🏹15〕─2─蒙古は、高麗に5度侵略し、指定した数の処女を献上する事を命じた。1206年~No.44No.45No.46 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 蒙古は、面従腹背で不誠実な高麗に激怒して五度も侵略し、懲罰として多くの処女を献上する事を命じた。
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 モンゴルは、1231年から59年にかけて、第5次に渡り高麗を絶えず侵略していた。
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 1206年 モンゴル部の指導者テムジンは、チンギス・ハーンの称号をえ、モンゴル(蒙古)帝国を建国した。
 モンゴルは、人種差別的モンゴル人第一主義を採用して、逆らう者は容赦なく虐殺し、恭順する者はその能力に従って重職に就けた。
『元典章』「もし、モンゴル人が中国人を殴っても、殴り返してはいけない」
 能力至上主義から、異民族を無条件で登用したわけではない。
 大陸の掟とは、抵抗する者は皆殺しにして根絶やしにするという事である。
 もし。支配地の地元民がモンゴル人一人を理由の如何にかかわらず殺害すれば、報復としてその町を攻撃し、全ての住人を皆殺しにして、町を生き物が住まない廃墟とした。女子供でも、見逃さず、一人残らず虐殺した。
 その苛酷な「死と暴力」の恐怖統治で、世界大帝国を建設した。
 モンゴル民族の帝国建設は、旧約聖書に記載されたユダヤ民族の建国神話に似ている。
 チンギス・ハーンは、抵抗する者や裏切り者には容赦なく、数倍返しで大虐殺を行った。
 1219年 チンギス・ハーンは、モンゴル人商隊一行数百人がホラズム帝国の都市・オトラルの総督によって殺害された報復として、ホラズム帝国を侵略した。
 オトラル総督を捕らえるや、耳や目玉に煮えたぎり溶かされた銀を一滴ずつ注ぎ込んでゆっくりと惨殺した。
 モンゴル軍は、各地で残虐行為を行い、恐怖で戦意を消失させて征服した。
 モンゴル軍の強さとは、そうした行為を平然と行った事にあった。
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 1208年〜1244年 アルビジョア十字軍による100万人以上虐殺。
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 1223年 鎌倉幕府は、遭難した船は必ず助けるべきだという「廻船大法」を制定した。
 日本の漁師は、男気として、舟板一枚の下は地獄に生きる仲間として危険を覚悟で助け合っていた。
 困っている者を助けないのは、海の男の恥としていた。
 『高麗史』「倭、金州を寇す」。高麗にとって、海の外の人間は全て教養なき野蛮な蛮族、つまり倭族に過ぎなかった。
 高麗と日本には正式な国交は存在せず、日本は高麗に関心がなかったが、高麗は反日として日本を仮想敵国として警戒していた。
 高麗にとって、海賊が日本人だけではなく中国人や朝鮮人が含まれていたも全て倭寇であっり、日本人が一人もいなくても倭寇と見なした。
 中華思想から、高い教養を持った中国人は決して海賊行為をしないと確信していた。
 中華帝国の永続的属国である高麗は、「恨」として逆らっても敵わない中国を憎む事を諦め、反日として日本へ思い付く限りの憎悪の言葉を投げかけていた。
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*高麗は、何度も蒙古軍の侵略を受け、敗北し、虐殺され、そして惨めな属国となった。
 1225年 高麗は、蛮族と軽蔑したモンゴルからの使節を殺害した。
 北九州の草野党は、高麗と貿易を行う為に交易船を送った。
 高麗水軍は、草野党交易船を襲撃して虐殺して積み荷を奪った。
 松浦党は、草野党の救援依頼を受け、報復として高麗を攻め、高麗水軍の基地である金州を攻略して多くの物を略奪した。
 1227年 草野党の流れをくむ対馬島民は、高麗への復讐として攻め込み、高麗軍を破って略奪した。
 高麗は、道察使に軍隊を付けて太宰府に送り込み詰問させた。
 太宰少弐の武藤経頼は、高麗使の烈火の如く怒りまくる剣幕に怯えて、朝廷の沙汰を待たず、独断で松浦党の首謀者90人を捕らえて高麗使の前で処刑して機嫌を取った。
 朝廷は、国家としても面目が汚され天皇の威信が潰されたとして、事勿れ主義的に解決した太宰府を厳しく譴責した。
 太宰府は、八つ当たりとして、最初の原因が高麗であったにもか関わらず、報復攻撃した松浦党を激しく罵った。
 日本側に謝罪と犯人の処刑をさせた、高麗の外交勝利とされた。
 高麗は、日本に勝った事を誇らしく語った。
 1230年 寛喜の飢饉。平安時代の温暖期が終わり、寒冷期に入り、真夏に雪が降るという冷夏となった。
 田畑は冷害で不作となり、食べ物を失った人々は餓死した。
 朝廷、幕府、神社仏閣は、被災者を救う為に各地で炊き出しを行った。
 1231年 第一回高麗征討。モンゴル第二代皇帝オゴタイ・カーン(在位1229〜41年)は、高麗に対して使節殺害を糾弾し臣従を強要する使者を送った。
 高麗王朝を実質的に支配していた武臣・崔氏は、蛮族の風下に立たされるのは屈辱であるとして拒否した。
 高麗王朝は、モンゴル軍を蛮族と軽蔑していた為に権限を持たない下級官僚を派遣し、威徳を以て退去させよとした。
 遊牧民族であるモンゴルには、中国的徳には興味が無かった為に、威徳に平伏して軍隊を引く事はなかった。
 儒教的徳を以て国が守れると信じる人間は、精神障害のある馬鹿か、悪意を持った殺人狂である。
 モンゴル軍は、使者惨殺への懲罰として朝鮮半島に侵入した。
 国境を守っていた洪福源は、援軍を得られず降伏した。
 洪福源の子供である洪茶丘は、モンゴル軍の武将となり、高麗侵略の道先案内役を務めた。
 正規のモンゴル軍は兵力が少なかった為に、降伏した敵兵を先兵として活用して敵軍に攻め込ませた。もし裏切れば、捕らえて地獄のような苦痛を与えてゆっくりと惨殺した。
 高麗軍は、奮戦したが敗北し、首都を占領されて降伏した。
 モンゴルは、間接統治として72名の統治官を主要都市に置き、高麗に対して大量の奴隷と馬や毛皮を要求した。
 高麗は、臣下の証しとして要求された人数の女性を従軍慰安婦として差し出した。
 崔瑀(さいう)ら武人は、モンゴル軍は騎馬戦には強くとも水上戦には弱いと分析した。
 第23代高宗王は、モンゴルの統治官全員を殺害し、モンゴル軍の侵略を避ける為に、領民を捨てて、王族や貴族や高官とその家族を連れて江華島に逃げ込んだ。
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 第二回高麗征討。モンゴル帝国は、統治官を殺害した都市は根絶やしにする戦略から、制裁として朝鮮を侵略した。
 王宮が江華島に逃亡した為に、朝鮮半島無政府状態となり、モンゴル軍や高麗降伏軍によって蹂躙された。
 モンゴル軍は、高麗軍を撃退し、各地で殺戮と強奪を行った。
 高麗は、降伏した。
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 1235年 第三回高麗征討。モンゴル軍は、高麗の抗戦意欲を挫く為に朝鮮を侵略して、慶尚道全羅道で虐殺と掠奪を行った。
 高麗は、モンゴル軍の無慈悲な残虐行為に恐怖して、王室から人質を出す事を承諾した。
 だが。無教養なモンゴル人には人が判断できないと軽蔑して、庶民を王族と偽って差し出した。
 モンゴルは、高麗の姑息な偽装を見破り、君主の約束を守らない朝鮮に激怒した。
 高麗は、モンゴルの恫喝に脅えきって、平身低頭して許しを請い、重臣の子弟を人質として差し出した。
 1237年 モンギル帝国は、ロシアのリャザン公国を侵略し、虐殺を行い、灰燼とした。
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 1239年 後鳥羽元上皇が配流地の隠岐で死亡するや、鎌倉幕府の要人が相次いで死亡して、怨霊の仕業でると恐怖した。
 1242年 弘法大師ゆかりの泉涌寺で、第87代次四条天皇の葬儀が執り行われ、皇室の菩提寺となり、歴代天皇・皇后の位牌が安置されている。
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 1247年 第四回高麗征討。モンゴル軍は、国王が江華島に居るのは不服従の証しであるとして、開城への遷都と王室からの人質を要求する為に、四度目の高麗侵略を行った。
 国王高宗は、モンゴル要求を受け入れ、開城に移り、第二王子を人質として差し出した。
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 1350年 『高麗史』日本人を中心とした「倭寇の侵。ここに始まる」
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 1253〜58年 第五回高麗征討。モンゴル軍は、抗戦派が江華島に兵力を集めているとの理由で、高麗を侵略し、虐殺と掠奪を行い、捕らえた者を奴隷として強制連行した。
 1254年 蒙古軍は、高麗で20万6,800人を虐殺あるいは奴隷として強制連行した
 「蒙古軍が経る所の州都みな灰燼となる」
 「骸骨 野を蔽う」
 高麗国王は、面子を捨て、抵抗する事を諦め、モンゴルの忠実な臣下となる為に朝貢冊封を受けた。
 元皇帝フビライは、高麗を根絶やしにせず降伏を受け容れたが、条件として、創氏改名と公主(王女)を后として娶る事と監督官としてダルガチ(司政官)の受け入れを命じた。
 ダルガチは、モンゴル人王妃には臣下として礼を行ったが、高麗王には礼を尽くさず、高麗の高官は下僕のようにあしらった。
 高麗は、全ての要求を無条件に受諾して元帝国の属国となった。
 高麗を支配したモンゴル人は、伝統的選秀女の制度から、14,5歳の良家子女を差し出す事を命じ、指定した人数が集まらなければ下級官吏の漢人を使って暴力的に集めた。
 これ以降。朝鮮は、明国や清国に対しても、指定された人数の美女を妓生(キーセン・宮廷慰安婦)として献上した。
 朝鮮の歴史には、各種の慰安婦の物語が付きものである。
 その屈辱を享受するしかなかった哀れさは、属国を強要された朝鮮人に同情するしかない。
 第26代忠宣王はイジリプカと、第27代忠粛王はアラトトシリと、第28代忠恵王はポタシリと、第31代までの国王はモンゴル名を名乗った。
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 1258年 第23代高宗は、まともに戦わず窮屈な江華島に逃げ込んで恐怖で震え上がっている事に辟易して、ゆったりした王宮に帰りたくなってクーデターを起こし崔氏政権を滅ぼして蒙古に降伏した。
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 1258年 モンゴル帝国は、約600年続いたアッバース朝カリフ国を攻め滅ぼし、首都バグダードを皆殺しにして廃墟とした。
 モンゴル帝国は、恭順して臣下の礼を取る者には寛大であったが、敵対する者には容赦なく女子供に関係なく根絶やしにして地上から消し去った。
 例外的に助けられたのは、高麗王国であった。
 1259年 高麗は、モンゴル軍の侵略を受け、抵抗もむなしく30万人以上を虐殺されて降伏した。
 モンゴル軍兵士は、アジアの勝利者として、敗戦国高麗の女性をことごとく強姦した。
 虐殺と強姦が、大陸における世界常識である。
 これ以降、高麗は臣下の礼をとって、命じられるままに数千人の美女を宮廷慰安婦従軍慰安婦として差し出した。
 敬虔な仏教徒である高麗王家や重臣らは、同時に高度な正統派儒教の素養を持っていた為に、野蛮人であるモンゴル人を人間ではなく獣と差別していた。同時に、身分低い庶民をも人とは見なさず、下層民をモンゴルの奴隷に差し出しても痛痒を感じる事がなかった。
 朝鮮半島は、古代から中国以上に、身分差別が厳しい歪んだ社会であった。
 高宗の太子(後の元宗)は、臣下として蒙古帝国第4代皇帝モンケ・ハンに拝謁する為に中国に向かったが、モンケ・ハンが南宋征伐の四川陣中で病死た為に第5代皇帝になるフビライに拝謁して忠誠を誓った。
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 1260年 フビライは、モンゴルの皇帝に即位する。
 フビライは、元宗の世子(後の第25代忠烈王)に娘の斉国公主クトルグケルミシュを嫁がせ、父王が死ぬまで人質として元朝王宮に留め置いた。
 第26代忠宣王から第31代まで、フビライ家の娘を王妃として迎え、モンゴル名を名乗った。
 日蓮は、時の執権北条時頼に、「法然上人のいう念仏を禁止しなければ、日本は外敵の侵略を受けて国難に遭う」という『立正安国論』を献上した。
 日蓮宗は、その排他的攻撃性ゆえに国威発揚国粋主義と深く結びついた。
 事実。昭和前期の軍国主義的テロリストは、その多くが狂信的日蓮宗信徒であった。
 日蓮宗がテロ容認ではないし、日蓮宗信徒が全てテロ予備軍ではない。
 ただ、神道や他の仏教宗派に比べて強烈な個性を持っているという事である。
 日蓮は、日本が他国から侵略されるかもしれないという危うい現実を、現在はもちろん、未来においても、時空を超えて日本に警告していた。
 日本が、島国に閉じ籠もり他国と交わらなければ、他国から侵略される事はないと信じている者がいるとすれば、馬鹿か、気狂いか、無知蒙昧の輩であると罵倒した。
 そして、中国や朝鮮の侵略という国難から日本を守れるのは「法華経」のみであると叫んだ。
 戦を忘れ泥に塗れながら野良仕事をして米を作っているサムライは、外敵の侵略に警鐘を鳴らす日蓮を狂人と見なし、口に出すと現実になると恐怖して日蓮とその信徒を弾圧した。
 日本の行く末を案じた日蓮は、幾たびも弾圧されたが、憂国の念が強かっただけに「外国の侵略」よいう考えを改める事がなかった。
 現代では、日蓮の「外国からの侵略」という考えは否定され、誰も口にする事はない。
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 1261年 元軍3,000人は、樺太を占領して駐屯し、蝦夷を率いて攻めてきた安東氏を討ち取った。
 琉球王国は、独立国として、日本、中華帝国、東南アジア諸国と特産の琉球漆器を使って外交や交易を行っていた。
 琉球漆器は、ウルシやハゼノキから採取した漆と中国、タイ、ミャンマーなどからの輸入漆で製作されていた。
 宮里正子(浦添市美術館館長)「日中双方の影響下にあった琉球王国を支えたのは外交。 琉球漆器は国家間を公的につないだ、いわば国の象徴」
 琉球王国は、高麗王国や李氏朝鮮王国とは違って、国際交易を行って豊かであった。
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 1262年 親鸞(1173〜)は、荘子が臨終の場で弟子に語ったとうなじ事を、死ぬ間際で弟子達に遺言した。
 「某(それがし)閉眼せば賀茂河にいれて魚に与ふべし」
 棺桶などいらぬ。葬式もいらぬ。死んだ肉体は川に流して魚の餌にせよ。
 仏教とは、生きて悩み・迷い・苦しむ人間の救済であって死んだ人間の供養ではない。
 よって、死後の世界は存在しない。
 死後の世界は、生きている人間が安心したいが為に作り出した幻想世界に過ぎない。
 事実。夢物語の死後の世界という物語があった方が落ち着く。
 越さねばならない山がある時、山の向こうに綺麗な花畑が有り、清らかな小川があって、美味しい食べ物があると思えば安心して山を越えていく。
 何も分からなかったら、不安で不安で仕方がなく、嘆き悲しみながら、嫌々、山を越さねばならない。
 何もなくても怖くないと思えば何もないと思えば良いし、何かないと怖くて仕方がないと思えば何かあると想えば好い。
 死後の世界を信ずるのは個人の自由で有り、他人の思いを否定も肯定もする必要はないし、他人に自分の念いを強制するのは犯罪である。
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 1266年 フビライは、日本征討計画に着手した。
 8月 モンゴルのフビライは、日本に対し「臣下として忠誠を誓い朝貢せよ」という半強制的要求を突きつける為に、兵部侍郎・ヘイグ(黒的)と礼部侍郎・インホン(殷弘)の二名を招論使として日本に送った。
 日本側に渡す国書には、「命に従わねば武力を使うかもしれない」という文言が書き加えられていて、決して、対等を認めた友好的な親書ではなかく、武力をちらつかせた脅迫文であった。
 つまり。恭順するか、交戦するかの選択を迫る内容であった。
 招論使の案内を、藩属国・高麗国に命じた。
 だが。高麗は、両国との友好関係は自国の不利になるとして妨害した。
 大国間に挟まれた小国が生き残る戦略とは、両国の力のバランスを維持し、A国がB国を攻めるときは優勢な国を支援するが決して一方を滅ぼしてはならないのが鉄則である。
 高麗の宰相李蔵用は、随行する宗君斐と金賛に秘策を言いくるめた。
 高麗の随行者は、招論使一行が対馬に上陸したとこで、日本に向かえば災難に見舞われると説得して日本渡航を断念させた。
 「海を渡る事は危険であり、小国とは云っても野蛮な日本が使節に危害を加える恐れがある」
 高麗国王は、招論使の日本派遣不首尾に終わった事に対する言い訳として、李蔵用と潘阜を罰して彩雲島に流罪とした。
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 1267年8月 フビライとしては、日本に臣下の礼を強制した手前、そのまま有耶無耶にすることは「面子」が許さなかった。
 再度、ヘイグとインホンに日本に向かう様に命じた。
 ヘイグとインホンは、高麗国王に対し、フビライの国書を日本に届ける様に厳命した。
 高麗は、藩属国として宗主国の命令に従い、国書を日本側に渡すべく使者を送る事を承諾した。
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 1268年 フビライ(在位1260〜94年)は、世界帝国の傲慢から、日本に対して来朝する事を要求する恫喝的国書を送った。
 「大蒙古国皇帝が、書を日本国王に奉ずる。……もし拒否をした場合は兵を用うるに至るが、それは好むところではない。日本国王よ、この事をよく思案されよ」 
 中華皇帝と対等にある日本天皇を、高麗国王同様の日本国王と見下し、モンゴル皇帝の下位者と組み込もうとした。
 祭祀王・万世一系男系天皇(直系長子相続)を中心とした、国體の完全否定であった。
 元朝の高級官僚である高麗人は、ジンギスカンに憧れ世界征服を夢見るフビライ皇帝に日本侵略を進言した。
 高麗は、フビライの命に従って、強者モンゴルの臣下となる為に朝貢を求める国書『蒙古国牒状』を持った使者を日本に送った。モンゴルと高麗は、戦争を回避する為に平和の使者を送る様に促したのである。
 幕府は、国書を受け取ったが、事が国運関する重大事の為に、京に送って朝廷の判断を仰いだ。
 国書の中に、従わねば「武力」を用いる可能性を匂わす箇所が問題となった。
 当然。天皇から征夷大将軍の官職を与えられて幕府を開いていた鎌倉武士が、大国のお驕りで強圧的に威嚇する相手に屈服するわけには行かなかった。
 モンゴル帝国に於いて、周辺諸国との対等関係は存在せず、全てが従属関係だけであった。
 
 第90代亀山天皇と朝廷は、日本は、中国皇帝と同格の万世一系男系天皇が統治する独立国であり、如何なる国に対して臣下の礼をとる事はないとして、拒否する事を決定した。ましてや、日本を馬鹿にして、恫喝や威嚇や脅迫する様な相手とは、まともに付き合う気はさらさらなかった。
 日本の総意として、武力を持って従属を強いるモンゴルとの交渉を拒否し、脅迫に激怒して返書を出さず使者を追い返した。
 幕府は、国家防衛の為に、西国の御家人に対して北九州の防衛を命じた。
 日蓮は、幕府に対してモンゴルの襲来を警戒し、国土防衛の軍備強化を訴えた。
 1月 高麗使節・潘阜は、博多に上陸して、1266年の日付がある国書を日本側に手渡した。
 国書は、鎌倉に送られた後に朝廷に提出された。
 鎌倉幕府は、武力行使をちらつかせて修交を強要する傲慢な相手に返事を出す事は、恫喝・脅迫・威嚇に屈した事になり、サムライとしての名誉と誇りが許せないとして拒否する事を決めた。
 朝廷も、モンゴル(中国)と高麗(朝鮮)と国交せず今日に至っている以上、その国法を破ってまで返書を出す必要はないと決めた。
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 1269年 モンゴルは、再度、戦争を回避する為に、臣下の礼をとる様に要求する使者を日本に送った。
 翌年。朝廷は、態度をハッキリさせる為に、要求を拒否する返書を作成する。鎌倉は、返書を出す事は、軍事的威圧を意識している事を相手に知らせるだけであり、不当な外交交渉を認める事になるとして、返書を与える事に反対した。
 3月 フビライは、臣下の礼もとらず返書も寄越さないのは無礼千万である賭して、モンゴル・高麗両国使節団を派遣する事を命じた。
 モンゴルのヘイグ、インホンと高麗の潘阜は、総勢70名の大使節団を率いて対馬に上陸し、両国の軍事力を見せ付け、応対した日本側に返書を寄越さないのは非礼であると詰問した。
 対馬は、モンゴル・高麗の軍事的威圧に臆する事なく、大陸との国交を持たないという国是に従って博多への上陸を認めず帰国する様に突き放した。
 大モンゴル帝国の面目は、小国日本によって潰された。
 使節団は、憤慨し、対馬の島民2名を人質として拉致して帰国した。
 一般的大陸国であれば、モンゴルの激怒に恐怖し、狼狽え怯えて使者をフビライに送って土下座して罪を謝り臣下の礼をとったであろう。
 が。サムライ日本は、生き残り為とは言ってもその様な「ぶざま」で「みっともない」真似ができなかった。
 そこが、日本と朝鮮の根本的な違いであった。
 9月 モンゴルの使者ユロウダイは、高麗代表の金有成と郄柔を引き連れて博多に上陸し、拉致した対馬島民2名を解放して、モンゴル中書省(長官級)の書簡を手渡した。
 小国日本に舐められて退き下がっては、世界帝国としてのモンゴルの自尊心が傷つけられ、征服した地域や臣下の礼をとる潘属国への示しが付かなくなって叛乱が起きる危険があった。
 モンゴルは、是が非でも島国日本を威圧し屈服させる必要があった。
 現代日本であれば、戦争を避ける為に慌てて特使を派遣して機嫌を取るであろうが、サムライ日本は戦争を覚悟為て拒絶した。
 鎌倉は、武力を持って臣下の礼を強要することは無礼であるとして拒否した。
 朝廷は、国家間の礼儀として返書を用意したが、鎌倉からの圧力で送る事を中止した。
 菅原長成起案「蒙古と云う名は未だ聞いた事がない。中国との国交は断絶しており、蒙古とはかって人の通交もない。日本は仏の教えを守る平和国家であり、天照大神以来の天皇が統治する神国であり、知を以て争っても、力を以て争っても駄目であり、よく考えて欲しい」
 日本は、対等関係による平和を望んでいたのであって、中華思想華夷秩序による上下関係を嫌い、ましてや武力を誇示して臣下の礼を強要される事を嫌悪した。
 島国日本には、大陸の常識が理解できなかった。

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