🗻13〕─1─伊勢神宮と万世一系天皇中心神話。神武東征。神武天皇『即位建都の詔』。建国理念「八紘一宇」は日本限定。纏向遺跡。箸墓古墳。~No.50No.51No.52 @ 

  
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本民族・日本国は、日本天皇・日本皇室と共に存在する。
 日本天皇・日本皇室と日本民族・日本国は、切り離す事ができない。
 伊勢神宮は、日本天皇・日本皇室と日本民族・日本国を繫ぐ唯一の絆である。
 唯一の絆である伊勢神宮が消滅すれば、日本天皇・日本皇室と日本民族・日本国の繋がりは消滅し、そして全てが日本列島から消える。
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 2016年。伊勢志摩サミットにおける伊勢神宮に対する批判。
 島薗進上智大学特任教授)「伊勢神宮は戦前は神聖な天皇と一体で国家の頂点にあり、全国民が崇敬を強いられた施設。こうした歴史を踏まえたら、国家的行事に宗教施設を用い、外国首脳を巻き込むようなことはすべきでなかった。訪問を実現された背景には、国家神道復権など戦前回帰を志向し、安倍首相に影響力を持つ『日本会議』的な考え方があるとも考えられる」
 AFP通信「伊勢神宮訪問はいくつかの批判を呼んでいる。神道は日本の神話と歴史を国家主義と不可分に結びついた宗教に一体化させており、世界のリーダーが訪問するには不適切」
 ティム・ケリー(国際ニュース通信社ロイター記者)「伊勢神宮というのは宗教的な場所。国家主義的な意味合いがあったのかもしれませんが、だとそたら世界のリーダーが訪問するのは少し違和感があります。例えば英国でG7があったとしても、英首相が世界のリーダーたちをウェストミンスター大聖堂に連れて行き、大司教に面会させるという考えられない」
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 伊勢神宮は、現日本皇室の祖先である皇祖皇宗を祀る神聖な宗教施設であり、最高神官が現在の今上天皇陛下である。
 伊勢神宮の宗教性を否定もしくは批判する事は、現在の今上天皇陛下と日本皇室を否定し批判する事である。
 つまりは、日本民族・日本国家を統合しまとめ上げている日本天皇を中心とした国體を認めないと言う事である。
 2000年以上という長き日本の歴史、伝統、文化、宗教、習慣、風習、民俗などを、認めないと言う事である。
 伊勢神宮に祀られている神は、女性の神様である。
 日本神道は、女性を最高神として崇める宗教である。
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 2016年6月号 WiLL「神武東征の地政学 鍛冶俊樹
 神武東征の道筋をたどれば、まさに神武天皇の実在を確信できるのだ
 神武天皇は初代天皇であるが、現在の歴史学界では存在が否定されており、学校教育などでもほとんど触れられることがない。
 これは戦後の風潮であって、敗戦まで日本人は、有史以来ずっと神武天皇を実在の人物と考えてきたのである。
 なぜ戦後、存在が否定されたかと言えば、占領軍の日本文化否定の方針が原因だが、その影響は昭和27(1952)年の日本独立後も色濃く残り、現在に至るも日本人の歴史観、国家観、文化概念を蝕み続けている。
 古事記日本書紀(以後、記紀と略す)の記述によれば神武天皇は軍事指揮官であった。従ってその事績(じせき)も軍事的事績であった。神武天皇の事績は神武東征と呼ばれてきた。東征とは軍隊を東に進めるという意味である。
 ところが戦後は憲法9条により軍事も否定されたため、軍事的事績そのものを理解できなくなった。当然、神武東征も否定され、日本における国家の起源は謎に包まれる事となった。
 そもそも国家は軍事に始まる。
 ある一定の地域が軍事占領され、その地域を統治するために国家が誕生する。統治が実現すれば国民生活は安定し経済が発展する。国家の発展を図式化すれば軍事制服→国家統治→経済発展という三段階で表されよう。
 しかるに日本では、戦後、軍事征服者にして国家創設者である神武天皇の実在を認めなくなったので国家誕生の経緯が分からなくなり、国家観が不明確になった。そこで、軍事や国家をないがしろにした経済優先主義が暴走して国策を誤らせるに至った。また国家観の欠如は社会と個人の関係を不明瞭にして国民の社会観、人生観までも動揺する精神的混乱が生じている。
 神武天皇の実在を実感
 ……
 地政学で最も重要な法則は、地中海の法則である。これは古代ローマ帝国の長期的繁栄から導かれた法則である。そもそも国家は海洋国家と大陸国家とに大別されるが、それぞれ発達すれば大国化し海洋帝国、大陸帝国を形成するに至る。
 だが海洋帝国と大陸帝国とを同時に長期間兼ねることはできない。何故なら海洋国家は海上交通路を防備するために海軍を育成し軍艦を多数建造し維持しなくてはならない。大陸国家は長大な国境線を防備するために陸軍を育成し、多数の兵員を養成し維持しなくてはならない。もし両者を兼ねるとなれば、巨大な海軍と巨大な陸軍を同時に維持しなくてはならず、国防費が膨れ上がって財政破綻をきたすのである。
 現代では空軍が登場したが、海洋国家であれ大陸国家であれ航空戦力を整備しなくてはならず、しかもそれぞれ海軍、陸軍は必要であるから財政に与える負担はより厳しくなっているといえる。
 瀬戸内海を制圧
 世界史をひもとけば、海洋帝国が大陸進出を試み、大陸帝国が海洋進出を企てた例は枚挙に遑(いとま)がない。近現代においては大英帝国ソ連もかくて解体したのである。これを普遍化すれば大帝国は永続できないとも言えるだろう。
 ところが古代ローマは1000年以上存続した。これは如何なる訳かと言えば、ローマは海洋国家として地中海に進出したが、地中海沿岸すべてを征服して地中海をローマの内海にしてから大陸帝国に転換したのである。つまり海洋帝国と大陸帝国を同時に兼ねていない。これが長期にわたり繁栄できた理由なのである。
 つまり地中海のような環境は海洋帝国を大陸帝国に転換させ安定的な繁栄を永続されることを可能にするのである。
 地中海のような海域は、他にもある。例えばカリブ海オホーツク海南シナ海である。いずれも、それぞれ米国、ロシア、中国が覇権を握ろうと努力しているが内海化するには至っていない。やはり沿岸すべてを占領するのは容易なことではなく、ローマの偉業が偲ばれる。
 そして瀬戸内海もまた地中海とよく似た海域であるは、言うまでもない。しかもその名が示す通り、ここは日本の内海なのである。しかし、一体いつ、誰がここを日本の内海にしたのだろう?
 地中海をローマの内海にしたのは、ユリウス・カエサルことジュリアス・シーザーである。そしてシーザーの後継者オクタビアヌスが正式に皇帝として認められローマは大陸帝国として歩み始めた。
 しからば、日本でこれに該当する人物は誰なのかというば、神武天皇をおいて他にない。ここで改めて東征ルートを見て貰いたい。瀬戸内海を文字通り内海にしていく様子が手に取るように分かるではないか。
 海洋帝国の特色
 もちろんシーザーが一人でローマ帝国を築いた訳ではない。ローマが海洋進出を本格化させたのはポエニ戦争の名で知られるカルタゴとの戦争からである。紀元前264年に始まったポエニ戦争は、第1次(BC264〜241)、第2次(BC218〜201)、第3次(BC149〜146)にわたり、カルタゴの滅亡をもって終わる。
 この戦いが終わったときローマは最強の海軍を持ち、地中海の制海権を握っていたが、沿岸のすべてがローマに服従していた訳ではない。それがその後100年間でローマの数々の英雄によって征服され最終的にシーザーが統一したのである。
 つまり紀元前の地中海沿岸には幾多の独立国が林立しており、交易しあるいは戦争し、同盟してまた講和するという状態であった。紀元前の瀬戸内海も実は同じような状況だった。海洋国家は他国との貿易をしたいところだが、海上の治安が確保されないので、船は武装しなければならず、活動範囲も限定される。
 従って、どこかの国が強力な海軍を整備し海上の治安を確保してくれるのは歓迎すべき事態なのである。大陸帝国の出現にあたっては、凄惨な征服戦争が頻発するが海洋帝国の出現に際しては、交渉により帝国に加盟するという色合いが強い。
 ローマも軍事力を行使しながら各海洋国家と連携を強めつつ連合体を形成して帝国を実現したのである。神武天皇も東征のプロセスにおいて、その地域の有力者を国造(くにのみつこ)に任命しており、大和朝廷は諸部族の連合体といった趣があろう。
 神武軍団
 海洋国家にとって何よりも大切なのは船である。近代以前においては、船は木造であるから、船を建造するためには、良質な木材を必要とする。地中海ではレバノン杉が造船に適していたと言われるが、神武軍団が出発した南九州も良質な木材に恵まれた地域である。
 ここに鉄器が輸入されて大船の建造が可能になったと考えられる。古代日本では巨木をくり抜いた丸木舟が基本だが、時代が下るにつれて大型化し全長40メートル以上になった」
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 第10代祟神天皇大物主神はヤマトを造成した神」
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 ヤマトは、交通の要所として各地の物産が行き来していた為に、隆盛を誇っていた出雲や吉備から多くの人間が移住して新たな集落・ムラを作って賑わっていた。
 吉備系と云われるニギハヤヒノ命(饒速日命)は、ヤマトをまとめて大王となった。
 日向にいた海神の娘の子神武天皇は、祟る神・塩土老翁の導きに従って瀬戸内海を渡ってヤマトに向かった。
 神武天皇は、河内からヤマトに入ろうとしたが長髄彦らの抵抗にあって敗走した。
 熊野からヤマトに入る為に南下して紀伊半島を迂回したが、その道もヤマトの豪族らが強固な陣地を築き神武天皇の入国を阻んだ。
 神武天皇は、夢に現れた神のお告げに従って、貧しい老夫婦に扮した二人の部下を天香具山の社に遣わし、取ってきた土で天平瓮と厳瓮を造って天神地祇を祀って呪術・鬼道を行た。
 吉野に住む山の民や川の民などの縄文系魔界の民(原日本人)は、神武天皇を助けた。
 ニギハヤヒノ命の子ウマシマヂノミコトは、伯父の長髄彦を殺害して神武天皇をヤマトに導き入れた。
 ヤマトの豪族達は、神武天皇の呪い、祟りに恐れ戦いて降伏した。
 ヤマトの地を治めていたニギハヤヒノ命は、神武天皇にヤマトの支配権を禅譲し、宗教祭祀や政治などの政事(マツリゴト)など全てを譲った。
 神武天皇は、苦戦の末に橿原宮で即位してヤマト朝廷を開いた。
 ヤマト朝廷とは、強い天皇が軍事力で征服して開いた朝廷ではなく、弱い天皇が強力な豪族集団の合議で認められて開いた朝廷である。
 だが、強力な豪族達は弱い天皇を祟る恐ろしき存在として恐れた。
 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を助けたのは、里の民から軽蔑され迫害された縄文系魔界の民である山の民や川の民である。
 祖先神崇拝の祭祀王・天皇の守護者は、律令制度からはみ出した、身分低い賤民・非人・エタ・乞食坊主・修験者・芸人らであった。
 神武天皇は、新たな大王となってヤマトを平定し、出雲系を排除する為に東海や北陸から新たな移住者を引き込んだ。
 ヤマトは、吉備と協力して、出雲や筑紫に対抗し、神国日本を建国した。
 ヤマトに敵対する出雲系の神々が祟らない様に、日本の神として各地の神社で祀った。
 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を守ったのは、平野の弥生系農耕民から魔物として忌み嫌われた縄文系山の民であった。
 つまり、社会の底辺で生活している縄文系最下層階級こそが真の尊皇派・勤皇派である。
 江戸時代まで、非人と貶まされた身分の者達である。
 それは、現代の部落民ではない。
 弥生系日本人は、権力を掌握して富を独占する為に天皇を悪用し、責任を天皇に押し付けて逃げ隠れした。
 無責任体質は、神の裔・天皇にはない。
 祭祀王・天皇は、むしろ全責任を引き受けて八百万の神々に謝罪し、罪の許しを得る為に祈り続けている。
 神の裔・天皇は、罪の所在を他人に求めず、過失を他人に問わず、すべては自分の不徳として自分を責めた。 
 ニギハヤヒノ命の末裔である物部氏は、神道祭祀を整え、宗教儀式を継承した由緒ある古代豪族であった。
 その為に、物部氏は、仏教を導入するにあたって「国つ神の怒りに触れる」と猛反対した。
 神武天皇は、出雲神・事代主神の娘を正妃に迎えた。
 ヤマト朝廷は、出雲神・大物主神大神神社)を祀る三輪山の周囲に宮を建て、三輪山を恐れて崇拝した。
 ヤマトは、出雲の神々を祟る神・御霊・鬼として恐れた。
 第二代綏靖天皇と第三代安寧天皇も、祟る出雲の神々を恐れて事代主神の娘を正妃として迎えた。
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 神武天皇『橿原遷都の詔』
(前段)「夫(それ)大人(ひじり)の制(のり)を立て、義(ことわり)必ず時に従う。苟(いや)しくも民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば何んぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)わん。且た当(まさ)に山林を披(ひ)き払い宮室(おおみさ)を経営(おさめつく)りて恭みて宝位(たかみくら)にのぞみ、以って元元(おおみたから)を慎むべし」
(後段)「上(かみ)は則(すなわ)ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまいし徳(うつくしび)に答え、下(しも)は即ち皇孫(すめみま)の正(ただしき)を養いたまいし心を弘(ひろ)めん。然して後に六合(りくごう)を兼ねて、以って都を開き、八紘(あめがした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為すこと亦可(し)からずや」
 皇道は、世界中の全ての民をそれぞれの氏神・祖先神の子孫として、上下なく等しく一つの家族とみなし、緩やかにまとめ上げる集団主義である。
 日本には、個々を明確に分け隔て線引きする個人主義は存在しない。
 皇室神道は、天皇家・大王家の氏神・祖先神信仰で、他の氏神・祖先神信仰の祭祀の手本であり、全ての氏神・祖先神信仰の代表である。
 祭祀王である現天皇家・皇族のみが、皇祖皇宗の子孫であると言う直系血筋の正統性で祀ることが出来る。
 神道は、日本人はもちろん全ての人間が氏神・祖先神の裔であり、等しく神の子孫であると諭している。
 氏神・祖先神信仰は、神の子孫であり神として祀られる身である以上は、我利我欲を捨て、私利私欲に走らず、道理をわきまえ、徳を積み、心身を清め、言動を慎み、行いを正し、浄き心で穢れを祓うべきであると。
 さらに。自然をも貴い神と見定め、山川草木に宿る神霊を大事にし、モノすべてに神性が有るとして、汚し壊さない様に大切に扱い守る事を最大の掟として来た。
 日本神道は、魚介類や家畜はもちろん、人形や縫いぐるみ、包丁や針や糸や筆や紙にさえも神がいて、命があるとして、感謝の気持ちから丁寧に供養する。
 自然は、最重要な崇拝の対象とされ、「全てに神が宿る」という民族宗教の日本神話=自然神話で守られて来た。
 普遍宗教的外向き価値観の世界に於いては、通用しない非常識な民族宗教的内向き価値観である。
 宗教史に於いて、例外なく、民族宗教は普遍宗教に駆逐され消滅する運命にある。
 神道信仰が氏神・祖先神の血を絶対条件とする以上、同じ日本人だからと言っても、天孫降臨神話の神々を祀ることは出来ない。
 皇祖皇宗の血をひく現天皇家・皇室が、違う氏神・祖先神を持つ他家に替われば、天孫降臨神話に基ずく正統はなくなり、民族宗教としての氏神・祖先神信仰も消滅する。
 反宗教無神論を信条とする左翼・左派のマルクス主義者と一部の反日キリスト教徒は、此の伝統的氏神・祖先神信仰の宗教性を充分理解した上で、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)制度の廃止を訴えている。
 彼等は、日本に、厳格な自己責任を持つ明快な個人主義を根付かせるべく、責任回避という曖昧な集団主義を廃絶する事を至上の命題としている。
 現代日本では、反宗教無神論の広がりによって「神殺し」が行われ、自然から神秘な神性が剥奪され、生活空間は見た目は綺麗でゴージャスだが、生活環境は無色透明で無味乾燥的に全ての生物が住めない様に改善されつっある。
 自然破壊は、人間が死に絶えるまで続く、尽きる事のない「業」である。
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 「八紘一宇」とは、大家族主義をもって国家を統合するという建国理念であったが、戦後、その建国理念は侵略戦争を正当化する「悪」と認定され完全に否定された。
 現代日本平和憲法は、民族の伝統的宗教的歴史的文化的大家族主義の建国理念を完全否定している。
 現代日本では、「八紘一宇」は存在しない。
 現代日本の若者は、宗教に関心を持たず、生を優先して死を考えないだけに無神論が蔓延しつつある。
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 八紘一宇は、世界に広がるグローバルではなく日本国内だけのローカルであり、日本民族日本人のみを対象として中国人や朝鮮人など外国人を含んでいない。
 つまり、排他的要素が強かった。
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 日本には、数多くの民族・種族が住み、数多くの宗教に基づく価値観が共存していた。
 敵対する者を武力で打ち勝って服従させ、異なる宗教や価値観を論破して服従させたとしても、遺恨を残すばかりで本当の統一は出来ない。
 全てを受け容れ融合して一つにまとめる為に作り出された理念が、「八紘一宇」であった。
 八紘一宇が理想とする日本とは、混血し同化してまとまる混成社会である。
 混血民族である日本人の強さとは、目の前に或るモノ(民族や価値観など)を平等に受け容れて消化し転換して一体化する、節操なき柔軟性ある得体の知れない変化である。
 日本の弱さとは、特定のある常識や価値観に囚われ、前例による規則や規律に縛られて硬直化した時で或る。
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 日本民族国家日本は、日本皇室と一心同体であり、切り離す事は不可能である。
 神代からの皇統・血筋につながる日本皇室が途絶えれば、日本民族国家日本も消滅する。
 日本皇室が、日本民族国家日本そのものである。
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 明治政府は、1872(明治5)年に、神武天皇が即位した2月11日を「紀元節」と定めて祝日とした。
 国民が大事にすべき四大節の1つとされた。
 GHQは、軍国主義の精神的支柱として廃止させた。
 1966年 主権在民憲法精神に従って、国民の祝日として復活させるにあたって、戦前の反省から紀元節を改め「建国記念の日」と名付けた。
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 反日派のフランクリン・ルーズベルトは、日本民族を地上から消滅させる為に、大量の移民を行って雑婚させ、日本民族ではない混血児で新たな日本国家を建国させる計画を練っていた。
 アメリカのリベラルや保守派の間には、日本改造計画としての大量移民計画案と日本皇室廃絶計画案が存在していた。
 戦後教育の成果として、「日本は日本人だけの日本ではない」と公然と発言する総理が誕生し、日本民族否定の発言を容認する政党が国民投票で政権与党になった。 
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 日本民族は、神に選ばれた特別な選民ではない。
 日本民族は、土俗宗教である祖先神・氏神信仰者である。
 氏神・祖先神の人神信仰において、自分の血がつながっている平凡な祖先を神として祀っただけである。
 氏神・祖先神は、霊験あらたかな特別な神ではなく、祈ったからといって奇跡は起きないし、救済や癒やしが得られるわけではなかった。
 古神道は、南方系海洋民の信仰に強く影響されていたが、朝鮮半島の要素は薄かった。
 むしろ、朝鮮の古信仰は古神道の影響を受けていた。
 日本人は神に愛された選民だと公言する日本人は、日本民族日本人ではなく、単なる人間族日本人である。
 同様に。神の裔・万世一系男系天皇制度(直系長子相続)を否定する日本人も、日本民族日本人ではなく、無国籍日本人である。
 無国籍日本人には、昨日今日の薄っぺらな生物学的人間関係があっても、2000年という歴史に育まれた「心」と「志」による民族的「絆」はない。
 民族的「絆」は、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)と共に生き続ける。
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 ハンチントン「日本は孤立しており、世界のいかなる他国とも文化的に密接なつながりをもたない」
 日本民族の「絆」は、共同作業である水田稲作から生まれてきた。
 勤勉にして、温厚で、協調性にとみ、分け隔てなき人好きは、全ての水田に水を公平にまんべんなく行き渡らせる為の灌漑用水路で育まれた。
 それが、「和を以て貴しとなす」というムラ気質の本質である。
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 『国體の本義』(1937年・文部省)「『まこと』の心は、人の精神の最も純粋なものである。人はまことに於て、その生命の本をもち、まことによって万物と一体となり、又よく万物を生かし、万物と和する。まことについたは、賀茂眞淵や富士谷御杖等が特にこれを重んじて説いている。眞言(まこと)即ち眞事(まこと)である。言と事とはまことに於て一致しているのであって、即ち言はれた事は必ず実現せられねばならぬ。この言とは根底にまことがある。御杖は心の偏心(ひとえこころ)・一向心(ひたぶるこころ)・真心(まごころ)というが如くに分けている。偏心とは主我的な心であり、一向心とは頑なに行ふ心である。これらはいづれも完全な心とはいはれない。真心とは心の欲するところに従って矩(のり)を踰(こ)えざる心である。かかる心は即ちわざであり、言であり、行であり、よって一事・一物に執せずして融通無碍である。即ち私を離れた純粋の心、純粋の行である。実にまことは万物を融合一体ならしめ、自由無碍ならしめる。まことは芸術に現れては美となり、道徳としては善となり、知識に於いては真となる。美と善と真とを生み出す根源にまことのある事を知るべきである。而してまことは又所謂明(あか)き浄き直(なお)き心、即ち清明心であり、それは我が国民精神の根底となっている」
 この「まこと」と「清明心」が、神道的日本文明の根本的民族精神であり、中国や朝鮮の儒教的中華文明との間を分け隔て交わる事を許さない見えざる壁である。
 もし。この「まこと」と「清明心」が日本人の心から消滅したとき、日本は中華文明圏の一員となり、東アジア共同体の一構成員となって中国化する。
 つまり。「まこと」と「清明心」が、東アジアで味方を作らずに日本を孤独にしてきた。
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 イエズス会が最も嫌い地上から滅ぼそうとした異教徒は、祖先を神として祀る神の裔・天皇であった。
 イエズス会が布教した絶対神の隣人愛信仰は、平凡な人間を祖先というだけで神として祀る天皇心神話によって邪教として排除された。
 絶対価値観を有する一神教の普遍宗教が、相対価値観を持った祖先神の民族宗教に敗退したのである。
 ゆえに、イエズス会は、天皇という悪魔を信仰する異教国日本をキリスト教に改宗し、隣人愛信仰で浄化する為に絶対神に捧げる事を「絶対使命」とした。
 キリスト教会は、中国儒教の祖先崇拝は容認したが、日本神道氏神・祖先神の人神信仰は邪教として滅ぼそうとした。
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 寺沢薫(桜井市纏向学研究センター所長)「都市 纏向(まきむく)に始まる『政治の中枢』
 都市は国家の形成と深く関わりを持つ。何をもって都市とするか。巨大性と消費性、そして日本では政治中枢がそこに置かれることが重要だ。
 3世紀の纏向遺跡奈良県桜井市)の出現をもって日本最初の都市と呼んでいい。弥生の環壕(かんごう)集落よりはるかに規模が大きく、第1次産業が欠落する。弥生都市論や藤原京説に、私はくみしない。
 中国では城郭都市が発達する。夏や殷などの王国と呼んでよい段階には都市が出てくる。殷の都の構造は纏向遺跡と似ていないか。藤原京説は条坊制(基板の目状の都市計画)を条件とするが、漢の長安でも後漢の洛陽でも条坊は確認されておらず、確実にあるのは後の北魏の洛陽城だ。
 日本の都市は中国の都市と発展の仕方が違う。城壁や条坊のない宮都だったこと、それが日本的な都市の始まりだろう。経済的に脆弱なので、纏向遺跡以降、分散傾向もあるのも日本的だと思う」
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 2015年5月22日 産経WEST「弥生時代にバジル伝来 纒向遺跡で花粉発見 中国王朝から?【中国】 .
 遺跡で見つかったバジルの花粉(金原正明奈良教育大教授提供)
 邪馬台国の有力候補地・奈良県桜井市纒向遺跡で22日までに、日本で自生しないバジルの花粉が見つかり、分析した奈良教育大の金原正明教授(環境考古学)らが論文発表した。弥生時代に中国から持ち込まれたとみられ、金原教授は「遺跡が大陸との交流の拠点だった事を裏付ける発見」としている。
 花粉は、平成3年の発掘調査で、遺跡の中心にある3世紀中ごろの溝の土から検出された。植物の特定は進んでいなかったが、金原教授らが現生のバジル花粉と比較し、判明した。
 バジルはインドや東南アジアなどが原産。イタリアで香辛料として使われた一種が世界に広がり、日本には江戸時代に伝来したとされる。見つかった花粉は、国内最古のバジルの存在を裏付けるという。
 花粉の形状などから、金原教授は東南アジア産の一種と推定。見つかったのは微量のため、遺跡周辺で栽培された可能性は低いという。
 金原教授は「交流のあった中国の王朝から乾燥したバジルが持ち込まれ、薬などに使われたのではないか」と指摘する。
 論文は桜井市纒向学研究センターが発行した研究紀要「纒向学研究」に掲載された。」
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 5月27日 産経ニュース「朝鮮でなく国内製造?」国内最古の青銅鏡鋳型見つかる 福岡・春日の遺跡
 須玖タカウタ遺跡で出土した「多鈕鏡」の鋳型の破片=3月、福岡県春日市春日市教育委員会提供)
 福岡県春日市教育委員会は27日、市内の須玖タカウタ遺跡で、国内最古となる紀元前2世紀ごろ(弥生時代中期前半)の青銅鏡鋳型の破片が見つかったと発表した。これまで鏡の国内生産は紀元後1世紀ごろから始まったとされ、それをさかのぼる青銅鏡鋳型の出土例はなかった。専門家は「鏡の製作史を見直す貴重な発見」としている。
 遺跡は、中国の歴史書魏志倭人伝」に登場する奴国の中心部にあり、青銅器生産の一大拠点として知られる。青銅器の中でも鏡は所有者の権威を象徴する希少品で、市教委によると、古い鏡はこれまで朝鮮半島や中国からの渡来品に限られるとみられていた。しかし鋳型が発見されたことで、国内で作られた可能性も出てきた。 
 市教委によると、見つかった鋳型の破片は石製で、長さ5.1センチ、幅2.5センチ、厚さ2.3センチ。ひもを通すつまみ「鈕」が鏡の裏面に複数付いた「多鈕鏡」を製作する、国内で初めて見つかったタイプ。」
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 2016年1月30日 産経ニュース「【ローカルプレミアム】「東国文化の中心地」証明?! 群馬県の古墳調査 1万2000基で東日本トップ級アピール
 群馬沼田市の奈良古墳群を調査する県民調査員ら(群馬県教委提供)
 群馬県教育委員会が行っている古墳調査がほぼ終了し、昭和10年の8423基に対し、今回調査では、約1万2千基の古墳数が確認された。遺跡や古墳の発掘では千葉県も肩を並べるが、同県は「質量ともに東日本トップ級」とアピール。かつて「東国文化」の中心地だったことが証明されたとして、歴史文化遺産の発信に一層力を入れていく。
 群馬県では、県内に古墳がどれだけあるかを確認する全県調査が昭和10年以降行われておらず、新たに発見された古墳も加えた正確な数は不明のままだった。このため、10年当時に確認された古墳がその後、宅地や道路になったのか、あるいは古墳として維持されているのかも含め、調査する必要性があった。
 そこで、県教委は平成24年度から4年かけて、県民調査員による古墳総合調査を実施。1月下旬に行われた藤岡市国史跡「七輿山(ななこしやま)古墳」周辺の古墳群調査で、現地確認調査がほぼ終了した。
 調査にあたっては、調査員を県民から募集し、座学と現地調査の研修を修了した161人を調査員として登録した。最後に調査が行われた「七輿山古墳」は、奈良時代に多胡郡をたまわった羊太夫一族の伝説に由来するという。
 確認された約1万2千基の古墳について台帳化を進め、正確な古墳数を反映した「平成版上毛古墳綜覧」(仮称)を28年度中に作成する。
 群馬県文化財保護課によると、東日本では千葉県でも多数の古墳が確認されている。これに対し、同県も、東日本最大の天神山古墳(群馬県太田市)をはじめ、保渡田古墳群(同高崎市)、大室古墳群(前橋市)など大型の古墳が数多く見られ、「質・量ともに東日本ではトップクラス」とアピール。古代のロマンが広がる群馬をアピールする。
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 国指定史跡の保渡田古墳群に隣接する高崎市のかみつけの里博物館では現在、弥生時代後期の樽式と呼ばれる土器文化に焦点を当てた特別展特別展「ゆくものくるもの−北関東の後期弥生文化−」が開かれている(2月7日まで)。
 長野から群馬、栃木、埼玉などを結ぶ人や物の移動がどういう形だったのか−。群馬県内で出土した人面付き土器3点が初めて一同にそろうといい、古墳の魅力とともに、古墳時代からさらにさかのぼること約200年、約1700年前の古代のロマンに迫ることができる。
 開館時間は午前9時半〜午後5時。火曜と祝日翌日、年末年始(28日〜1月4日)は休館。入館料は一般200円、高校・大学生100円、中学生以下と65歳以上無料。問い合わせは、かみつけの里博物館(電)027・373・8880。」
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