☲26〕─1─朝鮮ではワルシャワ蜂起は起きなかった。ポーランド・レジスタンスを庇った軍国日本。1944年8月1日~No.85No.86No.87 @ ⑳ 

   ・   ・   ・   
 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 朝鮮人は、日本民族日本人とは正反対で、強い者に弱く、弱い者は強く、勝てる戦いには参加するが、負ける戦いには参加しなかった。
   ・   ・   ・   
 ワルシャワの日本外務省職員や日本陸軍将校達は、ポーランドレジスタンスをドイツ軍・親衛隊・ゲシュタポの厳しい探索から庇っていた。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 ワルシャワ蜂起は、第二次世界大戦後期、ナチス・ドイツ占領下のポーランドの首都ワルシャワで起こった武装蜂起である。

 経過
 蜂起
 ポーランド国内軍が捕獲し、ナポレオン広場に通じる病院通りのバリケードに組み込まれた軽駆逐戦車ヘッツァー。後に修理され「フファット」と名付けられたが、置かれていた中央郵便局の爆撃で、瓦礫に埋もれ放棄された。
 ドイツ軍に占領されたビルを銃撃する国内軍兵士
 1944年6月22日から開始された赤軍によるバグラチオン作戦の成功によりドイツ軍の中央軍集団は壊滅、敗走を重ねた。ドイツ軍は東部占領地域に再編成・治安維持のために駐屯する部隊をかき集めて戦線の穴を埋めて防戦に努めた。
 赤軍占領地域がポーランド東部一帯にまで及ぶと、ソ連ポーランドレジスタンスに蜂起を呼びかけた。7月30日には赤軍ワルシャワから10kmの地点まで進出。占領も時間の問題と思われた。ポーランド国内軍はそれに呼応するような形で、8月1日、ドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワ武装蜂起することを赤軍と打ち合わせた。
 7月31日、ドイツ軍が猛反撃を行い赤軍は甚大な損害を被る。さらに赤軍は補給に行き詰まり、進軍を停止した。
 国内軍には赤軍の進撃停止の情報は伝えられなかったうえに、その直前の7月29日には、モスクワ放送から蜂起開始を呼びかけるラジオ放送が流れ続けており、赤軍の位置からそのワルシャワ到着は大きくは遅れないと判断された。
 8月1日17時ちょうど、約5万人の国内軍は蜂起を開始。兵士達は橋、官庁、駅、ドイツ軍の兵舎、補給所を襲撃する。
 この時刻は「W」と呼ばれ、現在でも毎年8月1日の同時刻にワルシャワではサイレンが鳴り渡り、市民がその場で動きを止め、各自で1分間の黙祷を捧げるのが恒例行事となっている。

 ドイツ軍の対応
 奪った武装親衛隊の迷彩服に、識別用の国旗色の腕章を付けて着用する国内軍兵士
ワルシャワ市内には治安部隊を中心に約12,000名のドイツ兵が駐屯していた。その内、戦闘部隊と呼べるのはオストプロイセン擲弾兵連隊の約1,000名だけであった。ドイツ軍治安部隊は数で劣っていたものの国内軍を圧倒する豊富な物量装備をもって臨んだ。その兵員の大半が火器を持たない国内軍では目標地点のほとんどを占領できず、わずかにドイツ軍の兵舎、補給所を占領しただけであった。即日報告を受けたアドルフ・ヒトラーは、これをみて、赤軍が国内軍を支援する気が全くないと判断し、蜂起した国内軍の弾圧とワルシャワの徹底した破壊を命ずる。
 国内軍は引き続き、目標地点に攻撃を仕掛けるが成果は上がらず、警察署や電話局では取り残されたドイツ軍部隊が徹底抗戦を行っていた。しかし、ドイツ軍の補給所、兵舎の占領により、当初数人に一人しか銃が無いという状態を脱し、奪ったドイツ軍の小火器、軍服が国内軍兵士に支給され、装備面で多少の改善が見られた。これにより、敵味方が同じ軍服を着用するため、国内軍兵士はポーランド国旗を模した腕章やワッペンを着用し、識別を行った。さらに多くの市民が国内軍に参加、協力をして、ドイツ軍の反撃に備えバリケードを築いた。
 鎮圧軍司令官に任ぜられたエーリヒ・フォン・デム・バッハSS大将は8月3日には現地に入り、周辺の部隊をかき集め、5日には反撃に出る。急遽近隣に駐屯していた部隊をかき集めたドイツ軍は殆どが大隊規模の部隊だけで、臨時に戦闘団に編成し、市街地西側から攻撃を開始する。しかし、国内軍を中心として士気が高くよく統率のとれたレジスタンスの猛烈な防戦に会い、進撃は遅々として進まなかった。攻撃部隊にはカミンスキー旅団やSS特別連隊「ディルレヴァンガー」といった素行の悪さで有名な部隊が加わっており、これらの部隊の兵士たちは戦闘より略奪や暴行、虐殺に励んだ。このことはワルシャワ市民と国内軍の結束をより一層強め、戦意を高揚させた。
 7日には市街地を何とか横断し、国内軍占領地を分断し、包囲されていた部隊を解放した。しかし、市街地に立て籠もる国内軍の抵抗は続き、激しい市街戦が続く。国内軍も8月19日に総反撃に出て、電話局を占領し、120名のドイツ兵が捕虜になった。ディルレヴァンガー連隊、カミンスキー旅団の残虐行為への報復として、捕虜のうち武装親衛隊兵士や外国人義勇兵は全員その場で処刑された。

 ソ連赤軍の対応
 ヴィスワ川対岸のプラガ地区の占領に成功した赤軍は、市街地への渡河が容易な状況にあったにもかかわらず、国内軍への支援をせずに静観した。赤軍と共に東方からポーランドへ進軍しプラガ地区に到着していたズィグムント・ベルリンク将軍の率いる第1ポーランド軍のみが対岸の国内軍支援のための渡河を許され、彼らポーランド人部隊はベルリンク将軍以下必死でレジスタンスへの支援をしたものの、その輸送力は充分ではなかった。赤軍は輸送力に余裕があったにもかかわらず第1ポーランド軍に力を貸さなかった。のちにポーランド人民共和国最後の国家指導者で1989年の新生ポーランド共和国初代大統領となったヴォイチェフ・ヤルゼルスキはこの時、第1ポーランド軍青年将校として現地におり、物資補給作戦に参加している。彼はこのときの燃え盛るワルシャワ市街を眺めながら、蜂起を傍観した赤軍に対して涙ながらに感じた悔しさをのちに自伝『ポーランドを生きる』のなかで赤裸々に吐露している。
 ソ連はイギリスやアメリカの航空機に対する飛行場での再補給や、西側連合国による国内軍の航空支援に対し同意せず、質・量に勝るドイツ軍に対して劣勢に回り、蜂起は失敗に向かっていく。

 終焉
 ドイツ軍は重火器、戦車、火炎放射器など圧倒的な火力の差で徐々に国内軍を追いつめていった。その一方で目に余るカミンスキー旅団の残虐行為に対しハインリヒ・ヒムラーは、8月27日に司令部に対しカミンスキーの処刑を許可した。カミンスキーは故意に呼び出されたところを殺害され、ワルシャワから撤退したカミンスキー旅団は解散させられた。8月31日には、国内軍は分断された北側の解放区を放棄し、地下水道を使って南側の解放区に脱出する。9月末には国内軍はほぼ潰滅する。

 ワルシャワの破壊
 その後、ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされ、蜂起参加者はテロリストとされ、レジスタンス・市民を合わせて約22万人が戦死・処刑で死亡したと言われる。しかし、イギリス政府がワルシャワレジスタンスを処刑した者は戦犯とみなすとラジオを通して警告したため、レジスタンスへの処刑は止んだ。10月2日、国内軍はドイツ軍に降伏し、蜂起は完全に鎮圧された。翌日、ワルシャワ工科大学に国内軍は行進し、降伏式典の後、武装解除された。降伏した国内軍は、捕虜として収容所に送られた。しかし、武装解除に応ぜず、地下に潜伏して抵抗を続ける者も多かった。
 市民の死亡者数は18万人から25万人の間であると推定され、鎮圧後約70万人の住民は町から追放された。また、蜂起に巻き込まれた約200名のドイツ人民間人が国内軍に処刑されたと言われている。国内軍は1万6,000人、ドイツ軍は2,000名の戦死者を出した。
 一連の戦闘により、ワルシャワの市街地はほぼ完全に破壊され、歴史的建造物や文書などの文化遺産の多くが失われた。ワルシャワの再建には長い年月を要することとなる。

 ソ連軍の進駐
 赤軍は1945年1月12日、ようやく進撃を再開。1月17日、廃墟と化したワルシャワを占領した。その後、赤軍レジスタンス幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取った。
 生き残った少数のレジスタンスは郊外の森に逃げ込み、ソ連進駐後は裏切った赤軍を攻撃目標とするようになった。1950年代頃まで「呪われた兵士」と呼ばれた森の反共パルチザンとして生き残り、共産政府樹立後も政府要人暗殺未遂などしばらく混乱が続いた。

 背景
 ワルシャワ蜂起を指導したのはポーランド亡命政府である。ポーランドには第二次世界大戦勃発直後、ルーマニアからパリを経由し、ロンドンに亡命した「ポーランド亡命政府」が存在した。亡命政府にとって、ソ連は自国をドイツと共に侵略した国であったが、独ソ戦開始後はソ連に接近する。さまざまな問題により、決して良い状態でなかった両政府の 関係は、カティンの森事件の発覚により決定的に悪化する事となった。
 東欧をドイツから奪取してきたソ連は、ロンドンのポーランド亡命政府とは別に、共産主義者による傀儡政権樹立を目指し、1944年7月下旬にポーランド東部ルブリンで傀儡政権(ポーランド国民解放委員会、ルブリン政権)を樹立していた。したがって亡命政府側主導の武装蜂起は、相容れるものではなかった。そのためワルシャワ蜂起は、ポーランド亡命政府主導の組織を壊滅させるための、ソ連の意図的な陰謀であったという説すらある。
 もっとも、蜂起が始まった時点でバグラチオン作戦をほぼ終えていた赤軍は、人的・物的被害を受けて損耗しており、また補給路も伸びきっていたことも事実である。南方でルーマニアを始め、枢軸国を離反させる目的で行われたヤッシー=キシニョフ攻勢の影響もあり、全兵力をもってワルシャワに進撃することも不可能だった。
 そのような状況下にあれど、国内軍に対して絶対不利な武装蜂起を促すモスクワ放送を積極的に奨励し、ポーランド在住の指導部を壊滅させる意図があったと解釈されても仕方のない不自然な活動を行っている。また蜂起に際して各国が申し出ていた国内軍への様々な支援作戦を拒否、また援助活動に対する妨害を行っていることは、紛れもない事実である。
   ・   ・   
 ワルシャワ・ゲットー蜂起
 戦争:第二次世界大戦(東部戦線)
 年月日:1943年4月19日 - 5月16日
 場所:ワルシャワ・ゲットー, ポーランド
 結果:ドイツ軍の勝利
 交戦勢力
 ドイツ国(武装SS、秩序警察、保安警察、ドイツ陸軍)
 ナチス協力者(ポーランド警察、ポーランド消防隊、トラヴニキ強制労働収容所ウクライナ人警備大隊)

 ユダヤ人の抵抗勢力(ユダヤ人戦闘組織(ZOB), ユダヤ人軍事同盟(ZZW))
 ポーランド人の抵抗勢力(国内軍、人民軍)
 戦力
 ドイツ軍 1日に展開した平均兵力2,090人。
 反乱軍750人 ゲットー市民数5万6,000人以上。
 損害
 ドイツ軍 シュトロープの記録では公式には16人死亡、86人負傷。
 反乱軍 シュトロープの記録では合計で56,065人を捕虜にし、うち1万3,929人死亡。これとは別に5,000人から6,000人死亡。

 ワルシャワ・ゲットー蜂起は、第二次世界大戦中の1943年4月から5月にかけて、ワルシャワ・ゲットーのユダヤレジスタンスたちが起こしたナチス・ドイツに対する武装蜂起である。
   ・   ・   ・   
 日本の外務省や軍部は、表面的には親ドイツ派であったが、実質には親ポーランド派であった。
 昭和天皇は、スターリンソ連共産主義勢力同様にヒトラーナチス・ドイツ、ファシズムを嫌い、日本に逃げてきたポーランドユダヤ人難民を助ける事を切望していた。
 東条英機松岡洋右板垣征四郎松井石根A級戦犯達は、ヒトラーナチス・ドイツの威圧を拒絶して、逃げてきたポーランドユダヤ人難民達を救助し、開戦前は神戸・横浜に救護し、開戦後は上海の日本租界に収容し戦争終結まで保護し続けた。
 アジアに逃げてきたユダヤ人難民を助けたのは、軍国日本である。
 日本とポーランドの関係は、ドイツとの関係以上に深く強い絆を持っていた。
 ヒトラーとドイツは、ルーズベルトアメリカやスターリンソ連と同様に反日派であった。 
 ポーランドは、西洋諸国において唯一の親日派国家であった。
   ・   ・   ・   
 日本歴史旅行協会 
 日本とポーランドの意外な接点
 第二次世界大戦当時、ナチス・ドイツ兵の前でポーランドの首都ワルシャワの子供達が「君が代」「愛国行進曲」を日本語で大合唱!ドイツ軍は驚き、呆気にとられ、その場を退く事に。。。。
 ドイツ兵?ワルシャワ君が代? ???
 いったい何が起きたのか?これだけではさっぱり分かりませんよね。そこに至る迄の背景を辿ってみましょう。
 18世紀末(1700年後半)、ポーランドは消滅。地図上から姿を消しロシア帝国に組み込まれます。独立を求めたポーランド人は何度も蜂起しますが失敗、流刑の地であるシベリアに送られました。
 特に1863年から翌年にかけて行われた「一月蜂起」では、約8万人ものポーランド人が流刑囚としてシベリアに送り込まれたそうです。
 日本が地図から消されてしまったらどう思いますか?当時のポーランド人にとっては筆舌し難い事だったのではないでしょうか。
 その後100年以上の時を経て第一次世界大戦後の1918年、ポーランドは独立を果たします。ところが1917年に起きたロシア革命による内乱はシベリア全土に拡がり当時10万人以上いたポーランド人達を巻き込んで行く事になります。その戦火を逃れる為に東へ東へと向かったそうです。
 混乱のさなか親とはぐれたり失ったりした子供達が続出しました。
 このような惨状の中にいたウラジオストック在住のポーランド人達は「ポーランド孤児救済委員会」を組織し祖国ポーランドへ帰そうとしますがロシア革命後に樹立したソビエト連邦ポーランドの間でポーランドソビエト戦争が勃発し、孤児たちの帰還は困難な状態となります。
 救済委員会はヨーロッパ諸国やアメリカに輸送援助を求めましたが要請が受け入れられる事は有りませんでした。そこで当時はまだ小国だった日本へ救援の依頼をします。
 これを受けた外務省は即座に日本赤十字社に掛け合い、わずか17日後にその要請を受理。この決定を下した1920年はポーランドが独立してから2年しかたっておらず、更に言えば要請は一民間組織からのものです。
 当時の混沌とした国際情勢の中、日本政府の取った迅速な対応とその英断に驚かされるのは私だけでしょうか?
 救済活動はシベリア出兵中の陸軍の支援を得て2年近く実施され800名近くの孤児が保護され日本に招き入れられました。そして日本に滞在中の孤児達には治療、療育が施され2年間を過ごします。
 やがて日本を離れる時が来ます。孤児達は乗船を拒み、泣きながら見送りに来ていた日本人の医師、看護婦など御世話になった人々にしがみつき離れようとしなかったそうです。そして波止場に並んで、「アリガトウ」「アリガトウ」を繰り返し、滞在中に覚えた「君が代」を精一杯歌ったと言う事です。
 孤児たちは後に「日本は天国のような場所であった」と回想しているそうです。
 いかに当時の日本人が子供達に暖かく親身になって接したのか、この事実を知れば想像に難くありません。日本人として誇りに思います。
 イエジ・ストシャウコフスキ。。。祖国に戻った孤児の1人です。17歳になったこの青年は日本との親睦を目的とし1928年にシベリア孤児達で組織される「極東青年会」を立上げ、その活動の一つとして日本の文化をポーランドに紹介していったそうです。
 その後、世の中の情勢は第二次世界大戦へと突入し、ポーランドの首都ワルシャワナチス・ドイツ軍の占領下に置かれます。そんな中、イエジ氏は極東青年会の幹部達を招集しレジスタンス運動への参加を決定します。イエジ氏の部隊は、イエジキ部隊と呼ばれるようになりました。
 イエジキ部隊には戦禍で親を失った孤児達も参加し、その人数は最大1万5,000人、ワルシャワ地区だけで3,000人が正規戦闘員として登録される巨大組織へと膨れ上がります。
 ワルシャワでの地下活動は激化、イエジキ部隊はナチス当局から目を付けられる事になります。
 当時、イエジキ部隊は孤児院を隠れみのとしていました。そこへ、ある日突然ナチス・ドイツ兵が強制捜査の為に押しかけます。この急報を受けて駆けつけたのが日本帝国大使館の書記官でした。
 孤児院の院長を勤めていたイエジ氏はこの書記官からドイツ兵の前で孤児達に日本の歌を歌わせる事を依頼されます。
 これが冒頭での日本語の大合唱の話へとつながります。
 イエジキ部隊は何度も日本帝国大使館に庇護されたそうです。つまり、ドイツと同盟関係にあった日本がポーランドレジスタンス活動を守っていた事になります。
 憶測になりますが、例え同盟関係に有ろうとも、ナチス・ドイツ軍のやり方に疑問を持っていた日本人の正義感がレジスタンス活動を庇護するに至ったのではないでしょうか?
 1944年8月に起きた「ワルシャワ蜂起」での死者は20万人にも及びワルシャワの街は壊滅の状態に陥ったまま第二次世界大戦終戦を迎える事となります。
 この時、破壊されたワルシャワの街は現在「ワルシャワ歴史地区(旧市街)」として完全に復元され世界文化遺産に登録されています。
 復元は厳密に行われました。もともとの建物に使用された煉瓦はできるだけ再利用され、破片は再利用できる装飾的な要素に変えられ、それらはもともとあった場所に再度挿入されたそうです。壁のひび割れ一つについても当時の写真などから出来る限り復元したそうです。
 復興を強く願ったワルシャワ市民達の熱意が街を完全復活させたのでしょう。現在はレストランやカフェ、土産物店が軒を連ね、大勢の観光客で賑わいを見せています。
 実際に行ってみると、その完璧なまでに綺麗に復元された町並に驚かされます!
 さて、この話には続きがあります。もう少しだけお付き合い下さい。
 ワルシャワ蜂起から約50年後の1995年(平成7年)。日本は阪神淡路大震災に見舞われます。
 この時にいち早く救援活動をしてくれた国の一つがポーランドでした。そしてこの地震で孤児となった子供達をポーランドへ招待してくれたのです。震災孤児が帰国するお別れパーティーには、4名のシベリア孤児の方が出席され自分たちが日本に親切にしてもらったことを切々と語り、涙を流してこれで恩返しができたと語ったそうです。
 人種や国が変わっても、あるいは年月が経っても真摯な行動には真摯な対応で答えてくれるという好事例ではないでしょうか。
 かつての日本人の取った行動、ポーランド人の恩返し、おそらくこの事実を知っている人は多くはいないと思います。
 今回の話を含め、このような事実はまだまだ多く残されています。しかし残念な事にあまり多くの方に知れ渡ってはいません。現在、グローバル化が激化する中でこれらを知る事の重要性は高まっていると感じます。日本人としての誇りを持って頂くためにも、今後も情報を発信し続けたいと思います。
 近代では苦難の歴史を辿ったポーランドですが、その歴史の結果からなのかポーランド人は真面目で勤勉です。個人的には日本人とも波長が合うように思います。
最後に少し余談です。
 ポーランドの3大偉人をご存じでしょうか?コペルミクス、ショパン、キューリー夫人です。ポーランド人が勤勉な事を証明していますね。ちなみにショパンの心臓が埋められた柱のある教会がワルシャワ市内にあります。
 ワルシャワの中心には文化科学宮殿と言う高層ビルがあります(下記の写真を参照して下さい)。このビルは共産時代にスターリンから贈られた建物です。ワルシャワ子たちはこの建物からの眺めが好きだそうです。なぜならばこの建物を見ずにすむからだそうです(^^)
 ポーランドに訪問する機会に恵まれた方は親日ポーランドの人達と接し、ポーランドを楽しんで来て下さい! 」
   ・   ・   ・   
 
  ・   ・   ・   

ワルシャワ蜂起1944(上): 英雄の戦い

ワルシャワ蜂起1944(上): 英雄の戦い

ワルシャワ蜂起1944(下): 悲劇の戦い

ワルシャワ蜂起1944(下): 悲劇の戦い