🦠5〕─1─倭人系任那諸国。親日派の百済、高句麗、古新羅。反日派の統一新羅。〜No.10No.11No.12 @ 

古代日本は最強の侵略国家だった

古代日本は最強の侵略国家だった

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 倭人とは、尊称ではなく蔑称で、獣のような野蛮人という意味である。
 倭人と呼ばれて喜ぶ日本人は、文化度の欠片も、一切の教養もない、哀れな裸の土人である。
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 親日派任那諸国と百済が滅亡したのは、倭国の相手への配慮と決断できない優柔不断といった外交の稚拙が原因であった。
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 旧石器時代。南方系海洋民の縄文人は、台湾・琉球を経て日本列島に渡り、そして朝鮮半島に移り住んで集落を造って定着し、その子孫が数多くの小王国を樹立した。
 それが、親日派百済国と任那(みまな)の原型であった。
 極東アジアとくに日本と朝鮮の歴史は、日本を中心として始まっていた。
 縄文人が広く住んでいた時代は、争いが少ない平和で穏やかな時代であった。
 反日派となる新羅国は、北方系草原の民の子孫が樹立した王国ではあったが、建国当初は縄文人の子孫・倭族が王国の基礎を築くのに参加していた。
 朝鮮半島に土着していた縄文人と北方系草原の民が混血して誕生したのが弥生人の祖先で、その人々が日本に渡って住み着き縄文人と概ね平和的に雑婚して弥生人となった。
 弥生人倭人となり、任那と頻繁に交易を繰り返し、任那倭人化を濃くしていった。
 朝鮮半島南部には倭人が数多く住んでいたが、それは領土拡大目的で侵略して奪った土地ではなく、数千年前から先住民として生活していたのである。
 そこへ、北方系草原の民が南下し、先祖代々平和的に生活していた倭人を暴力を振るって追い出して土地を強奪して国家を建国した。
 それが、後の新羅百済任那諸国であった。
 多くの倭人は、百済任那諸国に留まった。
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 日本海は、縄文人倭人のみが自由に航行する日本人の海であり、けっして朝鮮人が支配する東海ではなかった。
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 極東アジア琉球、日本列島、樺太北方領土、千島列島、朝鮮半島の先住民は、海洋民の縄文人倭人・倭族、日本人であった。
 そこに侵略してきたのが、草原の民である現在の韓国人・朝鮮人の祖先である。
 そして、ロシア人と中国の漢族達であった。
 原始時代から現代に至るまで、縄文人・日本人にとって、韓国人・朝鮮人、ロシア人、中国の漢族は居住地を奪う侵略者であり、生存圏を脅かす敵であった。
 日本の真の歴史は、ここにある。
 日本人に残された土地は、南は沖縄・尖閣から北は北方領土までの南北に細長い日本列島である。
 中国は沖縄と尖閣諸島を、ロシアは北方領土を、韓国は竹島対馬を、日本から奪おうとしている。
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 白村江後。日本は、大敗を喫し大軍を失っても唐に降伏して臣下の礼を取らず、自主独立を守る為に、唐・新羅連合軍の日本侵略に備えて戦時体制を固めていた。
 新羅は、唐の軍事力を恐れる事なく一国で国防の気概を強めている日本と日本人の剛毅と気魄に刺激され、半島北部を唐の領土にさせない為に滅ぼした百済高句麗の旧民を集めて唐軍を撃破した。
 この時の新羅は、唐の臣下となった反日派統一新羅とは違って、知日派として日本を蔑称の「倭国」と記さず「日本国」と記していた。
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 古代史15の新説「任那日本府の実像 大平 裕
 『日本書紀』や中国史書により、古代朝鮮半島南部に存在した小国群の興亡の歴史を明らかにする。
 『任那』は実在したのか
 一昨年、『韓国がけっして教えない歴史』と副題を付した『知っていますか任那日本府』という本を、出版しました。そして、帯には、『古代の朝鮮半島南部は日本が支配していた。韓国よ、事実から目をそむけるな』と、いささか挑発的な文書が書いてあります。最近でも『任那』という呼称を否定する風潮が大勢を占めていますが、筆者は、百済新羅にはさまれた朝鮮半島南部、沿岸部で栄えた二十余の小国群、任那と総称される地域の存在に光を当て、語らねばと、かねてより考えていたからです。
 ところで、任那加羅{から}・安羅{あら})に関して、肝心の『三国史記百済本紀にはまったく記載がなく、新羅本紀には若干触れていますが『日本書紀』の分量にくらべると数十分の一程度、それも『伽耶(かや)が人質を送ってきた』といったような内容の単純なものばかりです。一方、『日本書紀』には内容も豊富で具体的なことが多く記載されています。特に雄略天皇8年(464)に初めて出てくる『任那日本府』という呼称は、欽明天皇13年(552)までの間に35件も使われています。『日本書紀』抜きには、任那の歴史は成り立たないといっても過言ではないでしょう。
 それに加えて、任那建国期に触れた貴重な史料として、『倭の西北と境界をなす狗弥(くや)韓国』(『後漢書』倭伝)、弁辰の『瀆盧(とくろ)国は倭と〔境界を〕接している。』(『三国志魏書』弁辰伝)などの中国の史書があります。また、421年から502年にわたって中国南朝に遣使した『倭の五王』に与えられた官号・爵位にも『任那加羅』の国名が記されています。
 さらに、中国吉林省集安市の鴨緑江(おうりょくこう)河畔に建てられた、第19代高句麗王だった広開土(こうかいど)王(在位392〜413)の生涯を刻んだ石碑『広開土王碑』には、倭国とともに任那の国名(加羅・安羅)の文字がハッキリと読み取れます。
 西暦390〜410年頃、日本は朝鮮半島南西で大規模な戦争に主力として参戦し、百済高句麗から助ける一方、東海岸では任那とともに北上し、新羅を攻略しています。日本史上初の海外での大規模な戦争でした。北の燕(えん)国に抑えられ南下を決意した高句麗、その脅威を直接受ける新興の百済、その百済を支援しながら任那とともに新羅を攻略、首都金城(キンソン)を占領し、国境を巡って争っている倭国の様子がうかがえます。
 高句麗倭国の直接対決の結果は、どうなったのでしょうか。408年(仁徳天皇12)高句麗使節が来朝し、饗応を受けているところから、講和が成立したと考えられます。倭国から出向いたのではなく高句麗からの来訪であり、戦況は五分五分ないし、倭に有利に終わったものと考えられます。
 ……
 慶尚南道の沿岸部では新石器時代貝塚青銅器時代の遺跡など多数の遺跡から、海を渡った弥生人の足跡を示した品々が発掘されています。最近発掘された金海地方の大成洞(テソンドン)遺跡からは、筒型銅器、巴型銅器、鏃(やじり)型石製器、紡錘車(ぼうすいしゃ)型石製器など、日本の古墳時代に関する品々が出土しています。1990年代には、筆者も訪れた、韓国西海岸辺山(ビョンサン)半島の竹幕洞(チュンマクドン)祭祀跡から発掘された大規模な海上祭祀跡からは、沖ノ島祭祀跡(福岡県宗像市)出土のものと酷使している石製摸造品が出土していることから、これらは、倭国からもたらされたものと考えられています。以上のことなどから、筆者は、『任那日本府』の呼称はともかくとして、任那日本府の存在は早くて西暦200年以前、妥協な線で220〜230年頃、まとまったかたちになるのは390年頃からと考えています。
 任那の実態
 長々と、任那という国の呼称、存在について述べてきましたが、任那加羅・安羅)の国々をすべて巡って分かったことは、豊かな土地の割には山々に遮(さえぎ)られ、狭隘(きょうあい)な村落の集まりが多かったことでした。任那は一国としての体裁は最後まで整うことはなく、532年に滅亡することになりました。
 『任那日本府』の呼称が最初に出てくるのは、雄略天皇8年(464)であると述べましたが、それを言葉にしたのは新羅王(慈悲麻立干{じひまりつかん}、在位458〜479)でした。新羅王は、新羅高句麗の来襲を受け、国は累卵(るいらん)の危機に瀕していると、使いを任那王に出し、『日本府の軍将ら』の救援を願い出たのでした。記録に残る限り、『日本府』という名称を使ったのは倭(日本)人ではなく、新羅王だったのです。そこで要請を受けた任那王は、膳臣斑鳩(かしわでのおみいかるが)、吉備臣小梨(きびのおみこなし)、難波吉士赤目子(なにわのきしあかめこ)らを新羅救援に行かせたというのです。
 膳臣と吉備臣は古代中央の豪族で、難波吉子は大阪湾一帯の勢力をバックに、大和朝廷の軍事外交を担った豪族です。これら3大豪族を代表する将軍たちが揃って新羅救援に出向くのは、高句麗と一大決戦に臨むためのものと思われますが、2、3年、数次にわたっての戦いを一つにまとめられたという可能性も否定できません。
 この新羅王の要請の発端となったのが、約60年前に遡る『広開土王碑』が記している、高句麗による新羅救援(399、400年)で、高句麗倭国任那諸国の軍勢を国内から駆逐した(救援の実は挙げた)にもかかわず、全面駐留ではないものの、居座りを決め込んだものと考えられる。……
 ところで、任那はどのような地域連合体を作っていたのでしょうか。500〜510年頃の任那は、……の十四ヵ国に、のぼっています。倭国はこれらすべての国と直接的、間接的に統括していたのではなく、外交・軍事的では協議を行い、その結果、場合によっては実力部隊の派遣を行うというような存在ではなかったかと考えています。
 雄略、清寧(せいねい)天皇の時代、倭国百済の後ろ盾として有力な文官・武官を現地に派遣していました。475年、百済高句麗の南下政策によって首都漢城(現ソウル)が陥落、王族は皆殺しにあったため、急遽(きゅうきょ)即位した文周(ぶんしゅう)王(在位475〜477)も出自(しゅつじ)に問題があったのか、力及ばず王家は一時断絶となりかした。そこで雄略天皇は、人質であった昆支(こんき)王(殺された蓋鹵{がいろ}王の弟)の第2子未多(みた)王に兵をつけて熊津({ゆうしん}公州{コンジュ})におくらせ、東城王として即位させることになりました。
 皇位継承問題と百済新羅任那浸食
 一方、倭国では、雄略天皇の崩後(478年)、二度にわたる皇位継承問題が持ち上がり、継体天皇10年(516)頃まで40年近く政治・外交・軍事面で空白が生じたと考えられます。当然のことながら任那への関心・関与が薄れ、その混乱に乗じて百済新羅任那への浸食が行われてゆきます。
 漢城を失い熊津に遷った百済は、活路を南に求め、東城王を継いで国力を回復した武寧(ぶねい)王は、この機をとらえて、倭国で親交の厚かった継体天皇任那4県(……)の割譲を訴え、反対意見があったものの、『いずれ百済のものになるから』との言により許可されてしまいました。翌年には己?(こもん)、帯沙(たさ)も割譲、譲渡され、任那は後背地を失うことから反対しましたが、倭国はこれを容認、その不甲斐なさに任那諸国の求心力は急速に失われてゆきました。
 一方、新羅は進取的な法興(ほうこう)王(在位514〜540)が洛東江(ナクトンガン)沿いの各国を懐柔、内紛を誘発をさせつつ、任那の中心地である南加羅(金海)とトクコトンに進出、傘下に収めます。継体天皇20年(526)のことです。翌527年、倭国新羅に奪われた南加羅・トクコトンを奪還するため、6万の兵を率いた近江毛野臣(おうみのけののおみ)を新羅に派遣しましたが、筑紫の豪族磐井(いわい)に進軍を阻まれ(『磐井の乱』)、延期となってしまいました。
 『磐井の乱』によって一時中断していたしていた任那の問題は、百済王が加羅の多沙(帯沙)の津を朝貢の経由地として賜りたいとの要求を大和朝廷がのんだことから、加羅王は倭国に恨みをいだき、新羅と親交を結び、加羅国王は新羅国王の娘を娶り、子どもをもうけたと『日本書紀』は伝えています。
 このような状況のなか、朝鮮半島に渡った近江毛野臣は、百済新羅両国王に安羅国に参集するように呼びかけましたが、王の代わりに百済は将軍らを、任那の地を奪ったことを恐れた新羅は下級役人を遣わしました。この時、安羅国は高殿を新しく建て、勅使の近江毛野臣ほか国内の高官でも登壇を許されたのはわずか1、2人、百済の将軍らは堂の下で待機させられ、堂上の謀議には加わることができなかったので、そのことを深く憾(うら)みに思ったといわれています。……
 近江毛野臣は、再度百済新羅王を招集しましたが、役人を派遣するばかりで両国王はやって来ませんでした。両国王の招請にこだわり、3,000の兵を従えてやってきた新羅の王族との会見を拒み続けているうちに、新羅兵と毛野臣の従者との間に起こった諍いが引きがねとなり、任那南部沿岸の4村を奪われる羽目となってしまいました。任那復興の努力をせず、ひたすら保身につとめる毛野臣の稚拙な外交手腕が、任那衰退に拍車をかけることになってしまったのでした。
 任那復興の動き
 継体天皇崩後、任那諸国は急速に求心力を失って衰退しましたが、任那加羅諸国を何とか元に戻そうと、復興に積極的に取り組んだのが欽明天皇でした。……百済王から再三指摘されているように、任那の日本府の官人や現地で生まれた官人らが主導権を握っていた上に、その一部が新羅と通じていたため、復興の障害となっていたこと、百済が下韓に郡令、城主を常駐させていて、倭国側の不信をかっていたこと、等々の理由によって芳(かんば)しい結果は得られませんでした。
 結局、10年間は堂々めぐり、その後の5年間は高句麗の南下攻勢が強まり、百済にとっては任那どころではなくなり、国の防衛のため倭国軍の派遣を求めてくるまでになっていました。554年、老臣の諫めを振りきり、新羅攻撃に赴いた太子の余昌(よしょう)を慰問するために訪れた地で、聖明王新羅の奴隷に首をはねられるという不慮の戦死によって、任那の復興作戦は幕を閉じることになりました。『日本書紀欽明天皇23年(562)には、『新羅任那の官家を討ち滅ぼした』と記しています。
 高句麗の来襲を受け、任那の日本府に救援を要請したこともある新羅は、聖明王新羅との戦いで戦死すると、これを待っていたように東海岸を北上、百済の旧都漢城を手に入れます。それにひきかえ、聖明王亡き後の百済は南下する高句麗、東からの新羅の圧力により、倭国に度々救援を求めます。
 660年(斉明天皇6)、百済新羅と唐の連合軍に敗れたことを大和朝廷に報告、併せて援軍と人質の王子豊璋(ほうしょう)を国王として迎えたいとの要請を申し込れてきます。これを許すとともに斉明天皇は、西征を決意します。……白村江の戦いにより、倭国朝鮮半島から完全に手をひくことになります。
 新羅は隋、唐初を通じ優れた外交に加え、地の利、天の時に恵まれ、朝鮮半島の統一へと突き進みます。統一が実現されたのは676年のことでした。これとは逆に高句麗は、無謀な対隋・対唐戦と内訌(ないこう)、百済の国力を無視した対新羅戦で唐を半島に引き入れ、百済は663年、高句麗は668年に滅亡に至ってしまいました。
 任那滅亡後の新羅の『任那の調』
 新羅倭国の関係は、任那が滅亡した562年以後も続きました。いわゆる新羅による『任那の調(みつぎ)』の始まりです。
 ……
 孝徳天皇大化(たいか)3年(647)に来朝したのが、なんと官位5位の金春秋(きんしゅんしゅう)です。彼は、国民の支持を得た英傑で、654年に武烈王となる人物です。彼の来日について『日本書紀』には、高向博士黒麻呂を新羅に遣わして『任那の調』を停止する代わりに、翌年、人質として金春秋を同行させたとあります。新羅統一を目前にした647年といえば、国際的な地位も向上し、国力も増大していた時代です。『日本書紀』が記しているように、人質を出すということは信じられませんが、目的はそれだけではなく、対高句麗戦、対百済戦を前にして、倭国を懐柔する目的であったはずです。ところが、この一件に関しては、『三国史記新羅本紀には記述がないことから、倭国への来朝を疑問視する意見が大勢を占めていますが、この時代約120年間に46回も数える新羅使の来朝は、『三国史記新羅本紀にはまったく記載がありません。
 ……」
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 2017年3月23日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 [古代編]
 11、〝乙巳の変〟のウラ、大唐世界帝国あり
 『ムシゴハン』とか『ムシゴヒキ』など語呂で覚えた『大化の改新』。西暦645年に起きたこのクーデターを『乙巳(いつし)の変』と呼ぶようになっています。干支(えと)の年に起きたからです。
 ……
 中央集権を目指したクーデター
 この変は、皇極天皇の御世に起こりました。642年に即位した皇極天皇は、もと舒明天皇の皇后。舒明天皇との間に、中大兄皇子大海人皇子らがいます。
 ……
 蘇我氏乙巳の変で滅ぼされたような印象がありますが、馬子ー蝦夷ー入鹿といた蘇我本宗家が滅亡したにすぎず、石川氏(蘇我倉麻呂系)に権力が移ったと見るほうが正しいように思えます。
 この後も蘇我氏(石川氏)は大臣家として存続し、女性は大王家のキサキになっています。
 軽皇子こと孝徳天皇難波宮(難波長柄豊碕宮)に遷都し、翌646年に『改新の詔(みことのり)』を出します。
 この『改新の詔』は『日本書紀』に収録されるさいに大いに潤色されたことが明らかになっています。
 たとえば名高い『公地公民制』。王族の屯倉(みやけ)や豪族の田荘(たどころ)などの私有地を廃したとされてきましたが、近年の発掘調査では、その後も王族、貴族は私有地を所有し経営していました。
 この時の改新の中核は、120ぐらいあった国を6、70にまとめ、国の下に『評(こおり)』を置き、五十戸制を考えたことであったようです。
 要するに、中央集権的な国家を目指したものでした。
 はたして蘇我氏を倒したどさくさで、こんな長期計画に基づく大改革を描けたのでしょうか?
 ですから、もともと蘇我氏が中央集権国家の準備をしていたものを乗っ取ったのだ、とも言われています。
 ところで、なぜこのように急いで中央集権を進めていく必要があったのでしょう。そのヒントは周辺諸国の出来事に隠されています。
 朝鮮半島で類似の事件が
 隋や唐が中国を統一する以前の大陸は南北に分かれて戦争をしていましたから、朝鮮半島に強大な圧力はかかりませんでした。
 その昔、漢が楽浪郡を置いて半島を統治していた時代は、朝鮮も倭もペコペコしていましたよね。
 そして漢が滅ぶと、『内輪喧嘩で忙しそうやな。わしらもちょっと威張ろうか』ということで、半島で高句麗新羅百済などが起こり、日本ではヤマト政権が誕生しました。
 ところが中国に強大な統一国家ができると、これらの周辺諸国に大きな圧力がかかってきます。
 『唐に頭下げるのが得や』というグループと、『唐がなんぼのもんや。今までどうり振舞おうぜ』というグループが、それぞれの国で喧々諤々の争いを始めるのです。
 高句麗では、642年に淵蓋蘇文(えんがいそぶん)という将軍(急進派の大臣)が、国王である栄留王や穏健派の貴族たちを殺して国政を握るクーデターを起こします。この事件を契機に、唐は高句麗遠征を開始しました。
 同じく642年には、百済大乱も起こっています。
 大貴族が国の実権を握った高句麗とは異なり、こちらは国王の方が権力を集中しようとした政変です。
 百済も内輪で揉め、豊璋(ほうしょう)という王子が日本に逃げてきます。
 このあと高句麗百済という、それまでずっと争ってきた2国が『新羅をやっつけよう』と同盟を結ぶという、犬猿の仲と言われたヒトラースターリンが手を組んだことで世界に衝撃を与えた独ソ不可侵条約締結と同様のことが起こっています。
 百済高句麗に対抗するためにずっと日本に傭兵を求めてきていたのが、両国のクーデター騒ぎが起こり、なんと同盟を結んでしまった。
 すると新羅は焦ります。
 新羅は唐に『助けて下さい。私たちは唐に従いますから』と使者を送るのですが、唐は『お前のところは女王やないか。男王を送ってやる』と難題をつきつけます。
 新羅は善徳女王の時代でしたので『内政干渉や』ということで騒ぎになり、今度は新羅で内乱が起きる。
 つまり朝鮮半島の3国は、唐に対処すべく、国家権力を集中させるための体制変革をもくろんで内乱を起こしたり、君主を殺したりしている。
 朝鮮半島で乱が起これば、豊璋王子のように日本に逃げてくる人も多数いたことでしょう。
 『先進諸国でも政変が起きているなら、わしらも蘇我氏(大臣)を殺してもいいはずや』と思ったのかも知れません。
 乙巳の変の前後の日本の動きは、大陸(半島)の動向と大きくリンクしています。
 蘇我入鹿は横暴だったのか
 『日本書紀』にはこの時代の蘇我本宗家の横暴が描かれています。
 これまでも蘇我本宗家は、反対派は王族でも同じ一族でも、容赦なく滅ぼしてきました。
 蘇我蝦夷は勝手に息子の入鹿に大臣を譲ったとか、大王家しか名乗れない『陵』を自分たちの墓の名前に使ったとか、色々書かれていますが、それらすべてを、『クーデターの敗者側を悪く見せるため』とは言い切れない側面もあると思います。
 ことに蘇我入鹿は父の蝦夷にもたしなめられるくらい有能かつ直情的でもあったようです。
 大唐世界帝国の影響を大きく受けて、日本でも中央集権体制の整備が進んでいました。その流れの中で、大王を傀儡(かいらい)にして、蘇我入鹿が権力集中を目指した一方で、大王家を中心に権力をまとめようとするグループがいた。
 比較的穏健派の彼らが『こんなふうに入鹿にやられたら、俺たちもたいへんで』と、クーデターを起こした。──そのように理解することもできるでしょう」
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