🗾6〕─3─DNA解析から縄文人度の高い地域を探れば、肥満や喘息になりやすい県民も分かる?~No.21No.22 

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 科学的DNA解析から、日本民族は漢族中国人と朝鮮半島人とは別種のアジア人である。
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 2023年2月28日 YAHOO!JAPANニュース ニューズウィーク日本版「DNA解析から縄文人度の高い地域を探れば、肥満や喘息になりやすい県民も分かる?
 <東京大学大学院理学系研究科の渡部裕介特任助教と大橋順教授の研究により、縄文人と渡来人の混血度合いには地域差があることが分かった。最も縄文人由来のゲノム成分の比率が高かった地域は? 渡来人と比べてどんな特徴がある?>
 渡来人由来のゲノム成分の比率が最も高かったのは、最初に上陸したと考えられる九州北部ではなく……(写真はイメージです) FrankRamspott-iStock
 「自分はどこから来たのか」について、興味を持つ人は少なくないでしょう。最近の一般向け遺伝子検査では、疾病リスクや体質だけでなく、祖先の特徴や民族学的なルーツを知ることができると謳っているものもあります。【茜 灯里(作家・科学ジャーナリスト)】
 【動画】2100年に人間の姿はこうなる
 2022年ノーベル生理学・医学賞は、約4万年前に絶滅したネアンデルタール人の骨片のDNAを解析して現生人類の起源に迫った、独マックスプランク進化人類学研究所のスバンテ・ペーボ教授が受賞しました。古人類学にDNA解析を用いる手法は、近年は日本人の成り立ちの解明にも用いられています。
 現代の日本人は、主に縄文人弥生時代の渡来人(弥生人)をルーツにしています。みなさんも「縄文人は彫りが深く、渡来人は平坦な顔立ちだった」などの特徴を耳にしたことがあるかもしれません。では、縄文人と渡来人の混血の程度は、どの地域でも同程度だったのでしょうか。
 東京大学大学院理学系研究科の渡部裕介特任助教と大橋順教授は、現代日本人の遺伝情報から縄文人に由来する遺伝的変異(縄文人由来変異)を検出する方法を開発し、縄文人と渡来人の混血の程度には地域差があることを示しました。さらに、縄文人と渡来人は、それぞれの生活様式に適応した表現型(見かけや特徴)を持っていたことを明らかにしました。研究の成果は、23年2月18日(米国東部標準時)に米科学誌「iScience」オンライン版に掲載されました。
 日本人のルーツと、DNA解析を用いた最新の「日本人学」を概観しましょう。
 <弥生時代の開始時期は諸説あり>
 日本列島にヒトが居住を始めたのは約3万8千年前と考えられています。約1万6千年前に縄文時代が始まると、土器を作り定住化した縄文人は日本全土に広がり、狩猟採集民でありながら非常に高い人口密度を達成しました。
 弥生時代は、渡来人によって稲作文化がもたらされ、金属器が使用されたことが特徴です。始まりは地域によって異なりますが、長らく紀元前5~4世紀頃とされてきました。けれど、国立歴史民俗博物館は03年、放射性炭素を使って弥生土器の付着物を年代測定し、紀元前10世紀とする説を提唱しました。現在は、紀元前10~8世紀と考える研究者が多いものの、開始時期については依然として意見は分かれています。
 「日本列島人は、狩猟採集民族だった縄文人の系統と、日本列島に稲作文化をもたらして定住した渡来人の系統の混血によって成立した。列島の両端に居住するアイヌと沖縄の人たちは、渡来人との混血が少なかったために縄文人の遺伝的要素を強く残した」とする「二重構造モデル」は、東大名誉教授の自然人類学者、埴原和郎博士が形態研究に基づいて91年に発表した仮説です。
 <遺伝学的に見ても妥当>
 90年代後半になると、人類学にDNA解析を用いる手法は急速に進展しました。
 『核DNA解析でたどる日本人の源流』(河出書房新社)の著書がある国立遺伝学研究所の斎藤成也教授(当時)らの研究チームは16年、東大総合研究博物館所蔵の福島県・三貫地貝塚縄文人骨の核DNAを初めて解析し、成果を発表しました。
 それまでは、縄文人骨ではミトコンドリアDNAは解析されていたものの、核DNAは技術的に難しく実施されていませんでした。ミトコンドリアDNAは母系遺伝であり、塩基数も核DNAの約20万分の1と小さいため、得られる遺伝情報は限られてしまいます。斎藤教授らのチームは縄文人の奥歯の中から核DNAを抽出し、「次世代シークエンサー」を用いて縄文人ゲノムの4%にあたる1億塩基の解読に成功しました。
 <縄文人弥生人の混血度合いを都道府県別に解析>
 その後、他の縄文人骨や弥生時代の遺跡から得られた人骨の解析が進み、二重構造モデルは遺伝学的に見ても妥当であることが示されました。次に、研究者たちが注目したのは、日本列島内での縄文人と渡来人の混血の度合いの地域差でした。
 これまでのDNA解析によって、現代の日本人の地域集団には、現代のアジア大陸の人々の集団に比較的近い集団と、それほど近くない集団があることが知られています。日本人の渡来人系の祖先集団は現代のアジア大陸の集団と近縁であることから、「現在の遺伝的な地域差は、弥生時代に起こった縄文人と渡来人との混血の度合いの地域差に起因するのではないか」と予想されていました。
 大橋教授らは21年、ヤフーが20年まで実施していた遺伝子検査サービス「HealthData Lab」に集まったデータのうち許諾の得られたものを用いて、都道府県別の縄文人弥生人の混血度合いを解析した結果を発表しました。
 1都道府県あたり50人のデータを解析すると、縄文人由来のゲノム成分の比率が最も高かったのは沖縄県で、九州や東北が続きました。対して、渡来人由来の比率が最も高かったのは滋賀県で、近畿、北陸、四国で高い結果が見られました。なお、北海道は縄文人由来の比率が高いとされているアイヌの人々が含まれていなかったため、関東と似た結果になりました。
 弥生時代に最初に渡来人が上陸したと考えられている九州北部地域よりも、近畿のほうが渡来人由来の比率が高いことは、不思議に思えます。大橋教授は「九州北部では上陸後も渡来人の人口があまり増えず、近畿などの地域で人口が拡大したのではないか」と説明しています。
 縄文人の祖先は、アジア大陸の集団から数万年前に分化し日本列島に渡ると、島国であるために長期間、大陸の集団から孤立しました。そのため、現代日本人には他の現代の東アジア人に見られない、縄文人由来の特有の遺伝的変異「縄文人由来変異」が蓄積されています。
 <中性脂肪が増えやすいのはどっち?>
 今回、大橋教授らは、現代日本人の縄文人と渡来人との混血度合いの地域差を示すために、縄文人由来の遺伝子変異の保有率に注目しました。
 まず、本土日本(日本列島人のうち本州・四国・九州)の居住者約1万人のデータを用いて、各都道府県の集団がゲノム中に縄文人由来変異を何個保有しているかをカウントすると、縄文人由来変異保有率は青森県秋田県岩手県宮城県福島県茨城県群馬県・鹿児島県・島根県などで特に高いことが分かりました。対して、近畿や四国の各県では特に低いことも示されました。また、縄文時代晩期から弥生時代にかけての人口増加率が高かった地域の集団ほど、現代では縄文人度が低いことも分かりました。
 <解析結果に見る、縄文人の3つの特徴>
 現代日本人のゲノムの中には、縄文人由来変異の集積した「縄文人に由来するゲノム領域」と、縄文人由来変異の見られない「渡来人に由来するゲノム領域」があります。研究チームは、ゲノムを2つの領域に分類し、縄文人と渡来人の表現型を推定する解析を行いました。
 解析の結果、縄文人には渡来人と比べて、①遺伝的に身長が低い、②血糖値が高くなりやすく中性脂肪が増えやすい、③白血球の一種である好酸球CRP(炎症反応で血中に増加するタンパク質)は増えにくい、という特徴が見られました。
 縄文人は、稲作文化を持つ渡来人と比べて炭水化物食への依存度が低いため、血糖値や中性脂肪を高く維持して狩猟採集へ適応していた可能性が示唆されます。一方、農耕社会を作った渡来人は、集団サイズが増し集落間の交流も多かったため、好酸球CRPを高めることで感染症への抵抗性を獲得した可能性があります。
 現在は、血糖値や中性脂肪が増えやすいと肥満の要因となり、好酸球が増えやすいと喘息の要因となることが知られています。研究チームは、本土日本では縄文人度合いの高い都道府県ほど5歳児における肥満率が高く、縄文人度合いの低い都道府県ほど喘息増悪率が高いことも突き止めました。
 研究チームはこれらの結果から、「縄文時代末期から弥生時代にかけての人口規模の地域差によって、本土日本の地域間で縄文人と渡来人の混血度合いに地域差が生まれ、現代日本人の遺伝子型や表現型の地域差となった」という「本土日本人の集団形成モデル」を提唱しました。今後、日本人の起源を探る研究において、人類学や考古学など様々な分野に影響を与える可能性があります。
 日本に現存する最古の書物は『古事記』(712年)です。縄文時代弥生時代の日本人の詳細は、文字で知ることはできません。けれど、現代日本人の体内の遺伝情報は、縄文人と渡来人の混血の歴史の証言者として、日本人の成り立ちを雄弁に語っています。
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☷26〕─1─韓国は変化を厭わない先取り精神の勤勉・勤労で世界的なデジタル先進国に成長した。~No.71No.72 

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 惰眠の日本は、デジタル後進国へと衰退、後退した。
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 2023年2月24日 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「
 韓国ソウルで感じた日本のデジタル後進国ぶり、入国システム・3Dディスプレイ…
 大谷和利 筆者は先日、所用と観光を兼ねて約4年ぶりに韓国のソウルを訪れた。欧米に拠点のある企業の取材もリモートでの対応が多くなった昨今、今回の渡韓は、新型コロナウィルス禍に見舞われて以降、初めての海外渡航でもあった。サムスン電子LGエレクトロニクスのお膝元でもある韓国は、日本よりも社会のIT化が進んでいることが知られている。数日のソウル滞在の間に見聞きしたデジタル事情と比べると、残念ながら日本はかなり遅れていると言わざるを得ない。(テクノロジーライター 大谷和利)
 Photo by Kazutoshi Otani
 © ダイヤモンド・オンライン
 サムスンは折りたたみスマホマーケティングに注力
 縦開き・横開きの2種類
 韓流の刑事ドラマでは、食事をインスタントラーメンで済ませるような新米刑事まで高価な折りたたみスマートフォンのGalaxy Flipを使っていたりして、あからさまなプロダクトプレイスメント(番組内に製品を登場させる間接広告:以下、PPL)に苦笑することがある。
 実は、韓国のTVドラマは放送法の規定で途中にCMを入れることが禁じられており、制作側の収益面ではPPLの比重が高い。CMが挟まれない分、ストーリーに集中できそうだが、劇中の役には不釣り合いな製品を使用していたり、登場人物が急に化粧品や炊飯器を褒め始めたりするので、思わずツッコミを入れたくなる。
 中には、そういうシーンの小道具にPPLの文字が配されている(たとえば、カフェで座っている3人の客が、それぞれ「P」「P」「L」のレター入りトレーナーを着ているなど)、正直というかある意味開き直った演出を行うドラマまであった。
 そんなPPLで見かけることの多いGalaxy Flipだが、メーカーのサムスン電子は、ロシアのウクライナ侵攻などによる消費の冷え込みの影響で2022年に大幅減産を強いられた結果、シェアを拡大するよりも利益率の高いモデルに注力する方針を進めている。そのため、販売面ではたためないGalaxy Sシリーズに及ばなくても、縦開きのGalaxy Flipと横開きのGalaxy Foldのマーケティングに力を入れていくようだ。ただし、中国のOPPOも、Android製品の中で差別化を図るために自らが先行した縦開きのFlipタイプのスマートフォンに力を入れていくと公言しており、もしも価格競争になると苦しい戦いを強いられる可能性もある。
 さすがはサムスン電子のお膝元で、たまたま地下鉄に乗ったときに、並びの親子連れの女性と向かい側の青年が、ともにGalaxy Flipを使っているような場面にも遭遇した。それでも、ソウルの某有名大学の副学長さんに話を聞くと、「韓国ではもちろんAndroidユーザーが多いが、学生たちの間ではiPhoneが人気」だという。この方自身も、そして同席された中堅の男性の先生もiPhoneユーザーで、Apple Watchの愛用者でもあり、3月から韓国でサービス開始予定のApple Payを使うことを楽しみにしていた。
 シェアよりも利益重視に転ずるサムスン電子の縦開きスマートフォン「Galaxy Flip 4」 Photo:Samsung
 © ダイヤモンド・オンライン
 韓国では、2019年の時点ですでに国民全体の92%にスマートフォンが普及しており(https://www.nia.or.kr/site/nia_kor/ex/bbs/View.do?cbIdx=99870&bcIdx=21930)、60代でも9割近くの普及率(https://www.nia.or.kr/site/nia_kor/ex/bbs/View.do?cbIdx=99870&bcIdx=22082)だった。これに対して、日本は2021年の調査でも88.6%(個人保有全体では74.3%、同じく60代では79.3%)となっている(https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/statistics/data/220527_1.pdf)。
 AndroidiPhoneの割合(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000093.000034654.html)では、韓国がほぼ世界平均と同じ70%強:30%割弱で、日本は逆に35%弱:65%強だが、上記のように韓国の若い世代のiPhoneへの関心が高まっているとすると、今後、iPhoneがよりシェアを伸ばしていく可能性もありそうだ(ちなみに、韓流ドラマのPPLではアップル製品もそれなりに目にする)。
 EV化が進む都市部のタクシー、
 ロボタクシーもテスト走行中
 ソウルのタクシーは、一般のタクシーと、無事故歴10年以上のドライバーが乗り、運転や応対が丁寧な黒塗りの模範タクシーに分かれている。初乗り(1.6キロ)料金が2月1日から値上げされ、一般タクシーで約480円、やや高めの模範タクシーは約700円だが、それでも、東京23区内タクシーの初乗り約1キロ470円~500円よりは(距離も考慮すると)安価といえる。
 ソウルでは流しのタクシーも次々にやってくるので困ることはないが、街中で観察していると、特に若い人はカフェなどでお茶している間にアプリで手配し、来たら乗るというようなスタイルが定着しているようだ。特に冬は、そのほうが寒い戸外で待つ必要がなく、支払いも同時に済むので、合理的ということなのだろう。
 その一般タクシーで今回目立ったのが、現代自動車(ヒョンデ)のEV、「IONIQ 5」(アイオニックファイブ※)だった。日本でもインポート・カー・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、京都のMKタクシーも計50台の導入が進行中。筆者自身も発表時から注目していた車である。
 EVに新たなデザイン言語と価値観を持ち込み、タクシー車両としても活躍するヒョンデ自動車のIONIQ 5をベースに開発されたロボタクシー Photo:Hyundai Motor Company
 © ダイヤモンド・オンライン
 IONIQ 5のエクステリアは、パラメトリックピクセルと呼ばれるデジタル由来のデザイン要素がLEDヘッドランプ、同リアコンビランプ、アルミホイールに採り入れられている。インテリアのデジタルメーターにも、他には見られないホワイト系のベゼル(筆者は、iPodや白いバリエーションが存在した時代のiPhoneiPadを想起した)を採用するなど、独自のEVイメージを確立しようとする意思に満ちている。
 その意思は、テスラにもないヘッドアップディスプレイ(スピードやナビ、死角エリアの車両センサー情報などをフロントウィンドウにAR投影する)や、クラス最長の3メートルのホイールベースと切り詰めた前後のオーバーハングがもたらす全体のプロポーション(そのためにコンパクトに見えるが、実際のサイズはトヨタRAV4よりも大きい)、全席に位置や背もたれ角度のメモリー機能が付き、センターコンソールを含めて大きく前後に移動できる電動シートアレンジ、停車中にフロントシートを座面ごと傾けて休めるリラックスポジションなど、インテリアの随所にも散りばめられている。
 ※2022年6月に、韓国でIONIQ 5が高速道路上の構造物に突っ込む単独事故により、衝突後3秒でリチウムイオンバッテリーが発火し、ドライバーと同乗者が死亡という痛ましい報道があったが、これは時速100キロでノーブレーキの衝突、かつシートベルト未装着で死因は衝撃によるものだったことが明らかとなっている。車両自体はヨーロッパの厳しいNCAPの衝突安全テストにおいて最高評価の5つ星を獲得しており、それでも構造物がリチウムイオンバッテリーを突き抜けたことが発火の原因だった。スマートフォンも同様だが、リチウムイオンバッテリーはそのような危険を内包しており、この点は、全個体電池などが実用化されない限り、避けきれない問題といえる。
 ソウルでテスト中のロボタクシーは
 早期にレベル4の自動運転を実用化を目指す
 さらにIONIQ 5は、ヒョンデとアプティブ(アイルランドに本社のある自動車テクノロジー企業)との合弁企業のモーショナルが開発している、自動運転レベル4(決まった走行ルートなどの特定条件下で可能な、人ではなくシステム主体で車を走らせる自動運転)を実現するロボタクシーのベース車両ともなっている。今回の訪韓中には見かけなかったが、このロボタクシーもソウル市内でテスト走行中だ。
 折りしも「人工知能(AI)産業の育成と信頼確保に関する法案」が、韓国国会科学技術情報放送通信委員会の情報通信放送法案審査小委員会を通過したとの報道があったが、そこにうたわれていたのは「まず認可・後に規制」という事後規制の原則だ。もちろん、実際の議会での可決までには踏むべき段階が残っているものの、おそらくほぼそのまま成立し、ロボタクシーもこのような原則の下での早期の実用化を目指すものと思われる。
 ちなみにヒョンデは、EVではないものの、ビジネス用のリムジンから大型タクシー、幼稚園などの送迎用まで幅広い用途に対応する新世代の世界戦略ワンボックスカー「STARIA」も擁している。予約開始の初日だけで1万台のオーダーを受けたという人気車種だけに、こちらも市内のあちこちで見かけた。IONIQ 5もそうだが、周囲を威嚇するようなフロントマスクを持つ日本のワンボックスとは一線を画すSTARIAの佇まいを見ていると、K-POPや韓国ドラマのように、韓国車が価格ではなくコンセプトや質の面で世界に受け入れられる日が近いことを予感した。
 ヒョンデ自動車の世界戦略ワンボックスカー「STARIA」。周囲を威嚇するようなフロントグリルもなく、クリーンでスムーズなデザインと、ルーミーで多様な使用目的をカバーするバリエーションを持つ Photo:Hyundai Motor Company
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 新しいデジタルサイネージへの
 積極的な取り組み
 2021年の暮れに新宿駅東口近くに設置されて話題を呼んだ、特定の角度から見ると猫やルンバが飛び出して見える3D街頭ビジョンも、韓国ではそれ以前から導入されていた。実際に機材の開発・製造を行っているのは中国企業だが、本国以外で設置した国は、韓国が最初だったようだ。
 というのも、韓国は新しい技術や製品に対する抵抗感が少なく、スマートフォン普及率の例からも分かるように、全年齢層がアーリーアダプター的な消費動向を持っているためだ。それゆえ韓国市場は、国外企業からも新たな技術や製品を試験的に投入して反応を確かめる場として捉えられているところがある。
 アパレルやアクセサリー系の問屋やテナントがひしめき合う東大門(トンデモン)のファッションビルの1つにも、新型コロナウィルス禍以前にはなかった新型の街頭ビジョンが設置されていたのだが、それはある意味で擬似的な3D街頭ビジョンを超える、リアルな3Dビジョンといえた。なぜなら、細かくブロック分けされたLEDパネルが、個々に物理的に前後しながら画像を表示する、本物の立体(構造)ディスプレイだったからだ。
 「ウェーブスクリーン」と呼ばれるそれがウネウネと動いている様子は、少し離れた位置からはプロジェクションマッピング的な目の錯覚かとも思えた。だが、近づいてみると、実際にパネルが動いていることに驚かされた。これも作っているのは中国企業だが、韓国での反応を見たうえで、他国にも売り込んでいくのだろう。
 中国メーカーの製品だが、いち早く韓国のファッションビルmaxtyleに設置された、物理的な立体感が特徴のウェーブスクリーン Photo by K.O.
中国メーカーの製品だが、いち早く韓国のファッションビルmaxtyleに設置された、物理的な立体感が特徴のウェーブスクリーン Photo by K.O.
 © ダイヤモンド・オンライン
 ただし、正直なところインパクトの点では、擬似的とはいえ立体感に勝り、表示するイメージのバリエーションも豊富な3D街頭ビジョンのほうに軍配が上がるといわざるを得ない。また、可動部が多いのでメンテナンスも大変そうだ。しかし見る側の角度依存が少ないことや、既存のコンテンツもそのまま表示でき、専用コンテンツの制作も3D街頭ビジョンより簡単に行えそうな点ではメリットもある。設置場所の自由度も高く、特に近距離から見たときに迫力を感じるので、それぞれの特徴を生かして使い分けられていきそうだ。
 空港システムの進化に見る
 日韓の違い
 最後に、韓国入出国と帰国時に感じた日韓の違いを書いておきたい。
 現在、渡韓時にはK-ETA電子渡航認証システム)とQ-CODE(検疫情報事前入力システム)の事前登録が求められる。前者は、ビザが免除されている国籍の渡航者に対して義務化されており、後者は任意だが、7日間の隔離を免除されるワクチン接種歴の確認を渡航前に済ませられるので、入国審査がスムーズになる。
 K-ETAは英語のみ、Q-CODEは韓国語と英語のみの対応だが、旅行社などが公開している日本語の解説サイトがあるので、それらを参照すれば、さほど支障なく登録できるはずだ。
 問題は、Q-CODE申請は無料だが、K-ETAは約1000円の申請料がかかり、クレジットカードのみでの支払いとなるため、そこを狙った偽サイトも少なからず存在するという点である。被害に遭わないためには、大使館や航空会社、大手旅行社の公式ページからのリンクを使って正しいサイトにアクセスするのが良いだろう。
 日本出発時の空港は、平日にもかかわらず訪日外国人で大混雑しており、まだ制限されている中国からの団体客を除けば、ほぼ客足が戻ったかのような印象だった。そのため、ソウルの仁川空港でも入国審査で時間が取られることを覚悟していたのだが、幸いなことに窓口に並ぶ人数も少なく、また、パスポート照合によるK-ETAの確認と、Q-CODEの二次元バーコードの読み取りによって、拍子抜けするほど簡単に、短時間で通ることができた。
 仁川空港では2014年から
 セルフバッグドロップシステムの導入が進む
 また、航空便のオンラインチェックインはほぼ常識化しているが、機内持ち込みできないスーツケースなどのバッグドロップ(手荷物預け入れ)は、航空会社のカウンターで物理的に行う必要がある。しかし、仁川空港では、大韓航空などを皮切りにセルフバッグドロップシステムの導入が進んでおり、搭乗券とパスポートをスキャンして、荷物を乗せたコンベア台のカバーが閉まるとX線検査がその場で行われ、問題なければカバーが開き、プリントされたタグを自分で荷物に取り付けることで処理が完了する。
 アジア圏では、いち早く2014年から韓国の仁川空港への導入が始まっていたセルフバッグドロップシステム Photo:KOREAN AIR
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 同種の機材は、日本でもANAが2015年に羽田空港の国内線カウンターに導入し、2017年に成田空港の国際線での実証実験を行って以来、普及が進んでいる。仁川空港では、オランダのスキポール空港、イギリスのヒースロー空港、オーストラリアのシドニー空港などに続いて、2014年から導入開始していたので、やはり、先に触れた先取精神が発揮されたようだ。
 デジタル庁推進
 「Visit Japan Web」の使い勝手は……
 実は、今回の旅で最も不可解だったのは、関西国際空港帰国時のVisit Japan Web(デジタル庁が推進する入国手続オンラインサービス)の対応だった。事前登録した画面またはプリントアウトを見せることで検疫を通過できるとの触れ込みで、実際にもその通りだったのだが、ターミナル間の移動用シャトルは利用できずに通路を延々と歩く必要があり、要所ごとにやたらと多くの係員が配置されている。
 訪日外国人が最初に体験する「おもてなし」としては残念な、Visit Japan Webのスマートフォンアプリ Fig by K.O.
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 しかも、Webの説明では(ネット接続ができない場合に備えて)「縦に長いページの3つの要素を確実にスクリーンショットで保存するか、プリントアウトして見せること」となっていたものの、実際には、数をこなすためか移動途中で最初の画面をチラッと見る程度で、何の証明にもならず、最悪の場合、偽造も簡単に行える(適当なスクリーンショットを入手するだけ)と思われた。
 さらに、帰国後に改めて登録ページを確認すると、先の縦長ページを一度にダウンロードできる機能が追加されていたのだが、リンク先に飛ぶと、スマートフォンのスクリーンに収まらないサイズの画像が縮小もスクロールもできない状態で表示され、ダウンロードボタンも表示されない状態だった。動作検証の有無や、その程度の改修にいくら税金が使われたのか、大いに気になる。
 NIA(韓国知能情報社会振興院)の資料によれば、国連やOECDなどの国際機関によるDX、IT関連のランキングで、韓国はICTの国際競争力、ICTインフラ整備、電子的な社会参加、オープンデータ利用、AIの民主的利用の項目で1位を獲得している。もちろん、同時にさまざまな社会問題も抱えているものの、ことデジタル技術の推進やDXに関しては、政府が音頭を取るだけでなく、具体的に利用しやすい形で社会実装が進められなければ意味がないことが、きちんと理解されていると感じられた。
 世界規模のDX、IT関連ランキングで1位の獲得が目立つ韓国 出典:NIA(韓国知能情報社会振興院)
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🏹23〕─3・B─なぜ、日本は当時最強の「モンゴル帝国」を追い払うことができたのか?~No.75 

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 2023年2月24日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「なぜ、日本は当時最強の「モンゴル帝国」を追い払うことができたのか?「元寇」の奇跡を検証してみた
 『東大生が教える 戦争超全史』より抜粋
 「世界史とは、戦争の歴史です」。そう語るのは、現役東大生集団の東大カルペ・ディエムだ。全国複数の高校で学習指導を行う彼らが、「戦争」を切り口に、世界史の流れをわかりやすく解説した『東大生が教える 戦争超全史』が3月1日に刊行される。世界史、現代情勢を理解するうえで超重要な戦争・反乱・革命・紛争を、「地域別」にたどった、教養にも受験にも効く一冊だ。古代の戦争からウクライナ戦争まで、約140の戦争が掲載された、まさに「全史」と呼ぶにふさわしい教養書である。元外務省主任分析官である佐藤優氏も絶賛の声を寄せる本書の内容の一部を、今回は特別に公開する。
● 【なぜ争った?】元が鎌倉幕府朝貢を拒否されて九州に攻め入った
 モンゴル帝国の「元」が、日本の九州に攻め入ったのが元寇です。その侵攻は2回あり、第1回を文永の役、第2回を弘安の役と呼びます。
 13世紀初頭にモンゴル高原にチンギス=ハンが登場し、中央アジアから南ロシアまでを一気に征服しました。チンギス=ハンの後継者たちもヨーロッパ方面に遠征し、さらには中国の金を滅ぼすなど、ユーラシア大陸の広範囲にわたる大帝国を築き上げました。
 チンギス=ハンの孫であるフビライ=ハンの治世には、国号を「元」に変え、当時、朝鮮半島を支配していた高麗を服従させ、日本に対しても何度も朝貢を要求してきました。
 しかし、鎌倉幕府の8代執権、北条時宗がこの要求を拒否します。そこで元は、高麗の軍も含めた約3万の兵で現在の長崎県にある対馬壱岐を攻めた後、そのまま九州北部に向かいました。これにより、元寇の第1回である文永の役が起こりました。
● 【どうなった?】2度にわたる侵略も元軍が敗北。日本の征服を断念
 幕府は、九州に領地を持つ御家人たちを動員して元軍を迎撃しました。しかし、元軍が優れた兵器で集団戦を仕掛けてくるのに対し、日本軍は「やあやあ我こそは」という一騎打ち戦術だったために苦戦を強いられました。
 しかし、元軍も被害が大きく、内部対立などもあって撤退しました。これが文永の役です。その後、幕府は元の再襲来に備えて、九州北部の要地の警備を九州の御家人に課し、異国警固番役を大幅に整備するとともに、博多湾沿いに石造りの防塁を築かせました。
 一度は追い返された元軍でしたが、当時の中国王朝の南宋を滅ぼした後、再び日本征服をもくろんで、今度は約14万もの大軍を率いて九州北部に向かいます。
 しかし、博多湾岸への上陸を阻止されている間に暴風雨が発生し、大損害を受けた元軍は再び敗走することとなりました。これを弘安の役と言います。この2度にわたる元軍の襲来を、「蒙古襲来」または「元寇」と言います。
 その後も元は日本征服を諦めませんでしたが、フビライ=ハンが亡くなって以降、一度の交渉を最後に、日本の征服は断念されています。
● 当時、最強だった「モンゴル帝国」を日本が追い返せた理由
 なぜ、多くの国を征服した元が、日本を攻略できなかったのか。その理由が最近の研究からわかってきました。
 元軍がユーラシア大陸を広範囲にわたって征服することができたのは、モンゴルの遊牧騎馬民族による騎馬戦が非常に強かったからです。そのため、元軍は日本を攻める際にも馬を連れて行ったと考えられます。
 しかし、馬は狭い場所と揺れがとても苦手な生き物です。輸送というストレスがかかる条件下では発熱してしまい(輸送熱と言います)、それが長時間続くと死に至ることさえあります。現代の馬運車でもこまめに駐車して休憩を入れるほどです。現代よりも時間がかかり、休憩もない元軍の船では多くの馬たちが死んでしまったと考えられます。
 さらに、この元寇に使う船をつくったのは朝鮮半島の高麗の人々でした。元は完成を急かしたうえに、費用は高麗持ちというひどい条件を突きつけたため、高麗の人々は、早く安くつくれる「高麗式」の船をつくったそうです。
 元や中国の船の底がV字型である一方、高麗の船は底が平らでした。しかし、底が平らな船はV字型のように波を切れず、波に乗るかたちになるため、非常に揺れが大きかったと考えられます。馬はもちろん、人間でさえも船酔いでろくに戦えない状況だったのではないでしょうか。
 また、日本も防塁を築くとともに河口に杭を打ち、河口から船が入れないように対策していたようです。そのため、元軍は小さな船に乗り換えたうえで、隠れる場所がない浜辺に上陸せざるを得ず、その間に日本軍は陸から弓で次々と相手を倒していったと考えられています。
(本原稿は、『東大生が教える戦争超全史』の内容を抜粋・編集したものです)
 東大カルペ・ディエム
 現役の東大生集団。貧困家庭で週3日アルバイトをしながら合格した東大生や地方公立高校で東大模試1位になった東大生など、多くの「逆転合格」をした現役東大生が集い、全国複数の学校でワークショップや講演会を実施している。年間1000人以上の生徒に学習指導を行う。著書に『東大生が教える戦争超全史』(ダイヤモンド社)などがある。
 東大カルペ・ディエム
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🪁2〕─3・C─中国の「南」の民が「北」の民に抱く“警戒と反骨”。~No.4 

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 中国の古代文明は、北の黄河文明と南の長江文明がある。
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 2023年2月22日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「中国の「南」の民が「北」の民に抱く“警戒と反骨”…日本人が知らない「もうひとつの中国」を解明す ブルース・リーは「南の中国」を象徴する人物。筆者撮影
 中国の社会も歴史も、「南」から見なければわからない――。
 『越境の中国史 南からみた衝突と融合の三〇〇年』(講談社選書メチエ)で、歴史学者の菊池秀明氏は、福建・広東・広西などの華南地方こそが中国世界のフロンティアであり、ここに生きる人々の「越境のエネルギー」こそが中国近代史と経済発展の原動力だった、という。
 【写真】中国の「南北のぶつかり」を象徴する数々の風景
 日本人には見えていない、「もうひとつの中国」とは? 言語・民族から歴史まで、「南の中国」を知るルポライター安田峰俊氏が、その現状と台湾・香港問題の背景を解説する。
 中国の”標準語”を音声入力する難しさ
 近年、私と中華圏の友人との連絡はもっぱらメッセンジャーアプリを使っている。中国大陸の人は微信(WeChat)、白紙運動に加わるなどした反体制系の中国人はTelegram、在米華人はWhatsAPP、香港人や台湾人はFacebook MessengerかLINE……と、プラットフォームは違うが、操作方法やマナーはあまり変わらない。通知が来たら素早く返事をしたほうがよく、ぶっきらぼうな返信ではなくそれなりの「会話」をする必要もある。
 だが、スマホの小さな画面で中国語のピンイン(発音を表記したアルファベット)を打ち込むのは骨が折れる。そこでiOSの音声入力を使うのだが、これが曲者だ。私の中国語は教科書的な発音から離れているらしく、普通に喋ると言葉をきれいに拾ってくれないのである。仕方なく、語学の授業の音読のようにゆっくりした読み方で、一音一音「標準的」な発音で喋ることになるのだが、その姿はわれながら間抜けであった。
 ところが、最近になり福音が訪れた。音声入力のモードを、北京の「普通話」ではなく台湾の「國語」にすればいいと、香港在住の友人に教えてもらったのだ。結果、これまでは自分の発音がヘタだから反映されない思っていた音声入力が、なんと「國語」モードに切り替えた途端にびっくりするほど正確に文字を表示するようになった。おかげで中国語のメッセージが書きやすくなり、日々の効率性が大幅に改善した。
 ちなみに、私の中国語には南方系の訛りがある。ジャーナリズム系の「中国屋」にはめずらしく、北京で長期滞在した経験がなく、中国語を覚えた初期の段階で台湾の台南や広東省で学んでいたからだ。大学院時代の研究対象も、中国南部(華南)の歴史や文化だった。その後も広東省周辺と縁が深かったので、それが言葉にも反映されている。
 中国語は南北ですこし違う
 中国の内モンゴル自治区シリンゴル盟にあるモンゴル帝国の都・上都の跡。モンゴル高原満洲の異民族は、歴史上しばしば北京を支配した。筆者撮影
 普通話と國語はいずれも、清朝時代までの宮廷言葉「官話」がベースだ。両者のコミュニケーションに支障はなく、基本的には同じ言語である。ただ、文法や発音・語彙がすこし違う。英語(English)に置き換えて説明すると、北京の普通話はロンドンのイギリス英語、台湾の國語はカリフォルニアの米語に相当する感覚だろうか。
 現在の普通話は、もともとの漢語に、北方のモンゴル族満洲族の言語的特徴や単語が入って形成された、北京方言をベースに整えられた言葉である。北京を首都とする中華人民共和国の標準語で、北京のメディアの発音を事実上の規範とする。ゆえに、発音や文法・語彙にも、長江以北の「北の中国」の言葉としての特徴を持つ。
 いっぽう、「國語」もその根は普通話と同じだが、こちらはかつて南京に首都を置いた中華民国の言葉である。中華民国は、台湾に政権を移して70年以上が経っていることもあって、現在の國語は閩南語などの南方方言の影響をかなり強く受けている。
 たとえば、國語は普通話と比べると、いわゆる「r化」やそり舌音をあまり使わず、「n」音と「ng」音の区別が曖昧だ。しかも全体的にペースがゆっくりしていて響きが甘ったるい。福建系住民が多いシンガポール公用語「華語」の性質もこれに近い。台湾や香港の場合は、漢字も中国大陸と異なる繁体字を使う。
 「南の中国」の共通語
 サンフランシスコのチャイナタウンにはためく大量の青天白日満地紅旗中華民国の国旗)。海外の華人社会は、過去の歴史をタイムマシンのように保存していることがある。筆者撮影
 國語や華語っぽい南方訛りの中国語は、台湾だけではなく中国南部(華南)の広東省福建省広西チワン族自治区とその周辺地域、さらに華南出身者の移民が多い香港(広東語ではなく國語を話した場合)やシンガポール・マレーシア、さらにアメリカのカリフォルニア州やカナダの華僑社会など、相当広い範囲の人たちに話されている。いわば「南の中国」の共通語であり、もうひとつの標準中国語だ。
 この言葉は、広東語・潮州語・福州語・閩南語(台湾語)・客家語など相互に通じない各種の漢語方言、さらにチワン族をはじめとした少数民族の言語がマダラのように存在する「南の中国」の社会を覆うようにして、彼らの相互のコミュニケーションの必要から形成された言語(リンガ・フランカ)でもある。
 南北のふたつの中国には互いに距離感があり、特に南方の北方に対する忌避意識は強い。たとえば華南の各省や香港・台湾では、北京式の発音の普通話を話すとなんとなく心に壁のある態度をとられがちないっぽう、國語や華語っぽい喋り方をすると打ち解けてもらえる。
 逆に北方で南方訛りの言葉を話したときは、「地方の人」扱いはされるものの、そこまでは嫌がられないため(東京で関西訛りの言葉を話すような扱いになる)、より多くの中国人から本音を引き出したい場合は、汎用性が高い南方系の中国語を話すほうが「得」ですらある。
 中国の中心は北京とは限らない
 香港の新界、天水囲付近にある鄭氏の宗廟。香港の郊外にはこうした大宗族の宗廟がいまなお多数残る。筆者撮影
 「南の中国」は、中国の華南地域と香港・台湾、さらに東南アジアや北米の華人世界までを含む。すなわち数億人の人口と、日本を上回る経済規模を持つ巨大な世界である。いっぽう、今世紀に入り中華人民共和国がいちじるしく強大化するまで、「南の中国」の世界は政治的には北京の権力の影響を受けづらく、独立性が高かった。
 南方の視点から見た場合、中国の中心は決して北京ではない。まずは広州から香港にかけての珠江デルタ都市圏、さらに場合によっては台北(20世紀後半以降)が、「南の中国」の中心である。ほかにアモイや潮州など、人によっては別の小さな中心を持つ場合も多くある。
 華南の土地は、華北から南下した漢人のフロンティアだった歴史がある。ゆえに、根の部分で移住民の価値観を残している世界だ。なので、人々は暮らしにくさを感じた場合は住んでいた土地を捨て、海外を含めた他の土地に移る。また、常に社会的な地位を上昇させたいと考えているので、商売による貨殖や科挙を通じた立身出世にも、他の地域の人たちに増して熱心だった。
 とはいえ、開拓も移民も科挙の受験勉強も、一人だけの力では到底できるものではない。そこで華南では自分たちの血縁を活用して一族を成功に導くべく、相互扶助をおこなう「宗族」という父系の血族集団が発達した。また移住先では、故郷が同じ者同士で助け合う拠点として「会館」も盛んに作られた。さらに地縁や血縁を持たない人は、これらのかわりに秘密結社を作って団結した。
 「北の中国」の征服への反発
 台湾、台南市内にある赤崁楼。17世紀に鄭氏政権の本拠地が置かれた。建物は再建したもの。筆者撮影
 「南の中国」から北京の権力に対する警戒感と不信感は、伝統的に極めて強い。なぜなら、「北の中国」の支配者たちはモンゴル高原満洲からやって来た異民族を多分に交え、常に南方を征服の対象として見ている。しかも彼らは、北方の言語や価値観や生活習慣を、それがさも全中国のスタンダードであるかのようにして南方に押し付け、同化を図ってくる。
 事実、北による南の征服は過去の歴史になかで何度も繰り返されてきた。宋朝(南宋)は1279年にモンゴル帝国に追い詰められ、現代でいう広東省や香港の近海で起きた崖山の戦いで滅んでいる。明朝も1644年に北京が陥落してから中国南部に亡命政府をいくつか作ったが、いずれも満洲族清朝に滅ぼされ、明朝の遺臣である鄭成功の子孫が拠った台湾南部(鄭氏政権)も、やがて1683年に征服された。
 もっとも、19世紀中盤以降は、上記のような征服の歴史に反感を抱いた「南の中国」の巻き返しのほうが大きくなる。南方の民の社会では、北京の野蛮な征服者たちから遠い自分たちこそが「真の中華文明」の継承者なのだと考える、屈折した自己認識も生まれた。
 太平天国の乱や黄花崗反乱(辛亥革命前夜の反乱)、国民革命軍の北伐といった近代中国の反乱や革命は、いずれも広東(太平天国は広西)からはじまった。これらを率いた拝上帝会・興中会・中国同盟会・中国国民党中国共産党といった革命結社の根にも、華南の秘密結社のカルチャーが息づいている。
 20世紀後半になると、「南の中国」の民の移住民気質と商業ネットワークが、アジアNIESの経済発展や、華南の経済特区(当初は広東省の深圳・珠海・汕頭と福建省のアモイ)を中心に進んだ中国の改革開放政策を生み出していく。
 経済的先進地になったこの地域からは、香港映画の傑作の数々や、台湾出身のテレサ・テンや香港でデビューしたフェイ・ウォンの音楽が生まれ、一時は全中華圏を席巻した。19世紀後半から現代にいたる中国の歴史は、政治にせよ経済にせよ文化にせよ「南の中国」抜きでは語れない。
 日本人が知らないもうひとつの中国
 サンフランシスコのチャイナタウンにて。ブルース・リーアメリカの広東系華僑の社会に生まれ、香港で映画スターとして成功した「南の中国」を象徴する人物の1人だ。筆者撮影
 いっぽう、私たち日本人が抱く中国のイメージは、大部分が「北の中国」のものである。外交機関や日中友好諸団体によるオフィシャルな交流も、中国の深刻な政治問題を伝える報道や論説も、「反中」か「親中」かを問わず常に北京に顔を向けている。大学の第二外国語で習う中国語も、通常は北京の普通話であり、中国人のネイティブ講師も北方の出身者が多い。
 対して、「南の中国」の存在とその重要性は、中国近現代史に目配りのある東洋史研究者や、華南を対象にした地域研究者、さらに一部の勘のいいビジネスマンの間では、数十年前から感覚的に知られてきた。しかし、こちらの中国は明確な「国家」の形をとっておらず、水のようにつかみどころがない。ゆえに、一般社会では必ずしも理解されてこなかった。
 2022年12月に講談社選書メチエから刊行された菊池秀明氏の『越境の中国史 南からみた衝突と融合の三〇〇年』は、この「南の中国」の視点を一貫して提示し続けている。一般向けの書籍としては、稀有な本である。
 中国近代史には「南からの風」が存在する
 2019年秋、香港デモの現場に残された落書き。太平天国から香港デモに至るまで、「南の中国」の反乱の底流には北京への反発が存在する。筆者撮影
 菊池氏は1980年代に広西チワン族自治区に留学し、フィールドワークを通じて現地の言い伝えや族譜(宗族の歴史書)の記述を収集、太平天国の乱の勃発前夜における現地の社会構造の解明を試みた、行動力の高い歴史研究者だ。
 2005年に刊行した概説書「中国の歴史」シリーズ第10巻『ラストエンペラーと近代中国』(講談社)では、中国近代史を通じて存在する「南からの風」の存在を指摘した。2020年の著書『太平天国』(岩波新書)も、この視点から太平天国の乱の全容を描いた書籍だ(刊行前年に発生した香港デモの性質を考えるうえでも、同書は非常に参考になる)。
 今回の記事は『越境の中国史』の書評だが、内容にはあえて詳しく触れない。ただ、私は読者諸氏が同書を手にとってみたくなるよう、その背景の解説、いわばチュートリアルを書いたつもりである。「南の中国」の存在が、もっと広く日本人に知られてほしい。
 「北からの征服者」としての清朝中国共産党
 ここから余談を書く。現在の中国を支配する中国共産党は、上海で形成されて南昌で蜂起し、江西省の井崗山や瑞金に拠点を作り、指導者の毛沢東湖南省出身で周恩来浙江省出身で……と、本来は長江以南の「南」の空気のなかでできあがった政党だ。
 だが、長征を通じて北方の陝西省の延安(そのすぐ北は内モンゴルのオルドス地方だ)に根拠地を建設し、習仲勲(習近平の父)をはじめとした陝甘寧系の党幹部を多く重職につけたことで、中国共産党は後天的に「北の中国」の政治勢力としての性質を身につけた。
 彼らは戦後の国共内戦のなかで、まず満洲を占領して関東軍が残した軍事力を吸収し、北方から攻め寄せて北京を陥落させた。1644年に満洲清朝が山海関を突破して中国本土に侵入したときと酷似した構図である。
 やがて北京を首都として南進し、鄭成功なり蒋介石なりの旧政権の残存勢力を台湾に追い払って中国大陸を統一した点も、両者はよく似ている。ちなみに清朝は降伏させた北元(元朝の後身)をはじめモンゴル勢力を軍事力として取り入れていたが、いっぽうで中国共産党モンゴル帝国の西方の後継者であるロシア(ソ連)の協力を得た。
 国共内戦当時、ソ連は国民党と共産党を天秤にかけて日和見的な態度を取ってもいた。だが、すくなくとも「南の中国」の目から見た共産党政権は、万里の長城の「北」から異民族の武力を借りてやってきた、擬似的な征服王朝なのである。
 「南の中国」への目配りを持たない習近平
 香港の新界・西貢の上窰民俗文物館。かつての客家の農民の住宅を博物館にしたもの。筆者撮影
 もっとも、中国共産党はその後もおおむね長江以南の出身者が歴代のトップに就き、文化が異なる「南の中国」への目配りを残した。トウ小平が決めた香港の一国二制度や台湾との対立の棚上げ、華南の各都市の経済特区指定といった政策は、その価値観を反映したものだろう。
 だが近年、香港の国家安全法施行や台湾に向けた大規模な軍事演習の実施からもわかるように、中国共産党の南方政策は大きく変質している。広東省をはじめとした華南の各省に対する、中央の政治的・文化的なコントロールも大幅に増大した。
 背景として興味深いのは、現在の指導者である習近平が、陝西省に祖籍(祖先のルーツ)を持ち北京で生まれ育った経歴を持つことだろう。彼は中華人民共和国のリーダーにはめずらしく、「北の中国」の体現者なのだ。
 中国の中心は北京以外にはなく、普通話があらゆる中国人の標準語であるべきだと考える北方の支配者にとって、華南の各省や香港・台湾のような「変な地域」は、修正と標準化の対象でしかない。習近平は若いころに福建省で長く勤務し、実は福州語や閩南語もすこし解するらしいが、近年の政策を見る限り、残念ながら過去の経験はあまり反映されていないようだ。
 習近平政権の10年間で進行したのは、単なる政治の強権化や監視社会化のみならず、文化や社会のありかたにおける中国全土の「北方化」でもある。現代中国でひそかに進む断絶の深まりを正しく理解する上でも、「南の中国」への理解は欠かせないだろう。
 安田 峰俊(ルポライター
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☳41〕─1・D─ベトナム戦争の民間人虐殺と加害者の立場に立つことの意味。〜No.147  

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 2023年2月22日 YAHOO!JAPANニュース ハンギョレ新聞「[寄稿] ベトナム戦争の民間人虐殺と加害者の立場に立つことの意味
 イム・ジェソン|弁護士・社会学
 ベトナム河南省フォンニィ村の自宅にいたグエン・ティ・タンさんが7日の勝訴判決後、弁護団とテレビ電話で感想を述べている=ベトナム戦争問題の公正な解決のための市民社会ネットワーク提供
 平和とは何だろうか。平和であるという状態とは何だろうか。哲学者のエマニュエル・レヴィナスの「非暴力」に対する説明に少し修正を加えて定義してみると、次のようである。「自分が誰かから暴力を加えられるかもしれないという恐れ」(被害者としての不安)と「自分が誰かに暴力を加えるかもしれないという恐れ」(加害者としての不安)の間の緊張状態。一見平和と全く関係なさそうな、この不都合な恐れを同時に抱き、その狭間で葛藤する時、初めて「平和」という状態が維持される。
 被害者になるかも知れないという恐れだけが圧倒的に大きい社会は暴力へと進む。2011年5月、米国の若者たちは街頭に飛び出して抱き合って歓声を上げ、W杯の応援で登場した「ブブゼラ」を吹き鳴らした。ウサマ・ビンラディンが射殺されたという知らせを聞いたからだ。3千人余りが犠牲になった2001年の同時多発テロ以後、米国社会は更なるテロの恐怖に満ちていた。米国は直ちに「テロとの戦い」の名のもとに他国への爆撃を開始し、同時多発テロとは関係のないイラクまで侵攻した。結局、10年余りの戦争の末、テロの主犯を殺した。人々は「もう(テロで)殺されることはない」と喜んだ。
 米国はこれ以上被害者になるわけにはいかないと言いながら、何人を殺したのだろう。米ブラウン大学の研究によると、テロとの戦いで死亡したイラクアフガニスタン、イエメンなどの人々は90万人前後と推算される。ブブゼラを吹き鳴らしていた米国人たちには、被害者としての恐れと拮抗し、暴力という選択をためらわせる加害者としての不安など存在しなかった。
 テロとの戦いの初期、「まず、共に悲しもう。だが、みんなで一緒に愚か者になる必要はない」(スーザン・ソンタグ)という声もあった。無差別の軍事対応には数多くの民間人の被害が伴い、テロにテロで立ち向かおうとする格好だという加害者としての恐れからの声。しかし、米国社会の圧倒的多数はこの声に「テロ擁護」という軽蔑のレッテルを貼り、議論の場から追い出した。ある社会が暴力に突き進む過程だった。
 今月7日、ソウル中央地裁はベトナム戦争民間人虐殺被害者に対する国家賠償を求める訴訟で、韓国軍による民間人虐殺を認め、被告「大韓民国」の法的責任も存在すると判断した。この判決は何よりも長い間苦しんできたベトナムの被害者の権利を初めて認めた歴史的な判決だ。同時に、韓国という共同体のための判決でもある。「加害者の立場」を生み出した判決であるからだ。
 韓国社会は加害者としての恐れが希薄な社会だ。韓国は植民地と戦争という極端な暴力の真ん中で形成された。国家アイデンティティの一つである反共主義は「アカたちが私たちを殺す」という恐怖に支えられて作動してきた。その恐怖の中で、韓国現代史の数多くの暴力が正当化された。後から暴力の真実が明らかになった後も、韓国社会の人々はすぐに自らを被害者と同一視した。済州4・3事件を、5・18光州抗争を忘れてはならないと叫びながらも、誰も陸地から済州島(チェジュド)に渡った討伐隊、全羅南道庁に突進する空輸部隊員の立場には立たなかった。日本へ、米国へ、軍事独裁へと加害の主体を他者化するだけだった。
 ところが、ベトナム戦争の問題は違う。被害者は私たちと国籍も言語も異なり、遠く離れたところで暮らしているため、彼らと自分を同一視し、罪悪感なしに歴史的な悲劇を考えることは不可能だ。過去のことだと目を背けることも難しい。ベトナム戦争に対する韓国の公式的な評価は「戦争特需で稼いだ外貨で目覚ましい経済成長を成し遂げた」というものだ。韓国社会がいま享受している成果の裏には、少なくともベトナムの虐殺被害者の死と苦しみがある程度は存在する。
 今回の判決によって、これまでなかった加害者としての立場が生み出されたが、その立場に立つということはまた別の問題だ。誰かがその立場に立てば、この質問を避けては通れないだろう。「私たちはなぜ、どのように、どのくらい彼らを殺したのか」。この受け入れがたく恐ろしい質問から目を背けずに問いかけ続けるほどに、私たちは平和に向かって前進できるだろう。この質問は「引き金にかけた指を下ろすために、いま必要なものが何か」につながるからだ。
 歴史学者の藤井たけしは「加害者になるというのは主権者になるということ」だと述べた。加害者は自分の行動を自分の決定と責任として認めなければならない。加害者は自分が引く引き金の重さを感じざるを得ない。だからこそ、止めることも、心からの謝罪をすることもできる。このように、止めて反省する力を身につけ、忘れず記憶し続ける限り、韓国社会は簡単には暴力と戦争へと向かわないだろう。どうか多くの人が加害者の立場に立つ勇気を出してほしい。
 イム・ジェソン|弁護士・社会学者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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👪40〕─1─日本人女性は日本人男性より賢く優れている。~No.117No.118No.119 

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 2023年1月28日8:16 YAHOO!JAPANニュース webマガジン mi-mollet(ミモレ)「能力で選んだら男ばかりになりました」と言っているうちに誰もいなくなる日本【小島慶子
 時代の潮目を迎えた今、自分ごととして考えたい社会問題について小島慶子さんが取り上げます。
 「こんなやばい写真が」と、知人があるツイートの画像を見せてくれました。国会の議院運営委員会の写真です。テーブルをぐるりと囲むのは、全員男性。一瞬CGかと目を疑いましたがそうではないようです。大本営か! と突っ込みながら当時の写真を検索してみたら、本当にそっくりでした。東條内閣の写真も、もちろんおじさんオンリー。80年経った現在の第二次岸田内閣には、女性閣僚が2人。たった2人かーい。
 ちなみに、先日「政治家も人間です」と語って辞任したニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相が2020年の再選後に組んだ内閣は、40パーセントが女性、25パーセントが先住民につながりのある人々、15パーセントが性的マイノリティの人々という、同国史上最も多様性に富んだ顔ぶれでした。首相在任中に産休を取得し、ムスリムを狙ったテロへの対応や新型コロナ感染症対策の手腕などが国際的に評価されたアーダーン首相ですが、政権終盤には国内のミソジニストや反ワクチンを訴える人々からの攻撃に晒されたと報じられています。
 性別関係なく選ぶ=男性だらけ、になってしまう理由
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 最近は日本でも、男性だらけの会議や委員会は「異様な光景」「なぜ女性がいないのか」と批判されるようになりました。10年前と比べると、顕著な変化ですね。私も自分が呼ばれた場ではジェンダーバランスについて尋ね、女性が少なすぎませんか? と指摘するようにしています。
 先日もある会合が男性ばかりだったので指摘したところ、定番の答えが返ってきました。「はい、これからは性別関係なく選ぶようにします!」。男だらけを指摘されると、人選担当者は大抵そう答えます。「性別関係なく!」に力を入れるのです。決して「男女半々にします」とは言いません。
 どうでしょうか。あなたは、男が選んだ男だらけの顔ぶれは、「性別関係なく」選ぶようになれば変わると思いますか?
 きっと、変わらないでしょう。なぜなら、男性だらけの顔ぶれでも問題ないと思っている人たちにとって、性別は最初から関係ないからです。彼らは、候補として男性しか想定していません。女性はいわば透明な存在。「人=男」という100年前と同じ世界観です。
 そんな人たちが「性別関係なく」選んだ結果は、結局また男性だらけになります。そして言うのです。「性別ではなく能力で選んだら、男ばかりになりました。女性はもっと頑張ってください」と。いや、君こそ頑張って100年分追いつきたまえ。
 数合わせで女性を登用するのではなく実力で選ぶ、という発言の意味するところは……
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 彼らは、自分に女性が見えていないこと、見ようとしていないことを問題だと思っていません。女は仲間に入れたくないという本音を変えようとはしないのです。女性に目を向けよと指摘されると、こう言います。「だったら俺たちの視界に入るところまで、女が頑張って辿り着きなよ」。数合わせで女性を登用したって、どうせ実力不足だろうという物言いも定番です。2020年には、経団連の副会長がクオータ制の導入にあっさり後ろむきな発言をしています。これが、男性だらけの世界の住人が口にする「性別関係なく選ぶ」という言葉の実態です。
 目に映ったヒトのうち男性しか認識できないという極めて深刻な認知の歪みを根本から変えない限り、日本の男村状態は変わりません。「性別関係なく」決めるのではなく、「性別はうんと関係ある」と肝に銘じるのです。必要なのは、今まで透明な存在だった女性たちに注目するという、劇的な行動変容なのですから。
 明確な意志を持って「女性を増やす」こと。最低でも、意思決定に影響を与える3割を女性に。クオータ制を導入するなどして、早期の5割実現を。今ほぼゼロなのに無理~~とか言わないで、やるったらやるんです。戦後の奇跡の復興と同じ覚悟と気合いでやるんです。
 「さあさあどなたもいらっしゃい、今後は僕が性別関係なく選んであげます!」と両手を広げる男性に、丸め込まれてはいけません。そんなアピールには「ほほう、現状を変える気はないんだな」と座礁資産のマークをつけておく。そしてもし発言するチャンスがあるなら、光の速さで「いや、性別関係あります、ありまくりです!」と返しましょう。女性を可視化するのだと。
 男だらけの会議や委員会はいくらでもあります。何度でも、どこに行っても隙あらば言い続ける。女性は透明な存在じゃない。単なる男性のお世話係でも、愛玩物や鑑賞物でもない。子を産む機械でもない。この社会を作っている一人の人間、働き手、意思決定者として、等しく扱われるべき存在なのだと。そうじゃないと、おじいさんが抜けた後にまたおじいさんが出てくる、イケイケ勝ち組男性の次にまたイケイケ勝ち組男性が出てくる……というサメの歯みたいな男村人事は、永遠に変わりません。
 あ! これやるの、女性だけじゃないですよ。うんそうそうとか言いながら読んでいるあなた、そう男性のあなた! あなたも一緒に、男村ニッポンを開国するんです。職場の定例会議で女性たちがいつも端っこに座っているのをおかしいと思ったことがないなら、まずはそこからです。
 優秀な女性がいないどころか、どんどんいなくなりつつある現状
 写真:Shutterstock
 男村の長たちはきっとこうも言うでしょう。「だって優秀な女性がいないじゃないか」。いますよ。見えてないんです、あなたには。かけてるメガネがピンボケなんです。男村の働き方に適応した人しか“優秀”と見做さない視野の狭さと認知の歪みが大問題です。しかし実際、女性がいなくなりつつあるのかもしれません。外務省の調査によると、昨年10月時点での日本人の海外永住者は過去最高のおよそ55万7千人で、前年よりおよそ2万人増。10年前と比べると14万人以上の増加。男女比を見ると、62%を女性が占めるそうです。
 子供を持つ知人が「うちは女の子だから、国外に出られるようインターに入れないと」と切実な顔で語るのを何度も聞きました。私も若い女性には、性差別で貴重な時間を無駄にしないよう、もしチャンスがあるなら是非日本よりもジェンダー格差の少ない国で学んだり働いたりすることを勧めています。こうして女性は100年先も変わらないであろうメンズジャパンから静かに逃げて、もう戻ってこないのです。
 同じことは地方自治体ですでに起きています。兵庫県豊岡市では、進学などで地元を出て行った若い人のうち、男性のおよそ半数は戻ってくるのに、女性は四人に一人ほどしか戻っていないことに気づきました。将来の人口減少に危機感を覚えてヒアリング調査を行ったところ、性別役割の押し付けや雇用や賃金のジェンダーギャップが、女性たちの足を故郷から遠ざけていることが判明。市は対策室を設置し、2025年までに地域連合会の役員の女性比率を3割にすると目標を設定しました。しかしコロナ禍に襲われ、市長選ではジェンダーギャップ解消ではなく、コロナ禍で痛んだ生活の支援を訴えた候補が当選しました。
 賃金が上がらず、長引くコロナ禍と急激な物価高で生活不安の増す日本では、国政でも同じことが起きかねません。ジェンダーなんて理屈を言っている場合ではない、今は暮らし優先だ。あるいは安全保障上の不安を煽り、ジェンダーなんて呑気なことをと、問題を矮小化することもあり得るでしょう。ジェンダーギャップや性差別という日本の存続に関わる人権問題を「さほど深刻ではない課題」とする歪んだ現状認識こそが、社会を閉塞させ成長を阻んでいる元凶です。20年も前にジェンダーギャップの問題に気づいていたのに、数値目標の達成も果たせぬまま先送りして今に至る日本。その責任を“透明な存在”である女性の意識や努力のせいにして逃げ切ろうとする限り、いかに異次元の少子化対策を講じようとも、再び人々が活気を取り戻すことも、国が豊かになることもないでしょう。男だらけの集合写真はすでに当たり前ではなく、批判の対象となりました。これを“まだ野蛮だった頃の日本”の遺物として驚きをもって眺める日が、遠からず訪れますように。今が正念場です。
 小島 慶子
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☷24〕─2・A─韓国での天皇誕生日レセプションは「衣の下の鎧」である。~No.68 

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 韓国と北朝鮮は反天皇テロリスト礼讃国家である。
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 2023年2月16日 産経新聞「<特報>君が代を初演奏 韓国で天皇誕生日レセプション 日韓〝正常化〟へ一歩
 昨年11月、カンボジアで開かれた日韓首脳会談で握手する岸田首相(左)と韓国の尹錫悦大統領(聯合=共同)
 【ソウル=桜井紀雄】韓国・ソウルのホテルで16日夜、天皇誕生日の祝賀レセプションが在韓日本大使館主催で行われ、同レセプションでは初めて国歌「君が代」が流れた。日本政府は韓国での反日感情の強さから例年、国歌を流すことは見送ってきた。昨年発足した尹錫悦(ユンソンニョル)政権が対日関係の改善を目指す中、日本政府もいびつな両国関係を脱却する好機と判断した。
 韓国で天皇誕生日祝賀レセプションが開かれるのは2018年12月以来で、今の天皇陛下が即位されてから初めて。新型コロナウイルスの感染拡大に伴い延期されてきた。
 韓国では、天皇誕生日レセプションに出席しただけで「親日派」として非難されることがあった。大手紙の記者出身の朴普均(パクポギュン)文化体育観光相も昨年、就任前の人事聴聞会で過去の出席が問題視され、「安倍晋三政権(当時)の歴史歪曲(わいきょく)に関する現場取材だった」と苦しい釈明に追い込まれた。
 日本関連の行事では、14年に自衛隊創設60年の記念行事の会場に予定されていたソウル市内のホテルが、「国民感情を勘案した」として開催前日に提供を拒否する事態も起きている。
 日本大使館関係者は君が代を〝自粛〟してきたことについて、「出席者に負担をかけないよう配慮してきたが、過剰な面もあった」と指摘。大使館主催の行事で国歌の演奏は自然なことであり、日韓関係改善の流れの中、今回、「あるべき姿にする」として、韓国国歌とともに君が代を流すことを決めたと説明した。
 レセプションでは、韓国外務省の李度勲(イドフン)第2次官が祝辞を述べた。日本を訪れた韓国人が1月だけで56万人を超え、訪日外国人の4割近くに上るなど、韓国で日本旅行ブームが起きる中、会場には、日本の自治体が各地の魅力を紹介するブースも多数設けられた。
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 2月16日20:34 MicrosoftStartニュース 聯合ニュース「ソウルで日本大使館主催の天皇誕生日記念行事 反発する市民団体も
 【ソウル聯合ニュース】在韓日本大使館主催の天皇誕生日(2月23日)を記念するレセプションが16日、ソウル市内のホテルで開催された。
 レセプションが開かれたホテルには関係者以外立ち入り禁止の看板が設置された=16日、ソウル(聯合ニュース
 © 聯合ニュース 提供
 関係者によると、レセプションには韓国外交部から李度勲(イ・ドフン)第2次官が出席したという。
 天皇誕生日を記念するレセプションには、これまで同部の第1次官が出席してきたが、今回は趙賢東(チョ・ヒョンドン)第1次官が訪米中のため出席できなかった。
 一方、この日、会場となったホテルの前では、レセプションの中止を求める市民団体によるデモが行われた。
 yugiri@yna.co.kr
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 歴史的事実として、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者である。
 日本人にとって中国人や朝鮮人・韓国人は、単なる反日的敵日的隣人であって友・友人、親友、知人でもなく戦友でもない。
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2018-10-04
☲10〕─1─昭和天皇爆殺テロ失敗、警視庁前桜田門爆弾テロと第一次上海事変。昭和7年1月~No.21 @ 
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 キリスト教朝鮮人テロリストは、日本人の共産主義者無政府主義者のテロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
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 韓国は、キリスト教原理主義テロリストが建国した敵天皇敵日国家であった。
 北朝鮮は、共産主義者無政府主義者テロリストが建国した敵天皇敵日国家であった。
 歴史的事実として、日本は被害者であり、朝鮮と中国は加害者であった。
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 韓国・北朝鮮中国共産党政府に味方する日本人リベラル左派全体主義者の正体とは、グローバリズムマルキシズムであり、戦後民主主義教育で優秀な成績を取った国家・社会の頂点に登り詰めた超エリート層の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達である。
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 歴史を教訓とするなら、日本と朝鮮・朝鮮、中国とは和解などありえない。
 韓国の保守派とは、反日派敵日派であって親日派知日派ではない。
 韓国が日本と和解できる日本とは、日本天皇日本民族ではなく日本人である。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国、韓国・北朝鮮
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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 大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、第32代崇峻天皇を暗殺した。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
 894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
 『韓国人に不都合な半島の歴史』 著者 拳骨たくみ「太宰府が4月16日に送った報告書が『朝野群載』(巻20)に記載されている。
 その記述によると、彼らは畠を食いつくし、馬や牛、犬の肉まで食べたという。年寄りから子供らはみな惨殺され、壮年の男女400~500人は船に乗せられ拉致された。
 ……
 高麗海軍による攻撃を受ける最中、賊たちは日本人捕虜たちを殺したり、す巻きにして海に投げ込んだりした。
 高麗は日本人を救出し、300人余りが助かったと生存者の供述書に書かれているが、この時点で拉致された人々の80%近くが死亡していることがわかる。
 ……
 一方の日本は、高麗に対して不信の念を強くしていた。
 権大納言藤原実資は、『賊は刀伊ということだが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐために自分たちを派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか』との見解を示した(『小右記』)。
 この不信感には先述したように、かつて新羅による海賊行為がしばしば見受けられたことで、裏で高麗が糸をひいているのではないかと考えられたからに他ならない。
 これらの事例からも、日本が韓国を古来から尊敬していたなどという話は、まったくの架空であることがわかるだろう。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
 捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
 李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
 この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
 朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
 歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
 朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
 日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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 1405年~1433年 明の永楽帝イスラム教徒で宦官の鄭和は、大艦隊を率いて南海遠征を行った。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
 朝鮮軍、227隻、1万7,285人。
 島民114人を虐殺し、民家1,939戸を焼いた。
 対馬守護代宗貞盛は反撃し、朝鮮軍2,500人(一説では3,700人)を撃ち取り、日本側の戦死者は123人。
 朝鮮軍は、台風を恐れて全軍撤退し、事実上の敗走であった。
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 1428年 世宗大王は、日本からコメ作りや水車の製造など多くの事を学んだ。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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 大正13(1924)年1月5日 朝鮮人テロリスト集団の義烈団による二重橋爆弾事件。
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 昭和6(1931)年9月18日 満州事変。
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 昭和7(1932)年1月8日 桜田門事件。上海系朝鮮人テロリストによる昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件。
 1月28日(~5月) 第一次上海事変勃発。
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 5月 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 イギリス、イタリア、ベルギーなど西洋諸国の各国の共産党は、自国の王室を人民の敵とは認めず、それ故に一度も「王室打倒」とは叫ばなかったし、ソ連・国際共産主義勢力も命じなかったし求めなかった。
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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