🎍3〕─2─ヤマト王権はナラ豪族連合である。第10代から第16代仁徳天皇までの天皇。日本武尊。神功皇后。応神天皇。~No.6No.7 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 350年頃 百済から大量の帰化人が移り住んだ。
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 纏向遺跡箸墓古墳から始まったヤマト王権は、朝鮮や中国とは無関係である。
 ヤマトはヤマトである。
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 和歌森太郎「(天皇は)日本の国の形成期にあらわれたときから、独特な神性をそなえていたという意味において、一般のさまざまな階級とは違った、異質な世界」
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 万世一系男系天皇(直系長子相続)と日本中心神話と日本民族は強い「絆」で結ばれ、一心同体となって不可分の関係にある。
 日本民族は、日本民族である為に、ある事ない事を混ぜ合わせて民族中心の創作物語を作った。
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 天皇家の「旧譜皇統譜」は、皇祖・天照大神を世系第一(血統の第一)として女系男系の両系による直系長子(養子相続も含む)を正統と認めている。
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 全ての国には、当たり前のように建国神話や建国物語が存在するが、日本には建国という国史は存在しない。
 日本には、国の成り立ちを教える歴史がない。
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 邪馬台国は、鬼道を行う女巫女・卑弥呼を女王とした豪族連合国であった。
 ヤマト王権は、男系による王権であった。
 倭人は、日本列島と朝鮮半島南東部に住んでいて、朝鮮半島に住んでいた倭人が日本列島に渡る事を居住の移転であって他国への渡来とは言わない。
 百済人や高句麗人であれば、倭人とは違う他国の住人であるから渡来という。
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 塩土老翁(しおつちのおじ)「東に美(よ)き地あり。青山四周(せいざんよもめぐれ)り」
 奈良盆地の中央には大きな湿地湖が広がり、緑豊かなの山地に囲まれ、雨が降れば山から栄養豊かな水や土砂が流れ込み、平地は水田稲作に最適の地であった。
 荒れる事のない穏やかな湿地湖に流れ込む川は多く、小舟を使って盆地の何処へでも行く事ができた。
 水田稲作をするにはに最適な地で、多くの人々が住んでいた。
 川は大雨が降ると洪水となり、湿地湖は流れ出た土砂で徐々に埋め立てられていった。
 湿地湖は、大和川を通じて河内湾(大阪湾)とつながつていた。
 ヤマト王権は、豪族達が洪水の土砂で出現した土地を巡って殺し合わない様にする為に、合理的に「分かち合う」ルールを定めて利害関係を調整した。
 洪水の度に広がる新たな領地の所有を武力による戦いではなく、各豪族の長老が一同に集まって話し合いで決めていた。
 ヤマト大王は、長老会議において全会一致で円満に解決した利害案件を正当であると承認した。
 土地配分を巡って争いが起きないようにする為に、蛇行して流れていた川を湿地湖に直線的に流れ込むように土木工事を行った。
 領地が増え私財が増えて豊かになるかどうかは自然の営みとして、運を天に任せて結果を怨まず、幸運な他人を妬まず、武力否定の「分かち合う」体制を憎まない事とした。
 ヤマト王権は、人々に富む事も貧しくなる事も「諦め」て享受する事を強要した。
 世界の常識とは異なる、日本的貧富の格差はこうして始まった。
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 北九州地方で半農半漁の生活をしていた倭人弥生人は、日本海側と瀬戸内海・太平洋側に分かれて日本列島を東方へ移動し、一部は大きな河川を見付けて内陸に這入り込み、残りはさらに北上した。
 奈良に棲み着いた弥生人が、ヤマト王権を築いていった。
 各地に定着した弥生人達は、同じ南方系海洋民の宗教・文化・風習を持つ縄文人と棲み分けしながら共存し、合流して住人を増やす事で王国を造っていった。
 奈良に誕生した諸豪族連合王権・ヤマト王権は、各地の諸王国・有力豪族と対立と友好を繰り返しながら、政略結婚で姻戚となって同盟関係を築いていった。
 同盟関係の証として、ヤマト方式の埋葬儀礼である前方後円墳を許した。
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 2017年12月9日 産経ニュース「後漢の銅鏡、完全形で出土 福岡仲島遺跡、2世紀前半
 福岡市博多区の仲島遺跡で、2世紀前半(弥生時代後期)に中国・後漢で製作されたとみられる銅鏡が完全な形で見つかった。市によると、弥生後期の銅鏡が割れていない状態で発掘されるのは珍しく、福岡平野では初めてという。
 銅鏡は直径11・3センチで「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」と呼ばれるタイプ。コウモリのような文様に、子孫繁栄を意味する「長宜子孫」の4文字が施されている。さびもなく、鏡面に物がかすかに映るほど状態が良かった。
 中国の歴史書後漢書」には、107年に倭国(日本)が奴隷を献上したとの記述があり、市は銅鏡と時期が重なることから「大陸との交流を考える上で貴重な資料だ」としている。
 今年4月、弥生時代後期の土器と一緒に捨てられたような状態で出土した。
 出土した銅鏡は12日から来年4月1日まで福岡市博物館(同市)で展示される。」
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 3世紀後半 ヤマト地方の豪族連合は、大王家を中心とした合議制で国を建国した。
 合議制の中から大王家、天皇家・皇室が生まれた。
 天皇の祖先は、日本人であって、中国人でも、朝鮮人でも、ユダヤ人でもない。
 大和朝廷は、日本独自の前方後円墳と葬送儀礼を、臣下の例をとる朝鮮半島の有力豪族に許した。
 そして天皇は、新羅百済の国王に日本特産の勾玉を権力の象徴として授けた。
 日本の前方後円墳は3世紀頃から造られ、朝鮮で日本支配が及んでいた地域のみに5〜6世紀になって許可を受けて造られた。
 古代において、日本は半島に対して優勢であった。
 つまり、半島経由で仏教や技術が日本に伝えられたが、それ以上のものが日本から朝鮮にもたらされた。
 だが、半島から伝わったものの大半が朝鮮独自のものではなく、中国やインドからのものであった。
 朝鮮半島は、文化や技術が伝播する為の単なる中継地に過ぎず、現代に於いて古代から実生活で受け継がれたものは日本に比べて少ない。
 仏教はインドで誕生し、儒教は中国で成立し、陶器は中国で生まれ、漢方は中国で考案されたものである。
 日本国内で見つかる朝鮮縁の物品は5世紀からのものと言われているが、朝鮮の日本縁の物品は3世紀からと言われている。
 日本は、多元的で、現実に即した実学を学び現場で実践した。
 朝鮮は、一元的で、非現実的な古訓学を学び行動するのではなく書院の中で思索に耽った。
 韓国・朝鮮の正史である『三国史記』では、金氏新羅王家誕生に重要な働きをした高官の瓠公(ここう)は倭人・日本人であったと伝えている。同様に、朴氏とも深い関係を持っていたといわれている。つまり、両氏の中に日本人の血が流れている。ただし、金氏にしろ朴氏にしろ半島内で多くの流れがあり、古代朝鮮族である以上、日本人と姻戚関係にあった金氏と朴氏は国内外の戦乱で死滅したといえる。
 同様に、朝鮮人の賢人・強首は任那生まれの倭人・日本人とされている。
 『八幡愚童訓』は、神功皇后によ三韓征伐で、敗北した新羅国王が「我ら倭国の犬となり、倭国を守護します」と誓って降伏したと記している。
 『神功皇后縁起絵巻』(足利義教奉納)では、新羅百済高句麗の国王大臣が「我等、倭国の犬となりて守護すべし」と誓ったと記してある。
 神社の狛犬(高麗犬)は、朝鮮が日本の番犬となって天皇を守ると誓った事から配置されたという説がある。
 さらに、百済神社・高麗神社・新羅神社やその流れを汲む諸神社も、日本を守る犬という意味合いがあるとも言われている。
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 出雲・吉備・筑紫・武蔵・東北などの各地方王朝は、奈良・大和中央王朝からの独立を守る為に、天皇・大王の朝廷軍・官軍と激しく戦った。
 朝廷軍・官軍は、日本を統一する為に各勢力を攻め滅ぼし、独立を守る為に国内外で苦戦を強いられていた。
 各王朝の残党は地方の有力豪族となり、建前として天皇に忠誠を誓いながら、本心では倭(日本)からの分離独立を模索していた。
 彼らを後ろで支援していたのが、反日新羅であった。
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 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)のもとで、日本を統一して、一国で自主独立を守り切るか。
 中国帝国の傘下に入り、臣下として中国軍の指揮下で日本を統一するか。
 朝鮮王朝と軍事同盟を結んで、朝鮮軍の支援のもとで日本を統一するか。
 あるいはヤマト朝廷のもとで統一せず、個々の王朝で勝手気ままに日本を分割統治するか。
 古代の日本人は、日本民族の安寧と日本国家の安泰の為に、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)制度を選んだ。
 日本の孤独は、この時から始まった。
 昭和期と平成時代に。この日本中心の祭祀王・天皇制度が、神懸かり的軍国主義の元凶で有り、犯罪的侵略戦争の原動力となったとして非難され、そして廃止すべきであるとされた。
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 奈良という地名は、古代朝鮮語の国を表す「ナラ」ではなく、山の中腹で比較的傾斜の緩やか地を表す言葉に由来する。
 柳田国男「山腹の傾斜の比較的緩やかなる地、東国にては何の平(たいら)といい九州南部ではハエと呼ぶ地形を中国・四国ではすべてナルといっている。この語はナラス(動詞)ナラシ(副詞)ナルシ(形容詞)とも変形して、その本源はとにかく、決して大和の旧都にばかり用いられた語ではない」(『地名の研究』)
 縄文人は、海洋民の感覚から、天に聳える三輪山(御室山・みむろやま)を最強の霊力を山中(室)に秘めた霊山・神奈備山として選び、目の前に広がる大きな湖を海と見立てて宗教儀式を行った。
 半島経由で渡ってきた倭人弥生人は、地元の縄文人と混血しながら人口密集地であった奈良盆地に移住して定住し、大陸の宗教祭祀を伝えた。
 「ナラ」は、朝鮮から伝わった外来語の名称ではなく、日本古来の地名であった。
 4世紀頃 倭国の一大王家が、大和地方を拠点としてヤマト王権を樹立したが、大和朝廷と呼ぶほどの規模ではなかった。
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 2016年9月22日 産経ニュース「大和政権の影響及ぶ?「池田茶臼山」4世紀の前方後円墳と判明
 池田茶臼山古墳の前方部と後円部との境界の「くびれ部」で見つかった葺石=大阪府池田市
 大阪府池田市教育委員会は22日までに、同市五月丘にある池田茶臼山古墳(4世紀半ば、古墳時代前期)が、前方後円墳であることが確定したと発表した。前方後円墳の発祥地とされる奈良盆地東南部にあったとされる大和政権の影響が、この時期には大阪府北西部に及んでいたと推定できるという。
 以前の測量調査で、前方後円墳と考えられていたが、今回の発掘で前方部と後円部との境界の「くびれ部」で葺石を見つけ、改めて前方後円墳だったことを確認した。また前方部は細長く、前期古墳に特徴的な「柄鏡式」と呼ばれるタイプだったことも分かった。円筒埴輪の破片も出土、全長は想定されていた62メートルよりも短い57メートルだった。
 市教委によると、大阪府北西部を流れる猪名川左岸で最も早く築造された首長墳の一つと考えられている。
 現地説明会は24日午後1〜3時。」
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 大和勢力を中心とした統一国家への胎動。
 列島は、大陸や半島の様な、身勝手な自己欲による戦争を続けるだけの広さを持っていなかった。
 敵対関係にあった多くの古代氏族は、弥生時代から続く戦乱による混乱を鎮め、荒廃した民心を静めるべく、大陸的な怨念・憎悪を残す武力統一を避けた。
 白黒をはっきりさせるのではなく、曖昧にし、いい加減にして、情け容赦のない悲惨な情況を忌避して物事を収めたのである。
 島国独自の相互補完共生関係を理想として、「まごころ」「道徳」「良心」「生真面目」「穏やか」「平常心」などを象徴し、大陸的な絶対的権力や普遍的権威を持たない、身分や上下関係を曖昧にする村の長老型世襲男系天皇制度を話し合いのうえで作り上げた。
 家族・身内になれば争いも減るとして、大家族主義から政略結婚を繰り返した。
 全員が納得の上で合意したがゆえに、「神聖にして、侵すべからざる」存在である。
 万世一系男系天皇制度(直系長子相続)とは、中国や朝鮮の様な大虐殺をともなう内戦を防止する為の安全装置であった。それは、物事を白黒ハッキリさせる為に争うのではなく、争いを避ける為にわざと物事を曖昧にする、気弱で臆病な日本民族の叡智の結晶であった。
 天皇家・大王家は、大陸における、世界史の常識としての戦いに勝利して成立した征服王朝ではなく、ましてや大陸から渡ってきた征服一族でもなかった。
 島国における、紛争や対立を調整し、いがみ合いや憎しみをなだめ、中立の立場で話し合いによる解決を図る最終的な仲介機関であった。
 そのお陰で、日本には大陸的破壊型の大虐殺を伴った戦争は起きなかった。
 野心的な地方王朝は、大和王朝を否定して日本を支配するべく、天皇に反逆して中国型の統一戦争を起こした。
 筑紫王朝、出雲王朝、吉備王朝、葛城王朝、丹波王朝、近江王朝、難波王朝、河内王朝、越後王朝、東国王朝、東北王朝などの諸王朝。
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 古代の日本は、なんとなく寄り集まって「成った」国家であって、強力な意思と武力で「造られた」国家でなかった。
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 ヤマト王権の大王家・天皇家は、一子相伝の「まつりごと」を執り行う祭祀王として神を祈り、宗教的儀礼・儀式・言霊で国家・共同体・組織を緩やかに一つにまとめた。
 それが、日本の国體で有り、国柄である。
 日本の宗教観には、祖先神・氏神と子孫である自分・人を仲介する神の様な尊き祭祀王という「神人思想」はあっても、人が啓示を受けて神ななるという「人神思想」は存在しなかったという。
 日本の精神社会では、生き神・生き仏といった生きている人間を奇跡を起こす神として信仰する個人崇拝はなかったのである。
 自然の猛威の前では、人の強力や知識は無力である事を知っていたからである。
 日本には、絶対神による奇跡も恵みも恩寵もないし、絶対神の子である救世主による救済もなかった。
 宗教心を持たない日本人は、絶対神による奇跡も救世主による救済も信じてはいなかった。
 自然災害という猛威の前には、誰も抗しきれなかった。
 いかに絶対神に祈り救世主に願っても、自然災害の一つも消えない事を知っていた。
 島国日本は、多くの犠牲者を出す自然災害の多発地帯であった。
 古代の日本人は、自然災害に恐怖して、自分の祖先を頼り、自分の祖先を神として祀り祈った。
 祖先神を祀る事を代表していたのが、皇室祭祀である。
 故に。天皇は、神の裔であり、祭祀王である。
 天皇の神性を否定する事は、自分の祖先を神として祀る氏神信仰を否定する事である。
 反天皇の進歩的日本人は、この宗教観を熟知した上で万世一系男系天皇(直系長子相続)制度を廃止しようとしている。
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 八百万の神々は、恵みを与えてくれる大自然の神々として祀られたが、同時に荒れ狂い祟り災いをもたらす恐ろしき鬼として恐れられた。
 神道は、神と鬼を同一の存在として祀った。
 神道を否定する事は、自然を否定することである。
 日本列島は、地球で最も自然災害が多発する地域の一つである。
 ゆえに、日本神道は古代宗教の一つとして自然を神として大事に祀っている。
 神道と自然は、一体として、不分離の関係にある。
 その仲介者が、天孫降臨神話に基ずく神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)であり、宗教性を完全排除した無神論女系天皇ではない。
 そこに、人と自然が相互に補完共生するという民族的「絆」が存在する。
 否定する者には、心のこもった情緒的「絆」はない。
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 日本の原始的アニミズム(古代新道)は、アジア大陸的な権力と権威による上下関係を明確にする「天の信仰」とは事なり、途絶える事なく繰り返される自然循環の生命力を神霊として信仰しその霊力と一体になろうとするアフリカ大陸的宗教であった。
 アジア大陸的とは「縦の絆」であり、アフリカ大陸的とは「横の繋がり」である。  
 神道は、大自然を、五穀豊穣をもたらしてくれるありがたい神として祀り、同時に天災を起こして人を殺し全てを奪う恐ろしい祟り神として逆らわずに祀った。
 神の裔・天皇の最大の責務は、穏やかな神として恵みを与えてくれるように祈りを捧げ、狂暴になって暴れ回る神を神の血筋という神性で鎮める祈りを捧げる事であった。
 和魂を持った神は、同時に荒魂を持った鬼でもあった。
 自然は、絶え間なく姿形を変えても、自然のままであった。
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 神道の信仰では、子供と老人と女性を神聖視とした。
 子供は、生まれたばかりで非力であったが、夢と希望を持って成長するという無限の活力を持っていた。
 鬼などこの世に害をなす魑魅魍魎を退治するのは、分別を持った大人ではなく、将来を託された子供(童子)の役目である。
 老人は、老い先の短い命ではあっても、長生きしたという生命力で貴ばれた。
 女性は、新たな命を生み育てるがゆえに貴ばれた。
 男性は、表に出て政を執り行った。
 女性は、内にあって、神から与えられた霊力を用いて神に仕え、神憑り的な鬼道に従事して男達を取り仕切った。
 女性のみが全ての祭祀を取り仕切り、八百万の神々を祀り、荒魂の怒りを鎮めて和魂にとなって豊穣をもたらすように祈った。
 女性の霊力は、男の腕力より勝っていた。
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 神道の信仰では、子供と老人と女性を神聖視とした。
 子供は、生まれたばかりで非力であったが、夢と希望を持って成長するという無限の活力を持っていた。
 鬼などこの世に害をなす魑魅魍魎を退治するのは、分別を持った大人ではなく、将来を託された子供(童子)の役目である。
 老人は、老い先の短い命ではあっても、長生きしたという生命力で貴ばれた。
 女性は、新たな命を生み育てるがゆえに貴ばれた。
 男性は、表に出て政を執り行った。
 女性は、内にあって、神から与えられた霊力を用いて神に仕え、神憑り的な鬼道に従事して男達を取り仕切った。
 女性のみが全ての祭祀を取り仕切り、八百万の神々を祀り、荒魂の怒りを鎮めて和魂にとなって豊穣をもたらすように祈った。
 女性の霊力は、男の腕力より勝っていた。
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 世界宗教の常識として、太陽は男性を象徴し、女性は月に譬えられている。
 そして、男性は表で陽であり、女性は裏で陰であった。
 最高神は男性神であり、女性神服従神にすぎなかった。
 女性神最高神とする宗教は、普遍宗教に於いては非常識な宗教である。
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 倭人は、朝鮮半島南部に土地を所有し、軍事力を持った勢力として百済新羅高句麗と繰り返していた。
 その勢いは、中華世界に知れ渡り、一強国と認められていた。
 朝鮮人は、日本に住んではいたが、たいした存在ではなかった。
 人は、戦乱や天災で生活環境が破壊されて住めなくなった以外では、文明度が高度とか豊かとか言う理由で低きから高き方に移住する。
 決して、豊かで幸福度の高い生活を捨てて苦労が目に見えて分かる貧しい未開の地などへは移動しない。 
 倭人は朝鮮に移住しなかったが、朝鮮人は日本に移住した。
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 古代の日本は、鉄を生成する技術がなかった為に朝鮮から輸入していた。
 ヤマト大王家は、鉄を輸入して武器を作り、西日本を支配する軍事国家に成長した。
 満州・朝鮮北部を勢力した騎馬民族高句麗は、中国や朝鮮南部を侵略して領土を拡大していた。
 朝鮮南部諸王国は、連合を組んで百済王国、新羅王国、任那伽耶韓国・加羅諸国)にまとまり、高句麗の侵略に対抗したが苦戦を強いられていた。。
 百済伽耶は、高句麗の侵略から国を守るべくヤマトに救援を求めた。
 ヤマトは、鉄資源の供給を確保するべく、救援要請を受けて派兵して高句麗軍と戦った。
 朝鮮南部の任那を確保して、伽耶と強力な友好関係を結んだ。
 ヤマトは、国防の任務を西国ではなく東国に押しつけ、派兵の兵士も東国から強制的に集めて来て朝鮮に送り出していた。
 防人となった者は、貧しい東国出身者が多かった。
 身分低い貧困層の防人は、手弁当で命じられた任務地に赴き、故郷や妻・恋人や家族を想う情緒豊かな東歌を多く残した。
 ヤマトは、朝鮮諸王国に対して有利な立場に立つ為に、中国の宋に使節を送り朝貢した。
 宋は、ヤマトの軍功に対して倭の五王爵位を与えた。
 済は、第19代允恭天皇。興は、第20代安康天皇。武は、第21代雄略天皇。讃は、第15代応神天皇・第16代仁徳天皇・第17代履中天皇の何れか。珍は、仁徳天皇・第18代反正天皇の何れか。
 宋の目的は、高句麗軍を苦しめたヤマトの軍事力を認め、北魏に対抗する為にヤマトを利用する事であった。
 古代朝鮮の三国が鼎立する内戦は、鉄の安定輸入を求める日本の度重なる軍事介入で継続された。
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 第10代祟神天皇は、「武日照命(出雲国造の祖)が天から持ってきたという、出雲大神の宮に納められている神宝を見てみたいものだ」と述べた。
 武諸隅(物部同族の矢田部造の遠祖)は、天皇の命によって出雲の神宝を奪ってヤマトに持ち帰った。
 ヤマトに、自然災害が発生し飢餓と疫病が発生して人口は激減した。
 占いで、三輪山の出雲神・大物主神の祟りと判明した。
 崇神天皇は、神威の強い祖先神・天照大神倭大国魂神を宮中の外で祀る事にした。
 ヤマトは、出雲の神々が恐ろしい祟り神・御霊・鬼であるとして、天神地祇に祈り、各地の神社に祀った。
 天照大神と倭大国魂は、新たに鎮座できる地を求めて全国を彷徨っていた。
 タケハニヤス王(武埴安彦・祝園神社)の叛乱未遂事件。
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 第11代垂仁天皇は、出雲大社の祭祀権を奪う為に、物部十千根大連を出雲に遣わして神宝を検校させた。
 垂仁天皇の子誉田別尊は、大人になっても言葉が話せなかった。
 占いの結果、出雲の神々の祟りとされた。
 ヤマトは、出雲の神々を祟る神・御霊・鬼と恐れ敬った。 
 垂仁天皇の皇女倭姫命は、天照大神のお告げに従って伊勢の五十鈴川の川上に祠を建てて祀った。
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 第12代景行天皇 日本武尊は、東討に向かう為に伊勢神宮を参拝し、斎王・倭姫命から天叢雲剣を授けられた。
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 第14代仲哀天皇の后・神功皇后による新羅討伐。
 熊襲(くまそ)は、大和に叛いて九州で叛乱を起こした。
 仲哀天皇は、熊襲征伐に兵を出そうとするが、神功皇后は神のお告げとして熊襲より新羅を撃つように訴えた。
 仲哀天皇は、新羅より熊襲討伐を優先したが病死し、天皇空位となった。
 新羅は、高句麗と組んで九州侵攻を計画していた。
 神功皇后は、神のお告げに従って新羅討伐を決意し、軍隊を率いて朝鮮半島に出陣した。
 新羅平定から帰国した神功皇后は、応神天皇を生み、成人するまで摂政として政治を司った。
 皇室は、日本国家と共に生まれ、日本民族と共に歩んできた。
 天皇は、日本がよい国になり、日本人が幸福になる事を、ひたすら祈ってきた。
 それが、激務とされた、祭祀王・天皇の宗教的国事行為であった。
 騎馬民族国家高句麗は、南下政策をとって、朝鮮半島を侵略した。
 半島南部諸国は、高句麗の侵略を防ぐ為に日本と中国に援軍を求めた。
 平安時代頃から、神功皇后童子と共に祟る御霊・怨霊・鬼として恐れられ、神社に神として祀られた。薬師寺休ヶ岡八幡宮
 日本人の信仰は、自分達に祟り災害をもたらす恐ろしい怨霊・鬼を霊力の強い御霊とし、神社に神として祀る事である。
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 第15代応神天皇
 百済王仁(わに)博士は、『千字文』と『論語』を日本にもたらした。
 『千字文』は、梁の武帝(502〜549)が文官・周興嗣(470〜521)に命じて編纂させたものである。
 王仁王仁神社)は、朝鮮系渡来人ではなく中国系帰化人という説もある。
 『日本書紀』「応神天皇の命令を受け、百済が献上した人物」
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 「すめらみこと」の「まつり」は、世界の君主制とは違って、民本位の政治であった。
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 第16代仁徳天皇「高き屋に 登りて見れば 煙立つ 民のかまどは にぎわいにけり」
 「天が君主を立てるのは、民の為であり、君にとって民は根本である。だから、民が一人でも飢えるのならば、君は自らを責めなくてはならない」
 大和大王・天皇は、各地を支配する数多くの敵対王家や有力豪族を一つの古代国家に統合する為に、かって敵地であった地域を国見し、在地の有力者との「人間的絆」「人間的和」を築く為に行幸を繰り返していた。
 新たに大和民族編入させられた民と帰化人は、神性を持った天皇を拝する事で民族の一員になったことを自覚し、天皇を打倒しようとした渡来人と闘った。
 歴代天皇は、積極的に行幸を続ける事で、古代王国の安定を図った。
 神の裔・万世一系男系天皇制度(直系長子相続)とは、無益な戦争と無差別な大虐殺を起こさない為の、安全装置であった。
 仁徳天皇の皇后である磐之媛の父親葛城襲津彦は、日向の襲国(そのくに。大隈国)出身であった。
 古代天皇外戚は、天孫降臨神話の日向(宮崎県)に多かった。
 ヤマト王朝と日向から薩摩にかけての地域は、深い関係にあったと言われている。
 薩摩や大隅など南九州は、邪馬台国と戦った隼人の国であった。
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 大阪府堺市の世界最大級の墓でる前方後円墳は、本居宣長蒲生君平等によって仁徳天皇陵とされたが、実のところは誰の墓か分からず大山古墳か大仙陵古墳と表記されている。
 同様に、反正天皇陵は田出井山古墳に、履中天皇陵は上石津ミサンザイ古墳とされている。
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 両面宿儺(りょうめんすくな)は、飛騨に現れた異形の人とされるが、ヤマト王権からすれば命令に従わない地方豪族は全て忌むべき鬼神であった。
 仁徳天皇は、武振熊命に両面宿儺討を討伐させた。
 飛騨では、毒龍を退治したり、高山市の千光寺や関市の日龍峯寺を開基したりして、崇拝の対象となっている。
 ヤマト王権は、日本を統一する為に地方豪族を屈服させ、従わなければ滅ぼした。
 滅ぼされた地方の王族達にとって、ヤマト王権は侵略者であった。
 『日本書記』は、敗れた地方王族を鬼や獣と悪し様に罵っていた。 
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 東京新宿区の御霊神社は、仲哀天皇応神天皇神功皇后仁徳天皇武甕槌命を祟る神(怨霊・鬼)として祀っている。
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万葉集
 福麻呂 「日本国(やまとのくに)は皇祖(すめらき)の神の御代より敷きませる国にし有れば」
 大伴家持「ひさかたの天の戸開き高千穂の嶽に天降(あも)し須売呂伎(すめろき)の神の御代より」
   ・   ・   ・   
 良寛  「すめらぎの千代万代の御代なれや花の都に言の葉もなし」
   ・   ・   ・   
 日本文明が「すめらみこと」と一心同体である以上、日本民族日本人と切り離す事はできない。
 日本民族日本人で、祭祀王「すめらみこと」を殺そうとする者はいないし、憎む者もいない。
 神の裔「すめらみこと」が絶え、皇統の連続性である「すめらぎ」が断絶したとき、日本民族日本人は消滅する。
 現代日本において、皇国史観に基ずく物語的日本史が否定され、罪悪史観に基ずく科学的日本史が教育される事によって、子供達は天皇や皇室に対する尊崇や親近感を失いつっあると言われている。
 現代教育は、日本語を話す日本民族日本人を育てる事より、外国語を話す国際派日本人を作る事を優先している。
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 日本民族日本人の家系図は、先祖を辿ればすべてが皇室につながる。
 皇室を否定する系図は、偽物である。
 皇室につながらない系図は、中国人か朝鮮人の子孫であって、日本民族日本人ではない。
 皇室を否定する日本人は、日本民族日本人を祖先とする系図を持たない人間である。
 彼らは、日本民族日本人ではない。
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 アーノルド・トインビー「12,3歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」
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 平成御世・今上天皇陛下「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。」
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