🎍29〕─1─天平9(737)年の疱瘡(天然痘)大流行(パンデミック)。死屍累々の死の島国日本。~No.90 @ 

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 海の外から、文化などの最高も疫病などの最悪も渡来した。
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 2018年1月号 歴史街道「インフルエンザの比じゃない恐ろしさ!
 政治の流れを変えた天平パンデミック
 時は天平。疱瘡(ほうそう、天然痘)の大流行が、藤原四兄弟全員を死に追いやった。
 それはまさしく、奈良時代のターニングポイントとなったのである。
 澤田瞳子
 疫病の大流行で政治機能が麻痺した
 今年もインフルエンザの季節がやってきました。現代に生きる私たちにとっても、ある病気が爆発的に流行する『パンデミック』は、恐ろしいものです。
 医学の発展には、『疫病との闘いの歴史』という側面があります。日本史においても同様で、時代が遡(さかのぼ)るほど、疫病の流行は多大な被害をもたらしてきました。
 奈良時代の記録の記録をみると、天平9年(737)に、ある疫病が大流行しています。この疫病によって当時、政権を握っていた藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)全員が病死し、政治機能が一時的に麻痺してしまいました。
 原因は疱瘡(天然痘)とされていますが、実は史料に明記されているわけではありますん。天平7年(735)にもやはり同じような流行(はや)った記録がありますが、この2つの病を同一と考えるかどうかも説が分かれています。
 では、これらの疫病がどこから来たのか。
 海外からもたらされたものであることは間違いないと思いますが、特定できてはいません。というのも、天平6年(734)から9年の間に、遣唐使のほか、渤海新羅に行った使節が帰国しているからです。
 私自身は遣新羅使が持ち込んだのではないかと考えていて、この疫病の流行を背景にした最新作の長編小説『火定(かじょう)』でも、そうした設定で物語を展開しました。実際、使節の中には新羅で亡くなっている人もいますし、『万葉集』には、往路の壱岐で病に倒れた人のいたことが記されています。彼らは、壱岐にまで広まっていた疫病に感染したのでしょう。
 公家の3分の1が感染して死亡!?
 奈良時代の史料そのものが少なく、特に疫病についての公的な記録は稀少(きしょう)です。ですが、犠牲者数やどのような対策が取られたのかも、ほとんどわかりません。
 ただ、天平年間に政治を担っていた公卿(くぎょう)たちが、疫病の流行前後でどれぐらい入れ替わったかを調べた研究があります。これによると、流行前に92名だった公卿たちが、流行後には56名に減少しています。
 実際に罹患(りかん)した人数は不明ですが、トップクラスの公卿たちのうち、3分の1が死亡した可能性が高い。環境や栄養状態を考えると、庶民が罹(かか)った場合、半数以上が亡くなったとしても不思議ではありません。
 この非常に高い致死率から、当時の日本では未経験に近かった疱瘡、
つまり天然痘だったのは、間違いないでしょう。
 それでは、こお大流行を人々はどう受けとめ、どのような手立てが講じられたのか。
 疱瘡は、高熱から始まるものの、数日後にはいったん熱が上がります。ここで『治った』と思って動き回ると、感染がどんどんと拡大してしまいます。数日後に再び高熱が出て、さらに激しい痛みを伴う発疹(ほっしん)が全身に広がります。致死率は高く、治ったとしても発疹の跡が顔などに残ってしまうのです。
 強い感染力も特徴です。低温や乾燥に強く、罹患した人が使っていた寝具を、二週間後に別の人が使っても罹患する可能性があるといいます。剥(は)がれ落ちた瘡蓋(かさぶた)からの感染です。会う人が限られていた公卿たちが次々と罹患していることからも、感染力の強さがうかがわれます。
 また発症までには、12日間前後の潜伏期間があるとされています。いったん熱が収まるという特徴と長めの潜伏期間、そして強い感染力によって、疱瘡は爆発的に広まったのです。
 こうした状況下で、どのような治療が施(ほどこ)されていたのか。
 これも記録は残っていません。天平2年(730)、皇后・藤原光明子(こうみょうし)が施薬院悲田院を設立しています。施薬院は今でいう病院、悲田院は孤児や飢人(きじん)を救済する施設でした。どれほどの収容力や医療技術があったかは定かではありませんが、何らかの手立てを講じた可能性はあります。
 一方、宮城(きゅうじょう)内には貴族専用の医療機関である典薬寮(てんやくりょう)と、天皇をはじめ皇族を診察する内薬司(ないやくし)がありました。
 しかし、疱瘡予防のマニュアルがなかったのは、市井(しせい)も宮城内も同じです。ほとんどなす術(すべ)もなく、快癒(かいゆ)を祈りながら、思いつく限り対症療法を施すしかありませんでした。
 パンデミックをきっかけに政局は混迷を深めた
 政治と民(たみ)の距離は、今よりずっと遠かったはずです。けれど、要職にある人たちが次々に倒れ、亡くなっていることを知った人々は、さらに恐怖を覚えたでしょう。
 人は未知のものに対して不安や怖れを抱きます。得体のしれない新興宗教に縋(すが)る、あるいは身なりや言葉の違う外国人を『厄災(やくさい)を持ち込んだ』と見なして攻撃する──『火定』の中でも描きましたが、ふだんは『バカバカしい』と一笑に付すようなことが、起こり得るのがパンデミックです。
 そうした中でも、天平9年6月、『典薬寮勘申(かんじん)』が発表され、そこには、猛威を振るう疫病への対処法が示されました。ただそこに書かれていたことは、医学には素人(しろうと)の私でも違和感のあるものが少なくありません。
 たとえば『水を飲ませると死ぬから飲ませるな』『辛いものや生魚は食べさせてはいけない』など。根拠がわかりませんけれど、必死で治療の糸口を探していたんだということは伝わってきます。
 天平9年の疫病の大流行は、政治的クライシスとしてもパンデミックとしても、日本史に大きな影響を及ぼした厄災です。
 藤原四兄弟が亡くなった後、藤原氏の勢力は大きく後退し、聖武天皇を中心に橘諸兄などによる皇親政治が始まります。それに対して藤原氏では、四兄弟における一番上の武智麻呂の子・仲麻呂が巻き返し、その後には道鏡が現われ・・・と、政局は混迷を深めていくのです。
 この疫病の大流行は、まさしく奈良時代のターニングポイントになった出来事でした。のちの造られる東大寺の大仏も、この疫病と無縁ではなかったと考えていいでしょう。
 時代が下(くだ)がると、疱瘡は〝定着〟していきます。悪神(あくじん)として擬神(ぎしん)化され、『疱瘡神(ほうそうしん)』として人々に恐れられ続けました。
 江戸時代には、疱瘡神を封じる『疱瘡除(よ)け』として、源為朝の絵が出回りました。保元の乱の後、伊豆大島に流された為朝が支配下に収めたとされる八丈島には、疱瘡がなかったからです。
 長い間、人々を苦しめ続けた疱瘡。その苦しみから解放されるのには、種痘(しゅとう)が発見され、世界中に普及した20世紀を待たなくてはなりませんでした」
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 2022年12月3日 YAHOO!JAPANニュース 産経新聞平城京を襲ったアウトブレイク 都人は「3密」を知っていた
 各地の道路遺構からは人形や馬形などの祭祀具が出土している。写真は古代山陰道の発掘調査に伴い出土した祭祀具=鳥取県埋蔵文化財センター
 「咲く花のにほふがごとく」と、繁栄ぶりが和歌にうたわれた平城京。しかし、それから10年もたたないうちに、貴族の約4割が亡くなったと記録に残るほどの天然痘の大流行に襲われた。当時の〝水際対策〟が、九条大路で行われた祭祀(さいし)「道饗祭(みちあえのまつり)」とされる。鳥取市で行われた講演会「古代の道と祭祀」ではサブタイトルを「疫病は道を通ってやってくる?」として、感染症に対する古代人の意識が明らかにされ、長引く新型コロナウイルス禍に直面する市民の関心を集めた。
平城京を2度襲った天然痘アウトブレイク
 「平城京の南辺・九条大路の羅城門近くに位置する『前川遺跡』で、大量の土師器(はじき)杯や皿、椀(わん)が出土した。これは天然痘禍で行われた道饗祭の直会(なおらい)(祭りごとの後の宴会)の痕跡だと考えている」
 講演会は鳥取県埋蔵文化財センターが主催。奈良文化財研究所都城発掘調査部考古第二研究室長の神野(じんの)恵さんは、こう研究成果を発表し、古代人にとって「道」は、神々や精霊を迎える場所である一方、邪悪を追い払う場所でもあったとして、「道饗祭は神をまつって鬼魅(きみ)(鬼やばけもの)が都に入ってこないようにした祭り。路上に物を供え、おもてなしし退散を願った」と説明した。
 天然痘の大流行は天平7(735)年、同9年の2度にわたって発生したとみられており、このうち9年の流行は、4月に大宰府管内で発生し7月には都へ波及した。平安時代初期に編纂(へんさん)された歴史書続日本紀(しょくにほんぎ)」には、6月の記録として「廃朝。以百官官人患疫也」と、官人がことごとく天然痘に感染し朝廷の政務が止まったと伝えている。4~8月の間には、いずれも藤原不比等の子で、当時権力の中枢にあった武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)の藤原4兄弟が相次いで感染して死亡するなど猛威をふるった。
■感染者邸宅の食器を廃棄
 「朕以不徳実致玆災」
 続日本紀天平9年5月19日条にはこんな記述があり、聖武天皇が「朕の不徳ゆえにこの災禍に至った」と、天然痘の流行に対して責任を感じ、自らの不徳を認めたとする。この時代、人々に安寧な暮らしをもたらすのは為政者の徳と考えられていたためだ。聖武天皇天然痘の流行に対して祈禱(きとう)や人々に対する生活支援、医療提供などあらゆる対策を講じたとされ、道饗祭もその対策の一つだった。
 天然痘に対する古代人の認識をうかがわせる遺物は前川遺跡以外からも出土している。都のメインストリートだった二条大路では大きなごみ捨て穴(濠状土坑)が確認され、大量の土器や木製品などが、天然痘の終息を願う呪符木簡とともに出土した。この場所は、藤原麻呂の邸宅前で、神野さんは「麻呂の邸宅で使われた食器が、天然痘感染防止のため、まとめて廃棄されたのだろう」と述べ、現代に通じる古代人の感染予防対策だったと分析した。
 さらに奈良時代前半と後半で出土する土器が、大型のものから小型へと変わり、「共食から個食」への変化がみられると指摘。天然痘の大流行が境目とみられ、「蔓延(まんえん)防止のための変化で、新しい生活様式への転換だ」と述べた。
■死や病の場でもあった「道」
 平城京跡からは当時のイスラム圏や唐、新羅などの文物が出土している。平城京は人口が密集し外国との交流が盛んに行われた国際都市で、疫病が流行する条件はそろっていたという。天平9年の大流行では、朝廷が新羅に派遣した使節遣新羅使)が1月に帰国したものの、天然痘に感染し正使は対馬で死亡、副使もその年、奈良に入ることができなかった。こうした史実を踏まえ、神野さんは「天然痘新羅からもたらされたのではないか」と推測し、「古代人は人が動くと疫病も動くと知っていた」と話した。
 「古代人にとって道とは、政治・経済的には軍隊を動かし、税金を運び、海外使節などに国家の威信を表す場所だったが、実際には、税金を運ぶ途中に民衆が行き倒れるなどする『死』や『病』の場でもあった」
 こうした場所であるがゆえに、各地で確認されている古代の道路遺構からは、災いを取り除くべく人々の思いが託された人形(ひとがた)や馬形などの祭祀具が見つかっている。
 天然痘の大流行を受けて聖武天皇は、道饗祭を行うよう長門(現在の山口県)以東の諸国に命じたという。「律令制度の浸透を明らかにするためにも、各地での道饗祭の祭場の発見が期待される」と、神野さんは語った。(松田則章)」」
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 中華世界とのヒトの往来とは、パンドラの箱と同じで、幸せは少なく不幸や災いの方が多かった。
 人には2種類いて、不幸や災いを忘れ僅かな幸せを大事にして前に進み豊かさと穏やかさをえる人と、僅かな幸せに目を向けず不幸や災いに気を取られて後退りして貧しさと苛立ちで我を忘れる人である。
 日本民族日本人は前者であったが、朝鮮人は後者であった。
 民族として、日本の歴史は前に進む歴史であるが、中華の歴史の1つである朝鮮の歴史は後退りの歴史で進化・進歩の跡はほんの微細である。
 だが、現代の日本人は前に進む前者ではなく後退りする後者に転落しつつある。
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 天皇は、日本国と日本民族の為に、朝鮮とは奈良時代に、中国とは平安時代初期に、それぞれ国交を断行した。
 日本と中華(中国・朝鮮)とは、商人による個人的な交易はあったが、国家としての交流はなかった。
 「敬して遠ざける」、それが、日本の対中華(中国・朝鮮)外交の大原則で、間違っても親友の様に深く付き合わう事はしなかった。
 物と金の往来は盛んにしても、人の往来は避けたのである。
 受け入れるとすれば、天皇に忠誠を誓い日本国の発展に寄与する帰化人であって、天皇に弓を引き日本国を混乱させ騒乱を企てる渡来人は排除した。
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 日本列島・自然災害多発地帯で疫病や飢餓が蔓延しいつ死ぬか分からない絶望的状況に追い込まれても、暴動や騒乱による強奪・殺人・暴行・強姦などが起きず、法秩序や道徳心で治安が守られた安定していたのは、単一の民族・単一言語・単一思考が有ったからである。
 つまり、雑多な日本人だからではなく、単一な日本民族だからである。
 そして、天皇の「徳による祈り」を信じきっていたからである。

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