🌋3〕─1・A─弥生時代の集落遺跡。鳥取・青谷上寺地遺跡。島根・白枝荒神遺跡。日本人の下戸遺伝子。弥生時代の人骨“渡来系”。~No.8 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2017年1月号 新潮45「『知能』と人種のやっかいな関係   橘玲
 格差の真の元凶を、誰も口にしないのは何故なのか? 新年初頭の『残酷すぎる真実』。
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 アメリカの混乱は、人種によって社会が分断されているからでも、リベラル(青いアメリカ)と保守(赤いアメリカ)で政治的価値観が二極化しているからでもない。真の問題は、知能の格差によってニューリッチ(新上流階級)とニュープア(新下級階級)に社会が分断されつつあることだ。
 知識社会化が急速に進むアメリカでは、かつてはゆたかさを享受していたブルーカラーの白人たちが中流から脱落しつつある。彼らの下には、知識社会化に適応困難な貧しい黒人たちがいる。この重層的な『知能格差』の現実を前にして、保守かリベラルかにかかわらず、あらゆる政治的言語(きれいごと、ともいう)が機能不全を起こしているのだ。
 知能の格差の最大の特徴は、解決がきわめて困難なことだ。親の説教で子どもの学力が伸びるなら誰も苦労しないだろう。同様に、知能を高める魔法の薬がないかぎり、この問題に対して政府にできることはほとんどない。
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 ユダヤ人と華僑
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 社会のいたるところでユダヤ人が活躍しているのは、たんに彼らの知能が高いからだ。ユダヤ人が優秀なのは、(おそらくは)ヨーロッパ社会のはげしい差別のなかで職業を金融業に限定されたために、知能の高い(計算の速い)子どもしか生き延びることができなかったからだろう。ヒトラー優生学に傾倒したが、遺伝と進化の関係を根本的に誤解していたのだ。
 タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピンなど東南アジア諸国はどこも華僑財閥が経済を支配している。マレーシアでは『ブミプトラ(土地の子)』という露骨なマレー人優遇策が行われ、インドネシアでは反華僑や虐殺も起きた。華僑は『闇のネットワーク』で権力とつながり、不正をほしいままにして批判されている。
 だがこれも、中国系の知能・学力の高さによって説明できる。もとを辿れば、華僑は福建省広東省の貧農や、中国のなかできびしい差別にさらされてきた客家の子孫で、(科挙に合格して)士大夫を頂点とする中国の知識社会の最底辺に位置していた。そんな極貧の子どもであっても、海外に移住すれば知能の優位性によって、短期間に経済的に成功することができたのだ。
 だが東アジアのなかで、その華僑が経済を支配できなかった非中華圏が二つある、それは朝鮮半島と日本だ(ベトナムも含まれるかもしれない)。
 これまで歴史学は、『日本にはなぜ華僑財閥がないのか?』という問いを考えたことがなかった。だが華僑に『闇のネットワーク』があるのなら、地理的にも文化的にも近接した日本こそ真っ先に経済侵略の標的になるのではなかろうか。
 その答えはもうおわかりと思うが、中国人と日本人(および朝鮮人)の知能が同じだからだ。華僑は知的優位性のある地域でしか財閥をつくることができず、彼らの成功を説明するに『陰謀』など必要ないのだ。
 このように、『人種による知能の格差』を受け入れることは、いかがわしい陰謀史観を駆逐する強力な効果がある。
 日本人の知能はなぜ、中国人と同レベルなのか。その答えはものすごく単純で、中国人、日本人、朝鮮人はもともと同じ『血統』だからだ。
 近年の遺伝子学や分子生物学の急速な進歩によって、DNAの解析からヒトの出自や系譜をかなり正確に推定できるようになった。それによれば、日本人の祖先は2〜3万年前にユーラシア大陸からサハリン経由で北海道に渡ってきた。彼らは温暖な気候を求めて日本列島を南下し、関東や東海地方に後期石器時代の多くの遺跡を残し、1万5000年前に縄文時代新石器時代)が始まった。
 一方、長江(揚子江)流域では紀元前1万4000年頃に稲作が始まり、紀元前6000年頃には独自の文明が興った。彼らは鉄器と稲作技術を持って周辺に広がり、紀元前700年頃までに山東半島から朝鮮半島南部に渡ったと思われる。
 当時の中国は春秋戦国時代の混乱期で、人口稠密地帯だった黄河流域の中原は荒れ果て、(現在のシリア同様)ひとびとは逃げ惑った。こうして発生した難民の一部は鴨緑江を越えて朝鮮半島に侵入し、それによって先住民の大移動を引き起こした。そして朝鮮半島南端に住んでいた人々が、北からの人口圧力に押し出されるように対馬海峡を渡って九州北部に殺到することになる。これが『弥生人の渡来』とされる出来事で、日本人のもうひとつの祖先は中国の混乱に端を発した難民の群れだった。
 『下戸遺伝子』
 DNA分析によって新たにわかった興味深い事実は、黄河流域の中国北部と、長江から東南アジアにかけての中国南部では、同じ『中国人』でも遺伝子の型がちがうことだ。これは中国南部の人々が、もともとは東南アジアを起源とする異なる人種で、彼らが漢字と儒教を受け入れることで中華文明に同化したことを示している。広東語や福建語、上海語は普通語(北京語)の方言ではなく、文法からまったく異なるが、これは中原から南へと文化が伝播・変容したのではなく、南に住む異民族が漢字を受け入れながらも、自分たちの言葉を手放さなかったからだ。
 日本列島には彼らのDNAが伝わっていることは、『下戸遺伝子』の分布から確認できる。
 体質的にアルコールをまったく受けつけないひとは『下戸』と呼ばれ、日本では珍しくないが、じつはヨーロッパやアフリカ、アメリカ大陸にはほとんどいない。これは医学的には、遺伝的変異によってアセトアルデヒドを酢酸に分解できないからだが、この変異型には顕著な地域差がある。
 これが『下戸遺伝子』で、中国南部に多く、これから離れるにつれて保有率が下がっていく。北京では宴会で度数の強い白酒を一気飲みし、南に下がるに従って度数の低い紹興酒が好まれるようになるが、これは文化的なちがいというよりアルコールに対する遺伝的な耐性によってもたらされたものだ。
 下戸遺伝子の保有率は中国南部の23.1パーセントに対し、北部では15.1パーセントと大きく下がる。ところが日本人の保有率は23.9パーセントと、中国南部と並んでもっとも高い。
 さらに日本国内でも保有率に顕著な地域差があり、近畿地方を中心とした本州中部に多く、東北と南九州、四国の太平洋側で少ない。
 これは弥生人のなかに中国南部を起源とする下戸遺伝子を持つ者が多く、それが(正常型の遺伝子を持つ)縄文人と混血したからだろう。これが日本の酒文化にも影響を与え、縄文人の遺伝子の影響が強く残る地域で酒が好まれるようになったのだ。
 明治維新以降、西欧以外で日本だけが近代化に成功できたかが大きな謎とされ、『日本人は特別だ』という自尊感情が生まれたが、これが神話であることはいまでは明らかだ。日本の旧植民地である韓国、台湾だけでなく、香港、シンガポール、そして中国本土までが爆発的な経済成長を実現したからだ。
 日本の一足早い近代化は地理的・歴史的・文化的な偶然(幸運)によるもので、条件が整えば他の東アジア地域でも同じことが可能だった。日本人は弥生人縄文人の『混血』だから遺伝的に多少のちがいはあるだろうが、だからといって『特別』なところはなにもなかったのだ。
 だがこれは、視点を変えれば、中国人(華僑)にできることは日本人にもできる、ということでもある。16年9月にカリブ海ドミニカ共和国を訪れたが、思わぬ偶然でこのことを確認することになった。
 1956年から59年にかけて、ドミニカ共和国には政府の募集に応じた約1,300人の日本人が移住したが、約束に反して彼らに与えられたのは岩だらけの荒地や作物の生えない塩害の土地だった。これが日本国の『棄民政策』としてのちに大きな問題になるのだが、私は何人かの移民一世(親に連れられて幼少時に移民した日本人)の話を聞くことができた。
 そこで印象的だったのは、彼らの子どもたちの目覚ましい経歴だ。ヘッジファンドのマネージャー、英仏西日の四カ国語を話す国連職員、アメリカの一流大学の医学部を出た医師、スペインに移住した建築家・・・これが3組の日系移民の子どもたちの略歴なのだ。
 もちろん私が紹介されたのは裕福なひとにちがいないが、彼らはもともと鹿児島の貧しい農家の出身で、子ども時代は異国での極貧生活を余儀なくされた。それにもかかわず、わずか二世代でこれほどまでの成功を収めるのだ。
 カリブ海の島で日系移民が社会階層を駆け上がる姿は、東南アジアでの華僑とまったく同じだ。この事実は、才能が遺伝的な基礎を核として、同年齢の子どもたちとのわずかな差異を増幅するように形成されていくことを示している(詳細は拙著『言ってはいけない』を参照)。
 『失われた20年』によって、日本はすっかり自信を失ってしまった。かつては『アジアのナンバーワン』が当たり前だったが、GDPで中国に大きく差をつけられたばかりか、国民のゆたかさの指標である一人あたりGDPにいても、シンガポール、香港、マカオの後塵を拝し、いまや隣国韓国にも抜かれつつある。
 最近では若者の内向き志向が問題になり、海外留学はもちろん海外旅行すらしなくなっているという。国民の多くが、『少子高齢化によって日本はこのまま沈んでいくほない』との諦念を受け入れているようだ。だが日本人は、自分たちの大きな可能性をこの小さな島国に閉じ込めているのではないだろうか。
 小松左京の大ベストセラーで『日本沈没』は、国土を失った日本人は難民となって世界じゅうに散っていくが、それぞれの土地を新たな故郷として生き延びていくことができるはずだと、力強く結ばれていた。
 今後、AIなどさらなるテクノロジーの発達によってグローバル化と知能社会化はますます進み、知能の格差がもたらす経済格差によって社会は深く分断されていく。これは科学技術文明を生み出した人類の、避けられない運命でもある。
 だが高度化した知識社会のなかで、日本人はその潜在能力を活かすことにより、まだまだ大きな成功を手にすることができるのではないだろうか。
 『言ってはいけない残酷な真実』は、じつはこの国の希望を指し示しているのかもしれない」
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 10月5日 産経ニュース「古代のガラス片出土 弥生の物流拠点、鳥取・青谷上寺地遺跡
 青谷上寺地遺跡で見つかったガラス片
 弥生時代の集落遺跡で、同時代の遺物が大量に出土している鳥取市の青谷上寺地遺跡で、ガラス片1個が出土したと、鳥取県埋蔵文化財センターが4日、発表した。同センターは、貴重なガラス製品が同遺跡で作られていた可能性が裏付けられた、としている。
 昨年度から引き続き発掘調査している同遺跡の中心域で、弥生時代後期から終末期(2世紀後半〜3世紀前半)の地層から見つかった。ガラス片は白みを帯び、長寸11ミリ、短寸7ミリ、厚さ5ミリ。ガラスの可能性がある小片が、もう1つ見つかっている。
 同遺跡では昨年、加工途中のガラス玉1個を発見。新たに見つかったガラス片は、ガラス加工用の素材と考えられる。中心域では、何らかの生産活動の跡の可能性がある焼土面2カ所も新たに出土。同遺跡からは炉跡、鋳型などは見つかっていないが、ガラスの再加工を行っていた可能性が極めて濃くなった。
 また、青銅製の銅鏃(どうぞく)が新たに10点出土。過去の出土と合わせ計60点となった。同遺跡で銅鏃を生産した痕跡は未確認であり、山陰のほか九州、近畿、東海の各地方に特徴的な形状の銅鏃が含まれることから、各地で生産された銅鏃が持ち込まれたと考えられる。
 弥生時代の交易拠点と考えられる遺跡から出土している中国の新の時代(AD8〜23年)の貨幣「貨泉」も新たに1点見つかった。
 発掘成果について、同センターは「遺跡が日本海の物流・交易の拠点だったことを改めて裏付け、重要な交易品としてガラスの玉類が生産されていたと思われる」としている。
 現地説明会が7日午後1時半からある。問い合わせは同センター青谷調査室((電)0857・85・5011)。」
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 11月7日 産経WEST「神話の里・出雲で2千年前の中国鏡…大陸と蜜月?権威の象徴
 見つかった内行花文鏡の破片=島根県出雲市大津町の出雲弥生の森博物館
 1世紀後半頃の中国で作られたとみられる銅鏡の破片が、島根県出雲市弥生時代(2世紀頃)の集落遺跡から見つかり、同市文化財課が6日発表した。意図的に割られた「破鏡」とみられ、弥生時代の遺構から中国製鏡が出土したのは、島根県内では初めて。8日から同市の出雲弥生の森博物館で公開される。
 同課が7〜9月、弥生時代の集落遺跡「白枝荒神遺跡」のうち、320平方メートルを発掘調査。地表面を約30センチ掘り下げた2〜3世紀頃(弥生時代後期前半〜古墳時代前期前半)の土層から、銅鏡片1点とガラス玉4点が見つかった。
 銅鏡片は5・3センチ×1・8センチで、文様の特徴から後漢時代(1世紀後半頃)の中国大陸で作られた「内行(ないこう)花文鏡(かもんきょう)」。周辺で同様の破片が見つかっていないことから、別の場所で意図的に割られ、2世紀頃(弥生時代後期前半)にこの集落へ持ち込まれたとみられる。
 同課では、本来は直径15センチ前後の鏡だったと推定。同課の須賀照隆主任は「鏡もガラス玉も当時は貴重な輸入品。何らかの権威付けか、重要な交流拠点だったことを示すために銅鏡片が用いられたのではないか」と話している。
 鳥取県内では、4つの弥生時代の遺構から同様の中国製鏡が出土している。」
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 2018年11月18日 毎日新聞鳥取:青谷上寺地遺跡 弥生時代の人骨“渡来系”か
 国史跡・青谷上寺地(かみじち)遺跡(鳥取市)で出土した弥生時代の大量の人骨=2世紀ごろ=のDNA分析の中間報告で、人骨の大半は朝鮮半島や中国大陸などからの“渡来系”である可能性が高いことが分かった。分析が進み、日本人の成り立ちの解明につながる成果が期待される。弥生時代の人骨の本格的なDNA分析は全国で初めて。【園部仁史】
 遺跡は弥生時代前期〜古墳時代前期に存在した。保存状態の良い、多種多様な出土品や老若男女の人骨が100体以上見つかるなど「地下の弥生博物館」と呼ばれている。
 DNA分析を進めてきた国立科学博物館などは17日、鳥取市内で報告会を開催。同館の篠田謙一副館長は約40の人骨から母系の遺伝情報が分かる「ミトコンドリアDNA」を分析し、32体の塩基配列の特徴を調べることができたと説明した。
 その結果、日本古来の“縄文系”は32体のうち、わずか1体だったといい、出土した人骨のほとんどは新たに大陸から渡ってきた人のものとみられる。さらにその“渡来系”の人骨は少なくとも12のDNAのグループに分けられることから、同遺跡が多様な人の集う交易拠点だったとする従来の説を強く裏付ける結果になった。篠田氏は「父系の遺伝情報もわかる『核ゲノム』の分析を進めることで、日本人のルーツを探りたい」と話した。
 出土した人骨には殺傷痕のあるものも含まれ、戦乱などがあったとされる。弥生時代の日本について記された中国の史料「魏志倭人伝」などには「倭国(わこく)大乱」の記述もあり、人骨を保管する県埋蔵文化財センターの浜田竜彦係長は「『どのような人が殺害されたか』などを知ることで、当時の日本の状況を探る手がかりになるかもしれない」と期待する。
 次回の報告会は、来年3月に予定。ミトコンドリアDNAを分析した32体のうち5体は、遺跡中心部近くの展示館で17日から一般公開している。問い合わせは同館(0857・85・0841)。」
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 2019年3月12日 産経新聞「「大陸と交流 遺伝的に多様」 鳥取の遺跡、弥生人骨解析結果
 核DNAが解析された青谷上寺地遺跡出土の人骨=平成30年11月17日、鳥取市の青谷上寺地遺跡展示館(坂下芳樹撮影)
 日本人の成り立ちを探るため、鳥取市の青谷上寺地(かみじち)遺跡から出土した弥生時代の人骨のDNAを解析している研究プロジェクトの成果報告が鳥取市であり、父系遺伝のDNAについては縄文系が多いとの結果が出た。
 プロジェクトは国立科学博物館(東京)、鳥取県埋蔵文化財センター(鳥取市)などが共同で進めている。篠田謙一・同博物館副館長が、シンポジウム「倭人の真実」の中で成果を報告した。
 同遺跡から出土した弥生時代後期(2世紀)の頭蓋骨と歯の計6点から試料を取り、細胞の核のDNAを分析。男性の骨5点中4点から、父系遺伝のY染色体塩基配列データを得た。ハプログループ(配列が似た遺伝的に近いグループ)の分類では、3点が縄文系のハプログループだった。
 日本人の成り立ちでは、弥生時代に大陸の渡来人と在来の縄文人との混血が北部九州から東へと進んだ、とする「二重構造説」が定説になっている。
 母系遺伝のミトコンドリアDNAを解析した昨年11月の中間報告では、全32個体を調べたうち、大部分が渡来系のハプログループ、1個体だけが縄文系で、渡来系が主体だった。ハプログループは29系統とばらばらで、血縁関係のない都市の住人のような状況を示していた。
 今回、Y染色体の解析では縄文系が多かったと分かり、篠田副館長は「青谷の人骨は遺伝的に多様性がある。渡来人が北部九州から入り、在来集団と混血して本州の日本人ができたとする従来の単純なモデルが当てはまらない。青谷は都市的性格を持ち、大陸と交流した。その交流から日本人が生まれたというのが真実に近いのではないか」と話した。」
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