🪁7〕─1─前漢は朝鮮半島を武力統一して領土とした。中国に仏教伝来。三国志と人口激減。五胡十六国。異民族の侵略で惨めに支配される漢族。~No.17No.18No.19 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 『論語』。先進篇「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」
 儒教は宗教ではない為に、生を語っても死を語らないが、死者を弔う儀式を取り仕切る。
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 異民族は、漢族王朝は滅ぼして征服王朝を樹立する。
 中国の歴史は、異民族支配の歴史である。
 漢族による4000年の輝かしい中華帝国史とは、真っ赤な嘘で、そんな歴史は存在しない。
 中国歴史とは、嘘の歴史である。
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 古代から、政治倫理としての天を人格神ある天帝信仰と家族道徳としての父系血族の祖先崇拝を持っていた。
 天命思想では、徳がある君主は天帝から天子に認められて地上の支配権を委任される。
 儒教の「湯武放伐論」は、悪政を行う君主は徳を失い天に見捨てられた暴君であるから、民衆は天帝の命に従って暴君を排除して新たな徳のある君主をたてる事ができると説いている。
 皇帝・君主になる者は「徳」があれば、名家・名門ではなく身分・家柄にも関係なく梁山泊のような盗賊・山賊・海賊の頭目でも良く、漢族ではなく異民族でも構わないとされた。
 儒教は、徳を失った君主を倒す為にクーデター・謀反・叛乱・内戦を正当化する革命思想でもあった。
 中国には、天地創造神話も民族誕生神話もなければ民族物語もない。
 そもそも、漢族という疑似的集団はあっても中華民族・中国民族は存在しないし、統一された国家としての正式名称もない。
 中国は国名でもないし、中華も違う。
 その時々の王朝名はあっても、普遍して変わらない統一された正式国名がない。
 発音としての「チャイナ」はあるが、「チャイナ」は国名ではなく地域名にすぎない。
 中国では、皇帝・君主は天の命でその地位が保証された一時の君主にすぎないため命を賭けてまで忠誠を貫く必要はなく、父系相続する先祖は変わる事がない現実であるために命を捨てても親には孝行を尽くすべきである、と考えられている。
 儒教は、「忠」より「孝」を優先する。
 漢の劉邦は、農民出身で、下級役人で命令に背き法を犯して盗賊団の頭目になった。
 明の朱元璋は、貧農出身で、生活に困窮して盗賊団に入り狂信的宗教結社の紅巾軍に参加して頭目となった。
 隋、唐、元、清などの諸王朝は、漢族ではなく野蛮な周辺の異民族である。
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 儒教における民衆統治の基本政策は、「愚民」政策であった。
 「民は由(よ)らしむべし、知らしむべからず」であった。
 徳のない小人の民衆に学問を教える事は、徳のある天子を威厳を疎んじ、勅令を聞かず、自分の欲得だけで行動して世の乱れの原因になるとして禁止した。
 小人である民衆は、出世して権力を手に入れようという野心も金を稼いで贅沢な生活をしたいという意欲もなく、書物を読んで賢くなりたいという知識欲も分からない事を知りたいという好奇心もなく、向上心も上昇意欲もなく、昨日も今日もそして明日も「たいした違いはない(差不多、一様)」と達観し、あくせく働くよりも「まあまあ適当に(馬馬虎虎)」と生活していた。
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 紀元前156年 前漢武帝は、即位して、董仲舒の献策で儒教を国家統治の正統教学とした。
 張騫は、西域諸国と交易する為に軍隊を率いて遠征し、従わない国々を攻め滅ぼして領土を拡大した。
 領土拡大の侵略戦争によって、敵味方合わせて数十万人が犠牲となった。
 武帝は、老境に入ると疑心暗鬼となって、皇后や皇太子はもちろん数十万人を反逆罪で処刑した、
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 漢の武帝は、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽波、真番、玄菟、臨屯の四郡を置き、楽波郡に郡衙(ぐんが。郡役所)を置いて満州朝鮮半島を管轄させた。
 楽波郡の古朝鮮人達は、漢族による苛斂誅求が余りにも厳し過ぎて南に逃げた。
 漢帝国は、逃亡してきた古朝鮮人達を集めて新たに帯方郡を設けた。
 漢に滅ぼされた古朝鮮などは存在せず、朝鮮半島は未日本同様に開地であった。
 宮崎市定「自力で統一を成し遂げぬ前に、いきなり漢の武帝に征服されて漢の郡県となった。そして深く中国の文明を植え付けられたので、後に民族的統一をなした後も、常に中国に対して受身に立たねばならなかった」
 「元代にはほとんど属地の如く、明代には領土の如く、清代には分離して保護国の如くなった」(『中国周辺史総論』)
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 紀元67年 後漢の明帝の時代に、中国に仏教が伝来した。
 インド僧の迦葉摩騰竺法蘭は 洛陽の白馬寺で経典を漢訳した。
 仏教が信徒を増やすにつれて、儒教との対立が表面化し始めた。
 儒教は、血縁として、親への「孝」を人倫の中核概念にすえ、主君の「忠」よりも上に置いていた。
 仏教は、仏縁として、悟りを開く為に僧侶となり修行が必要であるとして、親を捨て、家を出る事を求めた。
 儒教において、家出は人倫にもとる許されない犯罪行為であった。
 庶民は、現世利益の為に、難しい漢字で書かれている儒教の教典よりも、簡単に念仏だけで済ませる仏教に走っていた。
 後年。儒教に仏教の思考法が取り込まれて成立したのが、陽明学朱子学であった。
 仏教においても、次第に儒教の孝の思想を取り入れ、釈迦本来の悟りという教えから逸脱したいった。
 変質した仏教と儒教が、日本に伝播して行った。
 朝鮮は、儒教を受け入れ、仏教を排除した。
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 正統派儒教は、国外では中国を中心とした従順な朝貢国による国際序列を定め、国内では文官優先の上下関係を築き庶民に圧政への忍従を強制した。
 朝鮮は半永久の属国として、国外では中華皇帝に対して屈辱が、国内では両班などの特権階級に対する忍従が支配していた。
 日本は神道と仏教で脱中華を、朝鮮は儒教で従中華を、それぞれ国家理念とした。
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 後漢末期 大雨で大洪水が発生し凶作となり、各地で飢餓が起きて多くの餓死者を出した。疫病も蔓延して、人口が激減した。
 農民は、荒れた農地を放棄し、死者が出た故郷を捨て流民となり、被害が少なく食べ物のある地域に押し寄せた。
 地元民は、食糧を奪われると自分達が餓死する為に、自分達の食べ物を守る為に洪水の如く押し寄せる流民を武力で追い返した。
 各地で、わずかな食糧をめぐっての殺し合いが起きていた。
 後漢王朝は、皇后の縁者である外戚と官僚と宦官の三つの勢力が血生臭い抗争を繰り返していた。
 そして。王朝は腐敗堕落して、被災民や流民の救済を行わなかった。
 政府高官達は、権謀術数を駆使して騙し裏切る権力抗争に明け暮れ、他人の命より自分の面子に拘り、コネ人事を行って利権を独占して私腹を肥やしていた。
 役人の任官や出世は、学力や能力による実績ではなく、コネと賄賂で左右された。
 中華世界では、強欲による不正と私欲による変節が付きものであったがゆえに、社会秩序を維持する為に儒教的道徳が尊ばれた。
 時代が下るにつれて社会秩序の崩壊や人心の荒廃が激しくなった為に、理詰めの息苦しい朱子学が主流となって、社会全般から流動性を奪い硬直化させた。
 後漢末の流民は、罪悪感を薄める為に、新興宗教である神懸かり的呪術を行う原始道教太平道を取り入れて、黄巾の乱を起こした。
 東洋の宗教は、人心の荒廃の中、社会変革を求める野心家によって広められた。
 中華の革命思想は、宗教的理想と道教的現実から生まれた。
 人心は荒廃して大戦乱時代に突入し、各地で殺し合いが起きていた。
 歴史的事実として、時代が転換するときには必ず流血を伴い、殺し合いを伴わない転換はなかった。
 日本人が好きな、三国志の時代である。
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 弱い者は、素直に自分の弱さを自覚し、強い相手の事を知ろうとする。
 力のない者は、戦う事を恐れて兵法を学び、相手の弱点を考え、圧倒的な兵力を考慮して戦い方を研究した。
 戦場で同じ事は起きないと見極め、思い込みや先入観を捨て、全てが新し状況と割り切り、変幻自在、臨機応変、刻々と変わる戦況に応じて柔軟に態様した。
 曹操が、まさしくその人であった。
 卑しい宦官出であった為に、求才令を発して、人材を得る為に役に立たない家柄よりも有益な才能を優先した。
 『魏書』「軍を御こすこと30余年、その間、手から書物を離さず、昼は武事の策を講じ、夜は経書とその伝に思いをめぐらされた。高所に登るとかならず詩を作り、新しい詩ができると、これに管弦をつけたので、みな楽章となった」
 184年 後漢。黄巾(こうきん)の乱(農民の反乱)で大混乱が置き、虐殺に次ぐ虐殺で、黄巾が鎮圧されるまでに漢族約6,000万人が500万人に激減した。
 194年 曹操は、父親と弟が盗賊に殺され犯人が見付けられなかった為に、責任は徐州の州牧・陶謙にある賭して懲罰軍を送った。
 討伐軍は、和議を求めた陶謙の使者を惨殺し、武器を持たず無抵抗な女子共を含む数十万人を大虐殺した。そして、犬猫やニワトリやブタなどの家畜も手当たり次第殺した。
 相手が徳があり教養があろうとも、容赦なく惨殺した。
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 中国の大乱世に比べれば、日本の乱世などは砂場に於ける幼稚な子供喧嘩に過ぎない。
 中国人の「しぶとさ」は、そうした悲惨で過酷な人間不信の社会環境で、自分一人でも生き抜くという知恵であった。
 日本人には、理解できない生き方である。
 後漢帝国は、宗教結社による黄巾の乱(184年〜)で衰退し、各地での農民の反乱が追い打ちとなって滅亡した。
 中国人は、人の後塵を拝するを嫌い、一人勝ちを志向する独善的民族性ゆえに、隙あらば国家を崩壊させる内戦を引き起こしていた。
 正統派儒教は、家臣が主君を殺害する下克上化した戦乱を静めようとはせず、むしろ徳のない皇帝や国王を殺す事は天の命によるものとして容認した。
 家族である親子や兄弟はもとより、親族や一族でも、隙あらば自分が皇帝になる為に相手を殺した。欲得による隠謀は絶えず、油断すれば寝首を掻かれ、すべてを失った。
 いつ終わるか分からない戦乱により、人口が激減した。
 中国は、労働不足を補う為に、蛮族と軽蔑していた周辺諸国を侵略し、獣物と差別していた非漢族を奴隷として強制連行した。そして、そこにあった富すべてを略奪した。中国人が去った跡地には、人も物もすべてを失った不毛の荒廃とした土地のみが残った。
 異民族の大量移住により、新たな紛争が悲惨な戦争を引き起こした。
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 383〜589年 五胡十六国魏晋南北朝の動乱時代である。トルコ系遊牧民族鮮卑人が、中国を武力統一して隋帝国を建設した。
 周辺の弱小諸国は、人を人と思わない軍事帝国中国の戦乱に翻弄され続けた。
 中国領土の一部とされた朝鮮半島は、中国支配の衰退を機に独立を目差した。半島で、百済(古代朝鮮人)と新羅中央アジア騎馬民族の子孫)が誕生し。中国東北部満州に成立した高句麗(非朝鮮人)は、南下して中国や朝鮮に領土を拡大する為に侵略戦争を繰り返していた。
 民族的に、高句麗は朝鮮の一部ではない。
 古代朝鮮は、中国の魏、蜀、呉三国同様に、「力が正義」という三国動乱時代に突入した。
 そして、弱肉強食の論理に従って殺し合いが延々と繰り返された。
 正統派儒教は、「天の命」によって。徳を持った者の大虐殺を正当行為として容認していた。
 儒教とは、けっして平和と安定をもたらす王道の学問ではなかく、王朝交替の「放伐」と「禅譲」を正当化する覇道の学問であった。
中国の総人口 
 156年 後漢=漢族  (25〜220年)   6,400万人 
 606年 隋 =非漢族 (581〜618年)  5,400万人 
 706年 唐 =非漢族 (618〜907年)  3,700万人 
 中国は、大虐殺を繰り返していた。
 隋と唐の両王朝は、中国人の王朝ではなく、中華思想で獣として嫌われた鮮卑人というトルコ系遊牧民族の王朝である。
 中国人が建国した中華王朝は幾つもなく、全ては異民族による征服王朝である。
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 中国の発展は、異民族の唐王朝で最高潮に達しその後は見るところは少なく、幾つかの点において優れたところあっても総じて残滓に過ぎない。
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 中国人とは、実の所、恥も外聞も無く「面子」に拘らなければ、中国人ではいられなくなる。
 排他的「面子」にしがみつかなければ、中国人でいられないほどに、民族としての実態のない空っぽな民族である。
 ゆえに、「面子」を相手に強要する。
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 中国ほど、宗教に関する内戦・反乱・暴動が多発した国・地域は地球上に存在しない。
 歴代王朝は、例外なく大虐殺で反体制的宗教勢力を抹殺してきた。
 そして、数多くの帝国や王国は不寛容な宗教戦争で滅亡した。権力者一族は、宗教への徹底弾圧を避け理解を示して妥協的共存政策とった為に、排他的な正統派儒教勢力の裏切りにあって惨殺された。
 満州族清王朝(1616年〜1912年)後期だけでも、
 仏教系白蓮教の乱(1796年〜1804年)では600万人以上が、
 プロテスタントキリスト教徒中国人の反乱である太平天国の乱(1851年〜64年)と仏教系秘密結社の反乱では人口4億3,000万人中1億6,000万人以上が、
 東トルキスタン新疆ウイグル自治区)でのイスラム教(回教)の乱(1864年〜1878年)では1,000万人以上が、中国人に虐殺された。
 独善的なキリスト教は、中国に浸透して正統派儒教の土台を侵食し、意図的に全中国を混乱させ戦乱を誘発した。
 その為に、キリスト教は仏教と並んで危険な革命宗教として大弾圧を受けた。
 チベットなどの民族悲願である分離独立運動も、中国人・漢族から大弾圧を受け、度重なる大虐殺の末に人口を減らして少数民族に転落した。静かな民族浄化として大量の漢族・中国人が移住し、地域の多数派となって全ての権限を独占して、少数民族を抹殺し非中国を消滅させようとしている。
 中国人は、歴史的使命として、非中国人の土地を中国化する為に情熱を傾けている。そして、裏切り者は、自分だけの利益・金儲けの為に自国の中国化に協力した。
 中国人男性は多数派として、非中国人男性を虐殺し、非中国人女性を強姦して自分の子供のみを生ませた。同じ様な政策を、イギリス貴族はアイルランド初夜権として行った。
 これが、大陸における男系優位主義である。
 何時の時代でも、大陸世界は排他的な男系血筋によって統一に向かっていた。
 中国文明は、男系世界として、排他的血族関係を重視して、公平を憎み、対等な親交を深める事を嫌い、自己中心的に競争心を剥き出しにした。
 日本文明では、地域に同化しながらも民族性を失うことなく、公平を重視し、対等な関係での協調を保ちながら集団で助け合った。
 中国文明は個人中心社会であり、日本文明は集団重視社会であった。
 そして、日本の集団重視社会は、国際時代における近代的都市社会には相応しくないとして否定された。
 現代日本で、中国人は法律による規制がない事に目を付け、日本の豊かな土地や日本人の貴重な水源である山野を買い漁っている。
 貧困階層の中国人が、大挙して観光目的で日本を訪れ、その中から行方不明者が続出している。国際派を自認する友好的日本人は、日本社会に不法に入り込んだ中国人を秘かに面倒をみ、日本人の職場を奪っても地方での就労を支援している。
 日本では、欧米諸国同様に、不法入国者の増大と外国人による凶悪犯罪の急増が、社会問題化している。非暴力・無抵抗主義の良心的日本人は、人道を理由にして彼等を保護し、同胞が如何なる被害に遭い、たとえ殺されようとも彼等を弁護している。紳士的日本人は、たとえ身内・家族が、目の前で殺されようとも一切の暴力に反対している。



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