🦠3〕─1・B─古朝鮮。百済と新羅は、高句麗に備えて倭国に人質を送った。倭人が住む加羅(任那)。312年~No.4 

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    ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・   
 中国大陸及び朝鮮半島の川の呼び方には二通りあり、黄河文明圏では黄河淮河など「河」であり、揚子江文明圏では長江や黄浦江など「江」である。
 日本の川は、中国や朝鮮のような大河ではないから単純に「川」と名付けている。
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 朝鮮半島の西南部から南端に住んでいた南方系倭人は、日本に住んでいた海民系倭人とは遠縁に当たる同種であった。
 海民系倭人は、日本列島を中心として、東南アジア、揚子江沿岸、朝鮮半島南部を行動範囲としていた。
 日本列島と朝鮮半島南部を生活空間としていたのは、海民系倭人であって、朝鮮人ではない。
 朝鮮人は、満州の草原から半島に移り住んだ草原の民で、海洋の民ではない以上、海を渡ることはなかった。
 海を渡って日本列島ぬ移り住んだのは、草原の民と海洋の民が雑婚して生まれた雑種である混血児の倭人達であった。
 日本人は、悪までも海洋を往き来する海の民であって、大陸を移動する草原の民ではない。
 ゆえに。日本人と朝鮮人は、全くの別人とは言わないが、それ程近いともいえない。
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 『日本書紀
 「このとき、素戔嗚尊はその子の五十猛神を率いて新羅国に降り立ち、曾子茂梨という所に着いた。そして言葉に出して、『この地には私はいたくない』といって、粘土で船を作り、乗って東に渡り、出雲国の簸川の川上にある鳥上之峯に着いた」
 スサノオは、人間不信で酷薄な人間性朝鮮半島新羅を、人間及び自然が地獄の様だとして嫌って日本に逃げ出した。
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 『漢書地理誌』「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為し、歳事を持って来たりて献見したと云う」
 『魏志』。「韓伝」において、百済馬韓五十余国の一国であり、新羅辰韓弁韓二十四ヶ国の一国に過ぎなかった。
 「倭人伝」において、邪馬台国は二十数カ国を束ねる連合王国で、朝鮮半島にある狗邪韓国は倭の北岸の地であると記している。
 対馬壱岐も、倭人が住む倭国猟であると証明している。
 倭国は、百済新羅よりも大国で文化度も高かった事をほのめかしている。
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 『漢書地理志』「殷が衰え、箕子は去って、朝鮮へ赴いた。その住民に、礼儀、稲作、養蚕などを教えた。楽波、朝鮮の民に、犯禁の八条を作り与えた。人を殺した場合は、死をもって償う。人を傷つけた場合は、五穀をもって贖う。人から盗んだ場合は、男は奴隷とし女は下女にする」
 衛満は、箕子朝鮮を滅ぼして衛子朝鮮を建国した。
 『魏志東夷伝』の「韓条」は、「倭人条」より記述量は少ないが、朝鮮南部で中華皇帝が認めてはいないが「辰王(チンワン)」と王号を僭称する土豪がいる事を記している。
 扶余の王太子・帯素は、野心と嫉妬から文武に優れた第三王子・朱蒙を排除する為に、父王・金蛙王は朱蒙を殺害する様に唆した。
 22歳の朱蒙王子は、漢の元帝の建昭2年(紀元前37年)に扶余を逃げ出して高句麗を建国し、勇猛な騎馬民族・扶余族は南北に分裂した。
 高句麗は、半遊半農で、朝鮮人の血よりも遊牧民の血の方が濃かった。
 扶余国は天災や内紛で混乱して衰退した為に、帯素王子が父王・金蛙王から実権を奪って新王となった。
 同族相争うで、扶余国と高句麗は激しく戦った。
 朱素王は、在位19年の紀元前19年に40歳代で死亡し、東明聖王と贈り名された。
 帯素王は、朱蒙王が死んだ後も高句麗を攻めた。
 朱蒙の孫・第三代無恤は、高句麗を強国として宿敵扶余国を滅ぼして騎馬民族を再統一した。更に、漢帝国出先機関である朝鮮北部の楽波郡を滅ぼして併呑した。
 楽波郡を追われた者は、辰韓地域に逃げ込み、その一部が更に南に逃げて帯方郡を作った。
 此の後。高句麗は、武勇の国として、漢・中国と果てしない攻防戦を繰り広げた。
 中華思想に於いて、朱蒙王や帯素王は文化度の低い辺境蛮族の一王にすぎない為に、中華皇帝や日本天皇のように「陛下」とは呼ばれなかった。
 辰韓12ヵ国地域は、統一されて新羅国となった。
 馬韓50余ヵ国地域は、統一されて百済国となった。
 弁韓12ヵ国地域は、緩やかな部族共同体国家・加羅国として、朝鮮南端沿岸部・狗邪韓国に住む倭人との関係を強めた。
 『魏志東夷伝・韓条』「韓は帯方郡の南にあって、東西は海で終わっているが、南は倭に接している」
 弁韓加羅(カラ、カヤ)国と呼ばれ、日本で言う「カラ」は此の地域を指すとされている。中国は、「おおカラ」と呼ばれた。
 『日本書紀』は、倭人が住む半島南部を「任那(みまな)」と呼んで日本領土とし、大王家・天皇家の私的領地「内宮家」としていた。そして、任那には役所として日本府が置かれていた。
 戦後。皇国史観は侵略肯定史観であるとして、任那の日本府は否定され歴史上から抹消された。
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 古代朝鮮は、「礼」の百済(〜660年)と「武」の高句麗(〜668年)と「謀」の新羅(〜935年)の三国が、半島を武力統一する為に殺し合いを続けていた時代である。
 隣国の植民地帝国唐(618年〜907年)は、漢帝国の版図を回復させる為に、朝鮮半島を侵略し、虐殺と略奪を繰り返していた。
 新羅は、民族による半島の自主独立よりも半島統一を優先して、民族を裏切った。唐帝国に臣下の礼を尽くし、属国になる事を承知で唐の大軍を引き入れた。さらには、日本侵略の前哨基地として領土を利用する事にも同意した。
 新羅は、古代朝鮮姓を捨てて中国姓に創氏改名した。主体性を消失して、中国文明圏の一員となった瞬間である。
 国王に即位する資格がある天孫三姓、朴氏、昔氏、金氏。
 土豪の六姓(六土姓)、李氏、崔氏、薛氏、孫氏、鄭氏、裴氏。
 『三国史記』『三国遺事』は、新羅国は倭人によって建国され、新羅国王には倭人の血が流れている可能性があると記述している。
 歴代の国王は、中国皇帝の承認を得なければ即位できず、属国を嫌って独立を言い出せば中国の逆鱗を恐れた臣下によって殺された。
 1895年まで中国の命令を忠実に聞く従属国となり、その負い目から民族病として精神疾患である文化結合症候群の一種である「火病(ファビョウ)」を生み出した。
 第122代明治天皇明治神宮)の御代になって、中国とは1871年に、朝鮮とは1876年に、約1000年ぶりに正式に国交を回復した。この間に両国との正式な交流はないし、友好関係も絶無であった。但し、現代の北朝鮮同様に公的に国家としての関係ではなく、「利」を優先とした個人的交流と、「金儲け」目的の私的交易は存在していた。
 誰も、日本と北朝鮮を友好関係にあるとは言わないのと同じである。
 620年 『天皇記』『国記』
 681年 『帝紀旧辞
 1145年 『三国史記
 韓国の姓の90%は、25の姓に収まると言われている。
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 古朝鮮には、信頼に足る史料は存在せず、その大半が歪曲と捏造による真っ赤な嘘で、希望を込めた作り話である。
 古朝鮮の人々は、北方系草原の民の血を濃く受け継ぐ黄河文明の子孫である。
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 1145年 高麗は、歴代中国王朝の正史を参考にして、地域の伝承・民話・神話を集め、紀元前からの半島史を編纂した。
 それが、正史とされる『三国史記』である。
 1285年には、さらに『三国遺事』が編纂され、その過程で民族独自の『壇君神話』と『半万年建国神話』が生まれた。
 大陸における史籍とは、民族中心主義で「改竄」され、「歪曲」され、「捏造」されるのが常識である。
 如何なる歴史においても、編纂者の主観が入る為に正しい歴史など存在しない。
 正しい歴史を主張する者は、歴史を理解できない無能者か、悪辣な犯罪者である。
 民族中心の物語を否定するのは、奴隷化された下等民族のみであり、いつか死滅する哀れな愚昧民族である。
 中国史は、特にその傾向が強い。
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 高麗の『三国遺事』は、日本神話に対抗する為に、地方の檀君神話を建国神話に祭り上げ、正史として採用した。
 儒教は、建国神話など国家・民族に関わる神話を否定し、消滅させた。
 ゆえに。中国には、地域的な神による伝承や寓話はあるが、中国全体に通じる神の神話や物語は存在しない。
 同様に。儒教を信奉し仏教を排除した李氏朝鮮時代、現世利益の神に祈って占いや除霊をする巫女は最下層民として存在を許されたが、儒教を否定するような檀君などの神々を信仰する者は弾圧された。
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 高麗の『三国史記』は、新羅国王金閼智の即位に深く関わった瓠公(ここう)を日本人であったと記述している。
 新羅時代の金氏や朴氏も、日本人らしき瓠公を始祖とする説がある。
 新羅王家には、日本人の血が流れている事になる。
 つまり。新羅王国は、日本人の王国とも言える。
 もしそうならば、男系相続として、日本人には、朝鮮を占領し、支配し、合邦する権利がある。
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 朝鮮北部は山岳地帯が多く大陸からの移住者が少なかったが、南部には川を「江」と呼ぶ揚子江流域の中国人が移住して切り開いた。
 同じ頃、日本にも揚子江流域から多くの中国人が移り住んだが、そこにはすでに多くの日本人が住んでいた。
 日本では、中国人渡来人は少数派で直ぐ雑婚して姿を消した。
 その為に、朝鮮は中国の子孫として中国色が色濃く残ったが、日本は雑婚による混血として中国色は薄い。
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 秦の始皇帝が死ぬや、秦に滅ぼされた諸王国が復活した。
 燕国も、その中の一つであった。
 紀元前195年 漢の高祖は、中国統一の為に燕国を攻めた。
 燕国は、多くの領土を漢に奪われ、北京周囲を維持する小領主となった。
 燕人の衛満は、約1,000人と共に朝鮮半島に逃れ、斉からやはり逃げてきた斉人難民と朝鮮北部の原住民をまとめて衛子朝鮮を建国し、王険平壌)を都と定めた。
 衛子朝鮮の領地は、北朝鮮の西半分程度で弱小国に過ぎなかった。
 漢帝国は、国内安定を優先して周辺への併呑を控え、衛子朝鮮を外臣として同盟を結んだ。
 衛子朝鮮は、漢との交易で未開地を切り開いて豊かになった。
 紀元前108年 漢の武帝は、国内経営で財力と武力を充実させるや周辺地域への侵略戦争を開始した。
 中国は、古代から膨張願望を持ち、国力が脆弱なときは国内経営を優先して周辺諸国と友好関係を維持し、国力が付けば態度を豹変させ「未開人を教化・徳化させる」を大義として侵略戦争を開始した。
 漢は、衛子朝鮮を滅ぼし、朝鮮に四郡を置き直轄地とした。
 朝鮮半島は、遼東地方同様に中国の一部となった。
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 高句麗は、漢族の後漢鮮卑族前燕チベット系氐族の前秦に、それぞれ朝貢して臣下の礼をとり冊法を受けた。
 朝鮮は、古代から、自立性なく中華の属国であった。
 この醜い劣等感が、韓国人の心に「恨」と「怨」を生んだ。
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 朝鮮半島南部の一部は、日本に帰化した朝鮮人と共に日本領となった。
 日本が侵略して奪った地ではなく、自然と日本に編入された土地であった。
 それが、日本領任那である。
 帰化人系倭人は、半島で生活していた。
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 『新羅本紀』第四代目王脱解(たれ)は、倭国の多婆那国を追われて新羅に逃れ、第二代目の王の娘と結婚した。
 第三代目の時代に、大輔(ターポ)として国政を取り仕切った。
 脱解は、第三代目の王の遺言に従って王位に就き、風水を使って王城を築き、倭人を大輔に起用して国政を任した。
 新羅建国と朝鮮の風水術は、倭人による。
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 300年頃 匈奴、羯、鮮卑、氐、羌の異民族・五胡は、晋国の内紛で混乱するや華北に侵入し、20以上の国を建国して内戦を繰り返した。
 新羅は、軍事国家を目指し、百済高句麗への領土拡大の為に軍備強化を行った。
 百済は、文化技術国家を目指し、中国と交流して仏教を受け入れ、寺院建設や土木技術を中国人から学んだ。その結果、軍事能力は低下していった。
 百済王家扶余氏は、高句麗新羅の軍事的圧力を避けるべく、都をソウル南方の慰礼城から南の錦江(白馬江)畔の泗芡城に遷都した。
 百済は、倭国の軍事力を頼って王子を人質に差し出して同盟関係を強め、中国の進んだ文物や優れた技術を伝えた。
 隋は、高句麗討伐に国力を傾け、朝鮮半島倭国とは友好関係を維持していた。
 唐が隋を滅ぼして王朝を樹立しても、しばらくは内政重視で周辺への侵略を控えた。
 朝鮮半島は、中国からの侵略が途絶えて平和な時代を迎えていた。
 中国が、儒教中華思想で、周辺諸国・諸民族を併呑もしくは属国化して徳化・中国化する事を使命とする以上、中国が侵略戦争を放棄して非武装平和国家となる事は有り得なかった。
 日本と朝鮮は、中国の領土欲的膨張指向で戦乱に巻き込まれていた。
 その構図は、昔も、今も、将来に於いても変わる事がはない事実である。
 312年 『三国史記新羅の六等官(阿飡・アサン)の急利は、娘を日本に献上した。
 313年 中国の東北部を拠点としていた高句麗は、華北の動乱から逃げてきた漢族知識人を召し抱えて強国に成長して、朝鮮半島を南下した。
 新羅は従属を誓い、百済は従属を拒否して対立した。
 倭国は、加耶と交易し、百済を支援した。
 倭人は、加耶との交易を行うと共に多くの人間が移住した。
 中国の戦乱を逃れた漢族系知識人が、朝鮮半島や日本列島におつり住んで国家経営としての政治・経済・軍事・外交の知識を伝えた。
 356年 新羅の金氏の第17代奈勿王は、倭人と関係のある朴王家と昔王家を追放して、回り持ちによる新羅王を金閼智の子孫だけが世襲する事にした。
 倭国の侵略を恐れて、未斯欣王子を人質として倭国に差し出した。
 369年 高句麗は、百済を攻めたが敗れた。
 百済は、高句麗に対抗する為に倭国との同盟関係を結び、それを記念して七支刀を贈った。
 倭国朝鮮出兵は、領土拡大の侵略ではなく、同盟国・百済への信義と加耶との交易維持の為であった。
 倭人は、加羅に多く住んでの製鉄生産に携わっていたが、加羅以外の百済高句麗になどにも広く住んでいた。
 古代に於いて、倭国加羅百済新羅高句麗、そして中華帝国は戦争を繰り返してハッキリした国境は存在せず、人々は自由に往き来していた。
 372年 氐族が建国した前秦王の符堅は、鮮卑族後燕を挟み撃ちにするべく、後燕と敵対する高句麗に仏像と経典を贈って誼を結んだ。
 高句麗は、倭国の侵略に備える為に前秦との同盟を歓迎した。
 百済王は、高句麗に備える為に東晋朝貢して臣下の礼をとり、倭国とは関係を強める為に七支刀を贈った。
 仏教伝来は、384年に百済、528年に新羅
 日本には、百済を通じて538年か552年に伝えられた。
 だが。仏教日本伝来は、朝鮮を経ずとも、中国から伝えられるのは時間の問題であった。
 仏教文化は、日本に根付いて目覚ましい発展を遂げ独自文化となったが、朝鮮では衰退して文化までに昇華する事なく終わった。
 新羅は、日本同様に神宮を建て参拝し仏教を弾圧していたが、法興王の治世で仏教に帰依した。
 仏教が広がると共に、古朝鮮の神宮を中心とした土着宗教は消滅していった。
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 百済新羅は、倭国に人質を送り臣下の礼を誓った。
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 391年 好太王(広開土王)元年「(倭国が)海を渡ってきて百残(百済)00(不明)新羅を破り、臣下とした」
 資源の乏しい倭国は、貴重な鉄を手に入れる為に、同盟国百済の要請に従って軍隊を派遣して新羅高句麗連合軍と激しく戦った。
魏志東夷伝』「韓条 国は、鉄を産する。韓、濊(わい)、倭は、みな勝手に鉄を採る。あちこちの支払いは、鉄で行う。中国で銭を用いるようなものである。また、鉄を二郡に供給している」
 倭国は、海を渡って半島を侵略し、高句麗の属民として使節を送っていた百済新羅加羅を破って臣下とした。
 各国は、倭国に王子を人質として差し出した。
 新羅の後ろには、巨大な軍事力を持った中国の歴代王朝が控えていた。
 大和王権は、支配下に入った地方豪族に、日本型の前方後円墳による葬祭儀礼を強要した。前方後円墳がある地域は、大和王権の勢力圏と言えた。
 韓国南部には、13基の前方後円墳が存在し、日本特産の原石によいる埋蔵品が多く出土していると言われている。
 日本の古墳は3世紀頃かで、韓国はそれより新しい5世紀頃と言われている。
 中国や朝鮮では、日本原産の玉石や生地が重宝され、高級ブランドとして高値で売買されていた。
 『杜陽雜編』「(日本の布は)生地は光り輝き、香りは良いにおい。五色がそれぞれ交わっており、中国の布をはるかに上回るものであった」
 石上神宮は、百済第13代近肖古王(?〜375)が大和大王に七支刀を献上したという文献を残している。
 397年5月 『三国史記』 百済の阿幸王は、倭国との友好の証しとして、王太子の腆支を人質に差し出した。405年に阿幸王が死亡するや、腆支王子は天皇の許しを得て帰国し、即位して第18代腆支王となった。
 399年 百済は、高句麗との盟約を破り、倭国と手を組み高句麗平壌を攻撃した。
 倭国軍は、新羅を侵略した。
 新羅は、倭国に臣下の礼を誓った屈辱を晴らす為に、高句麗に救援を要請した。
 倭国=日本は、朝鮮半島への領土拡大の野心はなく、同盟国百済の養成と鉄資源の確保を目的としてたびたび軍隊を送っていただけである。
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 新羅国王は、倭国対馬に本営を築いて攻撃してくる為に、倭国対馬を攻撃するように提案した。
 家臣の多くが、「我々は海の戦いになれていない」と諫めた。
 『三国史記』は、対馬を日本領と認めていた。
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 親日派百済があった全羅道一帯は、湖南(ホナン)と呼ばれ、気候温暖で米所として豊かな食文化と、歌舞音曲にも秀で高度な芸能文化を持っていた。
 地域差別の激しい朝鮮・韓国では、全羅道出身者は差別を受けた。





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