🎍16〕─1─聖徳太子は、仏教を導入する為に使節を隋の煬帝に送った。隋王朝は、高句麗などの周辺諸国を侵略していた。隋の滅亡。592年〜No.44No.45No.46 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 『隋書』「倭国は大国で珍しいものが多いので新羅百済はかしこみ敬い使いを派遣している」
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 厩戸王は実在したが、聖徳太子の存在は疑われている。
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 文化度の低かった倭国は、親日派百済人の御蔭で文化に目覚め、同じ親日派高句麗と友好関係をもって反日派の新羅と対峙していた。
 百済高句麗親日派であり、新羅反日派であった。
 倭国は信義を重んずる国として、恩義ある百済の為に犠牲を厭わなかった。
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 天皇がもし朝鮮人あるいは朝鮮系朝鮮人であったら、天皇は朝鮮を支配する権利があるのか?
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 倭国は、朝鮮とは違って中国人になりたいと言うほどの中国に憧れはなく、中国に対して尊敬の念同時に恐怖感を持っていた。
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 神道では、「桜」は農業の女性神「サ」が降り立つ場所「クラ」といわれる。
 コメを主食とする日本民族は、稲の豊作を農業の女性神「サ」に祈る為に、桜の木の下で和気藹々と賑やかに宴会を開いていた。
 日本仏教は、日本民族が愛する桜を極楽浄土に咲く花と教えた為に、墓地に桜を植えた。
 日本文学は、昔は土葬であった事から、墓地に咲く桜の花びらは死者の血で濃く染まっていると表現した。
 日本神道において、子供を産んで育てる女性を地母神として大事にして来た。
 古代の日本は男性よりも女性の方が強く、古典的日本農業は女性の霊力に頼るところが多かった。
 ゆえに、農村の土着宗教では女性神を信仰した。
 日本の民族宗教である神道は、女性神最高神としている。
 普遍宗教の最高神は男性神で、女性神最高神とするのは宗教界の異端である。
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 渡来人は、帰化人とは違って天皇に対する忠誠心はない。
 渡来人は、日本の為ではなく、自分の為にのみ行動していた。
 渡来人と帰化人とは違うのである。
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 仏教伝来時の僧侶は、当然の事ながら朝鮮人であった。
 外国の神である仏教を受け入れるか、受け入れないかで、日本で初の宗教紛争が起きた。
 宗教紛争は、廃仏派の大連・物部氏と崇仏派の大臣・蘇我氏の権力闘争でもあった。
 ヤマト朝廷は、物部氏が滅びるや、仏教を受け入れ帰依した。
 渡来人僧侶は、正しい仏法を根付かせる為に、縄文以来の自然を自然として敬う神道的精霊崇拝と中国の道教常世信仰及不老不死思想を撲滅する為に弾圧した。
 伝統的な土着信仰を守ろうとする地方の豪族達は、仏教を広めようとするヤマト朝廷に対して激しく抵抗した。
 ヤマト大王は、宗教紛争は国家を分裂させ、国土を荒廃させ、国民に塗炭の苦しみ与えるだけであるとして、仏教信仰を暴力的に強制しなかった。
 ヤマト朝廷の平和的な統一と共に、仏教も全国に広がった。
 朝鮮渡来系僧侶は、政治に介入して腐敗し、貧困に喘ぐ庶民を救済する事なく大寺院を建立した。
 権力者との結びつきを強める為に、彼らの子息のみに大陸の高度な教養を教えた。
 初期仏教は、朝鮮系として、庶民の救済ではく権力者との癒着を強める事に奔走し、戒律や仏法を無視して腐敗堕落して行った。
 卑弥呼以来の、精霊信仰である神懸かり的鬼道は廃れた。
 仏教は、縄文以来の自然的精霊信仰と土着の神話・民話を否定しながら広がって行くや、地方の霊的混乱は酷くなった。
 行基が庶民救済に乗り出したが、仏教界の強欲な権力志向は改まらなかった。
 仏教僧侶の破壊坊主ぶりは、中国系の鑑真が渡日して戒律道場を開くまで続いた。
 日本の霊的混乱は、神道と仏教が多神教という共通性概念で緩やかに融合して収まった。
 そして、日本独自の祖先神・氏神という人神信仰が生まれた。
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 物部氏の本拠地である河内国渋川郡には、仏教を信仰していた証しとして寺院跡が発見された。渋川廃寺跡が残っている。
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 仏教伝来で問題になったのは、異国の神である仏を信仰するかどうかという純然な信仰問題ではなく、日本独自の神道的世界観に基づいた大王中心体制を大陸の世界観に基ずく中華皇帝体制とつながりを持ち依存するか、という事と、血縁の氏族内で共同管理してきた私有財産の一部を氏族に関係しない寺院に分け与えるかであった。
 それは、古代豪族が祖先から受け継いできた土地が、合法的に寺院を通じて渡来系氏族に奪われる事を意味していた。
 氏族の土地は死亡すれば氏族内で分割さあったが、寺院に寄進した土地は僧侶が死亡しても氏族に戻る事がなく寺院の財産となった。
 仏教の拡大は、従来型の氏族的社会体制を大きく変える改革であった。
 日本が大王を中心とした新たな社会体制に変わる為には、有力豪族の力を削ぐ必要があり、その為に利用されたのが仏教であった。
 また。仏教の僧侶が最新の技能や最先端の技術や高度な学問を持っていた為に、日本が発展し国際化する為にはどうしても受け入れなければならなかった。
 仏教受容をめぐる崇仏紛争は、古代日本における構造改革であった。
 先祖からの土地という既得権を守ろうとした物部氏らは、日本を閉ざしたままにしようとして激しく抵抗した。
 仏教を受け入れた百済新羅は、古代氏族に縛られない能力による官吏体制を導入し、中華帝国との交易で豊かになっていった。
 多くの氏族は、仏教によって土地が削られるかも知れないのに、蘇我氏が見せた大陸の文化や富に目が眩んで仏教受容に賛成した。
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 592年 第28代欽明天皇の娘額田部皇女は、兄第30代敏達天皇の后となったが、弟崇峻天皇の後を継いで即位して、第33代推古天皇となった。最初の女帝の誕生である。
 推古天皇は、群臣や豪族から再三にわたって天皇位に即位するように懇願され、中継ぎではなく正式な天皇として即位した。在位は、36年間の長きにわた。
 推古天皇「この頃五穀が実らず、百姓は大いに飢えている。私の為に陵を建てて、厚く葬ってはならぬ。ただ竹田皇子の陵に葬ればよろしい」
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 崇峻天皇の暗殺を命じた大臣・蘇我馬子は、王族に金銀財宝や美女を送って籠絡し、有力な諸豪族には利益をちらつかせて味方に付け、民族主義的廃仏派である古代氏族系の大連・物部氏を攻め滅ぼした。
 日本は、開放的に中国を崇拝する国際派と、閉鎖的に日本古来の美風を守ろうとする国内派で分裂していた。そして、外国を崇拝する進歩派が勝利して、日本に中国や朝鮮の「律令」という法治主義を無条件に導入しようとした。
 蘇我稲目の娘を母とする第33代推古天皇(最初の女帝)を即位させて、これまた蘇我の血を引く聖徳太子(第31代用明天皇の皇子)を摂政に据え、血縁を軸として蘇我氏に権力を集中させた。才能ある優秀な渡来人を手足の様に使って、大和朝廷の「まつりごと」を完全支配した。半島や大陸との交易を独占して巨万の富を築き、王族や諸豪族に金をばらまき女をあてがって懐柔し、大王家(天皇家)を凌ぐほどの権力を掌中に収めて専横を極めた。
 公用語は、百済語とされ、日本語は野卑な言語として嫌われた。
 奈良のある地域では、住人の9割が半島出身者であったといわれている。
 当時の日本は、半島出身者とその子弟の博識に依存しなければ、国家はおろか社会そのものを正常に運営できなかった。
 日本が、速やかに、そして正確に大陸知識を習得できたのは、国際的漢学の素養のあった半島出身の知的エリート集団が存在したからである。
 蘇我氏には、渡来系氏族という説があった。
 忠誠心なき渡来人は、「強者の論理」である大陸の世界常識を信奉していた。
 大陸的教養なき日本の古代氏族は、無能力者として時代に取り残され、名門とおだてられながら政治の中枢から閉め出されて、没落して行った。
 中国化した渡来人にとって、「個」の能力主義実力主義と言った中国的国際主義の常識が通用せず、指導者としての実力のない無能力者が大王家・皇室に生まれたというだけで、日本の支配者として天皇に即位する事が理解できなかった。
 「日本列島が必ずしも日本人だけの所有物でない」以上、日本に住む日本人はもちろん中国人でも朝鮮人でも西域出身者でも、身分・家柄・地位・階級に関係なく、実力がある能力者が、自由に天皇に即位すべきだと確信していた。
 武力の才能ある者は軍事で、
 商才のある者は経済で、
 人望のある者は弁舌で、
 自己の特技で競争相手を排除して勝者となって天皇になるべきだと。
 日本が、中国や朝鮮のように高度に発展を遂げる為には、日本の「弱者の論理」(弱い者いじめは『恥』)を廃して、中国の「強者の論理」(弱い者が滅びるのは天命)で国際化すべきだと確信していた。
 中国文明の高度な教養を持った正統派儒教のエリート読書人・書生階級出身の移住者は、その日暮らしの貧しい無教養な農耕漁労民の日本人とは違って大志を抱いて奈良・大和・浪速周辺に移り住んだ。
 優れた才能を持った渡来人達は、天皇が支配する時代遅れの未開国家日本を、聖人君主が統治する理想国家に再構築する為に官吏の職を求めた。そして、渡来系有力者の縁故で任官し、任地に赴いて日本人に対して国家建設の為に重税を課した。だが、正統派儒教聖人君主国家が理解できず、中国的理想国家建設に協力しない、無知蒙昧な日本人に絶望した。彼らは、貧しい日本人から税を取り立て、国庫に納める事なく横領して私腹を肥やした。私財を貯める為に、朝廷から未納の叱責を受ければ、貧困化した日本人から暴力的に財産をむしりとった。そして、彼等は、地べたを這いつくばって生活する日本人を馬鹿にし、差別し、従わず刃向かえば容赦なく制裁を加えた。その結果、日本人が生きようが死のうが一切気にしなかった。
 高級官吏登用試験である科挙を中国や朝鮮同様に日本にも導入し、広く優秀な人材を確保しようとした。
 正統派儒教は、読書人や教養人などのインテリ階層に偏向的エリート教育を行い、農業や漁業などの肉体労働は才能のないツマラナイ者の仕事と軽蔑し差別し馬鹿にしていた。
 中国における大陸的エリート層とは、公平を理想とする日本的価値基準の欠いた、人種や職業や性別などあらゆる面での差別主義者であった。
 彼ら中国的エリートは、合理的に物事を処理する為に人の曖昧さを完全に無視し、弱い人間の痛みも悲しさもせつなさも抹殺した。
 それが、東アジア世界で成功する頭の良い賢い人間である。
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 ヤマト王朝は、隋から新しい国家モデル・律令制と仏教祭祀文化を採用して、神代から受け継がれてきた神話の古墳時代は終わった。
 律令制や仏教祭祀文化を盲目的に無条件で全てを取り入れるのではなく、日本に採用する所と切り捨てる所を吟味して区分けし、取り入れるには不都合な所は独自の解釈で、多様性多重性を保ちながら柔軟に国造りを行った。
 歴代天皇が続けてきた古墳祭祀と自然・精霊祭祀は、伝統的皇室祭祀から取り除かれた。
 東アジアの国際言語である隋・唐(両王朝とも非漢族系)の漢字・漢文に対し、無条件で受け容れた百済新羅高句麗とは異なり、日本独自の日本国語を漢文で表記したいという意欲を持ち始めた。
 日本人は他人の優れた所に憧れそうありたいと願いつつも、同じ様な事をして満足するのではなく、他人とは違う事をして自慢したいという欲望を強く持っていた。
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 清水書院の高校日本史教科書「『書紀』の記す憲法17条や冠位12階、遣隋使の派遣についても厩戸王聖徳太子)の実績とは断定できず、後世の偽作説もある」
 摂政になって国政を担当した聖徳太子はいなかったが、国政に協力した厩戸王という皇族はいたとされている。
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 日本は、祭祀王・天皇を中心とする神と仏の国である。
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 日本には、言霊として日本語は存在していたが、その日本語を書き記す文字がなかった。
 日本語を書き記す為に、中国から「漢字」を持ち込み、当て字的に漢字を使った。
 日本の漢字は、日本語と一体化する事で、中国の漢語の漢字とも朝鮮半島百済語・新羅語・高句麗語の漢字とも違う。
 日本は、中華世界とは違って漢字に思想や精神を込めず、道具である文字ではなく日本語に重きを置いていた。
 その象徴が、民草に語りかけた歴代天皇の詔である。
 天皇の詔は、聖慮としての心からの語り掛けであって、皇帝の詔勅としての命令書及び通達書ではなかった。
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 聖徳太子時代。日本は、中国の実態を正確に見詰めていたが故に、高度な文明を持った理想国家として尊敬するとと同時に、周辺地域を侵略し併呑するか臣下とする侵略国家としての恐怖を抱いていた。
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 聖徳太子は、隋の大軍30万人が高句麗を攻撃した事を知るや、高句麗の次は朝鮮半島と日本列島を侵略してくると極東アジア情勢を分析した。
 高句麗は、辛くも隋の大軍を撃退したものの一国では中華帝国の侵略を食い止められないの判断から、長年、朝鮮半島の覇権を巡って戦ってきた宿敵・日本との攻守同盟を望んだ。
 聖徳太子は、中華帝国の侵略から日本を救う為に高句麗と小国間同盟の道を選ぶが、同時に、隋に負けない軍事力と経済力を持つべく隋型の中央集権国家を手本とするべく特使を隋の煬帝のもとに送った。
 中華帝国から日本を守る為には挙国一致体制を作り国内から敵に靡く反逆者を出さない事が肝要として、大王家(天皇家)との疑似上下関係による氏族連合社会を大王家を中心とした大権を持った専制君主社会に大改革が急務であった。
 この国家存亡・民族浮沈の瀬戸際で考え出されたのが、「和」の思想である。
 「和」の思想の本質は、中華帝国の侵略から日本国と日本民族を守ろうという国防思想である。
 本来。戦争と平和は一体のもので、戦争思想は同時に平和思想でもある。
 戦争思想を切り離した平和思想は、歴史的事実や現実を一切考慮しない幻想である。
 故に。「和を以て貴し」とは「和を以て外敵(中国・朝鮮)から祖国日本を守る為に武器を取って戦う」と言う事である。
 中華帝国(中国)とは、古代から周辺諸国を侵略して領土を拡大する世界的植民地大国である。
 古代から日本の死命を握る鍵が朝鮮半島である事に変わりがなく、日本は高句麗百済親日国家として攻守同盟を結び、両国から王族か重臣を人質として取っていた。
 新羅は、反日国家として秘かに中華帝国に誼を通じていたが、東アジア情勢を見ながら陰謀をめぐらして柔やかに日本との関係を保っていた。
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 「煬帝悦ばず」
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 田中満智子「これは私の勝手な想像ですけど、厩戸皇子(うまやどのおうじ・聖徳太子)は伝わっているような聖人君子ではなく、悩み多き人物だったような気がします。シャーマン的な女性リーダーが神の声を聞いて、男性リーダーが実際の政治を動かす。これは卑弥呼の時代から続く日本的なやり方です。厩戸皇子推古天皇の補佐役として国を動かしていた。そこで、理想と現実の違いに生涯悩んだにちがいないと思うんです。ただ『祈る』ということで救われるという確信はあったんでしょうね」
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 593年 聖徳太子は、新たな国造りとして、天皇の親政を盤石にする為に諸改革を行った。
 中国に対して、臣属はもちろん朝貢冊封を拒否して対等外交を築く為に、儒教道教ではなく仏教を持って国家理念とすると宣言した。
 隋の煬帝は、日本を中華帝国華夷秩序に組み込む為に「暦」と「元号」を与えようとした。
 聖徳太子は、日本の自主独立を守る為に拒否し、独自の「元号」と「暦」の選択の自由を譲らなかった。
 中華皇帝に対する対等として「治天下大王」を自称し、家臣としての上下関係を拒否した。
 朝鮮は中国の臣下として皇帝に忠誠を誓う儒教を受け入れたが、日本はインドで誕生した仏教を信奉すると表明した。
 朝鮮半島諸国は、中華皇帝の臣下として「暦」と「元号」を受け入れ、中華帝国の下位国で事を認めて惨めに遜った。
 この時代の日本外交は、天皇を中心とした国家を守り抜くという覚悟のもと、中国はおろかインドまでのアジア全体の国際情勢を踏まえた卓越したものであった。
 遣隋使の国書「海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に使いを遣わし」
 日本は、朝鮮と違って、中国の様な男系大家族制である宗族制や夫婦別姓を採用しなかった。士大夫による文官統制も、官吏任用制度である科挙も、宮廷文化としての宦官も、中華文明の大半を受け入れなかった。
 聖徳太子蘇我氏は、隋の皇帝を中心とした律令制を日本にも導入しようとした。
 律令制は、巨大化した豪族の力を削ぐ為に土地と領民を取り上げ、大王家のもとで公平に再配分し、豪族の力に合わせて官位と役職を与える事であった。
 弱体化した大王家の立て直しの方策であり、貧しい一般庶民に土地をあて得て救済する事ではなかった。
 蘇我氏の祖は、住吉大神武内宿禰であり、蘇我氏の皇族はトヨ(豊)の名を含んでいる。
 蘇我氏の財力の元は、三種の神器翡翠の勾玉に関わるヒスイ(神宝)の加工を独占したことである。土地より朝鮮や中国との交易を重視して為、大王家の力を強める律令制の導入に賛成し、他の豪族らの説得に奔走した。
 古代豪族は、建前では高位高官を条件にして受け入れたが、本音では改革に反対であった。
 だが。軍事豪族の物部氏が滅んだ今となっては、渋々ながら受け入れるしかなかった。
 594年 推古天皇は、仏教を受容するとの詔を発し、仏教による外交を推進する事を決めた。
 596年 蘇我馬子は、百済帰化人・飛鳥衣縫氏の屋敷跡に、渡来人を使って飛鳥寺を創建した。
 落成した後に迎えた僧侶は、高句麗人の慧慈や百済人の慧聡ら渡来僧であった。
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 聖徳太子は、儒教を学び、仏教を重んじ寺院を参拝したが、祖先崇拝として日本の神々を疎かにせず神社を参詣した。
 日本文明の核心は、日本独自の神道として、祖先神・氏神の人神信仰であった。
 皇室神道神社神道教派神道も、元は同じ祖先神・氏神の人神信仰で区別できるものではない。
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 倭国は、独裁を許す民族性を持つていた。
 独裁者の多くは、臣下を奴隷として扱い、踏ん反り返って威張り散らす。
 そうした独裁者は、例外なく暴走して国民に犠牲を強いて悲劇をもたらしていた。
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 598年 新羅から孔雀1羽が贈られてきた。
 これ以降、唐や百済新羅から、中央アジア、南アジア、東南アジアに生息していた孔雀、オウム、ラクダなどの珍しい動物が日本へもたらされた。
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 599年 「地震があり家屋がことごとく倒壊した。そこで諸国に命令し、地震の神を祀らせた」『日本書紀
 聖徳太子は、中国の優れた長所を取り入れ、人を人と思わない短所を切り捨てた。603年に冠位十二階の制と、604年に憲法十七条を制定した。そして、大虐殺を正当化する中国中心の華夷秩序からの独立を宣言した。
 冠位十二階は、出身氏族により地位を決めるのではなく個人の能力と努力で昇進させる事としたが、王族と蘇我氏は対象外とした。
 領地を広げ領民を増やして大王家・天皇家を凌ぐほどに勢力をつけた豪族の力を削ぐために、土地を取り上げるべく律令制度を利用しようとした。
 隋・中国や新羅・朝鮮の様な儒教価値観で硬直した科挙選抜官僚制度を導入する事は、日本にとって百害あって一利なしとして避けた。
 聖徳太子が国際派と見せながら仏教と神道で民族的素養を守ろうとした為に、日本を正統派儒教で中国化しようとしていた渡来系官吏の怒りを買った。
 日本人は、独断専行の優れた独裁者を嫌った。 
 『憲法十七条』
 「一に曰く 和を以て貴しと為し
 十二に曰く、国司・国造は百姓(おおみたから)におさめと(重税を課す)ることなかれ。国に二人の君なし、民に二人の主なし。
 十七に曰く、それ事は独り断むべからず、必ず衆とふべし」
 人と人の「絆」を大事にし、人と人の「和」を大切にする、信頼と信用を重視する集団主義を、日本民族に根付かせたのは聖徳太子である。それは、他人を差別し、他人を虐げ、他人を排除する、「謀」と「奪」による個人主義の中国・朝鮮からの独立宣言である。
 聖徳太子「世の中に嘘偽り、ただ仏のみが真実なり」
 聖徳太子は、日本を神道と仏教による天皇中心の神聖国家にし、中国や朝鮮のような儒教独裁制にしない為に、一つの氏族が権力を占有しない様に、「一つの氏族から一人の議政官」を根付かせようとした。
 それが、独裁者を出さない天皇中心の合議制である。
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 聖徳太子は、第一条で、人はそれぞれ色々な考えを持っている以上、後々まで遺恨を残さないようによくよく話し合い、上下一体となって全ての者が納得して決めるように説いた。
 高天原で、八百万の神々は「神集い」天照大神の諮問を衆議して決めていた。
 同じ様な事を、最後の第十七条でも繰り返し説いている。
 天皇の権威を守る為に、第三条で「天皇の詔」は謹みて聞くように諭している。
 が、皇統を護る為には群臣による話し合いによる決定が優先されるとした。
 絶対権力を持った天皇を否定すると共に、強力な指導力を持った独裁者も認めなかった。
 全ての事を皆で話し合ってうえで、半数以上の賛成という「多数決」ではなく恨みっこなしの「全会一致」で決めた。
 それは、後々までの争い事や揉め事を避けたいという「強者の論理」ではなく「弱者の論理」である。
 第二条で、隋や百済などが信仰している普遍宗教の仏教を受け入れる事で、実利的に外国の進んだ文化や技術を取り入れる事を宣言した。
 同時に、天皇は世を治める為に神祇(天津神国津神)の祭祀を怠りなく行うとの詔をだした。
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 聖徳太子は、研究が進むにつれて、こまで語られた摂政・皇太子とはことなる人物像が浮かび上がり、中には生存そのものを否定するものまである。
 後世に於いて、聖徳太子への個人崇拝が盛んになるにつれ、理想の皇太子像として脚色、潤色が加えられたと言われている。
 推古大王(天皇)の御代に、厩戸皇子厩戸王と言う人物は居たのは確かで、聖徳太子個人の事績は大臣・蘇我馬子共同執政というのが有力になってきている。
 特に公式歴史書の多くは、後世の権力者によって政治的個人的に捏造、改竄、歪曲されているのが常識で、歴史書が必ずしも正しいとは限らない。
 歴史的に正しいかどうかは、他の信頼がおける資料と比べながら調べる必要がある。
 特に。東アジアの歴史は、後世の支配者が自分を正当化させる為に書かせたものが多く正しいかどうかは疑問があるとされている。
 それは日本でも例外ではないく、日本書紀古事記でもまた正しい歴史書とは言えないのが真実である。
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 日本は、中国や朝鮮とは全く違う国造りを行った。
 島国の日本は、信用・信頼を第一に置き、人間不信に為て平気で人を騙し陥れる大陸の中国や朝鮮とは一緒になる事を拒絶した。
 唐王朝は、征服した隋王朝の一族とその臣下を大虐殺して中国を統一した。
 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を戴く日本は、正統派儒教の「放伐」と「禅譲」による易姓革命を完全に拒否した。
 中華思想による易姓革命は、大虐殺の元凶であった。
 天皇中心の日本は、朝鮮とは違って中国化を拒否した。
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 日本へ亡命してきた朝鮮系帰化人は、日本軍の力で祖国に復帰し、反日朝鮮人に奪われた祖先からの土地を奪還して親日派国家を建設する事を希望していた。
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 600年 聖徳太子は、対朝鮮政策として、半島の任那に侵攻した新羅軍を征討する為に1万余の軍隊を派遣した。
 日本軍は、新羅軍を撃退し、新羅に奪われていた6つの城を奪い返した。
 日本の朝鮮派兵は、新羅によって、滅ぼされた親日派加耶諸国の再興と奪われた倭国の土地の回復にあった。
 聖徳太子朝鮮出兵は、朝鮮系渡来人によって暗殺された崇峻天皇の悲願であり、日本が持っていた当然の権利であった。
 対中国政策として、天皇国家元首号を使用して、中国皇帝との対等を主張し、中国の属国ではないと宣言した。アジアにおける、自主独立国を宣言した。だが、国号は依然として獣を表す「倭」のままであった。
 聖徳太子は、隋の文帝に第1回遣隋使を送った。
 倭国は、これまで南朝宋王朝朝貢使を送って臣下の礼をとってきたが、初めて北朝系の隋に使者を送った。
 文帝は、日本の国情を聞いて、日本は文化度が低いと言い放った。
 聖徳太子は、この間までは隋の臣下として冊封体制に組み込まれてしまうとの危機感から、中国の知識を身に付けた者を集めて文化的国家の建設を急いだ。
 同時に、大陸や半島からの侵略に備えて軍事力も強化した。
 聖徳太子の改革によって、日本は急速に軍事国家化した。
 601年 聖徳太子は、新羅討伐の将軍であった久米皇子が病死した為に、異母弟を新たな将軍に任命して派遣した。
 だが、不幸な死が相次いで半島権益の復権計画は頓挫し、不吉な予感と共に朝鮮出兵は中止された。
 602年 高句麗僧と百済僧が来日し、中国情勢を伝えた。
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 600年 『遺新羅史』「新羅百済皆以倭為大国球物並敬仰之恒通使往来」
 倭国(日本)は、隋と対等外交をしていただけに、親日百済高句麗反日新羅よりも上位にあった。
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 603年 聖徳太子は、新羅から贈られてきた「弥勒菩薩半跏思惟像」(国宝第一号)を渡来豪族秦河勝に与えた。
 秦河勝は、弥勒像を、京都太秦に創建した名刹広隆寺に安置した。
 カール・ヤスパー「地上における全ての時間的なものの束縛を超えて達し得た、人間存在の最も浄清な、最も円満な、最も永遠の姿」
 柳宗悦「日本が国宝として世界に誇り、世界の人々もその美を是認している作品の多くは、そもそも誰の手によって作られたものであるか。中でも国宝の国宝と呼ばねばならなぬものの殆ど凡て、実は朝鮮の民族によって作られたのではないか」
 朝鮮総督府は、百済時代の仏教文化をはじめ排斥され滅びようとしている古典的朝鮮文化の保存に努めた。
 保守派両班漢文学者らは、儒教原理主義から、朝鮮総督府が推し進める仏教保護を含む古朝鮮文化復興政策を朝鮮文化の破壊として猛反対した。
 現代韓国・北朝鮮が、日本帝国植民地支配による民族文化の破壊とはそう言う事である。
 日本物作り文化は、勤労神聖賞讃文化故に職人職工を大事にし、「故きを温ねて新しきを知る」を心情として、絶えず初心に立ち帰る為に古典を大切し、鍛え上げられた職人芸を現場で確かめ工夫し進歩させた。
 朝鮮は、職人を嫌悪し、日本の物作り文化を軽蔑した。
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 604年 文帝は、素行の悪い次男の楊広皇太子を廃嫡して長子に皇位を譲ろうとしたが、楊広に先を越されて殺害された。
 楊広は、第二代皇帝として即位し、兄とその家族を皆殺しにした。中国史上随一の暴君である、煬帝の誕生である。
 中国では、親や兄弟を殺す事は珍し事ではなかった。
 楊玄感は、義憤で叛乱を起こそうとしたが発覚して、自分の家族はもちろん9族まで捕られ、身の毛だつ残虐な処刑方法で処刑された。
 殺す時は、一切容赦はせず、数百人はおろか数万人でも、殺した相手の資産が合法的に奪える為に喜んで虐殺した。
 中国の大地は、血の池地獄のように大量の血で染まった。
 血に飢えた煬帝は、悪政失政を重ね、自己顕示欲と豪華な龍船を浮かべて遊ぶ為に大運河を建設した。
 大運河建設の為に、女子供含めて100万人以上を強制連行した。
 監督官は、経費や食糧を着服して、労働者に真面な食事を与えず、劣悪な環境下の過酷な労働を強制した。
 開通するまでに、半数以上が死亡した。
 中国人権力者は、人民を虫けらのように扱い、生きようが死のうが気にはしなかった。
 圧政に苦しむ民衆は、各地で叛乱を起こしていた。
 東北の高句麗討伐の為に大軍を派遣して財政を悪化させ、その責任を家臣に転嫁して処刑した。
 不満を抱く家臣は、家族とも容赦なく残酷な方法で処刑した。
 中国の歴史は、人民が地獄のような仕打ちを受けていた陰惨な歴史である。
 気の弱い日本人では、生き残れない世界である。
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 日本の中国に対する対等外交。
 604年 聖徳太子は、世界最古の木造建築となる法隆寺を建立した。
 法隆寺五重塔の心柱の伐採年代は594年である。
 建築に用いた尺度は、飛鳥尺あるいは高麗尺と呼ばれる飛鳥時代の尺度である。
 白鳳時代の尺度は、奈良尺あるいは唐尺である。代表建築は薬師寺東塔。
 605年 聖徳太子は、斑鳩宮に移り仏教に専念しはじめた。
 607年 聖徳太子は、恵慈の献策に従って、小野妹子を第2回遣隋使として隋の煬帝のもとに派遣した。
 日本は、仏教を通じて国を豊かにしようとした。
 日本は、中国とは対等であるとの国書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」を送ったが、文言は仏典の用語をもちいたに過ぎなかった。
 が。自ら天子と名乗る事で、朝鮮諸国王の様に臣下として中華皇帝の服属せず、中華帝国を中心とした華夷秩序に組みしない自立した国家であると伝えた。
 煬帝は、国書に「天子」と名乗った事が無礼極まるとしたが、国書を郵便で送り返した現代の韓国とは違って、一様は礼儀として受理した。
 隋は、琉球に対して朝貢を求める使者を送った。
 倭国も、周縁部が隋の支配下に組み込まれる事に危機感を抱き、琉球はもとより北海道や樺太や千島列島のアイヌ人に朝貢を求めた。
 倭国と隋は、東アジアにおける支配地獲得競争を行っていた。
 古代朝鮮の三国は、半島から一歩も出られず出遅れていた。
 608年 聖徳太子は、「東の天皇 西の皇帝に曰す」という文書を煬帝に送り、日本天皇は中華皇帝とは同格であると事を自己主張し、日本は独自の文明・文化を持った独立国家であると宣言した。
 煬帝は、対等を主張する蛮族に激怒したが、高句麗征討戦の最中であるのを考慮して、裴世清を答礼使として日本に派遣した。
 中華皇帝は、日本の大王・天皇を対等な君主と認め、新羅百済高句麗などの諸国王よりも上位とした。
 これ以降、日本の天皇は朝鮮の国王の上位者とされ、朝鮮が日本の風下に立つ事があっても、日本が朝鮮の風下に立つ事はなくなった。
 日本外交の勝利の瞬間であった。
 現代日本よりも古代の日本は、数段に外交が上手かった。
 煬帝は、高句麗を征服した後、百済新羅をも征服して朝鮮半島を領土としたかどうかは不明である。
 小野妹子は、隋使・裴世清(はいせいせい)を伴って帰国して、聖徳太子に復命した。
 裴世清は、小墾田宮(おはりだのみや)で国書を捧呈(ほうてい)為た時、聖徳太子は立ち会わなかった。
 裴世清は、小国日本を軽んじていたが、日本に来てその経済力と軍事力は侮りがたいと見て、帰国するや「日本の人々は中国人と同じであり、彼らが蛮族と呼ばれるのは理解できない」と報告した。
 隋は、これ以降、日本を対等国と認めて交流を続け、「日出ずる処の国」として扱った。
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 煬帝は、604年に皇帝となり、610年頃から東突厥高句麗ベトナムなど周辺諸国を侵略し、抵抗する者は容赦なく虐殺した。
 612年 隋軍113万人は、高句麗に攻め込むが失敗して敗走した。
 613年 煬帝は、3年連続で高句麗征伐を命じるが兵力不足で断念し、財政は逼迫して、国力は疲弊した。
 617年 隋王朝は、相次ぐ高句麗遠征と敗北で統治能力を失い、各地の領主は叛乱を起こし内戦が起きた。唐国公・李淵と次子・世民も、挙兵した。
 618年 隋の滅亡。
 煬帝は、家臣に捕らえられ、家族諸共に市中を引き回され、民衆の目の前で虐殺された。
 煬帝の一族は、反乱を起こし農民によって根絶やしにされた。
 中国の皇帝には、名君より暴君が多く、天寿を全うできた皇帝は少なかった。
 為に。中国の帝国は、日本の皇室とは違って、絶えず易姓革命を繰り返していた。
 儒教は、姓の違う易姓革命を奨励し、帝室を守る為の大虐殺を正当化していた。
 儒教の歴史は、中華皇帝の歴史同様に血にまみれていた。
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 『隋書』「新羅百済倭国を大国とする。優れた品々が多いからで、ともに倭国を敬仰(けいぎょう)し、常に使いを通わせている」
 技術力の劣る新羅百済は、優れた日本製品を手に入れる為に、交易ではなく使節を送って倭国王から欲しい品物を下賜してもらっていた。
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 聖徳太子は、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)中心の「国體」を守り、皇統が永遠に続く事を希望して諸改革を行っていた。
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 唐国公・李淵は、煬帝の孫の恭帝を擁立し、恭帝から禅譲されたとして唐王朝を打ち立した。
 高祖・李淵は、挙兵して隋王朝の残党や農民反乱軍や他の勢力を殲滅し、となって唐王朝を建国した。
 中国は、姓の違った一族が大流血の中で王朝を開き、周辺諸国を侵略し虐殺と略奪を行っていた。
 そこが、日本とは根本的に異なりところである。
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 隋と唐の両王朝は、中国人である漢族ではなく、異民族のトルコ系遊牧民族鮮卑人である。
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 620年代 ソンチェン・ガルポは、古代チベットを統一して王国を建国して、官位12階制を設けて国内充実をはかり、唐帝国に負けない軍事大国にした。
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 613年 大陸の文化や技術を積極的に取り入れるべく、日本最初の国道とも言うべく奈良から難波(大阪堺市)を結ぶ竹内街道を設置した。
 622年 聖徳太子は、律令制度を導入しようとした矢先に、突然、不可解な死を遂げた。
 その威徳を惜しんで神とし、同時に祟りを起こす霊力を持った鬼として恐れて「童子」の姿で祀った。
 聖徳太子は、祟る恐れがある神・鬼として童子の姿で祀った。
 日本の宗教感では、童子と老人・老婆は神に近く、同時に鬼に変身して祟りや災害を引き起こすと恐れた。祟る鬼を鎮め恵みの神に変えられるのは、全てを生みす豊穣の女神である地母神だけとされた。
 日本の原始神道は、女性崇拝信仰でったがゆえに、嫉妬深く、嫉妬深いゆえにどんな仕打ちをするか分からないと恐れ戦いた。ゆえに、霊山など女性神の霊力に近い所には女性を近づけなかった。
 神道的女人禁制とは、女性蔑視ではなく、その反対に女性崇拝への恐れであった。
 蘇我氏は、聖徳太子の志である律令制度を日本に根付かせるべく、周囲の反対を押しって制度改革を推し進めた。
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 『隋書』「新羅百済倭国を大国とする。優れた品々が多いからで、倭国を敬仰して常に使いを往来されている」
 隋は、百済新羅倭国の下位国と見なしていた。





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