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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本と朝鮮には、友好関係などは存在していなかった。
朝鮮は、古代から反日であった。
日本と友好関係にあったのは、親日派の百済と高句麗、そして渤海であった。
親日派の百済人や高句麗人、そして渤海人は、天皇に忠誠を誓って帰化し、日本の発展の為に協力してくれた。
日本人は、帰化した親日派の百済人、高句麗人(埼玉の高麗)、渤海人には感謝している。
日本人と親日派は友人であるが、反日派とは友人ではない。
日本国内の反日派は、暴動や反乱を起こしていた。
李氏朝鮮時代の両班は、統一新羅からの血筋をもって正統な両班としている。
現代の韓国でも、新羅からの血筋を誇る元両班は存在する。
古代新羅は、倭人が建国に協力した王国で、日本とは深い関係にあり、親日的であった。
統一新羅は、唐王朝以降の歴代中国皇帝に臣下の礼を取り、そして日本と敵対する反日派であった。
古代新羅は親日派で、統一新羅は反日派であった。
日本で反乱を起こしたのは、古代新羅人ではなく、統一新羅人であった。
日本に来た古代新羅人は、渡来人ではなく、帰化人であった。
日本が朝鮮半島と友好な交流を持っていたのは古代新羅までで、統一新羅以降の高麗や李氏朝鮮とは友好的な交流は存在していない。
日本が感謝すべき相手は、親日派の百済、高句麗、古代新羅、渤海諸国であり、反日派の統一新羅、高麗、李氏朝鮮ではないし、ましてや反日派の韓国と北朝鮮などではない。
親日派とは身内の等に親しくなるべきであり、反日派とは他人として接するべきである。
中央線半島の歴史は、親日派時代と反日派時代とハッキリと分かれている。
百済、高句麗、古代新羅は、日本と絶えず戦争をしていたが反日派ではない。
統一新羅、高麗、李氏朝鮮は、日本と一度も戦争をした事がないが親日派ではない。
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日本民族は、古代から国内外の反天皇勢力から祭祀王・日本天皇を守る為に戦ってきた。
神の裔・天皇を守る戦いは、日本民族が死滅しない限り続く。
日本民族が守ろうとしている日本天皇に味方する外国勢力は、存在しない。
日本天皇と日本民族は、古代から援軍をよこしてくれる味方が誰もいない孤独な立場に追いやられていた。
日本天皇と日本民族の周囲には、日本天皇を殺し、日本皇室を滅ぼそうとしている反天皇勢力に囲まれていた。
それは現代でも変わらず、未来においても変わる事がない。
日本天皇を巡る壮絶な死闘は、日本天皇を守護しようとする日本民族が根絶やしにされない限り終わる事がない。
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806(大同元)年3月 第51代平城天皇が即位した。
10月 空海は無事帰国し、大宰府に滞在する。
「虚しく往きて実ちて帰る」
空海は、真言密教(ヨーガ・タントラ)を伝え、マントラを使用したヨーガ瞑想も伝えた。
807年 伊予親王の変。式家の藤原仲成と薬子は、他の藤原氏を朝廷から追い落とす為に、南家の藤原吉子と桓武天皇の皇子伊予親王母子に無実の罪を押し付けた。
第51代平城天皇は、母子を逮捕し川原寺に幽閉した。
藤原吉子と伊予親王は、恨みを抱いて服毒自殺した。
南家の藤原氏は、没落した。
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809年 平城天皇は、発病したのは母子が怨霊となって祟っているからと恐れ、尚侍藤原薬子と藤原仲成の反対を押し切って弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位した。
第52代嵯峨天皇(786〜842年。在位809〜823年)の御代における日本の総人口で、半島出身者はその内の3分の1以上であり、彼らは日本の政治、経済、文化、宗教そして軍事をも支配していた。
ゆえに、天皇への忠誠心なき半島系渡来人は、自己中心的に人口に見合った諸権利の獲得を正当行為とした。日本人の心情を無視して、閉鎖的天皇支配を廃止し、日本を広く能力のある非日本人にも開放すべきだと訴えた。彼らは、他人の事を気にせず、自分が自分らしく生きる為に、自分の希望のみを叶えるべく個人的な行動を正当化した。
「個」の夢を実現する為であれば、たとえ平然と「公」を大事にする日本人さえも殺した。
当時の日本人の大半は、学才や商才や職能を持たない教養なき文盲の農耕漁労民で、地方の農山漁村に住み、中央の役人としての位階には無縁であり、任官を望むべくも無い境遇にあった。渡来人とは違って、農耕用の牛馬を飼う事ができないほどの極貧生活を強いられていた。わずかな田畑を一所懸命に耕しても、財を貯めるられないほどの貧民であった。
日本に住む日本人にとって、「天皇への忠誠心」のみを唯一の財産としていた。臣民の義務として、租・調・庸・雑徭(ぞうよう)さらに命の危険のある兵役などの重い負担を負わされ、食べて生きるのがやっとという窮乏生活を営んでいた。
それでも、絶えられなくなった農民は逃亡し、浮浪民として他国に流れ、勝手に僧侶になったり、貴族の家奴になったり、あるいは盗賊となった。
山上億良(帰化人)は、当時の日本人の飢えに苦しむ悲惨な生活を『貧窮問答の歌』(731年)にして残した。
能力のある有能な役人の大半が、半島出身者であった。
半島出身者は、中国人と同じ利己的な大陸人的気質を持っていた。
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嵯峨天皇は、奈良時代の変形唐風律令制が行き詰まった為に、試行錯誤を繰り返しながら改良国風律令制に転換していった。
それが、日本独自の摂政・関白制度である。
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810年 平城太上天皇の変(薬子の変)。退位した平城上皇は、旧都平城京に移った。
嵯峨天皇は、北家の藤原冬嗣らの協力を得て独自の政を始た。
平城上皇は、激怒し、太上天皇には天皇と同様に国政に関与する権限があると主張した。
平安京と平城京とに分かれた、二所朝廷といわれる対立が起きた。
藤原仲成と薬子の兄妹は、平城上皇を復位させるべく兵を集めるが、時遅く失敗した。
平城上皇は、剃髮して出家した。
藤原薬子は毒を仰いで自殺し、式家は没落した。
北家の藤原氏は、摂関家として娘を皇后に入内させ、邪魔になる皇子や皇族を無実の罪で殺害すか流罪にし、天皇の即位と退位を自由に操った。
引退した上皇は、終生、藤原氏の意向に従わねばならず、逆らえばどの様な仕打ちを受けるか分からなかった。
藤原氏は、傀儡天皇が政治力を持つて発言する事を嫌い、飾りだけの木偶人形にしておく為に如何なる権限も与えなかった。
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もし。中臣鎌足が百済王子であるとする俗説に従えば、皇室は朝鮮系渡来人に乗っ取られた事になる。
天皇と皇族は、生殺与奪の権を朝鮮系渡来人に握られて、その顔色を伺う身となりはてていた。
神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)は、祖先神信仰の神道的日本人が尊崇する神聖なる存在なのか?あるいは儒教的渡来人の身分卑しい下僕なのか?
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王制廃止の現代日本人は、祭祀王・万世一系の男系天皇(直系長子相続)制度を一代限りの女系天皇制度に改変し、民族宗教の祖先神信仰と共に廃止しようとしている。
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811年 新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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813年 第52代嵯峨天皇。新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
少数の船団による、日本沿岸での海賊行為は絶える事がなく、その正確な数は不明である。
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816年 空海は、都から遠く離れた高野山に金剛峯寺を創建して、真言密教の道場とした。
真言密教は、日本古来の土着の神々を排斥せず、軽んじる事もなく、神仏を融合して日本独自の仏教を広めた。
日本の宗教には、他の宗教を排除する排他性は薄い。
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空海は、高野山に即身成仏の空間を作った。
最澄は、比叡山に修行の環境を作った。
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820年 弘仁新羅の乱。
天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河・遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
駿河・遠江の兵は、新羅人賊徒の鎮圧に失敗した。
新羅人賊徒は、伊豆の穀物を強奪して海上に逃げた。
朝廷は、渡来人による叛乱が全国各地に飛び火する事を恐れ、相模と武蔵にも鎮圧を命じた。
討伐軍は、新羅人賊徒を追い詰め、殺害し、捕らえた者を処刑して叛乱を鎮圧した。
朝廷は、渡来人達に対して、如何なる理由があろうとも叛乱は許さないとの断固たる態度を示した。
今や渡来人は日本の安全を脅かす脅威でしかなく、日本を守る為には新たな渡来人を拒絶する必要があった。
日本が示した温情は、朝鮮人に踏むにじられた。
如何に心を尽くしても、その心は朝鮮人には届かない事を痛感した。
これ以上の関係を続ける事は、「軒下を貸して母屋を取られる」として朝鮮からの入国を一切遮断すべきであると。
つまり、100年費やしても、1000年辛抱しても、決して朝鮮は日本とは親しくなれないであろうと。
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反天皇派の彼らは、「日本列島は日本人のみの固有のものではなく、そこに住む全ての者のものである」と主張した。そして、優秀民族としての待遇改善、日本人以上の特権、民族の自主独立、新羅及び倭・日本連合王国の建国を当然の権利として求めた。
だが、反乱軍は、半島の新羅本国からの軍事支援を受けられず、臣下として見下していた高句麗系や百済系の帰化人集団が味方しなかった為に敗北した。
新羅系渡来人は、教養のない日本人とは別の優秀な民族であり、大陸的高度な教養を有している優れた民族という自意識があった。故に、同じ価値観を持つ民族だけで一つの場所に集まって、天皇の支配が及ばない土地に独自の民族国家を創る事を希望した。そして、同じ民族として半島と協力し合って、日本人に煩わされない理想的な連合体を築こうと夢見た。彼らは、民族的悲願であるその夢・希望を実現させるべく、天皇の支配に終止符を打ち、日本を開放する闘争を全国で繰り広げたのである。
東国の大地には、半島出身者の「火病(ファビョン)」による「恨(ハン)」や「怨念」や「憎悪」が渦巻いていた。
新羅の水軍や海賊の混成船団は、度々、九州から東北の沿岸を襲撃し虐殺と略奪と日本人拉致を行っていた。
だが、朝廷軍・官軍の主力は国内各地で起きている反乱や暴動を鎮圧する為に転戦を余儀なくされていて、軍隊を半島の海賊討伐に廻すゆとりがなかった。
つまり、国内の安定を重視した為に、沿岸の住民は「棄民」として見捨てられたのである。
沿岸の住民は、朝廷からの援軍をあてにせず、半島の凶悪な海賊から村を守る為に結束して武装し、自衛目的の海賊を組織した。それが、後年、悪名高い犯罪集団「倭寇」となった。
当時の日本人は、中央の助けをあてにせず、武器を持って自分の事は自分で守るという闘争心が旺盛であった。政府をあてにする現代の日本人とは、精神力はもちろん、分析力と決断力と行動力においても雲泥の差があった。
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武装した日本人の悪党は、新羅人との話し合いを拒否し、新羅人と見れば問答無用に虐殺した。
新羅人は、血に飢えた日本人を悪魔として嫌悪し、日本に中国式王道を広げようとした。
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ヤマトは、中国や朝鮮から日本を守るべく、日本を統一する為に追討軍を四方に派遣した。
反大和勢力は、天皇の支配を嫌い、ヤマトを故郷から追い出し、独立を守る為に武器を取って戦った。
日本が、万世一系の男系天皇(直系長子相続)のもとで統一国家といて生き残るか、分裂して消滅するかの関頭にあった。
万世一系の男系天皇(直系長子相続)が支配するヤマトによる日本統一は、どうしても必要であった。
万世一系の男系天皇(直系長子相続)は、日本を一つにまとめる為には必要不可欠であった。
ヤマトには、日本には、万世一系の男系天皇(直系長子相続)が必要であった。
帰化人は、帰る国が滅亡した為に、ヤマトに忠誠を誓って戦った。
渡来人は、帰る国がある為に、ヤマトを否定して戦った。
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神道的日本人は、人を疑うという事をせず、単純に人を善人であると信じ切っていた。
昔の日本人は、人が好いだけに認識が甘く、楽天的に中国人や朝鮮人を信じ切っていた。
日本人の精神構造は「甘え」で、人は利益の為なら平気で裏切るという事が理解できず、人は自分勝手で悪人に変わるかもしれないと疑う事が苦手であった。
日本人は、情緒的な甘えから「性善説」を信じていた。
中国人や朝鮮人は、合理的現実主義から「性悪説」を信奉していた。
日本人と中国人・朝鮮人は、水と油の関係で、友好的に交わる事はありえない。
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821年 唐は、チベットと激しく戦ったが連戦連敗でやむなく平和条約を結び、国境線を定めた石碑を建てた。
中国にとって、チベットはモンゴルと同様に他国で、手強い強敵として絶えず侵略され甚大な被害を受けていた。
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822年 日本最古の仏教説話集である「日本霊異記」がまとめられ、当時の庶民の生活や多様な職業や社会の様相が生き生きと描かれている。
各地の寺院で市が立ち、商人が全国から特産品を持ち寄って銭で売り買いし、金を扱う僧侶や女性達は銭の貸し借り行っていた。
日本は、物流網が整備されていた為に、農業だけではなく商業、金融や各種家内工業による地場産業も盛んに行われていた。
初期荘園において、荘園の百姓は資金力を付ける事によって荘園主に対して自己主張していた。
荘園主達は、百姓を押さえつけると収益が下がり経営が成り立たなくなる為に、敵対しないように細心の注意を払っていた。
朝廷は、各地に国司を派遣して百姓から納税物を得ていたが、強権を持って取り立てる事は極力差し控え、災害が発生すれば課役を軽減した。
国司は、支配地の高齢者や障害者に対して公的扶助を行い、飢饉するや米や塩などを放出して救済し、疫病が蔓延したり怪我人が出れば施薬院や悲田院を設けて治療に当たった。
光明皇后の慈愛の精神が全国津々浦々に行き渡り、皇道が日本風土に染み込んでいた。
祭祀王・天皇の霊威が、日本を包み込んでいた。
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823年 最澄(伝教大師)は、天皇から、比叡山の一乗止観院(創建788年)の寺号に延暦寺を賜った。
最澄「一隅(いつぐう)を照らす 此れ即ち国宝なり」
中国とも朝鮮とも異なる、日本独自の仏教の始まりである。
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