🗻62〕─1─持統天皇。日本書紀。古事記。渤海国の建国。則天武后と革命宗教・仏教。687年~No.145No.146No.147 @ ⑰ 

渤海国 (講談社学術文庫)

渤海国 (講談社学術文庫)

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 世界中の文化や芸能や技術が行き着く先は、日本であった。
 そこに、日本の複雑な多様性が生まれた。
 7世紀 ササン朝ペルシャのピルーズ王子は、サラセンに追われて唐に亡命してきた。
 ピルーズ王子が中国に伝えたペルシャ文化は、後に日本にも伝えられ、異国の伝来物は正倉院の宝物となっている。
 異国の宝物の中に、朝鮮所縁のお宝は皆無である。
 炭火で焼くカバブは、蒲焼きのカバの語源になったといわれている。 
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 朝鮮半島から日本に渡来するのは、文化でも教養でもなく難民だけであった。
 日本にとって、朝鮮とはそれだけのものであり、憧れなどはなく、関心もなければ、興味もなかった。
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 朝廷は、敵同士の親日百済高句麗帰化人と反日新羅系渡来人を一緒に住まわせるのは紛争の原因になるとして、棲み分ける為に人がまばらなな関東に広く定住させた。
 日本列島は、人が住める平地が僅かな上に険しい山や速い流れの川が多く、人の往来が困難であった為に、個々の小集団に分けて棲み分け接触を遮断する事ができた。、
 渡来人達の日本に対する敵意・憎悪を、原始日本神道の霊力で関東の地に封じ込めた。
 封じ込めきれなかった残留怨念が、反天皇反朝廷的気分として関東以北に残った。
 日本社会は、異質を強引に同化させる単一社会ではなく、異質を異化のまま緩やかに保って棲み分ける多様社会であった。
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 古代インドの自然神であった風神と雷神は、風水害から農作物を守る神として、天武天皇(在位673〜686)の御代にシルクロードを経て日本に伝えられ、大和盆地に祀られた。
 風神は、風の神として、台風などによる大風防止の為に竜田の神として祀られた。
 雷神は、水の神として、大雨などによる洪水防止の為に広瀬の神として祀られた。
 日本全国には、数多くの自然災害から生活と農作物を守る為に、宗教に関係なく外国の神や仏が雑多に祀られ信仰されている。
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 687年 第41代持統天皇は、寛容政策として、朝鮮半島から日本に逃げてきた、亡国の民である百済人・高句麗人と生活苦の貧困民である新羅人を東国に移住させた。
 日本に渡ってきた、帰化人と渡来人。
 親日派帰化人で、無関心派が渡来人である。
 渡来人は、天皇と日本に対して暴動を起こしていた。
 帰化人の高句麗人56人が、常陸国に入植した。
 渡来人の新羅人14人が、下野国に入植した。
 689年 渡来した新羅人難民を、下毛野に移住させた。
 関東への新羅人難民の移住者が、急増し始めていた。
 親日派高句麗人達は、日本人と共存し混血して子孫を増やしていった。
 関東の高麗は、その子孫達である。
 関東武士の多くは、親日派帰化した高句麗の血を引いている。
 彼らは、現代の反日派韓国人・朝鮮人とは縁もゆかりもない赤の他人である。
 690年 持統女帝は、新羅使の無礼を責めた。
 新羅人12人が武蔵国に移住した。
 反日的な新羅人の日本への大量移住が何を意味しているのか、現時点では分からなかった。
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 儒教価値観を破壊する革命宗教・仏教。
 則天武后は、太宗(李世民)の後宮新にいたが649年に太宗が逝去した後に一度は出家したが、権力が強かった為に息子の第三代高宗の後宮に召されて入った。
 唐王朝は帝国の支配の為に儒教を利用したが、皇族らは儒教的規範に拘らなかった。
 則天武后も、男尊女卑の儒教的価値観を持ってはいなかった。
 690年 高宗の皇后(天后)であった則天武后(〜705年)が、帝位を簒奪して皇帝に即位し、国号を周と称した。保守的な反対派貴族や官吏を大粛清し、多くの有能な者を政治に中枢に登用した。
 女帝を正統化する為に大雲経というお経をでっち上げて、「自分は弥勒菩薩の生まれ変わり」と宣言した。
 中国を仏教国家にするべく、各省に大雲経寺を建立した。
 唐を廃して周を建国し、武姓の則天武の国として「武周」と呼ばれた。
 女系は国を滅ぼすとして忌避される原因となった。
 そして、仏教弾圧の元にもなった。
 政治の手本を儒教ではなく、古代に聖人君主が治めていた周に直接求めた。
 日本は、則天武后が始めた仏教混じりの「周礼」を導入した。
 則天武后は、中国三大悪女の一人として、残忍な拷問と凄惨な処刑で数多くの者を虐殺した。
 元皇后の王夫人は、無実の罪で半死半生になるまで鞭打ちの拷問を受け、手足を切断され、酒を満たしたおおがめ大瓶に投げ込み、激痛の中で5日間生き続けて死亡した。絶命するまで見世物として、酒を飲んで嘲笑っていた。
 もう一人の妃も、同じ様に惨殺された。
 則天武后は、自分の子供である中宗と睿宗を排除し、その支持派である高官を地獄の様な拷問をかけて一族諸共に根絶やしにした。
 中国は、権力欲の塊となった女性によって生き地獄となった。
 則天武后が、705年に80歳で天寿を全うするまで、その残虐行為を誰も停める事ができなかった。
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 「天皇」という称号の本当の意味は、中華皇帝と対等関係を築く為ではなく、中華皇帝の上位者として中華世界の最高位である事を示すものであった。 
 儒教において、中華皇帝とは天子の事である。
 全宇宙を統治する天帝が、地上で姓名を持った覇者を自分の子で認定し、自分に代わる代理人として地上の支配を命じた。
 道教は、その最高神天皇天帝(てんこうてんてい)として崇めていた。
 日本天皇とは、その天帝の事であり、ゆえに姓を持たない。
 中華皇帝は、小国の日本が自分より上位者として天皇を僭称する事は、教養なき野蛮人の夜郎自大と嘲笑しながらも認めた。
 中華世界で道教が危険思想として仏教と共に弾圧されたのは、この為である。
 中国・朝鮮の国家理念は儒教であったが、日本は道教と仏教であった。
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 天智天皇の娘で叔父の天武天皇の后であった鸕野皇女は、孫の軽皇子に帝位が渡る様にする為に、皇位継承の有力な天武天皇系の皇子らを出し抜いて、第41代持統天皇に即位した。「天皇」の称号を正式に使用し、国号を「日本」と制定した。
 称号「天皇」と国号「日本」は、中国に対する独立宣言であり、冊封を受ける中国の属国である新羅より上位にある事を主張するものであった。
 天智系皇族と天武系皇族は、帝位を巡って激しく対立した。
 持統天皇は、伊勢神宮を重要視して、現在の様な規模の社殿を完成させた。
 藤原不比等は、持統天皇に協力しながら藤原氏の政治基盤を強化し、競争相手になりそうな蘇我氏系豪族を潰す為に律令制を利用した。
 蘇我氏を見習って、天皇の側室に娘を送り込み、生まれた皇子を帝位に就け、外戚として絶大な力を得ようとした。
 持統天皇は、百済王家の血筋を絶やさない為に弟の王子の勇に位階と氏姓を授けた。
 百済王家の血筋は、日本のみに残った。
 百済王(くだらのこきし)氏は、ヤマト朝廷の中で別格扱いとして厚遇され、後に臣下として桓武天皇後宮に女性9名を献上した。
 690年 持統天皇は、宗教改革として、伊勢神宮において第一回目の式年遷宮を行う事によって、皇祖の女神・天照大神を日本の国家神と定めた。
 日本国としての「礎」が、祭祀王・天皇の権威で築かれた。
 祖先神・氏神による人神信仰という、祖先供養の神道儀式が始まった。
 日本国家の始まりである。
 692年3月 持統天皇は、伊勢神宮行幸して、皇室祭祀を強調した。そして、20年に一度の式年遷宮の制度を定めた。
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 藤原氏は、権力を独占する為に百済遺民の才能を利用して、政敵となる非藤原氏を陰謀にかけて滅ぼした。
 政争に敗れた非藤原氏は、天皇と皇室への忠誠心は旺盛であったが、藤原氏憎しから、忌み嫌われる最下層の賤民・非人となり山や森の中に隠遁して魔界の民(山の民・川の民)となった。
 正式な僧侶として受戒していない出家者の事を、優婆塞(男性)と軽蔑した。女性は、優婆夷(うばい)という。つまり、不法に出家した乞食坊主である。
 代表的な出家者が、後の百済帰化人・行基であった。
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 701年 第42代文武天皇。持統太上天皇藤原不比等は、『大宝律令』の編纂を命じた。皇統を絶やさない為に、男系・女系の別なく、直系を正統として皇位を継承する事を認めた。『継嗣令』「およそ皇兄弟と皇子、皆、親王と為す、女帝の子もまた同じ」
 朝廷は、皇后は天皇亡き後つなぎの天皇になる可能性がある事を考慮して、「皇后は皇族が相応しい」と不文律で定めていた。
 藤原不比等は、藤原の娘を皇后位に付ける為に律令ではっきりと規定しなかった。
元旦 新羅は、対唐政策として日本の軍事力を頼り、日本に朝貢使を送った。
 文武天皇の朝賀の儀式において、新羅使は「蕃夷の使者」として参列した。
 『大宝律令』で、唐は大事な隣国と認めたが、新羅化外の地にある朝貢してくる蕃国と差別した。
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 弥生時代から地元を支配している地方豪族は、村を要塞化し周辺の豪族と殺し合いながらも勝手気ままに生活し、独立した勢力としてヤマト朝廷とは一定の距離を保ちながら勢力を保持していた。
 そうしたヤマト朝廷の支配が及ばない地方に、朝鮮からヤマト朝廷に忠誠心を持たない渡来人が大量に住み着き、地方豪族達に文化と技術を広めていた。
 地方豪族は、小国の首長として、渡来人の協力を得て経済力と軍事力をつけて勢力を拡大し始めていた。
 ヤマト王朝は、外国に備える為にも全国を統一する必要があり、武力を用いて戦乱を長引かせて外国の軍事介入を誘う事を避ける為にも、話し合いによる速やかな併合を心掛けた。
 地方豪族を郡司に任命し、自治を認め、土地の支配を許した。
 政治支配として地方を国ごとに分割し、各国に中央から国司を派遣して管理させ、郡司から租税を徴収すると同時に、ヤマト朝廷が認めた大陸の学問や技術などを伝えた。
 土着の文化・風習・因襲を守ろうとした豪族は、ヤマト朝廷が強要する大陸文化に猛反発して武器を取って抵抗した。
 ヤマト朝廷は、平和的な支配拡大の為に利用したのが祖霊信仰の神道である。
 地方豪族は、縄文時代からの自然の精霊を村の守り神として村の統制を行っていた。
 ヤマト朝廷は、各地で信仰されている精霊を地元の祖霊として認め、天皇心神話に組み込んで正統性を与えた。
 日本神話の誕生である。
 郡司は、祖霊を祀る神社を村の中に建て、天孫降臨の稲作神話を取り入れ、宮中祭祀に倣って神事を執り行った。
 日本は、祖霊信仰を祖先神・氏神の人神信仰に変化させて一つにつながった。
 村ごとに、違う祖霊を祖先神・氏神として信仰していた。
 一つの神ではなく八百万の神々が出現したが、祭祀・神事は宮中祭祀方式で行われた。
 神のような模範的な祭祀王・ヤマトの大王(後の天皇)は、その神聖から各地の祖霊に祖先神・氏神として正統性を与え、神社で祀る正当性を認めた。
 祭祀王・天皇を否定して廃止したとき、祖先神・氏神の正統性も正当性も失われ、日本中心神話に根ざした人神信仰は消滅する。
 天皇にとって最も重要な素質は、政治という俗世ではなく宗教という神聖にある。
 宗教性を持った天皇が、日本文明であり、日本文化そのものである。
 祖先神・氏神は、その村に住む全ての村人の守り神として信仰されていた。
 村は絶えず人の出入りがあって血縁が保たれていたわけではない以上、その村で生活するという地縁で村人は一つにつながっていた。、
 渡来人を宗教支配する為に、渡来人の祖先も日本の神として地元に根付かせる為に渡来人神社を建てた。
 渡来人は、ヤマト朝廷の支配を受け入れて帰化した。
 帰化を拒否した渡来人は、独自の宗教と文化でヤマト大王の支配を拒否し、排他的で閉鎖的な集落を作ってヤマト朝廷に敵対した。
 中国人や朝鮮人は、何時の時代でも閉鎖性が強く、移住先に馴染んで同化せず、寄生しながら独自性を守り続け、時には武器を持って抵抗した。
 仏教界は、信徒を拡大する為に、各地の渡来人の協力を得て村の中に寺院を建設して布教活動を行った。
 攻撃性の強い仏教は、多種多様な価値観で排他性の薄い神道を利用して日本全国に勢力を拡大した。
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 2017年10月18日 産経WEST「奈良時代の「パスポート」「食材請求書」「荷札」…国宝の木簡95点公開、奈良・平城宮跡資料館
 奈良時代の様子を伝える木簡が展示されている「地下の正倉院展
 奈良文化財研究所・平城宮跡資料館(奈良市)で、9月に国宝指定された「平城宮跡出土木簡」(計3184点)の一部を公開する秋期特別展「地下の正倉院展−国宝 平城宮跡出土木簡」が開かれている。第I期は29日まで、第II期は31日〜11月12日、第III期は同14日〜26日で、展示する木簡は入れ替えられる。
 平城宮跡出土木簡は、同研究所が60年近くにわたり平城宮跡で続けてきた発掘調査で出土。奈良時代の社会の実態などについて知るうえで貴重な木簡群で、木簡としては初めて国宝指定された。今回は計95点を3期に分けて公開する。
 展示品のうち、「関々司前解…」で始まる長さ約65センチの木簡は「各関所のお役人に申し上げます」という過所(パスポート)として使用。大宝律令が施行された701年から平城京遷都の710年までの間の木簡とみられ、近江(滋賀県)で農業に従事した2人が藤原京に帰る際に発給された。I、III期はレプリカ、II期は実物を展示する。
 I期で展示の「寺請…」は某寺が大膳職(だいぜんしき)とみられる宮内の役所に対し、小豆や醤(ひしお)(しょう油の原形)などの食材を請求する木簡。孝謙太上天皇淳仁天皇と対立して法華寺に住んでいた時期とみられ、藤原仲麻呂の乱前夜の政治的緊張を伝えるという。I期ではこのほか、紀伊和歌山県)からの塩の荷札や、アワビの付札なども展示されている。
 午前9時〜午後4時半で、月曜休館。入場無料。問い合わせは奈良文化財研究所連携推進課((電)0742・30・6753)。」
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 702(大宝2)年6月 粟田真人、高橋笠間らは遣唐使として唐に渡る。 
 日本は、唐による対外膨張が一段落して、日本侵略の危機が遠のいた所で遣唐使を再開した。中華皇帝との対等を主張し、国名を「倭」から「日本」に変更する代わりに、20年に一度の朝貢を約束した。
 則天武后は、倭国の嘆願を認めた。
 このとき始めて、地図上に日本国家が誕生し、人類的に日本人が生まれた。 
 新羅は、対唐戦略から日本に朝貢使を送り臣下の礼をとった。
 日本は、文化度の落ちる朝鮮を介さず、中国から直接仏教経典や儒教道教などの諸子百家の書籍を購入した。
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 唐は、日本が元号を使う事を許したが。新羅には認めなかった。
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 703年 日本は、律令による中央集権体制が完成したという自信から、東アジアに存在感を見せつけるべく33年ぶりに遣唐使を派遣した。
 執節使の粟田真人は、蛮族の朝貢ではないとして、「日本国の使者」と名乗った。
 だが。唐は、正統儒教価値観から日本を対等国とは認めず、依然として文明度の低い蛮国の一つとして見下していた。
 中国人は、日本人を教養なき蛮族と見下して人とは見ていなかった。
 日本は、帰国した遣唐使からの最新情報で、日本の律令は旧式であるとして新しい律令を唐から導入する為に交流を深めた。
 新羅は、唐との国境問題で日本の支援を期待して、朝貢の形をとって日本に使節を送っていた。
 渤海国も、対唐戦略から、日本に朝貢使を派遣していた。
 東アジア世界は、大国唐と中程度国日本の二極で安定していた。
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 705年 日本の総人口、559万人。
 706年 『続日本紀(しょくにほんぎ)』「この年日本各地で疫病が流行し、民百姓が多く死んだので、土で作った牛の人形で大儺(たいな)を行った」
 文武天皇は、疫病を祓(はら)う為に大陸文化である大儺を執り行った。
 大儺は、別名「追儺(ついな)」と呼び、後に「春の節分」として完成し定着した。
 松本栄文「追儺は公家なら誰でも参加できたわけではありませんでした。公家の家格は大きく『堂上家』と『地下家』に分かれます。堂上家はその字からわかるように、御上が普段生活している清涼殿南廂(みなみひさし)に昇殿することが許された家格です。この堂上家に属する方々のみが参加できたのです。堂上家の中にも上から摂家、精華家、大臣家、羽林(うりん)家、名家(めいけ)、半家(はんけ)という格がありました。公卿(くぎょう)は大臣や大納言・中納言・参議または位階3位以上の人、殿上人は5位以上の人で昇殿を許された人などを指します。
 その方相氏(ほうそうし)の役割ですが、平安時代末期から鎌倉時代には、鬼祓い役であったはずが、鬼祓いをするその恐ろしい風貌が災いなり、気が付けば鬼役に転じたのであります。目に見えぬ鬼よりは、目に見えた鬼のほうが鬼退治は面白いといったところでありましょう。
 現在では、節分に弓矢を放つことは宮廷祭祀だけに受け継がれておりますが、弓矢の代わり、庶民の間では『豆撒き』が行われるようになりました。豆撒きの始まりは宇多天皇の頃(887〜897年)とされ、京の鬼門の位置にある鞍馬山から都をあらす鬼が出現せぬよう鬼の住みかを呪文と結界で封じ、三石三升の『炒り豆』をもって鬼の目を打ちつぶしたとい故事伝説から、豆撒きが始まったと考えられております。
 炒り豆に『大豆』を用いられるのは、『古事記』のオオゲツヒメのお尻から生まれたのが大豆でしたので、神様の力を宿した大豆で邪気を払うことになるのです。なた、豆(まめ)の読み名が『魔目(鬼の目)』に通ずることや、鬼退治の『魔滅(魔の滅亡)』などの意味から桃の弓に代わり、広く用いられました。
 『鬼は外、蘄は内』
 昔も今も、この掛け声は変わりません。豆撒きを終えますと、家族全員がそろって豆撒きをした炒り大豆を拾い、自分の年齢(数え歳)分を食べます。この鬼退治に用いた豆には強い神霊が宿っていることから、これを食べますと体が丈夫になり、疫病にかかり難くなるといった習俗からです。また、生豆ではなく炒り豆を撒く理由は、鬼退治に用いた豆から目が生えた場合、なんとも不吉であるということから炒り豆となりました」
 708年 右大臣藤原不比等の発議として、新都平城京の建設が始まった。
 朝廷は、諸国に対して毎年の調庸以外に都建設の役民の提出を命じた。
 役民とされた者は、郷国と都までの往復の食料は自弁であった。
 天候が良く、予定の日数でたどり着ければ問題はなかった。
 天気が悪く、何らかの事情で足止めを食うと途中で食料がつき、餓死する者もいた。
 元明天皇元正天皇らは、賦役に苦しむ民衆の上を憂慮されて何らかの対策を取るようにとの詔を、度々、発した。
 元明天皇「諸国の役民、郷国へ還る時、食糧が乏しく、多くの道に飢え、溝や谷間に転落し、埋れ死ぬ者少なからず、と聞く。国司刀は宜しく撫養を加え、物を恵み、死する者は埋葬し、姓名を本籍に報告せよ」
 元正天皇「入京の人夫の衣服は破弊し、青菜のような顔色の者が多い。にもかかわず公の帳簿には偽りを記して声誉を上げようとしている。国司や郡司がこの様であれば、朕は一体何を任せられるであろうか。今後は宜しく民の痛みを哀れんで、朕の委任に副うようにせよ」
 天皇が幾たびも困窮する民の救済を訴える詔を発しても、臣下で或る官僚が律令を重んじて国家運営をしている以上、天皇の恣意で政治を動かす事ができなかった。
 天皇の意思で官僚を従え政治を動していた、仁徳天皇の御代とは違っていた。
 709年 静岡県浜松市天竜川左岸の赤石山脈の南端に聳える秋葉山頂の神域を背にして、「火防(ひぶせ)の神」を祀る秋葉山本宮秋葉神社が創建された。
 710年 第43代元明天皇・女帝。高く厚い城壁と深く広い堀を持たない、無防備な平城京に遷都した。日本の都は、中国や朝鮮のような城塞都市・都城ではなかった。
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 711年 帰化氏族の秦氏は、古くから山岳信仰の対象だった京都・稲荷山に、一族の氏神として3柱を祀って神社を造営した。
 帰化伏見稲荷大社は、平安時代に東寺の守護神として崇敬された。
 キツネをお使いとする稲荷大神は、農業の神であり殖産興業の神として信仰され、全国各地で勧進・奉祀られ稲荷神社が造営された。
 特に多かったのが、江戸時代の江戸であった。
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 712年 唐の玄宗(〜756年)は、則天武后以来の政治の混乱を鎮める為に、クーデターを起こして第六代目皇帝に即位した。
 仮根を残さない為に、葦皇后とその一派を皆殺しにした。
 中国史上、最も安定した時代であり、最高の中国文化を生み出した。唐の文化を越える様な爛熟した文化は、現代にいたるまで誕生しなかったし、今後も生まれる絶対にない。
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 716年 滅んだ高句麗王族の高麗王若光は、日本を頼って亡命し、天皇の恩情で武蔵国に移り住んだ。
 駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七ヵ国に居住する高句麗人1,799人を武蔵国に集めて、高麗郡を新設した。 
 718年 奈良時代第一の学僧・道慈は、唐から帰国し、日本で優位にある新羅仏教と朝鮮文化を排除する為に最新の唐仏教・文化を広めた。
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 唐は、遼西地方を農地として開墾する為に、高句麗討伐に功績があったツングース系靺鞨人と高句麗人数万人を移住させた。
 696年 契丹人李尽忠は唐に対して叛乱を起こした。
 高句麗人と靺鞨人も、故郷に帰るべく叛乱を起こした。
 唐は、討伐軍を送って各叛乱を鎮圧した。
 高句麗大祚栄は、各敗残兵と難民を率いて震国を建国した。
 710年 唐の高宗は、軍事大国吐蕃との同盟の為に、曽孫の金城公主をチベットに嫁入りさせ、手土産に黄河上源に近い「河西九曲の地」をチベット領にする事を認めた。
 713年 唐の玄宗皇帝は、大祚栄渤海郡主に任命し、属国として冊封朝貢を命じた。
 719年 大祚栄は、渤海国を建国した。
 『旧唐書』『新唐書』によると、海国の支配層は靺鞨人であったといわれている。
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 720年 南隼人の反乱。第44代元正天皇(女帝)は、歌人大伴旅人を征隼人時節大将軍に任命して九州に派遣した。
 大和朝廷軍は、国東半島に上陸し、隼人平定の為の根拠地を築き、南下して隼人の軍勢を破り、九州での大和朝廷の支配権を確立した。
 大和朝廷軍の根拠地に創建されたのが宇佐八幡神社であった。
 藤原氏は、不比等が死亡したのち四兄弟が受け継いだ。
 反藤原派である天武天皇の孫・長屋王は、藤原の力を削ぐべく、臣下の娘を皇后にしない様に阻止運動を起こした。
 藤原四兄弟長屋王らは、激しく対立した。
 歴代女帝が、文武天皇と藤原宮子(賀茂氏)の皇子である首皇子(後の聖武天皇)を即位させる事を優先した為に、長屋王は追い詰められた。
 721年 詔「朕が徳が薄く、民を導くための充分な才能もない。早朝から方策を求め、夜寝ようとしても、思いはとまらない。体は、宮の奧にあっても、心は民の本にある」
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 712年 『古事記』。太朝臣安萬侶(太安万侶とも表記)によって献上された。
 720年 日本書紀』。舎人親王らは、神代から持統天皇の時代までの正史を完成させた。
 日本書紀古事記を書いたのは、中国や朝鮮から渡って来て、天皇に忠誠を誓った帰化人である。
 異国の帰化人は、忠実な臣下として、天皇の権威を高め不動のものにするべく、日本各地に伝わる風土記や王権の公的記録はもちろん、唐や百済はおろかインドまで広く海外の優れた数多くの仏典や文献そして逸話や寓話を網羅して創作した。
 特に、日本書紀はその傾向が強く、帰化系官人の続守言と薩弘恪が唐王朝に提出しても恥を掻かないように意図的に編纂した、といわれている。
 だが、日本書紀編纂途中で二人が死んだ為に、新羅のみ留学し唐を知らない山田史御方が後を引き継いだといわれている。
 山田史御方を中心として帰化系官人は、天皇を神格化する為に歴史を改竄して神代と建国物語を都合よく虚飾し書き換えた。
 文字とは、自分の命令を伝える道具・手段に過ぎない。
 問題は、その文字に心が込められているかにある。
 朝鮮は、漢字を用いて、朝鮮人の心ではなく中国人の心を伝えた。
 日本は、日本の心は漢字では伝えられないとして、漢字を工夫して平仮名や片仮名を編み出して日本の心を伝えた。
 それは、万葉集にも言える。
 万葉集百済語で読まれたかどうかは、実はどうでも良い事である。
 日本の和歌や俳句や川柳といった日本独自の短詩は、心の想いや移ろいや憂いといった心模様を詠う為に、百済語などの漢字では表現できないとして捨て去った。
 それに比べて、朝鮮の心は中国人の心に近かった為に漢詩で事が足りていた。
 日本の文学は、古代に於いては中国や朝鮮の影響を多少なりとも受けたが、国風化するにつれて日本に合わない漢字文化を捨てた。
 アルファベットが古代ギリシャ文字から出ているからといって、ギリシャの偉大さを認めて敬意を表しても、土下座するほどに感謝する必要が無い。
 と同様に。日本のルーツが朝鮮や中国にあっても、現代の日本人が中国人や韓国・朝鮮人に自己卑下してまで感謝する必要は無い。
 人が移動すれば、同時に言葉や文字から宗教や文化そして道具や技術まで多くも無形・有形なモノが動いて行く。
 土地に有益なモノは残り、無益なモノ、有害なモノは拒否されて消えて行く。
 日本は、朝鮮とは違って、他国から伝わったモノを摂取選択する能力があったと言うだけである。
 世界に自慢できる日本文明や日本文化は、伝えられた優れたモノを日本人が独自に変化さて根付かせたのである。
 若し伝えた朝鮮人が偉かったというのなら、日本文明はおろか中華文明に匹敵する朝鮮文明があって然るべきだが、そんなモノはない。
 朝鮮文化といっても、中国文化はおろか日本文化にも遠く及ばない。
 それ以前に、日本に文化を伝えたという親日百済王国は滅んで跡形もなく、親日百済人も四散していない。
 日本人が感謝すべきは、いなくなった親日派百済人であって、百済人と縁もゆかりもない反日的な現代の韓国人や朝鮮人ではない。
 日本の文明や文化は、現代の韓国・朝鮮文化とは異質な別物である。
 古今東西。世界常識として、正史を自分に都合よく書き換えるのが当たり前である。
 自分に觥合の悪い歴史を正史として残そうとするのは、人類史上唯一、現代日本だけである。
 日本のルーツを外国に求めて感謝感激して嬉しがる日本人とは、歴史がわからない、歴史嫌いである。
 『日本書紀』とは、蛮族と蔑まれてきた倭国中華帝国とは対等である主張する為に書かれた、半分以上が創作された偽書である。
 倭人も中国人同様に文化や教養がある事を証明する為に、実在した蘇我系王族・厩戸王(厩戸豊聡耳皇子・うまやとのとよとみみのみこ)を中国の聖人君子にも劣らぬ理想的な有徳者に仕立て上げる必要があった。
 ここに、聖徳太子信仰(太子信仰)が生まれた。
 聖徳太子は存在して政治に参与したが、その業績すべてが聖徳太子のものとは言えない。
 だが。あの時代の日本は、中国帝国に対して文化と教養を持ち、中華皇帝に劣らぬ徳と礼節を持った国である事を誇示する為に、捏造された聖徳太子像を必要とした。
 日本が、永遠の属国となった朝鮮と違う自主独立を守り得たのは、偽書『日本書記』が架空の聖徳太子を作り上げたお陰である。
 日本が朝鮮のように中国に呑み込まれる事なく日本である為には、偽史日本書紀』と架空の聖徳太子信仰は大事にする必要がある。


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