🎍8〕─1─倭の五王。広開土王。日本生まれの武寧王。南宋は、倭王武に朝鮮半島南部の統治を認めた。400年~No.20 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 宮崎市定「歴史とは何か」
 「第一は、歴史は客観的な学問であるから、誰が書いても同じ結果になるという考えを捨てて欲しい」
 「第二には歴史学には時間の評価が大切であることを主張しようとする。私はある歴史的事件が発生するためには、無数の原因があったはずだと考えているが、その原因を結びつけて一つの結果に達するためには時間が必要であった」
 「第三に私が主張したいのは、歴史学はどこまでも事実の論理の学問だということである」
 「ここで我々が注意しなければならぬことは、事実を抽象して抽象語を造ると、その言葉は事実の裏付けなしでも、独り歩きし出す危険のあることである」
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 百済新羅は、倭国=日本の忠実な「犬」となって守る事を誓い、王族を大王=天皇に人質として差し出した。
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 謎の4世紀
 初代神武天皇から第14代仲哀天皇までの事跡は不明である。
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 倭とは、中国人が日本人を人間ではなく未開の獣として軽蔑した蔑称である。
 『字統』(白川静)「稲魂を被って舞う女の形で、その姿の低くしなやかなさまをいう」
 日本民族日本人は、「禍を転じて福と成す」的な発想の転換で、後ろ向きの蔑称である「倭」を同音の「和」に変えて民族の誇りとした。
 多神教神道は、多種多様な価値観で柔軟性に富み、変幻自在に変容する為にいい加減で無責任に見えた。
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 倭の五王
 賛(讃)…第15代応神天皇か第17代履中天皇
 珍…第16代仁徳天皇か第18代反正天皇
 済…第19代允恭天皇
 興…第20代安康天皇
 安康天皇暗殺事件。
 武…第21代雄略天皇
 万世一系男系天皇(直系長子相続)。
 応神天皇の宮は、難波の大隅宮。
 仁徳天皇の宮は、難波の高津宮。
 反正天皇の宮は、難波の丹比柴垣。
 都は、竹内街道を通って、海の河内から大和の飛鳥に移った。
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 允恭天皇の御代。倭国新羅は、金官加耶をめぐって戦争と外交を繰り返していた。
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 魏晋南北朝時代。漢族と異民族が建国した諸王朝が、南北に分かれて戦った。
 中国の内戦が、朝鮮に影響を与えて戦乱を引き起こしていた。
 中国大陸も、朝鮮半島も、戦乱につぐ戦乱で夥しい人が虐殺され、地獄のように大量の血が流されていた。
 400年 百済加羅は、騎馬を用いる高句麗新羅に対抗する為に、同盟国の倭国に馬を機動力として使う戦争文化を伝えた。
 倭国は、馬はいても大王の権威を示すだけの存在で、戦場で騎馬として使用する戦法を持っていなかった。
 同様に、武具甲冑も戦場で用いると言うよりは、威容を示す物であった。
 高句麗は、5万人の大軍を新羅に派遣して倭国軍を敗走させ任那加羅に迫ったが、倭国軍に虚を突かれて新羅の王都を奪われた。
 402年3月 『三国史記』「新羅紀」 新羅国王実聖尼師今は、倭国に恭順し、先王の奈勿尼師今の王子・未斯欣を倭王に人質として差し出して朝貢を誓った。
 百済新羅は、倭国の軍事力に屈して、「日本の犬」となって守護する事を誓った。
 ヤマト朝廷は、朝鮮の有力者に対し臣従した証しとして、日本特産の翡翠製勾玉を埋め込んだ金冠を与え、日本で生まれた埋葬文化である前方後円墳を許可した。
 「尼師今」「尼叱今」「麻立干」は、古代新羅の固有称号で「国王」を意味すると言われている。
 現代韓国・北朝鮮では、日本とは違って、古代朝鮮語は存在しないし、どういう言語であったかも定かでないといわれている。
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 倭国は、中国の宋や梁に比べて弱小国で有り、百済高句麗などと同様に朝貢して臣下の礼をとった。
 外敵の侵略から日本を守る為に、如何なる犠牲を払い血を流しても国内を統一する必要があった。
 天皇の権威を強化しなければ、日本は外敵に侵略され消滅する危機があった。
 外敵の侵略を阻止する為には、朝鮮半島親日王国を建国し、軍事同盟を結ぶ事であった。
 5世紀 倭国は、外国の使節を難波に迎え、ヤマトに通じる大津道(長尾街道)
と丹比道(竹内街道)周囲に巨大な前方後円墳を築いた。
 大阪湾を行き来する船上からも、大仙古墳(仁徳天皇陵)が望めた。
 巨大古墳は、外国の使節や地方から畿内を訪れた者に対しヤマト王権の強大な権力を誇示するものであった。
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 404年 倭国軍は、帯方郡に出兵するが、高句麗軍に大敗して敗走した。
 407年 広開土王は、5万の兵を率いて、倭国百済連合軍を撃破した。
 倭国軍は、支配地である加羅を守る為に百済との同盟関係を強めていた。
 倭国は、加羅が日本の支配地である事を示す為に、日本固有の埋葬方法である前方後円墳を造営した。
 414年 『広開土王碑』建立。広開土王(374〜412)の業績を称える為に建立された好太王碑には、日本が百済新羅を平定した事が記されている。
 「倭は、辛卯年(西暦351年)を以て、来たりて海を渡り、百済、00(判読不明箇所)、新羅を破り、以て臣民となす」
 武寧王の王墓から、日本にしか自生しないコウヤマキを用いた棺材が出土した。
 朝鮮半島南部の古代遺跡から、日本製の中広銅矛や銅鏡が出土した。
 対して。日本の古代遺跡からは、中国製の鉄器類が出土しても、朝鮮製はほんの僅かでしかでしかなかった。
 元々、中国にあった物の大半が中国製であった。
 451年 『宋書』 南宋の第2代文帝は、倭王済允恭天皇376〜453年)に「使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍」を加号して、倭国と朝鮮の支配を認めた。
 文帝の治世は、「元嘉の治」と呼ばれるほど安定し栄えていた。
 453年 名君であった文帝は、皇太子らによって殺害された。
 三ヶ月後 孝武帝は、父である文帝を暗殺した二人の兄とその家族を惨殺して第4代皇帝に即位したが、兄弟への不信から弟殺害しようとした。
 弟は、殺される前に叛乱を起こしたが敗北して家族諸共に皆殺しにあった。
 孝武帝は、叛乱に協力した者とその家族を虐殺した。
 464年 孝武帝が死亡するや、28名の子供とその家族が、弟や甥よって皆殺しにされた。
 前廃帝は、孝武帝の後を継いで即位するや、気に食わない大臣や重臣らを虐殺した。
 前廃帝の叔父は、前廃帝を殺害して明帝となる。
 明帝は、実の弟3人と其の支援者、皇后と義弟、孝武帝の子供らを虐殺した。
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 456年 第20代安康天皇暗殺事件。史料に残る最古の仇討ち。安康天皇の継子となった眉輪王({まよわのきみ}7歳)は、継父である安康天皇が自分の実父を殺した事を知るや、熟睡中の安康天皇を刺殺した。
 山本博文「この話には続きがあり、眉輪王はすぐに安康天皇の弟である大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)によって殺されています。大泊瀬皇子は後に雄略天皇として即位。自分の天皇としての血筋の正当性を獲得した雄略天皇は、眉輪王を匿った有力豪族の葛城氏を滅ぼして中央集権体制をより強固なものにしていきました。眉輪王が7歳の子供だった事や、誰が一番得をしたかを考えると、この事件の黒幕は雄略天皇だったのかもしれません」
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 461年 第21代雄略天皇紀5年。「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を倭国に人質として献上する際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」としている。
 『日本書記』武略紀「百済の文斤王が亡くなり、天皇は昆支王の5人の子の中で、二番目の末多王が幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫で懇ろに戒めて、其の国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵500人を遣わして国に送り届けた。之が東城王である」
 462年 倭国王・興は、宋に朝貢して、臣下の礼をとった。
 475年 高句麗は、百済の都を陥落させて漢江まで勢力圏を広げた。
 477年 南宋の第7代皇帝後廃帝は、人を殺す事を好み、些細な理由で人を殺した。
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 478年 雄略天皇・武・ワカタケルは、敵国・高句麗北朝朝貢していた為に、南朝の宋に上奏文を送った。
 倭国は、五胡十六国から南北朝と虐殺を伴う戦乱続きの中国との交流を断ち、冊封使を送るのをとり止めた。
 『宋書』「倭国伝」まで、中華皇帝は倭国を東海の強国と認めていた。 
 宋国は、倭国が朝鮮を支配している事を求めて、倭王武雄略天皇418〜479年)に「使持節都督、倭、新羅任那加羅、慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」に加号した。
 『梁書』 梁の元帝(508〜554年)の時代。新羅百済など小国が倭国に属していた為に、梁国に使節を送る事ができなかった。
 倭王武雄略天皇)は、南宋朝貢を繰り返し、中華皇帝から朝鮮半島南部の「任那伽耶韓国。加羅)」と日本国内の軍事権を持った統治者としての「安東大将軍倭王」の称号を賜った。
 日本は、中国の臣下として東アジア秩序である冊封体制の傘下に入った。
 中華皇帝は、倭国の軍事力を認めて、任那伽耶が日本の支配下にある事を承認した。
 日本の最大のライバルである高句麗は、日本よりも格上の征東大将軍・車騎大将軍の称号を受けた。
 日本と高句麗に挟まれた百済新羅の両国は、等間隔外交で日本と高句麗に使者を置くっていた。
 日本は、高句麗の風下に置かれた事に不快を表し、国内外の情勢を理由にして朝貢使派遣を中止した。
 新羅百済は、南下して領土を拡大して来る高句麗の脅威に対抗するべく、任那伽耶韓国。加羅)の軍事と技術支援を当てにして日本に朝貢使を送って臣下の礼をとった。
 中国の戦乱が激しくなり、頼るべき中華王朝がなかった為の苦渋の選択であった。
 日本版華夷秩序の始まりである。
 百済高句麗新羅は、任那伽耶を日本領である事を認め、半島に倭人が領主として住む事を受け入れた。
 日本は、朝鮮諸勢力が自ら進んで臣下の礼をとり保護を求めて来た事から、東アジア世界での地位が向上したと自信を持ち、中国から完全独立する為に一歩前に出た。
 インドで誕生した仏教が中国を経て朝鮮半島に伝来のは、372年に高句麗で、384年に百済で、528年に新羅とされている。
 日本への伝来は、552年説と538年説がある。
 大和王権は、命の危険を顧みず荒海を乗り越えて朝鮮や中国に人材を派遣し、柔軟に最新の技術や高度な文化を積極的に導入して、日本古来のものと融合させて日本独自に改良した。
 東城王(別名、末多王。在位479〜501年)は、日本の九州で生まれ、成長して日本の軍隊に守られて朝鮮に戻り、天皇の後ろ盾を得て百済王として即位した。
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 479年 倭国は、東城王が帰国するにあたり筑紫の兵約500人を護衛に付けた。
 東城王は、日本生まれという説がある。
 倭国は、百済の要請を受けて高句麗に備えて栄山江流域に軍隊を駐屯させ、同時に金官加耶との海上交通路の確保に軍船を派遣した。
 衰退し始めた百済派、倭国の軍事力で何とか高句麗新羅の侵略から祖国を守っていた。
 栄山江流域には、日本独自の埋葬法である前方後円墳の遺跡が多数残っている。
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 第22代清寧天王が崩御された後、一時的に皇位継承者が現れなかった為に、第17代履中天皇の娘・飯豊皇女が臨時天皇として政務を執り行った。
 古代日本に於いて、中華世界とは異なる、皇女が天皇の代理として政治・外交・軍事を司る事があり、群臣や豪族で反対する者は皆無であった。
 日本の伝統に於いて、男尊女卑は存在しない。
 男尊女卑思想を持つ儒教は、女性が政治の表舞台に出て権力を握り男を支配すう事を禁止していた。
 『書経』「牝鶏之晨(ひんけいのしん)」‥雌鳥が朝の訪れを知らせるのは、世の乱れの元になる。
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 対馬は、荒々しい自然で山が多く平地が少ない為に、島民は縄文人的で漁業を生業として気性が荒かった。
 壱岐は、平野が多く古くから稲作が盛んで、島民は弥生人的で気性が穏やかであった。
 だが、対馬の島民と壱岐の島民は仲が悪かった。
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 司馬遼太郎「(壱岐・岳の辻の展望台から)高台にのぼって国見(くにみ)してみると、海にかこまれたこのこのわかめをひろげたような形の島が、海に向かって押し出すように、縁をひろげている。……森の多さにおどろいた。上代はその森ごとに神がいた。いまもこの島ほど古社の多い土地は全国でもめずらしいのではないか」(『壱岐対馬の道』)
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 松見裕二(壱岐市教育委員会学芸員)「対馬壱岐朝鮮半島の文化を受ける前線基地ですね。地理的条件もあり、関係がいいときは対馬が前面に立ち、悪いときは少し退いて壱岐がその役割を担います。大和政権時代は関係が良好で、鉄がよく入ってきて古墳ができる。この時代は壱岐に古墳はありません。しかし、7世紀半ばあたりから関係が悪化すると、壱岐に前線基地が置かれ、古墳が次々とでき始める。東アジアの政治情勢、鉄や仏教の伝来など、壱岐対馬から見えることは多いです」


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