない不毛な大地に遺跡という残骸を晒している。
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 レーニンは、世界人民革命戦略から、中国共産党日本共産党など極東アジア共産主義者に対して、日本とアメリカを戦争させ世界戦争に拡大し、西洋列強の富と力の源であるアジアの植民地を解放するように示唆した。
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 1847(弘化4)年 マルクスエンゲルスは、プロレタリア革命を広める為に共産主義者同盟の綱領を起草して、共産党宣言を行った。
 マルクス主義社会主義共産主義は歴史の浅い、反宗教無神論の新しいイデオロギーである。
 1917(大正6)年 レーニン共産主義暴力革命を成功させ、皇帝派・保守派を反革命派として虐殺した。
 ケレンスキーの社会革命党は多数派(ボリシェヴィキ)で、レーニンボリシェヴィキ党は少数派(メンシェビキ)であった。
 ロシア社会民主労働党内で、レーニンの人民独裁制を主張する左派は多数のボリシェヴィキであり、対立した大衆政党としてブルジョア革命を主張した一派は少数のメンシェビキであった。
 1921年 日本留学組の李大釗らを中心とした中国人共産主義者らは、共産主義を日本国語飜訳本で学び、レーニンの協力を得て中国共産党を結成した。
 日本がアメリカに恐怖したのは、アメリカによるハワイ王国侵略とハワイ王家滅亡、そして自由・民主主義の大義キリスト教の正義によってと民族の宗教・言語・文化・風習・その他がハワイ諸島から根刮ぎ消滅させられたことである。 1912年(明治45年) 孫文は、日本の右翼や国粋主義者らの資金援助を得て辛亥革命を成功させて中華民国を樹立した。
 1924(大正13)年 孫文は、中国武力統一の為にソ連からの軍事支援を得る為に中国共産党と手を組んだ。第一回国共合作である。
 日本政府と日本陸軍は、広大な中国を幾つかの政権が分割統治した方が安定し平和を維持できるとして、孫文への軍事支援を控えていたが、孫文ソ連と組み中国共産党を認め共産主義者を引き込んだ事を裏切り行為とみなして切り捨てた。
 日本軍の大陸戦略は、天皇・日本国・日本民族共産主義勢力から軍事力で守るという対ソ満州戦略であって中国ではなかった。
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 マルクス主義共産主義は、人類史上もっとも血に飢えた凶悪・凶暴なイデオロギーである。
 共産主義ファシズム、ナチズムは、マルクス主義から生まれた悪の三つ子である。
 共産主義から、レーニン主義スターリン主義毛沢東主義などが発生した。
 日本の高学歴な知的エリートや進歩的インテリにはレーニン信奉者が存在する。
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 天下の悪法である治安維持法は、大正14(1925)年に公布され、昭和3(1928)年に改正され、昭和16(1941)年に全面改正され、反宗教無神論天皇制度打倒の共産主義運動を抑圧し、反天皇反民族反日本の共産主義者を弾圧した。
 が、天皇暗殺に失敗した不忠者は大逆罪・不敬罪で処刑されたが、それ以外の者は禁固刑として処刑されなかった。
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 明治後期・大正・昭和初期のテロには3種類あって、右派系日蓮宗原理主義者、左派系共産主義勢力・無政府主義者、宗教系キリスト教原理主義者(主に朝鮮人)であった。
 テロリストになる日本人は、高学歴者が多かった。
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 イギリス、イタリア、ベルギーなど西洋諸国の各国の共産党は、自国の王室を人民の敵とは認めず、それ故に一度も「王室打倒」とは叫ばなかったし、ソ連・国際共産主義勢力も命じなかったし求めなかった。
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を殺すべく活動を本格化させた。
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共産主義によるウクライナ飢饉。
2017-09-26
☭18」─1・A─レーニンが起こしたウクライナ飢饉。800万人~1,450万人が餓死した。ホロドモール。1921年。~No.53・ @ 
2021-09-02
☭18」─1・B─ロシア革命の成功で歴史から抹消されたボルガ川流域での餓死者約500万人。1921年。~No.53 
2021-08-27
☭18」─2─スターリンの5ヵ年計画とウクライナ飢饉。犠牲者約600万人。~No.54 
2022-04-21
☭18」─3─ロシア人共産主義者によるウクライナヴィーンヌィツャ大虐殺。1937年・38年。~No.55 
2021-08-28
☭18」─4─第二次世界大戦ウクライナ蜂起軍。ナチス・ドイツのバビ・ヤール虐殺。~No.56 ⑭  
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・ロシア人共産主義者ニコライエフスク虐殺事件。
2017-09-27
☭19」─1─共産主義大義・人民の正義による2,000万人大粛清。1936年。ソルジェニーツィンニコライエフスク虐殺事件。~No.57・ @ 
2020-05-18
☭19」─2─ニコライエフスク虐殺事件処理と日露の友好。~No.58No.59No.60No.61・ ⑮ 
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スターリン共産主義勢力の陰謀。 
2017-09-28
☭20」─1─対ソ極秘外交文書。ソ連の対日参戦、日本共産主義化計画・天皇制度廃絶陰謀。1945年~No.62No.63No.64・ @ ⑯ 
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 ユダヤ人社会では、反日本反天皇が主流の多数派で、親日派知日派は少数派で狂人扱いされていた。
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 ユダヤ系国際金融資本や国際的軍需産業は、悪の帝国日本と戦うすべての勢力を支援し、ナチス・ドイツアメリカ、イギリス、ソ連を対日戦争参戦へと仕向けいていた。
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 マルクス主義共産主義とは、経済成長否定と反宗教無神論で、富のある所から奪って貧しい者達に平等に分け合う事であって、貧しい者にも富が行き渡るように富みを作り出す事ではない。
 座れ者が集められた富を平等に分け合い、座れなかった者は分け前をもらえずに排除され、残った者は減った富を賭けて減らされた椅子を巡ってゲームを再開し、その結果として座れなかった者は排除され、そして減った富と減らされた椅子を巡って椅子取りゲームが繰り返される。
 運良く、椅子に座れた者はその時だけ一瞬は得をするが、ゲームを繰り返していくなかで全てをなくしていく。
 つまり、永遠ループの様に、分配できる富がゼロになるまで繰り返される椅子取りゲームである。
 その結果、共産主義体制であったソ連や東側諸国は自滅した。
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☷4〕─1─左傾化した韓国教育は日韓友好の親日知日教科書をゴミにした。~No.8 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年6月4日 MicrosoftNews 現代ビジネス「“親日”教科書を「ゴミ」にして、選挙は「不正まみれ」…韓国・文在寅が“置き土産”にした「韓国の重大欠陥」
 ミン ジェウク
 文在寅が「壊したもの」は大きい
 文在寅(ムン・ジェイン)政権の5年間で、韓国は見事に左傾化した。
 左派が、政治、教育、社会の随所に食い込み、民主共和国としての枠組みと気品は、失われてしまった。文政権在寅によって、韓国の教育、司法制度は、完全に崩壊したといっても過言ではないだろう。
 文在寅が「壊したもの」とは…? photo/gettyimages© 現代ビジネス 文在寅が「壊したもの」とは…? photo/gettyimages
 中でも象徴的だったのは、教科書歴史歪曲論争が吹き荒れたことだろう。
 文在寅大統領は、就任前の2015年から、前政府の教科書国定化事業に対して脅しをかけていた。彼は、「共に民主党」の前身である、新政治民主連合の代表だったときに、「親日親日であり、独裁は独裁です。歴史は、それ自体で歴史でなければならない。つらい過去を歪曲して美化するのでは、真の誇りを作ることはできない」と語った。
 そのうえで、朴槿恵(パク・クネ)政権の国定教科書を「嘘教科書」と断定し、「日帝植民地支配のおかげで近代化したと美化して、親日派の行跡を意図的に歪曲し、隠匿した教科書である」と、日帝関連の歴史が美化されたと強く主張したのだ。
 実際、文在寅政府は、2017年5月就任後、「歴史教育が、政治に利用されないようにする」と宣言し、朴槿恵政府当時の国定教科書を廃棄した。激しい世論の反対にも辞さず、少なくとも44億ウォン以上の血税を注いで作られた国定歴史教科書は、最終原本まで出たが、4ヵ月も経たずにゴミとなったのだ。
 韓国「教科書」騒動の傷跡
 その代わりに、文在寅政権は新しい教科書を出した。
 そこでは、例えば「自由民主主義」という言葉を「民主主義」に変更し、「大韓民国が、韓半島唯一の合法政府」という表現を削除し、1948年の「大韓民国樹立」を「大韓民国政府樹立」と修正した。
 李承晩(イ・スンマン)と朴正煕(パク・チョンヒ)前大統領の建国と産業化成果に関しての記述は少なく、それよりもふたりを独裁者として描写した。教科書は、4・19、5・18、6・10抗争などの民主化運動と労働者が称賛される内容にあふれ、一部の教科書には大韓民国の国宝である南大門と慰安婦少女像がならんで掲載された。
 この件にいきり立った父兄らは、街に出て、新学期の3月から高等学校で使う新しい国史教科書を手に、「現政権の広報パンフレットに転落した教科書」と批判した。
 国史教科書研究所と全国父兄団体連合は、2020年2月に、「文在寅の広報物となった歴史教科書を拒否する!」「大韓民国をだめにする、偽物の教科書を廃棄しろ!」と声を上げ、「全国教職員労働組合(全教組)の主体思想と従北思想に染まった、左派イデオロギーに陥っている者が記述した、偏った教科書だ。社会主義を称賛し、我が国を卑下するような、でたらめな歴史教育など、子供たちには一切教えずに、いっそのこと無知なまま育てるほうがよほど良い」と糾弾する事態に発展したのだ。
 現場では、教科書をずたずたに引き裂いて、「北朝鮮の蛮行を叙述した前政府の教科書を親日独裁だと反対した人々が、今度はロウソク政権を美化して、文在寅の広報物を作った」と詰問した。
 「選挙」を汚すな
 教育界だけでない。中央選挙管理委員会(選管委)も、「不正選挙」と「与党偏向」論争から逃れることはできなかった。
 選管委は、政党と政治資金に関することに対応する機関だ。大韓民国の国会、行政府、裁判所、そして憲法裁判所とは、別に運営される、独立した機関である。厳格に公平でなければならないためだ。
 選挙と国民投票の公正な管理、および政党に関する事務処理を行うために選挙管理委員会はあるのだが、委員会は、大統領が任命する3人、国会で選出する3人、大法院長が指名する3人の委員で構成される。
 文在寅政権では、選管委員のうち、1人を除いた、中央選管委員長を含む8人が、大統領府と民主党側の要人で構成され、「公正な選挙はない」という政治中立論争に発展した。
 チョ・ヘジュ中央選管委前常任委員は、3年の任期を終えれば選管委を離れるという不文律によって辞表を提出したが、文在寅大統領は、この慣例を破り、辞表を返還して、チョ委員は、委員職を維持することになった。
 だが、「小細工による再任」という批判が殺到し、結局、チョ委員は、再度辞表を提出し、歴訪中の大統領が海外で受理するという、呆れかえるような結末を迎えた。
 不正選挙疑惑も「うやむやのまま」
 文在寅大統領選挙キャンプの特別補佐官であったチョ委員は、その3年間、不公正論争に巻き込まれた選管委の核心的役割を果たした人物であった。そのようなチョ委員を、文在寅大統領が異例なことに再任させたのだ。
 9人いる中央選管委院の任期は6年だが、1人だけの常任委員は、3年の任期を終えれば離れるのが、例外なき慣例であった。文在寅大統領はその慣例を破り、常任委員の辞表を返還して、独立した憲法機構である選管委の根本を揺るがした。次期大統領選挙のわずか40日前に起きたことだった。選挙の核心に関わる論争にまで膨らんだ。
 これに先立ち韓国では、大規模な不正選挙論争があった。2020年4月15日に行われた、第21代国会議員総選挙直後、選挙無効訴訟が125件も提起された。それなのに、大法院は2020年7月の段階でただの1件も処理してしなかった。現在でも5件の訴訟だけで、票の再点検を実施した後、判決をうやむやにしたまま、先送りしているのが実情だ。
 代表的なものとして、(1)63対36(民主党候補と統合党候補の事前投票得票率が、ソウル、仁川、京畿の各地域とも、すべて63対36という、まったく同じ比率になったことに対する疑惑)、(2)ソウル49ヵ所の選挙区の424棟すべてにおいて、民主党候補の事前投票得票率が、本投票得票率より、12%程度一定に高い点、(3)首都圏1092件の邑面洞(韓国の行政区画)単位において、民主党候補の事前投票得票率が、本投票得票率より高い点、(4)管外事前投票数と管内事前投票数が一定の比率である点、などがある。
 「修羅場」だった大統領選
 朴槿恵政府当時の国務総理兼大統領権限を代行した黄教案(ファン・ギョアン)前総理は、「不正選挙防止隊」という市民団体を作り、大法院の前で、「職務を遺棄する最高裁判事糾弾デモ」を行っている。
 このような憂慮は、3・9大統領選挙でも再現された。
 3月4日から2日間行われた大統領選挙の事前投票で、中央選挙管理委員会(盧貞姫(ノ・ジョンヒ)委員長)による、コロナ感染者の投票管理があまりにもずさんであったため、全国の数多くの投票所が修羅場と化したのだ。
 事前投票率が歴代最高値である36.93%を記録した今回の事前投票では、急造された臨時投票所で、感染者は強風と微細粉塵の中で1~2時間も待つことになり、待機中に倒れる感染者まで現れた。
 その上、投票用紙が、投票箱ではなく、段ボールや紙袋に保管されていた。首都圏では、事前投票する感染者は、投票所一か所あたり20人と予測し、投票時間も40分もあれば十分だろうと見積もっていた。だが実際蓋を開けてみると、投票所ごとに感染者が数百人ずつ集まり、投票時間も1~2時間かかるなど、多くの混乱が生じた。
 「ウリ法研究会」という、親盧・親文中心の中央選挙管理委員会の委員長、盧貞姫最高裁判事は、管理責任追及の声に対しても決して辞任しなかったが、結局、4月18日、辞意を表明して退いた。」
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🎌14〕─1─日本の皇族・皇室には基本的人権がない。~No.103No.104No.105 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代の日本人は、昔の日本人の様に命を捨てても天皇・皇族、皇室・天皇制度を本気で守る気があるのか疑わしい。
 つまりは、口先論が多く、本心は別にある。
 その証拠が、国民世論=民意である。
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 2022年5月26 MicrosoftNews プレジデントオンライン「日本の皇族には「基本的人権」がない…その恐ろしい事実に日本人がまるで違和感をもたない根本原因
 © PRESIDENT Online 日本国際賞授賞式に出席された天皇、皇后両陛下=2022年4月13日
 日本の皇族には、人間が人間として当然持っている基本的な権利、つまり「基本的人権」がない。九州工業大学名誉教授の佐藤直樹さんは「そもそも日本語の権利や人権には『正しい』というニュアンスがない。権利や人権はタテマエだと思われており、だから皇族の基本的人権がないことにも、多くの人が違和感をもたない」という――。
 ※本稿は、佐藤直樹『「世間教」と日本人の深層意識』(さくら舎)の一部を再編集したものです。
 キリスト教の普及で「個人」の意識が誕生した
 法律上の「契約」という概念があります。
 これは『新約聖書』や『旧約聖書』にあるように、神との約束が原型です(『新約』は神との新しい約束。『旧約』は古い契約の意味)。
 法律上の契約は、そこからきているといわれています。
 欧米の場合、キリスト教が、近代法が成立するときに大きな影響を与えました。
 またアメリ憲法修正1条では、「政教分離」や「宗教の自由」や「表現の自由」がうたわれています。
 あれは明らかに、キリスト教の自由な布教のために、国家権力にその活動を邪魔されないようにすることを意味していると思います。それがアメリ憲法に反映された。
 憲法基本的人権がそこから生まれてきたわけです。人権は、個人とワンセットになっているものです。
 日本では「個人」と「社会」が生まれなかった
 では、個人が生まれなかったのは、日本だけなのでしょうか。
 世界標準は「一神教」といっていいと思います。一方、日本は「多神教」で、宗教的なあり方が異なっています(とはいえ、本書は「世間教」というある種の一神教である、という立場で述べていますが)。
 「社会」は、基本的に一神教を基礎にしてつくられています。おそらくイスラム教でも、神様との関係で個人が形成され、それで社会ができてきたという歴史があると思います。
 中国は儒教の影響がありますが、中国人はものすごく自己主張が激しい。あれは、個人だと思います。インディビジュアルです。そういう意味では、やっぱり中国も「社会」なのだろうと思います。
 韓国は3分の1がキリスト教徒です。つまり個人。韓国は儒教の影響もありますが、一神教の影響がものすごく強いところではないかと思っています。ですから個人と社会が生まれたのは、キリスト教の普及の影響が一番大きい。
 そしてもう一つは、「都市化」です。農村が解体して、農村の次男、三男が都市に流れていき、いろいろな仕事を新たにはじめました。都市でさまざまな人間関係を新しくつくっていくことになり、社会が形成されるきっかけになります。
 都市化は、日本にもやはり同じようにありました。
 第二次大戦後、集団就職で上京する若い労働者を「金の卵」といったりしましたが、その日本になかったのはキリスト教です。キリスト教が支配するという伝統が、歴史の中で日本にはありませんでした。そのため、個人と社会が生まれず、「世間」は維持されていったのです。
 明治になってようやく近代法が入ってくる
 統一国家が成立する前の中世ヨーロッパは、法分裂の時代であるといわれます。
 法は地方法、領邦法、都市法、家人勤務法、荘園法などに分裂し、同じ地域に種々の法が並立して存在していた。とにかくいろいろな法律があったわけですが、その後近代国家に統一されてゆく過程で整理され、憲法などの近代法ができます。
 一方、日本でも江戸時代には、幕府の武家諸法度とか、伊達藩など各藩が定めた藩法もありました。が、これらは一応法とはいえますが、近代法とはまったく別のものです。
 すでにふれたように、日本に近代法が入ってくるのは明治時代です。
 現在の日本に「人権はない」といえるワケ
 近代法の重要な概念として、「権利」や「人権」という言葉がありますが、「権利」という言葉は「Right」の翻訳で、「Human rights」が「人権」です。
 江戸時代にはなかった言葉・概念ですから、それを翻訳したわけですけれども、では、現在の日本に権利、人権があるかといわれれば、はっきりいって、ないと思います。
 辞書を引けばすぐわかりますが、英語の「Right」は、権利以外にもう一つ「正しい」という意味があります。「You are right.」といったら、「あなたは正しい」。権利を持っているだけで正しいわけです。
 でも、そういうニュアンスが日本語の権利の中にはない。人権ももちろん「正しい」権利です。
 「感染者差別は人権侵害ですよ」が通じない
 ところが日本人の感覚では、「あいつは権利ばっかり主張する嫌なヤツだ」みたいな言い方をふつうにするわけです。日本語の権利には「正しい」というニュアンスがほとんどない。
 それゆえ、人権にも「正しい」というニュアンスがない。「人権屋」などと蔑むような言い方をしたりします。
 プロローグで、長電話をするドイツの男性が「私には権利がある」といったエピソードを紹介しましたが、日本人はふつう生活の中で「私は権利を持っている」とはいわないし、ましてや「あなたには権利がある」なんていいません。
 そこが、個人と社会のあるエリアと全然違うところで、依然として、本来の意味での「人権」とか「権利」という概念が定着していない。
 いくら法務省が「感染者差別は人権侵害ですよ」といっても、誰もそんなことは信じていない。困ったことに、そういうことが日本では依然として起きているのです。
 法律よりも世間のルールが大切
 現代の日本は、人権侵害が頻発するような状態になっています。
 やはり法律より「世間」。人々は「世間のルール」を信じているので、「人権侵害」といわれても、そんなことはまるで念頭にない。
 日本人が人権という言葉を本格的に聞いたのは、憲法の「基本的人権」によってでしょう。それまでは、一般的ではなかったし、憲法自体も、敗戦によって、いわば上から降ってきた憲法です。人々が勝ち取ったものじゃない。
 フランス革命も、アメリカの独立革命もそうですが、憲法というものを彼らは血を流して勝ち取っています。血で血を洗う争いをやって勝ち取ったという意識が、いまだに非常に強い。だから権利を侵害されたとなれば、デモなどで徹底抗戦するのです。
 日本人はその感覚が全然ないわけです。これは当たり前といえば当たり前の話で、「世間教」を信じるこの国では、初めから「法のルール」というものはタテマエだったのです。当然のことに、憲法基本的人権だっていまだにタテマエなわけです。
 日本の皇族には基本的人権がない
 日本の皇族には、基本的人権がありません。また天皇・摂政だけですが、犯罪をおかしても訴追されません。
 秋篠宮家の長女、眞子さんの結婚の際には、外野がやめろ、やめろ、許さない、みたいに大騒ぎをしましたが、そういうこと自体が基本的人権の侵害ではないのでしょうか。
 日本には皇室があり、イギリスには王室があります。天皇制は他の国の王室となにが違うかというと、歴史の長さが違うというのが一つあります。
 もう一つは神との関係です。エリザベス女王にはイギリス国教会というものがあって、神が存在します。一神教ですから、神は一人しかいないし、当然のことながら女王は神ではない。
 ところが、戦前の天皇は「現人神(あらひとがみ)」だった。これは、「この世に人となって現れた神」という意味で、人間ではなく神そのものだったのです。天皇という存在が頂点にあって、それと一体になっているのが「世間」です。
 「世間教」の教義の一つに、「身分制」ルールがあります。
 この身分制の中で、一番身分が高いのは天皇。そこからミルフィーユみたいに、重層的にずっと下まで、上下の身分というものが積み重なっている構造になっているのが日本です。そのいちばん下に存在しているのが被差別部落の人々となる。
 「世間」においては、天皇被差別部落が表裏一体となっているのです。部落問題の根底には、「世間教」の「身分制」が存在しているわけです。
 法律的に矛盾を抱える天皇
 ところで、憲法の1条から8条までは天皇の話ですが、この部分で例えば2条には、「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」とあります。つまり、天皇というお仕事は世襲であるといっている。
 ところが、同じ憲法にある「職業選択の自由」を規定する22条は、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」とあります。
 そうすると天皇は自由に自分の職業を選べないのだから、天皇世襲制を規定する2条は、22条の「職業選択の自由」に反しないのか。
 これは日本の憲法の中に、世襲制という本来は「世間のルール」であるものと、基本的人権としての「職業選択の自由」という「法のルール」が、矛盾をかかえながら混在していることを意味していると思います。
 なぜ天皇だけそんな特別扱いをするのか。天皇は「世間のルール」である「身分制」の頂点に立つ、そういう特殊な存在だからです。日本の天皇制というものは、非常に不思議な制度です。そこのところが、他の国の国王とは決定的に違う点です。

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 国家と民族の成立は、日本とヨーロッパと中国・朝鮮とでは三者三様で全然違う。
 現代の日本人には、その歴史的事実が理解できない。
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 世界の開かれた王家とは、人種・民族、出自・出身、身分・家柄、血筋・血統に関係なく、個人の才能・能力・実力で即位できる事である。
 王位の正統性は、宗教による王権神授説・帝位神授説である。
 王位の正当性は、憲法・法律による社会契約説である。
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 世界の王国・帝国は、自国民でなくても他国民でも国王に即位させ、他国の女性でも自国の女王・女帝に即位させた。
 そこには、外国人に対する偏見や差別は存在しなかった。
 その意味において、日本の皇室は閉ざされた王家として世界の非常識で、人種差別・民族差別・宗教差別そして女性差別を含んでいる。
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 西洋諸王国の即位する正当必須条件とは、人種は白人、民族はゲルマン系、宗教は西欧キリスト教、職業が王族か軍人、人物・才能・能力優先で血筋・家柄・身分・階級は二の次、女性でも即位可能である。
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 イギリスの歴代国王の出身部族は、先住民ケルト人を征服したアングロ・サクソン系、ノルマン系、フランス系、スペイン系、ドイツ系であった。
 ヴィクトリア女王の共同統治者である夫アルバート公子は、ドイツ人でザクセンコーブルク=ザールフェルト公エルンスト(後のザクセンコーブルク=ゴータ公エルンスト1世)の次男。
 イギリス人のヴィクトリア女王は、インド皇帝を兼ねてインドを統治した。
 女王エリザベス2世の夫フィリップ (エディンバラ公)は、ギリシャ人(古代ギリシャ人との血の繋がりはない)でギリシャ王家の王子。
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 ロシア皇帝エカテリーナ2世は、ドイツ人でプロイセン軍少将の娘。
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 メキシコ皇帝マクシミリアンは、ドイツ人でオーストリアハンガリー皇帝フランツ=ヨゼフ1世の弟。
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 オーストリア皇帝は、スペイン国王を兼ねた。
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 スペイン国王は、ポルトガル国王を兼ねた。
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 フランス・平民階級出身のジャン=バティスト・ベルナドット将軍は、スウェーデンノルウェー連合王国国王に即位してカール14世ヨハンと名乗った。
 スウェーデンの政治家や国民は、フランス人国王を認め受け入れた。
 フランス・マルセイユの絹商人フランソワ・クラリーの末娘デジレ・クラリーは、ベルナドット将軍と結婚して王妃となる。
 カール14世ヨハンとクラリー王妃の王太子がオスカル1世として即位し、フランス系ベルナドッテ王朝第2代のスウェーデン国王およびノルウェー国王となった。
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 ギリシャは、15世紀以後イスラム教国オスマン帝国に支配されていたが、1829年に独立戦争に勝利し、1832年にキリスト教ギリシャ王国を建国して独立した。
 ギリシャ国会は、国王に南ドイツ・バイエルン王国を支配するヴィッテルスバッハ家出身のオソン1世を迎えた。
 ギリシャ軍は、1862年にクーデターを起こしてドイツ人オソン1世を退位させた。
 ギリシャ国会は、次の国王にデンマーク王(グリュックスブルク家)クリスチャン9世の息子ヴィルヘルムが迎えた。
 1863年 ヴィルヘルムは、ギリシャ正教に改宗してゲオルギオス1世として即位し、王妃にロシア大公女オリガ・コンスタンチノヴナを迎えた。
 男ドイツ系女ロシア系のグリュックスブルク朝ギリシャ王国は、1974年までギリシャを統治した。
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 グリュックスブルク家は、オルデンブルク家の流れを汲む由緒ある名家で、現在のデンマーク王国ノルウェー王国の王家で、一族からはギリシャ国王も出している。
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 オルデンブルク朝は、1448年から1863年まで続いた、デンマークを中心とした北欧の王朝で、祖先はドイツ・ニーダーザクセン州オルデンブルクの出身であった。
 オルデンブルク伯エギルマール1世(1108年没)はザクセン公家の家臣であったが、1180年に独立した。
 オルデンブルク家は、13世紀に同家はオルデンブルク伯系とデルメンホルスト伯系に分かれたが、15世紀前半のオルデンブルク伯ディートリヒがデルメンホルスト伯の女相続人アデルハイトと結婚し、デルメンホルスト伯領は本家に復帰した。
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 ウィキペディア
 ケルト人は、以前は中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族であると考えられていた。ケルトとは古代ローマで「未知の人」を意味し、もともとは民族を示す言葉ではない。
 大陸のケルト
 ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化(紀元前1200年 - 紀元前500年)を発展させたと考えられてきた。当時欧州の文明の中心地であったギリシャエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット文化はラ・テーヌ文化(紀元前500年 - 紀元前200年)に発展する。ちなみに、イギリスの世界遺産であるストーンヘンジはより古い新石器時代青銅器時代(紀元前3千年~2千年) の建造と以前は考えられていた。
 島のケルト
 ケルト人がいつブリテン諸島に渡来したかははっきりせず、以前は鉄製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされていたが、遺伝子などの研究から新石器時代の先住民(ケルト以前の巨石文化の担い手)が大陸の文化的影響によって変質したとする説もある。いずれにしてもローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器をもつ部族社会が展開していたがこれらはケルト人とはいえない。
 現代のケルト系諸言語
 ケルト語派の言語が話される国はアイルランドスコットランドマン島ウェールズ、及びブルターニュである(これにコーンウォールを加えることもある)。しかし、その5ヶ国の人々の中で、まだケルト系言語を使って日常的生活を送る人の数は30%程度を超えない。
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 ゲルマン民族は、東方の文明・文化を持たない野蛮な蛮族であった。
 現代の西洋白人は、ゲルマン人の子孫である。
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 インド・ヨーロッパ語族は、東はインドから西はヨーロッパまでの起源を共有する言語で、イタリック語派(現代のロマンス諸語)、ゲルマン語派、スラブ語派 、インド語派(インド–イラン語派)など幾つかの語派が存在する。
 イタリック語派の一つであるラテン語には、古代ローマ帝国時代に民衆が話していた俗ラテン語(ラテン口語)があり、後にローマ・カトリック教会が正式に使用していた公用語である古典ラテン語がある。
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 古代ローマ時代、アルプス山脈の北、ピレネー山脈ライン川の間のガリアにはケルト人が居住していた。
 紀元前58年頃 カエサル(英語名シーザー)はガリアを侵略し、ケルト人のガリアとブリタニアゲルマン人ゲルマニアを征服してローマの版図を広げた。
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 古代ローマ帝国は、広がった帝国属領に総督・軍団長を派遣して支配しが、皇帝の権威が弱まると地方の総督・軍団長が帝位を求めて反乱を繰り返した為に帝国は弱体化し、有力な総督・軍団長が皇帝に即位し帝国はさらに衰退した。
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 4世紀頃から6世紀頃まで、ヨーロッパではゲルマン人による民族の大移動が起きていた。
 476年 西ローマ帝国は、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルの反乱で滅亡した。
 その後の異民族の侵略で、ローマは大火に包まれ大虐殺で死者の都となった。
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 ザクセン人(サクソン人)は、ゲルマン民族のうち西ゲルマンに属する一部族で、ゲルマン民族大移動でエルベ川北岸のホルシュタイン一帯に移住して定着し集落を営んだ。
 2世紀から4世紀にかけて徐々に生存圏を拡大していった。5世紀には一部のザクセン人がユトランド半島のアングル人・ジュート人と共にイギリスに上陸し、いわゆるアングロ・サクソン人の元となった。
 ザクセン人は、ザクセン公家として、中世から近世にかけて北部ドイツ地方一帯を支配してザクセン公国を樹立した。
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 フランク人は、ゲルマン民族の一部族で、民族大移動でフランス北部とベルギーに移住し、5世紀末に原住民のケルトガリア人(ゴール人)を攻めて征服してメロヴィング朝フランク王国を建てた。
 ヨーロッパの階級ピラミッドの原型は、征服した部族によって積み重ねられて築かれた。
 732年 メロヴィング朝の宮宰カール゠マルテルは、イベリア半島から侵略してきたイスラム軍をフランク領トゥール゠ポアチエで撃破して宗教侵略からキリスト教とヨーロッパを守り、メロヴィング朝における統治権を握った。
 751年 カール゠マルテルの子ピピン(小ピピン、短軀王。)は、フラン国王の王位を簒奪し、メロビング朝を廃してカロリング朝を開いた。
 768年 ピピンの長子シャルルマーニュ(大ピピンカール大帝、チャールズ大帝。)は、ザクセン公国と北イタリ・ランゴバルド王国(東ゲルマン族の一部族ランゴバルド人)を滅ぼして中部ヨーロッパとイタリアに領土を拡大してゲルマン諸部族をまとめ、イスラム勢力をピレネー山脈以西に追いやり、800年にローマ教皇から西ローマ皇帝の冠を授かり西洋キリスト教文明世界の守護者に任じられた。
 フランク王国が、現代ヨーロッパの原形であり、西洋キリスト教文明を成立させた。
 フランク王国は、後に西フランク(フランス)、東フランク(ドイツ)、中部フランク皇帝領(イタリア・オランダ・ベルギー)に3分割され、後に数多くの王国や公国が建国され領土を巡る戦争を繰り返して起きたが、再統一される事はなかった。
 ヨーロッパ人とは東方の侵略者・征服者ゲルマン民族の事で、古代ギリシャ古代ローマ古代ローマ共和国、古代ローマ帝国との直接的な繋がりは薄い。
 ヨーロッパ人に正統な統治者としての権威を与えたのは、西欧キリスト教文明のローマ・カトリック教会であった。
 当時、現代のようなフランス人、ドイツ人、イタリア人、オランダ人、その他の人々は存在しなかった。
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 ヨーロッパを政治的に統合されたのがEU(欧州連合)であるが、イギリスは離脱した。
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 962年 ドイツ王オットー1世は、ローマ教皇ヨハネ12世から皇冠を戴いて神聖ローマ帝国を建国し、西洋キリスト教文明圏の保護者となった。
 現代に繋がる欧州大陸部であるドイツ、フランス、イタリア、その他の諸国は、この混乱状況の中から建国され、各民族や諸国民が生まれた。
  ・  ・  
 ヒトラーが自称した第3帝国ナチス・ドイツとは、アーリア人ゲルマン民族ドイツ人の事である。
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 ローマ教皇に即位する絶対条件は、西洋系欧州系白人男性である事であった。
 コンクラーベ教皇選挙会議)を構成する枢機卿になる資格は、敬虔な経験と教会活動の実績があれば人種や民族は問わないが、性差別として女性には資格が認められていなかった。
   ・   ・   ・   
 皇室の血族優先(ネポティズム)は、血縁・地縁による依怙ひいき、縁故、身びいきとは違う。
   ・   ・   ・   
 中国・朝鮮は、公・忠より私・孝を優先する一族・家族中心の宗族主義で、公然と賄賂による不正が蔓延る依怙ひいき、縁故、身びいきである。
 楊逸「王朝時代の中国は、『家国』意識が強かった。漢王朝は『劉家天下』、唐王朝は『李家天下』と、国土と人民も皇帝家の『私有物』という考え方でした。」
   ・   ・   ・   
 黄河文明を創った農耕民の漢族中国人による中華王朝は、三国時代と司馬朝晋までの古代の諸王朝、趙朝宋王朝、朱朝明王朝で、その他は北方・西方の遊牧民の異民族征服王朝であった。
 異民族征服王朝時代、漢族中国人は奴隷であった。
 東方の朝鮮人は、一度も中華帝国をつくった事なく、中華帝国の属国の地位に甘んじ、礼法の国として、命じられるままに宮廷内奴隷(宦官)や宮廷内慰安婦(キーセン)を数を揃えて献上していた。
 南方の越南人(現・ベトナム人)には、中華世界には関心がなく、むしろ幾度も侵略してくる中華帝国の侵略と熾烈な防衛戦争を繰り返していた。
  ・  ・  
 中国皇帝は、漢族中国人だけでなく人種・民族、宗教、出自・出身、身分・家柄、血筋に関係なく能力があれば誰でも即位できた。
 それは、朝鮮半島の諸王朝・諸王家でも同様であった。
 禅譲放伐
 中国皇帝の正統性は、儒教道教の天人相関説・受命思想で、天(天帝)の子であり天命により天下を治める事が認められる。
 天命を失って帝位を去った旧帝室の一族は皆殺しにされ、旧主に忠誠を誓う者は女子供に関係なく家族全員・一族全員・身近に住んでいた住民も含めて大虐殺された。
   ・  ・   ・   
 戦前までの天皇・皇族、皇室は、命は大逆罪で、名誉は不敬罪で守られていた。
 現代日本では天皇・皇族、皇室を守る特殊な法律はなく、あるとすればプライバシー侵害・スキャンダル捏造・事実に基づかない悪意報道などに対する名誉毀損罪や侮辱罪などの軽犯罪であるが、国民を犯罪者・罪人として告発する事ができない。
 世界史における事実として、王侯貴族が正当な理由で国民・領民を告発したせいで、逆に国民世論が反王侯貴族となって暴動から革命に発展し王朝・王家・貴族が追放されるか処刑された例は数多存在する。
 故に、戦後の天皇・皇族、皇室は反天皇反民族反日本的な悪意に満ちた報道に耐え忍び、我慢を強いられて美智子上皇后陛下も雅子皇后陛下秋篠宮家紀子殿下その他の皇族も精神的苦痛から病気になられた。
 だが、そうした悪意の記事を載せた雑誌はよく売れ、敵意に近い酷評を書き込んだSNSのクイック数・閲覧数は増加し、如何に日本人の関心が高いかを示している。
 現代の日本人とは、昔の日本人とは違うのである。
   ・   ・   ・   
 一部の日本国民は、天皇・皇族、皇室を税金泥棒・穀潰し、特権階級・上級市民、その他と口汚く罵っている。
 彼らの多くが、政治家、官僚、学者、教育者、メディア関係者などの高学歴な知的エリートや進歩的インテリに存在する。
 そして、彼らには民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力はない。
   ・   ・    ・   
 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
   ・   ・   ・   
 昭和天皇肖像画の写真を燃やす動画が日本の現代アートに、賛成する日本人が多数で、反対する日本人は少数であった。
 昭和天皇は、歴代天皇の中で最も日本人に嫌われている天皇である。
2020-02-18
🦲4〕─18─表現の自由。日本の現代アートは「人の写真(例えば皇族の写真)を燃やす」こと。〜No.19  
2020-11-07
🦲4〕─21─あいちトリエンナーレ2019。愛知県知事リコール運動敗北。〜No.22 
2021-10-14
🦲4〕─24─昭和天皇肖像燃やす動画と「表現の不自由展かんさい2021」。〜No.25 
 韓国・北朝鮮中国共産党アメリカ、ロシア、その他、多くの国々は昭和天皇ヒトラーと同罪の非人道的戦争犯罪と認めている。
 アメリカの一部では、昭和天皇が住んでいる東京・皇居の上に原爆を投下して焼き殺す事を望んでいた。
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 天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇制度である。 
 天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
 現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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 日本民族が崇拝してきた八百万の神々が正統な神である事を保証しているのは、最高神・女性神の血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇の神性である。
 つまり、民族宗教、神話物語でる天皇神話である。
 近代の憲法や法律の宗教法人法が認定する神仏には、合憲・合法に基づいた正当性がっても、神性・神聖の正統性はない、つまり金儲けの為に作られたウソの神仏である。
 当然、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇には神仏を認め保証する神力はない。
 日本の八百万の神々は天皇家の祖先神である伊邪那岐命イザナギノミコト)と伊邪那岐命イザナミノミコト)から生まれた、それが天皇神話である。
 八百万の神々の正統な神性は、天皇神話は保証している。
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 現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
 戦後民主主義教育を受けた高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
 現代の国際常識、世界正義は、男女平等、女性権利の向上、フェミニズムジェンダーで、正統性男系父系天皇制度は悪とされている。
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 日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。
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 日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、1,神の民族神話、2,人類の文明発展・進化・進歩、3,人間の英雄伝説の3つを持っている。
 神の宗教的民族神話とは、古事記日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
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 神代の民族固有神話を持っている国家や国民は、古代の古層を受け継ぐ日本以外に存在しない。
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 日本民族は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた。
 天皇家・皇室は、数千年前の弥生時代古墳時代に、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻し、幸せと豊かさを求めたムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として「天皇下駄論」・「天皇人身御供説」・「天皇生け贄説」で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
 その神聖不可侵の裁可者・天皇という地位を護る為に考え出されたのが、「政治的無答責の君主」、つまり政治権力も宗教権威も持たない天皇の権威つまり「天皇の御威光」である。
 祖先と国と民族に対して重い責任を負うのは、益荒男・日本男児の責務であって、手弱女・大和撫子ではなかった。
 故に、日本天皇は、最高神の女性神による民族神話、神話宗教、血筋・血統の家世襲万世一系で受け継ぐ事で正統性を与えられていた。
 民族神話で正統と認められた宗教的万世一系の男系父系天皇制度とは、いつ終わるか分からない弥生の大乱に辟易とした古代日本民族が、争いを避け、起きた争いを短期間で終わらせ、偽りでもいいから平穏無事を維持する為の歴史的叡智である。
 つまり、白黒を、善悪を、正邪を、ハッキリ区別しない為の宗教的正統な万世一系の男系父系天皇制度であった。
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 天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事を困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
 つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
 それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
 日本民族天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 徳川幕府は、目の見えない視力障害者・検校が行う高利貸しを保護していた。
 検校の中には、御家人株を買って子供を武士にし、上司や同輩に賄賂を贈っていた幕臣にしていた。
 百姓や町人も、金を使って武士の身分を手に入れ、才覚で町奉行勘定奉行などの役職について出世した。
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 数千年前の弥生時代古墳時代から、日本国・日本民族を1つにまとめている3つの力が存在している。
 1つ目が武力の政治権力、2つ目が経済力の宗教権威、3つ目が文化力=畏れの天皇の御威光・権威・御稜威・大御心であった。
 日本の歴史において、政治権力と宗教権威は人間の強欲・私欲・個人欲で栄枯盛衰を繰り返し目まぐるしく入れ替わっていたが、その中で文化力の天皇の御威光だけは変わらなかった。
 そんな文化力の天皇の御威光を滅ぼうと忍び寄ってきたのが、キリスト教の宗教とマルクス主義共産主義イデオロギーであった。
 そして、現代日本人は日本のグローバル化の為にローカルな日本の文化力をゴミのように捨てようとしている。
 反天皇反民族反文化的行動を行っている日本人の多くが高学歴な知的インテリや進歩的インテリ達である。
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 世界の王侯貴族は他国からの軍人征服者であったが、日本の天皇は民族の伝統・文化・宗教の権威者であり保護者であった。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 レーニンは、世界人民革命戦略から、中国共産党日本共産党など極東アジア共産主義者に対して、日本とアメリカを戦争させ世界戦争に拡大し、西洋列強の富と力の源であるアジアの植民地を解放するように示唆した。
 つまり、軍国日本が戦った日中戦争や太平洋戦争はレーニンが仕組んだ謀略であった。
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 イギリス、イタリア、ベルギーなど西洋諸国の各国の共産党は、自国の王室を人民の敵とは認めず、それ故に一度も「王室打倒」とは叫ばなかったし、ソ連・国際共産主義勢力も命じなかったし求めなかった。
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
 そして、キリスト教朝鮮人テロリストも天皇と皇族を惨殺するべく暗躍した。
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 良い日本人は2割、悪い日本人は3割、良くも悪くもなく信念を持たず同調圧力付和雷同的に流される日本人は5割。
 右翼・右派・ネットウハと左翼・左派・ネットサハは、悪い日本人である。
 戦後民主主義教育で、そうした日本人が急増した。
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 日本人は、惻隠の情を持ち心優しく親切である、はウソである。
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 日本人は、いい事もしたが悪い事もした。
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 日本は世界で信用されている、日本人は世界で愛されている、はウソである。
 日本は世界で信用されていない、日本人は世界で嫌われている、は本当である。
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 日本人は賢く優れいている、はウソである。
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 自慢して自惚れる日本人は、醜悪なほどに愚かである。
 日本人は、しょせん、猿マネである。
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 日本人は、過度に褒めるとバカになり、おだて持ち上げると調子に乗って図々しくなる。
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 日本人の本性は、論より証拠、百聞は一見にしかず、現代日本人を見ていればわかる。
 その代表的な現代日本人とは、高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、親中国派・媚中派である。
 現代の日本人と昔の日本人とは別人のような日本人である。
 現代の日本人は、武士や庶民でもなければ、武士や庶民の子孫でもない。
 現代日本には、民族的な武士や庶民は存在しない。
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 歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国、韓国・北朝鮮
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
 渡来人の中国人や朝鮮人には、皇室に対する畏れはなく、天皇や皇族を殺す事に罪悪感はなかった。
 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および894年 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
 捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
 李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
 この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
 朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
 歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
 朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
 日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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🌋5〕─1─長野県安曇野。山中を切り開いた海神を祖とする海人族=安曇族。~No.14No.15No.16 * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ウィキペディア
 海人族(かいじんぞく、あまぞく)、海神族(わたつみぞく)は弥生文化前期の主力を担ったもので、航海、漁労など海上において活動し、4世紀以降は海上輸送で力をつけることとなった集団ならびに氏族である。
 語感から海人族を抽象的に海に関わる民族と誤解し、沖縄における海人(うみんちゅ)や海の民といった大洋航行を行う海洋民族だと錯覚されることもあるが、考古学的発見と魏志倭人伝を照らし合わせれば沿岸航行を行う漁労生活集団に端を発することが明白である。
  ・  ・  
 阿曇氏(あずみうじ、安曇氏)は、「阿曇(安曇)」を氏の名とする氏族。
 海神である綿津見命を祖とする地祇系氏族。阿曇族、安曇族ともいう。
 概要
 『記紀』に登場し、『古事記』では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記され、『日本書紀』の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記されている。その他、『新撰姓氏録』では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記される。
 安曇は海人津見(あまつみ)が転訛したものとされ[要出典]、津見(つみ)は「住み」を意味する古語とする説もあり、その説だと安曇族はそのまま「海に住む人」を示す。一方、稲作を日本に持ち込み葦原中国を本拠にしたと見られることから「葦積」が転訛したとする説もある。
 歴史
 古代日本を代表する海人族で、全国の海人部を管掌した伴造として知られる有力氏族で、発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)とされる。古くから中国や朝鮮半島とも交易などを通じた奴国の王族であったとされ、神武東征後に最初の本拠地である北部九州の福岡志賀島一帯から離れ、畿内へ進出した後に、摂津国西成郡安曇江を根拠地として、全国の海人集団・海部を管掌する伴造の地位を得たと見る説がある。
 氏人として、『高橋氏文』にある崇神朝に初めて御膳を奉った大栲成吹命、『肥前国風土記』に記録される景行朝の百足足尼命、応神天皇三年紀や『筑前国風土記』に登場する大浜宿禰履中天皇即位前紀に見える阿曇浜子、舒明朝に百済へ派遣された阿曇比羅夫、斉明朝・天智朝に活動した阿曇頬垂などがいる。
 律令制の下で、宮内省に属する内膳司(天皇の食事の調理を司る)の長官(相当官位は正六位上)を務める。これは、古来より神に供される御贄(おにえ)には海産物が主に供えられた為、海人系氏族の役割とされたことに由来する。
   ・   ・   ・   
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「北村遺跡」の解説
 北村遺跡 きたむらいせき
 長野県安曇野市にある縄文時代後期の遺跡。 1987年中央自動車道長野線の建設に伴う調査により,180体の人骨を含む土壙墓が 480発見された。配石のあるものもあり,典型的な集団墓地のあり方を示すものである。人骨はすべて屈葬。従来,縄文時代の人骨の出土は海岸地帯の貝塚にかぎられていたが,内陸部での大量の出土は,食物などさまざまな面で海岸部との比較分析を可能にした。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
   ・   ・   ・   
 安曇野市役所 
 バーチャルミュージアム 歴史
 記事ID:0068758 更新日:2021年3月1日更新 印刷ページ表示
旧石器時代
 吐中からオオツノジカの骨が発見される
縄文時代
 前 13,000 年頃 ●定住生活、土器や弓矢の使用開始
 前 5,000 年頃    安曇野に集落が出現(他谷遺跡、ほうろく屋敷遺跡ほか)
 《資料》きのうきょうあしたNo.2『安曇野の環境を考古学する』 [PDFファイル/7.54MB]
 前 2,500 年頃 明科光の北村遺跡(1987年の調査で約 300 体の縄文人骨発見)
弥生時代
 前 9 から 8 世紀 ●西日本で水田農耕の開始
 紀元前後   安曇野で農耕集落の成立(黒沢川右岸遺跡、みどりヶ丘遺跡)
           《資料》きのうきょうあしたNo.2『安曇野の環境を考古学する』 [PDFファイル/7.54MB]
 3 世紀頃     ●卑弥呼の時代
   ・   ・   ・   
古墳時代
 3 世紀頃     ●前方後円墳などの古墳造営が開始
 7 世紀頃 北アルプス山麓や明科潮地区で多くの古墳が造られ始める
         《資料》きのうきょうあしたNo.2『安曇野の環境を考古学する』 [PDFファイル/7.54MB]
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 関東農政局
 農村振興部水利整備課
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 1.安曇族の開発【「農」と歴史】
 山の中の盆地に海神!?
中信平の標高は500~800m。この山中の盆地を開発したのが古代日本を代表する海人族(あまぞく)・安曇(あづみ)氏であると聞けば、誰もが驚くでしょう。安曇氏の本拠地は北九州の志賀島(しかのしま)一帯。白村江(はくすきのえ)の戦いを指揮した安曇比羅夫(あずみのひらふ)など水軍の指揮官を勤め、大和朝廷では高い地位にありました。「アヅミは、阿曇、安曇、厚見、厚海、渥美、阿積などと表記され、その足跡は瀬戸内海を経由して阿波、淡路、播磨、摂津、河内、近江もおよび、琵琶湖の西側には安曇川の地名を残している」(谷川健一『日本の地名』)。
信濃(しなの)の大社として名高い穂高神社(ほたかじんじゃ)は、この安曇氏の祖神である海神「穂高見命(ほたかみのみこと)」を祀っており、今でも同神社の祭日には何艘もの船がくりだしお互いにぶつけあう豪壮な行事を見ることができます。その昔“天智元年に水軍を率いて百済(くだら)救援に向かった祈りの様子を表したものが始まりである”とも伝えられています。
安曇族がこの地へ来た時代は7世紀頃とされています。その理由については、大和朝廷の任を受けた蝦夷(えぞ)征伐であるとも、また、越国(こしのくに)の制圧のためとも推測されていますが、決定的なことは不明です。
いずれにせよ、当時の大和政権の制覇とは、他の部族を制圧し稲作によって年貢を納めさせること(渡来系弥生人による稲作社会の形成)を意味していたので、安曇族がこの地に定着したことは、稲作文化の伝播という意味でも充分に意味があったことになります。
では、それ以前に、この地に住んでいた部族はいなかったのでしょうか?
 八面大王の伝説が意味するもの
いないどころか、この地からはたくさんの遺跡や古墳が見つかっています。まず、梓川(あずさがわ)右岸には縄文時代では、唐沢(からさわ)遺跡や三夜塚遺跡(山形村)、熊久保(くまくぼ)遺跡(朝日村)、葦原(あしはら)遺跡(波田町)など。弥生時代になると、扇状地末端の湿地帯に集落が営まれたらしく、三の宮、こぶし畑、境窪遺跡(いずれも松本市)などがあります。また、古墳は穴観音古墳、殿村古墳(横穴式)などが山形村で調査され、松本市新村でも13基の横穴式古墳が発見されています。
左岸の安曇野(あずみの)でも縄文前期から中期にかけての遺跡が、烏川(からすがわ)、黒沢川(くろさわがわ)など水の得やすい扇頂部、扇端部などから出土しており、弥生式 土器も烏川扇状地の末端部でおびただしく出土しています。古墳は、山の山麓部分、ちょうど左岸幹線-穂高幹線水路に沿うように分布しています。中でも有名なのは有明古墳群こと「魏石鬼岩屋(ぎしきのいわや)」。魏石鬼とは有明山(ありあけやま)の麓で勢力を持っていた八面大王(はちめんだいおう)という「鬼」であり、伝説では坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に成敗されたことになっています。しかし、合戦沢、耳塚、立塚、矢村など伝説に関わる生々しい地名も残っており、おそらくは大和朝廷の先兵である安曇族の侵入に対して最後まで抵抗した部族 だったのでしょう。伝説上は「鬼」ですが、地元では英雄視する声もあります。いずれにせよ八面大王の戦いの頃、この盆地は大和政権の勢力下に入り、稲作が盛んになっていったと思われます。
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 さらに詳しく 安曇氏
安曇野(あずみの)を拓いたという安曇氏の起源は非常に古く、古事記には安曇族の祖先神は「綿津見命(わだつみのみこと)」とその子の「穂高見命(ほたかみのみこと)」であると書かれています。旧穂高町は安曇族の祖先神を地名としていることになります。
彼らの分布は、北九州、鳥取、大阪、京都、滋賀、愛知、岐阜、群馬、長野と広範囲にわたっており、「アツミ」や「アズミ」の地名を残しています。その北限が安曇野ということになります。
博多湾(はかたわん)の志賀島(しかのしま)には海神を祀った志賀海神社(しかうみじんじゃ)が現存し、全国の綿津見神社(わたつみじんじゃ)の総本宮となっており、安曇氏の発祥地とされています。神職は今も阿曇氏が受け継いでいます。
彼らはすぐれた航海術と稲作技術を持ち、古代の海人族の中でも最も有力な氏族でした。連(むらじ)という高い身分を大和朝廷から受け、中国や朝鮮にもたびたび渡っていたとも言われており、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いでは、安曇比羅夫(あずみのひらふ)が大軍を率いて朝鮮にわたり、陣頭指揮にあたっています。
また、788年には宮中の食事を司る長官奉膳(ぶんぜ)の地位についていることからも、安曇氏は大和朝廷を支えた有力氏族であったことがうかがえます。
彼らがなぜこんな北の山国へ来て住み着いたのか、またどんなルートでたどり着いたのかよく分かっていませんが、おそらくは蝦夷(えぞ)の征伐が目的であり、ルートとしては、
 北九州から日本海→姫川谷(青木湖から糸魚川に流れる川)から来たという北陸道
 北九州から瀬戸内海・大阪(安曇江)経由の東山道
 北九州から瀬戸内海→渥美半島(安曇族の開拓地)→天竜川を上った天竜川筋説
 などがありますが、定かではありません。
安曇野へは4~5世紀に入ったという説もあります。その時代によりここを開拓した理由も異なってくるはずですが、今となっては謎のままです。しかし、安曇野という地名、あるいは穂高神社(ほたかじんじゃ)の存在だけでも大きな文化財を残したとも言えるでしょう。

🛶17〕─1─アイヌ人有志はプーチン大統領宛に分離独立の支援を要望する嘆願書を提出した。~No.53No.54No.55 

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 日本民族は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住み着いていた日本土人である。
 アイヌ民族は、千数百年前から北海道に移り住み先住民と乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族である。
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 アイヌ独立派と反天皇反民族反日本的日本人を、極秘で支援する中国共産党北朝鮮
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 2022年6月号 WiLL「アイヌの有志『プーチン宛要望書』の問題部分
 『先住民族認定』『アイヌ自治区構想』──日本分断工作が静かに進行している
 大高未貴
 仰天の要望書
 アイヌ民族有志のグループ『モシリコルカムイの会』(畠山敏代表、紋別アイヌ協会長)が、ロシアのプーチン大統領宛の要望書を提出した事実をご存じだろうか。
 2019年1月11日、在札幌ロシア連邦総領事館にファブリーチニコフ・アンドレイ総領事を訪問、ロシア・日本両政府間のいわゆる北方領土交渉に関連して、総領事に要望書を提出したのだ。その中には、以下のような文言が見られる。
 《1,クリル(千島)諸島をアイヌ民族自治州/区としてください。
 2,クリル諸島沿海域をアイヌ民族による漁業資源管理エリアとしてください。
 3,クリル諸島の自然環境を保全してください。とくに南クリル地域については、UNESCO世界自然遺産登録地である知床半島(北海道島)との一体的な保全管理をご検討下さい》
 というものだ。
 ちなみに、要望書に名前を連ねている畠山代表とはいかなる人物だろうか。彼は2019年、北海道紋別市の川で、サケ漁は先住民族の権利(先住権)だとして、道に許可申請をせずサケを捕獲し、書類送検されている。
 また、副代表を務める石井ポンペ氏は札幌アイヌ協会の元支部長で、主体(チュチェ)思想セミナー講師を務めた経歴が2011年に道議会で追及されたことがある。
 愛知県で開催された国際芸術祭『あいちトリエンナーレ2019』の企画展『表現の不自由展・その後』が一時中止になった騒動を踏まえ、札幌市の施設で企画展『北海道・表現の自由と不自由展』が1日限定で開催された。《実行委によると、約10団体が参加。元慰安婦を象徴した『平和の少女像』のミニチュアや、(略)アイヌ民族の権利を訴える展示も》(『サンスポ』2019年12月21日付)ある問題の多い企画展だった。その開幕前の式典で、実行委の共同代表でもあった石井氏が登場、神に祈る儀式『カムイノミ』を行い、企画展の成功を祈るパフォーマンスを行っている。要するに活動家の類いなのだ。
 『モシリコルカムイの会』とは、このような経歴の人々が名を連ねている団体である。
 アイヌの本音
 ともあれ、プーチン大統領に提出した要望書は、いみじくもアイヌの本音が露呈されている。
 要するに『千島列島をアイヌ自治州にして、千島列島のみならず北海道の知床半島までをロシア様が管理してください』などと言っているに等しく、日本の国土の一部をロシアに売り渡す算段とも言えよう。日本政府にとっては到底看過できない話だ。
 アイヌ問題に詳しい元北海道議会の小野寺まさる氏は、次のように指摘する。
 『これはロシアにより国家を分断されたウクライナのようになりかねない懸念材料です。嘆願書では千島列島だけを自治区にして、なぜ知床は含めなかったのか、さすがに国内から猛反発が予想されることから、ジワジワとロシアが浸透できる計画を考えたのでしょう。知床半島は2005年にユネスコ世界遺産に登録されました。国連に認定されたエリアを国連安保理常任理事国のロシアが〝自然環境保護〟の名目で、ロシアとアイヌだけが出入りできるように立ち入り制限をし、折を見て実効支配を試みる可能性もなきにしもあらずです』
 現に2018年12月、プーチン大統領は、
 『日本がアイヌ民族を北海道周辺の先住民族としたように、ロシアのアイヌ民族をサハリン及びクリル諸島周辺の先住民族とする』
 と発言している。
 日本がアイヌ民族先住民族と認定したことで、ロシアも『ならば、こちらにもアイヌ民族はいる』と北方領土交渉など外交案件で『アイヌ民族』を利用できると踏んだのだ。ということは、ロシアが在ウクライナロシア人の保護を名目に侵攻したように、アイヌ保護を名目に、隙あらば南下してくる可能性は否定できない。
 プーチン発言の真意を読み解くには、いかにしてアイヌが〝先住民族〟として認定されたのか、そのプロセスを知る必要がある。
 長年民族として認定されなかったアイヌが、日本の少数民族となったのが1991年。さらに2008年6月6日、国会の衆参両院において、『アイヌ民族先住民族とすることを求める決議案』が全会一致で採択された。この時点で日本はアイヌをそれまでの歴史を一切無視した形で『先住民族』として認定したのだ。
 そして、2019年4月、従来のアイヌ文化振興やアイヌ福祉政策に加えて、地域や産業の振興などを含めた、さまざまなアイヌの課題を解決することを目的としたアイヌ新法(アイヌ民族支援法:正式名称『アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律』)が成立、その中でアイヌ民族は初めて『先住民族』と明記された。
 この動きを事前に察知したプーチン大統領は、アイヌ新法が成立する4カ月前に、日本側のアイヌ民族を利用した北方領土交渉を無力化するための先制パンチとして、先の発言をしたと言えよう。
 実は先の決議案(2008年)の草案は、鈴木宗男代議士が書いたものだった。私は2008年7月7日、アイヌ先住民族にするための旗振り役をつとめていた鈴木氏に取材している。そのとき、鈴木氏は、
 『アイヌ民族を北海道の先住民族とすれば、北方領土はもとよりサハリンの天然資源の天領プーチン大統領に主張できる。ゆえに私はアイヌ先住民族にすべく汗を流したのである』
 といった趣旨の発言をしていた。
 アイヌ少数民族から先住民族になったのは極めて政治的な思惑が交差した結果だったのだが、その主張が極めて浅はかな根拠に基づくものであり、それゆえに日本の命運を大きく狂わせたことが今となっては理解できる。
 アイヌ起源説まで
 実は『先住民族』認定以前から、『アイヌ自治区構想』なるものが叫ばれていた。代表的なのが『アイヌ・モシリの自治を取り戻す会結成趣旨』(1992年2月13日)を起草した、新谷幸吉氏(故人)だ。
 ……
 《新谷さんが1990年にモスクワに行ったのは、インディアンとの連携からでした。また、アイヌ・モシリの自治を取り戻す会にも、サハリンの同胞達や二風谷(にぶたに
)、ウィルタ、ナナイなど原住・先住民族との連携をつなげていくという目的が含まれています。これらの復権運動の大きな礎(いしずえ)となったのは結城庄司さんでした。……》(『アイヌ・モシリ─アイヌ民族から見た「北方領土返還」交渉』アイヌ・モシリの自治区を取り戻す会・編)
 などと、海外との連携を深めていったプロセスが書かれている。
 仮にアイヌ自治区構想が認められたとしたら、重要な問題が浮上することになる。『先住民族の権利に関する国際連合宣言』(国連総会第61会期/2007年9月13日)で定義されている軍事活動に関する規約が引っかかるからだ。
 ……
 とある。つまり、アイヌ先住民族とし、自治区を与えてしまと、彼らがノーと言えば、そのエリアに自衛隊すら駐屯できない可能性も出てくるのだ。
 さらに、このアイヌ自治区構想は、近隣諸国が日本を分断するツールとして浸透工作している案件だ。中国は1970年以降、社会党岡田春夫衆議院議員が橋渡し役を務め、アイヌ国賓待遇で何度も招待している。チベットウイグル南モンゴルを弾圧し、国内に少数民族問題を抱える中国がアイヌを熱烈歓迎した思惑は推して知るべしだ。
 北朝鮮ではアイヌ協会関係者の中に主体思想に携わっている者も多く、本誌2022年1月号『樺太アイヌ強制移住のウソ』でも書いたが、現在北海道に浸透している〝樺太アイヌ強制移住〟という虚偽の表記は慰安婦問題や戦後補償デッチ上げプロパガンダと同根だ。
 余談になるが、2012年2月6日、ロシア国営ラジオ放送『ロシアの声』が、『日本人が、アイヌの剣も、お辞儀も、腹切りも自分の文化にした』と題された放送を行っている。
 『桜も柔道も我が国が起源だ』といって憚(はばか)らない隣国の反日活動家の発想に酷似(こくじ)していると思うのは私だけではあるまい。
 3人のキーパーソン
 実は日本を狙う諸外国の浸透を誘発するトリガーとなり得る〝アイヌ自治区構想〟は、1980年から始まっている。
 事の発端は1982年の国連で産声をあげた〝国連先住民会議〟(少数民族差別防止と保護に関する小委員会の下部組織)だ。アイヌの歴史を書き換え〝先住民族〟に仕立てあげる工作が国連を舞台に展開された。
 主なキーパーソンは市民外交センター代表・恵泉女学園大学教授、上村英明氏。『衆議院議員菅直人秘書』の肩書を入れた名刺を持って活躍していたという。
 2015年、スイスで開かれた国連人権理事会で翁長雄志沖縄県知事(故人)が米軍普天間基地の移設計画について、沖縄に米軍基地が集中する実態を紹介し、『沖縄の人々は、自己決定権や人権をないがしろにされている』などといった事実無根のスピーチを行い、その演説枠を提供したのが、上村氏が代表を務める市民外交センターだったことも明らかになっている。
 さらに、上村氏にアイヌ先住民族認定を日本政府より先に国連で認めさせるべきだと入れ知恵したのが、九州女子大学教授の手島武雄氏と、国連人権センターの久保田洋氏である。
 ……
 さっぽろ雪まつり以外にも様々なことで不正会計が摘発され、北海道アイヌ協会副理事長を退任した阿部ユポ氏は『市民外交センターがなかったら、国連なんか行かなかったんだから、おこらく今頃、同化されてアイヌ民族なんてなくなっています』などと市民外交センターの存在意義を強調している。
 ……
 主体思想の指南通り
 現時点で北海道アイヌ自治区構想は現実離れした話に聞こえるかもしれない。ところが、彼らは30年かけて自治区にするための布石としてアイヌ新法制定を実現させてきたのだ。
 主体思想研究会の創設メンバーの一人であり、主体思想国際研究所の事務局長を務めた尾上健一氏が1987年に書いた指南書を読むと、日本政府が主体思想の指南通りにアイヌ政策を実行してきたことが理解できる。
 《多くのアイヌ民族が住んでいる北海道を特別自治区にするということも重要でしょう。(略)いわゆる北海道の歴史というのは100年しかなく、それ以前の歴史はアイヌの歴史です。しかし、北海道を特別自治区にするという課題はいますぐに成熟した政治課題にはなっていません。このような政治的課題に先行するのが『アイヌ民族に関する法律』を制定していく課題です》(尾上健一著『自主の道』)
 30年前にプランニングされた自治区構想にそって、2019年、アイヌ新法が制定されたことを多くの日本人は知る必要がある。
 そして現在に至っても、アイヌは北海道における自治権自治区を要求し続け、国連からもアイヌの要求を受け容れるよう日本政府に勧告が出されている。いわゆる徴用工問題でも産業遺産情報センターに『フルヒストリーを展示しろ』などと韓国側のロビー活動が功を奏した同様の手法が見られる。
 だが、そんなユネスコの不当な韓国に対して、産業遺産情報センターには『一次史料』に基づいて展示するという信念を貫き、そうした圧力に断固屈しない加藤康子氏がおられるので安心だが、北海道の鈴木直道知事は手放しでアイヌ新法を推進しており、さまざまな面で不安が募る。
 しかも国会議員までアイヌ政策に積極的に参加しているのだから始末に負えない。
 1月29日、札幌市で『日露地域・姉妹都市交流年開会式』が開催され、林芳正外務大臣はビデオメッセージを出し、鈴木貴子外務副大臣が直接出席している。
 ……鈴木外務副大臣は挨拶の中でしっかりと『先住民族アイヌ』という言葉を入れている。実は鈴木氏はアイヌの歴史書を書き換えについても相当深く関与している。
 今となってアイヌ先住民族の決議を採択したことが、将来の日本にどんな禍根を残すことになったか、いみじくもロシアのウクライナ侵攻が証明してくれたのは、なんとも皮肉な話だ。
 日本政府は、これまでアイヌ政策に巨額の血税を注いできた。……
 ……
 しかも、当時と違って近年は、むしろ日本政府が後ろ盾となり、ふんだんな予算をを背景にアイヌキャンペーンを全国規模で展開されている。
 第一次安倍内閣退陣表明の翌日、2007年9月13日、国連総会の場で日本政府は先住民族権利宣言に賛成票を投じてしまったことから、今後もアイヌを利用する反日分子は政局の混乱の隙をついて、アイヌに特別な権利を付与した法案を通そうとするであろう。
 現に北方領土はロシアに不正占拠されている状態にあるが、もしや日本政府が北海道内でアイヌ自治区自治権を与えようものなら、たちまちロシアがそのエリアを不法占拠し北海道侵略の拠点とする可能性もなくはない。これは日本分断のプレリュードとなりかねない。我々日本人にとってウクライナ紛争は決して対岸の火事ではないのだ。」
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 江戸時代後期の徳川幕府と明治の新政府は、ロシアの日本侵略で中間に存在する数万人のアイヌ人が、日本に味方して共にロシア軍と戦ってくれるのか、あるいは敵となってロシア軍に味方して日本を攻撃してくるのか、それが最大の懸案であった。
 その結果、起きたのが日露戦争で、当時のアイヌ人は日本に味方してロシアと戦った。
 当時の、中国とロシアの侵略を眼の前にした時、アイヌ人も琉球人も日本に味方し戦友・親友・友人として戦った。
 日本の大陸戦争は、ロシア・中国・朝鮮の侵略から天皇と日本国と日本民族を武力で守るという積極的自衛戦争であった。
 ある意味、アイヌ琉球は日本の自国を一国だけで守ろうとした積極的自衛戦争における犠牲者であった。
 現代は、こうした日本の積極的自衛戦争戦争犯罪と認定している。
 もし、アイヌ琉球が日本に敵対し、朝鮮同様に日本を侵略するロシアや中国に味方して攻めてきたら、軍事弱小国日本はロシアと中国に占領され、日本人は虐殺され、地球上から日本国は消滅し日本民族は死滅した。
 現代の日本人、特に高学歴な知的エリートや進歩的インテリには民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がないだけにそうした歴史的現実が見えないし理解できない。
 はっきり言って、現代の日本人は歴史オンチ、歴史無能である。
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 日本国内には、「獅子身中の虫」として、日本嫌いで反日敵日の外国勢力に協力している反天皇反民族反日本的日本人や過激派不満分子日本人が少なからず存在している。
 そうした反天皇反民族反日本的日本人は、敵日の中国共産党政府、ロシア、北朝鮮反日侮日の韓国と極秘で繋がり、日本の足を引っ張り、日本の国益や日本人の名誉を毀損するように国内外で活動している。
 国連や国際機関の内部には、彼らを支援する反天皇反日本の職員が存在する。
 護憲派、反米派・反安保派、反自衛隊派、反戦平和団体も、同じ獅子身中の虫である。
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 ロシアのウクライナ戦争は、国内の分離独立派が侵略者・侵略軍を手引きして戦争を引き起こし罪なき国民を虐殺する危険性がある事を証明した。
 ロシア軍は、ウクライナ国内の「ロシア系ウクライナ人や親ロシア派ウクライナ人がネオ・ナチ勢力の攻撃を受け虐殺されている」と発表し、「彼らを軍事力を行使して現地保護する」としてウクライナを侵略した。
 親露派分離独立勢力は、ロシア軍を歓迎して、ロシア軍から提供された武器を持ってウクライナ政府やウクライナ軍を攻撃し、ロシア軍のウクライナ人一般市民虐殺に協力した。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 人類の誕生と大移動は運命である。
 日本人の祖先はアフリカのサルであるは宿命である。
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 600万年前~700万年前 人類(ヒト属)の祖先はチンパンジーボノボの祖先である類人猿から別れて進化していき、幾つかの人類種が枝分かれするが一つの系統を残して全て絶滅した。
 10万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカで誕生し、世界中に移住していった。
 数万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は日本列島にたどり着き、上陸した、漂着した、流れ着いた。
 数千年前 揚子江流域民である弥生系渡来人が山東半島から朝鮮半島を経由し、続いて中国旧満州地方に住んでいた古墳系帰化人が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してきた。
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 日本土人である縄文人ヤポネシア人=石器人の子孫)は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部太平洋沿岸まで、西は朝鮮半島南部、日本海縄文人の海)を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
 縄文人は、手漕ぎ丸木舟で北米大陸の太平洋沿岸まで移動していた。
 中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と偏見を持って軽蔑し差別していた。
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 日本文明は、揚子江流域(江南地域)にあった漁労農耕の温和で平和志向の長江文明の後継文明であって、黄河流域で軍事優先で栄えたの領土拡大・侵略志向の好戦的黄河文明の亜流文明ではなかった。
 朝鮮文化は、黄河文明の亜流であった。
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 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
 数万年続いた日本列島の石器時代縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
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 日本民族琉球民族アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
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 日本民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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 アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)にシベリア・沿海州樺太北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島などオホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化人が南下してきて、混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
 アイヌ人は住んでいる島・地域によって幾つかに枝分かれして、それぞれ他の人種・民族と乱婚を繰り返し混血度を濃くして独自の微妙に違う生活スタイルで生きてきた。
 蝦夷地・北方領土アイヌ樺太アイヌ、千島列島アイヌカムチャツカ半島アイヌ、その他。
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 琉球民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)に揚子江流域・東南アジアから渡って来た人々と混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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🌋4〕─1─縄文人と弥生人が雑婚を繰り返して混血児・倭人が生まれた。ヤマト大王が日本天皇となる。白馬節会と安寧信仰。~ No.11 * 

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 アナーキー無政府状態)な極東アジア世界での、孤独な日本のサバイバル(生き残り)
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 縄文人は、南方系海洋民の子孫である。
 弥生人は、南方・揚子江系海洋民と草原の民の混血児であった。
 縄文の竪穴式住居に弥生の高床式住宅が入り込み、2系統は併存し、お互いの利点を融合させて日本家屋へと発展していった。
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 ゲーテ「死して甦れ! これ、ついに会得せざれば、汝は悲しく解し難き地上の 悄然たる孤客なるを知れ  」
   ・   ・   ・   
 北畠親房「世の中のおとろふと申は、日月の光のかわるにもあらず、草木の色のあらたまるにもあらじ。人の心のあしくなり行を末世とはいへるにや」
   ・   ・   ・  
 気の弱い日本は、覚悟して死を直視し、耐え忍ぶ事を知る、成熟した温和しい堅実な数人の老人をムラ長とした。  
   ・   ・   ・   
 山本七平「日本人はユーラシア大陸から少し離れた箱庭の様な別荘で何の苦労もなく育ったぼんぼん」
   ・   ・   ・   
 司馬遼太郎は、文明とは技術と知識が交易で人為的に蓄積されたもので、ヒト、モノ、カネの行き来が活発化される事で変貌していく、と語った。
 文化は、地域的な自然風土という限定された範囲で生活する人の思考・趣向で習慣化された営みの中から生まれた。
   ・   ・   ・   
 多民族・多文化・多宗教・多風習・多言語・多文字による相互補完共生の複雑系ムラ共同体。
 祭祀を司る大王・天皇を中心とした一つの国、ヤマト。
   ・   ・   ・   
 山田孝雄「我が国は神が生みたもうた国であるという事は、作られた国でないという事を示している」(『国體の本義』)
 日本は、大和盆地に住む小豪族のムラ社会共同体から自然発生的に誕生した軟弱な国であり、大陸の様に軍事力で異人種・異民族を征服して人工的に建国した強硬な国家ではない。
 ムラ長数人による合議制で、ムラ社会国家日本は運営されていた。
 これが、日本型古代民主主義であった。
 天皇制度は、ムラ長らによる話し合いの談合の中から生まれた。
 天皇制度と日本民族とは、不可分の関係にある。
 それ故に、民族共同体を保つ為に国生み神話を必要とした。
 それが、天孫族大王家を中心とした日本民族心神話である。
 天皇の祭祀は、限定的で、日本民族のみにしか通じない非合理的な神懸かりの呪いである。
 神話を一つに統一して編纂したのは、流血を伴う悲惨な内紛や内戦を防ごうとした島国人の叡智である。
 統一神話を持たない中国や朝鮮は、他者を完全排除する完全なる個の自由で個の利益を追求する、個の為に際限もなく殺し合う生き地獄となっていた。
 中華文明とは、殺し合いの恐怖文明であり、殺戮の戦争文化であり、謀略と陰謀と策謀が美徳とされた。
 日本には、異人種・異民族を外国人として峻別し差別し迫害するという強い意志はなく、敵意を持たない相手に対して仲間として無条件で受け入れていた。
 古代の日本は、周辺地域から異民族の難民を無条件で受け入れていた移民大国であった。
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 日本とは、古代から現代にかけても、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)が支配する国である。
 日本民族日本人とは、自分の祖先を神として祀る、人類史上珍しい民族である。
 日本民族日本人は、祖先の神の象徴として祀り上げたのが、日本人天皇の祖先の神である。
 日本は、天皇の祖先神が霊的に支配する国である。
 祭祀王・天皇は、その霊魂・大御心・御稜威で日本を支配している。
 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)と日本国家と日本民族日本人は、切っても切れない、決して切り離せない不離の関係にある。
 天皇の霊的支配を否定し廃止する時、祖先を神として祀る民族的土着信仰は消滅し、日本国家は崩壊し、日本民族は死滅する。
 先祖が守り伝えた、魂、霊、心、志、絆、日本的精神すべてが消滅する。
 祖先が生みだした、品位、品格、品性、日本的人格すべてが消滅する。
 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)が、日本生まれではなく、朝鮮出身あるいは中国生まれとされた時、日本独自の祖先神信仰は消滅する。そして、日本民族日本人も死滅する。
 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)は、日本生まれの、日本人である。けっして、朝鮮・韓国人ではないし、中国人でもない。
 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)の血筋を日本民族日本人で独占し、朝鮮・韓国人や中国人に乗っ取られない為に、天皇の祖先が非日本人であるという渡来人説を完全否定するべきである。
 渡来人説を支持する日本人は、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)の血筋に非日本人の血を混入させようとしている日本人である。
 日本民族日本人は、朝鮮・韓国人を祖先の神とは認めないし、中国人を祖先の神として祀りはしない。
 日本民族日本人は、祖先の神のまぎれもなき子孫である。
 祖先の神とは、日本人であり、朝鮮・韓国人でもなく、中国人でもない。
 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)だけが神の子孫ではなく、日本民族日本人全員が祖先の神の子孫である。
 日本民族日本人と神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)は、民族中心宗教を通じて一体である。
 よって、日本民族日本人は神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)の支配を当然の如く受け入れてきた。
 先進国の中で、地球上で、祖先を純粋な形で神として祀る国は日本だけである。
 祖先を神として祀る宗教を国教とする国家は、日本以外には存在しない。
 つまり、祖先神信仰という日本的価値観を理解し共有してくれる国は、地球上には存在しない。
 日本は、古代においても現代においても、アジアはおろか世界においても、理解される事のない孤独な国家である。
 日本文明は、世界文明からすれば常軌を逸した異常な独り善がりの孤立文明である。
 日本文明の類似文明は、 地球上には存在しない。
 当然。隣の、大陸文明である中華文明と似ているところはまったくない。
 日本は、世界の常識が通用しない国である。
 日本の常識は、世界では非常識である。
 日本民族日本人は、心の内や文明の信条を誠心誠意で話した所で理解される事はない。
 国際世論は、理解に苦しむ神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)の存在を毛嫌いして批判する。
 普遍宗教は、神の子孫を僭称する神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を悪魔教徒の王と告発し、絶対神の御名によって祖先を神として祀る民族中心宗教を悪魔教として滅ぼすべきであると弾劾した。
 絶対神による唯一の価値観を神聖不可侵とする一神教宗教は、祖先を神として祀る多種多様な相対的価値観を良しとする多神教宗教を、けっして認めない。
 反宗教無神論の日本人は、この事実を知った上で、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を人民の生き血をすする極悪人であると否定し、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)制度を人民を搾取する害悪として廃止すべきであると訴えている。
 反宗教無神論の日本人は、科学万能主義から、情緒を重んずる日本的なモノ全てに一切価値を認めず、不完全であやふやでいい加減な心や絆を完全否定している。
 反宗教無神論者は、氏神神社を否定し、家の神棚を捨てた。
 そして、個人の「信教の自由」から、身近の宗教行事を完全排除する為に宗教裁判を起こしている。
 反天皇派日本人は、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)の祖先霊を否定し、祖先の神を信仰する民族中心宗教を完全否定する。
 祖先を神として祀る情緒的な昔の日本人と、祖先を神と認めない科学的な現代日本人は、全く異質な日本人である。
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 司馬遼太郎古神道というのは、真水のようにすっきりとして平明である」
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 出雲系弥生人は東日本へ移住するにつれ、南方系海洋民・縄文人の生活圏を浸食し始めた。
 異文化の弥生人縄文人は、生活の場をめぐって対立し戦ったが、徐々に平和的に雑居し雑婚して混血化し同化した。
 日本風土は、異化のまま区別して棲み分けするのではなく、異質の者を融合し中和し同化して消し去る。
 縄文人は、弥生人を受け入れた。
 縄文人弥生人とは別人種ではなく、同じ倭人に変わりはない。
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 南方系海洋民の血が流れる縄文人は、寛容な民族として、半島経由の南方系海洋民と大陸系草原民の混血児・弥生人や北方系山林民などを排除する事なく受け入れていた。
 彼らが雑居し雑婚して生まれたのが、混血児・倭人である。
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 日本の山岳信仰は、母胎信仰である。
 山を母胎と見立てて。気力が萎え生気が弱まり今に死にそうな生気を取り戻す為に、緑と水と空気の霊気が満ちている山に入り、自然豊かな山を巡る事で新たな生命力を得て再び生き返る。
 自然崇拝という古代神道とは、非日常として、ありのままの素の自分と自然とのつながりである。
 突き詰めれば、日本人は自然がなければ生きていけないという「生きて死ぬ、死んで生きる」という「蘇りの思想」である。
 そこにあるのは観念的な理屈や合理的な理論ではなく、目の前に存在する自然だけである。
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 馬は、大陸の生き物である。
 旧石器時代後半頃あるいは縄文時代から弥生時代初期に、原種エクウスを含む背の低い馬(蒙古馬)が、朝鮮半島を経て日本列島に運び込まれた。
 日本に於いて馬は、軍馬としてではなく、農耕用・荷駄用・宗教儀式用に利用されていた。
 宗教儀式用として、馬は故人の精霊を死後の世界に運ぶ聖な動物として崇められたがゆえに、馬が血で穢される事を忌み嫌って戦場では使わなかった。
 また、「白馬」とは、王者・権力者・指導者が乗馬する権威付けの道具ではなく、宗教的に混じりけのない白さは邪気を払い皇室と国を守る「正気」を吐く神聖な生き物として大事にし、神社に奉納して大事に飼育した。
 ゆえに、日本民族は農耕漁労民族であって騎馬遊牧民族ではない。
 第59代宇多天皇は、宮中行事として「白馬節会(あおうまのせちえ)」を催し、青みを帯びた黒毛馬を使用した。
 青黒色の馬も神聖な生き物として珍重した。
 第60代醍醐天皇の御代から、白馬が宮中行事に使われた。
 日本の馬事文化における白馬は、邪気を払い清涼をもたらすという安寧信仰と関係が深いと言われている。
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*東アジアの戦乱の元凶。
 中国の歴史とは、北人の黄河文明と南人の長江文明と周辺の遊牧諸民族である夷狄文化との三つ巴による中華統一戦争であった。
 真の中国人とされる漢人の帝国は、漢、宋、明の三王朝のみである。あとは、異民族が侵略し大虐殺の後に樹立した征服王朝であった。
 国内外の戦争は絶えず行われ、殺し合いのない年はなく、王朝の交代の大乱では中国の全人口が半減もしくは3分の1まで激減した。
 自然災害も絶える事がなく、救済活動が積極的にされない為にどの災害でも数百万人が犠牲となり、生計を失い飢餓に苦しむ数百万人の被災民は流民化し、中には生きる為に匪賊となった。
 戦災や災害から被災民を助けたのが、宗教集団や武芸及び政治的な各種秘密結社であった。
 支配者は、救済活動が反乱につながるとして、人道的活動を行う宗教及び政治的秘密結社に感謝し称賛を与えず、容赦なく弾圧し虐殺した。
 食うに困った貧困階級の民衆は、傲慢にして、贅沢三昧の生活をしている支配者に不満を爆発させて反乱を起こした。
 中国は、言葉遊びとしての観念的道徳はあっても、実生活での理想的人道はなく、病的にして偏狂的人間不信から戦争が絶えなかった。
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 中華思想(正統派儒教)の中国は、4000年の昔から中国を上位とする上下関係(華夷秩序)を大原則とし、高度文明の中国が世界の中心であると確信していた。
 秩序をもたらす「仁」と「礼」と「道徳」を重んずる中国人は、同時に自分こそ世界一優秀であるという自尊心から格式・面子を第一にこだわっていた。
 中国社会には、人を殺して物を盗んでもいいという「個の制限されない完全な自由」(盗人にも三分の理)はあっても、自分を制限する様な平等・公平を基調とする人道思想は古代から伝統的に存在しない。
 超現実の合理主義を信奉する中国人にとって、優秀な自分一人に利益をもたらさない人間は礼儀を知らぬ者として人と認めず、「利用」できない日本人やアメリカ人、イギリス人、ユダヤ人ら外国人の人権を認めない所か生きる資格もないと断じていた。
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 平和で満ち足りた社会では、偉大な政治家や哲学者や思想家は生まれないし、聖人的宗教家も必要としない。当然、軍略家も存在しない。
 だが、中国は、孔子老子を輩出し、孫子韓非子を必要とした。
 なぜか、釈迦やキリストやマホメットなどの、世界的な聖人的宗教家は中国から生まれなかった。
 中国の宗教は、個人的な神話に基づいた土俗信仰のみで、体系化された自己犠牲的な普遍宗教は存在しない。
 ある意味、正統派儒教価値観の極東アジアは、神の「愛」や仏の「慈悲」を必要としない、個人欲を最大限に追求する「人」中心の無宗教無神論世界といってもいい。
 ゆえに、中国には凶悪犯罪や戦争が絶えない。
 強姦と略奪そして殺戮が、中国文明の源流である。
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 日本が、他民族に優越するという日本中心の民族神話を否定し、民族固有の歴史的価値観を捨てた時、一時的には欧米流の普遍的価値観を受け入れてアメリカ化するが、地理的条件から中華文明の一員として中国化する。
 日本の中国化は、中国に憧れる日本人が存在する限り、日本の歴史的宿命である。
 日本人が、異文化のキリスト教価値観でアメリカ化する事はまず有りえない。
 アメリカ化を信じて公言するリベラル派日本人は、本質が見えない開きめくらであり、歴史が理解できない者である。彼等が読む史書とは、架空に近い時代劇であって、真実の歴史書ではない。そもそも、彼等は歴史そのものが嫌いな日本人である。
 現代日本では、大陸的な「『個』の、誰にも束縛されない『完全な自由』」という歯止めなき無分別な凶悪事件が多発している。それこそ、中国化の兆候である。
 なぜなら、宗教的万世一系男系天皇制度(直系長子相続)とは、絶対権力と神聖不可侵の権威を持つ排他的一君独裁体制というアジア(正統派儒教)型普遍的価値観を否定する、集団に協調・補完共生をもたらす相対的社会機構であったからである。
 つまり、絶対的上下関係を強要する異種の中国文明から、民族が共有する言語、文化、宗教、価値観、家族制度、社会制度、生活習慣などと言った日本文明を守る為の、民族的叡智であった。
 歴史的事実として、2000年にわたって生きてきた孤独な日本文明は、正反対の異種である華夷秩序中国文明(中国、韓国・北朝鮮)を否定し、対立して来た。それが、2700年以上続いてきた万世一系男系天皇制度(直系長子相続)の本義である。
 何時いかなる時代においても、日本と中国・朝鮮とは友好関係にあった試しはない。
 弱小国・列島は、軍事大国・大陸とその属国・半島の連合軍と2000年の長きにわたって戦争を繰り返していた。
 資源のない日本の戦いは、攻撃的であれ、防戦的であれ、全てが自衛戦争であった。
 故に、日本民族日本人(日本国籍取得者)は、日本文明の「国體」である宗教的万世一系男系天皇制度(直系長子相続)を、自己犠牲的に命を賭けて守ろうとしたのである。
 日本国家は、何時の時代でも孤立無援であったが、決して絶望もしなかったし、おろおろとして醜態もさらさなかった。孤独であるがゆえに、むしろ毅然として行動していた。
 現代の日本人とは、その覚悟と行動力は雲泥の差がある。
 日本が平和であった時代とは、東アジアの中国や朝鮮と国交を遮断していた時である。両国は、日本にとってけっして油断できない、憎悪すべき仇敵であった。
 日本は、味方してくれる国や民族がいなかった為に、民族を中心とした独自の独善的な神話・物語が不可欠であった。
 この孤独感が、日本人を排他的民族にしている。

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🗾30〕─1─3000年前の海洋民・縄文人はサメに襲われていた。~No.134No.135No.136 * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 6月29日16:55 MicrosoftNews KYODONEWS 共同通信「岡山に世界最古のサメ犠牲者 縄文の人骨、英大発表
 © KYODONEWS 捕獲されたホオジロザメ=2000年7月、和歌山県太地町
 【ロンドン共同】英オックスフォード大は29日までに、岡山県笠岡市の津雲貝塚で見つかった3千年以上前の縄文時代の人骨が、確認された世界最古のサメの犠牲者とみられると発表した。サメが人を襲ったことを示す直接的な証拠があるとする研究チームの論文が考古学術誌「ジャーナル・オブ・アーキオロジカル・サイエンス」に掲載された。
 チームは、瀬戸内海で魚を捕っていてサメに襲われた可能性があると推測している。
 人骨は1920年ごろに発掘された成人男性のもので、京大が保管。腕や脚、胸、腹などにのこぎりの歯のような深い傷など少なくとも790の外傷があり、右脚や左手がなかった。」
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 6月30日12:47 MicrosoftNews 読売新聞「世界最古のサメ被害は縄文人?全身に790か所の傷跡
 © 読売新聞 サメにかまれた傷が残る人骨について説明する中務教授(京都市で)
 京都大は30日、約3000年前の縄文人の骨からサメにかまれた無数の傷が見つかったと発表した。これまで最古だった中米プエルトリコの人骨を約2000年遡り、サメの襲撃被害としては世界最古だという。
 1919年に岡山県笠岡市の津雲貝塚で発掘され、京都大で保管していた成人男性とみられる人骨。考古学や人類学の専門家らの国際研究チームがサメの研究者の協力で調査したところ、全身に少なくとも790か所の傷が見つかった。傷の形状にサメ被害の特徴があり、同じ場所を繰り返しかんだ痕もあった。右足や左手は欠落しており、かみちぎられた可能性がある。
 傷は治癒した形跡がなく、襲撃直後に亡くなり、埋葬されたとみられる。京都大の中務真人教授(自然人類学)は「船で仲間と沖に出て漁をしている最中に襲われたのでは。想像できなかった人々の営みを解き明かす材料になる」と話した。
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 6月30日16:32 MicrosoftNews 毎日新聞「3000年前の人骨に…世界最古のサメ襲撃の傷痕 京大保管
 © 毎日新聞 提供 サメに人間が襲われた最古の物証となる傷がついた人骨を手にする京都大の中務真人教授=京都市左京区で2021年6月30日午前11時26分、千葉紀和撮影
 瀬戸内の貝塚から発掘され、京都大で100年以上保管されていた人骨の傷痕は、約3000年前に人がサメに襲われた世界最古の物証だった――。英オックスフォード大や京大などの研究チームが、米国の考古学誌に発表した縄文時代の骨を巡る報告。この骨の存在は以前から知られ、これまで数多くの研究者によって調べられてきた。長い時を超えて真相に迫ったのは、英国の大学院生だった。
 サメによる襲撃の痕跡が確認されたのは、清野謙次・京都帝国大教授らが集めた人骨の一部。清野氏の収集品を巡っては、戦前に沖縄の墓地などから集めた遺骨の返還を求める声が上がっている。今回は1919(大正8)年に縄文時代晩期の津雲貝塚岡山県笠岡市)から発掘した約80体のうちの一体だった。京大理学研究科の自然人類学研究室に保管されており、オックスフォード大の博士課程で学ぶアリサ・ホワイトさんが2017年に傷の違いに気づいた。
 その後、国内外の7研究機関が共同研究し、放射性炭素年代測定の結果、死亡時期は紀元前1370~同1010年と判明。これまではプエルトリコの遺跡から発掘された約1000年前の人骨の傷が世界最古のサメの襲撃痕と考えられており、約2000年さかのぼることになる。
 被害者は35~45歳の男性。全身に790カ所以上の傷痕が残り、傷の形状がこれまで報告されているサメによる傷と共通していた。左手首には切断面があり手先が失われているため、左手で防御した際にかみ切られた可能性もあるという。襲撃で即死したとみられるが、死体は回収されて埋葬されていた。
 研究チームの中務真人(まさと)・京大理学研究科教授(自然人類史)によると、津雲貝塚の人骨資料は有名で、これまで国内外の1000人を超える研究者が目にしてきた。中務教授も大学院生だった約30年前にこの骨を見て、傷にも気づいていたが、「傷が深いため、人がつけたものだと思い込んでいた。サメだと聞いて『まさか』とびっくりしたと同時に『しまった』と思った。先に気づけば良かった」と苦笑いする。
 ホワイトさんは人同士の争いを研究し、各地の骨を調べていて、人による損傷にしては傷が多すぎることに疑問を持った。サメによる傷だと気づいた時、ホワイトさんの反応は冷静だったという。中務教授は「人骨は文化遺物。100年も持ち続けていると、誰かが新しいことに気づくこともある」と語った。【千葉紀和】」
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 6月30日18:00 MicrosoftNews 朝日新聞社「サメのかみ痕、縄文人の骨に 世界最古の襲われた証拠に
 © 朝日新聞社 コミュニティー施設に展示されたホオジロザメのはくせい=2009年、川崎市
 岡山県で発掘された約3千年前の人骨に、サメにかまれた痕が多数あることを、英オックスフォード大学や京都大学などのチームが突き止めた。人がサメに襲われた物的証拠はこれまで約千年前の骨が最古とされていたが、今回の発見で大幅に記録を更新した。
 サメのかみ痕が残っていたのは、1919年に津雲(つくも)貝塚岡山県笠岡市)で発掘され、京大で保管されていた人骨約80体のひとつ。35~45歳の縄文人の男性とみられる。オックスフォード大で考古学を専攻する大学院生が調査の一環で京大を訪ねて発見した。男性の人骨には多数の傷があり、争いといった人為的な理由ではない傷だと考えた。
 男性の人骨には、少なくとも790カ所の傷痕があり、治癒の経過が見られないことから、傷が死因になったと考えられる。V字形の傷の溝や、平行で直線的な傷痕、歯による穴といった特徴的な形が複数確認でき、サメにかまれた傷だとわかった。ホオジロザメかイタチザメと考えられる。」
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