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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
森公章(東洋大教授)「古代天皇制 女性を遠ざけ9世紀に確立
中国の皇帝に匹敵するような天皇になったのはいつか。
まず、大王から天皇への大きな飛躍があったのは672年の壬申の乱の後だ。蘇我氏などの有力豪族が没落し、即位した天武天皇が、いわばフリーハンドで国家をつくることができた。だが、天皇家だけで自動的に皇位継承が決まる仕掛けではなかった。権力を行使する際も、中央豪族と協調しながら統治した。
疫病や反乱で混乱した8世紀半ば、聖武天皇は東大寺に大仏をつくり、仏教の力も借りて天皇の地位を守ろうと試行錯誤した。飛鳥・奈良時代を通じて半分以上は女帝の時代で、男性皇太子からそのまま天皇に即位したのは、奈良時代末の桓武天皇が初めてだ。
続く平安時代も、宮殿の北の方に女性を押し込め、政治には口を出させないようにさせた。こうし古代天皇制が確立したのであり、9世紀を画期として捉えている」
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日本は、朝鮮に対する文化や教養や技術を教えて貰ったというコンプレックスを捨て、朝鮮は無いものとして意識せず、国家間の関係を完全に遮断した。
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宮中祭祀、四方拝。元旦の早朝、皇居で、歴代天皇は祭祀王として、無私となって、伊勢神宮や山陵および四方の神々を御遙拝して、「国を災いからお護り下さい。もし災いが降り掛かるときは、私の身体を通してからにして下さい」と国を護る一心の祈りを捧げる。
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奈良時代や平安時代は、唐の律令制度を基として日本独自の制度を採用していた。
宮中には、中国や韓国の王宮で働いていた去勢された男性官吏の宦官がいなかった為に、大臣や公家の妻達が位を得て女官として働いていた。
出仕に当たっては、親や夫の地位や一族の位であったが、出世するのは後ろ盾となっていた親や夫が亡くなってからも方が多かった。
日本では、男も女も家を出て共に働いていた。
伊集院葉子「唐の女官は後宮という隔絶した空間のなかで皇帝の『家』のために奉仕したが、日本の古代女官は、律令によって規定された行政システムの一部」(『古代の女性官僚』 )
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*実力至上主義の東アジア世界
大陸的教養を持つ日本人は、儒教国家の中国や朝鮮は高度な文化を持った先進国と信じ、徳のある聖人君主が支配する平和な理想国家と憧れ、日本をそうした夢の様な国にするべく中国化を目指した。
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唐王朝(トルコ系遊牧民族)は、秦漢時代のままにあった地域的な黄河文明を、世界に通用する高度な中国文明に完成させた優れた世界帝国であった。その完成度ゆえに、これ以降の数多くの王朝は唐王朝ほどの光彩を放つことはなく、文明的にも文化的にも超える事はなかった。
つまり、中国文明として想像されるのは唐の時代である。
文化度の低い周辺諸国は、唐の政治や経済や文化などを学び、その社会機構をそのまま倣う事で自国の文化度を押し上げようとした。
日本も、文化らしい文化を持たず、国とはいえないほどの低レベルな未発達な小さな国で、朝鮮同様に中国からその正統性を承認される事で何とか国としての体面を保っていた。
当時の日本人は、国を整備する為に、法律、政治、経済、軍事、哲学、芸術、科学、技術、医術、農業、道徳などの多方面で多くを中国から学ぶ為に、優秀な人材(大半が、帰化系日本人であり、忠誠心なき渡来人ではない)を中国・唐に派遣した。それが、遣唐使である。
人として「どう生きるか」という宗教的価値観や精神・心の有り様は、人を人と思わない正統派儒教などの排他的倫理や観念的道徳ではなく、慈悲を持っていたわるという情緒的インド仏教から学んだ。日本人の精神的弱さは、心情として、中国・唐よりインド・天竺に憧れたところにある。
盤石と思われた唐王朝も、長らく変化の少ない泰平になれ親しむや、堪え性のない渇欲という中国人特有欲求不満の腐敗と横暴が蔓延り始めた。
自分勝手な行動が目立ち、社会秩序が崩壊し、人心は荒廃した。
民族的な順法精神の欠如から、犯罪が急増し、治安は悪化した。
王族や名門貴族間のいがみ合いや、高級官吏の権力闘争や、地方官吏の不正や横領で、政治は混乱し、財政は逼迫した。
民衆は、汚職に塗れた地方官の収奪にあって貧困化し、重税に絶えきれなくなって流民となって逃亡した。
徳を持って慕われていた皇帝は、血筋だけで皇帝の座にあったが、乱れた社会を正す力を持たず、民衆から見放された。
こうして、栄耀栄華を誇り、滅びる事はないと思われた唐王朝にも衰退の兆しが現れ始めた。
安史の乱(755年〜765年)や黄巣の乱(875年〜884年)や周辺異民族の侵略などで、戦乱に次ぐ戦乱で最盛期の総人口が半数(約3,600万人)近くに激減した。
中国人は、各地で虐殺を繰り返し、人を猟奇的に惨殺す事に快感をえていた。
唐王朝は、救援を期待した臣下の裏切りや、利益に吊られて敵に寝返る者が相次いで、内部から崩壊して滅亡した。
自分の事しか考えない者ほど、醜悪な存在はいない。彼等は、「公」より「個」を大事にし、国家や民族が死滅しようとも意に介さない。現代日本にも、そうした「個」のみを追求する自己中の日本人が急増している。
正統派儒教は、徳を失った者・王朝・皇帝は天に見放されて滅亡し、新たに徳を有した者が皇帝になり王朝を開くべしとした。そして、徳を失った主君を臣下が倒し、臣下が替わって新たな王とあり玉座にをしめる事を理論的に証明した。それが、たとえ異民族でも容認した。
中国では、人種や民族や、身分や家柄に関係なく、実力ある者が剣を振るって皇帝となって帝国を建国した。そして、王朝を1,000年王国にする為に、一族以外の敵対者や、家族以外の邪魔者や、皇位継承者の兄弟を見境なく虐殺した。
中国の、覇道はもちろん、王道も、数多の血で塗られていた。
純然たる中国人・漢族は、中原と言われた黄河流域・黄河文明圏の住人のこを指し、それ以外の揚子江流域・揚子江文明圏などの住人は蛮族と差別していた。
よって、中国人の王朝とは殷、周、漢(高祖・劉邦=農民、小役人、反逆者)、宋(太祖・趙匡胤=地方の節度使、謀反人)、明(太祖・朱元璋=貧民、僧侶、白蓮教の乱の盗賊)などであった。彼等は、実力で皇帝となり、帝国を維持する為に虐殺を続けた。
秦は、黄河流域外の蛮地を支配していた為に中原諸侯から蛮族と差別されていた。隋と唐はトルコ系遊牧民族鮮卑人で、元は北方遊牧民族のモンゴル族で、清は満州民族女真族であった。
4000年ある中国史の内で3分の2近くは、非中国人の異民族の支配下にあった。中国人各王朝は、中国人を異民族からの侵略から守る事を大義として、周辺地域に討伐軍を派遣し、各地で大虐殺を繰り返していた。
病的人種差別主義者の中国人は、異民族は生きている値打ちもない野獣として、集落を襲い、女子供に関係なく見付けしだい皆殺しにした。異民族王朝は、その復讐の為に、中国人で逆らう者は反逆罪・大逆罪で虐殺し、忠誠を誓う裏切り者を誰であれ重宝した。
中国を征服した王朝は、その正統性を宣言する為に、前王朝を否定し、その痕跡を地上から抹消した。前王朝の皇帝陵は、破壊され、高価な遺品は奪われ、遺体は放置された。
さらに、勝者は歴史を改竄し歪曲し捏造した。中国の公式歴史書・正史の大半は、意図的に改竄さっれた偽史であると言われている。
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中国大陸と朝鮮半島は、死屍累々とした、大量の血が染み込んだ恐ろしい大地であった。
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5世紀初頭 秦氏は、半島の動乱を逃れて日本列島に逃げ出してきた人々の子孫であった。
列島における一族の権威を持たせる為に、「祖先は秦の始皇帝である」と出自をねつ造した。
8世紀後半 京の人口の6割を半島出身の秦一族が占めていたが、帰化して、次第にその存在を消していって完全に日本に同化した。
秦氏は、大きく二つに分かれ、東に住み着いた一団が伏見稲荷を造り、西に住み着いた一団が松尾大社を造った。
それ以外にも、大辟(おおさけ)神社、上賀茂神社、下鴨神社、祇園の八坂神社などの神社や広隆寺などの寺院を数多く建立した。
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遣隋使や遣唐使が日本にもたらした中華文化は、当初は貢ぎ物を持っていって手に入れ、後に多額の金を払って買い入れた。
決して、奪ったわけでもなく、盗んだわけでもなく、まして海賊版の様に真似したわけではもない。
日本が輸入した物は、正規の手続きで、裏取引をせず、欺しもせず、値切りもせず、相手の言い値で代金を払い、代金を踏み倒しもせず買い取った物である。
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*開放的な古代日本
花鳥風月を愛おしく愛でる草食系日本人は、ものの哀れという情緒を損なわず、慈しむという情感をそのままに表現できる様に仮字を編み出し、日本人だけが使用する多様性に富んだ日本文字を生み出した。
日本文字が日本文明の根幹であるがゆえに、日本人は日本人しか通じない日本語と日本文字を閉鎖された日本列島で守ってきた。
朝鮮人は、中国の属国として、古代から受け継がれて来た民族言語や朝鮮文字を捨て、中国人になる事に憧れて古典的漢字を無条件で受け入れた。
日本と朝鮮は、中国を中心とした国際化において正反対の道を歩み出していた。
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世界帝国である唐に気兼ねする日本人は、唐皇帝と同格を主張を事は不遜と考えて天皇を王と呼び、皇室を王家と呼んだいた。
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770年 新羅で内乱が起き、国力は衰退した。
多くの新羅人達は、祖国を捨て、逃げるように日本に移住してきた。
自尊心の強い新羅人は、天皇に助けられたにもかかわず恩義を感じず、日本人を野蛮人と見下し、馬鹿にし、軽蔑していた。
百済・高句麗の帰化人は、王族、貴族、政府高官、将軍など家柄が良く、高度な教養と熟練の技術を持っていた。
新羅の渡来人は、家柄が悪く、無学で、技術を持っていなかった。
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774年 蝦夷は、大和王朝の横暴に激怒して陸奧・石巻の桃生城を攻撃した。
蝦夷による東北独立戦争・38年戦争の勃発である。
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779年 第49代光仁天皇は、国是として唐と日本は対等関係を建前としている為に、答礼使がもたらした唐皇帝の国書を御座を降りて受け取った。
新羅は、こまでの対日強硬外交を柔軟外交に改め、日本への服従の証しとして朝貢使を派遣した。
780年 日本は、新羅の廉恥心なく信義を踏みにじる無節操を嫌悪して、正式な遣新羅使の派遣を中止した。これ以降、正式な国交は途絶えた。
新羅国王恵恭王夫妻が、殺害された。
伊治呰麻呂乱。ヤマトに帰順していた蝦夷は、ヤマトの横暴に不満を持って叛乱を起こした。
ヤマトは、対朝鮮政策として、国内統一の為に蝦夷討伐を開始した。
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*平安京遷都
781年 第50代桓武天皇(母親は、百済系帰化人の高野新笠)の御代。日本と新羅との関係は悪化し、この年を最後に両国の公式な外交関係は断絶する。
世界の王族は、全て男系相続であり、女系相続に変わればその王統・皇統は消滅した事になる。
785年 桓武天皇は、天智・天武両朝による暗闘で血塗られ、怨霊に取り憑かれた平城京を嫌い、逃げ出す様に長岡京の造営を命じた。
長岡京造営の長官であった藤原種継が、殺害された。
犯人が捕まり取り調べの結果、首謀者は皇太子である弟の早良親王と大伴家持と判明した。
早良親王は、廃太子されて淡路に流罪となったが、途中で抗議の断食で死亡した。
事件は、早良親王を推して力を付け始めた大伴氏を追い落とす為の、藤原氏による陰謀であった。
桓武天皇は、早良親王の祟りを恐れて、早良親王に祟道天皇と追諡して、崇道天皇社に祟る神・鬼として祀った。
祟られた奈良・飛鳥の地を捨て、山城に新たな都・平安京を造営して移った。
皇位継承問題の政争に敗れ、無実の罪で死罪や流罪になった皇族や公家らの子孫は、正統の皇統を守る為に修験者・山伏となって山野か駆け、還俗して山の民や芸能民となった。
朝廷を支配する藤原氏は、税を納める良民と区別する為に、彼等を四民以下のエタ・非人として差別し、環境の劣悪な地域に押し込めて部落民として隔離した。
エタ・非人ら卑賤の民は部落民として、その時代の権力者に刃向かったが、勤皇の念かっら天皇を敬い皇室の正統を守ろうとした。
日本の部落民差別とは、こうして起きた。
日本の社会差別は、マルクス主義における階級差別とは異質なものであった。
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788年 蝦夷の族長アテルイは、ヤマトの対して叛乱を起こした。
桓武天皇は、大陸に対する備えとして、新たな都の造営と蝦夷討伐による日本平定を国家的大事業と位置付けた。
蝦夷にとって、日本が天皇を中心として統一国家になろうが分裂状態が続こうが、自分達の自由な生活が守られればそれで良かった。
蝦夷の権利を認める事は、東国で増加している朝鮮人移住者の権利要求につながる恐れがあるとして警戒した。
特に。新羅人渡来人の動向が、最も警戒された。
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日本はヤマト王朝、古代氏族勢力、蝦夷、朝鮮系移住者などで分裂していて、今だ統一されてはいなかった。
誰が、日本を統一するかでその後の日本が決定される所であった。
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現代の天皇制度廃止を訴える日本人は、天皇が日本を統一しなければ、日本は中国や朝鮮のように今よりもましいな日本になっていたと確信している。
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789年9月 『続日本紀』 帰化し天皇に忠誠を誓った新羅人で、帰国を希望する者がいれば、不忠者とはせず帰国を許すと決めた。
794年 桓武天皇は、平城京から長岡京をへて平安京に遷都した。
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800年 日本の総人口、600万人。
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802年 カンボジアで、東南アジア最大の大国・アンコール王朝が成立した。
王朝の最盛期は1113年で、王城と霊廟を兼ねたアンコール・ワットが建設された。
タイのアユタヤ王朝の攻撃を受けて衰退し、1431年に首都をプノンペンに遷した。
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803年 日本は、人が好く、物忘れが激しいだけに、かっての新羅の無礼千万な仕打ちを忘れて新羅と国交を回復した。
日本が友好的に振る舞おうとしても、新羅は本心から日本との関係改善を考えてはいなかった。
日本と新羅は、水と油のように交わる事はなかった。
朝廷は、蝦夷を支配する為に陸奥国(岩手県盛岡市)に志波(しわ)城を造営し、約4,000人を駐屯させた。
当時の日本総人口は、約600万人。
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804年 空海と最澄が唐に渡ったとき、国際都市・長安にはペルシャ人(4,000人)の他に多くの外国人が住んでいた。
景教は、大秦寺を拠点としてキリスト教関連の書籍を中国訳して布教活動を行い、中国各地に修道院を建て多くの信者を獲得していた。
805年 怨霊に悩む桓武天皇は、亡者の怨念を御仏の霊験で鎮める為に、毎年春分・秋分の法要を始めた。
怨霊信仰の一つとして、仏教の御彼岸法要が始まった。
怨霊となて厄をもたらす荒魂を鎮めて、神として恵みを与える和魂に蘇生させた。
そこには、邪悪な霊魂は存在しないし、悪魔もいない。
仏教伝来によって、漠然的な黄泉の国に、地獄と極楽浄土、現世とあの世、彼岸と此岸という死後の世界がもたらされた。
桓武天皇は、財政の悪化に伴い、平城京の造営と蝦夷武力討伐を打ち切った。
806(大同元)年3月 第50代桓武天皇が崩御した。
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