🏹39〕─1─高麗の水軍と海賊は、対馬で島民を虐殺し、日本人を中国に奴隷として売った。足利義満。モンゴル諸王国の滅亡。1373年 ~No.120No.121No.122 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本国内の高麗は、朝鮮半島の高麗とは一切関係ない。
 日本に逃げて来たのは、親日派百済高句麗の戦争難民達である。
 彼らは、反日派の渡来人ではなく親日派帰化人である。
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 元の属国となっていた高麗は、命じられるままに貢女(宮廷慰安婦)や宦官を差し出していた。
 元は、貢女の条件として、美女で処女、しかも両班の娘か妾と定め、多いとき100名を要求した。
 高麗は、朝鮮人特有の「強き者には屈し、弱き者には横暴」という事大主義から、奴隷根性から命じられた人数の生娘を元朝に献上していた。
 そうした人身御供的女性献上は、明王朝でも清王朝でも踏襲され、中国側が呆れるほど朝鮮側の強い希望で行われていた。
 ◯◯慰安婦は、朝鮮では当たり前のように存在していた。
 それが、伝統的なキーセン(妓女)文化である。
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 凶暴で残虐無比な高麗水軍。
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*高麗の日本征討
 前期倭寇対馬などの島民は、元寇で荒廃した土地で生活できない為に、倭寇となって復讐と拉致された家族の奪還の為に朝鮮半島や中国大陸を襲撃した。
 倭寇は、海賊であっても高麗人の様な凶悪な略奪者、殺人鬼ではないという自負から、抵抗する者は殺すが逃げる者は殺さないとして無益な殺生を控え、食べ物などの生活物資は奪っても人は攫わなかった。
 呉莱『論倭』「倭人の強さは、高麗如きが及ぶものではない」
 「漢代の倭人は弱小で制圧しやすく、唐代では白村江の戦いでは簡単に打ち破るほどであった。しかし、今の倭人は昔の倭人ではない。昔の倭人が弱いといっても、せいぜい中国の軍隊を防ぐ程度であったが、現在ではこちらに向かって攻め寄せて来ている。倭人兵は軍備を整え、船を使って神出鬼没に攻撃してくる為、沿岸の兵隊がやって来る時にはもはた跡形もなく。元軍は疲れ果て国家の権威は地に落ちた」
 高麗は、民族の特性として自分の都合の悪い約束を守らず、相手に都合の悪い約束をゴリ押しした。
 表面的には、日本との友好を求めた。だが、裏では日本の寝首を掻く機会を狙っていた。
 1351年 倭寇による高麗襲撃が本格化して、多い年で1年間に23回もあった。
 1358年 高麗は、自力で倭寇討伐と船団護衛ができない為に、船舶護衛に漢人武装集団を雇った。
 だが漢人武装集団が倭寇に敗北するや海上運搬が不可能となり、米などの品物を不便ではあったが陸上輸送に切り替えた。
 日本人倭寇は、元寇における高麗の虐殺と拉致を忘れず、その恨みから凶暴化していたが、役人や兵士は殺害したが貧しい庶民には手を出さず見逃した。
 それ以前の平安時代から、対馬壱岐などの島民は朝鮮の水軍や海賊の襲撃を受けて虐殺され、多くの女性や子供を拉致されていた。
 西日本の日本海沿岸部の住民にとって、朝鮮は許しがたい犯罪者であった。
 王宮への報告でも、「庶民を殺生しない事」が報告された。
 1360年 倭寇は、江華島の国庫を襲撃して、4万石の米を奪った。
 高麗は、自力で討伐できない為に、困り果てた日本に対して倭寇の取り締まりを懇願した。
 足利義満が、南北朝の内戦を終わらせ明との朝貢交易を始めるとともに、倭寇を取り締まった。
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 1373(〜80)年 足利義満は、天皇から将軍職を授かると共に、中華皇帝から日本の正当な統治者と認められる為に仏教僧を明国に派遣し、明国の使者を京都に迎えた。
 だが、南朝方との戦いや幕府内の権力闘争で明国との交流は途絶えた。
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 1379年 馬借による康暦の徳政一揆
 1381年 明国皇帝・洪武帝は、中華皇帝の面子として日本に朝貢を迫るべく勅使を派遣し国書を手渡した。
 懐良親王は、明国皇帝の立場を考慮して返書を渡したが朝貢は頑として拒否した。
 明国皇帝は、慇懃無礼な書簡に激怒したが、日本征伐の軍隊を派遣するだけの余裕がなかった為に「日本国王」の称号を賜った。
 1389年 北朝の第100代後小松天皇。高麗水軍と海賊の船団100隻以上は、非道な倭寇の討伐を名目に、対馬を強襲して島民を虐殺し略奪し、そして日本人を拉致して逃走した。
 当時の高麗は、国中で横領や不正が横行して秩序が崩壊していた。殺人や略奪や人身売買などの凶悪犯罪が急増して治安は悪化し、暴動や内戦が続発して社会は乱れていた。
 それを鎮圧すべき官軍兵士への支給や配給を上官らが横領して遅れていた為に、下級兵士の不平不満が募り反乱の兆しが現れていた。
 高麗王朝は、衰退し、滅亡しようとしていた。
 「お人好し」の日本とは違って、「人間不信」の朝鮮においてはまともな時代は少ない。
 中華文明圏の朝鮮は、中国同様に王朝交替期には大規模な内戦が起き、大量の虐殺が行われて、多くの人々が中国領へ逃亡した。
 中国東北部満州)の朝鮮族は、半島を見限って逃げ出した人々の子孫である。
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 足利義満には皇位簒奪の意思はなかった。
 1408年5月 足利義満が死去した。
 長男の足利義持が将軍として武家社会を支配し、4男の足利義嗣が公家の位を上げて朝廷を支配した。
 日本の平和は、武士が幕府を開き、武力の武家社会と文化・宗教の公家社会を支配し、車の両輪とした時に得られた。
 6月22日 東南アジアから渡来した南蛮船は、若狭国小浜に来航し、亡き日本国王義満に象を献上した。 
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 1291年 フビライは、日本の南に位置する琉球を偵察し、抵抗する日本武士のような地元勢力がいなければ占領する為に兵6,000人を派遣した。
 琉球の英租軍は、侵略してきた蒙古軍を撃退した。
 蒙古の侵略を契機として、琉球では中華の侵略から祖国を防衛する為の石造りの本格的大型グスク(城)が建設された。
 平成に入って、その幾つかが海底遺跡・海底城郭として発見された。
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元王朝(1271年〜1368年)の滅亡 
 元は王族らの反乱や高官の権力闘争で衰退し、皇帝の権威は地に落ちていた。
 相次ぐ天災で生活に窮した農村の反乱と白蓮教による紅巾の乱で、モンゴル特有の恐怖による軍事支配は力を失っていた。
 1368年 朱元璋が、元軍を破り、モンゴルを中国から追い出して、明帝国を建国した。建国から安定期に入るまで、夥しい人が虐殺されて、大量の血が流れた。
 中国には、日本と違って「血筋」を神聖視する万世一系の王族は存在しない。存在するのは、個の完全な自由を持ち、生殺与奪の権利を行使できる絶対権力者の中華皇帝である。
 1374年 恭愍王が側近に暗殺され、禑王(ムニヌ王)が即位した。
 1387年 洪武帝は、モンゴル高原攻略を後回しとして、女真族満州を討伐する為に20万人の大軍を派遣した。
 明国の大軍は、満州各地でモンゴルの残党を討伐しながら遼東に迫り、高麗に旧遼陽行省及び双城総督府の割譲を要求した。
 禑王は、明国も要求を拒否し、占領地を守る為に北元と同盟を結んで明国と対抗しようとした。
 1388年 明軍は、モンゴル高原に侵攻して北元軍を破った。
 北元のトクズテムル皇帝は、敗走途中で身内の叛乱にあって殺害された。
 禑王は、北元を救う為に李成桂に軍隊を授けて派遣した。
 高麗王宮では、占領地を明国から守る為に北元を助けるべきだと主張する北元派と、新たな中華皇帝となった洪武帝に忠誠を誓うべきと主張する明国派で激しく対立していた。
 李成桂は、明国派と組みクーデターを起こす為に、鴨緑江から引き換えして首都・開城を占領し、?王を廃位して息子の辛昌を第33代国王に即位させた。昌王である。
 世にいう、威化島回軍である。
 後に、昌王を廃位させ、第21代熙宗の子孫を即位させた。第34代恭護王である。
 禑王と昌王は、正統な血筋ではないとして島流しにされ、李成桂の手の者によって毒による自殺を強要されて死亡した。
 高麗王家の正統血筋は絶えた。
 1392年 李成桂は、儒教の天命思想に基づき、天は人徳がなくなった高麗王家から李氏に王位を下したという易姓革命を行った。
 旧高麗の高官や将軍達は、李成桂を新たな国王と認めた。
 鄭夢周ら高麗王家に忠誠を誓う者達は、家族諸共に殺害さ、全財産を没収された。
 その他の高麗王氏も、李子朝鮮への叛乱の芽を摘む為に皆殺しにされ、その財産や土地は没収された。
 朝鮮史は、日本史とは異なり、中国史同様に大虐殺の上に存在している。
 李成桂は、新たな支配層を非高麗人で堅め、自分を支持する高麗人を両班として没収した土地や財産を分け与えた。
 伝統的世襲的分制度を導入して、高麗人を良くて常民、悪くすれば奴婢もしくは白丁に落とした。
 両班以下は人間とは見なされず、読み書きは認めらず極貧生活が強要された。
 約500年間。朝鮮の庶民は、地獄のような生活を強いられていた。
 朝鮮を支配した異民族系朝鮮人は、儒教中華思想を身に付けや、中華皇帝を頂点とする華夷秩序に従い日本や女真族などの周辺諸国を野蛮な未開人と軽蔑した。
 他国を下位者として侮蔑する事で、中華皇帝の永続的従属という屈辱感を薄めようとした。
 他者に対する優越感は自己満足の幻想でしかなく、上位者を認めて朝貢使を送ってくる国など絶無で、幾ら声高に言い立てた所で自己嫌悪の惨めさに苛まれるだけであった。
 それとて、中華皇帝に逆らわないように恐怖におののきながらの卑屈した自己主張に過ぎず、絶えず中華帝国に対してし媚び諂い愛想笑いを浮かべておべっかを使わねばならなかった。
 朝鮮人が、日本人を野蛮人として見下すのは幻影でしかないアイデンティティを認識する為の儚い望みである以上、偏狭的反日がおさまる事は未来永劫あり得ない。
 朝鮮が、中華思想を隠して日本に友好を求めてくるときは、中国同様に、自分に都合が悪くなったときだけである。
 1393年 高麗は、元への忠誠から、モンゴル人が建国した北元に協力して明領に軍隊を派遣した。
 高麗の武将李成桂(北辺女真族出身)は、王位は血筋ではなく、実力者がその能力で受け継ぐべきものであるとして高麗王を殺害して王位を簒奪した。
 李氏朝鮮王朝の誕生である。
 朝鮮でも、中国同様に、前王朝関係者の虐殺が行われた。
 東アジアには、徳は存在しない。当然、支配者も徳には縁がなかった。
 徳は、単なる学問上の言葉のアヤであった。
 聖人君主は、徳を持って国と民衆を支配するといわれたが、歴史上、あった試しはない。
 また、道徳も非現実にすぎなかった。
 道徳も、学問上の、書籍の中のみに存在する美辞麗句にすぎなかった。
 道徳を信ずるのは、現実を見ない愚か者か、気が触れた狂人のみであった。
 徳を信じ、道徳で生きようとすれば、数日以内にすべてを失い、そして殺害された。
 それが、東アジア世界の紛れもない現実であった。
 1390年頃の高麗の人口は約400万人であったが、1410年頃の李氏朝鮮の総人口は約200万人に半減していた。
 李氏朝鮮は、敵対する者は、女子供でも容赦なく皆殺しにした。
 李成桂は、地域差別を助長する為に、北半分の住民への弾圧と迫害を命じた。
 朝鮮には、幾重にも儒教的差別が存在していた。朝鮮人は、儒教的差別に縛られ、人間としての尊厳も権利も全てが奪われていた。
 中国と朝鮮は、日本以上に特権階級が支配する社会であり、貧富の格差が世界一激しい世界であり、儒教的上下関係を守る為に貧困を救済せずわざと放置した。
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 歴代の中華帝国は、擦り寄っては気持ち悪いほどに媚び諂って手に負えず、離れては傲慢無礼に気が触れた様に暴れ回る朝鮮人の性根に辟易として、近寄りたくないとして朝鮮を属国としても領土にはしなかった。
 朝鮮を侵略したのは、漢族中華帝国ではなく、北方の野蛮族の中華帝国であった。
 ある意味、朝鮮人は漢族中華帝国の侵略から国土を護り通したといえる。
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 モンゴル帝国(1206〜71年)の諸王国の滅亡。
 中華の元王朝以外のモンゴル人達は、土着する事でイスラム教に改宗し、その子孫が現在のトルコ系民族やタタール人達である。
 モンゴル皇帝の皇位継承をめぐる帝室内の対立が激化し、一族は各地で小王国を樹立して帝国は分裂した。
 キプチャク=ハン国 1243年〜1502年…王族と貴族らによる内政の腐敗で衰退し、モスクワ大公国の独立で崩壊した。
 チャガタイ=ハン国 1227年〜14世紀後半…王族の内紛で東西に分裂し、ティムールに征服された。
 オゴタイ=ハン国  1225年〜1310年…叛乱が起き、チャガタイ=ハン国に併合された。
 イル=ハン国    1258年〜1353年…王権をめぐる一族の抗争で分裂し、ティムールに征服された。
 国家は内部から崩壊し、民族は裏切り者によって死滅した。
 そして、亡国の王族とその忠臣らは家族もろとも一人残らず皆殺しにあった。
 大陸における王朝交替とは、そうした事である。
 中国の歴史は、大流血を伴う大虐殺の歴史であった。
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 日本には一度も王朝の交替はなく、よって王朝の交代に伴う大虐殺は起きなかった。
 男系という皇統が絶える事なく存続したことで、日本には大陸的な虐殺は起きなかった。
 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)は、虐殺を防ぐセーフティーネットであった。
 コミンテルンは、日本のマルクス主義者に天皇を打倒し、皇室廃絶を命じた。
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 鎌倉時代は、本家を中心とした血縁的惣領制の基で、領地を分家に分割相続していた。
 鎌倉幕府は、血縁的惣領制を保証することで全国支配を強めた。
 相続した領地によって生産性が異なり貧富の差が出始めるや、血縁的結束が揺らぎ始めた。
 農業生産力の向上で、手工業者が農作業から開放されて生産に専念する様になると商品が市場に溢れ出し、工芸品の流通が盛んになるや貨幣経済は全国に滲透していった。
 遠隔地との取引には、信用決済として「割符」という手形を発効した。
 室町時代には、領地の細分化で相続する領地が縮小を余儀なくされた為に、公平な分割相続を止めて跡取りの嫡男だけの単独相続となった。
 武士は、単独相続によって親権に基ずく惣領制は崩壊した為に、先祖代々の土地に縛られ事はなくなり、一族の宗家ではなく他人に忠誠を誓って恩賞を得る様になった。
 氏族社会は、血縁的結束から地縁的結束に変質した。
 土地の分配権が幕府の将軍から各国の守護職・大名に移るや、地頭は領地を守る為に、土地を持たない武士は、自分の利益のみで守護職・大名に忠誠を誓った。
 室町幕府は、朝廷同様に、武家の正統性を示す旗頭だけの権威のみとなって形骸化した。
 同時に。室町幕府の弱体化によって、日本貨幣は信用をなくして、宋銭や明銭など中国銭が全国に流通した。
 統一貨幣が流通するには、手工業生産が活発となって生産量を増やし、遠国から商品が市場に運び込まれて経済活動が盛んになる事も大事ではあるが、それ以上に貨幣に信用を与える強力な一元的価値が必要であった。
 平安朝中期の958年に乾元通宝が発行されて以降、中国銭での取引が行われ、日本でのい公的通貨は鋳造されなくなった。
 鎌倉幕府室町幕府も、貨幣単位を統一規格で鋳造するだけの中央政権としての財政力がなかった。
 また、市場を支配し安定化させるだけの資本力のある商人もいなかった。
 通貨鋳造は、1587年の豊臣秀吉の通貨統一を待たねばならなおあった。
 日本全国で貨幣が安定して流通する様になるのは、1603年に徳川家康が江戸に幕府を開いてからである。
 日本が朝鮮と違って貨幣と物流で市場経済を成熟させ得たのは、徳川家康の施政による所が大である。
 江戸時代がなければ、日本は中国や朝鮮同様に最貧国に転落していた。 



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