🎍27〕─1─帰化系日本人・山上億良。『万葉集』巻五(八九四)好去好来(かうきよかうらい)の歌。~No.81No.82No.83 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 古代日本は人道国家として、中国大陸や朝鮮半島から逃げてきた難民を受け入れた。
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 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
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 外国人移民・難民には、良い面と悪い面、それ以上に人畜無害として有っても無くてもかまわない面があった。
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 『万葉集』巻五(八九四) 山上億良 (遣唐使を送る)
 ―好去好来(かうきよかうらい)の歌一首、また短歌
神代より 言(い)ひ伝(つ)て来(く)らく そらみつ 倭(やまと)の国は 皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国 言霊(ことだま)の 幸(さき)はふ国と 語り継(つ)ぎ 言ひ継かひけり 今の世の 人も悉(ことごと) 目の前に 見たり知りたり 人多(さは)に 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷(みかど) 神(かむ)ながら 愛(めで)の盛りに 天(あめ)の下(した) 奏(まを)し給ひし 家の子と 撰(えら)び給ひて 勅旨(おほみこと)〔反(はん)して、大命(おほみこと)といふ〕 戴(いただ)き持ちて 唐(もろこし)の 遠き境に 遣(つかは)され 罷(まか)り坐(いま)せ 海原(うなはら)の 辺(へ)にも奥(おき)にも 神(かむ)づまり 領(うしは)き坐(いま)す 諸(もろもろ)の 大御神(おほみかみ)たち 船舳(ふなのへ)に〔反して、ふなのへにと云ふ〕 導き申(まを)し 天地の 大御神たち 倭(やまと)の 大国霊(おほくにみたま) ひさかたの 天(あま)の御空(みそら)ゆ 天翔(あまかけ)り 見渡し給ひ 事了(ことをは)り 還らむ日には またさらに 大御神たち 船舳(ふなのへ)に 御手(みて)うち懸けて 墨繩(すみなは)を 延(は)へたる如く あちかをし 値嘉(ちか)の岬(さき)より 大伴の 御津(みつ)の浜辺(はまび)に 直泊(ただは)てに 御船(みふね)は泊(は)てむ 恙無(つつみな)く 幸(さき)く坐(いま)して 早帰りませ
 
 反歌
 大伴の御津の松原かき掃(は)きて我立ち待たむ早帰りませ(895)
 難波津に御船泊(みふねは)てぬと聞こえ来(こ)ば紐解き放(さ)けて立走(たちばし)りせむ(896)

 天平五年三月の一日 良宅対面、献ルハ三日ナリ。山上憶良 謹みて上る。
 大唐大使の卿の記しつ。

(意訳)
 神の御代より言い伝え来ることには、空に満ちる大和の国は、神である天皇の統治される厳しき国で、言霊の幸ある国と語り継ぎ、言い継いで来た。それは今の世の人々もことごとく目の前に見て知っている。人は多く満ちているのに、高く輝く日の朝廷で神であられる天皇が最も愛され、天下を統治された家柄の子として、あなたをお選びになられて、あなたは天皇のお言葉〔勅旨は、大命(おほみこと)と読む〕を奉戴して、唐の遠き国土に遣わされ出立されます。大海の岸にも沖にも神としてとどまり、支配される大御神たちは、船の先〔船舳は、フナノヘと読む〕に立って先導し申し、天地の大御神たちは、大和の大国神をはじめ、はるか彼方の天の御空から飛び翔けて見渡しなさるでしょう。そして無事に使命を終えて帰られる日には、またさらに大御神たちは船の先に御手をかけて、墨縄を引きのばしたように、あちかをし値嘉の岬を通って、大伴の御津の浜辺にまっすぐに泊まるべく御船は帰港するでしょう。つつがなく幸せにいらっしゃって、早くお帰りください。

 反歌

 御津の松原を掃き清めて、私はあなた様を立ったままお待ちしましょう。早く
お帰りくださいませ。
 難波の港にあなた様の乗った船がお戻りになったという話が聞こえて来たら、
私は紐を結ぶのももどかしく、解けたまま走ってお迎えに上がりましょう。 

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 ウィキペディア
 山上 憶良(斉明天皇6年(660年)? - 天平5年(733年)?)は、奈良時代初期の貴族・歌人。名は山於 億良とも記される。姓は臣。官位は従五位下筑前守。
 出自
 山上憶良は、春日氏の一族にあたる皇別氏族の山上氏(山上臣)の出自とされる。山上の名称は大和国添上郡山辺郷の地名に由来するとされ、山於(やまのえ)とも記される。
 一方で日本文学界において万葉学者の中西進が、憶良は天智・天武両天皇の侍医を務めた百済人憶仁の子で、百済の滅亡に際して父親とともに日本に渡来、近江国甲賀郡山直郷に住み着いたことから山上氏を称するようになったが、次第に土地の有力氏族である粟田氏に従属し同族化していったとする説を唱えている。この説に対しては、青木和夫、佐伯有清が、歴史学の立場から批判を加えている。
 経歴
 大宝元年(701年)第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する(この時の冠位は無位)。なお、憶良が遣唐使に選ばれた理由として大宝の遣唐使の執節使である粟田真人が同族の憶良を引き立てたとする説がある。和銅7年(714年)正六位下から従五位下に叙爵し、霊亀2年(716年)伯耆守に任ぜられる。養老5年(721年)佐為王・紀男人らとともに、東宮首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられる。
 神亀3年(726年)ごろ筑前守に任ぜら任国に下向。神亀5年(728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて帰京。天平5年(733年)6月に「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を、また同じ頃に藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。
 山上船主を憶良の子とする説がある。
 歌風
 仏教や儒教の思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など、家族への愛情、農民の貧しさなど、社会的な優しさや弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られる。
 抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。代表的な歌に『貧窮問答歌』、『子を思ふ歌』などがある。『万葉集』には78首が撰ばれており、大伴家持柿本人麻呂山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。『新古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に5首が採録されている。

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