🎍17〕─1─第33代推古天皇。男系女性が天皇に即位して統治する国・日本は、世界の非常識である。~No.50 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2016年8月1日 読売新聞「美しき女帝・推古。
 里中満智子 女性が国のトップである天皇に立ったのは推古が最初だが、周囲の抵抗感はそれほどなかっただろう。なぜなら古事記に登場する最高神天照大御神は女性であり、3世紀に登場する邪馬台国の王・卑弥呼も女性だから、自然に受け入れられたのではないか。
 600年に送った遣隋使は『我が国の王は夜に政(まつりごと)をし、夜が明けて日が昇ると弟に政治を任せる』と隋に説明したという。卑弥呼の時代から存在したと『女性が神の声を夜に聞き、男性が昼に実務を執り行う』との意味だ。先進的な隋は『王は朝から政を行うべきだ』と言ったそうだ。
 推古天皇は『祈りの夜を過ごし、昼間の政務は聖徳太子に担当させる』という形を取った。情報が少ない時代だけに、特に外交について、自身が判断することは難しかったはずだ。神に祈り、声を聞くには清らかな存在である必要があり、俗世間の政治は男性が執ったのだろう。
 40歳を前に即位した推古天皇は、聖徳太子と二人三脚で歩んだ。治世は36年にも及んでおり、精神力の強い人だったと思う。
 推古天皇が作り上げたのは、『女性の天皇は真面目で、何事も投げ出さない』というイメージ。皇極、持統ら女帝が続く礎を築いたともいえそうだ。
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 吉村武彦 7世紀の日本で思い浮かぶのは聖徳太子蘇我馬子で、推古天皇のなかなか挙がらないのではないか。太子は1万円札などの肖像になったこともあり、人物を想像できるが、推古はイメージできない。教科書の説明では、太子や馬子が『光』で、推古は『影』と言えるかも知れない。
 推古は欽明天皇と、馬子の父・蘇我稲目の娘である堅塩媛(きたしひめ)との間に生まれた。推古の即位には蘇我氏の主導があったが、先代の崇峻天皇が暗殺された政治的危機の中、35歳以上を王位就任の適齢とする考えから、群臣は欽明天皇の孫にあたる3人の若い男性から選ばなかった。
 推古即位後の政治体制は太子の伝記『上宮(じょうぐう)聖徳法王帝説』に『太子は馬子とともに天下の政を補佐した』とする記述があるように、推古のもとで共同で政治を担っていたのだろう。
 中国の歴史書『隋書倭国伝』には倭国王は男性と記されている。隋の使い・裴世清(はいせいせい)は推古に会えず、太子と会見したとみられる。また推古は豊浦宮(明日香村)で即位し、小墾田宮(同村)に遷都したが、いずれも稲目の邸宅があった場所で、蘇我氏の影響力が強かったことがうかがえる。
 ただ、太子や馬子のみを過大に評価するべきではないだろう。あくまでも、推古をトップとする体制であったと強調したい」
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 男系女性と女系女性は異なる。
 地球上で存在した歴史上の王家でも、現在の如何なる王家においても、女性が王位に就く正統性は男系女性であって女系女性ではない。
 ヨーロッパの正統な王侯貴族は、数百年の年月をかけて政略結婚を繰り返して同族となっている。
 ゆえに、現イギリス王室はドイツ系であり、次期国王はギリシャ系となる。
 その血筋は、イギリスのビクトリア女帝に繋がる。
 対して日本天皇は、外国に親類縁者とする皇族王族を持たない孤独で、閉ざされた皇室である。
 日本皇室が、閉ざされた皇室とならざるのは定めである。
 日本天皇や皇族が、意図的に国民の前に姿を晒し、過酷で過密な行事を駆け足的にこなす必要は本来ない事である。
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 女性をトップに据える柔軟な日本文明は、男尊女卑の儒教価値観に毒された硬直な中国・朝鮮などの中華文明圏とは異なる。
 日本と中国・朝鮮は、文明・文化・価値観を同じくする同種同族ではない。




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