🏹40〕41〕─1─前期倭寇は対馬・壱岐・五島の島民による復讐戦・弔い合戦であった。1392年~No.123No.124No.125No.126No.127No.128 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 虐殺され拉致された対馬壱岐、五島の島民による、朝鮮と中国への弔い合戦。
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 安鼎福は、『東史綱目』で、倭寇元寇の報復として高麗や明国を荒らしていると書き記した。
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 明国皇帝は、臣下の礼で土下座した李成桂を国王に任命し、国号「朝鮮」と首都名「漢城・漢陽」を下賜した。
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 13世紀 『八幡愚童訓』「八幡宮御縁起(神功皇后が朝鮮征伐を行った際、新羅王は降伏して)『我等日本国の犬となり、日本を守護します』と誓った」
 日本人は、自分は朝鮮人よりも上位に立っていると信じていた。
 中国人は、自分こそ世界で一番優れている人間であると確信し、それに比べて日本人を薄汚い獣「倭人」と軽蔑していた。
 朝鮮人は、自分は中国人に次いで教養のある紳士と確信し、対して日本人を無能で野蛮人と軽蔑していた。
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 神の裔・天皇を戴く朝廷は、朝鮮人以上に漢籍を深く読み込み、個人として中国には敬意を持つが、国家としては排他的な人種差別主義者中国人を信用せず国交を閉ざしていた。
 朝廷は、朝鮮とは違って、虐殺による民族浄化を正当行為とする中国の中華思想が日本に蔓延する事を恐れていた。
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*中国の属国を受け入れた朝鮮王国と、属国を拒否した天皇制度国家日本。 
 朝鮮半島は、新羅が唐の軍事支援を得て半島を統一して以来、1000年以上にわたって中国の忠実な属国であった。
 臣下として、中国皇帝の暦と貨幣を使用し、天帝を祀らず諸侯五廟だけを祀った。
 中華思想に基づく天朝朝貢冊封秩序において、朝鮮王朝の待遇は琉球王国よりも下位に置かれていた。
 朝鮮国王の中国宮廷での序列は、周辺諸侯はもちろん地方軍政長官や総督よりも低かった。
 諸侯からの朝貢使節は、中国の宮廷で諸侯の礼を受けたが、朝鮮使節は受ける事はなかった。
 琉球使節は駕籠で宮廷入りしたが、朝鮮使節のみは駕籠に乗る事を禁じられ徒歩で参内した。
 天子・皇帝の前に伺候する時は、高級官吏は赤色の礼服を着たが、朝鮮使節は隷属者として黒色の丸首の衣を命じれていた。
 儒教国家朝鮮は、正統派儒教華夷秩序を遵守して、上下関係をわきまえ、分を越えない事から「礼儀の国」「君子の国」と讃えられた。「礼儀の国」とは、上位者から見下した侮蔑を込めた嘲笑にすぎず、決して称賛の意味はない。
 歴代の朝鮮王朝は、属国として、帰順の証しとして特産品と共に貢女(宮廷慰安婦)や宦官(宮廷奴隷)を献上していた。中国軍には、義務として、命じられた人数の従軍慰安婦を出していた。
 それは、高麗史や李氏朝鮮史などの朝鮮の通史はもちろん、中国の正史である歴代王朝記にも書き記されているといわれている。それは、ハングル資料ではなく漢籍においてである。
 中国の歴代王朝は、朝鮮の朝貢を「よし」として、貢ぎ物以上の品物を下賜した。
 朝鮮王国の財政はもとより経済全般が、中国皇帝からの品物と貨幣で何とか維持されていた。その主体性なき依存体質は、何時の時代でも変わる事はなかった。
 これが、中華侵略帝国を中心とした、東アジア共同体の安定と繁栄の実態であった。
 藤永壯「貢物への返礼として皇帝が莫大な下賜品を与えたことは、一種の物々交換(バーター貿易)としての意味を持ち、朝貢使節に同行した商人たちによる特産物も取引も活発に行われていた。このように朝貢が貿易としての役割を果たしていたことも、近年の研究では注目されている」(岩波ブックレットNo.552)
 天皇制度国家日本は、この大中華文明圏の外にあって、独自の日本文明・国風文化を形成していた。絶えず中華文明の影響を受けたが、決して亜流文明ではなかった。
 そして、当時の日本経済が中国経済圏内で国際化されなかった為に、朝鮮経済ほど豊かではなかった。当然、日本人の生活は朝鮮人よりもはるかに貧しかった。
 日本の王朝文化は、朝鮮の王朝文化に比べて華やかではなく、地味で見劣りする。
 中国や朝鮮と貿易していた一部の国際派日本人商人は、日本の発展に寄与する事なく、個人的に財を成して中国人並みに贅沢な生活を楽しんでいた。
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*明国に絶対服従を誓う、「礼儀の国」朝鮮王国
 第100代後小松天皇(1382年〜1412年)。
 朝鮮は、日本の様な血筋・血統を神聖視する万世一系男系天皇制度(直系長子相続)ではなく、中国同様の血筋・血統無視の実力・能力・才能による一君独裁体制を採用した。
 高麗末期。王朝に功績のあった者や官職に応じて与える土地がなくなるや、強者は弱者から土地を強奪して自分のものとした。
 権力者の節操のない強奪により農耕地は荒廃し、農夫の逃亡で納税が激減し食糧も不足して、高麗王朝は弱体化して滅亡した。
 何時の時代でも、朝鮮の土地制度はいい加減で、強者が弱者から勝手気ままに奪い取っる悪弊が蔓延っていた。
 高麗の衰退の原因は、異常な仏教保護政策にあった。
 仏教寺院は、宗教権威を振りかざして腐敗し、政治を私する武臣勢力と手を組んで私腹を肥やした。
 李氏朝鮮は、仏教で滅んだ高麗を教訓として、儒教をもって国家を運営し、社会を堕落させる仏教を徹底して弾圧した。
 仏教僧は、奴婢や妓生と同様の賤民の身分に落とされた。
 破壊された仏教寺院から、多くの仏像、仏画、仏具、経典などが日本に二束三文で売られた。
 日本国内にある高麗時代の仏教遺物は、この時に大量に輸入された。
 倭寇が危険を冒して奪わなくとも、金を出せば正規の交易で購入できた。
 だが、李子朝鮮は儒教によってコネと賄賂で私腹を肥やして腐敗堕落した。
 朝鮮は、何を持ってきても腐敗堕落する。
 1392年 高麗の武将李成桂は、腐敗し弱体化した王氏高麗王から王位を簒奪し、王家に忠誠を誓う忠臣数千人を家族諸共に虐殺した。女子供までもが、処刑された。
 主君であった王氏高麗の王族全員を、モンゴルに国を売った裏切り者として、海に突き落として溺死させた。高麗王家の血筋は、一滴残らず根絶された。
 モンゴル人勢力を半島から追放して、半島を統一した。
 半島を統一するや、自分の地位を脅かす恐れのある同志や身内を家族諸共に、反逆罪の濡れ衣で処刑した。罪状は、後付として全て捏造された。
 大陸及び半島では、「徳」を有する能力者が新たな王朝を開くたびに、天命に従って前王朝の抹殺が行われた。
 李氏朝鮮は、高麗王家の王氏を根絶やしにする為に大弾圧を行い、逮捕した者は女子供に関係なく江華島沖の海に捨てて溺死させた。
 第二代太宗李芳遠は、高麗が仏教寺院にとって財政難となって衰退した事を教訓として、儒教を以て国の礎とし、仏教を徹底的に弾圧した。
 崇儒排仏政策である。
 僧侶を捕らえるや、処刑するか、奴隷として死ぬまで重労働を科した。
 正統派儒教は、「徳」のある皇帝による一君独裁体制の確立を最大の命題として、「道徳」をわきまえない無能者・劣等者への大虐殺を正当化した。正統派儒教において、敵に情けをかけて救う事は天命に逆らう事で、「百害あって一利なし」と禁止している。奪う時は、「命」さえも容赦なく全てを奪うのが、天の配剤であると主張している。
 李氏朝鮮は、漢族の明朝に臣下の礼を取り、服従の証として国号「朝鮮」、首都名「漢城・漢陽」を授かり、年号や貨幣を中国にならった。
 そして、王号しか持たない朝鮮王室は中華思想華夷秩序により中国の皇帝のみを認める立場から、中国の皇帝と対等を主張する蛮族である日本の天皇の存在は認めなかった。
 南朝後亀山天皇は、北朝後小松天皇三種の神器を渡し、譲位して南北朝が合一した。
 足利義満は、南北両統から順番で天皇を立てるという約束を反古にして、南朝方の皇族を殺害した。
 生き残った南朝方の皇族と遺臣らは、中国地方に隠れ寸が。一部の強硬派は、正統性を主張し、ニセ天皇から皇位を奪還する為に各地で反乱を繰り返していた。
 足利幕府は、北朝天皇家の正統性を守る為に、南朝天皇家を弾圧した。
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 中華帝国・明国は、朝鮮を属国として支配しても、領土の一部とする気はなかし、国土にする価値はないと見捨てた。
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 1393年 大流血の末に、李氏朝鮮王国(〜1910年)が成立した。
 李成桂ツングース女真人)は、易姓革命が行われた事を報告し、王位に就く事の承認を求める為に、明国に使者を派遣した。皇帝への変わらぬ忠誠を誓う証しとして、これまで通り、美男美女から貢女(宮廷慰安婦)と宦官(宮廷奴隷)を献上する事を約束した。
 李氏朝鮮李成桂は、朝鮮人では朝鮮を支配できない為に全州李氏出身と本貫を詐称した。
 全州李氏は、金海金氏などハッキリした系譜を持っていなかった為に誤魔化し易かった。 
 元朝支配を完全払拭する為に、外国依存を止め自給自足体制を確立し、貨幣経済を廃止して物々交換とした。
 物流を行わないように如何なる車も禁止し、乗り物は駕籠とし馬車も牛車も廃止した。
 入れ物は、土甕・陶器として木による桶・樽の生産を禁止した。
 これ以降、朝鮮半島は急速に貧しくなっていった。
 豊かなのは、特権階級である王族・貴族と両班のみであった。
 明の太祖・洪武帝朱元璋)は、李成桂に国号を「朝鮮」とする事を許可したが、王位ではなく国王代理「権知高麗国事」の称号のみを与えた。「朝鮮国王」の印璽・金印を下賜する事を見送った。
 これ以降、半島は朝鮮となり、民族は朝鮮人と呼ばれた。
 王位と金印を拝受する為に、卑屈なまでに、臣下の礼をとり続けた。
 皇帝からの使節は、高官自ら辞を低くして城門まで出迎え、国王や王族は酒宴で敬意をはらって接待し芸を披露した。
 朝鮮の宴会は、上位者の傲慢と下位者の卑屈が付きまとうが、客を喜ばす為の豪華な趣向が華を添えていた。
 中国は、属国朝鮮の生殺与奪の権を持っていた。皇帝は、朝鮮国王や王妃や太子の任命と廃立、そして高官の登用と罷免の権限を持ち、実質支配を示す為に行使していた。
 悲願の金印・朝鮮国王之印は、第二代建文帝(恵帝、1398〜1402年)の代になってようやく下賜され、正式な国王となった。
 朝鮮王国は、事大主義を国是として属国の立場を厳守し、明国の命令を一字一句間違えることなく実行した。そして、「皇」や「勅」などの、中国皇帝のみが用いる事ができる神聖な文字の使用を一切禁止した。
 よって、朝鮮は、中国皇帝との同格を主張する天皇を、徳がない愚か者として目の敵の様に侮蔑した。その反天皇的感情は、民族の中に根強く残り、外交文書で天皇を「日王」と蔑んでいる。
 新たな支配者は、忠誠を誓わない不服従者や自分の地位を脅かす恐れのある能力者は、中国同様に家族諸共に全員虐殺した。
 李氏王朝は、安定期に入るや直ぐさま腐敗し、高麗王朝や新羅王朝でも起きた骨肉の争いを繰り返した。
 朝鮮史は、王族の後継争いや高官らによる権力闘争、そして儒家による不毛な党争による暗黒史であった。
 地方官吏らは、財を蓄積する為に、貧民に重税を課して容赦なく徴収し、ワイロを取り、公金を横領するなどの不正行為を行っていた。
 建国の英雄である李成桂も、実子である八名の王子らの跡継ぎ争いに巻き込まれて、74歳まで長生きしたが、蟄居させられて失意のうちに没した。
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 李氏朝鮮は、正統派儒教である排他性の強い朱子学を正道とし、孟子その他を異端儒教として排斥し、仏教や道教や土着信仰なども弾圧した。
 自分こそが正統で正しいと確信し、高麗王朝はおろか古朝鮮からの史跡を跡形なく徹底的し、うっかり破壊する事を忘れた史跡のみが現代に残っている。
 韓国や北朝鮮に歴史的文化遺産がほとんど残っていないのは、このの為である。
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 李氏朝鮮は、建国に当たって朱子学を正学として、高麗が編纂した『三国遺事』における壇君神話を俗史と無視し、『史記』に記されている「箕子朝鮮」の子孫をもって統治の正統性を主張した。
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 李成桂が初代国王となるや跡目をめぐって、第一夫人・韓王妃の王子二人と第二夫人・康王妃の王子六人の間で陰湿な骨肉の争いが始まった。
 王朝建国の功臣らも、生き残りを賭けた血で血を洗う陰惨な政争を始めた。
 李成桂は、王子や重臣らの陰謀をめぐらした殺し合いに辟易して、定宗に王位を譲って都を逃げ出し、生まれ故郷である咸鏡南道の咸興に隠遁した。
 王朝の将来を憂いた王族や重臣は、王子や重臣らの権力闘争を収拾させる為に帰還を懇願したが、李成桂に拒否された。
 第二代国王定宗は、暗殺される前に、弟の李芳遠に譲位して退位した。
 李芳遠は、太宗大王(1401〜1418)として即位して後継をめぐる殺し合いは終り、王族や重臣等による権力闘争も鎮静化した。
 太宗は、国王の地位を盤石にするために儒教を奨励し、王族以外の建国の功臣を排除する為に科挙を導入した。
 野心的重臣が王妃や王女らを利用できないようにする為に、後宮に宦官を置いて政庁と完全に分離した。
 儒教は、社会風土として男尊女卑を広め、仏教や神信仰を徹底的に弾圧した。
 仏国寺などの寺院は、町中から山奥に追い遣った
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儒教観念国家朝鮮
 崔基鎬「日本には李氏朝鮮から518年にわたって、自主の精神を奪った事大主義が存在していなかった。日本は歴史を通じて独立の邦であるという強烈な意識を持って、必要があれば自分の力で独立を守ろうとする、固い決意を持っていた。
 それに日本はいつの時代にも、武を尊んじていた。……
 それに対して李氏朝鮮は、太祖の李成桂李朝を創建した時から、中国を宗主国として仰いで阿ねたたねに、自分の力で国を守る気概をまったく失っていた。この結果、軍事力を疎んじて、軽武装主義をとった。今も昔も、尚武の気風と、国を守る気概がなければ、独立国家を支えることはできない。
 李氏朝鮮では、中国に依存する事大主義は国是となった」(『日韓併合の真実 韓国史家の証言』P.130、131)」
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 李氏朝鮮は、中国を見習って教条的原理主義朱子学国学とし、尊儒斥仏政策を採用して仏教を根絶した。
 こうして、東アジア世界では日本以外の仏教文化は消滅した。
 仏教徒は、儒教の熾烈な弾圧を受けて、棄教を強要された。
 隠れ仏教徒は、仏への信仰を守る為に、人里離れた山の上や森林の奥に身を隠した。
 儒家は、仏典を全て燃やし、論語素読を強制した。
 絶対的儒教価値観で国際化する為に、民族的な伝統文化は全て破壊し、生活全般を中国風に改めた。
 朝鮮の不幸は、中国並みに、上下関係を絶対視する人間不信で不寛容な正統派儒教を盲目的に受け入れた事であった。
 その結果。儒教的素養のある読書人・両班は、特権階級として文化的な優雅な生活を満喫した。
 対して。身分卑しい庶民は、中央政府の重税と、地方官吏のワイロや横領の強要と、王族や地主の不当な搾取によって極貧生活を強いられていた。
 庶民は、餓えと寒さに苦しみ、救いのない地獄の様な境遇に落とされていた。
 そこには、「徳」も、「道徳」も、「人権」も、「人道」も、人間的なものは存在しなかった。
 全ては、「仁」や「義」と同じく書物の上の美辞麗句の文言に過ぎなかった。
 道教老子は、儒教を嫌っていた。
 宗主国中国と属国朝鮮は、大中華と小中華という濃密な関係による運命共同体として、繁栄と悲惨を共有していた。
 朝鮮は、日本とは正反対の不衛生社会の為に、飢餓と疫病が絶えず発生し命を奪っていた。
 その為に、人口は300万人から500万人の間で停滞していた。



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