関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
中国は、古代から、周辺諸国に侵略戦争を行う軍事大国であった。
唐帝国は、戦争ができる国力がつくまで平和外交を行い、軍事力が充実したら周辺諸国を侵略した。
東アジア諸国は、中華帝国の侵略の脅威に晒されていた。
中華帝国は、周辺諸国を侵略し、臣下の礼を取れば寛大さを示し、逆らえば容赦なく滅ぼし虐殺を行った。
・ ・ ・
倭国(日本)は、中華(中国)の侵略から日本天皇・日本国・大和民族(日本民族)を守るべく孤独に戦っていた。
・ ・ ・
原始仏教は、本人が個人的に悩みや苦悩から解脱して悟りを開くこくが目的とされた。
インド仏教は、中央アジアの集団で行動する遊牧民族の間に伝わる事で個人の悟りから集団の救済へと、改革派大乗仏教に変化した。
中国に伝わるや、自利の個人的徳目を説く儒教は他利の普遍的真理を説く大乗仏教を弾圧した。唐時代の「会昌の廃仏」。
ただし。他者の生死完全無視で、自己のみの現世利益を追求する個人中心仏教は弾圧を逃れた。それが、中国仏教と朝鮮仏教である。
大乗仏教は、儒教体制の中国や朝鮮で弾圧されて日本に渡り、多神教の神道と交わる事で日本独自の日本仏教に変質した。
日本仏教と中国仏教・朝鮮仏教は、まったく異質な仏教である。
大和朝廷は、荒れ狂い人に厄をなす怨霊・悪霊を封じ込め鎮魂する為に仏教を利用しようとした。
日本仏教は、貧苦に苦しむ民衆の救済ではなく、怨霊や悪霊から国の要である天皇家を守り、万世一系の皇統の繁栄をもたらすものであった。
多神教の神道には、排他的な絶対的真理や不変的ルールを持たないだけに、怨霊や悪霊を神として祀って鎮める事はできても、撃退もしくは退散させるだけの霊力は無いとみなされていた。
同様に、「スメラミコト」の祭祀王・天皇も強権を持った絶対君主ではなかった。
初期仏教は、国家鎮護・国土安泰の為に怨霊封じとして信仰を集めた。
東大寺を中心とした奈良仏教に怨霊封じの霊力が無いとみなされるや、新たに空海や最澄らの密教にその役目を命じた。
仏教が密教から顕教に変質して庶民の間に広がるや、新たな怨霊封じとして陰陽道が導入された。
陰陽道の霊力が薄れるや、新たな怨霊・悪霊封じとして修験者による山岳仏教がもてはやされた。
日本の宗教は、世の中に平穏をもたらし、庶民生活に幸福をたらす為に、世間に厄を為す怨霊・悪霊・悪人を鎮めるべく神として祀った。
日本人の信仰心は、まごころから出た言霊信仰による「怨霊鎮魂」であって、おぞましい狂信的な呪術による「悪魔崇拝」ではない。
・ ・ ・
624年 唐の高祖は、武徳律令を公布した。
国内整備が終わるまで周辺諸国との良好な関係を維持する為に、高句麗、百済、新羅などに爵号を与えて慰撫した。
626年 次男李世民が、クーデターである玄武門の変を起こし、兄の皇太子家族とその支持者を殲滅して第2代皇帝(太宗〜649年)に即位した。
中華皇帝は、骨肉の争いで兄弟や親族を家族諸共に惨殺し、反対する者や敵対する者あるいは優秀な者を全て家族諸共に根絶やしにした。
中国の歴史は、大虐殺に次ぐ大虐殺で綴られている。
630年 欽明天皇は、唐との関係を改善する為に最初の遣唐使を派遣した。
高句麗・百済・新羅は、唐に使者送って臣従を誓った。
唐は、中央アジア侵略を優先する為に東方諸国には懐柔策を採用していた。
遣唐使は、唐から人、物、文化、食材など多くのモノを日本にもたらして、日本の発展に貢献した。シルクロードを経由して、遠くペルシャから、ペルシャ人やトルコ人と共に珍しいモノが日本に伝えられた。
だが、朝鮮半島からもたらされたモノはそれほど多くなく、日本にとって半島すでに魅力もなく学ぶ点もなかった。
631年 百済の義慈王は、対新羅戦略において背後を固める為に、豊璋と勇(善光)の王子二人を倭国に人質として差し出した。
百済は、王子を人質として送る事によって日本を上位者と認めていた。
635年 アラビア商人やソグド商人らは、シルクロードを通じて商品と共に宗教や思想・哲学や文化など多くのモノを伝えていた。
景教僧ペルシャ人アロペン(阿羅本)は、長安を訪れてネストリウス派キリスト教を伝えた。
637年 太宗は、対外侵略戦争に耐えうる国力を造る為に律令体制を固めるべく貞観律令を公布し、専制君主体制下で諸制度を整備して世界的な大帝国の基礎を築いた。
後の世の手本とされた、貞観の治である。
太宗は、中国史上最高ランクの名君である。
・ ・ ・
中華帝国は、日本を獣の国として「倭」と差別し、日本人を教養のない野蛮人と軽蔑していた。
中国人は、文明の何たるかを教えてやったのだと見下している。
・ ・ ・
640年 唐は、周辺諸国を侵略するだけの軍事力を付け、版図拡大の侵略戦争を開始した。
西域の高畠国は、唐の大軍の侵略で滅亡した。
抵抗する者は、容赦なく虐殺した。
東アジアは、唐の領土拡大戦争によって戦乱時代へと突入した。
中国軍は、行く先々で虐殺を行い奪える金銀財産を奪った。
中国が欲しかったのは、肥沃な土地と貢ぎ物をする奴隷のような領民だけである。
中国の発展は、幸福の為の平和と繁栄ではなく、富を独占する為に戦争を行う手段であった。
中国の歴史とは、それ以外に存在しない。
中国の偉大なる栄光とは、そうした血の栄光である。
・ ・ ・
641年 百済。義慈王が、クーデターを起こして権力を掌握した。
642年 高句麗。宰相・泉蓋蘇文はクーデター起こし、悪政を行う国王と大臣以下の貴族を惨殺して、国権を掌握して傀儡の王を立てた。
百済は、新羅と唐の交流を遮断する為に高句麗と連合して新羅に攻め込んだ。
643年 新羅は、唐に救援を要請した。
朝鮮半島は、自ら、中国大陸からの軍事介入を許して動乱に包まれた。
『日本書紀』は、全国各地で起きている天災の数々を事細かに記載していた。
・ ・ ・
東アジアに専制君主が誕生し中央集権国家が樹立された、日本を取り巻く環境は激変し始めた。
東アジアは、百済・高句麗の連合対唐・新羅の連合で二分された。
蘇我入鹿は、開明派として、泉蓋素文に倣って日本も有能な権力者が天皇を後ろで操る専制体制を作り、外交を親唐に大転換しようとした。
中大兄皇子は、守旧派として、天皇を中心とした中央集権国家を作り、旧来の親百済路線を守ろうとした。
・ ・ ・
日本に、中国で誕生した漢字が百済を経由して伝来した。
日本人は、漢字の音を利用して万葉仮名を考案して、万葉集を詠み、公式文書を記録した。
平安時代には、万葉仮名の書体を崩して平仮名を考案し、そして片仮名を産み出した。
ゆえに。 万葉仮名は、日本語であって古代百済語ではない。
・ ・ ・
642年 第2代正統カリフのウマル・イブン=ハッターブは、異教徒のペルシア帝国を滅ぼし、ペルシアをイスラームの領土に加える事を決意して、軍隊をメソポタミア地域に侵攻させた。
ニハーヴァンドの戦い。イスラーム教軍3万人は、ササン朝ペルシャ国王ヤズデギルド3世が率いる10万人を破った。
651年 ヤズデギルド3世は、東方領土に逃亡したが、部下の裏切りで殺害された。 サーサーン朝は組織だった抵抗を終えた。
ピールーズ王子は、唐の軍事援助を受けてササン朝復興を図る為に、皇族や臣下を連れてパミール高原を越えて唐に亡命した。
ペルシアは、唐から余りにも遠い為に再興はできなかった。
高度に洗練されたペルシャの文化・芸能・教養と拝火教・ゾロアスター教は、東アジアに伝え、日本にも伝来した。
・ ・ ・
642年 第35代皇極天皇が即位する。
本田善光は、難波の堀江で捨てられていた仏像を拾い上げて、領地に信濃に持ち帰り安置した。今の善光寺の始まりである。
拾われた仏像は、インドから中国・百済を経て日本の欽明天皇に献上されたといわれている。
本田善光は、本当は百済王善光と呼ばれていた。
日本の由緒ある神社仏閣の多くは、朝鮮や中国からの帰化した外国人が創建したか関わっていたといわれている。
皇極天皇は、百済からの使者を饗応する為に、飛鳥宮の庭で神事として行われていた奉納相撲を見せた。
9月 新羅は、百済の大攻勢で窮地に陥り、唐軍の救援で何とか百済軍を撃退した。
唐の太宗は、援軍に当たって条件を付けた。
善徳女王では倭国、百済、高句麗など周辺諸国に軽く見られて攻撃されるので、唐皇室の王子を新羅王に即位させるてはどうかと。
新羅の貴族会議は、唐の申し出で紛糾した。
善徳女王は、唐の版図に組み込まれる事を恐れて、軍事力がある事を見せ付けるべく百済への攻撃を繰り返した。
643年 蘇我入鹿は、聖徳太子の子供である聡明な山背大兄王とその一族を滅ぼして、天皇をしのぐ権力を手に入れた。
蘇我氏は、多くの渡来人が入植した東国との関係を強めて、身辺警護に東国の兵士を使っていた。
東国、特にヒスイの原石がとれる越の国は、蘇我氏に富をもたらす重要な財源地であった。
越の国は、第26代継体天皇の出身地でも会った。
644年 日本で、虫を常世の神として富と長寿を願って祀る常世信仰が流行った。
日本に仏教を広めようとする勢力は、虫を祀る常世信仰を弾圧した。
日本の仏教化が、急速に進んでいった。
唐の太宗(李世民)は、植民地政策として日本と朝鮮を中国領とするべく、手始めに高句麗を征討するべく大軍を派遣した。
東北の雄・高句麗は、唐の大軍を幾度も撃破して、中国の侵略軍を敗走させた。
日本は、半島情勢の悪化に危機感を感じ、大陸から国家を防衛する為に政治改革が行われようとしていた。
中国は、何時の時代でも、絶えず侵略戦争を繰り返していた。
・ ・ ・
645年 唐僧・玄奘は、インドから経典を持ち帰り、経典を中国人が理解できる様に漢字に意訳して広めた。
唐の太宗は、高句麗を討伐する為に軍隊を率いて攻め込むが失敗して撤退した。、
・ ・ ・
新羅の第24代真興王(在位:540年〜576年)。花郎(ファラン)の制度を始めた。国政を担うエリートを得る為に、貴族や高官の子弟で美男で有能な者を選び、美女の誘惑に負けないか、賄賂を受けとっいて不正を働かないか、遊興に耽って自堕落にならないか、等々、厳しい人物査定を行って登用した。
「花郎」は、武士道とは縁もゆかりもない。
そもそも。朝鮮には、日本の様なサムライも忍者も修験者も存在しない。
韓流時代劇における時代考証の大半がウソで、架空の物語に過ぎない。
・ ・ ・
第25代真智王は、政務を顧みず淫乱は廉恥の末に、在位三年で廃位された。
第26代真平王の后・摩耶は、王女・徳蔓(トンマン)を産んだ。後の善徳女王である。
・ ・ ・
第27代善徳女王(? 〜647年)は、南の倭国、北の高句麗、西の百済に対抗する為に、唐に臣下の礼をとって軍事同盟を結んだ。事大主義の始まりである。
儒教価値観に於いて、女性は男性の所有物とされ、結婚後は社会に出る事はもちろん嫁ぎ先の家から出る事は許されず、家族以外の男と会う事も話す事も許されなかった。
儒教は、女性が国を治める事や政治に意見する事は亡国の元であるとして禁止し、善徳女王の治世を完全否定した。
女王への反感を持つ王族や貴族等がたびたび叛乱を起こすが、鎮圧した。
国内の不満を対外戦争で解消する為に、百済を侵略して幾つかの城を奪った。
後年。百済の義慈王(在位:641年〜660年)の侵略を受けて、40近い城を奪われた。
善徳女王は、倭国が百済に味方して軍事介入しないように嘆願するべく、王子(後の武烈王)を朝貢使として日本に派遣した。
朝鮮諸王朝は、倭国の軍事力を恐れていた。
金春秋は、太宗武烈王に即位するや、百済への復讐戦として唐と共同出兵の密約を交わした。
・ ・ ・
第28代真徳女王は、善徳女主の従姉妹である。
・ ・ ・
『常陸風土記』「若松の浜(鹿島)の鐵(まがね、鉄)を採りて剣を造りき」
常陸の一宮・鹿島神宮は、戦の神である武甕槌神(たけみかずちのかみ)を祭神とし、配祀に経津主神(ふつぬしのかみ)と天児屋根命(あまのこやねのみこと)を祀っている。
鹿島の地は、天児屋根命の子孫である中臣氏(藤原氏)の出身地といわれている。
藤原氏の氏神神社である春日神社(春日大社)は、鹿島神宮と同じ神を祭神として祀っている。
・ ・ ・