🏹37〕─1─世界最貧国・日本における農業と貨幣経済のイノベーション。~No.114No.115No.116 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 極東アジア貨幣経済を、始めたのは日本と中国であったが、高麗・朝鮮は遅れていた。
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 農業技術進歩による生産性の向上と貨幣の普及による金融経済の発展が、人口増加をもたらした。
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 2018年4月26日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 [中世編]
 (62)世界最貧国・日本の夜明け
 昨年秋に出版された高島正憲さんの『経済成長の日本史』は、膨大なデータを積み上げて古代から近代まで約1200年間に渡る日本の経済成長の道のりを連続してとらえようという、野心的な労作です。
 ちょっと値の張る本ですが、詳細については読んでいただくとして、本書の中で挙げられた推計を基に、日本の古代から中世に至る時代を、経済面から見ていきましょう。
 まず、725年、奈良時代のはじめの方ですが、このときの日本の人口が450万人ほどと推計されています。
 900年が640万人ぐらい。律令制の成立による社会的安定と積極的な耕地拡大、稲作農業の定着と気温上昇による稲栽培に適した自然環境の好転によって、人口が成長したと見られます。
 1150年が680万人ぐらい。横這いで、そんなに増えていません。農業技術の限界、ひでりと疫病、そして律令制国家の衰退がマイナス影響を与えたと見られています。
 1150年ごろ、京都の人口は12万人程度でした。それから100年後の鎌倉の人口が6万人から10万人程度という規模。博多で8,000人、その他の代表的な港町でも中世では5,000人いくかどうかという規模でした。
 ちなみに、鎌倉がなぜ大きくなったかといえば、訴訟です。
 幕府が土地の権利を安堵していましたから、土地関係の裁判は全部鎌倉でやるわけです。
 鎌倉時代の名作『十六夜(いざよい)日記』は、京都の貴族出身の阿仏尼という女性が、亡夫の遺産を自分の子供に相続させるために継子と争い、その訴訟のためにはるばる鎌倉まで旅をした記録ですよね。
 そういう人が増えて、『在鎌倉』という言葉が生まれました。これは単に鎌倉にいるというだけではなく、有利な判決を求めて鎌倉に滞在するという意味がありました。そこから『宿』という有料宿泊施設が鎌倉に生まれてきたのです。
 貨幣経済が日本に入ってきた
 次に一人当たりGDPはどうかといえば、1990年の国際ドル(ドルを物価で調整して世界共通の物差しにしたもの)ベースで見て、平城京建設後、律令国家成立時の730年が399ドル。
 この時代はやがてアラビアンナイトに描かれるイスラム帝国の盛時(せいじ)で、先進国だったイラクが920ドルです。
 わが国が積極的な農業・土地政策を進めた950年には596ドルに上っています。このときのイラクが810ドルです。イラクが少し落ちているのは、この頃にはバクダードの繁栄がカイロに奪われたからですね。それでも日本はイラクより大分低い。
 律令制が崩壊した後の、古代から中世への過渡期の1150年が、572ドル。
 中世前半期の1280年が、531ドル。
 1300年代にもうルネサンスを迎えているイタリアは、1,620ドルあります。英国でも755ドル。中国が1120年で863ドル、1400年に1,032ドルです。
 こうして見ると、当時の世界の主要国と比べたら、わが国の一人当たりのGDPは大体半分とか3分の1のレベルです。むしろ日本は最貧国に近かったことがわかります。
 奈良時代平安時代鎌倉時代と社会はずっと横這いだったというのが、人口や経済の大きな流れだと思います。古代・中世を通じて成長率は年平均0.06パーセントという緩慢なものでした。
 この日本が動き出すのが、平清盛が宋銭を輸入してからです。
 1976年に韓国全羅南道新安の沖合で沈没船が発見されました。調査の結果、この船は1323年に中国の寧波(ニンポー)から博多に向かう途中で沈没したと推定されましたが、東福寺宛と記された陶磁器1万8,600点とともに大量の銅銭を積んでいました。約800万枚、28トンにものぼります。
 奈良時代から平安時代にかけて、日本でも皇朝十二銭とかを作っていましたが、それは中国を真似て格好をつけるためのもので、実際には全然流通していませんでした。流通するだけの量が作れなかったのですね。だから当時は物々交換の経済でした。
 そこへ凄まじい量の銅銭が入ってきた。一艘の船で800万枚ですからね。日本の当時の人口が約700万人弱ですから、一艘の船だけで1人に1枚以上となるわけです。
 宋の時代に作られたコインの1割以上が日本に入って来たと考えられています。
 宋の時代に中国の人口は1億人を超えていましたが、その宋銭の1割が日本に来たとすると、人口比では中国と同等以上に宋銭が行き渡ったということですよね。鎌倉の大仏は実は宋銭を溶かした銅でできているという話もあります。
 日本で初めて貨幣経済(マネーエコノミー)が起こってきたことが、鎌倉時代、特に後半期の一番の事件なのです。
 一方、12世紀の日本では、『荘園公領制』、つまり土地本位の考え方をベースに統治が行われていました。貴族や幕府、寺社がそれぞれの土地に責任者を置いて税をとる。貨幣がないので、土地から取れるお米や麻布などを徴収していたのです。
 有徳人と悪党
 そこに大量のお金が入ってくると、土地ベースでなくお金で生きていこうとする人々が生まれてきます。土倉(どそう)や酒屋、問丸などと呼ばれた人たちです。
 土倉は簡単にいえば質屋、つまり金融業者です。酒屋は、酒を造る蔵本。問丸は倉庫業、流通業者です。
 特に塩、材木、薪炭(しんたん)、栗、大豆などの各地の特段品は、流通網の拡大によって需要が増し有力商品に成長していきます。このような産業で富裕になった人々は『有徳人(うとくにん)』と呼ばれました。
 また税も物納の代わりにお金で納めるようになります(代銭納)。御家人は領地からの上がりで生活していましたが、お金が足りずに土地を担保にお金を借りて、土地を取られてしまうケースも出てきました。
 鎌倉幕府は発令で『悪党』の鎮圧を命じています。幕府が安堵している御家人の領地を、幕府以外の別力(たとえばお金や公的な権威によらない武力など)で取り上げるのが、幕府に海賊や山賊と同じ悪党に見えたということです。
 1284年の悪党禁制法令には『御家人層まで悪党化している』と書かれています。
 これには前回見てたように両統迭立(てつりつ)の問題も絡んでいました。大覚寺統持明院統とが交代するたびに、その時々の朝廷の規定がコロコロと変わるとなると、もう幕府や朝廷の権威に頼らず自分で解決してやろうという流れになります。
 『悪党』の代表例は楠木正成赤松則村など、鎌倉幕府を倒す後醍醐天皇に味方した面々です。
 幕府の権威の枠外にいる貨幣経済社会でのし上がってきた人々は、土地本位で生きてきた人々とは利害が合わなかったのです。
 新しい貨幣経済社会と既存の土地経済体制との矛盾を一身に浴びて、鎌倉幕府は機能不全になっていったと考えるとわかりやすいと思います。
 さて、この新しい時代の流れのなかで、鎌倉時代の文化は生まれてきました」
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 日本列島は、海の外から多くの人種・民族・部族の人々が無秩序的に流れ着いたが、列島を嫌って半島や大陸に逃げ出した人はなく、殆ど全員が留まり、閉塞した空間である列島の中に閉じこもり、個性を失って一つに溶け合った。
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 ヨーロッパ大陸や中華大陸では、人種・民族・部族が活発に動き回り、混じり合うこと融合することを拒絶して個性を失う事なく堅持し、色分けする人種・民族・部族を守り多のまま生き抜いた。
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 日本列島には混血の弱い雑種が生きていたが、大陸では純血の強い固有種が生き抜いていた。
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 古代から日本の経済構造は、内需であって外需ではない。
 日本経済の源泉は、内需である。
 日本の底力は、中央ではなく地方にあった。
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 日本の外需は、朝鮮半島を介さず直接中国大陸と繋がる事であった。
 日本にとって朝鮮は、利するところのない無価値であった。
 つまり、日本にとって朝鮮は無いも当然の存在であった。
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 日本で貨幣が定着するや、中国との交易が活発化して日本経済が爆発的に発展し、大陸から最新技術や学問・知識が日本に流入した。
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 日本は、外敵の侵略に脅える事がなかった為に、時代と共に経済発展を続けて社会は豊かになり、支配層から庶民に至るまで生活の改善を続けた。
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 朝鮮は、何時の時代も外敵の侵略を受けて、占領されて臣下を誓い、属国として支配され、宮廷奴隷として少女を妓生として男子を宦官にして差し出し、命じられた物を献上した。
 国の富を侵略者に取られない為に、経済を発展させず、社会を貧しいままにし、生活を貧困におとしめ、宮廷の後継者争い、政府の権力闘争、党派の正統論争などを命を賭けて繰り返した。
 朝鮮の「恨」と「怨」は、進歩や発展を放棄した中から生まれた。
 朝鮮の発想、戦略は、奪われる物がなければ奪われない、欲しいものは有るところから持ってくる、貰えなければくれるまで泣き騒いでごねまくる、というものであった。
 それ故に、朝鮮の交易は宗主国中華帝国のと朝貢貿易から一歩も出る事はなかった。
 欲しいものが無かったら創意工夫で作り出す事を才能とする日本民族日本人には理解できなかった。
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 漢族の宋は、契丹族の遼、女真族の金、チベット系タングート族の西夏と戦っていたが、日本とは朝鮮を介さず揚子江流域の寧波で直接交易を行っていた。
 宋は、親日派ではなく、国家戦略として知日派を装って日本と交流していた。
 同じ漢族でも、中国共産党は明らかに反日派敵日派である。
 モンゴル族の元の侵略を受けていた南宋は、元の属国となった高麗を嫌悪して、日本との関係を重視していた。
 南宋から、高度な知識・教養を持った有能な人材や最先端技術を持った職人そして有徳な僧侶が日本に逃げ出し、人の移動と共に物や金が大量に日本に移動した。
 日本に逃げてきたのは、揚子江流域の南方系漢族であって黄河流域の北方系漢族ではない。 
 漢族と言っても、南北・東西では異なる。
 南方系漢族は親日派知日派に近いが、北方系漢族は反日派敵日派に近い。


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