🗻57〕58〕─1─天智天皇と天武天皇。壬申の乱。親日派高句麗の滅亡。667年~No.135No.136No.137No.138 @ 

よくわかる古代韓国・朝鮮王朝の歴史と人物 (別冊歴史読本 57)

よくわかる古代韓国・朝鮮王朝の歴史と人物 (別冊歴史読本 57)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2012/03/17
  • メディア: 単行本
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 古代の日本は、現代日本の様に日本列島は四方を流れが急な海流に守られている為に外敵の侵略はあり得ないといった超楽天主義ではなく、いつ何時、中華帝国(中国)とその隷属国(朝鮮)が海を越えて侵略してくるかもしれないという危機感を持つていた。
   ・   ・  ・   
 宮本武蔵「神仏を祟びて、神仏に頼らず」
 菅原道真「心だに誠の道にかないなば 祈らずとも神や守らん」
 西行法師「なにごとのおわしますか知らねども かたじけなさに涙こぼるる」(伊勢神宮で)
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 セオドア・ルーズベルト「この国を破壊に追いやり、いやしくも国家として存続して行く為のあらゆる可能性を阻む唯一絶対の方法は、この国がさまざまな民族同士でつまらなぬ争いをしあう混乱の場になることを黙認することであろう」
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 森田徳彦「歴史を通観しても、日本が外部から侵略の危機に晒されるのは、つねに朝鮮半島南部が敵対勢力の手に落ちた時である。7世紀に唐軍が百済を滅ぼした時(白村江の戦い)、13世紀に蒙古が高麗を征服した時(蒙古襲来)、大陸国家の超大国朝鮮半島南部までをも制した時、日本は国家存亡の危機を迎えている。
 また朝鮮戦争で共産軍が釜山にまで迫った時、武装解除されていた日本はそれまでのアメリカの対日政策の転換によって再軍備している。万が一にも、核武装まで果たした現在の北朝鮮による韓国の軍事占領が日本にとって何を意味するか、歴史が教えてくれるのではないか」(『地政学の罠に嵌まった日本近現代史』P.125)
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 モンテスキュー支那は、頻々と飢餓に見舞われる。飢えた民は、村を捨て何人か集まって盗賊団を作る。大部分が討伐されるが、たまに僥倖を得た集団が強大化し、やがて首都を攻め落として、その首領が玉座に座る」(『法の精神』)
 これが、中国と朝鮮の儒教による「放伐」と「禅譲」による王朝交替である。儒教価値による天子の交替によって、大虐殺が発生する。
 日本と中国・朝鮮とは、別の国であった。
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 折口信夫「天子が祝詞を下される。
 すると世の中が一転して元の世の中に戻り、何もかも初めの世界に返って了ふ、此が古代人の考へ方であった。……
 こうして春夏秋冬が先、考へられて後に夏が出て来る。夏は一年の中の身体を洗ひ潔める時節である。此四つを三ヶ月づつに切って分かれたのはまた後の事である。初め、暦を定め、春の立つ日を定めるのは天子であらせられた。天子は、暦を自由にする御力で人民に臨んで居られる。此が日本古代人の宮廷に対する信仰であった。
 天子の御言葉で世の中の統べてののが元に戻り、新たなる第一歩を踏むのである」(『上世日本の文学』)
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 読売新聞(2012年9月23日)『里中満智子の鸕野讃良』「飛鳥時代の女性も自由……
 少女マンガだかあではなく、万葉集を彩る数々の素直な恋の歌から読みとられる飛鳥時代の姿だという。
 『身分の高い男が、低い女への恋に破れた歌もある。昔は男がえらい、まして皇族はどの女も好きにできたと思っていただけど全然違う。女も、身分が下の男にひかれ、上の男を振ることもあった』
 この時代は通い婚で、女性は私有財産を持ち、自立度は高かった。歴史上、男の女々しいさを否定したのは、武家社会と軍国主義の時代。女性の時代は現代だけではないという」
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 中華帝国に臣下の礼をとる惨めな新羅と恨の文化。
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 667年 都では、官庁や高官の屋敷に相次いで放火が相次いで、社会不安が広がっていた。
 中大兄皇子は、唐・新羅連合軍の侵略を恐れて、逃げる様にして都を飛鳥から近江の大津に遷した。
 天智天皇は、大国・唐に負けない本格的な律令国家にすべく大改革を断行し、祖国を中華帝国の侵略から守るべく団結を呼びかけた。
 神懸かり的手段として、日本語に宿る言霊を和歌に歌い込んで霊的防衛とした。
 日本人が、日本語を忌避する時は日本を捨てる時である。
 668年に、第38代天智天皇に即位した。
 天智天皇は、弟の大海人皇子を皇太子に立太子し、遷都に不服を言い募って反対した蘇我氏一族を要職に就けた。
 現皇室の皇統は、天智系である。
 柿本人麻呂らは、天智天皇の即位と大津宮への遷都と中臣鎌足の一族が要職に就く事を批判した。
 天智天皇は、これまでの豪族連合体制から天皇中心の中央集権体制を築き、豪族を官僚として登用し、その能力と実績で昇進さ重要な仕事を任せた。
 官僚は、あくまでも豪族の子弟から優秀な者を選び登用したが、中国や朝鮮の様な「科挙(官吏登用試験)」を用いて採用しなかった。
 日本の豪族出身官僚と中国・朝鮮の科挙採用官吏とは、全く異質の役人である。
 両者の政治手法も、全く違うものであった。
 天智天皇中臣鎌足は、新たな国造りの為に有能な百済遺民に官位を与えて利用した。
 百済遺民達は、新羅憎しから日本を反朝鮮半島の国に変貌させた。
 日本は、百済遺民達の熱弁によって新羅(朝鮮)を信用できない嘘つきの輩と軽蔑した。
 天智天皇の真意は、日本を唐帝国倣って皇帝中心の律令制度の中央集権国家に作り替える事であった。
 その為には、唐の知識に詳しい実子の大友皇子皇位継承者に据える必要があった。
 嘗て、唐の使者として来日した劉徳郄は「この皇子、風骨世間の人に似ず。実にこの国の分にあらず」と。日本人とは思えないほど文武にわたって博学の上に聡明で優れた才覚があると高く評した
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 高句麗重臣・泉蓋蘇文(淵蓋蘇文)は、クーデターを起こして、反泉蓋蘇文派100名以上を殺害し、栄留王を弑虐して死体をバラバラにして捨てた。
 泉蓋蘇文は、独裁者として権力を握る為に、栄留王の甥を即位させて傀儡王(第28代宝蔵王)とし、宰相と軍司令官の職務を兼務した。
 各地に残る反泉蓋蘇文派を攻め、抵抗する者は女子供に関係なく皆殺しにした。
 高句麗は、北から唐と契丹に、南から新羅に侵略されて滅亡寸前にあった為に、友好国・倭国に対して再三にわたって援軍を要請した。
 日本としても、対唐・新羅戦略から親日派高句麗を救援したかったが、百済再興戦の大敗で主兵力を失って救援部隊を送る余裕がなかった。
 唐・契丹連合軍は、安市城を陥落させ、兵士はもちろん庶民まで虐殺し、生き残った者は奴隷とする為に強制連行した。
 大陸における城塞都市の住民は、陥落すれば勝者によって大虐殺を受ける運命共同体として、生きるも死ぬも一蓮托生として攻防戦に参加した。
 虐殺を避ける唯一の方法は、「城下の盟」として、敵に対して城門を開き武器を置き土下座をして臣下の誓いをする事であった。
 大陸における戦いの常識は、抵抗する者は女子供に関係なく皆殺しであった。
 一人でも生かしておくと、敵に協力して攻めてくる危険があるからである。
 又。虐殺をして住民が少なくなって税収が減っても、別の土地から異民族を移住させて税を課せばよかった。
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 唐軍は、捕らえた大半の高句麗人を黄河流域に強制移住させて国家と民族を完全に消滅させた。
 逃げ延びた高句麗人は、広大な満州に逃げ遊牧民となった。
 高句麗が、中国の一部なのか、朝鮮の一部なのか、意見が分かれている。
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 668年〜686年 草薙剣盗難事件。新羅系渡来人である僧・道行は、熱田神宮から三種の神器である「草薙の神剣」を盗み、新羅に持ち帰ろうとしたが、難波で船は難破して失敗した。
 686年6月 「草薙の神剣」は、宮中に保管されたが、天武天皇が病に倒れ崩御した為に、これが神剣の祟りだという事で熱田神宮に返還された。
 渡来人は、帰化人に比べて天皇への忠誠心も日本への愛着心も日本神道への信仰心もないがゆえに、悪気もなく利敵行為や犯罪行為に走りやすかった。
 大阪市放出(はなてん)の阿遅速雄神社。
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 668年 新羅は、唐羅同盟に従い、唐の軍事支援を受け、高句麗を滅ぼして半島を統一した。新羅と唐は、高句麗領土を分割した。
 国王と王国を裏切った親唐派は、戦争回避の平和派として助けられて、両国から優遇された。国王に忠誠を誓い、王国を守ろうとした反唐派は、反逆者として家族諸共に虐殺された。
 新羅軍は、勝者の権利を唐軍以上に熾烈に遂行した。高句麗人への容赦ない虐殺を行い、高句麗王家の財宝を根刮ぎ略奪した。
 高句麗王家の生き残りは、命からがら友好国日本に逃亡した。
 多くの高句麗人も、誇りある武勇の民として、王族を慕って、地獄と化した朝鮮を見捨てて日本に渡った。
 地理的に考えて。高句麗人難民は、かっての百済人難民よりも数は少なかった。
 ヤマト王権は、高句麗人難民を助け、東国に入植させた。
 高句麗人は、帰るべき祖国をなくし行き場がなくなった為に、ヤマト王権に忠誠を誓って帰化し、未開の関東を開墾して原始的農業を行っていた原住民に大陸の技術を伝えた。
 高句麗の王族とされる若光が死亡するや、菩提寺として751年に埼玉・高麗郡に高麗寺を建立した。
 さらに、祭神として祀る為に高麗神社も建てた。
 日本が感謝すべきは、百済人と高句麗人であって、新羅人や高麗人でもなければ朝鮮人でもない。
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 唐は半島を完全支配する為に、故百済の地に熊津都督府を、故高句麗の地には安東都護府を設け、さらに新羅も鶏林州都督府として、新羅の文武王自身も鶏林州大都督とし、朝鮮半島全体を属国による間接統治から直接支配へ切り替えようとした。
 新羅の文武王は、唐の支配を嫌い、反抗する機会を窺い、高句麗遺民の高句麗復興運動を扇動した。
 新羅は、唐の支配に反発し、百済高句麗の遺臣と同じ朝鮮人として協力して唐の駐屯軍を攻めた。
 世に言う、羅唐戦争である。
 新羅内部の親唐派は、軍事大国の唐と戦う事は無益で亡国につながるとして、反唐派を皆殺しにして降伏した。
 親唐派は、帰属の証しとして謝罪使を送り、中華秩序としての天朝朝貢冊封を受け入れ、中国の属国となった。
 この後。新羅王家は、王家安泰の為に中国の軍事力を利用して正統性を主張し、中国の国力に寄生して自らを大唐国新羅郡と名乗った。
 正統派儒教価値観で、民族の文化や宗教を捨て、中国の年号と暦と貨幣を使用した。
 創氏改名をおこない、祖先からの古代朝鮮式氏名を野蛮として捨て、高度な文明人の証しとして金氏や李氏や朴氏などの中国姓に変更した。
 親唐派は、文化度の低い朝鮮人である事を嫌い、高度な教養を持つ中国人になる事を憧れ、儒教などの漢籍を学んだ。
 朝鮮は、中華思想による事大主義を受け入れ、日本とは正反対に中国の千年属国となって独立性を消失した。
 朝鮮は、日本とは正反対に、唐風を尊重して国風を避け、中国価値観を一字一句変更することなく受け入れた。独自の国風化を忌避した事が、朝鮮に不幸をもたらした。
 新羅の僧・道行は、熱田神宮に忍び込み御神体である草薙剣を盗み帰国しようとした。
 帰国寸前で道行が捕らえられ、三種の神器である草薙剣は取り戻され、無事に熱田神宮に返還された。
 朝鮮人による、日本の国宝盗難事件は昔も今も存在していた。
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 新羅は、唐に叛旗を翻すに当たり敵国日本の軍事支援を受ける日本をに朝貢使を送り、天智天皇に臣下の礼として貢ぎ物を奉じた。
 天智天皇の目の前に、滅亡した百済(660年)と高句麗(668年)の王族と新羅の使者、東北の蝦夷と南九州の隼人の使者が居並んでいた。
 日本天皇は、日本の唯一の正統な統治者となった。
 天智天皇は、中華帝国の侵略から日本国を守るべく、天皇を中心(国體)とした中央集権体制を整える為に最新の中華型律令制度に基ずく国造りを急いだ。
 新たな国造りの為には、古い有力豪族の権益を制限し一部を奪う必要がある為に、権力基盤を強固にするべく蘇我諸家や渡来人系豪族を積極的に登用した。
 有力な古代豪族は、日本国を支え日本天皇を担いできたのは自分達であるという自負心から、表だって天智天皇の諸改革には反対しなかったが内なる不満を抱き、権益の回復と権力への復権を目論んで皇弟の大海人皇子に接近した。
 大海人皇子は、天智天皇の諸改革は日本の為であるとして有力な古代豪族の不満を宥めていたが、本心は天智天皇の諸改革は手緩く、日本国を守る為には中華皇帝のような絶対権力・権威を持って専制政治を採用すべきだと考えていた。
 その為。大海人皇子も、制度として旧態依然とした氏族制度を残しても新しい時代への国家理念を持たず律令制度への理解力のない有力豪族を政治の場から排除し、意欲的で野心的な中堅以下の豪族や地方の帰化人系豪族を味方に付けていった。
 藤原鎌足は、近江朝を支え中華型律令制度による諸改革を完成させる為に、天智天皇大海人皇子の間を、蘇我諸家・帰化人系豪族と有力な古代豪族の間を調整に奔走していた。
 近江朝の律令制度諸改革は、新たな時代への変革を拒む古い有力豪族達の非協力で失敗した。
 日本の変革は、トップ・ダウン的に古い層の上から起きるのではなく、ボトム・アップ的に新しい層の下から起きる事が多かった。
 常陸豪族の藤原氏。下級官吏である卑賎階級の武士、平家そして源氏。伊豆地下人の北条氏。下野豪族の足利氏。尾張被官の織田氏。庶民の豊臣氏三河土豪松平氏・徳川氏。薩長土肥の下級武士や百姓町民の庶民。
 日本の新しい時代の権力者となったのは、由緒正しい名門・名家・権門の出身者ではなく、その時代の下級階級や地方人出身の能力者であった。
 新しい時代に於いて、古い価値観や思考にとらわれた有力者は権力の場から追放され、富を失い衰退した。
 日本に於ける由緒正しい一族とは、日本皇室のみである。
 日本皇室は、日本の変革期に於いて、変革を拒む古い層・上流階級を見捨て権力を奪い、変革を実行する新しい層・中流階級を支持して権力を与えた。
 日本の歴史に於いて、血で血を洗うような悲惨なマルクス主義史観の権力闘争は存在しなかった。
 日本皇室は、調整機能として、できる限り流血を伴わない変革を完成させる為の曖昧的な妥協を促していた。
 日本に天皇・皇室があったお陰で、中華世界の中国や朝鮮のような大虐殺という世にも恐ろしい悲惨な事態は起きなかった。
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 669年 日本は、唐に祝意が表す為に遣唐使を派遣したが、その後、約30年間、遣唐使の派遣を中止した。
 日本は、中国からの侵略に備えて、中央集権国家の建設の為に国家改造と軍事力強化を急いだ。
 中臣鎌足は、唐・新羅との戦争を避ける為に外交を取り仕切り、国内分裂の危機をはらんだ天智天皇大海人皇子の確執を修復するべく腐心していた。
 10月 中臣鎌足の急死した直後に館に落雷が落ち、蘇我入鹿の祟りと噂されていた。
 雷神は、祟り神・御霊として恐れられていた。
 藤原氏は、蘇我氏と縁の深い法隆寺を手厚く保護し、祟る神・聖徳太子童子の姿)の霊力で鬼と化した入鹿の霊魂を封じた。
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 670年 天智天皇は、戦時体制を強めるべく、庚午年籍を作成し全ての豪族を戸籍で明らかにした。
 ヤマト朝廷は、侵略軍の上陸と同時に起きる恐れのある地方豪族の叛乱を恐れていた。
 地方豪族の叛乱を恐れは、朝廷内が徹底抗戦派と恭順派の二派に別れて国家戦略が定まっていなかったからである。
 ヤマト王朝は必ずしも倭国を統一していたわけではなく、地方には反ヤマト王権勢力の残党が数多く存在していた。
 3月 高句麗残党が鴨緑江を渡って、唐が行政府の為に残した残留部隊を攻撃したが失敗した。
 新羅は、高句麗安勝高句麗王にした。
 唐は、西域の吐蕃が叛乱を起こした為に討伐軍を派遣した。
 新羅は、半島内の唐軍を攻撃し、旧百済地域の唐の行政府を襲撃して82個城を奪った。
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 671年1月 新羅軍は、唐軍を撃破して泗?城を攻略し、所夫里州を設置して百済地域を占領した。
 唐の百済鎮将は、新羅戦に苦戦していた為に、倭国に軍事的援助を求める使節を送ってきた。
 大友皇子ら親唐派は、宿敵新羅を打つ好機で有り、軍事大国・唐に恩を売り関係を修復すべきとした。
 大海人皇子新羅寄りは、唐の野望は倭国にも及ぶとして、むしろ唐の武力膨張に備えて新羅を支援すべきであると訴えた。
 天智天皇は、使者に対して対新羅出兵要求を受け入れる旨と、兵力不足の為に時間的猶予を懇願した。
 7月 唐の使節は、倭国の回答を受け取って帰国した。
 天智天皇は、各地に農民兵を徴発するように命じた。
 8月(或いは9月) 天智天皇は、病に倒れ、政務を大友皇子に委ねて太政大臣に任命した。
 大友皇子は、天智天皇の意志を継いで日本を唐風に改革するべく、亡命百済人らを宮廷に召し出して漢語を公用語的に用いて会話した。
 大和言葉や和歌といった国風文化に愛着を持つ保守派は、日本が唐風に染まり中国化する事に反発し、大海人皇子に唐風阻止を期待した。
 東国の豪族達も、神代からの和語に固守し、公用語の漢語と公文書の漢文化に不満を抱いていた。
 10月 天智天皇は、親唐派の大友皇子皇位を譲る為に、新羅寄りの大海人皇子を忙殺しようとした。
 大海人皇子は、蘇我氏らの情報で、身の危険を察し、直ぐさま暇を申し出て出家して吉野に隠遁した。
 11月 唐の将軍・郭務悰は、倭国に対新羅参戦を強要する為に、白村江の戦いで捕虜とした倭国人1,400人を引き渡す為に、軍船47隻と2,000人以上の軍勢を引き連れて筑紫に上陸した。
 出兵するのであれば、捕虜を返還して倭国軍に加えて新羅を後方から攻撃させる。
 出兵できなければ、武器と兵糧などの軍事物資を提供させ、捕虜に持たせて新羅を後方から攻撃させる。
 何れの方法をとっても、倭国が唐に味方したと新羅に知らしめる事ができる。
 筑紫を中心とした九州は、山陰の出雲同様に、大和の天皇勢力に対する対抗意識が強く、独立する為に絶えず反乱の隙をうかがっていた。
 日本に帰国した彼らは、日本より優れた高度な文明を持った唐を目の当たりにした為に、唐に敵対しても損をするばかりであるとして、親唐(中国)派として両国の関係改善の為に活動した。
 12月 天智天皇崩御した。
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 天智天皇崩御するや、皇位の空白を避ける為に大友皇子が即位したといわれている。
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 672年3月 大友皇子は、唐との協調外交から出兵要請を受け入れて派兵したかったが、兵士が集まらないとして出兵を先延ばしにすると返答した。
 5月 郭務悰は、徴兵を急ぐとの倭国の確約を得る事で妥協し、捕虜を返還し武器と兵糧などの軍事物資を受け取って帰国した。
 吉野の大海人皇子は、近江朝廷を倒すべく、極秘に対新羅参戦に不同意の豪族達に使者を送って味方に引き入れつつあった。
 「朕こそは、神代の昔から永久に続く皇祖神、日神である天照大神の正統を受け継ぐ唯一人の天皇である」
 日本の唐風化・中国化に反対する反国際派豪族が、大海人皇子に味方した。
 大友皇子は、倭国の存続には唐との協調以外にないとして、派兵の約束に従って新羅討伐の為の兵を集めるべく各地に督促した。
 西国は、百済救援の派兵と白村江の敗戦後の築城で疲弊していた為に断念して、東国の尾張、美濃、伊勢などに徴兵を命じた。
 近江朝廷には、兵も武器も食糧もなかった。
 大海人皇子は、時機到来として挙兵し、東海の農民兵を集めて大津を攻めた。
 唐は、日本が中国化して冊封を受け入れて朝貢する事に期待を込めて大友皇子の勝利に期待を抱いていたが、局外中立として積極的軍事介入を控えた。
 6月 壬申の乱大友皇子は、近江や伊賀などの大津宮近在の渡来人勢力を主力とした朝廷軍を率いて、大海人皇子の率いる賊軍を討伐しようとしたが、近畿一円の帰化人勢力の支援を受けられなかった。
 官軍は、大軍を擁して大海人皇子を攻撃したが、将軍等の内部分裂で統制を失った。
 大海人皇子は、渡来人勢力の強い近江朝廷に不満を持つ、伊勢・尾張・美濃などの東国帰化人勢力と、大伴氏などの渡来系官吏に冷遇されていた古代氏族を味方につけた。
 役行者は、大海人皇子陣営にいた。
 役 小角は、三輪氏族に属する地祇系氏族・加茂氏(賀茂氏)で役民を管掌する職にあって「役」の字をもって氏族名とした。
 山岳信仰を開く為に各地の霊山をめぐり呪術をを会得し、山伏の元祖、修験道の開祖とされ役行者、役優婆塞(うばそく)と呼ばれた。
 吉野山中で生活している縄文系魔界の民(山の民・川の民)は、大海人皇子を助けた。
 律令制は、魔界の民を最下層の賤民と差別して都から追放した。
 最下層の魔界の民が、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を守り支えていた。
 軽蔑された賤民・非人・エタらこそが、真の勤皇の志士であった。
 反天皇を主張する賤民・非人・エタらは、本当の意味での賤民・非人・エタではない。
 蘇我派の東漢氏坂上氏ら帰化人勢力も、大海人皇子に加勢した。
 大海人皇子は、伊勢路から東海に移動し、蘇我氏に縁の深い尾張氏らの助勢を得て近江を攻めた。
 大友皇子は、形勢不利と見た渡来人らの相次ぐ裏切りにあって敗北し、恨みを抱きながら縊死した。
 この後も、天皇位の継承をめぐる朝廷内の血なまぐさい事件は耐えなかった。
 明治天皇は、1870年に、大友皇子天皇に即位したと認めて第39代弘文天皇諡号した。
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 もし。大友皇子が勝利していれば、日本は朝鮮と同じ様に国風は生まれず唐風文化一辺倒となり、朝廷の公用語は漢語・中国語で地方の庶民は倭語・日本語の二重言語となった。
 公文書も、漢文となって日本文は生まれなかった。
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 7月 唐は、半島支配を回復する為に大軍を派遣した。
 靺鞨軍は、平壌を占領し、8月には韓始城と馬邑城も占領した。
 12月 高句麗の残党と新羅軍は、白氷山で靺鞨軍に敗れた。
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 673年 ヤマト王権の大王と地方豪族との関係は、中華皇帝を中心とした冊封体制を模したもので、君主と臣下の関係ではなかった。
 日本をひとつにまとめて統治する為には、君主と臣下の関係を築き、政治権力や宗教権威ではない第三の価値観で絶対に超える事ができない見えない絶対不可侵の壁を築く必要があった。
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 2月27日 大海人皇子は、大友皇子が敗死した大津宮を捨て、蘇我氏らの地盤である飛鳥のヤマトに都を戻し、飛鳥浄御原宮で第40代天武天皇に即位した。
 中華皇帝に対抗して君主の称号を大王を「天皇」とし、中華帝国の属国である新羅王国の上位にあるとした。
 倭国を、東夷の小帝国として国号を「日本」とした。
 天皇は、中華皇帝や新羅国王のように姓を持たない代わりに、臣下に姓を与えた。
 中華世界の易姓革命を防止する為であった。
 孟子「徳を失った皇帝は貴しとする事なく殺して、新たな徳の有る者を天子に立てる」
 日本天皇は、中華皇帝や朝鮮国王とは異なる。
 日本は、孔子の「君主は徳を持つべき」という論語の一部を受け入れたが、孟子の「徳のない君主は殺してよい」という革命思想は拒絶した。
 日本に入ってきた儒学は、全てを受け入れた朝鮮とは違って、全体のほんの極一部でしかなかった。
 日本人は、深い洞察力で儒教の本質を十分理解した上で慎重に選択して、優れた思想は受け入れ、危険な思想は拒否した。
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 天武天皇は、天皇中心とした中央集権体制の為に律令制を整備するべく、朝廷中枢から豪族を排除して皇族を重職に据えた。世にいう、皇親政治である。
 蘇我氏は、天武天皇の改革に協力した。
 祭祀王・天皇を中心とした日本国家の基礎が、この時固まった。
 日本を中華思想華夷秩序に組み込み属国化するという唐の夢は、費え去った。
 日本が朝鮮とは違って、自主独立国として生きる事を決断した。
 安定した租税を得る為の土地改革を強行して、全ての豪族から私有地を取り上げ、民衆に再配分した。
 土地を取られる豪族達は、財力の蘇我氏と軍事力の尾張氏などが天武天皇の改革を支持していた為に、やむなく高位高官という名目を受け入れた。
 天武天皇は、伊勢の勢力を味方に付ける為に、天照大神を祀る伊勢神宮を特別扱いした。
 この時代から、伊勢神宮の祭祀は皇室が独占して執り行う事とし、私的な奉幣を禁じた。
 そして、中断されていた斎王制度を復活させ、未婚の大来皇女を伊勢に下らせた。
 藤原氏は、反蘇我の中心であった為に冷遇された。
 鎌足の次男藤原不比等は、天智天皇の娘にして天武天皇の皇后・鸕野皇女に接近した。
 鸕野皇女は、次期天皇に亡き姉の忘れ形見の大津皇子ではなく、病弱な我が子草壁皇子を押していた。
 だが、衆目は文武に優れていた大津皇子を後継天皇と期待していた。
 4月14日 伊勢神宮を日本国の総鎮守にするべく、大伯皇女を伊勢神宮の斎王(いつきのみこ)と定めた。 
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 天武天皇は、壬申の乱によって乱れた国を立て直すべく皇親政治を始め、唐になって律令制に基ずく中央集権国家の建設に力を入れた。
 各地方が銘々勝手に政を行いって乱れたままで国が一つにまとまらなければ、唐や新羅の侵略を受けて消滅するか、地方のある勢力が唐や新羅と軍事同盟を結んで属国化する恐れがあったからである。
 天皇中心の国家建設は、朝鮮半島や中国大陸の侵略を防ぎ、日本の自主独立を守る為に「やむおえない」ことであった。
 日本の独自性を維持する為に、天皇と日本の神を一体化させ、伊勢神宮を基にした古神道皇室神道に中心に据え、伊勢神宮式年遷宮を制定した。
 日本が夜郎自大的な閉鎖的排他的独善に陥らないようにする為に、普遍宗教である仏教の振興の為に数々の施策を行った。
 日本の発展の為に、唐や新羅との関係改善に努力し、両国との交易を再開した。
 日本が新たな姿として生まれ変わり、天神地祇を祀る祭祀王・天皇を中心とした日本独自の国柄・国の姿・国の有り様が定まった瞬間である。
 神の裔・天皇が、日本を支える中空の心柱となった。
 中空の心柱として天神地祇を祭祀できるのは、天皇神・天皇霊の子孫でその血を正統に受け継ぐ天皇のみとされ、皇族ではない赤の他人には資格がないとされた。
 宗教的権威に於いて、日本天皇は、コンクラーベという教皇選挙で選ばれるローマ教皇とは違うのである。
 中世キリスト教会のローマ教皇選挙には、金銭的欲望や教会内の高位を求める陰謀で夥しい血が流れる陰惨な事件が絶えなかった。
 ここに、万世一系男系天皇(直系長子相続)天皇制度が定まり、血と死を穢れとして嫌う日本は死の恐怖が支配する中国や朝鮮とは違った国として安定した。
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 大友皇子は、祟る神(怨霊・鬼)として滋賀県大津の御霊神社に祀られている。
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 673年 新羅軍と高句麗残党軍は、瓠瀘河でも靺鞨軍に敗れ、高句麗復興運動は潰えた。
 674年 新羅は、朝鮮統治を維持する為に、安勝百済地域に設けた報徳国の王とした。
 1月 唐の高宗は、朝鮮を支配する為に、新羅の文武王の冊封を取り消し、代わりに文武王の弟の金仁問を新たな新羅王に冊封した。 
 中国で発祥した風水は、新羅に伝えられた。
 朝鮮半島は、風水に支配された。
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 675年 天武天皇は、殺生を禁ずる仏教の教えにって肉食禁止令の勅令を出した。
 これにより、食の格差は最小限に食い止められ、如何に権力があろうとも、どれだけの財力があろうとも、動物の肉を食べる事が出来なくなった。
 家畜の飼育に必要な五穀は、飢餓に備えて人間の食べ物にまわされた。
 肉1㎏を作るに必要な穀物肥料量は、
 牛肉では8㎏で、
 豚肉では4㎏で、
 鶏肉では2.5㎏である。
 だが、肉食を禁じたのは、農業生産の向上に役立つ馬・牛・鶏・犬・猿などで、田畑を荒らし農作物を食べる猪・鹿・熊・鴨・雉は殺して食べる事は許された。
 天武天皇は、日本を弥生文化の強い稲作農業国に造り変える為に、狩猟採取の縄文文化色を消した。
 2月 文武王は、唐軍に追い詰められ、唐に謝罪使を派遣し、高宗に赦しを請うた。
 9月 新羅軍は、泉城へ進軍してきた唐の薛仁貴が率いる靺鞨軍の攻撃を食い止めた。 唐は、全半島を領土する事を断念して、安東都護府を遼東へ移し、朝鮮半島南部から撤退した。
 新羅は、朝鮮半島中南部を確保し、反乱を起こした後に、速やかに降伏し詫びを入れて唐との朝貢冊封関係を回復した。
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 恨と怨の文化。
 新羅は、唐に吸収され消滅する事を避けるべく属国となって屈辱的服従を受け入れた。
 此処に、理不尽な支配や暴力に耐え忍び、心の中に恨み辛みや不平不満を溜め込み、激しい怒りや憎悪を搔き立て発散できず心に封じ込めて生きるエネルギーに変えるという、協調性なき「恨の文化」が誕生した。
 中華帝国に対する半島王国。
 王侯貴族・両班に対する庶民。
 庶民に対して白丁・奴婢。
 恨・怨の文化と和の文化は、似通った所がない正反対の文化で水と油のように交わる事がない。
 朝鮮人は、中華帝国の軍事力に屈し、中国式に創氏改名した。
 日本人は、中華帝国に背を向け、自主独立を守った。
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 新羅は、百済高句麗と同様に、血の純潔性を守る為に同姓である血族同士の結婚を行っていた。
 異母によるイトコ同士の結婚は、日本だけではなく東アジア世界で普通に行われていた。
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 676年 統一新羅は、唐にならって日本を「倭国」と蔑称で呼び捨てていたが、唐との攻防に日本の支援を求める為に「日本」と記して日本に擦り寄った。
 新羅王子は、日本に入貢した。
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 683年 唐の高宗が逝去して、中国の侵略戦争は終息した。
 睿宗(えいそう)が第五代皇帝に即位したが、母親の則天武は権力を手放さず皇帝を傀儡とし「垂廉政治」を続けた。
 3月 天武天皇は、日本が自主独立国である事を唐に知らしめる為に正史の編纂を命じた。後の「日本書紀」で、世界に知らしめる国史である為に国際語の漢語で書かれた。
 国内的に。国民に対して、自分が正統な統治者である事を周知徹底させる為に、誰でも読みやすいように大和言葉で物語風史書の編纂を命じた。後の「古事記」である。
 日本書記も古事記も、日本を中華帝国中華文化から風土や文化を守る事を主眼としている為に、天皇家に觥合のいいように史実をねじ曲げて書かれている。
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 684年 天武天皇は、逃げてきた百済人僧尼及び俗人の男女23名を武蔵国に移住させた。 
 10月 白鳳大地震
 11月 土佐沖大地震。大津波が各地を襲う。
 685年3月 浅間山大噴火。 
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 685年 唐の女帝・則天武后(そくてんぶこう)は、2頭のパンダを日本の天武天皇に贈った。
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 686年9月 天武天皇崩御した。
 10月 天皇の殯が開けないうちに、大津津子が謀反の疑いで捕縛され翌日に処刑された。
 伊勢斎宮を勤める姉の大来皇女は、謀反人として処刑された弟・大津皇子の亡骸をヤマト盆地の霊山・二上山に移葬した。
 3年後に、草壁皇子が即位する事なく病没した。


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