🎍43〕─2─女系で出世した藤原道長。刀伊の入寇。天皇に反逆する日本人達。1015年~No.136 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 平安中頃までの女性は、男性よりも経済的に恵まれていた為に、性愛には肯定的で、複数の男性と自由にセックスを楽しんでいた。
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 平安時代は、親の地位は男系が継ぎ、親の資産は女系が相続した。
 子供の出世は、母親で決まった。
 子供の父親は、母親しか知らなかった。
 結婚は通い婚であり、亭主は入り婿になる。
 王朝時代は、男系より女系の方が強かった。
 男系が強くなったのは、鎌倉以降の武士の時代であったが、決定的な男系優位になったのは明治以降である。
 男尊女卑思想は、仏教、儒教キリスト教でもたらされた。
 日本神道は、女性優位思想であった。
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 1015年 『宋史』 高麗使節・郭元は、宋に比べて劣っているとの高麗の国情を報告した。
 中華は、高麗を軽蔑していた。
 「市場は、午後に始まり、貨幣を用いず、米や絹などで物々交換している」
 「銅を産出するが、銭を鋳造する方法を知らない。中国から与えられた銭があっても、宝物殿の中に仕舞ってしまい、たまに出しては眺める程度である」
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 1018年 第68代後一条天皇藤原道長(966〜1028)「この世をばわが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば」
 藤原氏の皇室支配は、第72代白河天皇が1086年に堀河天皇に譲位して上皇となって院政を行うまで続いた。 
 河合敦「この歌を詠んで1018年の夏に、道長は胸に強い痛みを感じ、高熱はを出します。胸の痛みは何度も起き、道長は『政敵のたたり』と恐れおののき、翌年出家を決断します。しかし、病状も安定しかけた1025年、敦明(あつあきら)親王に嫁いだ3女が、同じ年の8月には後朱雀天皇の妻になった6女が急死し、さらにその2年後には3男・顕信(あきのぶ、摂政太政大臣)と次女の研女(けんじ、皇太后)が相次いで死亡した。我が子を次々と失った道長は気落ちして症状が悪化し、1028年に62歳で世を去りました」
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 2018年11月2日 産経新聞「子供の幸せ喜ぶパパの歌? 藤原道長の和歌「この世をば−」の別解
 藤原氏による摂関政治の全盛期を現出した藤原道長菊池容斎著「前賢故実」(国立国会図書館蔵)から
 「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」−平安時代摂関政治を繰り広げ藤原氏の栄華の元をつくった藤原道長(966〜1027年)が自らの権勢を誇った歌として、日本史の教科書でもおなじみの和歌だ。この歌のせいもあり、道長には野心家で、尊大なイメージがつきまとう。しかし、詠まれた場の空気や人間関係などから、別の解釈を提案する論文が発表され、注目されている。世に語られる道長像とは違った、人間くさい一面が見えるという。(渡部圭介)
 ■栄華を極めた道長
 藤原道長は一族内の争いに打ち勝ち、4人の娘を天皇や皇太子の妻として送り込んで、栄華を極めた貴族として語られる。その人物像を象徴する歌として教科書でおなじみなのが、「この世をば−」だ。
 歌は藤原実資(さねすけ)の日記「小右記(しょうゆうき)」に残っている。詠まれたのは寛仁2(1018)年10月16日。この日は道長の三女、威子(いし)が後一条天皇の后となった日だ。
 日本史の教科書などをめくると、歌の通釈は次のようになっている。
 《此(こ)の世の中は、すべてが満足にそろって、自分の世のように感ずる。(満月が欠けるところのないように、この世の中で自分ののぞむ所のものは何でもかなわぬものはない)》(第一学習社『詳録新日本史史料集成』)
 小右記によれば、道長は返歌を求めた上で、この歌を即興で詠んだ。ところが実資は「優れた歌で、返歌は作れません。一同、この歌を吟じて味わうのがよいでしょう」と返し、その場にいたみんなで唱和。これに気を良くしたのだろうか。道長は歌を返さないことを責めなかったという。
 ■複雑なロジック
 絶大な権力者を前に、その歌を唱和する人々…なんともピリピリとした雰囲気が漂う。
 しかし、これに疑問を抱いたのが、平安文学研究者の京都学園大の山本淳子教授だ。
 「『この世』は『この夜』の掛詞(かけことば)で、『今夜のこの世』といった意味。『今夜は本当にうれしい』という喜びの気持ちを詠んだ歌で、唱和に似合う歌だったのでは」と指摘する。
 山本教授は8月刊行の京都大学文学部国語学国文学研究室編「國語國文」87巻8号に、この歌の別解釈に挑んだ論文を掲載した。
 歌が詠まれたのは16日で、当時の暦では望月=満月ではないことや、歌学者、藤原清輔(きよすけ)の「袋草子」に、この歌とともに献杯の様子が描写されていることなどに着目。「月」は天皇の后となった娘を暗喩(あんゆ)していることに加え、「盃(さかづき)」が掛かっている。つまり、娘の結婚とその場の協調的な雰囲気の喜びを、詠んだとする。
 娘の結婚がうれしいのは理解できるが、場の空気は協調的だったのだろうか。
 小右記によると、歌が詠まれたのは、娘の結婚の儀式や関連行事が済み、さらに宴会が終わった後に開かれた、いわば2次会の宴席。人を押しのけないと盃が回らないほど、相当数の貴族が酒を酌み交わす、にぎやかな場だった。
 注目は道長に請われ、実資が道長の息子、頼通(よりみち)に酒を勧めたことだ。実資は道長におもねらない人だった。そんな一家言の持ち主が、息子と盃を交わしてくれた。頼通は前年に摂政の位を道長から譲られたばかり。「道長にとっては、実資に『頼通を支えてくれないか』という思いがあり、実資はその気持ちを深く受け止めた。道長はその喜びを歌に込めたのでは」(山本教授)
 ■「通釈」のわけ
 複雑なロジックだが、月にさまざまな意味をかけた歌は、10年前の紫式部の日記に登場しており、その歌が道長の脳裏をかすめた可能性もある。山本教授は「ほかの人の技法を共有できるのは、和歌の世界では素晴らしいこと。道長の歌は勅撰集に43首が選ばれており、下手な歌詠みではない」と評する。
では、なぜ権勢を誇る歌としての解釈が蔓延(まんえん)しているのか。
 道長天皇をも陵駕した人物として、特に後世の勤王家を中心に「野心家」として語られる。こうしたイメージに加え、道長が歌を詠む際、「誇りたる歌になむ有る」(小右記)と前置いたことも大きい。この一言は「おごり高ぶった歌だが…」とも訳せる。
 しかし、「誇り」には、自分の良い状態を喜び、それを態度や様子に表すこともあるといい、山本教授は「単純に自分の状況に対する喜び」と推し量る。
 道長は五男(四男とも)坊で、有能な兄に隠れ、出世の見込みは薄かった。ところが兄たちは死に、さらに兄の子は失脚。ライバルが次々と消えたことで、出世の道が開けた。
 「道長は妻や娘を出世の道具のように使ったように見られますが、女性たちのおかげで出世したことを、決して忘れない人だったと思います」と山本教授。宴会の欠席者をいちいち書き残したり、妻がつむじを曲げて慌てたりするなど、「いちいち気にする」人柄でもあったそうだ。
 ■良きパパ?
 こうした人柄や、さまざまなロジック、人間模様を踏まえ、山本教授はこの歌を次のように読み取る。
 《私は今夜のこの世を、我が満足の時と感じるよ。欠けるはずの望月が、欠けていることもないと思うと。なぜなら、私の月とは后である娘たち、また皆と交わした盃だからだ。娘たちは三后を占め、盃は円い。どうだ、この望月たちは欠けておるまい》
 娘が結婚した喜びや息子の栄達、そして一族の繁栄を願う道長の気持ちの高ぶりがにじむ。実資らもその思いを享受したからこそ、唱和したように思える。
 道長の日記「御堂関白記(みどうかんぱくき)」にこの歌そのものの記載はない。気持ちの高ぶりを抑えきれなかった道長なりの照れ隠しか。あるいは、「酔っ払って忘れたのかも」という山本教授の推理が正しいのであれば、道長は実に人間くさい。」
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 相澤 理 (『東大のディープな日本史』)中経出版
「権力のよりどころは、摂政・関白の地位ではなく、天皇との外戚関係にあった。 当時の貴族社会では、夫を妻の実家に招き入れる招婿婚(しょうせいこん)が一般的で、生まれた子は妻の父が養育・後見する習慣がありました。それは将来の天皇である皇子も変わりありません。それゆえ、外戚とりわけ外祖父の発言力が大きなものとなったのです。……
 官吏の任免権は摂政・関白の地位にそなわったものではありません。天皇外戚の立場にある者が、その私的な関係をよりどころとして、人事を左右する影響力をもったのです。……(P.72。P.73)
 上皇は、天皇の家長として子や孫にあたる天皇を後見し、「治天の君」として政治の実権を行使しました。また、院政の特徴として、従来の法や慣例にとらわれない専制的な政治が行われたことが指摘できます。それは、上皇律令の制約を受けないフリーハンドの立場にあったことから可能となったものでした。 こうして、上皇の登場によって、天皇との外戚関係を頼りに権力を維持してきた摂関政治にも無効が宣言されます。……(P.74。)
 ところで、摂関政治から院政へと移行した要因には何があったのでしょうか? 一つは、皇位継承のさらなる安定です。外戚に頼るよりも、父(上皇)から子(天皇)へダイレクトに受け継いだほうが確実なことは、院政明治維新まで続き、その間に少なくとも嫡子の不在を理由に、皇位継承問題が発生しなかった歴史が証明しています。そして、もう一つの要因として考えられるのが日本社会が実力社会に移行しつつあり、上皇のような既存の枠組みにとらわれない存在が求められていた。(P.75)」
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 藤原道長。詠み人知らず「何ごともみつれば欠くる世の中の 月をわが身の慎みにせよ」
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 ウィキペディア
 刀伊の入寇は、寛仁3年(1019年)に、女真族満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。
 
 経緯
 日本沿岸での海賊行為頻発
 9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前筑後肥前・肥後・薩摩の九州沿岸であった。

 対馬への襲撃
 寛仁3年3月27日(ユリウス暦1019年5月4日)、刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。この時、国司対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。

 被害
 対馬の被害
 有名な対馬銀山も焼損し、被害は、対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人(うち男102人、女・子供244人)であった。またこの時連行された人の内、270人ほどは高麗に救助され、対馬に帰還した。

 壱岐の被害
 壱岐では壱岐守藤原理忠も殺害され、島民の男44人、僧侶16人、子供29人、女59人の、合計148人が虐殺された。さらに、女性は239人が連行された。壱岐に残った民は、諸司9人、郡司7人、百姓19人の計35人であった。
 なお、この被害は壱岐全体でなく、壱岐国衙付近の被害とみられる。
 記録されただけでも殺害された者365名、拉致された者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったという。
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 日本は、高麗の国交再開要請を拒絶し、高麗人の入国を禁止した。
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 1051年 前九年合戦。
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 1052年 都では、治安が乱れ、疫病が大流行して大勢の人が死亡した。
 人々は、天災人災が続く辛いだけの現実を生き、極楽往生を願い、救われたいと心底から祈った。
 辛く苦しいだけの人生でも、何とか生きたい祈り続けた。
 これが、日本人の宗教観であり信仰心である。
 関白・藤原頼通は、西方極楽浄土をこの世に出現させるべく、実父・藤原道長の別荘「宇治殿」を仏寺の「平等院」に改めた。
 開山(初代執印)は、園城寺長吏を務めた小野道風の孫・明尊である。
 1053年 仏師・定朝が作った阿弥陀仏如来坐像を、建立された阿弥陀堂(現・鳳凰堂)に安置した。
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 高麗は、新羅同様に反日国家であった。
 日本は、朝鮮と一定の距離をとって近寄らず、親しくならず離れていた方が平和で発展できた。
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 関東の高麗は、高句麗帰化人であり、反日の高麗ではない。
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 1079年 高麗は、日本との国交回復を申し込んだ。
 日本は、やはり、断固として拒否した。
 私貿易において。日本から高麗に輸出されていたのは、鎧、日本刀、弓などの武具と杉材、水銀、硫黄などの資材と扇子、真珠、画屏、櫛、香炉などの製品などであった。
 高麗から日本に輸出されたのは、高麗産の人参と青磁、中国の経典と儒教典籍などであった。
 物の移動は、高麗から日本に比べて日本から高麗への方がはるかに多かった。
 日本が輸出した物は、全てが日本製であった。
 対して。高麗の輸出品の多くは、中国産であり、高麗産は人参や青磁など数えるほどしかなかった。
 日本にとって、高麗への輸出はあっても、高麗から輸入する物はなかった。
 1083年 後三年の合戦。 
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*その他の、天皇への反逆
 天皇に忠誠を誓わない日本人は、各地で天皇に対して犯罪行為を行っていた。
 日本民族日本人は、日本独自の文化、伝統、芸能、芸術、神話、宗教、歴史をなくさない為に、日本天皇を反天皇から守っていた。
 反天皇派日本人は、日本中心の文化、伝統、芸能、芸術、神話、宗教、歴史など全てを葬り去る為に日本天皇を、日本の統治者から引きずる下ろそうとしていた。
 1104年 比叡山延暦寺は、寺院群によって東塔・西塔・横川の三つの分かれていた。
 東塔は、天台座主である横川の慶朝が、西塔の前僧觥・貞尋の肩を持つていると激怒して、慶朝の僧房を襲撃して破壊した。
 西塔は、横川が座主を出している為に中立を守っていた為に、代わって東塔を攻めた。
 世にいう、山上合戦である。
 比叡山が皇族や有力貴族の諸祈願を引き受ける事で政治に興味を持ち、朝廷内の権力抗争に関わるようになると寺院内での教義対立は収束した。
 神仏習合の考えの広がりとともに、政治権力に接近した寺院による神社支配も強化された。
 日本は、権門と言われる皇族、貴族、寺院の三者が複雑に絡み合いながら支配する国となった。
 地方を束ねていた地元豪族の郡司の指導力が弱まるや、その下にいた小領主は村落の神を神社に祀って領民を束ねた。
 小領主は、領民と一緒になって、朝早くから夜遅くまで牛馬の様に汗水垂らして土地を開墾し、糞尿混じりの泥に塗れながら農作物を生産する地下人であった。
 そして、領地と領民を外敵や盗賊などから守り、租税を無事に送り届ける為に武装化した。
 武者の始まりである。
 地方の武者は、朝廷の武官や北面の武者とは異なり、土と共に生き土と共に死ぬ「一所懸命」に生きる泥臭く野暮ったい存在であった。
 誕生したばかりの武者は、天皇はもちろん皇族や貴族との縁もゆかりもなく、血のつながりもない存在として、自然発生した。
 小領主である武者は、朝廷から派遣されてくる国守や無力化した古代豪族の地方官吏を頼らず、中央の有力貴族や大寺社の庇護を受ける為に領地を献上して荘園に加えて貰った。
 身分低い武者は、権門の番犬的に差別され無理難題を命じられてこき使われる、惨めな存在であった。
 平安時代の平和は、こうして続いた。
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 1108年 第74代鳥羽天皇伊勢平氏平正盛は、出雲で叛乱を起こした第56代清和天皇の血を引く源義親を討ち滅ぼした。
 平正盛の子忠盛は、瀬戸内海の海賊を平定し、宋・高麗との交易を独占して財を成した。
 平清盛は、平忠盛の子ではあるが、第72代白河天皇落胤という説もある。
 当時の日本は、天皇への反逆罪以外の死刑を廃止すると共に、外敵に備えた強力な常備兵を持っていなかった。
 天皇は、身辺を護衛するわずかな武士を持っていたが、中国皇帝や朝鮮国王の様な自由に指揮できる強力な軍隊を持っていなかった。
 日本の軍事力とは、都では希望した官位を得られない下級公家が、地方の領地に土着して武士化した軍事公家とその一族・郎党のみであった。
 公民と呼ばれた農民や漁民は、天皇支配に逆らう盗賊や海賊などから守ってもらうかわりに年貢を納めたが、非戦闘員として兵役にとられる事はなかった。
 当時の日本においては、兵農は完全に分離されていた。
 領地と領民は、天皇から一時的に授かったものであり、完全な私有財産ではなかったからである。
 日本天皇の宗教的間接統治は、中国皇帝の奴隷的絶対支配と朝鮮国王の私物的直接支配とは全く違っていた。
 


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