🎍50〕─1─科挙で近代的官僚システムを完成させた漢族系宋(北宋)王朝。~No.156No.157No.158 @ 

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 北宋、960年〜1127年。
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 法家、韓非子商鞅
 儒家宋学朱子学
 道家老荘思想
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 2017年8月31日号 週刊文春出口治明の0(ゼロ)から学ぶ『日本史』講義
 〔古代篇〕
 31 宋の建国 
 ひとたびは日本を脅かした大唐世界帝国ですが、756年の安禄山の乱ののちは国力を衰微させていきました。そして群雄割拠をコントロールしきれず907年に滅びます。
 その後中国では半世紀に渡って幾つもの王朝が建国され、国土統一を目指しましたが(五代十国時代)、979年に統一を成し遂げたのが、960年に建国された宋でした。
 この宋の時代、中国は大きな歴史的変革期を迎えます。
 この時代は地球規模で温暖化が生じ、世界的に交易が盛んになった時期にあたりました。経済活動が盛んになったことで、様々な文化が花開きます。今日の中国の社会、文化のほとんどがこの時代を源流としているといっても過言ではありません。
 ここでは主に政治について見てみたいと思います。
 皇帝による直接選抜
 唐の英傑武則天(ぶそくてん)が、科挙(国家公務員上級試験)を活用することで優秀なスタッフを手許にそろえたエピソードを紹介しましたね。
 武則天の時代は、科挙に参加できたのはまず一握りの人々であり、貴族と高級官僚の座を分け合う状況でしたが、宋の時代になると科挙制度が全国に広がり、ほぼすべての高級官僚が科挙によって選ばれるようになります。
 宋の科挙で、有名な最終試験が、『殿試(でんし)』です。
 『殿試』とは、難関の筆記試験に通った人たちが、最後に皇帝が直接面接し出問して、『お前が一番』『二番』『三番』と決める制度です。
 数千倍とも言われるとんでもない倍率の試験をくぐり抜けて、皇帝に直接採用された優秀な人たちですから、皇帝と強い紐帯(ちゅうたい)で結ばれ、めちゃ仕事をするわけです。
 やがて彼らは『士大夫(したいふ)』という超エリート階級を形成するようになり、中国の政治と文化に大きな影響を与えました。
 僕がよく人にお薦めしている本のひとつに『宋名臣言行録』があります。この本は宋の官僚たちが。皇帝にどのように仕えたのかというエピソード集で、様々な人間模様が描かれていてとても勉強になります。
 こうした皇帝の親衛隊的な官僚集団ができたことで、貴族や外戚といった人たちは政治の中枢から排除されていくことになりました。
 ではなぜ中国では、宋代に科挙が完成したのでしょうか。
 全国で公務員試験をやるとなると、参考書が必要になりますね。
 科挙が全国規模で実施できたということは、活版印刷と製紙技術が全国に普及し、どこででも参考書が手に入ることが大前提になります。
 その頃の日本には紙を大量につくる技術も活版印刷の技術もありませんでした。試験を実施する役所もない。
 奈良時代には称徳天皇が百万塔陀羅尼(だらに、世界最古の現存印刷物)を作っています。国家の一代プロジェクトとして6年をかけ、必死で背伸びをして作ったものでした。しかしその後印刷技術は発展しませんでした。
 宋の時代は、新田開発が進み、農業の技術も発展しました。国土が統一され産業や交易も盛んになったことで、中国の人口はそれまでの5,000万人程度から1億人近くまで達します。ちなみにその頃の日本は1,000万人に満たないとされています。
 宋で近代的な官僚システムが完成したころ、日本では『天皇に娘を嫁がせ、皇子を生んでもらう』と藤原氏同士で競いあい、道長がそのシステムの覇者となっていたのです。
 道長と頼通
 995年、藤原兼家の五男だった道長は、立て続けに兄たちが亡くなったので、タナボタ的に一条天皇の『内覧(ないらん)』(関白と同じ職掌)となります。
 道長は父と同じく、娘に恵まれ、次々と代々の天皇に嫁がせます。
 道長の娘の彰子は二人(後一条、後朱雀)、嬉子は一人(後冷泉)の皇子を生みます。
 その結果、後一条天皇が1016年、9歳で即位してから、後冷泉天皇が1068年に亡くなるまで、3代、約半世紀に渡って、道長の家系が外祖父の地位を占め続けることになります。
 道長自身は1027年に死去しますが、その10年前には長男・褚通(よりみち)に後を継がせ、彼を摂政(後の関白)にしていました。
 これまでの藤原氏の兄弟入り乱れての大混戦を避けて、盤石な状態のまま、息子に権力を譲渡したわけですね。
 しかし父と違い褚通はついに皇子に恵まれないまま、1068年には藤原氏外戚としない後三条天皇が即位することになりました。
 このことで摂関家道長・褚通の家系)と天皇家との関係に隙間が生じることになり、新しい時代が始まります。
 この間、律令国家から王朝国家へと変じていくなかで、日本では官人の職掌も代々世襲されていくようになっていきました。摂政関白の地位ですら、道長・褚通の家系に世襲されるようになるようになります。
 それにしても、中国がはるかに先進国だったとはいえ、儒教があり祖先崇拝があって、『親や年長者を敬いなさい』という教えが強かった中国で外戚がもっと幅を利かせてもよかったような印象もありますね。なぜ官僚制度が中国ではかくまでに発達したのでしょう。
 中国政治の本質は法家
 実は中国の政治思想の根幹は、一貫して法家だったのです。
 国家を文書に記された法によって統治するという法家の思想は、紀元前5世紀ごろの戦国時代、宋の時代から振り返っても1500年ぐらい前に既に生まれていました。
 各国の競争が激しくなるなかで、中国では文書行政が発達したのです。
 法家の思想家・秦の商鞅(しょうおう)はその思想をもって、秦を最強国に変貌させ、のちに始皇帝による中国統一につなげます。
 とはいえ法家は『法律できちんと国を治めるんや』という話ですから、面白くも何ともありません。
 そこで統治の建前として一般の民衆向けには儒家の『両親(皇帝)を敬い孝行(忠誠)を尽くしなさい』『お葬式はきちんとするんですよ』という教えを持ってきた。
 逆に知識層のインテリたちはそういった教えに対して斜に構えていますから、『鵬(おおとり)に乗って大空を飛ぶ。精神の高みが大切だ』などといった考えで遊んでもらいます。老荘思想、タオイズムです。
 中国社会が安定していたのは、法家、儒家老荘思想の組み合わせが絶妙だったからだと思います。
 この統治スタイルは、現代でも続いていると思います。今の中国は建前の部分が儒教から共産主義に変わっただけで、実態はエリート官僚が治める超中央集権国家ですよね。
 中国はとても広い国だというのに、時間は北京標準時ひとつしかありません。対してアメリカは本土だけでも4つあります。
 この比較だけでも、中国がいかに中央集権的かがわかりますね。
 このような大衆向けの儒教と、知識層向けの老荘思想の住み分けと同様のことが、実は唐末の時代に中国で広がった浄土宗と禅宗との間にもいえるのです」
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 日本は、知的エリートである高級官僚を試験で選抜する試験・科挙を採用しなかった。
 日本が中国や朝鮮の様に、国として内部から崩壊しなかったのは科挙を採用せず、土着性の強い下級公家や武士階級が下層階級として根を張ったからである。
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 如何に素晴らしい制度・組織でも、その時代と民意がそれを受け入れて正しく運用できなければ「猫に小判」「豚に真珠」に過ぎない。
 宋の近代的官僚システムも、年月と共に、官僚制度の宿命として知偏重と責任逃れで先例主義・事勿れ主義・先送り主義が横行して硬直化した。
 さらに、民族的悪癖から不正や横領で腐敗堕落し、国家として弱体化し異民族の侵略で滅亡した。
 宋が滅亡するや、中国は秦や漢の時代同様の古代式一君独裁体制に先祖返りし、近代的官僚システムは跡形もなく消滅し古典的官僚システムが復活した。
 中華式官僚システムとは、変化を忌避する古典墨守で変化を続ける近代を否定・排除した。
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 宋で、一般民衆に広く信仰されていたのは仏教であった。
 知的エリートである朱熹儒家は、儒教衰退の危機感を抱き、古典的解釈を捨て時代に合った新たな概念の創造を目指した。
 それが宋学朱子学である。



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