🏹31〕32〕─1─正統な天皇制度は日本国及び日本民族を消滅から救う最後の拠り所である。後小松天皇。~No.97No.98No.99No.100No.101No.102 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 正統性が証明された天皇制度は、日本国を一つにまとめる唯一の方法であり、日本国を、分裂、分離、分解、分割、分断から救う唯一の方法である。
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 日本民族日本人は、日本天皇家・皇室を統合の象徴として認め、命を犠牲にしても守った。
 日本民族日本人、日本国、日本天皇家・皇室は、不分離の一体である。
 日本民族日本人は、殺されても現皇室の天皇制度(国體)を守った。
 それが、日本国、日本民族日本人の歴史である。
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 反天皇反日である、中華世界やキリスト教マルクス主義共産主義)は、国と民族の統合の象徴である天皇制度を廃絶し、国と民族の心柱である日本天皇家・皇室を消滅させようとした。
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 中世キリスト教原理主義者は、異教徒・日本人を奴隷として世界中に売りさばいていた。
 奴隷日本人を、野蛮人・獣から下層人間の身分に引きあげる為にキリスト教に改宗させた。
 中世キリスト教会は、キリシタンになれば奴隷であっても最低限の権利を認めた。
 世界的な文明人の一員になるには、キリスト教徒にならなければならなかった。
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 マルクス主義共産主義)日本人テロリストやキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を殺害するべくつけ狙っていた。
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 天皇制度の廃絶と天皇家・皇室の消滅を悲願とする反天皇反日的日本人は、日本民族日本人ではない。
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 2017年5月号 新潮45「水戸学の世界地図 片山杜秀
 22 具象だけが道理を表す
 『神々の闘争』を免れるたったひとつの方法は、『物』で正邪を悟らせることだった。
 平成の世の今上天皇は初代の神武天皇から数えて第125代。常識であろう。が、その常識の歴史は案外と浅い。明治国家が歴代天皇を数え直した。明治維新の求めた史観の更新、そして明治末年の南北朝正閏(せいじゅん)論争とそれを受けた明治天皇自らによる裁定を経て、新たな歴代天皇表が作り出された。そこには、水戸の学者たちが長い歳月をかけて完成させた『大日本史』が強く反映している。というか、誰がそのとき本当の天皇だったかと議論を呼ぶ箇所についてはみな『大日本史』の通りになっている。
 すると、もしも明治国家が史観を改めず、それ以前の歴代天皇表が今日まで生き長らえていたら、今上天皇は何代目になるか。第126代である。一代しか違わない。だが、誰かひとり外れて滅一なのではない。五増六減だ。日本史の相貌がガラリと変わる。そのくらいのことが明治に起きた。水戸学の作用によって。
 歴代の天皇の代数や在位期間の正確な認識。この国が万世一系天皇ならば、国家の正統性を確認するための基本中の基本だろう。古代の日本はそれを確定し続けるための努力をした。『正史』を編纂した。『日本書紀』に始まり、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』と続く。以上6つをまとめて『六国史』と呼ぶ。これで神話時代から西暦で887(仁和3)年まで。通算約1500年分。たいへんな事業である。が、あとが続かなかった。7番目はできないままだった。それは、天皇の代数をオーソライズしてこの国の物事の歴史と重ね合わせて天下に知らしめ続ける作業が、長くないがしろにされたことを意味する。逆に言えば、仁和3年からうしろは、いちいちオーソライズして念を押さずとも、続くものは自ずと何らかのかたちで続いてゆくだろうとの確信が、この国の思想の大本になったということだろう。『六国史』の終わりは摂関政治の始まりにほぼ対応し、続く10世紀は武士の擡頭(たいとう)期にもなる。天皇か、摂政関白か、武士か、将軍か、幕府か、はたまた上皇法皇か。ひとつの正統を探り当て明示するのが厄介な時代が始まり、拡大していった。そうとも言える。
 皇室の新たな系図
 とはいえ歴代天皇が定かでなくなってはさすがに困るだろう。時は下って15世紀。現行の『皇統譜』で第100代に数えられる後小松天皇が、称光天皇に位を譲り上皇に退いてから、公家の洞院満季に皇室の新たな系図の編纂を命じた。そうして1426(応永33)年に成ったのが『本朝皇胤紹運録』。天皇のみならず天皇の生母や兄弟、子供などを、注も豊富に調べ上げた。詳細な系図である。
 他の上皇天皇でなく、後小松天皇がなぜその編纂を志したのか。差し迫った理由があった。後小松が京の都で天皇に即位したのは1382年。そのときは南の吉野の山奥にも天皇がいた。長慶天皇である。元号も二つあった。1382年は京都では永徳2年で、吉野では弘和2年。1336年に足利尊氏が、後醍醐天皇の在位中にもかかわず、別に光明天皇を立て、同年中に後醍醐は吉野に逃れた。元号も1336年に後醍醐が延元と改元したあ、足利尊氏光明天皇の側はそれまでの建武を使い続けた。以来、日本の国の中に朝廷も元号も二つあり、天皇も2人いる時代が続いた。吉野の南朝と京都の北朝が並立する南北朝である。後小松天皇が即位したときには、この国は二つに引き裂かれたまま、もう半世紀近くも過ごしていた。
 そんな時代に終止符が打たれたのは1392年。南朝では元中9年、北朝では明徳3年にあたる。両朝の和解が成り、南朝後亀山天皇は吉野を下った。後小松天皇が即位してから11年目。南北朝は合一し、以後、天皇の位は北朝の血筋の独占するところとなった。
 これで後小松天皇が『本朝皇胤紹運録』のような皇室の正統を明らかにする系図を欲した理由の見当も付くだろう。日本には朝廷の二つある常ならぬ時代が60年近くも続いた。ようやく久々に自分の代に、天皇ひとり、朝廷ひとつに戻った。そこでただちに必要となるのは、2人の天皇が存在した時代の評価書である。自分を何代目の天皇と数えるか。吉野にいた歴代の天皇を歴史の中にどう置くか。後小松天皇が即位したときには、南朝長慶天皇であり、すぐ後亀山天皇に代替わりした。後小松天皇は長慶も後亀山も自分と対等の天皇として同時に存在していたと後世まで認め続けねばならないのか。
 そもそも、天皇が2人いても構わなかったという歴史を公認してしまえば、せっかく合一した天皇家が将来分裂してもおかしくないことにもなるだろう。前例があるのだから。いや、同時に2人いてもよいなら、3人も4人もいても不思議でないと感じられてくるかもしれない。国家が四分五裂するのは、中国の歴史では当たり前。京都と吉野の朝廷の両方に正統性を認めれば、将来、日本が複数にちぎれたときに、ちぎれた数だけ天皇がいていいという思想の誕生へと、道を開きかねない。後小松天皇の悩みは深かったはずである。
 もちろん幾ら悩んでも、南北朝に存在し、2人の天皇、二つの元号がそれぞれに正統性を主張し機能した時代の存在した事実は否定できない。しかし、そのどちらにもそれぞれの理があったと相対主義的に評価しては後世に禍根を残す。京と吉野の天皇は決して対等でなく、どちらかが正でどちらかが閏(じゅん)であったと、歴史の審判を下さねばならない。それが『本朝皇胤紹運録』を編纂する最大の理由でもあったろう。
 すると、後小松天皇公認の歴史の審判の書において南朝天皇はどう扱われたか。後醍醐天皇は『本朝皇胤紹運録』では第95代の天皇で、その位にあったのは二期に分かれるとされる。第一期は後醍醐天皇鎌倉幕府を倒そうと挙兵した1331(元弘元)年まで。第二期は、倒幕に失敗していったん隠岐に流されるも再起して今度は倒幕を果たした1333(正慶2)年から、足利尊氏光明天皇を立てる1336(建武3)年まで。では96代はというと後醍醐の最初の挙兵後に後伏見上皇の立てた光厳天皇で、97代が足利尊氏の擁した光明天皇。それから98代の崇光、99代の後光厳、100代の後円融と続いて、後小松に至る。現代は100代とされる後小松天皇は『本朝皇胤紹運録』だと101代になる。
 一方の南朝方はどうか。『本朝皇胤紹運録』は後醍醐天皇が吉野に移ったあとの王朝を正統と認めていない。正閏論的には閏の扱い。後醍醐天皇を継いだ後村上天皇はあくまで義良親王と呼称され『南方で天皇と称し、後村上天皇と号した人』と但し書きされる。後村上のあとの長慶天皇は『南方で自ら勝手に天皇と名乗り、長慶天皇と号した人』とされ、続く後亀山天皇は『吉野で降伏したあと、本当は天皇でなかったのだけれど便宜的に太上天皇(前天皇)とされ、後亀山院と号した人』といった具合に注記される。京都に正しい天皇がいて、吉野に天皇と名乗る正統性の乏しい人たちの系譜もまたあった。そういう片付け方である。これが明治時代までのスタンダードな天皇の数えか方となった。
 それは単なる『勝ち組』の史観だろうか。そういう言い方もできなくはない。が、正閏論の元祖である中国の思想に照らしても決しておかしくない、いや、それどころか極めて筋が通っている。たとえば北宋司馬光の歴史書資治通鑑』における正閏論を参照してみよう。
 『正閏之際非所敢知、但拠其巧業之実而言之。周秦漢晋隋唐、皆嘗混壱九州、伝祚於後子孫雖微弱播遷、猶承祖宗之業』。
 王朝が二つ以上あるとき、どれが正で閏かは軽々に明らかにしえなけれども、判断の基準と考えてよいことはある。どの王朝が何をなしたかという実際の結果によって観察し判断できる。周も秦も漢も晋も隋も唐も、ついては中国全土(九州)の統一に成功した。そのあとに力が衰え、国家の分裂や遷都などがあっても、統一の業を継続する意欲を保っているうちは、そうした王朝を他よりも正統とみなしうる。司馬光の考え方である。
 『資治通鑑』は11世紀に成り、日本にも大きな影響を与え続けた。『本朝皇胤紹運録』の編纂時にも『資治通鑑』の正閏論は関係者たちの念頭にはあったろう。
 ならば、司馬光の意見に耳を傾けつつ日本の南北朝時代を総括するとどうなるか。南朝は吉野に逃れて以後、司馬光の考える正統な王朝の資格を有していたろうか。たしかに南朝方か北朝方かに分かれての大乱は長く続いた。だが南朝そのものは吉野の山奥に隠れるように存在した小さな王朝に過ぎなかったとも言える。南北朝時代の全国各地における戦争も、南朝方に関して言えば、吉野の朝廷の統一された政治的・軍事的計画に基づいて終始指導されていたとは考えにくかろう。北朝も似たようなものかもしれないが、少なくともそれは足利将軍と結びついていた。足利将軍を形式的には従えてこの国に統一をもたらすべく現実的に振る舞っていたのは北朝であり、実際の歴史も北朝室町幕府の勝利によって天下は統一に復したものとして描ける。司馬光によれば、国の統一を果たそうとし、現に果たすものこそが正閏論において正の位置を占める。『本朝皇胤紹運録』の北朝正統論とそれに基づく天皇の数え方は、司馬光に照らせば正しい。
 『資治通鑑』の思想
 だが、この北朝正統論は、日本に儒学の浸透してゆく中で次第に駁されてゆく。そこで大きな役目を果たしたのは、『資治通鑑』の要約書にして注釈書の『資治通鑑綱目』を著しもした12世紀の南宋儒学者朱子だろう。彼は『朱子語類』でこのように言う。
 『物久自有弊壊』。物は長い時間、有り続けばどうしても傷んで壊れてゆく。歴史もそれと同じだ。中国の太古にあっては現実と天の道理は一致していた。すべてが清く明らかだった。太古にあった物には道理が反映していた。清く明らかな物しかなかった。しかしその頃の物は壊れてしまうし、あってもすがたかたちが傷んで狂ってゆくし、それに合わせて天の道理も見失われていってしまう。
 『唐太宗起来整得略略地後又不好了』。たとえば唐の王朝が立ったときには太古に戻すような大きな力が働いたし、そういうことは繰り返し起きてきたがなかなか続かない。『終不能如太古』。太古に帰る企てはどうしてもうまくゆかない。
 これだけなら、ただの悲観主義虚無主義しか生まれない。だが、朱子の思想の核心として受容されたのは、其れに続く次の一節とそのポジティヴな解釈である。
 『或云「本然底亦不壊」。曰「固是」』。或る人が朱子に言った。『それでも天の道理の本質は失われずに今も存在しているのです』。朱子は答えた。『その通り』。もちろん儒学の言う天の道理とは結局のところ孔子の思想に基づく。筋が通っているか。正義を踏み外していないか。朱子はそうした観点から『資治通鑑』を読み替えてしまう。力が押し切る歴史の現実をそのまま正しいとは考えない。力に踏みつぶされた正義の側に対する再評価の視点を開く。壊れゆき狂いゆく物の背後に隠れて遠ざかっていってしまっている、壊れず狂わない不変の道理を見据える。それが『資治通鑑綱目』の思想である。歴史の中に果たされなかった正義を見出し、今にフィードバックされることで、太古を改めて蘇らせようとする。その志の息吹を吹き込むものこそ学問の力だ。
 そんな儒学の思想と真摯に向き合えば、『本朝皇胤紹運録』の歴代天皇表もそのままでは済ませたくなくなってくる。天下は単に統一されればよいのではない。問われるべきは統一の仕方である。孔子は、たとえ皇帝がどんなに不徳であっても、臣たる者は皇帝に対する臣の道をまっとうすべしと説いていたはずである。ところが足利尊氏は、後醍醐天皇の臣でありながら、後醍醐に従わず、かといって諫めて自害するわけでもなく、別の天皇を立てて自らの権力を追求した。そう見える。そこに天の道理は認めにくい。ならば結果として天下を統一しても司馬光流には割り切れない。弱小な側に終始正義が備わっていたとも解釈できるのだ。儒学の洗礼を受けると、ものの見方はかくも変わる。江戸幕府に仕えた林羅山と鵞峯(がほう)の父子も、徳川光圀の率いる水戸の学者たちも、共に儒学の徒として、しかも日本の歴史を見定めて史書をまとめようとする者として、南北朝正閏論をやり直さなければならないという問題意識を共有していた。
 けれど、父の林羅山の歴史編纂の仕事を受け継いだ林鵞峯は『本朝通鑑』をまとめるに当たって考えた。大義を取って南朝を正、北朝を閏として、『本朝皇胤紹運録』の見解を逆転させれば、後小松天皇の直系として江戸時代に続く天皇家に畏れ多い。そこで『本朝通鑑』は両論併記にした。南北朝の正閏をはっきりとは定めず、対等に見えるようにした。林鵞峯として最大限の努力である。
 『神々の闘争』と光圀
 編年体で書かれた『本朝通鑑』の目次を見ると、たとえば『巻121』は『後醍醐5・光厳上』で、『巻131』は『後醍醐15・光明5』で、『巻141』は『後光厳3・後村上10』である。後醍醐天皇崩御の後からは、北朝天皇の名が南朝よりも前に来るようにして現朝廷に気を遣いながらも、対等の格好は崩さない。しかも『本朝通鑑』は天皇の代数を神武天皇からずっと記さない。南北朝のどちらの天皇を正規に数えるかをはっきりさせなくてよいようにするためのひとつの工夫とも見られる。『本朝通鑑』は儒学の立場から南朝天皇北朝天皇と同格で数えるべきと問題提起をした、画期的な書物になった。しかし、同じ儒学者として林家をライバル視する徳川光圀からすると認めがたい代物だった。正閏の判断をせぬ歴史書にいったい存在意義があるのだろうか。孔子朱子の流儀で押し切りたい光圀からすれば、後醍醐天皇の理想を追求した南朝と逆賊の傀儡だった北朝の正閏はあまりに明らかである。
 だがそれで万人を説得できるかというと弱い部分もある。北朝を閏とすることが現皇室に無礼なばかりではない。確かに足利尊氏は乱臣である。とはいえ逆賊はついに征伐されなかった。尊氏の側に多くの武士が付き、北朝も存続した。それはなぜか。徳川光圀朱舜水が心躍らせた『太平記』は、南朝賛美の書のように読めるが、天皇を巡る根本的史観はというと『本朝皇胤紹運録』と同じ北朝が正で南朝が閏の立場を守っている。足利尊氏後醍醐天皇に歯向かったのは、後醍醐に徳が欠けていたからとも説明される。皇帝の徳の有無を重視するのもまた儒学だ。徳のない皇帝が居たら臣は諫めることに徹するべきで、反乱を起こすのは非道というのが、孔子の意見だろう。だが、同じ儒学でも孔子に続く孟子なら、皇帝の徳が地に落ちる状況とすれば、反乱を起こし革命を遂行するのも道理にかなうと主張する。多くの叛臣を生み出すのが帝の徳の不足にあるとすれば、足利尊氏を排撃することは後醍醐天皇を幾分なりか難ずることにつながってしまう。
 結局、天の道理に基づいて南朝を正とし北朝を閏としようとしても、いわゆる『神々の闘争』を免れない。孔子流に君子絶対を貫くか、孟子流に反乱にも道理のある場合ありと言うか。儒学内の教派的論争となって究極的な白黒は付けられまい。徳川光圀の弱りどころである。自分の確信にみなが付いてくるとは限らない。自らの思想、水戸学の立場、『大日本史』の論述を、相対主義的な言説のひとつにしたくはない。『本朝通鑑』などとは別次元の絶対的な結論に導きたい。
 そこで光圀は気付いた。朱子は、正義の判然としていた古に正義を表現する具体として存在していたはずの物はみな傷み壊れ滅してしまうから、今では天の道理を学問によって感得してゆくほかないのだとする。けれどそこには、その議論はどうしても観念的になり『神学論争化』するというおまけが漏れなくついてくる。でも、それは中国の話ではないか。日本には傷つき壊れず神話時代から今に伝わるとされる物がある! その物が正義と一体となっているとの確信に裏付けられるのが日本の国柄ではないのか。同じ儒学を奉じていても、中国とは決定的に違うところだ。中国流の儒学に解消できない神道という独自宗教がこの国に保たれている理由もそこにある。
 徳川光圀が水戸の学者たちにまとめさせた『神道集成』なる書物にこうある。『以辞達其理難、以象悟其理易』。辞、つまり言葉、観念によって天の道理を伝えるのは難しいが、象、つまり具体的な物体によってそれを悟らせるのはたやすい。中国は観念で分からせようとして結論なき論争に至るが、日本は物そのものによって一発で分からせる。天皇の正閏もどちらに理があるかを考えずとも、正義そのものである或る物をどちらが持っていたかで分かる。その物とは、言わずと知れた三種の神器である。」
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 皇統の正統性とは、三種の神器と祖先神・氏神の人神信仰。
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 古代ローマ帝国は、2人の正帝・2人の副帝をおく四分統治制(テトラルキア)に分割され、再編されたが一つになる事なく東西の皇帝で二つに完全分離された。
 大量に移民した異民族は、反乱を起こして西ローマ帝国を滅ぼし、自分たちの異民族王国を建国して古代ローマ文化を消滅させた。
 異民族は古代に愛着も敬意も畏敬もなく、媚び諂ってきたキリスト教会を利用して、古代のエジプト文明ギリシア文明・ローマ文明を異教・邪教・悪魔信仰として地上から完全に消し去った。
 古代ローマ人は、逃げて来た異民族難民を受け入れ助けたが、反乱を起こした異民族系住民によって虐殺され、奴隷に落とされ、そして死滅した。
 東ローマ帝国は、異民族の子孫によって乗っ取られ衰退し、隣国オスマン帝国に侵略されて滅亡した。
 東ローマ人は死滅したが、キリスト教東方正教会は残った。
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 日本は、古代から反日的敵日的周辺諸国に取り囲まれ、幾度となく侵略され、襲撃され、虐殺され、強制連行され、奴隷として中国などに売られるという、甚大なる被害を被っていた。
 そして、国内では日本から分離独立する反乱が起きていた。
 日本の近隣諸国で、信義に厚く、信用に足る、平和な国など存在した例しはない。



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