🌋2〕─1─弥生時代。弥生人は、縄文人の古モンゴロイドと渡来人の新モンゴロイドが雑婚した混血雑種民族・倭人である。3000年前。~No.2No.3No.4 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 倭人は、日本人の祖先ではあったが、厳密にいつて100%日本人とは言えなかった。
 日本人は、純血種ではなく、在来種と外来種の混血・雑種である。
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 勢いと偶然と幸運(判断を誤っても上手くいった)。
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 2019年3月3日 msnニュース 毎日新聞弥生人、母系は渡来系、父系は縄文系か DNA分析で判明
 © 毎日新聞 青谷上寺地遺跡のDNA分析について報告する篠田謙一・国立科学博物館副館長=鳥取市尚徳町のとりぎん文化会館で2019年3月2日午後1時17分、園部仁史撮影
 国史跡・青谷上寺地(かみじち)遺跡(鳥取市)で出土した弥生時代の大量の人骨=2世紀ごろ=のDNA分析の中間報告会が2日、同市のとりぎん文化会館であった。国立科学博物館の篠田謙一副館長が、まだ途中段階で不確かだと断った上で「(人骨の)父系の遺伝子は縄文系に近いグループ」に多くが位置付けられると説明した。父系の遺伝情報が分かる「核ゲノム」分析の成果。
 全国初となる弥生時代の人骨の本格的なDNA分析だけに、約430人が興味深そうに耳を傾けた。昨年11月の初回の報告会では、母系の遺伝情報が分かる「ミトコンドリアDNA」の分析により、人骨の大半は朝鮮半島や中国大陸などからの“渡来系”が多いとされていた。
 当時の青谷地域では多様な遺伝グループが存在したと考えられ、日本人の起源の分析につながる可能性もあるという。今後はDNA分析を進めて各個体の特徴を調べる方針。【園部仁史】」
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 古朝鮮時代、倭人は先住民として南部朝鮮に住んでいた。
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 司馬遼太郎「我々が持続してきた文化というのは弥生式時代に出発して室町で開花し、江戸期で固定して、明治後、崩壊をつづけ、昭和40年前後にほぼ滅びた」(『街道をゆく』)
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 日本人は、単一民族でなければ、純血種でもはない。
 二重まぶたは古モンゴロイドに多く、東南アジアや太平洋島嶼に生活していた。
 縄文人も、二重まぶたであった。
 一重まぶたは新モンゴトイドに多く、大陸で生活していた。
 弥生人も、一重まぶたであった。
 日本には、一重まぶたと二重まぶたが混在していた。
・縄文顔と弥生顔の違い
顔の特徴|縄文系     |弥生系
・顔形 |四角・長方形  |丸い・楕円形
・彫り |立体的     |平坦
・眉  |太い・濃い・直線|細い・薄い・半円
・髭  |濃い・多い   |薄い・少ない
・まぶた|二重      |一重
・頬骨 |小さい     |大きい
・耳たぶ|大きい・福耳  |小さい・貧乏耳
・鼻  |広い・高い   |狭い・低い
・唇  |厚い      |薄い
・歯  |小さい     |大きい
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 阪本要一「欧米人と比べて、日本人はエネルギーを少しでもたくさん脂肪として蓄えようとする『倹約遺伝子』を高頻度に持っているとされています。氷河期に、ユーラシア大陸から日本列島へ辿り着いた人々が草木の根を食べて生き抜いてこられた一因とされる遺伝子で、いわば現代人は飢餓に耐え抜いたエリートですが、結果として食の欧米化の影響で内臓脂肪を多く蓄えることとなった。ですから、肥満が招く三大疾患、糖尿病・高血圧・脂質異常症高脂血症)を発症する可能性が高い傾向にあります」
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 竹中久美子「男性にも女性にも人気があったような西郷(隆盛)さんは、オスとして優秀だったでしょう。
 肖像画を見ても、縄文系の顔で、非常に凜々しく、目が大きい。日本人は縄文系と渡来系のミックスですが、概ね渡来系は新モンゴロイド、縄文系は古モンゴロイドに分かれます。新モンゴロイドは氷河期時代、シベリアで一番寒い土地にいました。瞼(まぶた)が分厚いなど、寒さに適応した顔形をしています。
 一方、縄文系はそうではありません。氷河期時代でもそれほど寒い土地にすんでいなかった。この両者の淘汰の歴史が長く続いており、縄文系のように病原体が蔓延している土地では、病原体に強く、免疫力の高いオスを求めないと、子孫がすぐに死んでしまうため、女は厳しく男性を選びました。音楽ができる、スポーツができる、見た目のかっこよさの要素で選んできました。
 まさにアフリカ系の人間は、音楽やスポーツに秀でていますが、古来、アフリカの土地は病原体が蔓延していたからだと言えます。女性は誠実さや真面目さ、子供をよく世話することを求めるよりも、いい精子が欲しいという一心で、選びに選んできたから、アフリカ男性は進化を遂げてきたのです。
 ……
 日本人で言うと、縄文系がアフリカ系に近い流れがあります。縄文系の子孫は格好いい子孫が多く、主に九州地方にいる。近畿や中部は渡来系が多いので、美男美女が少ない。
 ……
 熊本、鹿児島などの南九州には、『あなたは本当に純粋な日本人なのか?』と聞きたくなるような、西洋人に近い顔をした日本人がいます。」
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 国家とは、地図の上に国境をひいて始めて誕生する。
 国の地図を持たない所に、国家は存在しない。
 この時代の日本人は日本人ではなく、日本列島という地域に住んでいる有色人種の無民族的人間に過ぎない。
 縄文人は、日本人ではない。
 弥生人も、同様に日本人ではない。
 さらに、倭人も日本人ではない。
 単なる、人である。
 彼らは、偉大でもないし、有能でもない、そして特別でも何でもない、唯の人に過ぎない。
 縄文人弥生人倭人は、日本人ではない。
 大和人はもちろん出雲人も、越の人も蝦夷も、隼人も筑紫の民も、古代人は日本人ではない。
 何故なら、彼らは日本人という自覚が無かったからで有る。
 自分が日本人と自覚した時、始めて日本人といえる。
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 桜は、化石として日本国内で発見され、太古の昔に寒冷の厳しい朝鮮半島では自生できなかった。
 韓国国立山林学院は、科学的調査を基にして桜の起源は韓半島にあり、ワシントンのDCのソメイヨシノを日本の桜と呼ぶのは間違いであると発言した。
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 読売新聞(2012年11月1日)「北海道のアイヌ民族は地理的な近い関東よりも、沖縄の人たちと遺伝子的に近いことがDNA解析から証明されたとする研究成果を、東京大学や国立遺伝子学研究所などで作る『日本列島人類集団遺伝学コンソーシアム』がまとめた。北海道と沖縄では、日本列島に古くから住んでいた縄文人と渡来の弥生人の混血が一部にとどまり、縄文系の人々が残ったとする『二重構造説』を裏付ける成果という。」
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 片山一道「たかだか1500年くらいの間に本州の一部で起こった、とるにたらないほどに短い歴史が、あたかも日本の全史であるがごとき、そんな錯覚さえ与えかねないのが、実は『日本史』なのである」(『骨が語る日本人の歴史』)
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 二重構造説…日本人の起源について、東大名誉教授の埴原和郎さんが1990年に提唱した仮説。
 日本列島には、1万数千年前には彫りの深い顔立ちの縄文人が住みつき、約3000年前以降に大陸から弥生人が渡来したとされる。本州、九州などでは混血が進む一方、日本列島の南北の端には縄文系の子孫が残り、混血は一部にとどまったとする。
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 紀元前2000年頃 鉄器は、西アジアアナトリア半島で発明され、ヒッタイト人が技術を独占した。
 ヒッタイト人は、鉄の武器を使って青銅器の武器を使う周辺諸国を攻撃し征服し強大な国家を建設した。
 紀元前1200年頃 気候変動で地球が寒冷化した為に、地球規模で、食料を求めた大規模な民族移動が起きた。
 ヒッタイトギリシャのミケーネなどの国々が滅亡した。製鉄など高度な技術を持った人々は難民となり食べ物を求めて世界中に散っていった。
 紀元前5世紀頃 日本最古の鉄器。愛媛県大久保遺跡から中国作られた鉄斧が出土した。
 紀元前3〜1世紀頃 日本に製鉄技術が導入された。原料は朝鮮半島南部で産出された鉄鉱石を輸入していた。
 国産鉄鉱石が使われ始めたのは、5〜6世紀の古墳時代であった。
 鉄鉱石が、国産化できた事によって日本は朝鮮半島南部を必要としなくなり、倭人居住地帯は縮小していった。 
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 3000年頃 稲作は、山東半島に到達し、朝鮮半島南部に1100年頃に到達した。
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 東南アジア方面から中国大陸の沿岸部に沿って北上してきたスンダランド系海洋民は、揚子江河口に定住し、稲作を行う地元民と共同生活をして稲作を覚えた。
 スンダランド系海洋民は、半農半漁の生活をしていた。
 黄河流域で勢力を拡大して来た北方系漢族は、揚子江河口地域に済む南系海洋民を軽蔑して「倭人」と呼んで差別した。
 中国とは、海洋とは縁もゆかりもない、黄河流域の北方系大陸人が支配する大陸国であった。
 3000年前頃 稲作を持ったスンダランド系海洋民は、生活の拠点を移動させ始めた。
 大陸沿岸沿いに北上して山東半島から黄海を渡って朝鮮半島の西部に上陸して一部が定住し、別の部族が半島西側の沿岸部を南下して対馬に渡り、そこから北九州に到達した。
 対馬は、弥生文化を持った倭人が最初に上陸した日本の土地であった。
 2900年前頃 北九州に住んでいた縄文人達は、スンダランド系海洋民から稲作を学び、覚えた稲栽培を日本全国に拡げて行った。
 稲作によって不安定だった食糧が安定確保され、木の実を採取し魚を捕っていた縄文人の生活は一変し、自然に支配されていた単調な日本の社会や文化に大変革をもたらした。
 倭人とは、縄文人でも、朝鮮人でも、漢族でもなく、スンダランド系海洋民の事である。
 縄文系海洋民とスンダランド系海洋民は、別系統の南方系海洋民である。
 倭族は、先住民の縄文系海洋民と新参者のスンダランド系海洋民が雑居し雑婚の末に和合して生まれた混血種族である。
 天孫降臨神話における「稲の神勅」は、こうして誕生した。
 宮本常一倭人の植民地の拡大」
 稲作技術において、日本人は韓国人・朝鮮人に感謝する必要な全くない。
 朝鮮半島南部を支配した倭人と日本の倭人は同族であるが、朝鮮半島の大陸系先住民と倭人とは別種族である。
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 2500年前 沖縄の大安山原(はんざんはら)B遺跡から、大洞A1式という、縄文晩期後半を中心に北海道南部の亀ヶ岡文化の土器片や東北の土器が出土した。
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 弥生系海洋民は、高度な政治制度、文化、技術で優位に立っていたが、縄文系海洋民の自然・気候風土に根ざした宗教や生活習慣を覆すほどの力がなかった。
 少数派の弥生系海洋民が持つ政治制度と多数派の縄文系海洋民が持つ宗教儀式は、反発し合うのではなく、相手に配慮し、お互いに違いを認めて一歩下がって領域・神域を定め、相互に相手の領分を侵さず共存するという、日本独自の和合の智恵が生まれた。
 日本の「和の智恵」とは、不毛な争いや根絶やしの戦いを回避する平和的な政教分離であった。
 同じ土地に住む限り、人間として感情にまかせて言い争って喧嘩をしても、仲間として相手を否定や拒絶せず受け容れて共に生きるという事である。
 それが、自然災害多発地帯で生きる為の最低限守るべき掟であった。
 日本の智恵とは、絶えず襲い来る様々な自然災害に対してどう仲間と共に生きるかの智恵であった。
 新参者の弥生系海洋民は、その智恵を長年住んでいた縄文系海洋民から学ぶ必要があった。 
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 2000年前 稲栽培を持った弥生人が、大和盆地に移り住み、狩猟の縄文人と共生して混血した。
 南方系海洋民の神奈備山信仰を受け入れ、田畑に豊かな実りをもたらす山と森の神として出雲系大物主神三輪山に祀った。
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 バイカル湖半に住んでいた草原の民は、黄河流域や朝鮮半島に大挙して移住し、その一部が半島南部で海洋民と雑居し雑婚して同化していった。
 同化した混血児が、弥生人として日本列島に渡来した。
 弥生人縄文人が雑婚して倭人となった。
 倭人は、日本列島と朝鮮半島南部に棲みついた。 
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 2000年前 中国東北地方・朝鮮半島北部の扶余で生活していた内陸系草原の民が、海洋民系縄文人が住む温暖で豊かな朝鮮半島南部へと移動し定住した。
 これ以降の遺跡からは、大陸の影響を受けた遺物が多く出土する。
 草原の民が、現代の韓国人・朝鮮人の直接の祖先である。
 草原の民の集団は、生きる為に獲物や狩り場をめぐって絶えず他の集団と争う弱肉強食の原理で生きる猛者集団であった。
 草原の民と海洋の民では、考え方や生き方、生活全般に於いて全く異なっていた。
 草原の民の数が少ないうちは、両者は争う事なく雑居し雑婚し同化した。
 草原の民の数が増えるや、混血児・縄文人達を圧倒し生活圏を奪い始めた。
 漁労・採取で自由に生きる混血児・縄文人には、実力と能力で戦って生きる草原の民との生存競争には勝てず、草原の民の居住空間から追い出される様にして半島南端まで生活圏を後退させた。
 半島に住んでいた倭人とは、混血児・弥生人の子孫である。
 草原の民は、陸続きとして華北を通じて黄河文明の影響を強く受け始めた。
 その前後。揚子江流域に住んでいた別種の南方系海洋民と揚子江系混血児集団が、稲作技術を持って半島南西部に移住し、混血児・縄文人集団に加わり雑婚した。
 海洋民系縄文人と草原の民との混血にせよ、混血児・縄文人と南方系海洋民及び揚子江系混血児との混血も、平和裏に長い時間をかけてゆっくりと行われた。
 雑婚で誕生したのが混血児・弥生人であり、弥生人黄河文明ではなく揚子江文明の影響を受けていた。
 この混血児・弥生人が、日本列島に平和的にゆっくりと移動して、日本列島に長く住んでいた南方系海洋民の縄文人と時間をかけて混血し融合して倭人となった。
弥生時代中期。朝鮮半島南部勒(ろく)島に、混血児・弥生人が住んでいた証として人骨(勒島人)が発掘され、北九州文化圏の一部を証明する甕棺(かめかん)や弥生土器が数多く出土された。。
 篠田謙一(分子人類学者)「注目すべきは、朝鮮半島の人達の中にも縄文人と同じDNA配列を持つ人が、かなりいる事です」
 「DNAの相同検索の結果を見る限り、朝鮮半島にも古い時代から縄文人と同じDNAを持つ人が住んでいたと考える方が自然です。……縄文時代朝鮮半島の南部には日本の縄文人と同じ姿形をし、同じDNAを持つ人々が住んでいたのではないでしょうか」
 「DNA分析の結果を見ていると、少なくとも北部九州地方と朝鮮半島の南部は、同じ地域集団だったと考えたくなります」
 「ミトコンドリアDNAのハプログループ頻度が日本と朝鮮半島中国東北部でよく似ているに対し、Y染色体のそれは大きく違います。その原因はハプログループDの頻度にある事は明瞭です。日本の近隣集団では、ハプログループDをこれだけの高頻度で持っている集団はありません」(『日本人になった祖先たち』)
 (「ハプログループ」とは、亜型レベルでDNA配列が同じグループ、似たもの同士のグループの事)
 斉藤成也(遺伝学者)「日本列島ではかなりの頻度で存在しているが、その周辺ではほとんど見つからない遺伝子が存在する事は、3000年前以降という、人類進化の時間では最近に属する頃に、縄文時代の人々から弥生時代の人々に置換したという考えを否定するものだ。
 何故なら、置換を仮定すると、日本列島に特異なタイプは、置換した後に生じたと考えくてはならないからだ。しかし、これは殆ど不可能である。……
 結局、この突然変異は、もっとじっと古い時代、おそらく縄文時代かそれ以前に出現したと考えた方が良いのである」(『DNAから見た日本人』)
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 南方系海洋民の血を引く縄文人は、海から仰ぎ見る大蛇神が住むカンナビ(神名備、かむなび)の山を御神体として祀っていた。
 半島から新たに渡ってきた倭人系海洋民=弥生人は、海神の使いである海蛇神を強力な霊力を持った山神に嫁がせ和合させる神事で、縄文人との同化を図った。
 海の民と草原の民の混血児でる弥生人は、中華世界での生存競争に敗れて逃げるようにして日本列島に渡来した。
 我欲の強い混血児の渡来によって、縄文的空気で共存していた日本列島の平和は打ち壊され争いが起き始めた。
 日本(中心)神話・天孫降臨神話で言えば、聖から見れば「大国主命」であり、邪から見れば「八岐大蛇」である。
 天孫族系の須佐之男命は、生け贄として食べられそうになった奇稲田(クシナダ)姫を山の神・八岐大蛇を殺して妻とした。
 天孫族系の天照大神は、山の神・大国主命から国を譲り受け、祟りを恐れて最高神の一人として最古の神社である大神神社に祀った。
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 南方系海洋民の縄文人は、沖縄から台湾・揚子江を経て南への海上交通網を利用していた。
 倭人系海洋民の弥生人は、朝鮮半島南部から山東半島を経由して揚子江への海上交通網を利用していた。
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 南方系海洋民は、木を刳り貫いて造った船で沿岸沿いに移動し、船が入れる河川を見つけるや内陸を目指して遡上した。
 内陸部で湖を発見すれば、そこに定着した。
 日本における居住地域の拡大は、草原の民の様に足で山川を超えて広げたのではなく、船で海川から遡って広がっていった。
 その代表例が、諏訪湖周辺である。
 建国神話に於いても、諏訪湖は重要な役目を担っている。
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 倭人系海洋民は、北九州の博多から日本海沿岸を、出雲から越(新潟)へ、そして諏訪などの内陸部に生活圏を拡大し。別の流れが青森から北海道にまで移っていった。
 彼らは、出雲系の大国主命を信仰していた。
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 青銅製銅鐸は、弥生時代に稲作と共に出雲にもたらされ、出雲系宗教儀式を行った地域に運ばれた。
 銅鐸は、巨大な御神木の枝に吊るし、神・精霊を御神木の前の小さな祠(ほこら)か祭壇に降ろす時に鳴らして使った。
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 松帆銅鐸。
 銅鐸は吊るし、音を鳴らして使っていた。
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 銅鐸の絵は春の田植えから秋の収穫まででの水田・稲作風景であった。
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 銅鐸製作集団は、近畿式と東海式の二つにあった。
 それは、近畿と東海に異なる連合国家群が存在していた事をさす。
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 銅鐸時代後期には、銅鐸は政治の権威とされ巨大化して鳴らさなくなった。
 日本が1つの集合国家になる事によって、巨大化銅鐸製作も近畿式と東海式は統合された。
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 卑弥呼の時代、銅鐸は意図的に破壊され、忽然と消滅した。
 新たな政治の権威となったのは、銅鏡であった。 
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 紀元前10世紀頃 水田稲作が北九州地帯で始まり、徐々に西に広がったが諏訪地方の前で止まった。
 諏訪地方は、黒曜石を関東地方から中部地方など広い地域に輸出して豊かに栄えていた。
 水田稲作は東北地方に伝わり南下して、紀元前4年頃に諏訪地方に伝わり。 
 諏訪地方は最後まで縄文文化を守ったが、水田稲作を取り入れる事で、約1万年の縄文文化を捨てた。
 日本全体は弥生文化へと移行していったが、弥生は縄文を滅ぼすのではなく、弥生と縄文は融和し共生した。
 紀元前3〜1世紀前半 北陸から東北北部にまで稲作が広がった。
 日本には、朝鮮半島で行われていた低地を利用した「湿田稲作」ではなく、森林を切り開いて水路を掘る「乾田稲作」が長江流域から直接に入って来た。
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 弥生人は、生活の糧を、水田稲作による米を主食とし副食として狩猟採取を行っていた。
 水田稲作は、狩猟採取に比べて、一粒の稲から数十倍の米が収穫できた。
 狩猟採取は、人が自然界の奥に隠れている尊い主から霊力を持った命を授かる、受動的行為であった。
 水田稲作は、人が大地を開墾し自然に働きかける事でより多くの米を収穫する、能動的行為であった。
 弥生文化は、縄文文化を取り込んで発達した。
 縄文文化は、狩猟で殺した動物の命を尊き主に送り返す為に、その都度、生け贄や供え物を捧げる宗教儀式を執り行った。
 弥生文化は、農作業を始める前の春と収穫した後の秋の年二回、農耕儀礼を執り行った。
 春は、冬のあいだ動きを止めて死んだようになっていた田畑に、新たな霊力を授かり豊作となう様に。 
 秋は、霊力で多くの実りを得た事に感謝して、作物を捧げて盛大な祭りを行った。
 日本文化にける命とは、自然の奥に隠れた尊き主と人が霊力をやり取りする為の循環材である。
 命は死ぬ事で消え去るのではなく、死ぬ事で新たな霊力を運んでいた。
 命とは、霊力を運ぶという尊い使命を持った神器ゆえに大事にされた。
 日本神道の根本に、自然循環という、蘇り、生まれ変わりの考えが存在する。
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 北九州は、大陸伝来の先進文化が最初に上陸する中心地であり、大陸で生産された大量の鉄器が陸揚げされた重要な物流拠点であった。吉野ヶ里遺跡原の辻遺跡などから、必要材の鉄製品が出土した。
 銅鏡などの嗜好品や日本各地の土器などの生活用品が、ヤマト地方から出土した。
 奈良・桜井市の纏向(さかむく)遺跡からは、最古の前方後円墳と日本独自の大規模な建物跡が発掘された。
 日本の中心は、西の北九州・筑紫から東の近畿・奈良に移動した。
 ヤマト王家は、前方後円墳と祖先神・氏神崇拝の宗教儀式を各地の有力者に授けて支配下に組み込んでいった。
 古代世界において、宗教行事が全ての中心にあった。
 祖先神・氏神信仰は、日本独自の宗教であった。
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 北九州に水田稲作と鉄器を伝えた倭人達は、日本海沿岸を北上して、漁業ができる良港と農業ができる平地に棲みきクニを作っていった。
 縄文型階層社会に、倭人による大陸的弥生型階層社会が混合して新たな日本独自の階層社会が生まれた。
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 朝鮮半島最南端の住民と倭国の住民は、同族であった。
 倭国は、同族として、朝鮮半島最南端を間接支配していた。
 倭人が、朝鮮の住民と同族であれば、朝鮮を統一する権利がある。
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 西日本の遺跡から出土した装飾品のガラス玉は、南インドや東南アジアで生産されたガラス玉と判明した。
 縄文時代頃から日本は、海のシルクロードでローマやメソポタミアなどとつながっていた。
 朝鮮は、陸のシルクロードでローマやメソポタミアなどと直接つながっていた。
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 音楽や舞踊などの芸術が日本に伝来した。
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 ヒスイから作る勾玉は、コシ(越)からイズモ(出雲)に移り、デザインは胎児を象った縄文型から芸術的な弥生型に変わった。
 製作したのは渡来系職能集団で、初期は出雲系豪族に従ったが、後にヤマト王権に付きヤマト好みの勾玉を製作した。
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 大和民族は、大陸の騎馬民族とは縁もゆかりもない農耕民族である。
 当然。朝鮮人とも、縁は薄い。
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 島国日本には、東アジア(朝鮮半島・中国大陸)と東南アジア沿岸から、雑多な原始信仰が伝えられ、日本独自の宗教が生まれた。
 岡谷公二「古代には、ある共通した宗教性を持つ『同じ文化圏』が広がっていた可能性がある」
 「神社をアジアの信仰の一つの表れと捉える事で分かる事がある。アジアの人々との共感も深まっていくと思う」
 日本の宗教観や死生観は、日本を起源として忽然と生まれたわけではなく、広い範囲のアジアからもたらされて混ぜ合わさって形成された、人的に形成されたものにすぎない。
 稲作農業が普及するや、宗教観や世界観が三元論から二元論に変わり、社会組織も装分制となった。
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