🌋2〕─2─海原モンゴロイドと極寒モンゴロイドと草原モンゴロイドが日本列島で雑居し乱婚して混血児・島嶼モンゴロイドを生んだ。原始糸の道。100万年前。~No.5No.6No.7 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本人は、日本民族が持つが勢い・偶然・幸運によって、幾度も襲い来る地獄の様な自然災害の中を生き延びてきた。
   ・   ・   ・   
 自分より他人や共同体の為に自己犠牲的行動をする弱気で臆病な小心者の日本民族は、「畜群」(ニーチェ)か。
   ・   ・   ・   
 海原モンゴロイドと極寒モンゴロイドと草原モンゴロイドが日本列島で雑居し乱婚して混血児・島嶼モンゴロイドを生んだ。
   ・   ・   ・   
 サミュエル・ハンチントン 『文明の衝突と21世紀の日本』
「文化と文明の観点からすると、日本は孤立した国家である。……他のすべての主要な文明には、複数の国が含まれる。日本が特異なのは、日本文明が日本という国と一致していることである」(P.45〜46)
「日本は、なんらかの危機に見舞われた場合、日本に文化的なアイディンティティを感じると言う理由で、他の国が結集して支援してくれることを当てにできない。……日本は他の社会に家族を持たない文明である。……他の社会は、アメリカを含めて、日本にたいして家族的な義務を負っていないのである」P.48〜49)
政治学者のルシアン・パイによると、中国は『一つの国を装っている文明』である。日本の場合は、国すなわち文明である。しかし、大部分の文明は二つ以上の政治的な単位をかかえている。近代の世界では、ほとんどの文明に二つ以上の国家が含まれている」
 グロータース「日本では、日本国民は日本語を話し、伝統的な日本文化を有する日本民族に属する。この日本国民、日本語、日本文化、日本民族の四つの要素は、完全にその範囲が一致する」(ベルギー人神父)
   ※   ※   ※   
 日本中心の神道の核は、自然災害多発地帯に生きる諦めとして、「大自然の前では、人間は無力である」と達観した無常観である。
 縄文人の原始的自然崇拝は、争いながら奪いある大陸的な対立・競争・勝ち抜くではなく、仲睦まじく和して調和・共生・譲り合う事である。
 日本の神々は、そこかしこに存在する多神教で、最高権威の絶対神はいなかった。
 縄文文化は、調和的文化で、権威の弱い未開社会であった。
   ・   ・   ・   
 勢いと偶然と幸運(判断を誤っても上手くいった)。
   ・   ・   ・   
 人類の奇蹟。
 南方モンゴロイド(釣り針文化)は、丸木船を作り漕いで大海原を渡った。
 北方モンゴロイド(縫い針文化)は、防寒服を作り獣を追って極寒地を踏破した。
 草原のモンゴロイドは、獣を追って歩いて来た。
 海原モンゴロイドと極寒モンゴロイドと草原モンゴロイドは、自然災害多発地帯の日本列島に渡り、定住し、出合い、雑居・同居し、乱婚・雑婚して、混血児の島嶼モンゴロイドを生んだ。
 海の釣り針と極寒の縫い針は、混血モンゴロイド(土器文化)の新たな移動によって、更なる改良が加えられながら世界中の人類に広まっていった。
 それは、「原始糸の道」でもあった。
 大海原の糸は植物性であり、極寒地の糸は動物性であった。
 海原モンゴロイド島嶼モンゴロイドの子孫達は、木を切り倒し丸木船を作り、釣り糸と縫い針を持って、太平洋の大海原へと乗り出していった。 
   ・   ・   ・   
 阪本要一「欧米人と比べて、日本人はエネルギーを少しでもたくさん脂肪として蓄えようとする『倹約遺伝子』を高頻度に持っているとされています。氷河期に、ユーラシア大陸から日本列島へ辿り着いた人々が草木の根を食べて生き抜いてこられた一因とされる遺伝子で、いわば現代人は飢餓に耐え抜いたエリートですが、結果として食の欧米化の影響で内臓脂肪を多く蓄えることとなった。ですから、肥満が招く三大疾患、糖尿病・高血圧・脂質異常症高脂血症)を発症する可能性が高い傾向にあります」
   ・   ・   ・   
*縄文の「棲み分け」による原始生活。
 *NHKスペシャル「『日本人はるかな旅』⑤そして、日本人が生まれた」(『日本人』プロジェクト編)
・九州北部地方 ……縄文系・10%。渡来系・90%。 
・中国・近畿地方……縄文系・19%。渡来系・81%。 
・関東地方   ……縄文系・28%。渡来系・72%。 
・東北南部地方 ……縄文系・15%。渡来系・85%。 
 全国的に、縄文人1に対して渡来人2〜3といわれている。
 生粋の日本人といえるのは、縄文人だけである。渡来人は、当然の事ながら日本人ではない。
 日本の人口で、原日本人である縄文人よりも、非日本人である渡来人の方が圧倒的に多かった。
   ・   ・   ・    
 2016年9月2日 読売新聞「日本人のDNA 縄文人から12%
 総研大学ら解析
 現代の日本人は、遺伝情報の12%を縄文人から受け継いでいることがわかったと、総合研究大学院の斎藤成也教授の研究チームが発表した。特に、北海道のアイヌ沖縄県琉球人は、遺伝的に縄文人と近いことも判明したという。人類遺伝学の専門誌に1日、論文が掲載された。
 チームは、福島県新地町の三貫地(さんがんじ)貝塚から出土した、約3000年前の縄文人男女2体の歯を調べた。微量のDNAを抽出することに成功し、現代人のDNAと比較した。
 その結果、縄文人のDNAはアイヌ人と最も近く、次ぎに琉球人、その次ぎに東京周辺など本土の日本人『ヤマト人』に近かった。
 また、縄文人は、アフリカから東アジアや東南アジアに移動してきた現生人類の中で、最も古い2万〜3万年前に分岐した集団とみられることもわかった。
 縄文人についてはこれまで、細胞内の小器官であるミトコンドリアのDNAや、男性が持つY染色体を使って研究は行われてきたが、全遺伝情報(ゲノム)の主要部分の解析に成功したのは初めて。斎藤教授は『さらに別の遺跡の縄文人を調べ、日本人の起源に迫りたい』と話している。
 馬場悠男・国立科学博物館名誉研究員の話『縄文人のDNA解析から、アイヌ人、本土に住む日本人、琉球人との関係が明らかになったことは意義深い。今回の研究により、縄文人が日本列島で独自の進化を遂げたと推測できる』」
   ・   ・   ・   
 9月5日 産経ニュース「【科学】縄文人はアジアの“古株” 2万〜3万年前には出現か
 縄文人は、東アジアや東南アジアに住み着いた共通の祖先から最も早く枝分かれし、約2万〜3万年前には出現していた可能性があるとの研究成果を、総合研究大学院大学などのチームが専門誌に発表した。
 人類がアフリカからユーラシア大陸の東方へ進出した際に、縄文人につながる集団が現れたと考えられるという。チームの斎藤成也・総研大教授は「縄文人ユーラシア大陸の他の集団と比べても非常に特異だといえる」としている。
 チームは、福島県北部にある三貫地貝塚で発掘された約3000年前の人骨を基に調査した。人骨の奥歯からDNAを抽出し、その配列を解析。東京周辺にいる現代の日本人や中国人、アフリカ人や南米の先住民など世界各地の集団と比べた。
 その結果、縄文人は東ユーラシア大陸の集団に近いものの、その中では遺伝子的に大きな差があることが判明。東ユーラシアの中では早い段階で出現したことが分かった。約1万5000年前にアジアからベーリング海峡を渡ったとされる、アメリカ大陸の先住民よりも前に現れたとみられる。」
   ・   ・   ・  
 縄文前期の日本人口は約11万人で、後期では約161万人に急増したといわれている。
 縄文人は、新たに大陸から渡ってきた弥生人を仲間として温かく迎え入れ、一緒に生活した。
 農業の発達により食糧生産が増えた事で、人口増加を可能にした。
 縄文人弥生人の交流が進につれて混血化も促進して、新たな日本人が誕生した。
 日本の自然が豊かであった為に、日本をめぐって縄文人弥生人が争う必要がなかった。
 だが、半島系弥生人の増加で縄文時代の平和は破壊された。
   ・   ・   ・   
 日本のムラ社会は、他のムラと隔絶し交流なくしては生きられなかった。
 部族集団として、「してはならない」というタブーを共有しながら助け合いながら生活していた。
 ムラとは、一人では生きられない小さな共同社会であった。
 共同社会ゆえに、皆で集まって話し合い、最終決定を権威ある一人か数人の長老に委ねた。
 長老の権威は、個人的一過性のリーダーシップではなく、世襲的カリスマのリーダーシップに求められた。
 つまり、神の子孫という神懸かり的な天皇の様な宗教権威であった。
 日本の農耕的ムラ社会には、世襲的長老制度としての天皇制度が不可欠であった。
 天皇制度とは、社会と人、自分と他人の間に横たわるタブーの象徴であり、タブーを恥として共有する人間と動物と自然を平等化する象徴である。
 だが。同時に、生まれながらに定められた不平等としての差別が存在していた。
 人間社会は、生まれながらにして差別が存在していた。
 福沢諭吉「天賦の身体に大小強弱あり、心の動きにも亦大小強弱なかる可らず」
 ムラ社会は、なるべくその差別として御高低差をゆる寝る為に、共同体の全ての住人が犯してはならないタブーを設けた。
 そのタブーとは、世襲的長老である天皇の位の簒奪である。
 何故なら、神の血筋を根拠とした唯一の祭祀王であるからである。
 万世一系男系天皇(直系長子相続)制度が、ムラ社会の秩序を維持しているがゆえに、古代から守られてきた理由だる。
 日本文明は、世界でも稀有な古代の息吹を伝えている。
 息吹とは、言霊を持った日本語であり、自然に流れる日本的な音楽・音律である。
 日本全国に、地域に根ざした独特な祭りが古代から受け継がれている。
 ムラ社会は、民族的息吹をもった祭りを中心として発展維持されてきた。
 ムラ人は、土着の祭りを執り行う事で一体感を共有してきた。
 ムラ人の一体感がなければ、ムラ社会は崩壊し、共同体の和が保てなくなり、弱肉強食の実力主義社会となって無秩序と化し、勝手銘銘のエゴイズムに支配された。
 その反対に、お互いの間合いがなくなると甘えが生じて、これも和が融解して無秩序に陥った。
 ムラ社会は、お互いの間合いを取る為に「恥」と「穢れ」を心に刻んだ。
 ムラ人は、孤立化する事が共同体の崩壊として恐れた。
 日本文化は、相手を思い遣る持て成しを重要視した。
   ・   ・   ・   
 山崎晴雄『日本列島の100万年史』
 「日本列島は、日本海の誕生とともに生まれました。およそ1500万年前、ユーラシア大陸の地下深くでマグマが上昇し、その圧力で大陸の東の端が引きちぎられ、ちぎれ目の部分が海となりました。この出来事を『日本海開裂』と呼びます。
 ちぎれた大陸の切れ端は、二つのブロックに分かれていました。それぞれ『東北日本』、『西南日本』と言います。そして東北日本は反時計回りに、西南日本は時計回りにねじれながら、数百万年という長い年月をかけて接近していったのです」
 「二つのブロックの間にあたる部分では、押しつぶされる力で大地に多くの亀裂が走り、そこにマグマが入り込んで、新潟焼山浅間山、富士山、箱根山のような多くの火山や南アルプスのような高山ができました。この大地のつなぎ目を、『フォッサマグナ』(ラテン語で「巨大な溝」の意味)と呼ぶのです」
   ・   ・   ・  
 2018年1月13日 msnニュース Forbes Japan  Trevor Nace「80万年前の人類を襲った「巨大小惑星の衝突」の大きな謎
 およそ80万年前に巨大な小惑星が地球に衝突した新たな証拠が見つかった。東南アジアに衝突した小惑星は直径1キロほどの大きさで、衝突によって吹き飛ばされた粉塵に地表が覆い尽くされるほどの威力があったが、人類はその状況を生き延びたことになる。
この小惑星の衝突は人類が絶滅しかねない規模の衝突としては、最も現代に近いものだ。場所が正確に判明しておらず、形跡をもとに分析が進められてきた。
 東南アジアにおける人類の進化に影響を及ぼし、地球の気候を変え、最大数年もの間太陽光を遮断したこの衝突の場所を特定するのに役立つのがテクタイトという物質だ。テクタイトは隕石の衝突から生まれる天然ガラスで、カーティン大学の地質学者Aaron Cavosieらが、東南アジア一帯のテクタイトに含まれるジルコンを分析した結果、結晶の方向が衝突の影響のない地域と比べて明らかに違っていたという。
 この80万年前の小惑星衝突の形跡は以前から見つかっているが、衝突した場所については絞り込まれていなかった。テクタイトはアジア、オーストラリア、そして南極でも見つかっている。
 最大重量が20キロにもなる大きなテクタイトが多いほど衝突が起きた場所に近いと考えられ、分析の結果、衝突が起きたのは東南アジアで、タイの近くの可能性が高い。隕石によるクレーターは見つかっていないが、場所はかなり絞り込まれている。
 しかし、大きな謎として残るのは、これほどの巨大な衝突だったにもかかわらず、なぜ明らかなクレーターが残っていないかだ。それは人類がこの大災害を生き延びられた理由につながっているのかもしれない。衝突した場所の特定はさらに進められており、いかにして人類が生き延びたのか、また人類の進化にどのような影響を与えたのかが解明されることが期待される。
 また、同規模の小惑星の衝突は数百年先か、数百万年先になるのかは分からないが、必ず起きるだろう。今後の研究の成果により、80万年前の人類よりもこの巨大な自然災害への対策がとれるようになることを期待したい。」
   ・   ・   ・   
 100万年前 巨大な島「プロト伊豆」が本州に衝突して伊豆半島が誕生した。
 70万年前 富士山のある位置で噴火が起き、「小御岳(こみたけ)火山」が誕生した。
 65万年前 箱根火山は活動を開始し、約25万年前に山頂部分が爆発してカルデラを形成した。
 50万年前 北京原人
 12万年前 奄美群島の喜界島が隆起して、年2ミリずつ隆起し、浅瀬にサンゴ礁が誕生した。
 喜界島は、世界でも珍しい隆起性サンゴ礁である。
 10万年前 伊豆半島に押された地底のマグマは圧縮されエネルギーを蓄え、爆発して富士山の原型である「古期富士火山」が誕生した。
   ・   ・   ・   
 日本列島と大陸との間には大海原と極寒が横たわり、アフリカから移住して来た原人は渡る事ができなかった。
   ・   ・   ・   
 9万年前 阿蘇山の最後の大噴火で発生した火砕流は、阿蘇を中心に半径160キロ圏内を火砕流が襲い、全てを焼き尽くした。
 火砕流の一部は、瀬戸内海を越えて山口県にまで達した。
 日本列島は、自然災害多発地帯であり、多くの動植物が絶滅寸前までの甚大な被害を受けていたが、僅かに生き残った生物が日本独自の在来種の祖先となった。
 その意味に於いて、日本の生き物は優秀ではなく特殊性があった。
   ・   ・   ・   
 8万年前 富士山には、山中湖、河口湖の他に西湖、精進湖本栖湖を一つした広大な「剗(せ)の海」があった。
   ・   ・   ・   
 7万年前 日本人の祖先であるアフリカ人は、アフリカを出てアラビア半島に移動し、インドや東南アジア半島を経てインドネシアやフィリピンに渡って島々に渡った。
 中国人の祖先であるアフラカ人達は、メソポタミアから中央アジアで行われていた小麦農耕を黄河流域の中原にもたらし、大陸民となって爆発的に人口を増加させた。
 畑作の小麦農耕は、専制的国家を生み出し、農地を拡大する為の侵略戦争を始めた。
 小麦農耕は一人でも出来る簡単な農法で、周辺住民の協力がないと収穫できない稲作農耕とは違っていた。
   ・   ・   ・   
 6万6000年前 箱根山で、破局噴火と呼ばれる大規模な噴火が発生した。
 高橋正樹(日本大学文理学部教授)「噴煙から出た軽石や火山灰が東京で20センチ、横浜で40センチ、小田原では4メートル余り確認されました。これらは東京降下軽石層と呼ばれ、箱根山から噴出物であるという事が分かっています。神奈川県のほぼ全域が火砕流に覆われた事も確認されています」
   ・   ・   ・   
 6万年前 アフリカにホモ・サピエンスが誕生した。 
 5万年前 クロマニヨン人は、フランスやスペインで壁画を描いた。
 中国に周口店上洞人が現れた。
   ・   ・   ・   
 5万年前 台湾に住んでいたホモ・サピエンスは、協力し合って船を作り、助け合いながら台湾から沖縄諸島を伝わって日本列島に流れ着いた。
   ・   ・   ・   
 原人は、中国やジャワに移動してきたが、日本には来なかった。
 数万年前 日本列島は、大陸の一部であった。
 旧石器時代人は、小グループに分かれて、大陸から日本列島へ陸路で移動して来たが、目の前に広がる海に行く手を阻まれ、南北に移動して適当な土地に定住した。
 定住し、その土地の気候風土や食べ物に適応しながら多種多様な体型や体質を身に付けていった。
 縄文人の時代は、約1万年続いた。
 初期の縄文遺跡から、多くの土器や石器は発掘されるが、人骨は少ないといわれている。
   ・   ・   ・   
 定住革命(ドメスティケーション)。
 日本列島に移り住んだ人々は石器を使っていた。
 ダンバー数。ロビン・ダンバーは、人間が自然に人間関係を維持できる上限を150人前後と提唱した。
   ・   ・   ・   
 第一次現生人類の移動。
 4万年前〜3万8000年前 地球は寒冷期に入っていて、海水面は現代よりも約80メートル低く、対馬は一つの島で日本列島とも朝鮮半島とも40キロしか離れていなかった。
 現生人類は、眼に見える日本列島を目指して海を渡り上陸した。 
 3万8000年前 最も古い人間は、陸続きであった大陸からナウマン象やオオツノジカを追って日本列島に移動してきた。
   ・   ・   ・   
 3万9000年前 東南アジアは陸地続きで、ホモ・サピエンスは洞窟で壁画を描いていた。
   ・   ・   ・   
 3万8000年前 日本の人口は増え、全国に遺跡が1万以上あった。
 3万6000年前 那覇市山下町第一洞穴遺跡で人骨を発掘。
 3万5000年前を境として、古い時代を前期旧石器時代、これ以降を後期旧石器時代(〜1万年)、と呼ばれている。
   ・   ・   ・   
 ネアンデルタール人は、12万年前から3万5000年前までヨーロッパから中央アジアまで広く住み、2万8000年前に絶滅した。 
 ネアンデルタール人は、宗教を持たず数十人の小集団のままで社会を持たず絶滅した。
 強靱なネアンデルタール人の絶滅は、脆弱なホモ・サピエンスに殺されたのではなく、10年ごとに繰り返される極寒と猛暑の激変する自然環境に適用できず、獲物を捕る生存競争に敗れたからである。
 だが、ネアンデルタール人の遺伝子は、ホモ・サピエンスとの乱婚・雑婚して、ホモ・サピエンスに受け継がれていった。
   ・   ・  ・   
 道具を作る事で脳は発達し、脳の発達によって言語は高度に発達した。
 ホモ・サピエンスは、高度の道具を作る事で高度な言語を獲得した。
 ネアンデルタール人も道具を作っていたが、単純な道具な為に言語は単純言語のままに留まって発展しなかった。
 進歩する道具と高度化する言語は、脳の進化を加速化させる。
   ・   ・   ・   
 ホモ・サピエンスは、宗教を発明して数百人の大集団を作り社会を形成し、生き残る為に仲間意識や絆を深め、協力し合い、助け合い、生き残っていった。
   ・   ・   ・   
 第二次現生人類の移動。
 3万7000年前 沖縄をへて海を渡って日本列島に渡って来た。
 3万年前 台湾に生息していたホモ・サピエンスは、海を生活の場を広め、石器や釣り針を作って生活していた。
 集団で協力し合い、木を切り倒し。くり抜いて船を作り、海に乗り出していた。
 台湾から与那国島は、太陽が昇る東の海の彼方にあった。
 海を越える人類は、極寒地で生きる人類は、仲間意識や絆が強かった。
 白保人。
 沖縄にホモ・サピエンスが住んでいた遺跡が発掘された。
 沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡から幼児の人骨が出土した。
 台湾から沖縄に渡り、さらに海を北上して日本列島に辿り着いた。
 島と島との間は100キロから200キロ離れていて、現生人類は目的地が見えない海原を航海した。
 酒に強い遺伝子を持った縄文人の祖先である南方系海洋民が移住した。
 3万年前 赤城山麓の岩宿周辺に、旧石器人が住んでいた。
   ・   ・   ・   
 2017年8月24日 産経ニュース「瀬戸内海が氷河期だった旧石器時代の遺構、遺物見つかる 中四国で発掘例のない剥片、尖頭器も 27日に愛媛・伊予市で報告会
 調理用の火熱で赤く変色した「礫群」
 愛媛県埋蔵文化財センター(松山市衣山町)と伊予市教委は23日、瀬戸内海が陸地だった氷河期の旧石器人が生活した遺構や遺物など約5千点が見つかったと発表した。27日午後2時から、発掘成果の一般向け報告会を同市三谷のウェルピア伊予で開く。申し込みは不要。
 調査は、松山自動車道の中山スマートインターチェンジ建設に伴い、昨年12月〜今年6月、伊予市双海町上灘の「高見I、II遺跡」「東峰遺跡」で行った。この結果、標高320メートルの丘陵地帯にある遺跡からは、後期旧石器時代(約2〜3万年前)の生活跡「礫群(れきぐん)」が四国で初めて出土。火熱で赤く変色した岩石で、調理用に使われたとされる。
 また、中・四国では発掘例のない「剥片(はくへん)尖頭器」(石やり)が見つかった。朝鮮半島や九州で多く確認されていることから、九州近辺にいた集団との関係がうかがえるという。ほかに縄文期の落とし穴や土器、石器なども確認した。旧石器時代の調査は県内で20数年ぶりという。
 同センターの沖野実調査員は「旧石器時代のまとまった資料が出土した。当時のヒトを考えるきっかけになれば」と話した。」
   ・   ・   ・   
 2万9000年前〜2万6000年前 姶良(あいら)巨大噴火で、鹿児島湾北部や桜島そして市内の城山を形成する姶良カルデラが生まれた。
 九州や四国一帯は火山灰に広く覆われ、多くの生き物が死亡した。
   ・   ・   ・   
 第三次現生人類の移動。
 2万5000年前 地球は氷期で、シベリアと北海道は陸続きであったが極寒であった。
 極寒地は、マンモスやバッファローなどの大型動物が多数生息していた。
 ホモ・サピエンスは、狩猟道具やマンモス製の縫い針を発明し極寒地へ生息地を広げていった。
   ・   ・   ・   
 日本に於ける最古の人骨は、沖縄県石垣島から発掘された。
 2万7000年前 沖縄県石垣市白保竿根田原洞穴遺跡で、人骨数は少なくとも19体、千点余りが発掘された。
 柴田謙一「これまで解析できたDNAでは、東南アジアや中国南部に特徴的な遺伝子型を持っていたことがわかった」
 2万3000年前 沖縄県サキタリ洞遺跡に住んでいた人びとは、東南アジアや東ティモールに住んでいた人びと同様の貝製の釣り針を使用していた。
 貝製の釣り針は、世界最古の釣り針と言われている。
 海部揚介(国立科学博物館人類史研究グループ長・人類進化学)「オーストラリアや東南アジアの水産資源を活用する文化が、沖縄にも広がっていた事を示している。海を越えて辿り着いた人が沖縄の環境に適応して生活していた事がわかる」
 「先進的な発明が行われ、人の営みがあったことが分かる。人類が海を越える技術を身につけ、渡ってきたことは明らかだ」
 2万2000年前 沖縄県八重瀬町の港川遺跡で全身骨格が発掘される。
 頭部は、現代の東南アジアやオーストラリア先住民に見られる特徴があった。
 2万2000年前及び1万7000年前 浜松市根堅遺跡で浜北人が発掘された。
   ・   ・   ・   
 2万年前 氷期には、大量の海水が南極、北極、郄緯度地方で氷層が厚くなり、海水面は現在より120メートルも低かった。
   ・   ・   ・   
 隠岐屋久島・伊豆の三ヵ所の約2万年前の地層から杉の花粉が発見されている。
   ・   ・   ・   
 2万年前 後期旧石器時代人である縄文人の祖先は、主として南方から海上を北上してきた。
 縄文人は、南方系海洋民の子孫として、南インド、オーストラリア、ポリネシア諸島に住んでいた人間達の一員であった。
 全国に縄文遺跡が、1万ヶ所の遺跡があるが、火山灰に酸性で人骨が溶けてしまう。
 石垣島の意識では、サンゴのアルカリ性で土壌の酸が中和され人骨が残った。
 1万9000万年前〜1万6000万年前 貝器文化。沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡。
   ・   ・   ・   
 1万8000年前から1万5000年前にかけて、砂糖の材料であるサトウキビはニューギニアなどで自生していた。
 8世紀中頃に。 砂糖は、東南アジアの交易が盛んになると、インドからユーラシア大陸全体に広がった。
   ・   ・   ・   
 1万7000年前 5年ごとに気温が上昇していた。
 縄文時代中頃 地球の平均気温は、約2度上昇して地球は温暖化した。
 その後、気温は徐々に冷えていった。
   ・   ・   ・   
 1万6500年前 大平山元遺跡から世界最古の土器のひとつが出土した。
   ・   ・   ・   
 縄文人は、生活の糧を、狩猟採集を中心にして僅かな稲作で米を得ていた。
 生活しやすいように山林を焼き、自然を作り替えていた。
 縄文文化の中心には、人が生きて行く上で必要な糧を自然に分けて貰うという考えから、自然界の奧に鎮座する尊き主から霊力を頂くという宗教観が内蔵されている。
 命を繋ぐ為に得た動物や植物を尊き主からの贈り物として大事にし、動物や植物に宿っていた命を殺して尊く主の霊力を受ける為に、尊き主が霊力を宿して遣わした命を尊き主に送り返す為に宗教儀式を行った。
 其れが、日本文化の最古層である。
   ・   ・   ・   
 1万5000年前 氷河期が終わり、日本列島に四季が生まれ豊かな森が誕生し、近海に暖流が流れ込み豊かな海が育った。
 青森県蟹田町の遺跡から世界最古の土器が出土した。
 土器製作技術は、中国や朝鮮より優れていた。
   ・   ・   ・   
 1万5000年前から2300年前までの縄文人は、閉鎖的狭い土地で争いを起こさない様に山や森、平野や川、湖や海に棲み分けをし、必要な物資を交換して生活していた。
 島国の日本は、東アジア地域から孤立した閉鎖地帯として、逃げ出せないムラ社会だけに、限られた極わずかな収穫物を欲張らずにみんなで公平に分け合った。
 縄文人は、海の民・山の民として、自然環境と一体となって生き、人為的な手を加える事なく、自然の再生循環の恩恵を受けて生活していた。
 神と自然と人は、天と山・大地と水・海であった。
 縄文文化とは、自然環境の変化に素直に順応する、穏やかな補完共生の農耕漁撈文化である。
 農耕漁労民族の相手が、太刀打ちできない地球の自然である為に、自分達が今やらねばならない努力は死ぬ気で果たした。やるだけの事をやった後は、人間の努力ではどうにもならない気候の変化は運命・宿命・定めとして諦めて従った。
 大陸国の欧米や中国・朝鮮は、無限に近い開放地帯として、堅固な城塞に守られた都市社会を形成していた。狩猟牧畜民である彼等は、好きな所に出かけ、自由に獲物を狩って食べるという弱肉強食文化を打ち立てた。支配者である指導者・強者・勝利者は、獲物を独占した。弱者である使用人や手下は、差別されておこぼれに預かって細々と生活していた。
 貧しい弱者は、多くの獲物を獲得すれば、支配者からのおこぼれが多少ふえる為に、残忍なほどに凶暴化して破壊を繰り返した。
   ・   ・   ・   
 1万3000年前 土器を持った南方系海洋民は、時間をかけてゆっくりと、沖縄から日本列島に移り北上して定住した。
 海の旅人が目指す新天地は、海の中に「あらわれ」る山であった。
 海の中に現れる山は、生まれたんではなくそこに「なる」ものであった。
 海洋民は、海を泳ぐ海蛇を海神とし、山に住む大蛇を山神として崇拝した。
 日本各地の沿岸に、海神のお使いとしての竜蛇様物語が存在する。
 海流に乗って太平洋沿岸を、九州から四国、そして関東から東北地方に居住地区を拡げていった。
 別の流れは、九州を北上して半島に渡り、海流に乗って日本海を北上し出雲から東北に移り住んだ。
 それが、沖縄人であり、縄文人であり、アイヌ人である。
 ゆえに、縄文人、沖縄人、アイヌ人は同族である。
 日本は、太平洋沿岸ではなく、日本海を中心に半島や大陸と海上交易を盛んに行っていた。
 青森の山内丸山遺跡は、こうして作られた。
 世界における土器の誕生は、中国で1万数千年前、西アジアで1万年前、メソポタミアで9000年前とされている。
   ・   ・   ・   
 1万2000年前 南アメリカ大陸に人類が居住していた痕跡があった。
 人類は、これを拝めば自然界の原理が支配できるという「神の像」を作った。
   ・   ・   ・   
 1万2000年前(~約2400年前) 縄文時代新石器時代)が始まる。 
 1万1000年前 日本本土の縄文遺跡から獣骨製の釣り針が出土した。
   ・   ・   ・   
 稲作は、1万年前に長江流域で始まった。
   ・   ・   ・   
 1万年前 最後の氷河期で、海面は今から70メートル低かった為に、海洋民は東南アジア・台湾・沖縄・日本へと難なく移動していた。
 海洋民は、北海道まで渡って定住した。
 それが、アイヌ人の祖先である。
 極一部のシベリアのヤクート人が、樺太カムチャツカ半島から北海道に渡ってきた。
 縄文時代に於ける最古の住宅跡は、鹿児島県上野原遺跡から発見された。
 住居様式は、南から伝わってきた竪穴式住居であるが、竪穴式住居の源流はシベリアと言われている。
 稲作が行われる様になると、穀物をネズミから守り湿気によるカビを防ぐ為に南方の高床式住居が取り入れられた。
 南方の影響が強い縄文時代の建物は実用本位で、弥生時代の建物の様な大陸・半島の影響を受けた装飾はなかった。
 1万5300年前から1万1200年前の、北海道から鹿児島までの広範囲の縄文遺跡から発掘された土器の破片から、鮭の様な魚を高温で調理した痕跡が見つかった。
 中国では、2万年前の土器が発見されている。
 土器は、人類が定住して農耕を始め、食糧を貯蔵し調理していた証しとされている。
   ・   ・   ・   
 地球の寒冷化で海水面が低くなり、中国南部からオーストラリアまで陸続きとあり、人類はオーストラリア大陸に渡った。
   ・   ・   ・   
 1万年前 旧石器時代(3万年前〜)。日本国内には約1万ヶ所、韓半島では50ヶ所程の遺跡が確認されている。
 日本列島が大陸から切り離され、日本海に暖流が流れ込むや、日本列島は温暖な気候となり、複雑な地形から多様な植物や動物が生息する豊かな土地となった。
 食べるが豊富な自然環境である故に、縄文人は食べ物を巡って争う事なく穏やかに生活していた。
 南方系海洋民は、潮の流れに乗って海を渡って来たが、古代の船に乗船できるのは十数人規模で、日本列島に来た総人数が数万人とか数十万人ではないと推定される。
   ・   ・   ・   
 ヒョウタンの原産地はアフリカで、1万年前から存在し、オオムギやイモと共に世界中に広がった。
 ヒョウタンは、土器が作られる以前は煮炊き用の日常道具として使われていたといわれている。
 海洋民は、航海するに当たって携帯用水筒として使用していた。
 ヒョウタンは、最古の栽培植物として9000年前の縄文遺跡から種子が発見されている。 
   ・   ・   ・   
 9000年前 中東で最古の土器が出土した。
   ・   ・   ・   
 2016年12月6日 産経ニュース「8300年前・縄文早期の人骨発見 国学院大学 国内最古級、当時の暮らし解明へ
 国学院大学の発掘調査で見つかった埋葬人骨(同大学提供)
 国学院大学(渋谷区)の考古学研究室が群馬県長野原町の居家以岩陰(いやいいわかげ)遺跡で発掘した人骨が、約8300年前にあたる縄文早期中頃に埋葬されたものとみられることがわかった。埋葬人骨としては国内最古級とみられ、「日本人のルーツ」とされる縄文人について、体の特徴や生活様式などの解明につながると期待されている。(鈴木美帆)
 発掘は平成26年から実施され、今年は8、9月に考古学専攻の学生や大学院生らが参加して行われた。昨年の調査で埋葬人骨の背骨の一部が発見されており、年代測定の結果約8300年前の縄文早期中頃のものと判明。今回の調査で、全体が発掘された。
 人骨は、地面に掘った土壙(どこう)(墓穴)の中で、ひざを折り曲げて体を丸める「屈葬」と呼ばれる方法で埋葬されていた。縄文早期以降に多く見られ、埋葬人骨としては国内最古級。ほぼ完全体で発掘された人骨としても珍しい。人骨は、壮年の女性とみられる。
 同遺跡は、群馬、長野、新潟3県にまたがる三国山地の一帯で、信濃川利根川水系の水源地に近い。縄文時代には山の資源を生かし、火をたいて生活していたため、堆積した灰に守られて保存状態がいいという。発掘チームの谷口康浩教授によると、「縄文時代の始まる頃の遺跡が多くある重要な場所」だという。
 発掘された人骨の周囲には、他の人骨の一部が発見されており、少なくとも6体は埋葬されているとみられる。複数の埋葬があることからも、死者を悼んでいたことが推測される。子供とみられる骨もあり、家族のようなコミュニティーがあったと考えられるという。
 発掘された骨の分析は東京大学(文京区)で行われている。DNA分析なども試みており、栄養状態や病歴、筋肉の発達や食事の傾向から、日本人の形成、ルーツの解明も期待される。
 縄文時代について、土器などの変遷については解明が進んでいるが、何を食べてどんな家族形態だったのかなど、生活文化の実態は未知の部分が多い。谷口教授は「遺跡には、幾度となくこの地を利用した形跡があり、発掘も約1メートルほどで堆積はまだ深い。さらに歴史をさかのぼり、日本人のルーツを探る手がかりが期待できる」と話している。」
 2017年10月28日 産経ニュース「「日本で最も古い埋葬方法がわかるかも」縄文人骨、新たに4体発見 群馬の遺跡
 国内最古級とみられる約8300年前の埋葬人骨が見つかった群馬県長野原町の居家以(いやい)岩陰遺跡で、国学院大学(東京都渋谷区)の考古学研究室(谷口康浩教授)が新たに4体の人骨を発見するなど、「日本人のルーツ」とされる縄文人の実像に迫る発掘調査を進めている。死者の上半身と下半身を切り分けて埋葬していたこともわかった。謎に包まれた縄文人生活様式などの解明に今後も期待がかかる。(久保まりな)
 同遺跡は、群馬、長野、新潟3県にまたがる三国山地の一帯で、信濃川利根川水系の水源地に近い。
 国学院大学の調査は平成26年に始まり、昨年は約8300年前の縄文早期中頃に埋葬されたとみられる人骨を発見。骨は、地面に掘った土壙(墓穴)の中で膝を折り曲げて身体を丸める「屈葬」と呼ばれる方法で埋葬されていた。
 今年8〜9月の調査には考古学専攻の学生や大学院生ら約30人が参加。乳児とみられるものも含む人骨4体が新たに見つかった。さらに、昨年発掘した約8300年前の人骨の調査から腰部分が切断され、上半身と下半身が不自然な方向に向いて埋葬されていたことも判明した。
 共同研究を行う東京大学の近藤修准教授(形質人類学)は「埋葬の文化は、縄文より前の時代では確認されていない。この遺跡からは、日本で一番古い埋葬の仕方がわかる可能性がある」と期待を寄せる。
 また、遺跡には、生活廃棄物を捨てていたとされる灰層があり、ニホンジカやイノシシなどの動物の骨やベリー類、クルミなどの植物の種子、狩猟の道具などが多数見つかった。当時の縄文人が食していたとみられる。
 国学院大学などは人骨のDNA分析を行うとともに、発掘された遺物からわかる情報を組み合わせて研究を進めている。谷口教授は「当時の人が何を食べ、どのような資源を使っていたのか、複合的に調査している。縄文時代早期の生活の復元を目指したい」と話している。
 9月16日の一般向け現地説明会には地元住民ら約80人が集まった。これまでの研究成果は国学院大学博物館(東京都渋谷区)の特集展示で11月19日まで紹介される。」
   ・   ・   ・   
 8000年前 縄文人は、網籠を編んで食材を保存していた。
 縄文土器は、食材を煮炊きをする鍋であった。
 縄文人は、飢えない為に多種多様な食材を食べていた。
   ・   ・   ・   
 山崎晴雄「氷期が終わり、南極や北極にあった大量の氷が融けた事で、今から8000年前〜7000年前には海が広がり、海岸線は現在よりもかなり内陸に入っていました。これを『縄文海進』と呼びます」
   ・   ・   ・   
 7300年前 鹿児島沖の大噴火で鬼界カルデラが出現し、西日本の縄文文明は壊滅的大打撃を受けた。
   ・   ・   ・   
 7000年前 縄文時代に漆を使い始めていた。
 縄文人は、犬を狩りかパートとして、怪我をしたらペットとして大事に扱っていた。
 6750年前〜5500年前 縄文時代早期 富山県小竹貝塚で発見された人骨のDNA分析結果は、沖縄の南方系海洋民とロシア沿海州の北方系草原民が混在していた。 
   ・   ・   ・   
 縄文人は、狩猟した動物をその場で手際よく解体した。
   ・   ・   ・   
 日本列島に犬が輸入されたのは、古くは縄文時代で、南方から小型・中型犬がもたらされた。
 その後に、北方から寒さに強い大型・中型犬が、半島から中型犬が、もたらされた。
 日本犬は、南方系・北方系・半島系が交雑し、地域の自然環境と飼い主の仕事によって多様な種類に分かれた。
 後に、愛玩動物となつていった。
   ・   ・   ・ 
 日本に稲作がもたらされたのは3500年前の縄文中期とされ、そのルートは朝鮮半島経由ではなく、東シナ海ルートとして台湾・沖縄を経由して日本・九州に上陸したといわれている。
 青森の山内丸山遺跡では、朝鮮にはない灌漑用水の農業が行われていた。
 稲作は灌漑用水の技術を必要とした為に、否応もなく人と自然との間に距離を作った。
 自然環境と分離された人間は、自然エネルギーである神の力を得る為に、特別の祭壇を設けて儀式化された祭祀を始めた。
 日本の古代信仰は、山を象徴する出雲系の大国主命であった。
   ・   ・   ・   
 縄文時代は、日本各地で巨大な自然災害が多発していた時代であった。
   ・   ・   ・   
 7000年前 薩摩半島から約50キロ南の大隅海峡にある鬼界カルデラで発生した破局噴火・海底大噴火で、火山灰は日本全土に降り注いだ。
 南九州から西日本の南方系縄文文化は壊滅的被害を受け、人々が死に絶え、北方系縄文文化が主流となった。
 日本民族は、立て続けに襲い来る自然災害の中で、耐えて耐えてなを耐えて生きる事を運命付けられた。
 日本民族は、自然が如何に荒れ狂おうとも逆らわず 、自然災害を敵に廻さずに唯々諾々と従った。
   ・   ・   ・   
 縄文人は、社会を最小単位の原始的部落にとどめ、部落民が狩猟や採取で生活できる範囲の土地で暮らし、多くを望まない事で争いを避けていた。
 大陸のような諸部族を支配する高度な国家を持たず、支配者の王族と被支配者の臣下という権力による上下関係を作らず、租税に伴う貧富の格差もなかった。
 社会を階層分化して固定させず、優位者と劣位者を絶えず入れ替わる流動性ゆえに、何時までたっても無国家社会のままであった。
 部落は、集会や儀式を行う広場の周囲に家を建て生活していた。
 原始的な生活を送る縄文人は、多発する災害やいつ襲ってくるか分からない猛獣に怯えながら、助け合う共同生活を営んでいた。
 自然災害多発地帯の日本列島では、一人では生きられない厳しさがあった。
 自然を神として、災害をもたらす悪神を怖れ敬い、食べ物とを与えてくれる善神に感謝し祈った。
 部落で共に生きて死ぬ仲間として、協力して、諦めず、やれるだけの事をした。
   ・   ・   ・    
 日本・揚子江領域・東南アジアは、水分の多いモンスーン地帯にあって、働けば働くほど収穫量も増加するという豊潤な大地を有していた。そこに生活する人々は、米と魚介類を主食としていた。
 食糧生産に労働集約度が高ければ、増加した人口を養うことができた。農業生産性が高ければ、農作業用奴隷は要らないし、食糧略奪の戦争も少なかった。
 アルプス以北のヨーロッパ、砂漠地帯の中東、黄河流域の中国などの諸地域は、雨量が少なく乾燥して農産物の生産性が低いだけに、家畜と小麦を主食としていた。
 生活必需品や食料を確保する為に、耕作面積を拡大するべく周辺諸地域を侵略した。
 農地を略奪し、征服した先住民に一切の教育を与えず無学な単純労働者(農業従事者)としての農業奴隷(農奴)とした。
 生産性の低い土地では、労働集約ではなく資本(土地と資金)集約的社会となり、重労働を必要とする農業は最下等階級の仕事と軽蔑した。
 ゆえに、ヨーロッパ、中東、東アジアでは富を求める戦争は絶えず、人を人と認めない奴隷制の為に他人種他民族への差別や虐殺は必然であった。
   ・   ・   ・   
 大量の水(栄養素)と森林(緑)と太陽光(熱)を必要とする米は、一粒で百倍の収穫があった。
 小麦は、荒れた土地でも少量の水分で発芽し手間を掛ける必要がない分だけ、一粒で十倍しか収穫できなかった。
   ・   ・   ・   
 アフリカに誕生した母方のミトコンドリアDNAは、地球上に移動しながら突然変異を起こして分裂していった。
 日本人のミトコンドリアDNAのタイプは重立ったものだけで約20種類あり、北はバイカル湖・シベリアから南は東南アジア・沖縄に広がっていた。 
   ・   ・   ・     
 縄文人のDNA解析の結果、最も近い人間はインドのベンガル湾東部のアンダマン島人である事が判明した。
 アンダマン島人は、インド亜大陸に上陸して内陸を目指したグループと海岸線を東に移動するグループに分かれた。
 両者に共通点は、原始的御柱信仰であった。
 世界の初めは混沌としていた。
 何らかの力が混沌を二つに分け、上に昇ったモノが天となり、下に溜まったモノが大地となった。
 天と地が分かれる事で秩序が生まれ、過不足ないエネルギーを保つ事で安定した。
 稲作は始める前の縄文人達は、人を宗教儀式で葬っても、人を神と崇める人神信仰を持ってはいなかった。
 自然災害は、天と地の一方においてエネルギーが不足するから起きると考えた。
 天と地をつなぎ再統合し両者のエネルギーを満たす媒介として、太くて長い柱が使われた。
 御柱祭りの始まりである。
 人の手が入っていない樹木生い茂る山や森の奥深くから巨木を切り倒し、聖なる神域に引き出して垂直に立てた。
 巨木を立てる事によって天のエネルギーと大地のエネルギーを結合させ、天地の乱れを正し、自然災害を鎮め、この世の中と人々の間に幸せをもたらそうとした。
 此処に、天地をつなぐ巨木信仰が生まれた。
 稲作が普及するや、巨木信仰の対象は天と地から山と平地に移り、山の霊力を田畑に引き入れるという里山信仰が加わった。
 そこには、教義も理屈も一切の宗教的思考は関係なく、ただそう思い込んで行う宗教的儀式があるのみであった。
 神という概念が定まらない時代、天地のエネルギーが神とされたのでって、神がエネルギーではなかった。
 神社の依り代に降り立った神の霊力を里や田畑に運ぶ手段として、神輿が生まれた。
 南方系海洋民の血を濃く受け継ぐ地域では、神輿が船型と成り、荒海を勇ましく乗り越えるが如く猛スピードで街中を走り抜け、水飛沫を振りまくように神霊をまき散らして浄化し活気を与えていた。
 原始神道の巨木信仰も里山信仰も、大事にしたのは自然のまま、偽らざるそのまま、足す事も引く事もないありのまま、天と地、山と海の野生のエネルギーであった。
 光と緑と水、空気である。
 神道は、穏やかで、静寂に包まれた、清らかな空気、穢れなき心安まる瑞瑞しいた空気を愛し大事にした。
 それは、中国大陸や朝鮮半島ではなく、日本列島で生まれた


   ・   ・   ・