🎍13〕─1─磐井の乱。任那滅亡。崇峻天皇暗殺。百済の賄賂事件と仏教・ヨガの日本伝来。507年〜No.35No.36No.37 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 帰化人は、大王=天皇に忠誠を誓い、日本の為に働いた。
 渡来人は、大王=天皇に忠誠を誓わず、自分の為に行動した。
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 日本皇室が姓を持たないのは、儒教が認める易姓革命を防ぐ為であった。
 中国も朝鮮の君主が姓を持っていた為に、易姓革命が起きて王朝が代わり、前王朝の関係者が大量に虐殺された。
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 第26代継体天皇(507〜531年)は、単純明快な武力による大陸的統一ではなく、粘り強い冷静な話し合いによる島国的統合を図った。その証拠として、天皇は、城壁を持たない無防備な都の低い板塀に囲まれた御所に住んだ。それは、仮設住宅のように解体と組み立てが簡単にできる、古材や廃材の混じった木造住居でしかなかった。
 天皇・皇室が、神道による神憑り的な信頼や信用を失った時には最終的調停機関としての使命も失われ、日本は朝鮮同様に人間不信の中国化する。
 万世一系男系天皇制度(直系長子相続)とは、現代流行の軽薄で劣悪な世俗的人気投票・無知蒙昧的世論調査では推し量れない、「血と死」を忌避する宗教的な深い意味がある。
 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)の最大の宗教的国事行為とは、残酷で独善的或いは金集めに血眼になっている利益誘導の醜悪な宗教の暴走を食い止め、妥協なき不毛な宗教対立を生む神学論争や、悲惨で破壊的な宗教紛争・宗教戦争を防止する事にあった。
 それが、反戦平和主義に基づく現代日本の日本史が否定する、東アジアを排除する民族中心神話から生まれた皇国ナショナリズムであり、東アジアとの戦争を起こした民族中心主義の天皇ファシズムであった。
 神性を持たない無宗教女系天皇では、こうした民族中心主義的重責は負えない。
 それが、125代・2700年という世界最古の歴史を持つ、血筋・血統・皇統を重視した神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)の重みである。
 天照大神の「血」と「命」と「心」と「志」を続く神の裔・万世一系男系天皇家は、天皇を中心とした日本神話の中から生まれ、八百万の神々の持つ多種多様な価値観と共に存在して来た。
 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)は、血のつながった子孫として、祖先神・氏神である天照大神伊勢神宮)以下の神々を祀った。
 故に、直系長子の天皇は「神の裔」として尊敬さ、神話から続く血脈が絶えない様に守られてきた。
 「神の裔」であるが故に、天皇制度が守られてきた理由である。
 日本の伝統や文化、そして日本人の道徳や良心、穢れや恥じらい、日本的なモノ全ての根源に、「神の裔」である万世一系男系天皇(直系長子相続)が存在している。
 女系天皇には、皇室とは血のつながりがない家族である以上、祖先神・氏神である天皇神・天皇霊を祀る資格はない。
 女系天皇は、「神の裔」ではない。当然、日本的全てのモノの根源としての依り代とはなり得ない。
 現皇族と血のつながりのない女系天皇ができるのは、真摯に「祀る」のではなく、漠然と「拝む」だけである。
 よって、無宗教女系天皇になれば古代から続く日本の八百万の神々は消滅する。
 反宗教無神論者である左翼・左派のマルクス主義者と普遍宗教のキリスト教徒は、日本から民族宗教的心・精神の根源の廃絶を望んでいる。
 越の国の尾張氏は、継体天皇に一族の娘を嫁がせ二人の皇子を生ませた。
 後の、第27代安閑天皇と第28代宣化天皇である。
 有力氏族は、娘を天皇に娶らせて皇子を生ませ、皇后に皇子が生まれなければ、自分の娘が産んだ皇子を次期天皇に押した。
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 513年 継体天皇6年。親日派王朝・百済は、高句麗によって国土の北半分を奪われた為に、ヤマト王朝に倭人が長年住んでいた任那4県の割譲を要請いた。
 大伴金村は、任那のオコシタリ(現在の全羅北道鎮安郡及び完州郡)・アロシタリ(忠清北道錦山郡及び論山市)・娑陀(サダ、全羅南道求礼郡)・牟婁(ムロ、全羅北道鎮安郡竜潭面)の四県、7年(514年)にコモム(全羅北道南原市)・滞沙(タサ、慶尚南道河東郡)の地をそれぞれ、百済に譲渡した。
 百済は、お礼として、517年に日本に送っていた博士段楊爾に代えて五経博士漢高安茂を貢上した。
 514年 法興王が新羅王に即位するや、新羅は強国となり、百済を脅かし、加羅に勢力を拡大して倭国を圧迫した。
 継体天皇は、加羅における地盤を守るべく、同盟国・百済の救援要請に応じて援軍を派遣した。
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 523年 日本生まれの百済武寧王が死亡した。墳墓は、東アジアの主流となっていた中国・南朝のレンガ積みの横穴式石室であった。
 日本は、自然石を使った竪穴式石室であった。
 527年 磐井の乱
 継体天皇は、百済と協力して南加羅をめぐり新羅と戦争を起こした。
 筑紫君磐井は、ヤマト王権が攻めてきたと判断して、領地を守る為に新羅と同盟関係を結んだ。
 6月3日 近江毛野は、大伴金村の命で、新羅の大攻勢から南加羅を守るべく、6万人の大軍を率いて大和を出発した。
 新羅は、九州筑紫の有力者・磐井へ贈賄し、倭国軍の遠征を妨害する様に要請した。
 磐井は、新羅からの援軍をあてにしてヤマトに叛旗を翻して挙兵し、火の国(肥前国肥後国)と豊の国(豊前国豊後国)を制圧して、倭国朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖し、近江毛野軍の進軍を阻み交戦した。
 8月1日 継体天皇は、磐井平定軍派遣について協議し、物部麁鹿火を将軍に任命した。
 528年11月11日 磐井は、筑紫三井郡(現福岡県小郡市三井郡付近)で、物部麁鹿火軍と激しく戦ったが敗北して戦死した。
 新羅の真興王は、磐井からの援軍要請を拒否し、南加羅を占領して倭国勢力を追い出した。
 真興王の側室が、美室(ミシル)であった。
 真興王は、名門・名家の若者を育てる教育機関として「花郎」を始めた。
 花郎の原型は、中国ではなく遊牧民や狩猟民らの連携・団結を強める為の集団生活にあるとされている。
 初期の花郎は文武両道を求めたが、時代と共に儒教価値観で武より文が優先され芸能志向に変容して軟弱していった。
 日本国内の内紛は、朝鮮との深い関係で起きていた。
継体天皇は、高度な文化を誇っていた磐井を認めてはいたが、ヤマト大王家を守る為に正統性を持った地方首長の政治及び霊的な力を削ぐ必要があった。
 ヤマト王権の支配権は、南は鹿児島から北は岩手県にまで及んでいた。
 529年3月 倭国は、再び近江毛野任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせた。
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 実力者大伴金村は、安閑と宣化両天皇を推してヤマト王権の実権を握っていた。
 蘇我稲目は、欽明天皇を推して大伴金村に叛逆した。
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 ヤマト王権は、朝鮮半島南部にある倭人の地・任那の防衛戦の最中で起きた朝鮮半島内戦絡みの磐井の反乱(527年)で、国家存続の危機感と任那防衛戦の兵員と兵糧米の確保の為に地方支配を痛切に感じた。
 大王権力を強化し地方を支配する為に、これまでの有力豪族連合制から国造制へと段階的に機構改革を行った。
 国内外の安全の為に、古代的中央集権化を急いだ。
 地域支配拠点として任那に設置した「屯倉」と同じものを日本各地に置き、ヤマトに服従する豪族を国造に任命して服従しない豪族を支配させた。
 ヤマト王権の地方支配は、第27代安閑天皇と第28代宣化天皇の御代に整備された。
 日本が、古代から単一国家として属国にもならず自主独立を守りえたのは、半島や大陸との間に程よい距離の海と流れの速い海流という自然的条件があったからではあるが、同時に、他国の侵略を許さない最低限の軍事力と類い稀な外交能力があった。
 そして、外国の侵略を武力を持って排除して祖国日本を守るという団結力であった。
 外交は武力を持たなければ無力であり、武力のない外交では国を守る事はできなかった。
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 第27代安閑天皇
 武蔵国出雲族が開拓した土地で、各地に出雲の神々を祀る氷川神社を創建した。
 関東地方には幾つもの国が存在し、その内のやや大きい3つの王国が支配権をめぐって戦争を繰り返していた。
 『日本書紀』「笠原直使主と笠原直小杵は武蔵国造の地位をめぐって争っていた。安閑天皇元年(534年)、小杵は上毛野君小熊の力を借りて、使主を殺害しようとした。そこで使主は大和王朝に助けを求め、小杵を破った。
 この結果、使主は大和朝廷から武蔵国造である事を認知された」
 埼玉古墳群のある埼玉県行田市から鴻巣市を支配する笠原直使主は、群馬県南部を支配する上毛野君小熊と多摩川流域から神奈川県を支配する笠原直小杵連合軍に南北から攻められて苦戦していた。
 使主は、窮地を脱する為に大和朝廷の支配を受ける事を承知で援軍を要請した。
 使主と大和王朝の連合軍は、小熊と小杵連合軍を激戦の地に撃破した。
 大和朝廷は、日本を統一する為に関東諸王国の主権を奪い、天皇に忠誠を誓う百済人・高句麗人の難民を帰化人として旧小杵領であった地域に移住させた。
 百済高句麗帰化人らは、天皇支配の先兵として、大陸の最新技術で関東を開墾した。
 大和朝廷に敗れた関東人は、反天皇反大和として「まつろわぬ民」となった。
 もし。小熊・小杵連合軍が使主・大和王朝連合軍に勝っていたら、万世一系男系天皇(直系長子相続)の日本は誕生せず、東西の二国か、それ以上の複数国家の列島となっていたかもしれない。
 天皇制度廃止論者は、分裂国家日本を正しい姿であると歓迎している。
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 第28代宣化天皇崩御された後、第27代安閑天皇の皇后・春日山田皇女が次の天皇として推戴された。
 538年 仏教伝来と共に仏教の修行法として、インドで生まれ発展、体系化したヨガが伝えられた。
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 532年 金海にあった金官加羅国は、10代で滅亡して新羅に吸収された。金海金氏は、全土に散っていった。
 534年 武蔵国造の乱。
 539年 蘇我稲目物部尾輿欽明天皇を第27代天皇に即位させた。
 蘇我稲目は、欽明天皇との血縁関係を結んで実力を付け始めるや、大伴金村の権勢は衰え始めた。
 540年 日本最初の外国勢力からの大賄賂事件。
 新羅は、百済の統治下にあった任那地方を併合した。
 物部尾輿などは、大伴金村外交政策失敗を糾弾した。
 大伴金村は、任那4県割譲の際に百済側から賄賂を受け取ったとされて失脚して隠居し、摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)で死去した。
 死後は、奈良県葛城市の金村神社に祀られた。
 これ以後、大伴氏は衰退していった。
 548年 高句麗の陽原王は、南下して百済を攻撃した。
 新羅の真興王は、漢江流域を手に入れる為に百済に援軍を送った。
 549年 新羅軍は、百済が油断している所を攻撃して漢江流域を支配下に置いた。
 任那は、新羅朝鮮半島の主導権を握るや其の支配下に入った。
 倭国は、任那からの鉄の輸入が滞り始めた為に危機感を抱いた。
 倭国大和王権は、朝鮮半島の戦乱に絶えず影響を受けていた。、
 560年 新羅は、日本が国内問題で派兵できないのを好機ととらえ、任那伽耶韓国。加羅)を強襲して併合した。日本の逆襲を警戒して、隋に朝貢使を派遣して卑屈なまでに臣下の礼をとった。
 これ以降、朝鮮は「礼法の国」「紳士の国」と軽蔑された。 
 日本は、朝鮮半島での拠点と南海岸東部の制海権を失った。
 欽明天皇敏達天皇は、新羅に奪われた任那の失地奪還を遺言として残した。
 日本は、百済が度々行った不義理に激怒した。
 百済は、日本の激怒に慌てて、仏教の経典や仏像と唐の高僧を日本に差し出した。
 さらに、新羅高句麗に対抗する為に、親日政策を取り、日本との同盟関係を強化する為に王族を人質として差し出した。
 百済が、日本の発展の為に王族を顧問として派遣したと言う事は、当時の東アジア情勢からしてあり得ない。
 567年 「諸国で大水があって、人々は飢えた。あるいは、人が人を喰らう事もあった。隣の郡の穀物を運び、助け合った」『日本書紀
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 任那を巡る攻防戦。ヤマト王権は、親日派任那使節に「赤帛(あかぎぬ、真っ赤に染めた絹織物)」を贈ったが、新羅はそれを奪った。
 ヤマト王権は、新羅の横暴に激怒して懲罰の軍隊を派遣した。
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 第29代欽明天皇(在位539〜571年) 百済聖明王は、日本に仏教を伝え、任那を援助する様に要請した。
 聖明王は、新羅軍に攻められ、捕らえられて、拉致されて死亡した。
 日本は、仇討ちをしたいという百済の王子の要請に応えて、武器と軍艦を与えて帰国させた。
 新羅は、日本の軍事介入を恐れて天皇に貢ぎ物を贈って油断させ、日本が躊躇した隙を突いて任那を滅ぼして併呑した。
 欽明天皇は、新羅の卑怯、卑劣な裏切り行為に激怒して新羅討伐の詔を発した。
 「神功皇后は、聡明で天下を周行され、人民を労りよく養われた。新羅が困って頼ってきたのを哀れんで、新羅王の討たれそうになった首を守り、要害の地を授けられ、新羅を並外れて栄えるよう引き立てられた。神功皇后新羅に薄い待遇をされたろうか。わが国民も新羅に別に恨みがあるわけでない。しかるに新羅は長き戟、強き弓で任那を攻め、大きな牙、曲った爪で人民を虐げた。肝を裂き足を切り、骨を曝し屍を焼き、それでも何とも思わなかった。……これをもれ聞いてどうして悼まない事があろうか」
 541年4月 「任那日本府の吉備臣が百済の聖名王のもとに赴いて、天皇詔勅を承った。その席上、新羅に滅ぼされた南加羅の復興などについて協議された」
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 574年 北周武帝は、仏教を廃止した。
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 581年 北朝北周王朝の外戚であった楊堅は、王国の実権を握り、禅譲という形を取って北周を滅ぼして隋王朝を立てた。
 東北地方の蝦夷の首長である綾糟は、敏達天皇のもとを訪れて服従を誓った。
 北海道の続縄文文化は、東北地方に南下していた。
 7世紀には、続縄文文化が終わって擦文文化が成立した。
 更に北にはオホーツク文化があり、中国東北部には別の極東文化が存在していた。
 アイヌ文化は、倭人文化とは異なり、幾つかの文化が人の交流で混じり合って成立した。
 日本の北は、人影が疎らな未開の地ではなく、多くの人が住み独自の文化を育んだ賑やかな土地であった。
 北周の武将楊堅は、主君の北周皇帝から帝位を禅譲させ、文帝として北周王朝を廃して隋王朝を建国した。
 中国皇帝は、日本の皇室の様な万世一系ではなく、能力の優れた他人が帝位を奪う易姓革命が絶えず起きていた。
 新しい王朝は、古い王朝の全てを破壊し、前王家やその臣下を根絶にした。
 易姓革命は、大虐殺の中で達成される。
 日本には、そうした世にも恐ろしい、戦慄を覚える様な大惨劇は起きなかった。
 中国人の攻撃的気質は、そうした虐殺を生き残る中で形成された。
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 582年 第30代敏達天皇蝦夷数千人が、ヤマトに叛いて辺境で反乱を起こした。
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 589年 隋の文帝は、南朝の陳を滅ぼし、多くの者を虐殺して、約350年ぶりに中国を武力で統一した。
 中国の王朝交代では、滅んだ王朝の王族や忠臣の多くが虐殺された。
 日本には、そうした虐殺は存在しない。
 黄河で生まれた純然たる漢族は、死滅した。
 文帝は、中央集権体制を確立し、官僚試験である科挙を実施して有能なる人間を登用した。
 隋は、中国を武力統一するや、満州から北朝鮮を支配する高句麗を滅ぼす為に征討軍を派遣した。
 中国の貪欲な領土拡大に伴い、東アジア情勢は平和な時代から新たな戦乱期に突入した。
 高句麗は、隋の侵略に備えて日本との関係修復の為に僧・恵慈を日本に派遣した。
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 591年 百済らは、新羅に奪われた加耶諸国を奪い返す為に倭国に軍事支援を求めた。
 第32代崇峻天皇は、新羅討伐の為に2万人の軍勢を筑紫に派遣した。
 倭国を外国からの侵略から守る為には、朝鮮に橋頭堡を築く必要があった。
 新羅は、日本を半島から追い出す為に抵抗していた。
 朝鮮の向こうには、領土拡大の野心を剥き出しにしている征服帝国・支那が存在していた。
 日本は、支那の侵略を恐れていた。
 倭国新羅は、一触即発の緊張感にあった。
 新羅は、倭国からの侵略を食い止める為に、倭国の有力者に美女と金を送って協力者を拡大した。
 大和朝廷内では、半島外交で、新羅討伐を支持する親百済派と戦争回避の親新羅派が激しく対立して混乱ていた。
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 592年 天皇への忠誠心のない、日本人の風下に立つのを嫌う上昇志向だけが異常に旺盛な欲求不満の渡来系下級役人は、崇峻天皇を惨殺した。
 そして、これまた忠誠心なき政務を司る渡来系官吏らによって、庶民の様に一切の飾り付けもなく葬られた。
 漢氏は、後漢霊帝の末裔を名乗り、飛鳥周辺に移住し、蘇我氏と緊密な関係を持ってヤマト政権で役人となった。
 秦氏は、秦の始皇帝の末裔を名乗り、蘇我氏物部氏ら日本古代氏族とは一歩離れ、ヤマトを離れて地方に入植し、土木や治水や金属冶金などの最先端技術を伝えて産業を広めた。
 非日本人の多くは、出身を儒教価値観から、未開の朝鮮より高度な文明を持った中国であると主張していた。
 ヤマト王朝は、筑紫の駐屯軍に対し、「内乱によって外事を怠らない」との命を発して新羅に対する備えを怠らないように指示した。
 日本の国情は、朝鮮半島情勢によって左右される事が殆どであった。



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