🏹35〕36〕─1─滅びの美学。楠木正成。足利尊氏。七生報国。観応の擾乱。1284年~No.108No.109No.110No.111No.112No.113 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 楠木正成は、悪党と河原者や非人や賤民ら最下層民を官軍兵士として天皇と皇室を守る為に戦って全滅した。
   ・   ・   ・   
 元は、貢女の季節になると朝鮮半島巡察使を派遣した。
 高麗は、命じられた数の処女を献上する為に少女の婚姻を禁じ、各地を回って美女を物色して連行する巡察使を手助けした。
 1274年には、高麗は元に140人の美女を貢女(妓生・宮廷奴隷)として差し出した。
 中華皇帝に、美人にして処女を献上する事が義務化された。
 中華皇帝の勅使は、美人がいなかったり、処女の少女が少ないと、制裁として接待する朝鮮の高官を下僕の様に棒で激しく打ちのめした。
 朝鮮は、勅使の機嫌を取る為に多額の賄賂を送り、勅使から貢女に指名されながら拒否した美女は首を刎ねて差し出して非礼を平身低頭で詫びた。
 産業らしい産業もなく、特産品らしい特産品もない朝鮮は、漢方薬である高麗人参以外に日本産の品物を贈答品として送った。
 朝鮮が日本との交易を維持していたのは、国内消費ではなく中華帝国への贈り物にする為であった。
 その卑屈さは、「惨め」のひと言で尽きた。
 そこに、惨めな自分を慰める「恨」が存在した。
 朝鮮が、中華帝国の過酷な支配から解放されたのは1895年の日清戦争後であった。
   ・   ・   ・   
 高麗王国は、後の李氏朝鮮王国とは違って、仏教国で儒教国ではなかった。
 高麗人は、王家の純血をもって正統性とする儒教的血統至上主義を持っていなかった為に、モンゴル人との雑婚に反対せず、モンゴル人の血を引く混血児の王族が国王に即位しても反抗しなかった。
 何故。高麗人が朝鮮人と違って異民族のモンゴル人を野蛮人と嫌わず抵抗もせずすんなりと受け入れたのか、それは同じ仏教徒であったからである。
 仏教を信仰する高麗人には、朝鮮人の様に自説を面子として命をかけても守ろうという妥協なき硬直した思想は持ち合わせてはいなかった。
 無常観を持つ日本人が親しみを持つのは、理屈ぽい儒教の朝鮮ではなく、柔軟な仏教の高麗であった。
 岡田英弘「韓国人が非常に理屈っぽいというのも、もしそうでなかったら、巨大な支那に対抗できなかったからなのだ」
 「韓半島の人々は、元の支配で、異種族に支配されるのが如何に過酷な事かをイヤというほど体験したから、李朝においては、支那に介入されない事を最重要の方針にしたわけである」
   ・   ・   ・   
 日本人が最も好む物語が、判官贔屓と滅びの美学でさる。
 日本人は、正義感が強く義理人情に厚く卓越した才能が者ありながら、不運にもその能力を発揮できず、道理や義を貫く為に負けると分かっていても寡兵をもって大軍に戦いを挑み、天に見放されて悲劇的な最後を遂げる物語が好きである。
 諦観して、理不尽な運命を受け入れ、逃げる事なく覚悟を以て行動を起こしたその勇気や気概に惹かれた。
 最後の最後のその瞬間まで「諦める」事なく敢闘精神を失わない、潔い「凄み」が日本精神、大和魂である。
 栄耀栄華を極める為に運命を切り開く自己主張の一大叙事詩ではなく、肩肘張って虚勢を張らず淡々と運命を受け入れる自己犠牲の物語。
 その悲劇を遂げる者が、男であれ女であれ、若ければ若いほどうける。
 日本の物語には、大陸的なハッピーエンドで終わる成功談や出世物語より、死を伴うお涙ちょうだいの哀しい悲話が多い。
 日本人の死生観において、「滅びの美学」とは「命の賛歌」である。
 「死の覚悟」とは、限られた時間しか生きられない儚い命に如何なる責任と義務があるかを自覚させ、終焉を迎えるに当たって有意義な時間を過ごせたかを自問自答することである。
 嘘偽りなく、不義理な事をせず、家族や他人や世間に迷惑をかけず、潔く生きたか。
 お天道様の下を、たとえ後悔し反省して悔し涙を流そうとも、後ろめたさなく、恥じる事なく、出来る限りの最善を尽くして生ききったかであった。
   ・   ・   ・   
 フビライ・ハーンは、元朝(大元ウルス)を建国するや、貨幣政策として、西域や南海との交易を活発にする為に国際通貨として銀貨と紙幣を大量に流通させた。
 中国は、秦王朝の時代から伝統的に銅銭を用いて商いをしていた。
 中国人商人達は、大陸で使えなくなった銅銭を、国際通貨を採用していない日本との交易で使った。
 九州や近畿地方の日本人商人や地侍は、中国との商いで不要になった銅銭を大量に蓄えていった。
 関東の鎌倉幕府は、依然として土地を基盤とした支配体制を続けていた。
 西国で貨幣によって財力を付けた新興勢力「悪党」は、借金で苦しむ御家人を救済する為に負債踏み倒しの徳政令を強行する鎌倉幕府の横暴に激怒して、後醍醐天皇に味方して倒幕に立ち上がった。
 債権者の商人は、負債者としての誠意を見せない権力者の債務不履行を許さず、天皇の勅命を利用して滅亡させる事にした。
 鎌倉幕府末期は、西国の重商主義貨幣流通経済と東国の重農主義コメ農地経済との戦いであった。
 江戸時代までの日本経済は、金融流通の重商経済と地産地消の重農経済の鬩ぎ合いであった。
 江戸時代の日本経済は、独自で新たな原理原則を導き出し、一国で有りながら全ての面で世界規模の日本式安定経済モデルを完成させていた。
 貿易・情報ネットワークをオランダ一国を通じて地球全体に広げ、大量の情報を仕入れると伴に、少量の情報を発信していた。
 日本は、朝鮮とは違うのである。
 日本は、何時の時代に於いても外国を締め出して閉じ籠もってはいなのではなく、絶えず情報を仕入れて日本に害をなしそうなものを排除していただけである。
   ・   ・   ・   
 鎌倉後期。
 北条得宗御内人は、新たな領地を得る事ができなかった為に、職人や行商人から通行税を徴収した。
 幕府の要職にある御家人は、年貢以外に現金収入が得られる商品を作って鎌倉や京などの消費地に送り出していた。
 御内人は、商品流通が盛んになるにつれて財力を付け、発言力を強めた。
 御家人は、鎌倉武士として幕府を作ったという誇りから、座して通行税で富を得て幕府内の政治的発言力を強める御内人に不満を抱き始めた。
 1284年 北条時宗は、急死した。
 有力な御家人である安達泰盛は、弘安徳政という改革を始めた。
 1285年11月 霜月騒動御内人平頼綱は、執権北条貞時を担いで有力御家人安達泰盛を討ち取り、その一族滅ぼした。
 1293年 鎌倉など関東地方で大地震が発生し、約2万人が死亡した。
 平禅門の乱御家人側は、平頼綱の専横を疎んじてきた北条貞時を抱き込んで平頼綱を誅殺した。
 土地に縛られた御家人等は、定住せず町から町へと自由に移動する職人や行商人等を「悪党」と嫌った。
 商品流通によって貨幣経済が進み、武士の生活も金に縛られ始めた。
 時代は、「一所懸命」から「一生懸命」に価値観が代わり始めた。
 領内で売れる商品を作り出した御家人は豊かになり、米の年貢のみに頼り切った御家人は貧しくなった。
 前者の代表が足利氏であり、後者の代表が新田氏であった。
 悪党の代表が、楠木氏である。
 悪党は、土地に縛られない自由を得る為に、祭祀王・天皇を担いだ。
 米生産を唯一の収入としていた御家人は、天気不順で不作になるや、商人からの借金に頼り始めた。
 鎌倉幕府の崩壊は、全国的な貨幣経済の発展によって始まったのであって、元寇による御家人の困窮が原因ではなかった。
 1297年 北条貞時は、永仁徳政令を出した。
 中国から宋銭がどんどん入り、日本でも貨幣経済が社会に浸透した。
 幕府によって土地の売買が禁止されていたが、金持ちは隠れて土地を買ったり売ったりしてさらに儲けていた。
 貨幣経済の発展によって、土地本位制の荘園公領制は崩壊し、小さな土地を基盤とした御家人はさらに貧しくなり没落していった。
   ・   ・   ・  
 司馬遼太郎宋学朱子学)の立場からいえば、日本における南北朝の対立においては、南朝が正統とされる。(なぜ正統かとなると、ここで説明するのも物憂い。実のない形而上議論にすぎないからである)。
 ただし、現実の南北朝の世にあっては、そういう形而上論は、ごく一部にしか存在しなかった。
 現実に存在したのは、南北朝の首領である後醍醐天皇が、一時的に革命(建武の中興)に成功したあとのはなはだしい失政と、不人気だった。
 もともとこの天皇は、ごく自然な日本的な体制だった鎌倉の武家体制を否定し、さらには歴世の天皇の非政治性をもはげしく否定して、天皇である自分は中国皇帝のように専制権をもつべきだとした。日本的伝統からみれば風変わりだったが、宋学の正義体系からみればきわめて前衛的だった。
 楠木正成宋学の徒であったかどうかは、直接の資料にはない。が、傍証的にはそうだったろうと考えられる。
 その家は草莽(そうもう)の土豪にすぎなかった。かれは後醍醐天皇の流浪時代に先んじて討幕の挙に参加し、河内金剛山のふもとの赤坂に、満天下の敵をひきつけるための城塞をつくった。
 これによって世間がどう動くかということを見きわめぬいた人物だった。かれが卓越した戦術家だっただけでなく、世間というものを、心理学的に、あるいは政治力学的という点で、心得きっていたといえる。こういう器量の人物は、それ以前の日本史には見あたらない。
 要するに、千にも満たぬ手兵をもって幕府軍の20万7,600騎(『太平記』)の大軍に対抗したのである。その間、神秘的なほどに巧緻(こうち)な要塞戦を演じて、天下を統(す)べる北条執権府がいかに無能で弱いかを天下に曝け出させた。げんに天下の多くが、北条執権府を見かぎった。大量伝達方式(マス・コミュニケーション)のない時代に、それと同じ効果のことをやってのけたのである」
   ・   ・   ・   
 後醍醐天皇御製「世をさまり 民やすかれと 祈るこそ 我が身につきぬ 思ひなりけれ」
 1333年 第96代後醍醐天皇は、武家政権である鎌倉幕府を倒し、公家中心の親政を始めた。
 建武の親政は、中華思想による専制君主制を目指した。
 領地を命がけで守ろうとした武士は、戦わずして領地を拡大しようとした公家に猛反対した。
 1334年 後醍醐天皇は、実力者足利尊氏との関係悪化を恐れて、反足利の護良親王皇位簒奪の疑いで捕らえ、足利氏の支配下にある鎌倉に送った。
 尊氏の弟足利直義は、護良親王を土牢に幽閉し、翌35年の北条時行の乱を利用して殺害した。
 後に。護良親王が怨霊となって祟っていると恐れ、鎌倉宮を建立して、祟り神・鬼として祀った。
 1336年 足利尊氏は、天皇親政に不満を持つ筋目正しい武士に担がれて叛乱を起こし、大覚寺統後醍醐天皇に反旗を翻した。
 楠木正成は、武士の信望のない新田義貞誅殺し、足利尊氏と和睦する事を訴えた。
 公家らは、楠木の献策を笑って不採用にした。
 武士の多くは、武家の棟梁としての才能がない新田義貞を見限って足利尊氏に味方した。
 司馬遼太郎「楠木は河内の土豪の出身で、話しているうちに人を溶かすような人間的な魅力にあふれている」
 4月 湊川の合戦。
 楠木正成湊川神社)。
 明極楚俊「両頭 倶に截断して一剣天によって寒(すさま)じ」
 [人が悩み苦しむ生死、損得など相対的に対立する両頭を断ち切り、ただ一つの剣になっていけば良い]
 楠木正成は、官軍として後醍醐天皇を守るべく手勢700名を引き連れ、新田軍約2万人と共に湊川へ布陣した。
 足利尊氏は、賊軍として討伐命令を受けても、公家方中心の不当な論功行賞に不満を持つ武士を鳩合し、約5万人の大軍を率いて攻め上ってきた。
 楠木勢は、新田勢と切り離されて敵の大軍の中に取り残された。
 勝敗の行方は、歴然としていた。
 尊氏は、正成の「誠」「義」「忠」を貫こうとする清廉潔白な人柄を殺すには惜しいとして降伏を促した。
 だが。正成は、生き残り守護職や官位や大金を得るよりも自分が信ずる生き様に殉ずる道を選び、勤王の志一つで絶望的戦いを行った。
 サムライは、勝ち負け以上に「潔さ」を大事にし、愚直に信念を貫く為に一身を投げ出した。多勢の前の無勢で勝てそうもないからといって、節を曲げ、卑屈になって、無様に降伏する事を善しとはしなかった。
 それが、人の狂気とされる日本の「滅びの美学」である。
 戦い敗れた正成は、生き残った弟の正季と家来数十人と共に民家に退き火をかけて自害した。
 明治期の尊王攘夷の志士は、楠木正成を「忠臣の鏡」「サムライの鏡」として崇め、神国・日本をキリスト教欧米列強の植民地にさせない為に戦って死んだ。
 生き残った勤王の志士は、天皇と皇室に忠誠を誓い、祖国に殉じて死んだ同志を靖国神社の祭神として祀った。
 資源を持たない小国日本は、古代から、中国という軍事的経済的大国との絶望的自衛戦争を宿命付けられていた。
 近代からは、植民地拡大という弱肉強食の帝国主義時代を生き残る為に、自給自足体制を維持するべく富国強兵政策で軍国主義国家となった。
 東郷平八郎「おろかなる心につくす誠をば みそなわしてよ 天つちの神」
 同時に、開国した以上は国際社会で認めされる様に努力し、国益が多少は損なわれようとも出来うる限りの譲歩を行った。
 その模範が、義和団の乱の時の柴五郎大佐(会津出身)である。
 国際社会は、日本の軍国主義を否定し、侵略戦争を起こす危険性のある戦争犯罪国と認定した。
 現代の日本史は、個人優先主義と平和主義から、楠木正成や柴五郎らの生き様は命を軽視するものであり皇国史観につながり軍国主義の復活の基になるとして否定している。
 名和長年名和神社)は手勢約200騎で、尊氏軍約10万人に捨て身の突撃を敢行して戦死した。
 楠木正季「七生まで、ただ同じ人間に生まれて、朝敵を滅さばやとこそ存じ候へ」七生報国
   ・   ・   ・   
 桜井の別れ。
 楠木正成は、我が子正行に、楠木一族の最後の一人になっても天皇に忠義を尽くして死ぬ事が、汝が第一の孝行であると諭した。
   ・   ・   ・   
 5月27日 後醍醐天皇は、新田義貞が敗走してくるや、足利軍が京に入る前に御所を離れて比叡山に登った。
 比叡山は、国家鎮護の加持祈祷を行う聖地として、国體を守る為に避難してきた天皇や皇族を世俗の権力から保護する事を全山一致で取り決めていた。
 古い常識しきにとらわれた武士は、「比叡山は天然の要害の地であり、犯すべからずの聖地である比叡山を攻めると仏の罰が下る」として尻込みした。
 足利尊氏は、宗教権威の比叡山武装僧侶や大衆を動員して後醍醐天皇を庇う事は、武士社会の邪魔になるとして討伐を決断した。
 足利尊氏が心の支えとしたのは、臨済宗の禅であった為に、比叡山への思い入れは少なく、宗教権威としてではなく武装した荒くれ山法師集団と見なした。
 6月5日 足利尊氏は、後醍醐天皇比叡山を攻めるに当たって、自分を官軍にする為に持明院統光明天皇を即位させその勅許をえ、6万人の大兵力で比叡山を攻めた。
 後醍醐天皇を庇護して戦う比叡山への恐れから及び腰になっていた武士達は、自分達こそ官軍という意識を持ち、天皇の御威光を信じ仏罰を恐れず比叡山を攻めた。
 6月30日 名和長年は、新田義貞らと共に2万余騎で東寺に陣を構えて足利尊氏10万余騎と対峙した。
 名和長年は200余騎は、市街戦の混乱の中で孤立し、降伏する事なく全滅した。
 名和神社の祭神名和長年
 8月 荒法師は勝手知った山中で有利に戦っていたが、所詮は戦闘集団である武士には敵わず追い詰められていった。
 8月28日 比叡山は、大敗して追い詰められた。
 足利尊氏は、後醍醐天皇への尊崇の念があるだけに、このまま乱戦を続けて玉体を傷付ける事は恐れ多いとして和議を申し込んだ。
 後醍醐天皇を取り巻く反足利反武士の公家や荒法師等は、和議に猛反対した。
 11月 後醍醐天皇は、和議を受け入れ、10日に下山して京に戻った。
 吉野や熊野の修験者・山伏らは、反権力反権威として正統天皇である後醍醐天皇を支持し、皇室を守る為に身分卑しい山の民や海の民を糾合して立ち上がった。
 天皇の最大の支援集団は、身分が低く貧しい差別された下層民であった。
   ・   ・   ・   
 足利尊氏は、武士の世を再興させる為に新たな朝廷として、持明院統光明天皇を擁して北朝を興し、三種の神器を所有する南朝と敵対した。
 1338年 北朝光明天皇は、足利尊氏征夷大将軍に任命した。
 室町幕府の誕生である。
 後醍醐天皇は、武士から差別されていた身分卑しき非人や下人などの悪党を集め、宮中の称号を与える事で味方につけて幕府軍と戦った。
 被差別民は、天皇の祖先である天照大神を信仰し、天皇に接近して、祭祀王の権威で社会的な身分・地位を復活させようとした。
   ・   ・   ・   
 足利幕府は、宗教権威を振り回して我欲を押し通そうとする宗教勢力の排除に力を入れた。
 真言立川流は、密教呪術と陰陽道を取り入れたあやかしの秘技で信徒を多く獲得とくしていた。
 真言立川流の僧文観は、その霊力を誇張し、後醍醐天皇の依頼で鎌倉幕府打倒の祈祷を行った事がある。
 足利幕府は、真言立川流は民衆をたぶらかす邪教と決め付けて弾圧した。
   ・   ・   ・   
 世界の常識として。宗教が神聖な権威を振りかざして、政治権力に接近し、政治権力を手に入れ、政治権力を利用して地上に神聖王国を築いた時、世の中は地獄のような悲惨な状況に陥る。
 日本の常識として、奈良時代後期から政治の場から宗教を遠ざけてきた。
 俗な政治的権力者は、心の迷いを払拭する為に宗教的権威者の高僧・名僧に助言を求めても、政策の決定権を持たせる事はしなかった。
 日本の宗教観は、祖先神・氏神の人神を祀る祭祀王・天皇と排他的に教勢拡大を図ろうとする強欲な俗世的宗教権威が結合する事を嫌ってきた。
 神の裔・天皇の神聖不可侵を、利用しようとする権力欲の宗教あるいは否定する不寛容で攻撃的な宗教は、人を惑わし世を乱す元になるとして容赦なく弾圧した。 
 祖先神・氏神の人神信仰には、教祖はなく、教義や聖典もなく、布教活動もない。
 祖先を持つ子孫が、自分の祖先を神社や神棚に祀り、そこに「ある」ものとして日常生活の中でごく自然に饗応する、それが神道の神事である。
 武士は、比叡山などの大寺院が公家を加持祈祷などの秘技でたぶらかして社会を混乱させたと信じ込んでいた為に、宗教権威が政治権力に近づき政治を操る事に警戒した。
   ・   ・   ・   
 軍事力を頼りとする幕府は、天皇の伝統的権威を軽んじ、皇室を冷遇した。武士による、権力を笠に着た皇族への乱暴狼藉は絶える事がなかった。 
 武士に差別され税を絞られる百姓や職人は、天皇を心の拠り所として、武士階級に抵抗した。天皇を神聖不可侵の玉体として、その尊厳と体面を穢さないように細心の気配りを行った。
 権力を持たない天皇は、武士などの特権階級ではなく、身分低い被差別者の神聖なる象徴(シンボル)であった。
 絶対価値観による個人的独裁を認めるキリスト教会や欧米列強は、天皇と百姓の関係が理解できなかった。それは、マルクス主義による階級闘争史観も同様であった。
   ・   ・   ・   
 1339年 後醍醐天皇崩御し、祟る神・鬼として吉水神社に祀られた。
 足利尊氏は、後醍醐天皇の冥福を祈るために、夢窓疎石のすすめに従って天竜寺を造営した。
 山号霊亀山。寺号は天龍資聖禅寺。
 天龍寺は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院である。
 足利尊氏は、天竜寺の建設資金調達の為に、貿易船(寺社造営料唐船)を高麗ではなく、元に送った。
 この後。怨霊鎮魂は、神道ではなく仏教が受け持つようになった。
 特に、弘法大師空海真言密教が最も霊力があるとされ、高野山真言宗総本山金剛峰寺がお祓いや厄除けを行った。
   ・   ・   ・   
 臨済宗の禅は、南宋時代に高僧が日本に渡来して伝え、比叡山の影響は薄かった。
 日本の禅文化は、南宋人の渡来によって広まったが、中国人好みの個人の長命や富及び子孫の繁栄とは無関係であった。
 日本に入った禅は、神懸かり的呪術や霊感あらたかな加持祈祷とは無縁で、ただ座禅を組んで自分の内面を見つめ、自分を空しく無の境地に至ろうとする修業である。
 日本の禅文化は、日本独自の文化で、中国や朝鮮にはない。
 武士や庶民は、密教の加持祈祷や陰陽道の呪術を疑った。 
   ・   ・   ・   
 北畠親房は、1339年に皇位継承の道理を説く為に『神皇正統記』を著し、1343年に南朝大覚寺統)の第97代後村上天皇に献じた。
 北朝持明院統)第2代光明天皇
 現代日本は、民族の物語である神話的皇国史観を否定している。 
   ・   ・   ・   
・新田八幡の祭神は、新田義興
   ・   ・   ・   
 1342年 足利尊氏は、元に天竜寺船を派遣した。
 蒙古襲来で日本と中国は一時険悪な関係になったが、戦いの民である蒙古は勇猛に戦った日本を尊敬し敬意を払った。
 商人による民間交易が活発化して、仏教僧の来日が多くなり禅宗の教えや中国文化が日本にもたらされた。
 元は、勇敢な日本を惨めな朝鮮とは違う扱いをした。
   ・   ・   ・   
 1343年 瀋王オルジェイト(高麗第26代忠宣王、モンゴル名イジルブハの甥)は、敵対していた高麗第28代忠恵王(ブッダシュリー)を謀略で捕らえ、広東に追放する途中の岳陽で謀殺した。
   ・   ・   ・   
 1348年1月5日 四條畷の戦い南朝方の楠木正行は3,000人を率いて、足利尊氏の家臣高師直6万〜8万人と戦い全滅した。
 四條畷神社。祭神は楠木正行
 サムライは、相手が如何に大軍で勝てないと知っていても、蛮勇をふるって突撃して玉と砕けて全滅した。
 汚名に甘んじて生きるより、名を惜しんで戦って死んだ。
 武士道とは、死する事と見付けたり。
 武士道精神が、靖国神社の心である。
 中国・韓国・北朝鮮は、靖国神社侵略戦争を美化する好戦的神社であるとして否定し、日本に対して廃絶を求めている。
 現代日本は、戦前までの軍国主義的教育を完全否定し歴史を断絶させている為に、楠木正成・正行親子や名和長年らの「誠」と「義」を貫く忠君愛国の精神は持っていない。
 現代日本人は、死を美化する武士道精神を捨てた為に、昔の日本人とは全く違う「絆」を持たない異質な日本人である。
   ・   ・   ・   
 1350年(観応元〜52年) 観応の擾乱は、足利幕府の重臣である足利直義高師直が対立し、足利尊氏庶子である直冬が直義に味方して挙兵し、戦乱は全国的な内乱に発展した。
 足利直義南朝と手を組み挙兵し、高師直を敗走させ出家する事で和睦するが、京に帰る途中で師直を殺害し、師直一族の主だった者も殺した。
 足利尊氏足利直義の兄弟は、お互いが相手を意識しながら側近に動かされて戦争を始めた。
 足利尊氏は、南朝と和解して足利直義を攻めて敗走させた。
 足利直義は、降伏し尊氏の軍門に降ったが急死した。一説には毒殺されたといわれる。
 観応の擾乱が終わる事で、南北朝の内乱は収束した。
 全国の武士は増え、武士の世の中が始まった。
   ・   ・   ・   
 1351年 元のトゴンテムルは、忠恵王の弟バヤンテムルを高麗王に封じて開城に送り込んだ。
 バヤンテムルは、第31代恭愍(きょうびん)王となるや、翌年廃王忠定王(ミスキャブドルジ)を毒殺した。
 1356年 第31代恭愍王(バヤンテムル)は、元朝が宮廷内の権力闘争と白蓮教徒を中心とした紅巾賊の乱で弱体したと見るや、厳に奪われてていた旧領を奪い返す為に攻撃した。
 99年ぶりに、半島の旧領を奪還した。
 双城(永興)城攻防戦で、千戸(千人隊長)のウルスブハ(李子春)・李成桂親子が、高麗軍に内通して双城総督府を攻撃して勝利に導いた。
 ウルスブハは、その祖先が何処出身かは不明であるが、北方の狩猟民が多く住む土地で4代にわたって女真族の中で雑婚を繰り返していた。
 若し金州李氏出身としても、4代にわたって雑婚で混血度が強くなり、朝鮮人としての純血性が薄れた以上は李成桂満州人と言える。
 日本天皇が、125代の御代に渡って日本人の中で皇位を維持してきた以上、皇室は歴とした日本人であって朝鮮人ではない。
 1360年 李成桂は、父ウルスブハが死亡して家督を継ぎ、高麗軍の将軍(万人隊長)に任じられた。
 高麗に侵入した紅巾軍の撃退。成興から豆満江にかけての女真族鴨緑江上流域の女真族を平定。半島内のモンゴル残存勢力の掃討。倭寇征伐。
 李成桂は、優れた軍人として軍功を上げて軍隊内での人望を得た。
 高麗王宮内では、高麗王族でもなく、高麗人でもない、降将にある女真族出身の李成桂が力を付ける事に危ぶむ声があった。
 高麗将軍の鄭夢周は、高麗王朝を盛り立てる為には李成桂を活用すべきであるとして弁護した。
 1368年 紅巾軍の一武将であった朱元璋は、華南を統一し、南京で漢族による明朝を建て、洪武帝と称し、北伐を開始した。
 元朝皇帝トゴンテルム(元の恵宗。明は順帝と呼ぶ)は、都の大都を放棄してモンゴル高原に退却した。
 蒙古は、元朝としては滅んだが、その帝位は北元に引き継がれた。
 高麗は、朱元璋を中華皇帝として承認した。
 朱元璋は、元の腰巾着であった高麗の承認を不快に思ったが、元軍との戦いの最中であったので一途不問とした。
 日本に対しては、中華思想華夷秩序から民間交易を禁止し「貿易したければ朝貢せよ」と要求した。
 1369年 洪武帝は、国内統一に専念するべく、南朝懐良親王倭寇禁止を要請した。
 明国は、漢民族を世界の中心とした中華秩序を形成するべく、東アジアや東南アジアの諸国に対して属国として朝貢を命ずる為に艦隊を派遣した。
 各国は、明国の大艦隊と軍隊に恐れをなして、明皇帝の下に朝貢使を送り貢ぎ物を献上した。
 明国皇帝は、使者を送ってきた者に領地を治める事を認める冊封を行い、貢ぎ物を上回る高価な下賜品を与えた。
 中華帝国は、経済力と軍事力で周辺諸国を従属国として従えた。
 唯一、日本のみが中華秩序に参加しなかった。
 明国皇帝は、日本に使節を派遣し、朝廷に朝貢を求める勅書を手渡した。
 「もし明に朝貢しないのであれば、戦争に備えよ」
 懐良親王は、日本は明国の属国ではないとして朝貢を拒絶し、国書が日本を脅す内容であった為に皇帝への返書も渡さず、非礼を承知で黙殺した。
 1370年 トゴンテルムが高原南部の応昌府で死亡するや、第13代皇帝位を継いだアーユシュリーダラは更に北の本拠地カラコルムに退いた。
 1372年 洪武帝は、蒙古の残党を一掃する為に大軍を派遣したが、モンゴル高原の戦いで大敗を帰した。
 恭愍王は、代々元朝の皇女を王母として迎えた事を大義名分として、瀋陽・遼陽など遼東地域は元朝皇女の領地であるとして李成桂に軍隊を授けて満州を侵略させた。
   ・   ・   ・   
 2017年1月号 新潮45「水戸学の世界地図 片山杜秀
 18 『七生報国』の由来
 『太平記』伝の楠木正成が、水戸学、日本軍、三島由紀夫の自決に連なる精神の源だった。
 三島が自決した時の鉢巻には
 三島由紀夫が東京の市谷の自衛隊駐屯地に突入して自決した。1970年11月25日のこと。そのとき三島は頭に鉢巻きをしていた。『七生報国』と書かれていた。何に由来するか。『太平記』だ。南朝方の楠木正成の軍勢は湊川の合戦で絶体絶命の急地に追い込まれた。楠木勢は味方の新田義貞の軍勢と分断され、足利直義率いる北朝方の大軍を一手に引き受けざるを得なくなった。
 その敵の数はなんと50万騎!
 14世紀の日本の人口や武者の数を考えても実数50万はありえないだろう。だが『太平記』にはそう記されている。対する楠木勢は700騎程度だという。おおよそ700分の1だ。が、戦の神様にして軍略の巨人、楠木正成の率いる猛兵揃い。鬼神も驚く勇戦ぶりにて、700騎が50万騎を押しまくる。楠木正成は弟の正季とともに戦の先頭に立ち、足利直義を討ち取る寸前まで行く。
 が、敵もさるもの。足利直義は逃げ去る。援兵も投入される。赤穂義士に討ち果たされる吉良上野介の先祖の吉良氏の軍勢。その吉良上野介が『忠臣蔵』の芝居で『太平記』の世界に嵌(は)められて高師直と名を変える、その本家本元の郄氏の軍勢。吉良と郄の揃い踏みで楠木勢を追い詰める。
 さすがの南朝忠義の臣、楠木正成の少数精鋭部隊も、足利勢の雲霞の大軍相手に、ついになす術を失う。犠牲はかさみ、いつの間にか700騎は9割を失って70騎に減っている。楠木の一族郎党はもはやこれまでと悟る。なおも生き残っていた者たちは集団自決をはかる。
 『太平記』の伝えるところでは、そのとき楠木正成が弟の正季に語りかける。
 『聞くところによれば、死に際で何を思い詰めるかによって、輪廻転生しての来世の運命も決まってくるそうだ。正季よ、おまえは次にこの世に出るときは何に生まれ変わりたいのか』
 正季は即座に呵々大笑してこういい放つ。『七度生まれ変わってもその度にこの世で人間として生まれ、朝敵を滅ぼしたく存じます』
 正成も応ずる。『罪深いおのれではあるが、我が思いもおまえと同じだ。ならば共に生まれ変わって、今度こそ本懐を遂げようではないか』
 一族郎等の切腹自刃を見届けた兄弟は刺し違えて死んだ。七度生まれて天皇に尽くし、天皇の国に報いると、来世への願いをかけて最期を遂げた。『七生報国』の語源である。たとえ味方が絶体的劣勢であろうと、あるいはそうでなかろうと、何の関係もない。正しいこと、義のあることに、ただ忠実に従う。もしも悪や不義の側に勝利できなければ、生まれ変わって続きをやる。勝てるか勝てないか、結果が出せるか出せないかは二義的な問題である。義を貫けるか貫けないか。重要なのはそれだけだ。無茶でもいい、逞しく筋を通せ。志半ばに死んだら死んだで、何も悔いることはない。無駄死にと思うこともない。また生まれ変わって続きができるのだから。輪廻転生を信じぬとしても、筋を通して命を惜しまぬ事実を歴史に刻むことが、必ず後世に強い影響を与え、次の義人を生み出すはずだから。義士の存在価値は結果責任というよりも行為責任にあるといってよい。義を果たしたと判断できる行動を起こしたかどうかが大切なのだ。仮に結果が出なくとも構いはしない。
 『七生報国』の精神とはそういうものである。『楠公精神』とも呼ばれた。とりわけ太平洋戦争のおりには大いに喧伝された。その頃、青少年期をすごした三島由紀夫の世代は『楠公精神』に直撃されている。
 楠木方が日本軍
 その頃『楠公精神』は次のように翻訳されていた。数を頼んで寄せくる足利方がアメリカ軍。多勢に無勢は百も承知でも、智略を尽くし勇気を振り絞って一切何も諦めずに戦い抜く楠木方が日本軍。その日本軍は言うまでもなく皇軍である。大日本帝国憲法下の日本軍は天皇の軍隊と法的にも規定されている。天皇大義に殉ずるのが天皇大元帥と仰ぐ大日本帝国陸海軍の使命。近代日本の軍隊とは楠木軍に見立てられるものなのだ。特に敵国がロシアやアメリカやイギリスのような強大国である場合は。
 そんな『楠公精神』は帝国陸海軍の精神的基軸となった。戦争末期のほとんど絶望的で救いのない体当たり攻撃に多くの将兵を向かわせた倫理的原動力もまた『楠公精神』であった。700騎で50万騎に立ち向かう心意気である。しかもその心意気には大義が伴っているという確信である。
 太平洋戦争における『最後の特攻攻撃』と呼ばれるのは、1945年8月15日午後5時台、つまり玉音放送が流れてから何時間かあとに大分から沖縄方面に飛び立った、海軍の全11機である。実際には攻撃というよりも敗戦の責任を負っての集団自決行であった。海軍の第5航空艦隊司令長官として、九州にあって体当たり攻撃を指揮してきた宇垣纏(まとめ)中将自らが特攻機に乗って、11機を率いた。宇垣はそのまま海の藻屑と消えた。宇垣は『海藻録』と題する日誌を付けていて、それはのちに出版されたが、その最後の方、玉音放送後、出撃前に書かれたくだりにはこうある。
 『余又楠公精神を以て永久に尽くすところあるを期す』
 『楠公精神』という言葉はそのように用いられるのが1945年8月までの常であった。当時の頻用語であり流行語であり戦意高揚のためのスローガンであった。アッツ島サイパン島硫黄島の玉砕が、同時代的には作戦の不備や防衛力の不足の問題として批判されることなく最後の勝利につながりうる美談にたちどころに変成しえたのは『楠公精神』の神通力と錬金術あってのことだったろう。真田幸村の無茶な戦に人が感激するのもそれが『楠公精神』のヴァリエーションだからだろう。そしれ三島由紀夫の『七生報国』まで『楠公精神』はなおも人を酔わせ続ける。必敗という客観情勢を美的・倫理的の両面で正当化する魔力をそれは持っている。
 『楠公精神』の魔力は天皇の軍隊を持った日本の近代によって大いに強化されたからこそ、太平洋戦争の時代に深く機能したのだろう。といってももちろん天皇の軍隊が出来てから『楠公精神』の意義が初めて見出されたわけではない。幕末の尊皇の志士たちは、自らの志を果たせるか果たせぬかという現世的損得勘定を超越するために、成功不成功にかかわりなく、尊皇の大義を貫く規範として楠木正成を大いに称揚した。吉田松陰しかり、真木和泉またしかり。
 『王政復古』と湊川神社
 楠木正成が最期を遂げた湊川に、彼を祭る湊川神社が創建されたのは明治維新直後のこと。正成以来、尊皇の志は、武家政権の暴圧にめげず、七度かもっとか生まれ変わった人々によって脈々と受け継がれ、ついに幕末から尊皇運動が盛り上がって、後醍醐天皇の『建武の新政』以来の『王政復古』が実現した。そのような史観にたてば、楠木正成が維新後、神に祭られるのは当然と言えば当然であった。神社は維新政府自らが建てた。
 だが、維新政府とは別に、自らに建てさせるようにと、強行に主張し運動した勢力があった。廃藩置県前の水戸藩である。
 ……」


   ・   ・   ・