🎍22〕─1─古代史15の新説。古代豪族・蘇我氏と新興豪族・藤原氏。兄天皇から弟皇太子への譲位表明と壬申の乱。~No.65No.66No.67 @ 

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 別冊宝島
 古代史15の新説「聖徳太子の何が虚構なのか 関裕二
 聖徳太子は架空の人物なのか?
 論考の糸口は、太子礼賛記事が氾濫する『日本書紀』にあった。
 鬼になった聖徳太子
 ……
 なぜ太子の末裔は蒸発したのか
 ……
 蘇我入鹿も鬼になった
 ……
 聖徳太子山背大兄王も虚構だった
 ……
 蘇我氏大海人皇子を支えていた 
 時代は下る。天智天皇中大兄皇子)最晩年の話だ。
 病床の天智天皇は、弟で皇太子の大海人皇子を呼び出して、譲位の意思を伝えた。ところが大海人皇子は申し出を断り、髪を剃り、武器を捨てて出家して吉野に隠棲してしまったのだ。この直前、大海人皇子蘇我安麻呂に、『言葉に注意されますように』と進言されていた。大海人皇子天智天皇に何かしら企みのあることを、この一言で知ったのだ。大海人皇子蘇我安麻呂が、もともと昵懇(じっこん)の間柄にあったことは『日本書紀』も認めている。
 大海人皇子が吉野に逃げたとき、近江朝の天智天皇の近辺の人々は、『虎に翼を着けて放ったようなものだ』と臍(ほぞ)をかんだ。『皇位を譲る』と言っていたのに、吉野に逃れたら『しくじった』というので、大海人皇子天智天皇の言葉に素直に従ったら、『謀反!!』と難癖をつけて殺してしまうつもりだったのだろう。
 天智天皇大海人皇子が敵対していたことは、藤原氏の文書『藤氏家伝』を見ればわかる。二人はとある宴席で口論となり、大海人皇子は槍を床に突き刺し、天智天皇は激怒して斬り殺そうとしたという。
 天智天皇崩御ののち、大津宮滋賀県大津市)の大友皇子天智天皇の子)と吉野の大海人皇子はにらみ合いを続けたが、大海人皇子は『静かに隠棲していたのに、大友皇子が兵を挙げた』と宣言し、東国に逃げ、一気に大友皇子を攻め滅ぼしてしまったのだ。
 ここに、いくつかの謎がある。まず、天智天皇大海人皇子犬猿の仲だったなら、なぜ天智天皇大海人皇子を皇太子に指名していたのか、ということだ。
 天智天皇の政権を支えていたのは、意外にも蘇我系豪族だ。重臣や親蘇我派の豪族が固めていた。天智天皇が『蘇我好きだった』わけではない。
 蘇我入鹿暗殺、白村江の戦いの大失策で、民心は離れていた。大津宮遷都に際し、失火が相次ぎ、不穏な空気が流れていたという。要するに天智天皇は、仇敵の蘇我氏と妥協し、政権に多くの蘇我系豪族を引き入れなければならないほど、困窮していたのだろう。
 壬申の乱(672)の頃、裸一貫で東国に逃げた大海人皇子が、圧倒的な強さを見せたのは、民衆や諸豪族が『天智天皇の失策に嫌気がさしていた』からだ。また、近江朝の蘇我系の豪族は、近江朝を裏切っている。それはなぜかといえば、『蘇我』が大海人皇子を後押ししていたからだろう。天智天皇が『親蘇我派派の大海人皇子』を皇太子に据えなければならなかったのは、蘇我氏に頭を下げ、協力を仰がなければ、政権は空中分解することを、心得ていたからだろう。
 大海人皇子天武天皇)は、親蘇我派の皇族であり、この図式が見えてくれば、蘇我入鹿聖徳太子の謎が、すっきりと解けてくる。
 蘇我氏の業績を否定するための聖徳太子
 大海人皇子壬申の乱を制すると、都を蘇我氏の地盤・飛鳥に戻し、改革事業に専念する。天皇と皇族だけで政治を動かすという皇親体制を選択し、滞っていた改革事業を、一気に推し進めた。日本に律令体制が本格的に導入されるのは、この天武天皇の思いきった執政があったからだ。
 ところで、壬申の乱でまっ先に大海人皇子に手をさしのべた尾張(おわり)氏の活躍が、『日本書紀』の記事からすっぽりと抜け落ち、さらに、天武天皇が全国にめぐらせた『巨大道路網』の話が『日本書紀』に出てこないのは、藤原不比等が親蘇我派の天武天皇の活躍を面白く思っていなかったからだろう。
 天武天皇蘇我氏の関係がわかったところで、話を蘇我入鹿暗殺時にもどせば、中大兄皇子中臣鎌足が、『蘇我氏に推されていた大海人皇子の即位を阻むために蘇我入鹿を殺した』という図式が、はっきりと見えてくる。そして、改革派を敵に回していた中大兄皇子中臣鎌足の行動を正当化するために、『日本書紀』は、ありとあらゆる手段を構築したことは、想像に難くない。その過程で、蘇我入鹿を大悪人に仕立て上げるためのカラクリが必要となり、人間離れした聖者=聖徳太子が編み出され、聖者の子・山背大兄王の一族が蘇我入鹿に滅ぼされたという話を構築して、『蘇我入鹿の悪』がでっちあげられ、さらに、山背大兄王一族が同時に滅亡し、『聖徳太子とその末裔は、跡形もなく消えた』と記録したのだろう。
 のちの時代に、『聖徳太子山背大兄王は親子ではなかった』と言う噂がたったこと、『そんなことを言いふらすのは、不謹慎だ』と、『上宮聖徳法王説』の編者は語っている。『馬鹿馬鹿しい』と否定するのではなく、『それを言ったら、身も蓋もない』とほのめかすかのような発言を、無視することはできない。
 蘇我氏の活躍を真逆にすり替えるためのカラクリが、聖徳太子山背大兄王だったのである」
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