✲65〕─2─統一新羅の日本侵略と虐殺・略奪・強制連行。日本は加害者ではなく被害者であった。〜No.202   @      

海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書)

海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書)

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 韓国の歴史学は、ハングルで書かれた現代の資料を重視し、解読不能な漢文で書かれた李氏朝鮮以前の古い史料は軽視して、都合の悪い事実は歴史の闇に葬った。
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 日本の歴史は事実で、中国の歴史は政治で、韓国の歴史は架空の理想である。
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 時代考証は、日本の歴史は忠実であり、中国の歴史は改竄・捏造・歪曲であり、韓国の歴史はあって欲しいと創作する。
 その為に、日本の歴史はせせこましく退屈であが、中国の歴史は痛快娯楽であり、韓国の歴史は愉快で楽しい。
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 親日知日派は、百済高句麗、古代新羅渤海
 反日・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮
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 帰化人と渡来人とは違う。
 帰化人は、日本天皇・日本国・日本民族の味方である。
 渡来人は、日本天皇・日本国・日本民族に関心を持たないか敵であった。
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 反天皇反日帰化人は、日本国内で不穏な行動をとっていた。 
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 新羅の入寇 
 新羅の入寇(しらぎのにゅうこう)は、古代朝鮮半島に栄えた王国、新羅の流民や帰化人による犯罪及び新羅王の勅命による国家規模の海賊行為等の総称。かつては「新羅の賊」と呼ばれた。新羅寇とも言う。
 新羅の国内の混乱により、811年から新羅が滅亡する935年までの間に、度々、新羅の賊が日本各地を侵した。本項では新羅滅亡以後の賊徒侵攻についても概説する。
 概要
 新羅南部の沿海の流民あるいは海賊とみられる者たちが、8世紀以降かなり頻繁に対馬や北九州を襲った。しかしその中には組織的な大集団も多く、国家または強大な豪族の関与が疑われるものも多い。
 なお平安中期まで日本では「高麗」といえば渤海国東丹国)を指したため、朝鮮半島の高麗成立以後も11世紀半ば過ぎまでこれを区分するために「新羅(の賊)」という称も用いられた。
 新羅の賊が発生した理由としては、『三国史記新羅本紀の記述から、745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生し、社会が疲弊していたことが指摘されている。755年には新羅王のもとへ、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった。このときに、九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた。
 しかし、その移民の数が多いため、天平宝字3年(759年)9月、天皇太宰府に、新羅からの帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよとする勅を出した。翌年には、帰国を希望しなかった新羅人131人を武蔵国に送還した。
 また当時新羅新羅下代から後三国時代につながる混乱期であって、慶州を中心とする王権は地方まで十分に及ばず、民衆は重なる政治混乱にも苦しんでいた。唐とは友好関係であったが、それ以外の周辺国である日本や渤海などとは断交していた。一方日本は、渤海とは友好的であったが新羅との仲は険悪であった。
 日本では、白村江以来、唐・新羅合従連衡による日本侵略を恐れていたため、新羅の行動はきわめて挑発的にみなされた。ただし、これらの海寇は全面戦争に波及せず、唐は中立を守ったものの、日本側は大きな自制を強いられていた。

 前史
 「新羅#日本との関係」および「三韓征伐」を参照
 三国史によると、新羅建国時から日本による新羅への軍事的な侵攻が度々記述されている。多くの場合日本側が勝利を収め、新羅側は食料・金銭・一部領土等を日本に割譲した。なお新羅建国の王族の昔氏が倭人とされる。また、新羅の重鎮には倭人も登用されていたと考えられ、三国史記には新羅への数千人規模の倭人渡来の記述が見受けられる。
広開土王碑によれば、「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅新羅を破り、臣民となしてしまった。〉とあり、上代の時期に一時期とはいえ日本の属国になっていたことが伺える。
 日本では4世紀後期ごろからは東晋など南朝への交易がみられるようになり、その後南朝へは5世紀末頃まで断続的に行われた。これが『宋書』に記された「倭の五王」であり、讃、珍、済、興、武という5人の天皇(王)が知られる。宋書の中で倭の王(天皇)について「使持節都督、倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」(日本・朝鮮半島南部)の支配者として「安東大将軍」と称しされている。

 朝鮮遠征。
 三韓征伐(新羅征伐・遠征)においては神功皇后の存在の有無はともかく、倭国から新羅朝鮮半島)への大規模な軍事侵攻があったことは朝鮮や中国の資料からも現在確認できる。

 大化の新羅の賊
 兵庫県朝来市の赤淵神社に伝承する『神社略記』によると、大化元年(645年)に表米宿禰命(ひょうまいすくね)が丹後・白糸の浜に来襲した新羅の賊を討伐した。沈没しかけた船を、大海龍王が、アワビの大群を用いて救ったと伝わる。赤淵神社は日下部氏が奉祭する。
 663年(天智2年)8月には、倭国百済の救援のため、朝鮮半島で唐・新羅連合軍と白村江の戦いを戦うが、敗北する。
 天智天皇7年(668年)、新羅の僧沙門道行が草薙剣を盗みて新羅に逃げ向く。而して中路にて雨風荒れ、迷いて帰るという草薙剣盗難事件が発生している。

 遣新羅使新羅による日本への朝貢
 「遣新羅使」を参照
 668年以降、日本は遣新羅使を派遣している。天武天皇の即位から780年まで、日羅関係の情勢に応じながらも遣日本使が30回以上送られている。
 672年の壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇。在位は673年?686年)は、親新羅政策を採った。また、次代の持統天皇(在位690年?697年)も亡夫の天武天皇の外交方針を後継し、同様に親新羅政策をとったが、新羅に対しては対等の関係を認めず、新羅が日本へ朝貢するという関係を強いたが、新羅は唐との対抗関係からその条件を呑んで日本への朝貢関係を採った。

 帰化
 日本からは高句麗に学問僧など留学生が派遣された。持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。帰化人の総数には日本から新羅帰化していた倭人も含まれる。また天皇により新羅人の帰国が奨励され、半島に帰還するものに対しては食料が配布された。
 「東国#開発」を参照
 持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)には帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される、天平5年(733年)。

 「王城国」改称問題
 しかし、新羅が国力を高めて、735年(天平7年)日本へ入京した新羅使が、国号を「王城国」と改称したと告知したため、日本の朝廷は無断で国号を改称したことを責め、使者を追い返した。
 両国関係は、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、日本があくまで従属国扱いしたことにより悪化した。なお、当時、渤海が成立し、日本へ遣日本使を派遣していることも背景にあるとされる。

 阿倍継麻呂と疫病
 翌736年(天平8年)には遣新羅大使の阿倍継麻呂が新羅へ渡ったが、外交使節としての礼遇を受けられなかったらしく、朝廷は伊勢神宮など諸社に新羅の無礼を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を大宰府に止めて帰国させ、入京を許さなかった。
 また、阿倍継麻呂は新羅からの帰国途中に病死し、残された遣新羅使の帰国後、平城京では天然痘とみられる疫病が流行った。当時、この疫病が新羅から持ち込まれたと信じられた。 だが、随員の雪連宅満は新羅到着前に既に病没していること、『三国史記』でも遣新羅使新羅到着前後から聖徳王を含めた新羅側要人急死の記事が現れていることから、遣新羅使出発段階で既に感染者がおり、その往復によって日羅両国に感染が拡大した可能性も指摘されているが、雪連宅満の死因が天然痘と推測できるものはなく、当時「持ち込まれた」とされたことからも、それが天然痘であるかの判断はともかく、使者の帰国前までは同様の症状の疾病は国内に流行していなかったことが推測されるのみである。
 
 金泰廉による日本への朝貢
 752年(天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、日本へ朝貢した。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を持ち込んだと推定されている。この際は王子による朝貢であり外交的には日本に服属した形となった。朝貢の形式をとった意図は明らかではないが、唐・渤海との関係を含む国際情勢を考慮し極度に緊張していた両国関係の緊張緩和を図ったという側面と交易による実利重視という側面があると見られている。金泰廉は実際の王子ではないとする研究が一部で出されているが、王子の朝貢を演出することによってより積極的な通商活動を意図していた説には確証は無い。

 長安での席次争い
 翌753年(天平勝宝5年)には長安の大明宮で開催された唐の朝賀で遣唐使大伴古麻呂新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる。この際唐は日本側の新羅が倭の従属国であった事実を受け入れ新羅を下位においた。この年の遣新羅大使は、新羅で景徳王に謁することが出来なかった。

 藤原仲麻呂新羅征討計画
 天平宝字2年(758年)、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。天平宝字3年(759年)新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇仲麻呂との不和により実行されずに終わる。
 「藤原仲麻呂」および「新羅征討計画」も参照
 朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、人質の献上や朝貢を受けるなどし、従来から新羅を属国と見なして来た日本(『隋書』倭国伝は、新羅倭国を敬仰して、使いを通じていたと記している。)は激しい反感を持ち、その様子は、藤原仲麻呂恵美押勝)が渤海の要請により新羅討伐計画を立ち上げた際の主張である、「新羅が属国であるにも関わらず日本に非礼であるためとしている」に伺える。

 御調朝貢
 8世紀の終わりに新羅の国内が混乱すると、再び日本に慇懃な態度をとるようになり、宝亀10年(779年)、新羅は日本への服属を象徴する御調(みつき)を携え使者を派遣した。この調は、日本が新羅に要求し続けた念願の品であった。
 また、新羅の混乱により多数の難民が日本列島へ亡命し、大量に帰化を申請する事態が発生するが、日本側は、「蛮国」の人民が天皇の徳を慕って帰化を願うことは、日本における中華思想にかなっていたため、帰化を許可した。
 
 遣新羅使停止
 しかし、翌790年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった。しかし民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、唐・日本・新羅商人により、日本の文物を唐・新羅へ、唐・新羅の文物を日本へ、と運んで交易に励んだ。そのため、三国の情報は比較的詳細に交換されていた。有名な新羅商人に張宝高がいる。

 弘仁新羅の賊
 弘仁2年(811年)12月6日、新羅船三艘が対馬島の西海に現れ、その内の一艘が下県郡の佐須浦に着岸した。船に十人ほど乗っており、他の二艘は闇夜に流れ、行方が分からなくなった。
 翌12月7日未明、灯火をともし、相連なった二十余艘の船が島の西の海中に姿を現し、これらの船が賊船である事が判明した。そこで、先に着岸した者のうち五人を殺害したが、残る五人は逃走し、うち四人は後日捕捉した。そして、島の兵庫を衛り、軍士に動員をかけた。また遠く新羅朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告された。大宰府は、事の真偽を問う為に新羅語の通訳と軍毅等を対馬島へ派遣し、さらに旧例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管内と長門・石見・出雲等の国に通知した。
 弘仁4年(813年)2月29日、肥前の五島・小近島(小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸した。新羅の賊は島民9人を打ち殺し101人を捕虜にした。この日は、基肄団の校尉貞弓らの去る日であった。
 また、4月7日には、新羅人一清、清漢巴らが日本から新羅へ帰国した、と大宰府から報告された。この言上に対して、新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例により処置せよと指示した。
 事後の対策として通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように来寇する新羅人集団を尋問できるようにし、また承和2年(835年)には防人を330人に増強した。承和5年(838年)には、796年以来絶えていた弩師(どし)を復活させ、壱岐に配備した。弩師とは、大弓の射撃を教える教官である。

 弘仁新羅の乱
 弘仁11年(820年)2月13日、遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。
 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。賊は伊豆国穀物を盗み、船に乗って海上に出た。 しかし、相模・武蔵等七国の援兵が動員され追討した結果、全員が降服した。
 帰化人には口分田と当面の生活費が与えられたが、かれらはおそらく博多などに土着して本国と違法な交易を目論んでおり、それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みしたものと推定される。
 乱後処理として弘仁14年(823年)に若くして気鋭の藤原衛遠江守に任ぜられる。衛は穏やかで落ち着いた統治を行い、百姓達も喜んだ様子であったとされる。

 山春永らの対馬侵攻計画
 貞観8年(866年)には、肥前基肄郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)・藤津郡領葛津貞津・高来郡擬大領大刀主・彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人と共謀し、日本国の律令制式の弩の製法を漏らし、対馬を攻撃しようとした計画が発覚している。

 貞観の入寇
 貞観11年(869年)6月から、新羅の海賊、艦二艘に乗り筑前那珂郡(博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。追跡したが、見失ったと『日本三代実録』に記録があり、また「鄰國の兵革」、隣国である新羅の戦争(内戦)のことが背景にあるのではないかと卜(うらない)が伝えたとある。
 9世紀半ばには、五島列島に唐や新羅の商船が寄港する基地があり、新羅海賊もここを経由して博多を襲撃したとみられている。
 また、同年の貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日)には、貞観地震や肥後で地震が発生している。
 「貞観地震」も参照

 日本三代実録の記録
日本三代実録』巻十六、貞観十一年(869年)六月十五日条から十八年三月九日条。新羅の賊の博多への入寇と、その後の対策該当箇所。
 中略
 
 日本側の対応
 これに対し政府は囚人を要所に防人として配備することを計画したり、沿海諸郡の警備を固めたほか、内応の新羅商人潤清ら30人を逮捕し放逐することに決め、賊徒を射た「海辺の百姓五、六人」を賞した。その後、新羅に捕縛されていた対馬の猟師・卜部乙屎麻呂が現地の被害状況を伝えたため、結局大宰府管内のすべての在留新羅人をすべて陸奥などに移し口分田を与えて帰化させることに定めた。このとき新羅は大船を建造しラッパを吹き鳴らして軍事演習に励んでおり、問えば「対馬島を伐ち取らんが為なり(870年2月12日条)」と答えたという。

 藤原元利万侶の反乱計画
 また現地の史生が「新羅国の牒」を入手し、大宰少弐藤原元利万侶(ふじわらのげんりまろ)が新羅国王と内応して反乱を企ていたことが発覚する。

 国防体制
 870年2月15日、朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備する。また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚すなわち律令国家に服属した蝦夷を配備した。これらの国防法令は『延喜格(えんぎきゃく)』に収められ、以後の外交の先例となった。
 また、伊勢神宮石清水八幡宮、香椎、神功陵などに奉幣および告文をささげ、「わが日本の朝は所謂神明の国也。神明の護り賜わば何の兵寇が近く来るべきや(日本は神の国であり、神の守護によって敵国の船は攻め寄せない)」と訴えた。こうして新羅を敵視する考えは神国思想の発展へとつながっていった。また、神功皇后による三韓征伐説話もたびたび参照されるようになる。
 貞観12年(870年)9月、新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奧国に配する。
 また貞観14年から19年にかけて編纂された『貞観儀式』追儺儀(ついなのぎ)では、陸奥国以東、五島列島以西、土佐国以南、佐渡国以北は、穢れた疫鬼の住処と明記されている。こうして対新羅関係が悪化すると、天皇の支配する領域の外はケガレの場所とする王土王民思想も神国思想とともに形成された。
 また、貞観の入寇の三年前の貞観8年(866年)には応天門の変が起こっており、こうした日本国内の政権抗争と同時期に起こった貞観の入寇などの対外的緊張の中で、新羅排斥傾向が生み出されたとされる。

 寛平の韓寇
 『日本紀略』『扶桑略記』寛平5年(893年)および六年(894年)の条にみえる熊本、長崎、壱岐対馬にかけての入寇とその征伐の記録。
 893年5月11日大宰府新羅の賊を発見。「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。又た、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」。
 翌894年4月、対馬島を襲ったとの報せを受ける。沿岸国に警固を命じ、参議藤原国経を権帥として下すなどを定めたが、賊は逃げていった。この間遣唐使が定められたが、一説に唐の関与を窺うためであったともいう。同年9月19日、大宰府の飛駅(はやうま)の使が突如征伐の成功を伝え、遣唐使も中止された(翌年9月にも壱岐島の官舎が賊のため全焼したことを伝えているが、これはおそらく本年度のこととみられる)。
 寛平6年(894年)、唐の将軍も交えた新羅の船大小100艘に乗った2,500人にのぼる新羅の賊の大軍が対馬に侵攻を始めた。
 9月5日の朝、対馬守文屋善友(ふんやよしとも)は郡司士卒を励まして賊徒45艘を弩をかまえた数百の軍勢で迎え撃った。雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺した。賊は計、300名を討ち取った。また、船11、太刀50、桙1,000、弓胡(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。
 捕虜がいうには、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。その全容は大小の船100艘、乗員2,500、逃げ帰った将軍はなお3人いて、特に1人の「唐人」が強大である、と証言した。
 翌年の寛平7年(895年)にも、新羅の賊が壱岐を襲撃し、官舎が焼かれた。

 延喜の新羅の賊
 天健金草神社の社伝には、延喜六年(906年)七月十三日、隠岐国の坤方から猛風が吹き、天健金草神の託宣があった。 「新羅の賊船が北海にあり、我、彼の賊を追退せんがため大風を吹かせた」その後、帆柱等が流れ着き、神威の大きさを知らしめた。と伝えられている。

 長徳の入寇
 長徳三年(997年)、高麗人が、対馬肥前壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。

 『百練抄』にはすべて「高麗国人」とあるが、『紀略』は南蛮の賊、奄美島人という『小右記』にみえる報告書の説を採って統一している。現地でも混同があったようだ。
 同年11月に政府は南蛮の討伐を、翌9月には貴駕島に命じて南蛮の捕縛を求めた。この貴駕島は近年律令式建物遺構が発見された奄美・喜界島と推定されている。南海の法螺、夜光貝、硫黄などは日本の重要な交易物であり、薩摩が被害地に加わっていることから出入りの多い南蛮以外に考え付かなかったのだろう。
 被害の全容が筑前筑後薩摩壱岐対馬、と報告されているところから見ても奄美島人の単独行為とは思われず、数百人の拉致も前例がない。寛平の韓寇と酷似しているほか、長保3年(1001年)にも高麗人の海賊行為が見られる。
 藤原実資の「小右記」当該記事の頭書(見出し)に高麗国の賊、としていることについて、後に全て高麗の所業と判明したためにこのような頭書が書かれた、とする説がある一方、歴史作家の永井路子は、陰険な性質で反道長派の実資が、報告を受けたときの道長たちのあわてぶりを克明に記していることから、そのことへの当てこすりとしてわざと「高麗の賊」との見出しをつけた(たかが奄美の賊に攻められた程度でなんとみっともない、という皮肉)、という見解を示している。 もっとも藤原行成の「権記」の該当部分ではかなり深刻な事態であった様子が記されており、蔵人頭の行成と参議の実資ではかなり異なる受取り方をしている。
 貞観五年(863年)に丹後国にやってきた54人は「新羅東方の細羅国人」と主張した。また1093年には「海賊船」を拿捕し真珠、水銀、硫黄、法螺などの貨物を接収し宋人と日本人の乗員を奴隷にした、と記録している。これらはすべて日宋交易における日本産の有力な交易物なので「海賊船」として拿捕したというのは単なる口実だとも考えられる。

 影響
 すでに貞観の韓寇にたいする奉幣祈願の文に「我が日本の朝は所謂 神明之国なり」という思想がみえ、神風による非戦の解決が唱えられているのが注目される。延喜3年7月には隠岐国に託宣があり、神風が賊船を漂没させたという風聞が行われている。また「?爾(サイジ)たる新羅、凶毒狼戻なり」「新羅人、奸を挟(いだ)くこと年久しく、凶毒未だ悛(やま)ず」など、韓寇を非難するさまざまな言辞がみられる。
 被害地では新羅人への反感も高まり、承和元年(834年)には「百姓、之を悪(にく)み彎弓で射て傷つく」などと在留者への暴力まで発生した。これに対し朝廷では「新羅人の来航を全面的に禁止すべき(藤原衛)」などの少数意見もあったが、徳を慕って来日する者に「仁恕」を示すべきとの意見が多数を占め、賊虜を放還するなど中途半端な対応を重ねた。
 大宰府の府官による討伐は、封建武士の成長が遅れた九州において、健児クラスの武人を極端に成長させることはなかったが、後世少弐氏など府官の名目を持ち外交権の一部を管掌する特異な武士の成長を促した。
 朝鮮側の諸史料は後世に再編されたものではあるが、新羅寇の記録はまったくなく、逆に新羅倭寇に苦しんだとか日本に人質をもとめられた等の被害記事が多い。しかしいずれにせよ、朝鮮半島で後三国時代の混乱が高麗国の成立によって一旦治まると新羅寇の記録は日本側の史書で見えなくなる。
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 新羅(前57年-935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。
 朝鮮の歴史区分では、新羅高句麗百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代新羅朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代、新羅から後高句麗後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。ただし、韓国では渤海を朝鮮の歴史の一部としているため、新羅渤海が並立していた7世紀終盤以降の時代を南北国時代としている。
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 概要
 『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。
 6世紀中頃に半島中南部加羅諸国を滅ぼして配下に組み入れた。唐が660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした時には、新羅は唐軍指揮下で参軍した(羈縻支配)。その後、唐が吐蕃と戦争を始めると、反乱を起こして旧百済領全土と旧高句麗の南半分を統治する唐の役所を襲撃して官員を殺戮し(唐・新羅戦争)朝鮮半島中南部を統一した。首都はほぼ金城(現在の慶尚北道慶州市)にあった。9世紀末には新羅の国力は衰え、百済高句麗の再興を図る勢力が出て後百済・後高句麗との鼎立による後三国時代となり、最終的には後高句麗から起こった高麗に帰順して新羅は滅亡した。
 新羅の歴史は、『三国史記新羅本紀・敬順王紀に記されるように、始祖から第28代真徳女王末年(654年)までを上代、第29代武烈王(金春秋)即位から第36代恵恭王末年(780年)までを中代、第37代宣徳王から滅亡までを下代と分類する。
 呼称
 当初の「斯蘆」という文字の発音は現代日本語では「しろ」、現代朝鮮語では「サロ」だが、漢字の上古音では「シラ」である。
 日本語では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だった。万葉集新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音である。これは元来「新羅城」の意味であり、新羅の主邑を指す用語が国を指す物に変化したのではないかという説がある。

 前史
 建国年
 韓国の国定教科書では建国神話にもとづいた紀元前57年説を採用している。この点について、日韓歴史共同研究委員会メンバーである井上直樹は、「新羅の場合も『(中学校用)国史』『(高等学校用)国史』ともに紀元前57年とする。これは『三国史記』に基づいたものであるが、『三国史記』が当該期の政治的意図から新羅中心に編纂され、新羅の建国時期を意図的に高句麗以前に設定したと考えられていることを前提とすれば、その内容を史実かの如く、教科書に記載するのは問題であろう」と批判する。中国史料に確認できる新羅の初出記事は、『資治通鑑』巻104・太元2(377年)年条に高句麗とともに前秦朝貢した記事が伝えられ、百済と同様4世紀に成長をとげ、国際舞台に登場する。史実と神話の不整合さは教科書執筆者も認識していたらしく、「『三国史記』には新羅高句麗百済の順で建国されたとあるが、中央集権国家の形成ははやくから中国文化と接触していた高句麗がもっとも早い。」として、中央集権化の形成時期をもって解消しようと試みる。この場合、新羅はもっとも早くに建国されたにもかかわらず、中国との接触が遅れたために中央集権化が遅れたことになり、中央集権化において外的要因が大きく、内的要因は重視されなくなる。従って朝鮮史は常に中国によって他律的に動かされてきたという他律性史観となり、それを重視するのであれば問題ないが、もっとも早く建国したはずの新羅がもっとも遅れて中央集権化したのかという問題が付きまとう。
実際に、新羅が歴史上にあらわれるのは、『三国史記』で物語るよりも、はるかにあとの 時代であり、中国史料では、高句麗百済新羅の順で歴史が古くなる。『三国史記』が高句麗の建国よりも新羅の建国が先なのは、著者の金富軾が、慶州出身で新羅王家の一族だったためである。金富軾は、新羅王家の一族だったが、高麗王家に仕えて、平壌が高麗から独立した反乱を鎮圧して武勲を上げた。『三国史記』を書いたのは、高麗王家の母方の系譜を書き換えて慶州金氏の自分の一族の血が入っていることを主張するためである。『三国史記』が新羅の建国年を紀元前57年からはじめたのは、紀元前108年に、漢の武帝朝鮮半島に漢四郡を設置して、昭帝が紀元前82年に朝鮮半島南部の真番郡を廃止した。それで、新羅が起こる慶州方面が中国領土ではなくなった。それからあとの最初の甲子の年、六十干支の最初の年が紀元前57年となる。『三国史記』が、新羅の建国年を紀元前57年に設定したのは、それ以前は朝鮮半島全部が前漢武帝に征服されていたから、それと衝突する時期に建国年を設定できなかった。金富軾は、可能なかぎり古い時代に、新羅の建国年を置こうとしたが、紀元前57年がテクニカルな限界であった。

 斯蘆国の時代
 3世紀ごろ、半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。辰韓の「辰」は斯蘆の頭音で、辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなしたものと見られている。
 4世紀から5世紀にかけての新羅百済は、高句麗に比べて、国力も領土も弱小であったことに注意すべきであると武光誠は指摘している。当時、新羅領土の2倍である百済があった。また、新羅にとっては北九州と中国・四国・近畿地方、更には朝鮮半島南部までもを領有していた大和朝廷も脅威であった。

 朝貢・服属に関して
 帰属に関する歴史論争の詳細は「東北工程」及び「辰韓」も参照。
『太平御覧』で引用する『秦書』には、377年に前秦に初めて新羅朝貢したと記されており、382年には新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)の朝貢が行われ、その際に新羅の前身が辰韓の斯盧国であることを前秦に述べたとされる。この「楼寒」については王号の「麻立干」を表すものと見られ、該当する王が奈勿尼師今に比定されている。記述から奈勿尼師今の即位(356年)が新羅の実質上の建国年とも考えられている。梁の職貢図では、あるときは韓の属国であり、あるときは倭の属国であったと記述されている。
 中略
 また、広開土王碑や中原高句麗碑には、時期によって倭、高句麗によって支配を受けていたと書かれている。

 「秦韓」と秦の移民政権問題
 中国政府のシンクタンクである中国社会科学院新羅について「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している。また、中国の歴史学者の李大龍は、新羅の前身である辰韓は秦韓とも呼ばれ、中国の秦の人が建てた国だから、新羅は中国民族が建てた国だと主張している。
 なお、『後漢書』巻85辰韓伝では、以下のように記載される。
 中略

 建国神話
 千里馬。大陵苑(テヌンウォン)、天馬塚(チョンマチョン)から出土、5-6世紀頃、国立中央博物館所蔵、慶州。
 『三国史記新羅本紀によれば、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系があること、そしてそれぞれに始祖説話を持っていることが伺える。新羅はこの3王統により何度か王朝交代が起きており、それぞれの王統が王位を主にしめていた時代を朴氏新羅(初代赫居世居西干?)・昔氏新羅(57年・第4代脱解尼師今?)・金氏新羅(356年・第17代奈勿尼師今?)と呼ぶ。なお、昔氏新羅時代に初代金氏の王である第13代味鄒尼師今が、また金氏新羅時代には第53代神徳王から3代だけ朴氏から王が出ている。

 朴氏の始祖説話
 朴氏初代の朴赫居世
 辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。建国時に腰に瓠をぶら下げて海を渡って来たことから瓠公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になった。また、瓠公が、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と朴赫居世を同定する、またはその同族とする説がある。朴赫居世は紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐とした。また、閼英井(南山の北西麓の羅井に比定される)に龍(娑蘇夫人)現れ、その左脇(『三国史記』では右脇)から生まれた幼女が長じ、容姿端麗にして人徳を備えていたので朴赫居世は彼女(閼英夫人)を王妃に迎えた。人々は赫居世と閼英夫人とを二聖と称した。『三国史記』と『三国遺事』によると、朴赫居世と閼英夫人はともに中国から辰韓に渡来した中国の王室の娘娑蘇夫人の子である。
 中略

 昔氏の始祖説話
 昔氏初代の昔脱解(第4代脱解尼師今)
 倭国東北一千里のところにある多婆那国(現在の兵庫北部等の本州日本海側と比定される)の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。

 多婆那国の比定地
 この脱解の出身地である多婆那国は、脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、日本列島内の地域に比定されている。比定地は、丹波国但馬国肥後国玉名郡などの説がある。『三国遺事』では龍城国とされる。
 中略

 金氏の始祖説話
 金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)
 脱解尼師今の治世時に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。また、このことに合わせて始林の地を鶏林と改名した。
 赫居世神話に現れる六村はのちの新羅六部の前身であると見られており、これらの部と王統がそもそも結びついていないことを示している。また3姓の始祖説話については、それぞれに誕生の形態が異なりながらも姓の由来を説くものであり、3つの有力な集団があって王位を持ちまわっていたということが窺い知れる。これらの始祖説話は紀元前後に繋年されたものではあるが、実際に新羅で姓が用いられるようになったのは6世紀からのことと見られており、後代に整備されたものであるとの可能性もある。いずれにせよ、複数の王統を持つことや、建国初期に倭人勢力との関わりを伝えることなど、高句麗百済の始祖説話体系とは異なり、新羅の特徴的事象となっている。

 新羅の起源をめぐる隣国での諸説
 日本での伝承
 日本側では、稲飯命伝承とアメノヒボコ伝承がある。
 稲飯命古事記では「稲氷命」と書く)については、『新撰姓氏録』が新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命神武天皇の兄)だとしているが詳細不明である。
 天之日矛日本書紀では天日槍と書く)については、記紀風土記などに伝承がある。天之日矛新羅の王子だったが王位を弟の「知古」に譲って自分は継がず、日本に帰化したという。彼は最終的に但馬(兵庫県豊岡周辺)に土着し、三宅連氏の祖先となった。天之日矛の渡来は古事記は応神朝、日本書紀は垂仁朝[38]、風土記は神代のこととし、伴信友天之日矛から多遅麻毛理までの世代数から計算して天之日矛の渡来は孝霊天皇の時代のことと推定している。いずれにしろ、なぜ新羅風の名前でなく純然たる和風の名前なのかは謎である。
 天之日矛のルーツについては、日本側の伝承によれば日本から渡った稲飯命の開いた新羅王朝家の子孫である。また半島側の資料からも、新羅の王族である朴氏・昔氏・金氏の三始祖のうち昔氏の始祖脱解の出生については倭国東北1千里(当時の1里はおよそ500m)という。昔脱解は船で渡った倭人と見られ、その出生地は諸説あって現在の日本の但馬、丹波、肥後のいずれかの地域とされるが、但馬(兵庫県北部)と推定する向きが多く、天之日矛が祭られる豊岡と一致する。豊岡等の地域を基点に倭から半島へ、そして半島から倭へと倭人の移動があった可能性が比定される。
 中国での伝承
 隋書新羅伝によれば、3世紀の中頃、魏の将軍?丘倹が高句麗を撃破し、高句麗王の憂位居(東川王)は沃沮に逃亡した。憂位居はその後、高句麗に帰還したが、沃沮に残留した部隊があり、彼らは南下して辰韓の先住者を破り新羅を建国したという。別の伝承によれば、その王はもと百済人で、海から逃げて新羅に入り、ついにその国に王となった。祚を伝えて真平王に至った。その先には百済に附庸していたが、のち百済高句麗を征するのに因って、高句麗人は戎役に堪えられず、あい率いてこれに帰したので、ついに強盛を致し、因って百済を襲い、迦羅国を附庸とした。

 歴史
 以下本節の月日はすべて旧暦、年は当該旧暦年を西暦に単純置換したものである。
 三国時代、4〜5世紀半ばの朝鮮半島
 左は韓国の教科書で見られる範囲、右は日本の教科書で見られる範囲。半島西南部の解釈には諸説がある。
 1145年に完成した『三国史記』の「新羅本紀」では、始祖から真徳女王までを上代、武烈王から恵恭王までを中代、宣徳王から敬順王までを下代と呼んでいる。一方日本の朝鮮史研究においては、新羅が半島を統一した時期を統一新羅時代と呼んでいる。

 上代
 新羅は長く高句麗に従属していたが、5世紀中頃からその支配下を脱却しようとしてこれと争うようになった。その傍らでは辰韓諸国に対する支配力を高め、加羅諸国の領有をめぐっては百済とも対抗する姿勢を明らかにし、ここに三国が相競う様相を顕われ始めた。さらには広開土王碑の銘文や日本の「三韓征伐」伝承にも垣間見られるように、新羅倭国による断続的な侵攻にさらされ、その結果として何らかのかたちで倭国支配下にあった期間もあったと考えられている。
「倭・倭人関連の朝鮮文献」および「三国時代 (朝鮮半島)」も参照
 「新羅本紀」による新羅の建国は前57年だが、実際の建国は356年と考えられている。以下は『三国史記』や『日本書紀』が記すそれぞれの王の治世における事績である。

 新羅初代王赫居世居西干の時代
 倭人が侵攻してくるが、赫居世王の説得に応じて倭軍は撤退する。また重臣に、もとは倭人の瓠公がいた。
 第2代新羅王南解次次雄の時代
 倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった。
 第4代新羅王の脱解王の時代
 脱解王は倭国から東北一千里の多婆那国の王の子といわれ、この多婆那国は竜神信仰を持っていたことや交易関係などから、日本列島の丹波国にも比定され、脱解王の出身氏族である昔氏は倭人とされる。
 百済の多婁王と蛙山城(忠清北道報恩郡)をめぐって度々戦争があった。
 倭国が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島)に進入してきたが、角干(1等官の伊伐?の別名)の羽烏(うう)を派遣したが勝てず、羽烏は戦死した。
 加羅と戦って大勝した阿?(6等官)の吉門を波珍?(4等官)に引き上げた。
 第5代新羅王の婆娑尼師今の時代
 日本書紀倭国に服したという新羅王波沙寐錦(はさむきむ)のことを指すともいわれる。また、414年に建てられた広開土王碑の第三面二行に「新羅寐錦」とあり、中原高句麗碑では、高句麗を「大王」として新羅王を「東夷之寐錦」とされていることから、「寐錦」は、新羅の固有の君主号ともいわれる。法興王11年(524年)の建立とされる蔚珍鳳坪碑に法興王は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとも考えられている。なお、法興王の前代の智証麻立干の時代に国号を新羅として君主号を王に定めている。
 第6代新羅王の祇摩尼師今の時代
 大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した。
 翌年に倭国と講和した。
 第8代新羅王の阿達羅尼師今の時代
 158年、倭人が来訪する。
 第9代新羅王の伐休尼師今の時代
 倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅流入した。
 第10代王奈解尼師今 の時代
 倭人が国境を犯す。奈解王は将軍利音に反撃させた。
 倭人が東部国境に侵入。同7月、将軍の昔于老が沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。
 第12代王沾解尼師今の時代
 倭人が昔于老を殺害。
 第14代の王儒礼尼師今の時代
 天皇平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。
 倭人が一礼部に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った。
 倭兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉?の大谷に命じて救援させたが、倭軍が攻略した。
 倭兵が長峯城を攻略した。
 伊西国に攻められ首都金城(慶州市)を包囲されるが、竹葉軍の助力で防衛に成功した。なお、この伊西国と日本のイツツヒコ王国との間に関係があったともされる。
 第15代の王基臨尼師今の時代
 倭国と使者を交わし、3月には楽浪・帯方の2国が帰服してきた。
 国号を新羅に戻した。
 第16代の王訖解尼師今
 倭国王から王子の通婚を要求。王子ではないが、阿?(6等官)の急利の娘を嫁として送った。なお、新羅百済に使者を送って国交を開こうとしている。
 倭国は再び通婚を要求。しかし、新羅側は娘は嫁に行ったとして断った。
 翌年、倭国は国書を送ってきて国交断絶。
 倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した。
 5世紀になると、新羅倭国へ人質を送っている。
 402年3月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭国に送った。
 405年 倭兵が明活城を攻める。
 407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
 418年 高句麗倭国への人質(未斯欣)が逃げ帰った。
 431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲する。
 440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。
 444年 夏四月に、倭兵が金城を10日包囲する。
 462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
 463年 倭人が歃良城(梁山)を攻める。
 476年 倭人が東辺を攻める。
 477年 倭人が兵をあげて五道に侵入した。
 482年5月に倭人が辺境を攻める。
 486年 夏4月に倭人が辺境を攻める。
 500年 春3月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
 6世紀になると智証麻立干・法興王らが国制の整備によって国力を高め、6世紀中頃には真興王による急激な領域拡大が可能となった。高句麗を攻撃し北に領土を広げ、百済・日本の連合軍を退け、562年には加羅地方の大加羅を滅ぼして占領し、文字通りの三国時代となった。中国に対しては564年に北斉朝貢して翌年に冊封を受け、その一方で568年に南朝の陳にも朝貢した。このように中国大陸の南北王朝との関係を深めたことは、半島北部の高句麗に大きな脅威を与えた。隋、唐に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。
 唐の中国統一の後に危機感を募らせた高句麗は淵蓋蘇文が実権を握って緊急軍事態勢を敷き、新羅と激しく対立するようになっていた百済義慈王と連携(麗済同盟)したため、新羅は国際的に孤立することとなった。新羅は643年に善徳女王が唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた。このことが契機となって、新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、上大等の?曇が女王の廃位を求めて反乱を起こした。乱を治めた金春秋(後の武烈王)と金?信(『三国史記』によれば、黄帝の子の少昊金天氏の子孫)とは真徳女王を立てて親唐路線を継承していった。金春秋は中国の律令制度を取り入れる改革を始め、650年にはそれまで新羅独自で用いていた年号(太和)を廃止し、唐の年号を用いるなどして、唐との連携を強めていった。

 日本との関係
 「日羅関係」も参照
 広開土王碑によれば、「新羅高句麗の属民であったが、倭が391年に百残・加羅新羅を臣民となした」とあり、上代の時期に日本の属国になっていたことが窺える。
また、倭の五王のうち珍王と済王が、南朝宋の文帝から「使持節都督、倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事安東大将軍」という称号を要求している記述がある。
 451年、南朝宋の文帝が倭国の済王を、「使持節都督、倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍」に任命する。
 479年には、 南斉の高帝は、倭国の武 (倭王)を、「使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事鎮東大将軍倭王」に任命している。
 三韓征伐(新羅征伐・遠征)においては神功皇后の存在の有無はともかく、倭国から新羅朝鮮半島)への大規模な軍事侵攻があったとみられる。

 中代(654?780年)
 武烈王の即位した654年から、その直系の王統が途絶える780年までの時代を中代と呼び、新羅の国力が最も充実していた時代であった。新羅は金?信が援軍を率いて、唐軍に付き随い百済へ進軍。660年に百済を滅ぼし、663年に唐軍が白村江にて倭国の水軍を破ると(白村江の戦い)、668年に唐軍が高句麗を滅亡させた戦いにも従軍した。

 新羅の半島統一
 高句麗の系統が新羅(後の朝鮮民族の母体)と金(後の満州族の母体)に分割され、渤海の系統が金に発展している。
 その後、唐が西方で吐蕃と戦争している隙に反乱を起こして、676年に唐の行政府に駐留する役人や警備部隊を奇襲して殺害、旧百済領と旧高句麗領の南半分を合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功した。これ以後を日本では統一新羅時代と呼んでいる。

 唐・渤海との関係
 7世紀新羅の金春秋(武烈王)は唐の冊封を受け、新羅国王となって百済高句麗を滅ぼし半島を統一する道を選んだ。これ以後、朝鮮半島の国家は新羅であれ高麗であれ李氏朝鮮であれ全て中国皇帝の冊封下に入る。半島統一後、唐に対して謝罪外交をする一方、引き続き唐との小競り合いが続いたので関係は緊張し続け、北境に長城を築くなどして唐に対抗した。しかし、696年に唐と渤海との間に戦端が開かれると渤海により唐と新羅は国境線を接しなくなった。これ以後を今日の韓国や北朝鮮では南北国時代と呼んでいる。南北国時代とは、南の新羅と北の渤海を一組にした時代認識である。
 732年、渤海山東の蓬莱港を占領された唐は新羅に南からの渤海攻撃を要請、新羅は唐の要請を受けて渤海を攻撃、唐と新羅の関係は和解へと向かう。唐が渤海と和解すると新羅渤海攻撃の功績が認められ、735年に唐から?江以南の地を冊封された。

 内政と社会情勢
 統一新羅の成立と共に官僚制度の改革が図られた。降伏した百済高句麗の王族、貴族を格下げした上で官位制度の中に組み入れ、律令制を取り入れながら政治形態を変化させていった。官吏の養成機関として国学という教育機関が置かれた。また、州・郡・県を基本と為す郡県制を基本とした地方支配体制が整えられた。旧新羅任那加羅領に3州、旧百済領に3州、旧高句麗領に3州の9つの州が置かれ、これらと副都五京によって地域支配が行われた。
 唐の律令制度を取り入れながらも、位階などの名称は旧称のままで残されたりもしたが、8世紀半ばには唐風に改められている。唐の影響は非常に大きく、この頃、先祖伝来の姓や従来的な名もまた、全て漢族乃至中元風に改められている。
 745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生し、社会が疲弊していた。755年には新羅王のもとへ、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった。このときに、日本の九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた。しかし、その移民の数が多いため、天平宝字3年(759年)9月、天皇大宰府に、新羅からの帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよとする勅を出した。翌年には、帰国を希望しなかった新羅人13人を武蔵国に送還した。また、飢饉や疫病によって、後述する新羅の賊が発生したともされる。

 日本との関係
 「日羅関係」も参照
 668年以降、日本は遣新羅使を派遣。672年の壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇)は、親新羅政策をとった。また、次代の持統天皇(在位690年?697年)も亡夫の天武天皇の外交方針を継ぎ、同じく親新羅政策を執った。但し、親新羅と言っても対等の関係は認めず、新羅が日本に従属し朝貢するという関係であり、新羅は日本への朝貢関係をとった。
 持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)にも帰化した新羅人武蔵国や、下毛野国に居住させる。霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される、天平5年(733年)。
「東国#開発」を参照

 「王城国」改称問題
 しかし新羅が驕り、735年(天平7年)日本へ入京した新羅使が、国号を「王城国」と改称したと事後通告したため、日本の朝廷は無断で国号を改称した無礼を責め、使者を追い返した。両国関係は、朝鮮半島中南部を統一した新羅が、日本と対等な関係を要求した為に悪化した。なお、当時渤海が成立し、日本へ遣日本使を派遣していることも背景にあるとされる。
 翌736年(天平8年)には遣新羅大使の阿倍継麻呂は新羅で非礼な扱いを受け、朝廷は伊勢神宮など諸社に新羅の無礼を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を大宰府に止めて帰国させ、入京を許さなかった。なお、阿倍継麻呂は新羅からの帰国途中に病死し、残された遣新羅使の帰国後、平城京では天然痘とみられる疫病が流行った。当時、この疫病が新羅から持ち込まれたと信じられた。

 金泰廉による日本への朝貢
 752年(天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、日本へ朝貢した。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を貢いだと推定されている。王子による朝貢であり、新羅は日本に服属した形となった。
 日本に従属し朝貢を行った意図は明らかではないが、唐・渤海との関係を含む国際情勢を考慮し、緊張していた両国関係の緊張緩和を図ったという側面と交易による実利重視という側面があると見られている。金泰廉は実際の王子ではないとする研究が一部で出されているが、王子の朝貢によってより積極的な通商活動を意図していたとする主張には根拠が無い。

 長安での席次争い
 翌753年(天平勝宝5年)には長安の大明宮で開催された唐の朝賀で遣唐使大伴古麻呂新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる。この際、唐は新羅が日本の従属国である事実を受け新羅を下位に置いた。この年、新羅の景徳王は遣新羅使に謁しなかった。

 藤原仲麻呂新羅征討計画
 天平宝字2年(758年)、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。天平宝字3年(759年)新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇仲麻呂との不和により実行されずに終わる。
 「藤原仲麻呂」および「新羅征討計画」も参照
 8世紀の終わりに新羅の国内が混乱すると、再び日本に慇懃な態度をとるようになり、宝亀10年(779年)、新羅は日本への服属を象徴する御調(みつき)を携え使者を派遣した。この調は、日本が新羅に要求し続けた念願の品であった。また、新羅の混乱により多数の難民が日本列島へ亡命し、大量に帰化を申請する事態が発生するが、日本側は「蛮国」の人民が天皇の徳を慕って帰化を願い出た事を嘉し、帰化を許可した。
 しかし、翌780年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった。しかし民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、唐・日本・新羅商人により、日本の文物を唐・新羅へ、唐・新羅の文物を日本へ、と運んで交易に励んだ。有名な新羅商人に張宝高がいる。

 下代(780?935年)
 780年に武烈王の王統が絶えると王位継承の争いが激しくなり、王位簒奪や王都内での反乱が頻繁に発生する様になった。また骨品制により、新羅王族のみが上位官僚を占めるようになり官僚制度は行き詰まりを見せていた。災害や飢饉、また相次ぐ反乱や内戦、また渤海(698年 -926年)との対立などもあり、新羅は滅亡する。
 この780年代から新羅滅亡までの期間(宣徳王から敬順王まで)を下代と呼ぶ。

 恵恭王の時代
 第36代の王恵恭王の在位中に、律令体制の推進派と旧来の貴族連合的体制への復帰派との間の対立は顕在化し、反乱が多数発生する。
 768年7月?: 一吉?(7等官)大恭・阿?(6等官)大廉の兄弟の反乱。貴族連合体制復活派の反乱とみられる。王都を33日間包囲するが、王の軍隊が平定した。
 770年8月?: 大阿?(5等官)の金融の反乱。金融は金?信の後裔であり、中央貴族に対抗する地方勢力を代表する。律令体制推進派と見られる。
 775年6月?: 伊?の金隠居の反乱。元侍中の金隠居は金融の反乱の後に退官しており、後に反乱を起こした。貴族連合体制復活派の反乱と見られる。
 775年8月?: 伊?の廉相、侍中(現職)の正門が反乱を企てたことが発覚して誅滅された。正門は金隠居の退官の後に侍中に就任しており、律令推進派の反乱と見られる。こうした政治的対立の中で776年正月には新羅政府は教書を出し、律令体制を強固に推進した景徳王が唐風に改名した百官の名称を、旧来のものに戻した。貴族連合体制派への譲歩であったと見られるが、律令体制推進の政策を廃止しようとするものではなく、同年3月には倉部(徴税)の史(3次官)を8名増員している。名目的には律令体制の推進を控えながらも、国家財政や人民支配の強化という点においては貴族層・官僚層の間には共通の意識が持たれていたことの現われと考えられている。
 780年2月、伊?の金志貞が反乱を起こし宮中を包囲する。同年4月、上大等の金良相(後の宣徳王)が伊?の金敬信(後の元聖王)とともに挙兵し、金志貞を滅ぼす。この戦乱の中で恵恭王も王妃ともに殺害された。

 宣徳王
 次の第37代の王宣徳王は、782年閏正月、唐に対して朝貢を行った。勢力を強めている渤海に備え、北方面の守備に努め、781年7月には?江(大同江)以南の地に使者を送って安撫し、また782年2月には漢山州(京畿道広州市)の住民を?江鎮(黄海北道平山郡または金川郡)へ移住させている。在位6年目の785年正月になってようやく唐の徳宗から<検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王>に冊封されたが、病に倒れてそのまま正月13日に死去した。

 元聖王
 第38代の王元聖王は、即位後直ち(785年2月)に自祖先への追封を行い、五廟を再整備した。788年には官吏登用の制度として、科挙に類似する「読書三品」を定めたように、儒教的・律令体制的な政策を打ち出した。また、度々の天災により民が餓えることがあったが、律令体制の下で貢納された租粟を振舞って民の救済を行っている。恵恭王の末年以来の政治的混乱の収拾に努めたが、こうした天災が続いたこともあって、788年秋には国の西部で盗賊が現われ、791年には元の侍中の悌恭が反乱を起こして誅殺されるなど、安定はしなかった。
 唐に対しては786年に使者を派遣して貢納し、徳宗からは新羅の長年の忠勤を慰撫する詔書をいただいている。また、宣徳王に与えられた官爵〈検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王〉をそのまま引き継いだ。

 哀荘王の時代[編集]
 第40代の王哀荘王の時代(在位?:800年 -809年)の801年10月には、耽羅国済州島)からの朝貢を受けた。耽羅国は文武王19年(679年)に新羅に隷属していたが、後に独立していた。
 802年には順応・利貞らの高僧に命じて伽耶山海印寺慶尚南道陜川郡伽耶面)を創建させた。
 803年には日本とも国交が再開されたが、両国の交渉について『三国史記新羅本紀が哀荘王の4年(803年)7月「国交を開き通好した」、5年(804年)5月「日本から黄金三百両が進上された」、7年(806年)3月「日本からの使者を朝元殿で引見した」、9年(808年)2月「日本国の使者を厚くもてなした」という4例を伝えるのに対し、『日本後紀』では延暦23年(804年)9月己丑条で「大伴宿禰岑万里を新羅に遣わした」の1例を伝えるのみである。
 805年、唐で順宗が即位し、先王の昭聖王への哀悼の使者が送られ、哀荘王も新たに冊封されて<開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督・鶏林州諸軍事・鶏林州刺史・兼持節充寧海軍使・上柱国・新羅王>へと官爵を進められた。唐には朝貢及び、冊命の謝恩使の派遣を行う。
 809年7月、摂政の金彦昇(後の憲徳王)が伊?(2等官)の悌?(ていよう)とともに反乱を起こし、哀荘王は弟の体明侍衛とともに殺害された。『三国遺事』王暦に拠れば、元和4年(809年)7月19日に王の叔父の憲徳・興徳の2人によって殺害された、としている。

 憲徳王の時代
 憲徳王は即位するとただちに唐に使者を派遣して先代の哀荘王の死を伝え、唐の憲宗からは〈開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督・鶏林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・上柱国・新羅王〉に冊封された。唐に対しては810年10月に王子金憲章を送って金銀製の仏像などを献上したほか、定期的に朝貢を行った。また、819年7月には唐の?州(山東省済寧市)で李師道が反乱を起こすと、兵馬を徴発する憲宗の詔勅に応えて将軍金雄元ら3万の援軍兵を派遣している。
 812年9月には渤海へも使者を派遣して動向をうかがっていたが、宣王大仁秀が即位するに及んで緊張を増し、後に826年7月には漢山州(京畿道広州市)以北の州・郡から1万人を徴発して?江(大同江)沿いに300里の長城を築いて、渤海の南下を食い止める備えとした。

 飢饉と地方豪族の反乱
 一方、国内では度々災害が起こって民が餓える事態が発生した。租を免じたり穀倉を開いたが、816年には浙江省東部へ流入した民が170人にものぼった。
 この時代には、地方の村主や王都から地方に飛び出した王位継承に敗れた王族や官僚らが軍事力を背景に勢力を伸ばし、新興の豪族として勃興した。そして、地方で頻繁に反乱を起こす。819年3月には各地の賊徒がいっせいに蜂起したが、諸州の都督や太守に命じて鎮圧される。しかしこうした地方勢力を王権のもとに確実に掌握できていたわけではなく、首都慶州中心主義的な政治に対して地方勢力は反感を持ちながらも、団結して対抗するための中心を求めていた。

 日本への賊徒侵攻と弘仁新羅の乱
 詳細は「新羅の入寇」を参照
 新羅の国内情勢が悪化する一方、一部の新羅人は、日本へ亡命したり、また賊化した新羅人が度々日本を襲撃してもいる。
 弘仁2年(811年)12月6日、新羅船三艘が対馬島に現れ、1艘が下県郡の佐須浦に着岸した。船に10人ほど乗っており、他の2艘は闇夜に流れたが、翌12月7日未明、灯火をともし、相連なった20余艘の船が姿を現し、賊船である事が判明した。そこで先に着岸した者のうち5人を殺害したが、残る5人は逃走し、うち4人は後日補足した。島の兵庫を衛り、軍士に動員をかけ、新羅朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告された。大宰府は通訳と軍毅を対馬へ派遣し、旧例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管内と長門・石見・出雲等の国に通知した。
 弘仁4年(813年)2月29日、肥前の五島・小近島(小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸し、島民100余人を殺害した。島民は新羅人9人を打ち殺し101人を捕虜にした。4月7日には、新羅人一清、清漢巴らが日本より新羅へ帰国した、と大宰府より報告された。この言上に対して、新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例により処置せよと指示した。事後の対策として通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように来寇する新羅人集団を尋問できるようにし、また承和2年(835年)には防人を330人に増強した。承和5年(838年)には、796年以来絶えていた弩師(どし)を復活させ、壱岐に配備した。弘仁5年(814年)、化来した新羅人加羅布古伊等6人を美濃国に配す。
 弘仁11年(820年)には日本国内の遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が反乱(弘仁新羅の乱)を起こしたがその殆どが処刑され、鎮圧されている。天長元年(824年)、新羅人辛良、金貴賀、良水白等54人を陸奥国に安置し、法により復を給し、乗田を口分田に充てる。

 金憲昌・梵文の反乱
 822年3月、武珍州(全羅南道光州広域市)・菁州(慶尚南道晋州市)・熊川州(忠清南道公州市)の都督職を歴任した金憲昌が反乱を起こし、熊津(公州市)を都として長安国と号すると、その支配領域は武珍州・菁州・熊川州・完山州(全羅北道全州市)・沙伐州(慶尚北道尚州市)の五州及び国原(忠清北道忠州市)・西原(忠清北道清州市)・金官慶尚南道金海市)の三小京に及んだように、旧百済の領域を中心として国土の大半が金憲昌を支持し、王権に対抗する姿勢を見せることとなった。金憲昌の反乱は1ヶ月ほどで鎮圧されたが、乱の鎮圧に活躍した討伐軍は貴族の私兵と花郎集団であり、律令体制の下での兵制は有名無実化していることが露見した。
 825年1月には金憲昌の子の金梵文が高達山(京畿道驪州郡)を根拠として反乱を起こしたが、これは北漢山州(京畿道広州市)の都督によって鎮圧された。
 これらの反乱の平定の論考功賞においては、反乱をいち早く王都に知らせた者を重視する王都中心主義が強く見え、また反乱に加担しなかった地方には7年間の租税を免除するなどしており、地方行政を疎かにするだけではなく、王権の地方への関与を放棄して地方の自治を公認するかのような政策に堕したと見られている。
 826年10月に憲徳王は死去した。

 興徳王の時代
 第42代の王興徳王は、唐の文宗からは、〈開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督・鶏林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・新羅王〉に冊封されて以降、唐への朝貢を続けて文物の招来に努め、827年に唐に入った旧高句麗系の僧の丘徳は経典を持ち帰った。また、828年に帰国した金大廉が持ち帰った茶を持ち帰り、新羅での喫茶が盛んになった。827年に漢山州(京畿道広州市)瓢川県から速富の術(すぐに富貴になれる方法)という信仰が流行り出す。政府は教祖を遠島へ流刑とした。
 832年の春夏の旱魃、7月の大雨で凶作となり、餓えた民衆が盗賊となって蜂起する。10月には各地に使者を派遣して慰撫に努めた。翌833年にも凶作で民が飢餓に苦しみ流行り病で多くの死者を出すと、834年10月には王自らが巡幸して民に穀物を分け与え、民心の安定を図ろうとした。同834年には、身分の上下に応じて色服・車騎・器物・家屋などの区別を厳然とさせて違反者には刑罰を用いるとする教書を発布して、奢侈を禁じるとともに王都の住民に対する身分序列を明確化させることとした。この教書の中で規定された身分序列は「真骨・六頭品・五頭品・四頭品・平人のそれぞれ男女」としており、7世紀中葉に成立していた王族を中心とする身分序列である「骨制度」(聖骨・真骨)に対して「頭品制度」とされる。これら骨制度・頭品制度をあわせて新羅の骨品制度という。

 遣唐使船保護に関する日羅外交
 承和3年(836年)、日本が遣唐使を久しぶりに派遣することが決定した際、遣唐使船が難破した場合の保護を新羅に要求した。すると、新羅側執事省は、使者紀三津(きのみつ)を問い詰め、「小人の荒迫(こうはく)の罪を恕し、大国の寛弘の理を申す」との蝶を日本へ送った。「小人」とは使者紀三津を、「大国」は新羅自身を指す。
 このような新羅の対等または尊大な態度に対して、それまで新羅を「蛮国」とみなしてきた日本は憤慨し、『続日本後紀』は、この事件を後世に伝えなかったら、後人は得失を判断できないとして執事省蝶全文を掲載している。
 承和9年(845年)、日本は外交方針を変換させ、太宰大弐藤原衛(ふじわらのまもる)は新羅人の越境禁止を進言し、以後、帰化を申請する場合でも、漂着民に食料衣服を与えて追い返せとした。これは『貞観格(じょうがんきゃく)』にも収められ、以後の対新羅外交の基本方針になった。

 張保皐の乱
 張保皐のもとに集結した金祐徴らの一派は838年3月に軍事活動を起こし、祐徴派の金陽が武州光州広域市)を下してさらに南原小京(全羅北道南原市)を陥落させた。12月になって金陽が武州鉄冶県(全羅南道羅州市)まで軍を進めたところで新羅王閔哀王は金敏周を派遣して迎撃したが、金陽軍の前に壊滅した。839年1月19日、金陽軍が達伐(大邱広域市)にまで及び、王は禁軍を用いて防戦に努めたがかなわず、兵の半数以上が戦死した。この敗戦を聞いた王の側近は皆逃げ出してしまい、王も殺害された。祐徴は王の儀礼を以て閔哀王の屍を埋葬し、また、古礼に則って即位式を執り行い、王位を継承し、神武王として即位した。しかし、神武王は病で同年、死す。その子文聖王は、政権交代に役のあった張保皐に官位を与えるが、張保皐は不満を持ち、846年、清海鎮(全羅南道莞島)で反乱を起こしたが、王軍は張保皐の暗殺に成功する。
 しかしながら、これらの動揺は地域社会にも波及し、9世紀末には、農民の反乱や豪族の独立が頻発する。

 景文王
 第48代の王景文王は、唐へ862年7月に使者を派遣して土産物を貢納した。864年4月に日本からも国使を迎えたとされるが、日本側の史書には対応する記事はない。865年4月には懿宗から<開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督・鶏林州諸軍事・上柱国・新羅王>に冊封された。869年7月には王子の金胤らを唐に派遣し、馬二匹・砂金百両・銀二百両ほか、様々の進奉を行った。翌870年2月には沙?(8等官)の金因を唐に宿衛させ、874年には僖宗からの宣諭使を受け、唐との交流は盛んになった。
 しかし、866年10月には伊?(2等官)の允興がその弟の叔興・季興とともに反逆を謀った。事前に発覚して允興らは岱山郡(慶尚北道星州郡)に逃走したが、捕縛されて斬刑に処され、一族が誅滅された。
 867年5月には王都金城(慶尚北道慶州市)で疫病が流行り、同年8月には洪水が起こった。地方各地でも穀物が実らず、王は各地へ安撫の使者を派遣して慰問に努めた。868年1月には伊?の金鋭・金鉉らが反乱を起こして誅殺された。870年には王都が地震・洪水に見舞われ、その冬には再び疫病が流行った。873年にも飢餓と疫病が起こり、王は民に穀物を与えて救済したが、政情は安定しなかった。さらに874年5月にも伊?の近宗が反乱を起こして宮中まで至り、王は近衛兵を派遣して撃破し、逃れた近宗一味を捕らえて車裂きの刑にした。875年7月8日に景文王は死去。

 日本への賊徒侵攻
 貞観8年(866年)には、肥前基肄郡擬大領山春永藤津郡領葛津貞津・高来郡擬大領大刀主・彼杵郡住人永岡藤津らが、新羅人と共謀し、対馬を攻撃しようとした計画が発覚している。
 貞観11年(869年)6月から、新羅の海賊、艦2艘に乗り筑前那珂郡(博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。日本側は追跡したが、見失ったと『日本三代実録』に記録があり、また「鄰國の兵革」、隣国である新羅の戦争(内戦)のことが背景にあるのではないかと卜(うらない)が伝えたとある。なお、同貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日)には、貞観地震や肥後で地震が発生している。
 日本政府は沿海諸郡の警備を固めたほか、内応の新羅商人潤清ら30人を逮捕し放逐することに決めた。その後、新羅に捕縛されていた対馬の猟師・卜部乙屎麻呂が現地の被害状況を伝えたため、結局大宰府管内のすべての在留新羅人をすべて陸奥国などに移し口分田を与えて帰化させることに定めた。このとき新羅は大船を建造しラッパを吹き鳴らして軍事演習に励んでおり、問えば「対馬島を伐ち取らんが為なり(870年2月12日条)」と答えたという。また現地の史生が「新羅国の牒」を入手し、大宰少弐藤原元利万侶の内応を告発した。
 870年2月15日、朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備する。また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚すなわち律令国家に服属した蝦夷を配備した]。これらの国防法令は『延喜格(えんぎきゃく)』に収められ、以後の外交の先例となった。
 また、伊勢神宮石清水八幡宮、香椎、神功陵などに奉幣および告文をささげ、「わが日本の朝は所謂神明の国也。神明の護り賜わば何の兵寇が近く来るべきや(日本は神の国であり、神の守護によって敵国の船は攻め寄せない)」と訴えた。こうして新羅を敵と認識する考えは神国思想の発展へとつながっていった。また、神功皇后による三韓征伐説話もたびたび参照されるようになる。
 貞観12年(870年)9月、新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奥国に配する。
 また貞観14年から19年にかけて編纂された『貞観儀式』追儺儀(ついなのぎ)では、陸奥国以東、五島列島以西、土佐国以南、佐渡国以北は、穢れた疫鬼の住処と明記されている。こうして対新羅関係が悪化すると、天皇の支配する領域の外はケガレの場所とする王土王民思想も神国思想とともに形成された。

 憲康王
 憲康王の時代(在位?:875年 - 886年)には、唐へ876年7月に朝貢を行い、878年4月には 僖宗から冊封された。同年7月に使者を送ろうとしたが、黄巣の乱の起こったことを聞き及んで使者の派遣は中止した。後に885年10月になって、黄巣の乱の平定されたことを祝賀する使者を唐に送った。
 878年8月には日本からの使者を朝元殿で引見したこと、882年4月には日本国王が黄金300両と明珠10個とを進上する使者を派遣してきたことを『三国史記新羅本紀は伝えているが、日本側の史料には対応する記事は見られない。869年に新羅の海賊船が博多を襲って以来、新羅と日本との間には緊張関係が生じており(新羅の入寇を参照)、『日本三代実録』元慶四年(880年)条によれば、新羅の賊が侵入するという情報を得た日本海沿岸の諸国は厳重な警戒態勢をとっていた。しかしその間にも、公私にわたる使者の往来はあったものと見られている。
 『三国史記新羅本紀には憲康王の時代は順調であったと記しているが、879年6月に一吉?(7等官)の信弘が反乱を起こして誅殺された。

 日本への賊徒侵攻
 『扶桑略記』には寛平6年(884年)の9月(旧暦)に新羅船45艘は対馬を襲ったが、日本は大宰府の奮戦で、これを迎撃して危機を脱した。合戦後の捕虜となった新羅人の賢春は尋問で、前年来の不作により「人民飢苦」の状態が続き、新羅では「王城不安」だったと答えている。これを打開すべく王の命令により、2,500人の軍が大小百艘に分乗、飛帆したと記されている。なお『三国史記』では10年に相当するが、10年の記述は三国史記の段階では消失している。
 在位12年目の886年7月5日に憲康王は死去。続く定康王の時代、887年1月には金蕘(きんじょう)が反乱を起こしている。

 真聖女王
 新羅下代唯一の女王真聖女王は、三国史記によればもともと角干(官位)の魏弘と通じていたが、即位すると常に入内させて用いていた。間もなく魏弘が卒して後は少年美丈夫2?3名を密かに引き入れて姦淫し、彼らに要職を授けて国政を委ねた。このため綱紀はおおいに弛緩した。この女王の治世には国内で反乱が続発し、後三国時代の幕開けとなる。治世11年の897年、女王は「盗賊蜂起、此れ孤の不徳なり」と宣言し、「太子」に譲位してしまう。この年12月女王は金城(慶州)の北宮で死去。

 日本への賊徒侵攻
 真聖女王の時代にも日本への新羅賊徒が侵攻している。893年5月11日、新羅の賊が肥後国飽田郡(現 熊本市)で民家を襲撃し放火した。また肥前国松浦郡においても襲撃してきたが、逃げた。寛平6年(894年)、唐の将軍も交えた新羅の船大小100艘に乗った2,500人にのぼる新羅の賊の大軍が対馬に侵攻を始めた。9月5日の朝、対馬守文屋善友(ふんやよしとも)は郡司士卒を励まして賊徒45艘を弩をかまえた数百の軍勢で迎え撃ち、220人を射殺した。賊は計、300名を討ち取った。また、船11、太刀50、桙1,000、弓胡(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。捕虜がいうには、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。その全容は大小の船100艘、乗員2,500、逃げ帰った将軍はなお3人いて、特に1人の「唐人」が強大である、と証言した。翌年の寛平7年(895年)にも、新羅の賊が壱岐を襲撃し、官舎が焼かれた。
このような賊の来襲は、新羅滅亡後の高麗時代にも発生している。

 後三国時代
 「後百済」、「後高句麗」、および「後三国時代」も参照
 915年頃の新羅の版図
 有力な勢力となった農民出身の甄萱が892年に南西部に後百済を、新羅王族の弓裔が901年に北部に後高句麗を建て、後三国時代に入る。新羅の孝恭王は、これに対抗する事ができず酒色におぼれ、新羅の領土は日増しに削られて行き新羅は滅亡の道をたどることになる。

 高麗の建国
 「高麗」も参照
 後高句麗の武将であった王建は後百済との戦争で何度も勝利し、立派な人格で群臣たちの信望が厚かった。しかし弓裔には嫌われ、命を狙われそうなこともあった。弓裔は宮殿を再建したため、民衆の不満が高まった。また自分を弥勒菩薩と呼ばせて観心法で人の心を見ることができると言い、反対派を粛清した。王建は弓裔の暴政に対して政変を起こして弓裔を追放し918年に高麗を興した。
 新羅の景明王は920年、王建と誼を通じて後百済に対抗したが、924年に亡くなった。次の景哀王は927年に宴会をしている最中、後百済の甄萱に奇襲を受け、殺された。その次の敬順王は甄萱により王位に就けられた。

 後百済の政変と新羅滅亡
 以降、高麗と後百済の戦争が続いたが、935年、後百済の王の甄萱が四男に王位を継がせようとすると、長男の甄神剣(後百済の第2代王)が反乱を起こし、甄神剣は甄萱を寺院に監禁し、王位を奪った。甄萱は935年6月、後百済から逃げ出して高麗に亡命した。王建は甄萱を国賓として迎えた。同935年11月、新羅の敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順した。これにより新羅は滅亡した。
 その後、高麗は翌年の936年に後百済を滅亡させ、朝鮮半島は高麗によって統一された。

 民族
紀元前後の朝鮮半島は元来、粛慎、?婁、靺鞨、沃沮、?、?貊等、各諸民族の混在地域である。その後、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人によって移民国家である辰韓が建国される。
魏志東夷伝』には、東アジアからも「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。」とあり、朝鮮半島は移民・渡来人の受け皿的役割を果たしていた。また隣国、百済高句麗等の扶余系民族(現在の満族と同系統)も国内に抱えていた。
 『隋書』東夷伝によると、新羅は「その人には華夏(中国)、高句麗百済のたぐいがまっじている」という。
百済任那加羅新羅地域においては、倭人特有の前方後円墳等の居住跡が発見にされていることから一定数の倭人が同地に居住していたとされる。
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マンガ ものがたり韓国史〈1〉檀君神話から統一新羅まで

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