🏹5〕─1─蒙古は、高麗人約60万人を強制連行し遼河以東の遼東地域に入植させた。源頼朝。源義経。1183年~No.11No.12No.13 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の相続制度は、平安時代までは母から娘への母系相続で、父親が誰であっても関係がなかった。 
 父親から息子への父系相続に代わったのは、鎌倉時代からである。
 女性の貞淑が重んじられるようになったは儒教の影響であったが、武士の女房は亭主が戦場に出て留守の時は間男を誘い込んで不義密通をはたいていた。
 もし、子供を作れなかった武士が戦で死んだら家が絶える為に、女達は夫が生きているうちに誰の子でもいいから子供を産んでその子を跡取りにして御家を残した。
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 1183年 後白河天皇は、菊を愛し菊紋を使用したが、皇室使用として独占はしなかった為に、貴族、武士、庶民に到るまで天皇に倣って菊紋を愛用して使用した。
 周王朝時代。歴代周王は、菊は愛で観賞用として栽培していた。
 老荘の神仙思想において菊は延命喜寿の霊力があるとし信じられ、陰暦9月9日の重陽の日に不老長寿を祈願して菊酒を飲んだ。
 8世紀後半 平安貴族達は、不老長寿の効能があると言われる菊を輸入して栽培し、唐王朝のマネをして重陽節句を催していた。
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 小林秀雄鎌倉時代がなければ、日本の歴史はごくつまらないものになっていただろう」
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 鎌倉武士は、律令制度で生きてきた優雅な平安貴族とは違って、地方の寒村僻地に土着して自力で生きた。
 家族だけで、他人の助けをあてにせず、道具らしい道具もなく森林や荒れ地を開拓し、創意工夫で開墾した土地で農作物を栽培し年貢を納め、必要な物は自分達で作る自給自足の生活を送っていた。
 ムラの外から攻めてくる敵に対して、集団で立ち向かって生活を守った。
 一族や家族で一丸となって戦い、生活の場であるムラを守る事が名誉とされた。
 鎌倉武士の「名こそ惜しけれ」は、こうして生まれた。
 武士とは、家族の命と生活を守る為に戦争をする集団の事である。
 戦う事を止めた者は武士ではなく、支配され奪われるだけの非力な百姓に過ぎなかった。
 戦う事を嫌う者は、武士・サムライではない。
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 武士とは、名誉ある地位や職業ではなく、その逆で、血に染まり、死の怨霊に呪われた、穢らわしい下層階級であった。
 鎌倉幕府は血生臭く、成立から滅亡まで、北条氏内部の権力闘争や御家人同士の領地区割り問題で対立が絶えず、敵対する一族を武力で亡ぼしていた。
 司馬遼太郎「武士という、京からみれば〝奴婢(ぬひ)〟のような階層の者が、思いもよらず政権を得た。馴れぬこの政権に興奮し、結局は、他を排するために、つねに武力を用いた」
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 1185年 源頼朝は、東国を支配するや、朝廷の許し得ず鎌倉に武家政権でる鎌倉幕府を樹立した。
 幕府は、東国諸国で守護や地頭を任命し、平氏の勢力の強い西国にも支配を広げようとしていた。
 3月 7才の安徳天皇赤間神宮)は、壇ノ浦の戦い武装公家平家が敗北して滅亡するや、平氏一門と共に海中に身を投じて逝去した。
 動乱の原因は、後白河法皇が、退位して上皇となって院政を行い、天皇中心の朝廷権力を回復しようとした為であった。
 武力を持って存在を誇示する平氏と源氏を、仇敵として戦わせた。
 勝利した源氏勢力の中で、源氏の内紛や重臣間の権力闘争を煽った。
 敗れた平氏一門は、源氏の追求を逃れる為に、落ち武者となって山村僻地に逃げ込んだ。
 褒美の誘惑に目が眩んだ村人は、落ち武者を役人に突き出すか、殺して大金を手に入れた。
 惻隠の情を持つ村人は、人として、褒美・金よりも情を優先した。助けを求めてきた落ち武者を庇い、追っ手をかわす為にさらに山奥に逃がした。
 日本の山林奥地の貧しい集落は、こうした高度な教養を持った落人の子孫が大半であった。
 日本の底力とは、血筋正しき貴人・貴種などの上流階級の住人であった者が、地方の下層階級に溶け込み、身分低い貧民に混じって重労働を行って生計を立てた事による。
 源頼朝は、壇ノ浦で恨みを抱いて死んだ安徳天皇平氏一門が怨霊となって祟る事を恐れて、赤間神宮を建立し、祟る神・鬼として祀った。
 負けた平家は、潔く敗走し、人里離れた山野に逃げ込み落人集落を造りヒッソリと暮らし、二度と日本を支配しようという野望を捨てた。
 日本人は、平家が源氏によって滅ぼされる『平家物語』が好きである。
 5月 鎌倉の西の腰越で足止めされていた源義経は、頼朝に宛てた弁明書「腰越状」を書いて差し出した。
 7月9日 近畿地方で大地震が起きた。
 鴨長明「山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌(いわお)われて谷にまろびいる」
 地震、大風、飢饉、疫病などの自然災害が相次ぎ、何時終わるか分からない源平の戦乱も相まって、世の中は騒然としていた。
 鴨長明は、敗北者として世の儚さを痛感し、世俗を捨て山里の奧にて粗末で小さな庵に住みついた。
 佐藤春夫「長明は決して西行のようにえらい人ではなかったろうが、もっと可憐にいじらしい理想家であった」「彼は浄く正しき心を持っていると信じたから、自分に欠けている明き心を探究してあえぎもがいていたのである」(『鴨長明西行法師』)
 10月 源義経は、後白河院に頼朝追討の宣旨を迫って手に入れ、武士を集めようとしたが馳せ参ずる者は誰もいなかった。
 頼朝は、北条時政に軍勢1,000騎を授けて上洛させた。
 11月 後白河院は、頼朝に義経・行家追捕の院宣を出した。
 義経と行家は、都落ちした。
 12月 文治の勅許。頼朝は、全国の警察権と守護・地頭の任命権を手に入れたが、それは関東のみで関西には権勢は及ばなかった。
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 1186年 大原問答。日本の仏教は、中国や朝鮮の仏教とは異なる独自の仏教として発展していた。
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 1189年 奥州平泉。藤原泰衡は、源頼朝への恭順を示す為に源義経を衣川館で攻め滅ぼした。
 源義経が怨霊ととなって祟らない様にするために、白旗神社に祀った。
 源頼朝は、敵として攻め滅ぼした弟・源義経奥州藤原氏を供養する為に、鎌倉に永福寺を建立した。翌年には、滅ぼした安徳天皇と平家一門の供養として鎌倉・勝長寿院で法要を行った。
 後白河法皇も、滅亡に追い込んだ安徳天皇平氏一門の慰霊の為に法要を執り行った。
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 相澤 理「武士団の形成は、各地で有力農民が一族を中心に武装したことから始まりました。これを組織化していっあのが、朝廷から一国の統治を委任されていた国司(受領)層です。なかには任期終了後も土着して在地の有力者となる者もいました。 さらに、武士が各地で起こした反乱に際して、清和源氏桓武平氏など血筋の貴い貴種が都から追捕使や押領使として派遣されてくると、各地の武士はその強さとその血統もよさから武士の棟梁として仰ぎました。こうして全国的な大武士団が形成されたわけです。……天皇を頂点として尊卑を捉えるという身分意識は、武士にかぎらず中世社会全体におよぶものでした。(P.97)……在庁官人とは、国司が現地の有力者から任命した下級役人のことですから、北条氏は一地方武士にすぎなかったのです。しかも、幕府草創期を支えた三浦市・千葉氏などの有力御家人と比較しても、格下の存在でした。……北条氏を、ほかの御家人が武士の棟梁として認めるはずがありません。……また、征夷大将軍に任命する朝廷(公家社会)から見ても、北条氏は不適格であった」(『東大のディープな日本史』P.91)
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 世田谷区サイト「鎌倉時代 の初期に勢田郷にユガ(梵語)の道場が開設されて、後にこの地が真福寺の所有する所となったことから、このユガがヨーガになったのではないかと言われている。」(「地名の由来(瀬田・玉川・用賀・上用賀・玉川台」)
 用賀と呼ばれている地には、平安時代末期から鎌倉時代初期、勢田郷の原野に真言秘密の瑜伽(ゆが)の道場が開設されていた。
 瑜伽とは、サンスクリット梵語)のヨーガを漢字に音写したものである。
 真のヨーガとは、ポーズ中心のヨーガではなく、瞑想中心の仏教の修行法である。
 瞑想をする為に、座禅をし、半眼となり、心を落ち着かせて、呼吸を整える。
 座禅は、ヨーガの修行法の一つである。
 ヨガは、インドで生まれ、中国を経て日本に伝えられたもので、朝鮮には本格的なヨガは入ってはいない。
 日本の座禅は、日本で独自に生まれた瞑想修行法である。
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*サムライの鏡とされた鎌倉武士
 1190年 源頼朝は上洛し、右近衛大将に任命されたが征夷大将軍には任じられなかった。
 鎌倉幕府は、行政を司る政所を開いた。 
 1192年3月13日 後白河法皇法皇が逝去した。
 源頼朝は、征夷大将軍となる。
 源頼朝は、東国武士の棟梁として、東国武士の利益の為に朝廷に向けて権利を主張すべく京に帰還する事はなかった。
 第82代後鳥羽天皇は、源頼朝征夷大将軍職を与えた。
 1196年 高麗王朝。武臣の崔忠献は、政敵を滅ぼし、国王を傀儡として実権を握り独裁政権を樹立した。
 崔氏政権は、高麗に侵略した蒙古軍に徹底抗戦を主張するが緒戦で大敗を帰するや、国内を蒙古軍に荒らせるままにして、国王と共に江華島に逃げ込んだ。
 蒙古軍が撤退すると江華島を出るが、蒙古軍が攻めてくると江華島逃げ込むという、惨めで不様な醜態を繰り返した。
 蒙古は、30年間で6回も朝鮮半島を侵略し、逃げ回る高麗への苛立ちから虐殺と略奪を行い、多くの高麗人を強制連行した。 
 高麗は、戦っても勝てない事を知っていた為に、民に向かって「山か海に逃げろ」と言い残して逃げるばかりで助けようとはしなかった。
 約60万人の高麗人が強制連行され、遼河以東の遼東地域に農耕民として入植させられた。
 遼東地域の高麗人は、蒙古に従わなければ生きていけないとして、積極的に蒙古軍の領土拡大戦争に参加し、各地で虐殺を行っていた。
 血に飢えた狂気に満ちた奮戦振りは、ベトナム戦争における韓国軍の残虐行為と共通する所があった。
 1199年 源頼朝は死去した。


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