🎍15〕─1─中国仏教は、異民族が漢族の儒教的中華帝国を征服し漢族を支配する為の革命宗教・革命思想であった。仏教の日本伝来。~No.41No.42No.43 @ 

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 釈迦が開いたインド仏教は、中央アジアを経て中国に伝来したが、儒教道教に影響されて変容した。
 異民族が中国に持ち込んだ仏教とは、儒教における天帝=天子(中華皇帝・国王)という漢族の統治体制を否定し、漢族の王朝を打倒し、漢族の地を征服し、漢族の支配を正統化する革命宗教であった。
 革命宗教である仏教は、漢族しか即位できなかった中華皇帝位を異民族に与え、異民族皇帝に中華世界を統治する正統性を与えた。
 ゆえに、中華世界において儒教と仏教は対立関係にあった。
 しばしば、中華皇帝は儒教支配体制を守る為に仏教を弾圧した。
 革命宗教の白蓮教などは、宗教叛乱を起こして中華皇帝を倒していた。
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 日本仏教は、中国仏教・高麗仏教とは違い、チベット仏教・インド仏教とも異なる。
 高麗仏教の生き残りである朝鮮仏教も、日本仏教とは根本的に異質な仏教である。
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2017年3月9日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義」
 [古代編]
 『仏教伝来』のインパク
 ヤマト政権は、越前から入って王位を継いだ継体天皇(ヲホド王)をはさみつつ、中央集権化を進めていきました。
 そして継体と手白香皇女(たしらかのひめみこ)の息子、欽明天皇の時代になると、5世紀に活躍した古代貴族・葛城氏の一族ともいわれる蘇我氏が勃興してきます。
 この時代に大きなトピックとなるのが、仏教伝来ですね。ただこのとき受容するかどうかの争いとなった仏教は、鎌倉時代以降の浄土教禅宗など僕たちがよく知っている仏教とは、かなり様相が異なります。
 別格いだった蘇我氏
 ……
 蘇我稲目の2人の娘は欽明天皇に嫁ぎ、ひとりは用明天皇推古天皇の生母、もうひとりは崇峻天皇の生母になります。これ以降、光明皇后まで、天皇の生母は皇族か蘇我氏しかいません。
 のちに光明子立后にあたって『なぜ臣下の家の藤原氏が皇后を出すことができるのか』と大論争になったことが、蘇我氏が特別な氏族だった一つの傍証となります。
 王権を正統化した国家仏教
 蘇我氏の方針は、開明的でした。
 政治はいつの時代でも保守派と開明派の間で振れていますが、蘇我氏は後者の立場でした。
 進んだ文化を持つ大陸の動きに敏感であり、渡来系の東漢(やまとのあや)氏を配下にした一方で、保守派で排仏派の物部氏らと政治的に争っていました。
 大王家と結んで政治を司る蘇我氏にとって、百済から仏教を受容することは最も重要な政策の一つでした。
 僕らは538年の仏教伝来を『ホットケゴミヤサン』と語呂合わせをして覚えましたが、仏教の伝来と受容は、『何年に誰々が伝えた』という簡単なものではありません。
 拙著『仕事に効く教養としての「世界史」』にも書いたように、このときの仏教は中国由来の国家仏教です。その前段からお話ししますと、古代中国には『易姓革命』という王朝交代のロジックがありました。主権は『天』、天上にいる神様が持っているという考え方です。
 『気候が悪化するのは、天が今の政治のダメさ加減を警告しているからや、それでも政治が改まらなければ人民に反乱を起こさせて王朝を取り替えるのや』。この思想は孟子が作りました。
 ところが、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた『北魏』を建国した拓跋部(たくばつぶ。北東ユーラシアに大遊牧国家、鮮卑を築いた有力部族の一つ)は中国人ではありません。
 中国人ではないので『天命により政権を担うことになった』とは言えないのではないか、と自らの正統性について悩みます。
 そこで飛びついたのが『仏教によって国を治める』という『国家仏教』の理論です。皇帝は仏の生まれかわり、官僚や軍人は菩薩であり、中国人民は救いを求めている衆生である、という西域伝来の教えです。
 世界遺産としても有名な雲崗の石窟がありますね。あそこに並ぶ石仏は北魏皇帝代々の似姿です。
 もちろん、中国でも仏教を受け入れるかどうかで激しい争いが起きましたが、北魏は大体において仏教を大事にし、その後の隋の文帝や唐の郄宗・武則天も仏教を重んじています。
 少し先走ると、日本もこのあと国家仏教を受け入れ、奈良時代には国分寺国分尼寺を建立します。そして752年の東大寺大仏開眼へと至ります。この路線を最初に敷いたのが蘇我稲目でした。
 稲目の時代に話を戻しますが、当時の日本にとっては、『仏教』とは御仏の尊い教えというだけではなく、先進国が奉じる新しい国家統治の考え方であり、さらにそこには新しい科学技術も含まれていました。
 仏教には、様々なものが付随してきます。教えを目に見えるかたちにいて、文字の読めないような人にも説明(見える化)するために、仏像やお寺、お経、仏具、お香など一連の装置があるのです。
 キリスト教にしても、立派な教会のきれいなステンドグラスに光が射し込むなか、荘厳なオルガンの響きに包まれて、みんなで神を讃える歌をうたって、体感的に『ありがたい』と思うわけです。
 そういった仕掛けを作り上げるために、当時の最先端の高度な知識や技術が注ぎこまれています。
 当時の日本は、仏教を奉じて大きな寺や石窟をつくっている中国、朝鮮を見ているわけですから、『もう古墳の時代やないな』『受け入れたほうが得や』と考えたのでしょう。
 実のところ、開明的なポジションの方が、経済が成長します。
 排仏では今までのままですから、仕事も増えないし成長のチャンスもありません。仏教を受けいれれば、大きなお寺や美しい仏像、きれいな仏具などが必要です。いままでにない新しい有効需要が生まれ、そこにひとが集まり、勢いが生まれます。
 最新の思想と技術を手に入れた対価は?
 いま日本は戦闘機をアメリカから一機100億円とかで買っています。しかしその戦闘機の心臓部分はブラックボックスのままです。
 軍事同盟を結んでいても、最新鋭の技術体系はおいそれとは教えてもらえません。
 ではなぜ百済は、当時の倭に仏教のみなならず、儒教を教える五経博士や暦を教える暦博士、医博士・採薬博士といった医療情報、土木、建築、工芸の技術までをも与えたのか。
 日本書紀では任那朝鮮半島南部)を割譲した御礼とされていますが、実態は、倭が百済を軍事支援をしていたからでしょう。
 高句麗新羅百済の三国が争う中では、軍事的な支援(傭兵)は何よりもありがたかったはずです。
 相撲でもがっぷり四つに組んで、どちらも引かないところに、ひとり後ろから押してくれる助っ人がきたら、心強いでしょう。
 高句麗の広開土王の碑には『倭の軍隊を破った』旨が書かれています。小競り合いではなく、苦労して避けたからこそわざわざ碑に記しているのです。
 朝鮮との交流で、日本は様々な先進的な文物を手に入れ、発展していきました。こうした流れを味方につけた新興勢力の蘇我氏は勢いを増、排仏派のライバル・物部氏を圧していくようになるのです。
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