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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
称徳女帝は、体制改革の為に放伐と禅譲の天命思想を取り入れて、恋人である臣下の弓削道鏡を天皇に即位させようとした。
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日本皇室に「姓」がないのは、儒教が認める天命にもとずいた易姓革命を防ぐ為である。
日本の常識は、儒教を、天地の理(ことわり)を引っ繰り返す革命思想として恐れ、ごく一部を取り入れて、残りの大半を排除した。
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「王侯将相いずくんぞ種あらんや」
王道は、徳や礼で庶民を感化して支配する。
覇道は、力や謀で庶民を屈服させて支配する。
正統派儒教における天命思想は、徳のある有力者が徳をなくした天子から放伐(殺害・追放・幽閉)或いは禅譲で皇帝を受け継ぐ事を正当化した。
同時に。放伐と禅譲は、漢族であれ異民族であれ実力ある者が皇帝となり、新しき時代を切り開く為に古き時代を根絶する事を承認し、そして抵抗勢力の大虐殺を天命として奨励した。
中国の歴史とは、新たな皇帝による大虐殺という悲惨な歴史である。
中華皇帝は解放された帝位として、漢族だけではなく、異民族でも自由になれた。
中華皇帝には、権力も権威もなく、有り難みも何もなかった。
中華帝国の惨めな属国である朝鮮も、放伐と禅譲の天命思想を取り入れていた為に大流血が絶えない、悲惨な社会であった。
日本人の野心家も、中国にならって、自分が天皇となって日本の支配者になろうとした。
姓を持たない天皇家を根絶やしにして、姓を持った天皇を誕生させようとした。
日本人であれ、渡来人であれ、臣下であれ、誰でも好きに天皇になれるような解放された自由な日本を目指した。
日本人だけではなく、中国人でも朝鮮人でも本人が望めば、誰でもが日本天皇になれる自由な日本にしたかった。
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日本が、東アジア世界の様な血に飢えた狂気に飲み込まれずにすんだのは、神代から続く万世一系の男系天皇(直系長子相続)があったればこそである。
祭祀王・天皇が、皇祖皇宗からの血筋を根拠として行う宮中祭祀で、日本に正気を与えていた。
日本がバラバラにならず、一つにまとまっていられたのは、神の裔・天皇が存在していたからである。
そして。日本で、中国や朝鮮のような大虐殺がなかったのは血筋に守られた祭祀王・日本天皇が存在していたからである。
日本に神の裔・天皇が存在しなかったら、日本の平和はなく、日本は存続しえなかった。
日本天皇と日本国と日本民族は、一体である。
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奈良時代の平安京の人口は、世界第5位であった。
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751年 唐軍は、西から侵出してきたアッバース朝アラブ帝国のアブー・ムスリム将軍率いる軍隊とタラス河畔で激突して大敗した。
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752年 大伴古麻呂は、遣唐副使に任じられ、大使・藤原清河に従い二度目の入唐を果たした。
日本の遣隋使や遣唐使は、臣下の礼を取る朝貢使節団ではあったが、新羅王国のような属国としての使節ではなかった。
4月9日 東大寺の大仏は、9年の歳月を経て完成した。
第46代孝謙天皇・女帝。東大寺代物が完成して、盛大な開眼供養が執り行われた。この時から、日本は仏教国家となった。
大仏開眼導師は、インド出身の僧ボーディ・セーナ(菩提僊那・婆羅門僧正)が担当した。
国家間として日本と新羅の関係は悪化したが、私的なレベルでは貿易が盛んに行われていた。
後年。藤原仲麻呂は、日本国の体面を無神経に踏みにじる新羅を討伐するべしと主張して、新羅征伐計画を立てた。
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752年 玄宗皇帝から聖武天皇への『勅日本国王書』という国書。「日本国天皇に勅す。貴国は礼儀の国であり、神霊の加護によってお互いに大海原を行き来しているが、今だ貴国との間に心配事を生じた事はない」
唐帝国は、日本国を統一新羅とは違って対等国と認めていた。
玄宗皇帝は、遣唐使・藤原清河の才能を認めて正二位に列し、画家に肖像画を描かせて宮中に所蔵した。
「貴国は賢明な君主の国である。その使者を見れば、その挙動は礼法に叶っており、すぐに日本を礼儀君主の国とする」
昔の日本は現代の日本以上に国際的であり、昔の日本人は現代の日本人以上に国際社会で品格のある教養人として認められていた。
ただし。中華思想から日本を対等国とは認めなかったが、属国の朝鮮とは違って一等国の列に加えた。
当時の日本の外交は、争いを避ける事勿れ主義的な現代日本の外交とは違って優秀であった。
中国の知識人も、日本の教養の高さと趣味の良さを誉め、日本人を国際人として認めていた。
王維の『送祕書晁監還日本國』「海の東にある国、日本は非常に優れた国家である。聖人の教えに従い、君子の趣がある」
753年 鑑真は、日本に来日した。
完全失明ではなく視力が落ちただけであったが、年と共にさらに視力が衰えた。
正月 玄宗皇帝は、百官諸蕃(しょばん)が朝貢した時、日本の使者を西側の吐蕃(チベット)の下位・第二席に置き、新羅の使節を東側の第一席としてサラセン(大食国)の上に置いた。
遣唐副使大伴宿禰古麻呂は、「新羅は古来日本に朝貢しているのに、この位置関係は許せない」と抗議した。
玄宗皇帝は、日本側の異議申し立てを正当と認め、日本をサラセンの上に、新羅を吐蕃の下に、席次を入れ替えた。
中華皇帝の決定に従い、日本は新羅の上席となり、吐蕃と同格の最上位と認めた。
相手に対する配慮した外交的譲歩は、愚策を通り越して無能無策を認める事である。
当時の日本の外交力は、現代日本の稚拙な外交力に比べてグローバルで数段優れていた。
国益が真っ向からぶつかり合う国際外交に於いて、妥協を伴った友好などは存在しない。
日本天皇は、新羅国王とは異なり中華皇帝と対等であるとの気概を持っていた。
日本の遣唐使は、貢ぎ物を献上しそのお返しに労いの言葉と恩賜の品物を貰う為ではなく、柔軟な発想のもとで有能な人材を派遣して、国造りの法律や制度、儒教など諸子百家の学問、仏教などの宗教、先進的文化や最新の技術など、日本に必要とされるモノ全てを輸入する為であった。
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玄宗皇帝は、逃げる途中で、領民の訴えを聞き、寵愛している楊貴妃を処刑した。
中華帝国は、才色兼備の女性に溺れた皇帝によって悪政と失政が起き、民衆は重税と労役が強制された。
中国大陸では、女性は傾国の美女として政治に参加する事を極端に嫌った。
女性が政治に口を出すと、碌な事にならないと。
安禄山軍は、獣の様に攻めた先々で虐殺と掠奪を行い、国土を荒廃させた。
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754年 『続日本紀』 唐王朝席順問題。唐の朝廷は、席順として、東側は新羅・ペルシャの順とし、西側はチベット・日本の順とした。
日本の使節・大伴古麻呂は、「昔から今日まで、新羅は日本に朝貢している国である。ところが新羅は東の第一国に座っており、日本より上座である。此は義に叶うものではない」と、大国唐に対して臆する事なく正当論を主張した。
唐王朝は、日本の主張を認めて、日本と新羅の席順を入れ替えて日本に上席を与えた。
古代日本は、現代日本以上に、国際感覚も、外交交渉能力も、外語会話力も、数段優れていた。
2月4日 鑑真は、平城京に入り、黒糖を日本に伝えた。
砂糖は、舶来物で、上流階層のみが口に出いる高級品で、風邪薬として使用されていた。
それは日本だけではなく、原産地以外の世界中の国でも同様であった。
4月5日 聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇は、東大寺に行幸し、鑑真を戒師として菩薩戒を受けた。
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755年(〜757年) 安禄山の乱。安禄山(ソグド人出身)は、長安を軍事占領して燕国を建国し、大燕聖武皇帝に即位した。
唐の粛宗皇帝は、中央アジアへの覇権をウイグル帝国に譲る見返りに軍事力を借りて安史の乱を平定した。
外国勢力の軍事支援を受けず独力で乱を鎮圧できなかった為に、唐王朝の国力は衰微した。
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756年5月2日 聖武太上天皇、56歳で崩御した。
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757年 藤原仲麻呂は、養老律令を施行した。
文化度の低い後進国である日本を、文明化(中国化)する為に、唐の玄宗に倣い儒教を基にした唐風政策を行った。
大和朝廷は、中華帝国と対等にあるという認識から、天皇の徳を慕って渡来して来た蛮族・新羅人に帰化を認めると決めた。
庶民の苦しみを軽減する為に、防人の派遣を停止など多くの負担の軽減した。
そして、学問として儒教の普及に努めた。
紫微内相に就き軍事権を得るや、天智天皇に倣って新羅征伐計画を立案した。
橘奈良麻呂の変。 仲麻呂は、自分を暗殺する計画があるとして反藤原の名門古代豪族443名を一掃して、政府高官職を仲麻呂一族で独占し、軍隊の指揮を息の掛かった者で固めた。
大宝律令まではヤマトの表記に倭・大倭を用いていたが、養老律令からは大和の文字が使われるようになった。
日本が大和の天皇を中心とした政治体制で支配されていなかった為に、この時代を大和朝廷ではなくヤマト政権もしくはヤマト王権と呼ぶ。
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徳富蘇峰「武蔵野は住古、朝鮮人の移住地であった。此れは武蔵野に限らず、関東一般概ね然りであったが、武蔵野は特に然りだ」
陸奧に鎮兵3,000人を配置させ、蝦夷に軍事的圧力を加えた。
蝦夷の一部は、大和王朝への抵抗は無意味として帰順し、俘囚(ふしゅう)と呼ばれた。
大和の役人や兵士は、俘囚を軽蔑し差別し辱めた。
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758年 藤原仲麻呂は、孝謙天皇に対して、藤原氏との関係が深い舎人親王の第7王子・大炊王への譲位させた。大炊王は、即位して第47代淳仁天皇となる。
淳仁天皇に、父親の舎人親王に皇帝の称号を与える様に仕向け、自分を父と呼ばせた。
仲麻呂は、「恵美押勝」の名を貰い受けると同時に、貨幣鋳造権と行政・軍事を取り仕切る印鑑を手にした。
藤原仲麻呂の印鑑は、天皇の御璽と同等の力があるとして、御璽がなくとも恵美押勝の印鑑で国家運営が出来るとされた。
天皇の位は、東アジアの非常識として弱く無力な皇族が、その血筋のみで継承されていた。
藤原仲麻呂は、中国や朝鮮同様に有能で強い者が日本の指導者になるべきであるとして、世襲制天皇の上の皇帝を作り、自分がその皇帝になろうとした。
仲麻呂の子息は、親王扱いとされた。
東アジアの常識である、正統派儒教による、大虐殺を伴う凄惨な易姓革命を日本に導入しようとしたのである。
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758年 日本への帰化を希望してきた新羅人74人を、武蔵国の閑地に移住させて新羅郡を新設した。
759年 再び。征新羅派は、新羅の傲慢な態度で日本の体面が潰されたとして出兵を訴えた。
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760年 第47代淳仁天皇は、帰化してきた新羅人難民131人を武蔵国に送った。
毎年の如く、新羅人達が関東地方に大挙して移住していた。
関東に於ける、高度な技術を持った朝鮮出身移住者の人口が増加し、土着の日本人の生活圏を脅かし始めていた。
大陸伝来の最新技術や高度な文化が、関東に根付いていった。
朝鮮系帰化人は、集落ごとに古代朝鮮語に由来する地名を残し、祖先を祀る神社を創建した。
関東には、朝鮮人帰化人所縁の神社が数多く残っている。
新羅人渡来人と百済人及び高句麗人帰化人は、東国で対立し、新たな内戦の火種と成っていた。
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762年 唐は、青海周辺を制圧したチベットが侵略してこないようにする為に和を結んだ。
763年10月 チベットは、唐を侵略して長安を占領し、金城公主の兄弟の広武王を皇帝にしたが、長安を荒らし尽くして得る物がなくなるや帰還した。
広武王は、長安を脱出したが唐軍に捕らえられ、極刑は免れたが地方に幽閉されて没した。
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764年 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱。
孝謙太上天皇は、弓削氏出身の道鏡の助言に従い、反藤原派の吉備真備や道鏡らの協力を得て、御璽を取り上げて淳仁天皇を強制退位させた。
後に。恨みを飲んで失意の内に死亡した淳仁天皇を、祟る神・鬼として白峰神宮に祀った。
孝謙上皇は、重祚して第48代称徳天皇となる。
藤原仲麻呂「道鏡の朝廷に仕える様子を見ていると、祖先が大臣として仕えていた過去の一族の栄光を取り戻そうと躍起になっているのだ」
地位と名誉を剥奪された廃帝淳仁天皇は、淡路に幽閉されて、1年後に謎の死を遂げた。
藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱。仲麻呂の勢力基盤は、反天皇的渡来人が多く住む北陸を中心とした日本海沿岸であった。
下級氏族出身の吉備真備は、秦氏や坂上氏ら武装帰化人集団や地位の低いが天皇への忠誠心旺盛な庶民達の協力を得て、北陸へ敗走する仲麻呂を琵琶湖畔で殺害した。
仲麻呂家族全員が、不忠者として女子供に関係なく惨殺された。
仲麻呂は、天皇を越えた皇帝になる寸前で敗死した。
淳仁天皇は、天皇の位を廃され淡路に幽閉され、翌年に逃亡を図って失敗してそのまま逝去された。
孝謙太上天皇は、重祚して称徳天皇となった。
渡来人らは、差別意識の強い日本人の野蛮さと憎悪した。彼らは、日本の片隅で、民族性を守った渡来人だけの独立国家を希望しただけであった。
つまり、天皇・朝廷の影響を受けない、日本色を完全排除した生きる空間を切望したのである。
大陸では、国家の発展に協力した異民族は当然の権利として領土を得て領主となった。国に貢献した異民族が生活する空間として領地を得る事は、ヨーロッパ社会やイスラム世界でも当然の権利とされていた。
渡来人は大陸的常識として固有の領地を求めたが、天皇・朝廷は島国的常識としてその要求を圧殺した。
渡来人らは開放的であり、天皇・朝廷は閉鎖的であった。
渡来人らは、反天皇として、賤民・まつろわぬ民(従わない民)として差別された。
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称徳天皇が皇太子を決めず空位にした為に、皇位継承をめぐる騒動が頻発した。
和気王の謀反。
不破内親王の追放。
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2016年10月5日 産経ニュース「平城宮にペルシャ人の役人が働いていた!! 765年木簡が証明 「国際的知識で登用か」と専門家
木簡に記されていた文字
奈良市の平城宮跡で出土した「天平神護元年」(765年)と記された木簡に、ペルシャ人の役人とみられる「破斯清通」という名前があったことが5日、奈良文化財研究所の調査で分かった。「破斯」はペルシャを意味する中国語の「波斯」と同義で、国内の出土品でペルシャ人を示す文字が確認されたのは初めて。外国人が来日した平城宮の国際性を示す史料となりそうだ。
同研究所によると、木簡は1966年、平城宮跡東南隅の発掘で出土した、役人を養成する「大学寮」での宿直勤務に関する記録。当時は文字が薄いため名前の一部が読めなかったが、今年、赤外線撮影したところ、「破斯」の文字を判読できた。
「大学寮解 申宿直官人事」のほか、下部に、特別枠で任じられた役人を意味する「員外大属」という役職名もあった。
続日本紀には736年、遣唐使が連れ帰った「唐の人三人、波斯一人」が聖武天皇に会ったと記されている。その後、この「波斯人李密翳」に位を授けたとあるが、以降の動向は分からないという。
研究所の渡辺晃宏史料研究室長は「国際的な知識があり、役人として登用された可能性がある。破斯清通が、李密翳やその関係者と考えても年代的におかしくはない」と話している。
来日した外国人には、唐招提寺(奈良市)を開いた唐の高僧・鑑真や、東大寺の大仏開眼供養(752年)を行ったインド僧・菩提僊那がいる。また朝廷に仕えた唐の皇甫東朝の名前が墨書された土器も奈良市の西大寺旧境内から出土している。
木簡は同研究所平城宮跡資料館(奈良市)で開かれる「地下の正倉院展」(月曜休館)で11月1〜13日まで展示される。」
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766年 称徳天皇は、仏教政治を行う為に道鏡を法王に任命した。
神道の神祇祭祀である大嘗祭を、僧侶を参加させる事で仏教と神道の混合で執り行われた。
吉備真備は、宮中儀式に儒教儀礼を取り入れ、儒教奨励を進めた。
天皇の権威は、神代からの神道とインドの仏教と中国の儒教で思想的に強化された。
日本は、シルクロードと海の道を通じて世界と交流し、ヒト・カネ・モノが自由にそして活発に往き来していた。
九州・太宰府は、その玄関口として栄えていた。
豊前国宇佐の地に、仏教と融合した八幡神が宇佐神宮に祀られていた。
769年 道鏡事件。称徳天皇「王を奴にして、奴を王と呼ぼうとも、私の勝手だ」
称徳天皇は、藤原氏の力を削ぐ為に、氏素性に関係なく公職に就けた。
称徳天皇も、藤原氏などの清掃の道具に使われるだけの無力な天皇であれば、むしろ百害あって一利なしとして、中国の様に有能な指導者が天皇になるべきと考えた。
その前例を作る為に、寵愛する道鏡を天皇に即位させようとした。
道鏡は、法王となり天皇と並ぶ存在となったが、さらにその上の皇位に就く事を望んだ。
女性の称徳天皇は、道鏡への愛を貫く為に、君臣の秩序を越えて、道鏡を天皇に即位させようとした。道鏡は、臣下の弓削氏出身であり、天照大神の血筋ではなかった。
ニセ宇佐八幡宮の神託「道鏡を皇位につけたら、天下は太平となる」
仏教勢力は、玄纊や道鏡等を通じて政治に干渉して国政を混乱させ、多くの仏教伽藍を全国に建立して国家財政を疲弊させていた。庶民は、計画性のない仏教振興政策の為の重税によって困窮を強いられ、悲惨な生活に追い込まれていた。過度な理想主義的宗教政策は、百害で得るところは少なかった。
仏教勢力の真の狙いは神道国日本の完全支配であり、その為に、天皇を改宗させて仏教徒にする事、皇族出身者でない僧侶を女性天皇・女性宮家と結婚させて皇室を女系化する事、であった。
世界常識では、国王・皇帝はすべて男系であり、女系は王統・皇統の断絶を意味していた。
道鏡は、渡来人の多い河内地方を本拠地とする弓削氏の出であった。
弓削氏は、物部氏の流れとされていた。
物部氏の祖は、神武天皇よりも早くヤマトに現れた饒速日命(ニギハヤヒノミコト・一説には吉備系の神)である。
ヤマトの豪族達は、古くから出雲系の祟り神である大物主神を祀っていた。
第10代崇神天皇「ヤマトを造成した神」
饒速日命は、ヤマトの豪族達の長・長髄彦の妹と結婚し、入り婿として祀られた。
物部氏は、天皇家よりも古くから大和の地を治めていた由緒ある氏族であった。
島根県大田市:物部神社。
もし。道鏡が天皇となって物部系王朝となれば、日本に数多くの天皇が即位して王朝を開いたことであろう。
そして。中国や朝鮮の様に各天皇が、日本の唯一の正当なる天皇になる為に、日本を中国化させて内戦を繰り広げたであろう。
式家の藤原百川ら貴族層は、皇位を支配下に置いて政治を牛耳ろうとしていただけに、道鏡に皇位を奪われる前に排除すべく陰謀をめぐらせた。
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宇佐八幡の神託「我が国開闢以来、君臣の分定まれり、……天津日嗣は必ず皇胤を立つ。無道の者は速やかに掃蕩すべし」
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称徳天皇は、吉備真備から儒教による革新的な天命思想(易姓革命思想)の講義を受け、天命を受けた者が皇位に継ぐという斬新さに心を奪われ得た。
宣命・28詔「仏の御法を継ぎ広むと念行(おもほ)しまし朕をも導き護ります己が師」
29詔「王を奴とする事も、奴を王という事も、あなた(称徳)の思うままにしなさい、あなたに無礼で従わない人は、皇位に置いてはならない、と聖武天皇は言われた」
31詔「国の安定は、皇太子を置いてこそ得られる、しかし天命を得た人でなければ皇位についても結局滅びてしまう、朕は皇位を一人貪ろうとしているわけではない、天命を受けた人が現れるのを待っているのである」
33詔「皇太子の位は、天地の授けるものである、朕は天地が明らかな瑞徴を授ける人が現れるのを待っている」
41詔「一道に志して菩薩の行を脩(おこな)ひ人を度し導かむと云ふに心は定めています」
45詔「皇位というものは天命がない人に授けても保つことはできない、逆に滅びてしまう、わたし(聖武天皇)が立てた人であっても、あなたが(称徳天皇)が判断して替えることは思うままにしなさい、と聖武天皇は言った」
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現存する世界最古の印刷物は、奈良時代の称徳天皇(718〜70)の発願によって製作された「百万塔陀羅尼」とされている。そして、日本の紙の良質は中国でもつとに有名であったという。
『旧唐書』「(日本の紙は)シルクそっくりで光沢があり、その美しさは中国の誰もが知っている」
さらに、日本の松や杉などの木材も高品質として高値で売られていた。
その他に、真珠・砂金・扇子・日本刀なども高価で取引されていた。
朝鮮は、日本製品を真似して生産し、日本製と詐って安値で中国に売っていた。
中国天台宗僧侶・明空は、聖徳太子が仏教経典を注釈した『三経義疏』 の内の『勝鬘経』に感動して、その解説書として『勝鬘経義藷疏』を著した。
宋の商人・周文徳は、日本天台宗僧侶・源信の『往生要集』を天台山国清寺に寄進した。国清寺の僧侶は、『往生要集』に感激し、源信を大師と崇めた。
日本の文化度は、中国に引けを取らず、儒教を除いた仏教など一部の分野では中国を凌駕していた。
中国では戦乱続きで多くの書籍が消失した為に、日本から貴重な書籍の写本を大金を出して買い戻した。
中国古典の書籍の大半が日本に現存し、その写本が中国や朝鮮に逆輸出されていた。
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天武天皇系は、男子が少なく、女性が多かった。その為に、女性天皇が続いて皇位継承者を失って、天武系の皇統は絶えた。
称徳天皇が子供なくして崩御した為に、朝廷は次期天皇を巡って分裂した。
藤原百川と藤原永手らは、天智天皇の孫・白壁王を推した。
反藤原の吉備真備ら下級氏族出身者は、天武系の皇子を推して藤原勢力を封じようとした。
770年 白壁王が即位して、第49代光仁天皇となる。
吉備真備は、皇位継承問題に破れて引退した。
藤原氏は、反藤原派を懐柔する為に、天武系の皇女・井上内親王を皇后とし、その子の他戸親王を皇太子に据えた。
772年 井上内親王は、巫蠱(人を呪う)を行った罪で皇后位を剥奪された。2ヶ月後。他戸親王も、一味として加わったとして罪に問われて廃太子となった。
百済系の高野新笠の子・山辺王が、皇太子に立太子した。後の桓武天皇である。
773年 井上内親王と他戸親王は、捕らえられて大和国宇智郡に幽閉された。
藤原百川は、井上内親王と他戸親王の記憶が薄れた2年後に殺したが、しばらくは二人の怨霊に苦しんだ。
第49代光仁天皇である。現皇室の始祖である。
皇統は、傍系の天武系から直系の天智系に戻った。
世界中の王家で女王か立つときその王朝は消滅するのが、歴史的事実である。
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*万世一系(直系長子相続)の男系天皇(国體)体制の確立
皇祖神・天照大神(女性神)の『天壌無窮の神勅』「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しくいまし皇孫ゆきて治せ。行ませ。宝祚の隆えまさんこと、当に天壌と興に窮まり無かるべし」
「神の裔」という皇統は、天孫降臨と天壌無窮の神勅から成る天皇中心神話から始まる。
天皇が日本を治めるという「国體」も、日本神話によって生まれた。
日本民族の歴史は、民族宗教である日本神話と共に歩んできた。
日本民族の物語は天皇神話と一体で有り、物語と神話は切り離す事が出来ない。
日本神道は、日本民族のみの固有の宗教である。
日本神道は、神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)を中心とした民族宗教である。
日本神道は、日本民族のみを信者とし、他の民族を信者とは絶対にしない。
日本神道は、日本国土以外には存在しないし、日本国土以外に出ても他民族の信者を獲得して根付く事はない。
日本神道は、敬意を持った儀礼的な参拝を強要するが、信者にしようとする布教活動は絶無である。
日本神道は、排他的な宗教でもなく、他宗教を教義・教理で攻撃する意欲も気力も熱意も絶無である。
日本の全ての神社は、神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)と切り離す事はできない。同時に、神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)の神性を否定する神社は存在しない。
神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)を廃止した時、日本神話は消滅し、日本の八百万の神々も消滅し、民族宗教である日本神道も消滅する。
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大和朝廷は、日本の独立と主権を中国や朝鮮の軍事的圧力から守る為に、神代から続く天皇を中心した歴史を創作して『古事記』(第40代天武天皇〜第43代元明天皇・女帝、712年に撰上)や『日本書紀』(第44代元正天皇・女帝、720年に撰上)を編纂した。
「天孫族である皇祖は、高天原から九州の高千穂に降臨し、東征し、大和で朝廷を開き、倭の国を支配した」
侵略を企む外敵である中国と朝鮮の干渉を排除して統一を維持し、日本を内部分裂の危機から救い、国家崩壊の恐れのある大陸的内戦を回避する為に、暗黙の了解として、「神の血と命」を受け継ぐ血筋としての万世一系の男系天皇制度(直系長子相続)を成立させた。
神の子孫である現人神・男系天皇とは、敵国の外圧を排除し、日本の中国化を防ぐ最後の精神的防波堤であった。
『古事記』にしろ、『日本書紀』にしろ、そして日本神話にしろ、日本国家と日本民族を守ろうとして祖先によって意図的に造られたおとぎ話・神話である。
日本を中国化しようとする国内外の反天皇派勢力は、道徳的支柱である男系天皇(直系長子相続)制度を廃止する為に、『古事記』や『日本書紀』を正史ではなく偽史であり稗史であるとして否定した。
歴代の天皇とその側近が最も恐れたのは、天皇・皇室への無関心ではなく、国益や民族の「心」「志」「まごころ」「良心」を踏みにじり、「個」の利益を優先する裏切り者・卑怯者・売国奴・非国民が出る事であった。
なぜなら、彼らは日本人でありながら無国籍者を気取り、「個」の自分一人が助かり利益・金儲けをする為に、天皇と国家と民族を平然と外敵に売り渡すからである。
天皇・皇室への尊崇が薄らいだ時、外敵に対する日本民族の正当な攻防史は汚され、日本国家は確実にその坂を転げ落ち、そして日本民族は死滅する。
だが、反天皇のマルクス主義者日本人は、天皇が消滅する事を切望し、日本を崩壊させる為に活動を続けている。
『古事記』や『日本書紀』の精神である「皇道」とは、「徳を有した臣下が天命を受けて、徳を無くした皇帝を排除して新たな王朝を開く」という、正統派儒教の「王道」を封じるものである。
正統派儒教とは、「暴力と死」の恐怖支配である一君独裁体制を正義とする思想であり、あやふやな人の心や不可思議な神を信用しない合理的学問である。
東アジアの様な破滅的流血を避ける為に、国家を天孫神話で一つにまとめ上げ、神の子孫である天皇が国政を総覧する仕組みを編み出した。
万世一系(直系長子相続)の男系天皇神話こそが、日本の魂である。
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天皇は、政治・外交・軍事の諸決定を時々の権力者・実力者に委託し、民衆に対して「詔」を発して、核心なき曖昧な良心や道徳などの精神面で希望をのべるのみであった。けっして、理路整然とした目的意識を持った、思想や理念や原則を語る事はなかった。
歴代の天皇は、退位するまで皇居内に軟禁され、自由を奪われていた。
当然、ローマ教皇や中国皇帝や朝鮮国王の様なカリスマ性を持った絶対命令権者ではない。
昔の日本人は、権力や権威を振りかざす相手を胡散臭く思い、すぐには信用せず、威圧的な権威や暴力的な権力には安易に付和雷同的に従う事もしなかった。
だが、「人の良い日本人」は、一度信用すると、安心して盲信した。時に、それが裏目に出て裏切られることもあったが、「お人好しの日本人」は裏切った相手を決して恨まなかった。「気の良い日本人」は、むしろ自分に非があったろうと反省した。
日本の理想的指導者像とは、島国的に民衆を公平にまとめる調整型の個性少ない権力者や有力者の事であり、大陸的に全ての者を強引に導き叛けば皆殺しにする個性の強い独裁者や独裁官ではなかった。
万世一系の男系天皇(直系長子相続)制度とは、国家の崩壊をもたらす絶望的な戦争を避け、民族死滅の恐れのある悲惨な虐殺を防止する為の、日本独自の島国的安全装置であった。
それは、歴史が証明している。
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