🪁2〕─1─中華文明の発祥はモンゴル高原であった。遼河文明。古朝鮮と古墳人。~No.2 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 殷。周。春秋戦国時代孔子孫子韓非子。秦の始皇帝項羽と劉邦前漢
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 アステカやインカの文明は、中国の中華文明よりも古かったが、キリスト教によって貴重な文献や証拠が破壊された為に多く謎が多、古代文明の外に追い遣られた。
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 中国の歴史は、中華思想に基づく勝者の正義史観で、敗者を悪として抹消した。
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 中華文明圏の果てしなく続く大虐殺と大量の難民。
 地獄を耐え抜いて生きる中国人の逞しさ。
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 中国人とは、ひ弱な日本人が足下にも及ばないほどに、精神力と体力が優れた人間である。
 臆病な日本人では、地獄の様な中国世界では生き残れない。
 気弱な日本人は、強靱な中国人にはとうてい及ばない。
 それは、事実である。 
 中華世界を生き残るのは、並大抵の事ではできない。
 現代日本人以上に、昔の日本民族は恐怖で脅えて逃げ出した。
 昔の日本民族は、その恐ろしさゆえに逃亡し、引きこもった哀れな人間である。
 何処をどう穿り回し、空元気で威勢を張っても、しょせん日本人は中国人より優れてはいないし、かなうわけがない。
 日本人の負けである。
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 中華思想は、戦争に勝利し地上を支配した勝者が、天からその徳を認められて唯一人の皇帝となり、地の続く限り全てを統治する権利を得るとした。
 『詩経』(儒教五経)「天下王土に非ざるものなし」
 清代の『皇芿職朝図』(1761年)『嘉慶法典』(1818年)は、イギリス、オランダ、ポルトガルからバチカンまでもが、中国に朝貢した臣下で在ると明記した。
 そして、勝者のみが天命を受けて正統な歴史を創作する権利俚を得た。
 現代の中国は、中華思想に基ずくかっての中華帝国の再建を目指し、軍事力を増強して強国になろうとしている。
 中国史は、勝者の創作史として、如何に天命を受けて戦いに勝利し、徳を失った者の末路を書き記した。
 中国の俚諺「全てが嘘、本当は詐欺師だけ」
 諧諺「世界の偽物は80%が中国製」
 中国では、古典の真贋が重要な学問とされていた。
 中華史に出てくる人物は、皇帝などの支配者が主役で、庶民としては義に生きる任侠などで盗賊紛いで平凡な庶民は存在しない。
 敗者は、勝者の支配を受け、自分の歴史を捨てて勝者の歴史を正史として学ぶ義務があった。
 属国の朝鮮は、自国の歴史を傍流の外史と嫌悪し、国際的教養である中国史を正史として猛勉強した。
 蕃国の日本は、中国史を捨て、自国の歴史を創作して学んだ。
 儒教は、中華皇帝と同格を主張する日本天皇を否定する。
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 中国の「弁偽学」。中国の正史は、現王朝の正当性を証明する為に滅ぼした前王朝の歴史を編纂したもので、大半が偽史である。
 中国の歴史は、政治的思想的なプロパガンダで、歴史的事件は事実であってもその解説は公正・公平な真実を伝えてはいない。
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 中国は、古代から、軍事力のみを正義として社会を支配する世界で、諸問題は軍事的圧力をかけて解決してきた。
 相手より弱いときは外交的解決を望み、微笑みを見せながら話し合って相手を油断させた。
 相手より強くなれば武力的解決を望み、力が均等してくると謀略外交や軍事的威嚇を繰り返し、相手よりも優位と判断すると容赦なく戦争を起こした。
 自分が相手よりも軍事力が弱いときは、問題を先送りするために玉虫色的「棚上げ論」を持ち出すが、相手と戦争しても勝てると判断すると軍事行動を起こした。
 中国は、古代から、対等の立場で譲り合う事は考えてはいなかった。
 中国の戦争や外交は、平和の為ではなく、上下関係の序列を決める為の手段に過ぎない。
 それが、中華思想による世界統一である。
 日本が考えているような、対等関係での話し合いによる問題解決は存在しない。
 儒教とは、万民が対等関係で幸福な社会を築く為の学説ではなく、一君独裁による上下関係を理想社会とする中華思想である。
 ゆえに。道教老子は、儒教を偽善と批判したのである。
 日本は、儒教を信用せず一部のみを受け入れ、身分低い百姓・町人社会を作り上げた。
 朝鮮は、金科玉条として儒教を全面的に受け入れ、身分高い王侯貴族社会を作り上げた。
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 劉知幾(唐の歴史家)「史家はごたごたしたものの中に法則を探り、隠微な世界に捜索の手を伸ばし、深みに釣針を垂れ、遠いものを引き寄せる事が出来なかったら、どうして利害を辨別し、善悪を明らかにする事ができようか」
 「そもそも人には賢人と愚人がある。そこで人の悪行は世の戒めとなり、善行は後世の範たるべきであるのに、死後ただちにその名が知れわたらないのであるなら、それは誰の罪であろうか。思うに史家の責任である」(『史通内編』)
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 中国を中心とした東アジア世界には、公明正大はもちろん平等、公平、人権、人道といった人の道を説く金言は正史や公文書から日常の会話でも尽きないが、実際にはまったく無縁で存在しない。
 中国正史の多くが勝利者によって歪曲・捏造されているが、それを額面通り信用するのは現代日本人だけである。
 実力至上主義による、「強者必勝、敗者必滅」「能力者生存、無能力者死滅」の弱肉強食社会である。
 自分にないモノや自分が欲しいと思うモノで、相手がそれを持っていれば相手を殺して奪う。
 抵抗すれば、女子供に関係なく皆殺しにしても奪った。
 血のつながった一族あるいは義兄弟の契りを交わした秘密結社の仲間以外の、同じ民族はもちろん異民族も虫ケラのように虐殺して、全てを奪った。
 それが、略奪と虐殺を目的とした侵略行為を正当とする中華文明である。
 それの略奪と虐殺を理屈を付けて正当化したのが、儒教である。
 中国の「徳」による統治や「徳」による政治とは、そうした代物である。
 道教老子は、権力を得る為に体制に媚び諂う儒教は人を奴隷として堕落させる悪しき教義であるとして嫌った。
 儒教は、道教は神仙思想による不老不死の術など迷信を広める邪教として仏教と共に弾圧した。
 日本の神道は、天孫降臨の民族中心宗教と中国を追われた道教と仏教を変容させ取り入れて成立した。
 故に、中国・朝鮮と日本は別物であり、同文同種ではない
 もちろん、日本文明と中国文明は異質な文明である。
 中国人は、自分のみの欲望を叶える為に素直に生きる『水滸伝』など義侠物語を愛読する。
 富と権力を独占しようとする野心を持った中国人は、謀略・陰謀・詐称の聖典として『三国志』や『孫子』や『史記』などを必読する。
 儒教は、「徳」を有した一人の皇帝と無教養な万民の奴隷を理想社会とする学問であった。
 それは、一人の指導者による一党独裁体制を理想とした共産主義と似ていた。
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 中国には、一貫した流れによる悠久の歴史は存在しない。
 つまり。中国には古代がない以上、「中国五千年」などはない。
 中国史とは、中国人同士の大虐殺の歴史である。
 中国人の逞しさとは、そうした惨殺の中を生き抜いてきたからである。
 古代の気の弱い日本人は、「他人を騙し殺して生きる」という熾烈な実力至上主義の競争社会を嫌って、大陸を逃げ出したのである。
 くよくよ考えてすぐ諦める淡泊な日本人は、何事にも挫けず前向きに強引に生きる中国人の旺盛なバイタリティーにはかなわない。
 日本人は、すぐ罪を認めて謝罪し、誤解を解く為に低姿勢となって弁解し、わずかな恩義に感謝する。そして、馬鹿正直に恩義を返そうとする。
 中国人は、謝罪しないし、弁解しないし、当然の事ながら感謝もしない。当然、恩義など屁とも思わない。
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 中国大陸は、古代から天災というより人災による生き地獄であった。
 紀元前206年から1936年までの2141年間における天災の総数は、5,150回以上あったと言われている。
 その原因は、自然破壊により人口過剰と食糧不足が社会秩序を崩壊させるからである。その被害は時代と共に拡大し、犠牲者数は増大した。
 中国人など東アジア人は、日本人と違って、自然環境を大事に守ろうという観念を持ていない。
 東アジアの自然は、何時の時代でも、中国人によって回復不可能になるまで破壊し尽くされていた。
 超現実主義の東アジアでは、自然を大事に守ろうという宗教や思想は生まれなかった。
 自然保護思想とは正反対の、自分の利益の為ならば自然破壊は許されるという信条が、古代から常識となっている。
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 中国4000年の虐殺の歴史は、皇帝の権力に逆らう反逆者を絶対に許さない正統派儒教によって生み出された。
 民族的一貫性がない為に、正統派儒教は新しい皇帝に天命を失くした悪徳皇帝とその一味全員の大虐殺を承認した。
 そして、中国人でなくても中国の皇帝とした。中国皇帝の3分の2以上が、中国人ではない。
 敗者は悪人として容赦なく殺され、同胞を裏切り味方になった者は善人と賞賛され利用できる便利屋として助けられた。
 万世一系男系天皇を戴く日本の歴史とは違い、中心を持たない中国の歴史は数千万人を虐殺した、世界一の「血塗られた虐殺の歴史」である。
 正統派儒教の道徳や仁・義・礼には、普遍的な人権も人道も無く、人間的な平等も公平も無く、社会的な自由も民主も無かった。
 道教老子は、それゆえに儒教孔子を嫌った。
 又、東アジア世界では、身分や出身に関係なく救われるという、インドから渡来した大乗仏教は根付かなかった。
 日本の神道は、土俗宗教の中に道教大乗仏教の思想を取り入れて成立した。
 日本派儒教は、排他的な絶対性を追求する正統派儒教からみれば異端であった。
 古代から日本は、人を人とも思わない中国や朝鮮と関係を絶つ事に悪戦苦闘していた。
 ゆえに不寛容な絶対真理を信奉する中国人は、曖昧にして多種多様な価値観を同等に共有する日本人以上に、権力者の偏狂的プロパガンダを無条件に受け入れた。
 日本人は外圧に弱かったが、中国人ら東アジア人は洗脳されやすかった。
 中国社会は、人治社会として、法治社会の日本と違って実力者・権力者の鶴の一声で全てが決定した。正統派儒教は、その為の教養であった。
 呉佩孚「中国はシステムが存在しない国家だ。無政府状態と反逆がはびこっている。指導者を裏切る事など全く朝飯前だ。これが今日の中国全土に広がる混沌の根本的な原因である。下っ端共は指導者を裏切って取って代る事ばかり考えている。だから、無秩序が際限なく拡大し続けるのだ」
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 8000年前 陝西省から山西省にかけて仰韶(ぎょうしょう)文化が栄えていたが、6000年前に忽然と跡形もなく消えた。
 黄河文明は、仰韶文化を受け継いでいない。
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 遼河文明(りょうがぶんめい)は、中国東北部の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ。紀元前6200年頃から存在したと考えられている。
 発見
 1908年に考古学者の鳥居龍蔵遼河文明の一つである紅山文化を発見したことから始まる。
 文化
 大規模な竪穴式住居が出土しており、特に遼寧省凌源市から建平県で発見された紅山文化の遺跡の一つ牛河梁遺跡は広範囲にわたって墳墓や祭壇といった神殿が発見され、先史時代の「国」があったのではないかと考えられている。
 興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されており、櫛目文が施された平底円筒土器、けつ状耳飾りなどが出土している。紅山文化の遺跡からは風水の原型と見られるものも出土している。夏家店上層文化からは最古の遼寧式銅剣が発見されている。
 このように黄河文明長江文明とは異なる文明でありながら、後の古代中国文明に大きな影響を与えたと考えられることから、現代でも大きく注目され盛んに研究されている。
 2015年1月に合衆国科学アカデミー紀要に発表された中国科学院のXiaoping Yang(楊小平)、合衆国ニューメキシコ大学のLouis A. Scuderiと彼らの共同研究者による内モンゴル自治区東部の渾善達克砂丘地帯の堆積物の検討によれば、従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した。このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、後の中国文化へと発達した可能性が指摘されている。
 遼河文明遺跡における6500年前から3600年前にかけての古人骨のY染色体ハプログループ分析では、ウラル系民族で高頻度に観察されるハプログループNが60%以上の高頻度で認められる[5]ことから、遼河文明を担った集団はウラル語族を話していた可能性がある。[独自研究?]後の夏家店上層文化の時代になると、ハプログループO2やハプログループC2へ交代したようである。
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 6000年前 紅山(こうざん)文明。内モンゴルの紅山後(こうざんご)遺跡は、新石器時代から青銅器時代までの遺跡である。
 中華世界は、モンゴル高原から始まった。
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 約4000年前 黄河揚子江などで文明が開化した。
 黄河流域では、稗や粟が栽培されていた。
 揚子江流域では、稲作が行われていた。
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 紀元前1500年 アーリア人は、インドに侵入し先住民を支配するや、自分達を頂点とするカースト制度を敷いて、下位カーストを差別した。
 カースト制度における四つの身分。バラモン(僧侶・司祭)、クシャトリヤ(王族・武士)、ヴァイシャ(地主や商人などの平民)、シュードラ(農業や牧畜など重労働する奴隷民)。
 第5の身分としてダリット(不可触賤民)が、最下層カーストとされた。
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 青銅器時代。中原と呼ばれた黄河中流域に、周辺民族が移り住んで雑婚を繰り返し同化して漢族とった。
 混血民族漢族は、周辺民族が持っていた固有の生活様式、文化、宗教を混ぜ合わせて黄河文明=中華文明を生み出した。
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 蛮族の東夷が、夏王朝を建国した。
 夏王朝の桀王は、中国最古の残虐王である。
 中国の、身の毛もよだつ残虐な歴史はこの時から始まる。
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 チベット系蛮族が、中原を支配して殷王朝を建国した。
 殷王朝。殷は、王墓に、周辺の異民族から奴隷狩りで強制連行した1,100人以上の若い男性を生け贄として首を刎ねて埋葬した。
 呪術的儀式で、数多くの奴隷を人身御供として殺害した。
 権力者は、領民を納税者であり兵士とみなして支配し、奴隷は家畜以下の獣として扱った。
 中国の人民に対する認識は、古代から現代に至るまで変わる事がない。
 最後の国王紂王は、絶世の美女である寵姫・妲己の色香に惑わされ、彼女の歓心を買う一心で悪逆非道を繰り返した。
 中国では、女性が社会に混乱と破滅をもたらすとして、表に出さず家の中に閉じ込めていた。
 女性の人権を否定し、人として認めないのが、儒教の正しい教えである。
 司馬遷「西から来た殷人が漢民族を奴隷化した」
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 蛮族のペルシャ西戎が、周王朝秦王朝を建国した。
 中国は、古代から遊牧民族の蛮族が農耕民族の漢族を支配し、高度な文化や洗練された芸術を生み出していた。
 中国人は、この世には存在しない。
 漢族は、中華思想で中国人となり、蛮族が中国大陸の統治者になって皇帝や国王に即位すれば中華風の称号名を与えて中国人とした。
 モンゴル族フビライは、元朝の世宗に即位するや中国人となった。
 テムジンは、ジンギスカン(成吉思汗)として中国とは無関係なモンゴル帝国を建国したが、元朝の太祖の称号を得て中国人となった。
 満州族ホンタイジは、清国を建国して太宗に即位して中国人になるや、ヌルハチも太祖の諡を得て中国人となった。
 中華思想の称号を得た蛮族は中国人となったが、成れなかったのは朝鮮人だけである。
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 紀元前1027年 ソグド系遊牧民は、殷王朝を打倒して周王朝を建国した。
 儒教は、この時代を理想の時代として、この時代を見習い、この時代に帰る事を目指した。
 孟子「開祖の文王は西夷の人なり」 
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 春秋時代゠東周時代。紀元前770年〜
 戦国時代。紀元前403年〜
 1,200回以上の激しい戦争が繰り返され、数百万人が虐殺された。
 中国の歴史は、戦乱による大虐殺と自然災害による疫病と餓死の歴史である。
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 中国の死生観としての「死者に鞭打つ」
 呉越春秋。 
 楚の平王は、王命に逆らう伍奢と伍尚を処刑したが伍子胥をと逃がした。
 伍子胥は、父と兄の恨みを晴らす為に楚国を攻め、復讐の為に平王の墓を暴き、屍体に100回鞭打った。
 中国では、王侯貴族でも罪人とされると1000年後までその罪を許さず、死者への尊厳もなく平然として鞭を打ち、唾を吐き付ける。
 人生観は、「生を知らずして何で死を知るか」
 死んでからの事を思い煩う前に、生きている事が大事である。
 生きていると言う事は、利益を手にして大金を掴むみ今の瞬間を楽しみ事である。
 そこには、他人の存在は眼中になく、他人の命や権利を完全無視されていた。 
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 古代中国の中原で成立した東洋的専制君主の重要な使命は、蛮族である異民族の侵略から中華世界を守るのではなく、黄河の氾濫を如何に食い止め、優れた農法を編み出し高度な潅漑を行って食糧を生産して庶民を飢えさせないかであった。
 中華皇帝は、天帝から治水治国の大命を承けて正統な天子の称号を得た。
 儒教は宗教ではない以上、霊験によって御利益をもたらす神や仏に関心がなく、死後の世界より生きている今を重視する、「この世の思想」であった。
 そして、庶民に対する社会道徳を論じたものではなく、天子として君臨する君主に対する政治思想であった。
 儒教は、伝説的聖人君主である尭、舜、禹三代の治世を手本とし、その理想に近づける「べき」であると説いている。
 天帝の代理として、中華世界を天の徳で教化し、正しい上下関係秩序で統治すべきであると。
 儒教は、読み書きができず汗水垂らして働く身分低い小人など歯牙にもかけず、相手にはしない。
 庶民は、天子や領主が誰になっても関心がなく、血族が集まって暮らす地域の事にしか関心がなく、他の血族を信用せず、他の血族が住む地域が攻められ根絶やしにされようとも興味が無かった。
 中国の国土で、大きな災害が起きても自分達に及ぶ危険性が少ない為に、他の血族と団結して行動する事はまず無かった。
 その意味でも、中国には真の民族主義は生まれなかった。
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 道教…運命は生まれながらに定められている。
 儒教…努力によって人の運命か変えられる。
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 孔子は、現実との妥協を絶対に許さない徹底した理想主義者であり、儒教孔子の理想とする正義と道徳を叶える学問であった。
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 孫子。「兵は詭道なり」、騙す者が勝つ。 
 韓非子。「刃向かう人間は皆殺しにしなければならない」
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 紀元前318年 モンゴル高原に出現した騎馬民族匈奴は帝国を樹立し、南下して漢民族の地を侵略して殺戮と略奪を行った。
 農耕漢民族と遊牧騎馬民族によいる熾烈な攻防戦の始まりである。
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 秦の白起将軍。
 紀元前293年 韓・魏連合軍を破り、捕らえた敵兵24万人を斬首板した。
 紀元前273年 魏・韓・趙連合軍を破って敵兵13万人を斬首した。
 紀元前265年 韓を攻めて敵兵5万人を斬首した。
 紀元前260年 趙軍を長平の戦いで破って40万人以を捕虜としたが、食わせる事ができないとみるや生き埋めにした。
 中国では、人の命には価値がなかった。
 紀元前257年 白起将軍は、罪に問われて自害した。
 「私は国家の為に報いたのに、なぜ死ななければならないのだろうか」
 白起は、不敗の名将として100万人以上を虐殺した。
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 秦の始皇帝は、周辺王家に秦の娘を嫁がせ、女系制を強要し生まれた王子を秦の子として国王に即させて、秦国領土に併呑した。
 女系制は、男系王家の滅亡を意味した。
 紀元前221年 始皇帝は、武力で中国を統一し、逆らう者は容赦なく虐殺した。
 中国を世界の中心に据えた、中華思想の誕生である。、
 戦乱と政争と異民族の侵略で、血生臭い虐殺が絶えず、強くなければ生きられない強者の世界であった。
 日本人と中国人は、正反対の人間である。
 中国は、人の命を虫けらのように扱い、残虐に奪っても痛痒を感じない。
 始皇帝は、天帝の命を受けた、一般の人間を越えた徳のある高貴な存在とされた。
 天子として、自分だけの絶対価値観を打ち立て、勅命という法で、全ての人民の不平不満を圧殺し不服に鉄槌を下し問答無用で従属させた。
 専制君主としての力の誇示で、自分だけの富を蓄える為に世界から富を暴力を振るって奪い、自分だけの快楽に耽った。
 自分の揺るぎない意志を前面に押し出して、従わない他人を踏みにじり、権力と権威を無限に増大させた。
 始皇帝は、自己の意志を神聖な意志と全面肯定できる唯一の絶対的存在として、後悔はしないし、反省もしないし、苦悩もしなかった。
 漢字を意思伝達の媒体とした中華世界は、始皇帝の意志を徳目として実行する法治社会である。
 ゆえに、如何なる法も始皇帝の意志に従った。
 中華を北方の野蛮族から守る万里の長城を築く為に、数千万人の囚人や一般人を駆り出した。
 過酷な労働と飢えと寒さで、数百万人が死亡した。
 逃げ出した者は、捕らえられ、如何なる理由があって法に照らして処刑された。
 疲労や病気で工事を遅らせている者や些細なミスを犯した者も、法によって処刑された。
 難工事が予想される現場では、人柱が埋められた。
 始皇帝が死亡するや、秦帝国は約15年で滅亡した。
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 秦の始皇帝は、漢字の表記を統一するべく、他の6ヵ国が採用していた漢字を廃止し、民間の政治や経済や思想などの書物を没収して焼いた。
 焚書坑儒は、単に儒教のみ対象とした思想弾圧ではなく、真の狙いは漢字の字体と読み方を秦式に統一する事であった。
 儒者が、漢字の統一を儒教ではなく別の学派の漢字表記で行おうとした事に反対したから弾圧されただけである。
 漢字読みは、余りにも中国の国土が広大で地域色が強かった為に断念して、公式の官読みのみを秦式とした。
 中国言語の統一は不可能で、異民族の征服王朝が成立するたびに公用語が目まぐるしく変わり、全ての中国人が共有できる唯一の中国語は成立しなかった。
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 徐福は、不老不死の薬を求めて船出したが失敗し、追っ手を恐れて日本ではなく東南アジアの方に逃亡したといわれている。
 つまり、日本は徐福とは縁もゆかりもない。
 江戸時代。病的な中華礼賛に凝り固まり中国人になりたいとの願望を抱いていた儒学者が、自分を徐福の子孫であると虚偽の証明を行う為に記念碑を建てた。
 日本人否定の儒学者や漢学者ほど、哀れな日本人はいなかった。
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 秦の始皇帝は、北方の遊牧民族の侵略を恐れ、戦えば必ず負ける事を知っていた為に、守勢として巨大な防壁・長城を建設した。
 漢の武帝は、始めて攻勢に出て、遊牧民の帝国・匈奴を圧倒した。
 中国人は、自分達の事をチャイナ(秦)と呼ばれても、中華思想漢民族と称した。
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 項羽将軍は、降伏した秦軍兵士約20万人への食糧がない為に生き埋めにした。
 紀元前206年 項羽将軍は、秦王子嬰をはじめとして一族800人以上と官人4,000人を処刑して、秦王家の霊廟を消滅させる為に一族を死滅させた。
 項羽は、兵士を食べさせる事が出来なくて敗北した。
 劉邦は、兵士に食料とカネを与えて勝利した。
 司馬遼太郎「中国の政治は、人々に食わせようということが第一義になっている。……食わせるという能力を喪失した王朝については、天が命を革めてしまう。他の食わせる者に対して新たな命をくだすのである」
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 下級官吏の劉邦は、名門の項羽を破って漢帝国を建国し、高祖に即位した。
 中華皇帝を頂点とした、儒教的中央集権帝国の成立である。
 中国では、文官が貴ばれ、武官は下級官吏として軽蔑されていた。
 高祖は、文による人治政治を行う為に、わずかな常備軍のみを残して大半の兵士を解雇した。
 解雇された兵士は、有能であれば文官となり、後の者は元の農夫に戻って田畠を耕した。
 文官は、任地に赴き元の同僚らから租税を取り立て、貪官汚吏となって租税の一部を着服して私腹を肥やし、さらに上級職に出世する為に劉氏一族に賄賂を送った。 
 劉邦の后であった呂后は、劉一族のみを王族として、建国に功労あった元勲の無実の罪で滅ぼした。
 斉王韓信、梁王彭越、淮南王英布らは、殺害された。
 呂皇后は、三大悪女の一人として、劉邦亡きあと政治の実権を握って劉氏一族を殺害して呂氏一族を取り立てた。
 呂皇后が死亡するや、呂史一族は報復として皆殺しにされた。
 中国では、女が政治に口を出す事は滅亡の元凶になるとして嫌った。
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 宮城谷昌光劉邦は速成を信用しない。かれ自身、48歳であるが、たいしたことを成したわけではない。むだに生きてきたと嗤(わら)われるであろう。だが、むだに生きてきたという経験こそが、もっとも貴重となる時である。無益の積み重ねが、有益の上限を超えるといいかえてもよい。──愚者は賢者にまさるということよ」(『劉邦』)
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 中国は、男系宗族社会として、同じ姓を持つ同宗族族の者を縁故で優遇し、別性は如何に優秀であっても排除した。
 始皇帝以降の中華皇帝は、冷徹で厳格な皇帝の法ではなく曖昧で軟弱な君主の道徳で国を治めようとして弱体化して、皇族や重臣等の権力闘争で若死するか非業な死を迎える者が多かった。
 中国は、法に支配される法治世界から、道徳が支配する人治社会となって腐敗堕落した。
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 「無官不貪」
 儒教社会は腐敗し、権力を持った高官は必ず不正を働いて私腹を肥やす。
 腐敗が、皇帝の猜疑心から逃れる唯一の手段であった。
 清廉潔白で善政を行い実績お上げ、仁徳を積み民から敬愛されると、皇帝の座を奪う逆臣の疑いありとして、一家・一族・親族全てが皆殺しにされた。
 生き残る道は、金銭欲に走り、腐敗堕落して私財貯め込む事である。


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