👪5〕─1─日本脳は、閉鎖的で、自然対応として自然災害多発地帯に生きる情緒的な戦術脳である。~No.30No.31No.32No.33 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本脳=島国脳=女性脳。
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 日本脳は、弱者の脳である。
 閉鎖性が強い為に、蛸壺化とガラパゴス化に陥りやすかった。
 だが、排他性は強くなかった。
 好奇心が旺盛で、柔軟性に富み、良い物・優れている物は何でも受け入れて身に着け、新旧や舶来を混ぜ合わせ新しい手法を編み出し、独力で新しい物を作り出していた。
 唯一欠点は独自性に乏しい所で、偽物・贋作ではないが似たような物を作っていた。
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 ジェラルド・カーティス「(楽観主義のアメリカ人に対して日本人は)悲観的になるのが好きだが、悲観する事でエネルギーの出る不思議な国民……日本社会は、外国にない強さを持っている」
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 福永篤志国家公務員共済組合連合会立川病院医長)「人間の脳は幼少時で重量400グラムほど。それが男性なら20歳でピークの重量1,350〜1,400グラムに達します。その後はゆっくりと減っていき、70〜80歳でピーク時の約5〜10%減少する。特に記憶や判断の機能を司る大脳の前頭葉や側頭葉は委縮が激しく、20歳を過ぎると1日に10万個の神経細胞が死滅し、90歳でピーク時から半減すると言われています」
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 能力は自分個人のものではないし、能力を上げるのも自分一人ではできない。
 能力は、周囲と共有しながら動き、周囲の変化によって向上する。
 だが、それは競争ではなく協同・協調による所が大きい。
 つまり、一人でおこなう自己啓発では効果が薄いと言う事である。
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 2014年 文藝春秋 冬号 2015年
 「日本人の壁  養老孟司
 『空気』は『ディベート』よりも客観的である。感覚的な『日本人の脳の』を今こそ見つ直せ
 日本人は理念や論理ではなく、その場の『空気』で物事を決める。これまで何度となく聞かされてきた『日本批判』です。
 ある決定がなされて、それが失敗に終わっても、誰が決めたのかわからないから、誰に責任をとらせればいいのかわからない。結局、誰も責任をとらない。思えば、太平洋戦争がそうでした。みなさんの会社もこんなかんじではありませんか。
 だから、日本はダメなんだ、となるわけですが、しかし、本当にそうなのか。
 こうした『空気』批判の元になるのは、結局、西洋的な『言葉中心主義』です。人間の原理・原則を持って、個人主義的に、主体的に行動しなければならない。そして、人間の考えることは、すべて言葉で表現することができる。だから、個人がお互いに理念を論理的に戦わせる『議論』=ディベートこそが、もっとも優れた意志決定の方法であると言われてきました。
 しかし、この西洋的な決め方は、一つ『フィクション』です。言葉にならないものは、いったんないことにして、行為の主体を明確にし、『誰が決めた』『誰が悪かった』という物語を作りやすくしているのです。ドイツはこの法方で、戦争の責任を考え、『ナチが悪い』ということにして、ナチの総統だった『ヒトラーが悪い』ということにしました。それでみんな納得したから、ドイツ人は総懺悔しなくても済みました。
 それに対して、『空気』とは、言葉では表現されない多様で繊細な情報の総体のことです。
 ある朝、会議があったとしますね。そこに出席した面々は、それぞれに事情を抱えている。ある人は今朝、夫婦喧嘩をしてきた、また、ある人はお腹をこわしている、その場のすべての状況が読み取られ、そこでの決定に反映されていく。それが『空気』で決める、ということです。ですから、その決定は、状況に依存しているとも言えますが、ある意味では、言葉で表現されたことだけで議事進行して決めるよりもずっと『客観的』だと言うこともできます。
 しかし、戦後に『空気』は否定され、『議論』が正しいとされました。そうされたのは、やはり敗戦が大きかったと思います。あの戦争であまりにも多くの人が死んだのに、誰が戦争を決めたのか、誰に責任があるのかわからない。そんな社会は、おかしいのではないだろうか。多くの人がそう思うのも、無理はありませんでした。そして、『日本の脳の使い方』が間違ったこと、悪いこととされ、『西洋の脳の使い方』に変えようとしました。丸山眞男はその典型ですね。
 でも、そんなにすぐに丸ごと『脳の使い方』を変えられるはずがありません。結局、その一部を『西洋の脳の使い方』にすげ替えたり、『西洋の脳の使い方』を接ぎ木することになり、かえって色々な弊害がでてきました。今、日本で起きている問題の多くの原因が、そのことにあります。そうであれば、『日本の脳の使い方』を時代に適応させながら、上手に保存していった方がいいのではないか。それが私の考え方です。
 しかし、『日本の脳の使い方』には、明治維新と敗戦に匹敵する大きな波が寄せては返しています。『グローバル化』です。これはけっこう厄介ですよ。究極的には、世界中どこでも同じような基準で考えろ、と迫るわけですから。その大波に洗われながら、『日本の脳の使い方』をどう保存していけばいいのか。私はそんなことを考えずにはいられません。
 西洋と日本の『脳の使い方』は違う
 そのためには、まず『西洋の脳の使い方』と『日本の脳の使い方』の違いを正確に認識すべきです。
 ここに4つのものがあるとします。『西洋の脳』は4つのものを見て、『赤い』食べものと『オレンジ』の食べものがあると認識し、『リンゴ』と『ミカン』という名前=概念を与えます。すると4つのものは、『リンゴが2つ』、『ミカンが2つ』となります。このとき、2つのリンゴ、2つのミカンのそれぞれの違いは捨て去られます。さらにリンゴとミカンを『果物』に一括りにすれば、同じ『果物』が4つあることになります。リンゴとミカンの違いも消えます。これを続けていくと、最終的には宇宙全体が1つの概念になります。これが『神』です。
 基本的には脳の『違い』を消して、『同じ』ことを探していきます。それが概念化、抽象化ということです。概念化、抽象化によって、世界を把握していくのが、『西洋の脳の使い方』です。
 それを突きつめていくと、言葉や概念に現実が合わせるべきだという考え方が出てきます。そうすると、やがては善悪、正義不正義、敵味方で世界を二分し、相手を殲滅しなければならないということになる。でも、アメリカのイラクやシリアへの空爆を見ていると、逆効果としか思えませんね。テロリストが増えるだけです。昭和12年生まれの私は、アメリカの空襲を受けたから、実感としてわかるんですよ。アメリカが無茶なことをよくやるのは、自分の『フィクション』が砕け散っていることがないからですよ。
 それに対して、『日本の脳の使い方』は、概念化や抽象化よりもむしろ、リンゴ1つ1つの『違い』に反応します。季節にしても、四季の違いだけでなく、さらに繊細な差を鋭敏に見極めようとします。だから、『八百万の神』になるんですよ。つまり、『日本の脳の使い方』は感覚的なのです。だから、日本語の単語には、感覚的な細かいニュアンスというか、色がつけられています。『虫の大きさ』とはいうけれど、『小ささ』とは言わないでしょう。『大きい』ことに暗に肯定的な価値が与えられているのです。
 『主体』の問題にしてもそうです。
 西洋では、人の家に行くと、必ず『紅茶にしますか、コーヒーにしますか』と訊かれます。こっちにすれば、『黙ってお茶を出せ』と言いたくなりますが、あれも相手の『主体』を確認する作業です。私はあなたを自由意志を持って常に選択できる『主体』として尊重していますよ、というメッセージです。だから、こっちも『主体』として振る舞わなければならない。
 『西洋の脳の使い方』においては、概念化と抽象化をする脳こそが、『私』ですから、身体ではなく、意識こそが『私』=『主体』とされます。ですから、英語をはじめ西欧の多くの言語では、主語が省略できません。でも、あまたある近代の言語のなかで、主語が省略できない言語は6つぐらいだそうです。英語の方が少数派なんです。
 それに対して、日本語では主語が省略できる上に、『私』『ぼく』『おれ』とか『君』『あなた』『お前』とか、自分と相手を表す言葉が色々あったり、自分を表す『手前』が『てめえ』になって、相手のことになったりするのは、意識ではなく、身体を『私』と考えているからです。日本語は主語が省略できるから、非論理的だとか、非主体的だと批判されてきましたが、単に『私』の捉え方が違いだけです。
 独身生活は危うい
 このような違いを踏まえた上で、『グローバル化』と『日本の脳の使い方』の相性を考えてみるとどうなるでしょうか。
 『グローバル化』によって、もっとも流通の速度が上がり、もっとも流通量が増えたのは、情報や貨幣や英語です。いずれも概念化と抽象化の産物です。ですがから、『グローバル化』は『西洋の脳の使い方』と非常に相性がいいのです。そのなかでも、感覚に近いところで脳をあまり使わない、アメリカと中国の『脳の使い方』 と相性がいい。原理、原則を重んじ、言葉や理念の通りに現実を作り変えてしまおうとする傾向が強いからです。逆にいえば、『グローバル化』 と『日本の脳の使い方』はそりが合わない。『日本の脳の使い方』を保存するためには、そのことにかなり自覚的にならなければなりません。
 しかし、ああ見えて、実はヨーロッパも『言葉』一辺倒ではないんですよ。脳の概念化、抽象化だけを突きつめて、暴走しないように、言葉や概念にならない無意識の領域を保つようにしているのです。近年、ヨーロッパの墓巡りをしたら、そのことがよくわかりました。チェコのセドレツ礼拝堂の骸骨堂を訪ねたら、4万人の骨で装飾されていて、教会の後見役だったシュヴァルツェンベルク家の家紋が、一切加工されていない骨を組み合わせて作られていました。イタリアのローマには骸骨寺があるし、フランスのパリの地下には洞窟の壁がすべて骨で埋め尽くされたカタコンベがあります。感覚に近いところで脳の使われないアメリカ人なんかが見ると、『野蛮だ』と一言で済ませそうですけどね。伊勢神宮に観光で来た中国人の高級官僚も『日本人って、いまだにこんなことを本気で信じているんですか』って言ったそうですから、中国人も何も感じないかもしれない。
 ヨーロッパの墓で見た光景は、『死』という名状しがたいものをそのまま表現して、いつでも直面できるようにしているのではないでしょうか。言葉や概念にできない無意識の領域のヨーロッパ流の表現なのだと思います。
 さて、『日本の脳の使い方』を相性が悪い『グローバル化』のなかで、保存するにはどうすればいいのか。2通りの考え方があると思います。『日本の脳の使い方』の弱点である抽象化、概念化する『脳の使い方』を習得して、弱点を補うか。長所である『違い』に敏感な感覚的な『脳の使い方』をさらに伸ばすか。
 まず最優先にするべきは、感覚的な『脳の使い方』を大切にすることだと私は思います。なぜなら、『日本の脳の使い方』は、感覚的な脳の使い方の大きな土台に抽象化、概念化する『脳の使い方』がちょこんと乗っているような作りになっているからです。つまり、感覚的な『脳の使い方』が衰えたら、抽象化、概念化する脳の働きも一緒になくなってしまうでしょう。しかし、今、日本人の感覚的な『脳の使い方』はだいぶ衰えてしまいました。伸ばすどころか、急いで回復する必要があります。
 最近、気になるニュースを聞きました。横浜市の独身世帯の割合が全世帯の4割になったそうです。これは危ない。なぜなら、独身生活では、感覚的な『脳の使い方』は衰えてしまうからです。朝起きて、今日は奥さんの機嫌が悪いなとか、どこか子供の様子がヘンだと察するような暮しでないと、脳は感覚に近いところで働きません。家のなかに、自分の思うようにならない他人がいるのが、大切なのです。テレビやコンピューターばかり見ていたら、抽象化、概念化する脳が勝って、おかしなことになるのは目に見えています。
 ヘイトスピーチの問題の根っこには、そのような環境があると思います。思うようにならない自然や他人が目の前にいない上にネットばかり見ていたら、言葉が乱暴になりますよ。
 日本人の脳は、自然や他人と相対していないと、うまく機能しなくなってしまうはずです。……
 『なるようになる』はどこから来たのか
 ところで、なぜ日本人は感覚に近いところで脳を使うようになったでしょうか。それには、日本の風土が大きく関わっていると思います。
 日本は火山が多く、地震も多いし、台風も必ずやって来ます。また国土の7割が山林で、人間が思うようにできる土地が西欧諸国に比べれば、非常に少ない。四季もある。つまり、自然災害が多く、自然の変化が激しい。また、稲作は非常にデリケートな農法ですから、自然からの恵みを受け取るにも、絶えざる気配りや『手入れ』が必要です。ヨーロッパ人にとっては、自然はもっとも扱いやすいものだから、『手入れ』ではなくて、コントロールしようとします。でも、日本では自然をしっかり観察して、その微細な変化を把握しなければ、命に関わる。そのため、感覚的な『脳の使い方』になって言ったのでしょう。世界的に見て、日本人が自然科学の分野で秀でているのは、そのためだと思います。科学というと概念化、抽象化の極みのように思われがちですが、出発点は目の前の複雑な現実です。現象を単純に言葉や概念で割り切らずに丁寧に観察するのが、『科学的態度』の始まりです。
 また、天災が起きてしまったら、人災と違って、誰も恨めないから、そこから、『仕方がない』という諦念が生まれました。
 その一方、火山があるから、新しい豊かな土地ができやすい、雨が多いから、ほっておいても、どんどん木や草が生えてくる。『古事記』や『日本書紀』でいちばんよく使われている言葉は『なる』だそうです。自然が豊かだから、『なるようになる』『おのずからなる』という状況依存的な場当たり的な考え方もそこから出てきています。 
 塀に乗れ
 とにかく今の日本人を見ていて、心配なのは、感覚的に脳を使って、現実を把握する力が失われつつあるのではないか、ということです。明治維新を経ても、それが失われていなかったからこそ、『和魂洋才』ができた。はたして今、それができるか。
 そのためには、やはり自分がどのような『脳の使い方』をしているか正確に認識することです。自分を知り、自画像を描くということです。
 でも、日本は『世間』があるために、外から自分を眺めるのが下手です。同じ『世間』のなかにいる『身内』の目は非常に気にするのですが、『世間』の外から自分たちを見るのが不得意なのです。『日本人の壁』があるとすれば、それは、自分たちが属する『ウチの会社』『ウチの学校』『ウチの組織』『ウチのイエ』の周りに張り巡らされた『塀』です。
 私は昭和12年11月11日生まれなのですが、あるとき、学生が誕生日にその日の新聞のコピーをくれました。それを見て、驚きました。裏表2ページしかないのですが、全部、中国での戦闘記事でした。盧溝橋事件で日中戦争が始まって4ヶ月後ですが、火事も喧嘩も殺人もない。これが後世言うところの『日本軍国主義』か、と合点がいきました。つまり、ただいま現在この状況で、中国での戦闘すなわち『軍事』以外に重要なものはない、というメタメッセージが発せられている。これでは目も曇ります。でも、戦後も同じようなことをやっていたのではないでしょうか、『軍事』に代わったのは、『経済』です。
 日本は資源がないから、加工貿易をして、お金を稼がなくてはならない。だから、上場会社の製造業に元気がなくてはならない。日本経済全体がダメになり、日本も沈没する。長らくそんなふうに言われてきました。
 でも、最近、冨山和彦さんが書いた『なぜローカル経済から日本は蘇るのか』という本を読んだら、今や上場企業の経済活動が日本のGDPに占める割合は3割ぢらいで、輸出がGDPに占める割合に至っては、2割を切っているそうです。今までだまされていたんじゃないかという気になりました。軍事、経済と来て、今はどうしたらいいかわからない、と言ってるけど、その方がまともです。
 自分を見る目を曇らせないためには、自分のアンテナを研ぎ澄ませて、なるべく外から自分を眺めることも大切ですが、外国人とインテリの言うことに耳を傾けるといいと思います。岡目八目といいますけど、彼らは『世間』の塀の上に乗って、外から日本を見る視点を与えてくれます。
 ゴールドマン・サックスをやめて、小西美術工藝社という日本の伝統文化財の修復の会社の社長をやっている、デイヴィッド・アトキンソンという人がいます。色々な改革をしています。たとえば、今まで修復で使う漆は中国産を使っていたのを、日本産にするために漆の木を植えさせるところから始めた。また、職人が高齢化しているから、若い人を入れようと思ったら、人を増やしたら赤字だと言われた。そこで、年寄りの職人に『若い人を入れたいのだが、そのためには、あなたたちの内から何人かリストラするか、給料を下げるしかない。自分たちでどうするか決めてくれ』と頼んだら、最高で75%も年俸を返上する人がいたそうです。だから、その職人に若い人を2人つけた。そうすると、非常にうまくいった。じいさんと孫だから。 
 アトキンソンは日本の社会のいちばんの難点は、『めんどくさい』だと言います。変えるべきところは変えなければ、とわかっているけど、変えるのが『めんどくさい』。でも、外国人から丁寧に説明されると、重い腰を上げる。『本当にやるんですか?めんどくさいことになりますよ』と、あなたもよく言いませんか。
 外国人やインテリの助けも借りて、自分のことがわかれば、おのずと『日本の脳の使い方』をどのように保存すればいいのかがわかってくるでしょう。得意なことを極めて、不得意なことは外国人に任せればいい。
 イタリアに『どん底に落ちたら、掘れ』という、私が大好きなことわざがあります。日本人は『どん底にいったら、あとは上がる一方』とてっぺんに上がることばかり考えていますが、まずは今、自分がやっていることを徹底的に極めて足元を固めるのがいいのではないでしょうか。それが普遍性につながっていくと思います」
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 老子「道は常の道に非ず」
 物事全ては絶えず変化して、常に古いモノは壊れ新しいモノが生まれてくる。
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 日本列島は、小さく狭いオンボロ船であった。
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 日本武道の極意は、お互いが睨み合う緊迫した中では「先に動いた方が負ける」であった。 
 日本武道の試合に於いて、自信のない方が恐怖にかられて先に動く事が多い。
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 アントノフスキーは、SOC(首尾一貫感覚)を提唱した。
 SOCとは、自分の内的そそて外的な環境は予測可能なのであり、しかも物事は無理ない様に見込まれるし、上手くいく高い見込みがあるという様な自信、特に、浸透的かつ持続的で、動的でもあるような自信の程度を表現する包括的な方向性の事である。
 どんな状態に追い込まれても、「まあ何とかなるだろう」という漠然とした安心感と、その時はその時で「何とかすればいい」という楽天的な自信、そうした前向きな感覚による姿勢。
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 日本脳と大陸脳は異なり、日本人が自慢する事が必ず同様な意味で理解されるとは限らないし、その逆に嫌われ敵意の的になる事の方がむしろ多い。
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 日本脳は、悲観的で、小心で、気弱で、弱虫の脳である。
 その怖さから逃げる為に中途半端な事ができず、少しでも多くのマイナス要素をなくす為に乏しい知識を捻り、やれる限りの無駄な努力を恥も外聞もなくみっともなく行う。
 生きるか死ぬかの自然災害多発地帯と大火が絶えない木と紙の街並みで、無駄な労力を省く為にさり気なく身を引く「配慮」や「気配り」はあっても、やるべき事をやりたくないが為の「馴れ合い」や「妥協」などできるわけがなかった。
 日本脳を支配するのは、その場の「空気」である。
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 日本脳は、適度に褒めておだてると有頂天となって思わぬ力を発揮するが、過度に褒めて煽てると傲慢となり思考停止してって無能になる。
 日本人は、褒め殺しに弱い。
 褒めれば褒めるほど、日本人は馬鹿になる。
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 日本人は、病的なほど神経質で、必要以上に心配し、物事の細かい所まで気に病む。
 安心する為に、物事を様々な角度から眺め、思いつく事は全て考え、手の届くと事は全て触らないと、納得できず、落ち着かず、気が休まらない。
 ロバート・エプスタイン「知性と不安感の負の相関関係について1つ言えるのは、人は不安だと物事を明確に考える事ができないということだ」
 知性が高く賢い人は、不安感は少ないと言われている。
 日本脳は、世界の大陸脳に比べて、過度の不安感を持つだけに知能指数は低く常識がないと言われている。
 日本人は、人一倍、臆病であり、恐がりである。
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 本心を隠して表現するという日本語の曖昧さや微妙なニュアンスは、言葉を正確に翻訳して言語化する西洋言語には馴染まない。
 西洋語を日本語の文字化する事は容易いが、日本語を西洋語の文字化する事は難しい。
 ある意味、日本語は全く異なる言語と文化を柔軟性に受け入れられるが、西洋語は唯一絶対価値観の文化と言語でやや硬直化している。
 もし日本人が、自分の考えや思いを西洋人に伝えたいと思うなら、思考から言語・文字化まで日本語ではなく西洋語を用いるべきである。
 日本人の発言が誤解をまねくのは、日本語で考えて説明しようとするからである。
 その点。中国語や韓国語・朝鮮語は、感情をストレートに爆発できる事ができるだけに日本語よりも世界に通用しやすい。
 日本人が、ローカル言語の日本語と民族的言語文化に後生大事に守り続ければ、グローバル化する国際社会では不利である。
 もし。本気でグローバルで生きたければ、世界で通用しないローカルを完全に切り捨てるべきである。
 日本人は日本国語を話し、イギリス人は英語国語を話し、フランス人はフランス語国語を話す。
 外国人は日本語を話し、日本人は英語やフランス語を話す。
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 自然災害多発地帯の日本においては、孤独に耐え、孤独を抱きしめ、臨機応変、機転を利かし、思い定めたら何も考えず必死にならなければ生きていけない。


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 2015年3月号 ワック出版 『歴史通』「日本中のあちこちに揺らぎが生じている
古田博司 
 『敗者の美学』に揺らぎ
 昨2014年の年末には、ついにテレビ局が一局も忠臣蔵を制作したり、その旧作を放映したりしなくなった。これは意外に大きなことで、日本人が『敗者の美学』を一定拒むようになったのかもしれない。ここでいう敗者の美学とは、名誉のために死を選ぶという、これまでお馴染みだった日本人の美意識のことだ。……敗者の美学から別なものが派生する傾向があるくらいに構えておいた方がおいのかもしれない。
 ……
 イノベーションのほうは、もっと劇的に変わるのだろう。ある時ある人の着想により、既存のものに揺らぎが生じ、あっという間に前のものに取って代わることといえるだろうか。
 ……
 揺らぎとイノベーション
揺らぎやイノベーションがなぜ起こるかと言えば、たぶん『飽き』が契機なのだと思う。ショーペンハウァーは『人間は不満と退屈を繰り返す』というようなことを言っている。不満だと満足しようと躍起になり、満足してしまうと飽きがくる。だから、不満と退屈を反復するだけだというわけである。困窮すると働き、満足すると退屈するのだとも言い、人生を『独楽(こま)の運動と笞』(『意志と表象といての世界』続編Ⅱ)に比している。嫌な人だ。
 でも、退屈を続けているわけにはいかないから、飽きがきわまると急に何とかしようと思う、これが或る事象について世間的に起きていることに或る人が気づいたとき、それがイノベーションの契機になるのだろう。」
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 日本人の思考は、戦術に適しているが、戦略には適していない。
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 日本列島とは、自然災害多発地帯の中で木の葉のように翻弄される、小さく狭い一つの船である。
 逃げ場も、隠れる場所もない、閉鎖された空間である。
 今にも沈みそうなボロ船の日本列島を嫌って、中国や朝鮮に逃げ出した日本人は戦前までいなかった。
 日本民族日本人は、日本列島に住み着き、自然災害多発地帯で如何にして生き残るかを考え、多様性ある柔軟な価値観を思い付き、臨機応変の融通無碍的曖昧模糊としたとらえ何処のない八方美人的性格を編み出した。
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 日本民族日本人は、絶え間なく襲い来る数多くの自然災害に対して、如何に身を守り生き残るかという知恵を搾ってきた。
 そして世界の非常識としての脳の使い方と生き方を身に付けが、世界の常識を受け容れるべきだと非難を浴びている。
 自然災害は、現在進行形として災害現場で起きており、時々刻々と思わない最悪な事態へと変化を遂げる為、対応は一刻の猶予もなく即断し実行しなければ思わぬ大惨事をもたらす。
 自然災害多発地帯の人間は、好きな専門だけをこなして嫌いな事は関心を持たないでは済まされず、オールマイティー的に全てに対する対応が要求される。
 日本は、自然災害多発地帯にある島国であり、大陸との海峡幅は他国からの救援を当てにできないほどに離れている。
 日本とは、閉鎖された孤独な存在である。 
 トップダウンが通用するのは、現場が現地ではなく、後方にある中央指令室の机の上に広げられた地図上で行われいる時だけである。
 トップダウンで動いているのは、他のセクションを知らないプロフェッショナル集団である。
 トップダウンとは、絶対権限を持った一人の指導者が独裁的に組織を動かす事である。
 ナポレオンが、トップダウンの好例である。
 ボトムアップのリーダーは、調整型で独善型は通用しない。
 なすべき事が分からず唖然・茫然として調整を取らず被害を拡大させた好例が、阪神・淡路大震災であった。
 冷静な判断ができず調整を取らず発狂的に暴走して被害を拡大させた好例が、東日本大震災福島第一原子力発電所事故である。
 ボトムアップの自然災害とトップダウンの戦争・紛争・暴動における危機対応リーダーとでは、脳の使い方は全く異なる。
 日本人などの島国人は前者であり、西洋人、中国人、韓国人などの大陸人は後者である。
 現代日本人は、自分の好む思い込みが絶対に正しいと盲信してしまい、その違いが理解できなくなっている。
 だから。日本の常識は、世界の非常識である。
 西洋人は、中国人や韓国人を理解して親しみを持つが、日本人は理解できず敬遠したがる。
 欧米諸国が、親中国となって反日になるのは当然の事である。
 自然が相手の災害は全く予想不能であるが、人が相手の戦争・紛争・暴動は大方予想が付く。
 孫子にしても、マキャベリにしても、相手は予測可能な人間が相手であって、予測不可能な自然が相手ではない。
 天才は、トップダウンで生まれるが、ボトムアップでは生まれない。
 揺るぎない絶対的真理を説く教組や教典・聖典や戒律・律法は、戦争や限られた自然災害で生まれてくるが、数多くの自然災害が同時多発的に発生する環境では生まれてこない。
 宗教・信仰においても、日本は世界の非常識である。
 日本人が大陸人に幾ら事情を説明し、分かって貰おうと膝を突き合わせて情熱を持って話し合っても、全てが徒労に終わって理解されないのは当たり前の事である。
 最大のキーワードが。自然災害多発地帯で、逃げたり、立ち向かったり、やり過ごしたり、その時々の状況に応じて必死な思いで生きてきたかどうかである。
 日本人の思考と行動は、本来戦争には向いていない。
 事実。日本の歴史は、世界の歴史はもちろん中国の歴史と比べても戦争や殺し合いは少ない。
 日本人にとっての最大の脅威は、どうにかなる人と人の殺し合いという戦争ではなく、どうにもならない自然災害である。
 馬鹿らしくつまらない戦争を長々と続けている暇があったら、自然災害による被害を如何に最小限に食い止めるかであった。
 その為に編み出されたのが、揉め事を素速く曖昧に処理するという、万世一系の男系(直系長子相続)天皇制度である。
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 自然災害多発地帯では、善い行いをして皆から好かれていた好人物が救われるとは限らず、死ぬ事もあった。
 その逆に、悪行を働く犯罪者が助かる事も有り得た。
 幾ら頑張っても、ダメな時は駄目であった。
 やればできる事もあるが、やってもできない時もある。
 生きるも死ぬも、助かるも助からないのも、全てが運不運であった。
 だが。日本人は、敗北主義者でもなく、運命論者ではなく、元気を出してできる限りの事、やれる事は何でもやった。


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戦略思考ができない日本人 (ちくま新書)

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心身自律神経バランス学―体内1/fゆらぎ様現象検出

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  • 出版社/メーカー: 真興交易医書出版部
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