🏹46〕─1─永楽帝は、天命論で帝位を簒奪し甥とその家族を皆殺しにした。足利義満と天命論。1392年~ No.141No.142No.143 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 足利義満は、天命論を日本に取り入れようとした。
   ・   ・   ・   
 中国と朝鮮は、父系の儒教価値観で男系のみを重視して女系を完全無視した。
 日本は、双系の神道・仏教価値観から男系と女系の両方を同程度に認め大事にした。
 李氏朝鮮時代とは、儒教原理主義で、王族や両班など支配階級にとっては薔薇色の時代であったが、常民や賤民や奴婢など下層階級にとって救いのない絶望的な暗黒時代であった。 
   ・   ・   ・   
 自然崇拝の日本の災害は自然災害であるが、人間中心の中国と朝鮮の災難は人災である。
 その原因は、正統派儒教にあった。
 日本人は、自然災害による被害には諦めるしかなかった。
 中国人や朝鮮人は、人災ゆえに恨み骨髄となって忘れず、泣き寝入りせず、必ず復讐して受けた傷以上の傷を相手に与えた。時には、本人はもとよりその家族さえ全員虐殺した。
 特に、朝鮮人は、自分に責任があるとは絶対に認めず、全ての責任を他人に転嫁して憚らない。ゆえに、罪を認めないし、謝罪もしない。
   ・   ・   ・   
*明国(1368年〜1644年)
 『明史』は、台湾を領土に含めず、外国と明記していた。
 琉球王国は、朝貢はするが朝鮮王国よりも上座とした。
 尖閣諸島は、単なる航海上の目印としたが、領土に入れてはいなかった。
 大陸国である明国は、海岸から遠く離れた無人島には興味も無く関心も薄かった。
 中華帝国は、何時の時代でも、大陸国家として海には興味は無く、朝貢する属国には関心があったが、海の外に領土を拡大する気はなかった。
 よって、尖閣諸島を自国の領土にはしなかった。
 1368年 朱元璋は、金陵(後の南京)を首都に定め、皇帝に即位し、年号を洪武と定めた。
 漢族による、明国の建国である。
 独裁者・朱元璋は、独裁者として恐怖政治を行い、猜疑心の塊として有能な側近による謀反を恐れて家族諸共に10万人以上をが虐殺した。
   ・   ・   ・   
 明の初代皇帝・太祖洪武帝は、北狄の元が採用していた政策全てを廃止した。
 民衆教化の為に、儒教主義に基づき6箇条の教訓(六論)を公布した。後に、日本が明治に定めた教育勅語の参考となった。
 儒教朱子学を官学と定めて科挙制を整え、高級官僚制度を定着させた。
 元の時代は、モンゴル帝国時代からの国際交易政策で、周辺諸国との交流は活発で、交易も自由に行われ、東アジア全体に銀貨が流通していた。
 日元交易も盛んで、多くの日本人僧侶が朝鮮ではなく元に渡った。
 明国は、戦乱で荒廃した経済を立て直す為に、自由放任交易と海外への自由渡航の禁止という海禁策を発令し、沿岸部の漁民や商人等を内陸部へ強制移住させた。
   ・   ・   ・   
 洪武帝は、中華思想に基ずく伝統的華夷秩序を復活させる為に、周辺諸国に対して明国を宗主国と仰ぎ土下座をして君臣の礼をとる相手のみに交易を許した。
 中国は、土地は公大で人口も多く、文物は豊富で何もかも揃た、富み栄えた大国である以上、敢えて貧しい外国と交易する必要はないと宣言した。
 周辺諸国は、中国製品がなければ自国経済を維持できない為に、明国の輸出規制に屈服し、屈辱と知りながら朝貢使を送り、明国皇帝の家臣としての冊封を受けた。
 明国は、アジアの盟主・指導者王として、周辺諸国を支配する為に武力ではなく経済力を用いた。
 自由に交易していた商人や漁民は、密貿易を始めた。
 日本人商人も、中国側の密貿易業者と手を組んでいた。
 明国は、日本人商人と密貿易業者を蔑称である倭寇と呼び捨てにして取り締まりを強化したが、監視を強めても沿岸部は広く神出鬼没で、武装して抵抗する倭寇に手を焼いた。
   ・   ・   ・   
 洪武帝は、東夷の倭国に、倭寇撲滅させるべく使節を博多に送った。
 南朝方の懐良親王は、北朝を奉ずる足利氏に対抗するべく、明国に朝貢使を送り「日本国王」の冊封を受けた。明国への接近が南北朝騒乱に勝利するであった以上、討伐部隊は任務を全うする意欲がなく効果を上げなかった。
 晩年の洪武帝は、猜疑心の塊となり、帝位簒奪を行う危険のある功臣等を無実の罪で一族諸共に処刑した。
 中国は、そうした非情な世界であった。
   ・   ・   ・   
 洪武帝は、乞食坊主から盗賊の頭を経て皇帝になっただけに、猜疑心の塊で、自分を暗殺して皇帝の座を奪う恐れがありそうな者を片っ端から残虐な手法で処刑した。
 民衆にたいして自分を皇帝として尊敬し崇める事を強要し、従わない者は不敬者として容赦なく罰した。
 漢族の帝国において、仁政をしいた皇帝は数少なく、血に飢えた残虐で戦争好きな皇帝の方が多かった。
 その為に。民衆は、北方騎馬民族などの異民族が、死と暴力で恐怖統治を行う漢族帝国を滅ぼし、残虐と非道な悪政の改めない漢族皇帝を亡ぼしてくれる事を望んでいた。
 ゆえに。秦と漢以降の中華帝国で、漢族の帝国は宋と明のみである。
 異民族帝国も、長い漢族支配の内で漢族との交わりが強くなるや中国化して、漢族特有の腐敗堕落に毒されて滅亡した。
   ・   ・   ・   
 1377年代 朝鮮人は、蒙古軍が使用してい鉄砲を改良しロケット式武器である「走火」を開発した。
 1380年 明国における胡惟庸の獄。10年に及ぶ胡党への粛清から、1万5,000人が犠牲となった。
 1390年 土岐氏の乱。
 1391年 明徳の乱
 1392年 南北朝の合一南朝方の第99代後亀山天皇は京都に帰還して、北朝の第100代後小松天皇に譲位した。
 北朝方は、南朝方の残党が明国や朝鮮と同盟を結び、軍隊を引き込む事を恐れた。
 仏教寺院は、門前町を開き、行商人と深く関わる事で潤沢な資金を手にし、自衛的武力集団として僧兵を強化して、金も力もない祭祀王・天皇以上の宗教権威を手に入れていた。
 サムライは、武力を背景として朝廷の存続を左右していた。
 洪武帝は、皇太子の朱標が死亡した為にその子を皇太孫に立て、幼い皇太孫の脅威となりそうな重臣を謀反の疑いをかけ一族諸共に粛清した。
 帝国統治を皇帝直系で独占する為に、26人の子供を各地の王に封じ、軍権を与えた。
 四男の朱棣は、北元に備えて燕(北平)に封じられた。後の、永楽帝である。
   ・   ・   ・   
 1395年 太祖・李成桂は、倭寇の取り締まりを依頼する使者を室町幕府に送った。
 第4代将軍足利義持は9歳で、実権を先の将軍義満が握っていた。義満は、倭寇取り締まり要請の即答を避けてひとまず使者を帰国させた。後日。朝鮮に答礼使を送り、実施する旨の返書を手渡した。
 義満は、西国の守護職の大友親世と大内義弘等に対馬五島列島などにある倭寇の根城を攻撃させ、拉致された朝鮮人約100人を生国に送還した。そして、幕府の財政を潤す為に朝鮮との交易を求めた。
 大内義弘ら西国大名も、幕府に内緒で朝鮮との交易を求めた。
 室町幕府には諸大名に対する支配力が弱かった為に、有力守護大名は将軍の意向を無視して行動することが多かった。
   ・   ・   ・   
 1399年 応永の乱足利義満は、謀略を用いて大大名として力を付けてきた大内義弘をそそのかして挙兵させ、敗走させ、自害に追い込んだ。
   ・   ・   ・   
*名君・永楽帝(1402〜24年)
 『太祖実録』「倭寇500隻、鎮浦に停泊し、慶尚、全羅、中清の三下道に侵入し、沿岸の州、郡を余すところなく焼き尽くす。人民を殺害し、捕らえるは算えきれず。屍体が山野をおおう。倭寇が奪った穀物を船に運ぶに、地表にこぼれた米の厚みが尺以上となり、捕らわれた婦女子は山のように船に積まれる」
 1398年 洪武帝が死亡し、孫の恵帝が即位して第二代建文帝となる。
 主立った重臣の多くが、洪武帝によって粛清されて有能な側近が不足した。
 1399年 建文帝の側近は、中央主権を強化する為に、朱族の諸王から権力を奪うべく陰謀を巡らした。
 野心家の燕王朱棣は、身の危険を察知し諸王を味方につけて、「君側の奸をのぞいて帝室の難を靖んず」として甥の建文帝に対して反乱を起こし、自軍を靖難軍と名付けた。
 建文帝は、靖難軍を滅ぼす為に大軍を送った。
 室町幕府第三代将軍足利義満は、平清盛を倣って大陸交易で利益を独占する為に、明国に朝貢使を送って「臣下の礼」をとった。そして、退位した天皇が得る上皇の位を手にした。
 建文帝は、日本を属国と認め、臣下の礼をとる足利義満を「日本国王」に任命し、明国の元号の使用を許可した。こうして、日本は貢ぎ物を献上する朝貢国として、中国の冊封体制に組み込まれた。
 明国は、元のフビライでさえ失敗した日本の属国化を成し遂げたと宣言した。
   ・   ・   ・   
 足利義満は、従属国である事を受け入れ、勘合という鑑札を得て日明貿易を始めた。大陸交易を支配する事で莫大な富をえ、豪華絢爛たる北山文化を生んだ。明国から多くの輸入品と大量の銅銭を手に入れ、国内の商工業を発展させ、中国以上の貨幣経済を発展させた。
 両者は、天皇の存在を完全無視した。
 国益を無視して大陸貿易を行う者は栄え、国益に囚われて大陸を拒否する者は衰える事を証明した。
   ・   ・   ・   
 1401年 足利義満は、明国皇帝に、日本国を平定したとの国書と金1,000両と馬10頭などの貢ぎ物を送った。同時に、日本に漂着した中国人漁民や商人を送還した。
 1402年 靖難軍は、明軍を撃破し、首都金陵(南京)を攻略して、虐殺と略奪を行った。
 朱棣王は、甥の建文帝とその家族全員を焼き殺し、帝位を簒奪して永楽帝となった。
 永楽帝は、臣下として忠誠を誓う者は罪を問わず再登用したが、従わない者は容赦なく家族諸共に惨殺した。
 皇位簒奪者ではなく正統な皇帝である事を証明する為に、妾妃の子ではなく馬皇后の嫡子であると記録を改竄した。
 儒教的正統性を信奉する優秀な学者や科挙合格者を重要な職に付けず、燕王時代の腹心と洪武帝が政治を乱す元凶として起用を禁じた宦官を登用して権力を与えた。
 皇帝直属の秘密警察は、監視社会として、反逆者を探し出して謀反を未然に防いだが、権力を濫用し、気に食わない相手には証拠を偽造して冤罪で処刑した。
 恐怖による暗黒時代の到来であった。
 永楽帝は、皇帝簒奪と身内殺害の後ろめたさを隠蔽する為に、国費を散財して周辺諸国への侵略戦争を続けた。
   ・   ・   ・  
 儒学者の方校儒は、帝位を簒奪した永楽帝を批判した。
 永楽帝は、正当性を認め批判を止めるように命じた。
 方孝儒は、正邪の道を曲げる事はできないとして勅命を拒絶した。 
 永楽帝は、批判を止めなければ方孝儒の父方係累800人を殺害すると脅したが、方孝儒の目の前で全員処刑した。
 次に、母方係累800人を殺すと脅したが、拒否した為に処刑した。
 方孝儒が屈しない為に、引き続き妻の父方、母方の係累、さらに門弟や友人800人が目の前で処刑された。
 それが。中国に於ける、命を賭けても天道・正道を守ると言う事である。
 漢族の中華帝国は、隋、唐など異民族による外来征服帝国に比べて残虐であった。
 その中でも、明王朝は一際異常なほど残酷な処刑を行っていた。
 漢族にとって、如何に残虐で酷い明王朝でも同じ漢族であった為に家臣として明帝に仕えていた。
 利己主義の漢族は、賄賂と不正で私腹を肥やし、綱紀粛正を訴える清廉潔白な忠臣を讒言で抹殺して、権力を手に入れて裕福になる為に激しい派閥抗争を繰り返していた。
 明国の衰退と滅亡は、北の満州族侵略や東の倭寇猛威ではなく、内部崩壊が主なる原因でった。
 事実。暴虐な明王朝を見限った漢族は、侵略してきた満州族に抵抗せず熱烈に歓迎して中華帝国の帝位を譲った。
   ・   ・   ・   
 永楽帝は、帝位の簒奪者の出現を恐れて、危険性のある王族とその支持者を無実の罪を押し付けて処刑した。
 20年余の在位期間は、死が支配する恐怖時代であった。
 秘密警察である錦衣衛を設けて、反逆者をあぶり出す為に密告を奨励し、疑わしい者は逮捕して拷問に掛けて処刑した。
 庶民に対しては不敬な発言をしないか厳しく監視し、不忠者は公開で残虐な手法で嬲り殺しにした。
 明王室内部では、漢族特有の陰謀や謀略が渦巻き、権力を手に入れて巨万の富を得る為に毒殺や暗殺が絶えなかった。 
 科挙に合格した高官を信用せず、強欲な宦官を側近に起用した。
 中国の皇室は動であり、静の日本の皇室とは違って、大虐殺による大量の流血の上に築かれていた。
 そして、生涯を全うした中国皇帝は、日本天皇よりも数が少ない。
 足利義満は、明国との関係を改善すべく使者を永楽帝に送り、倭寇の取り締まりを約束した。
 日本国王の称号が、足利義満に下賜された。
 永楽帝は、偉大な名君を証明する為に、父洪武帝が定めた陸禁海禁政策を放棄し、軍備を増強して周辺諸国への侵略戦争を開始した。
 大陸社会を安定させる為の常套手段は、軍拡による領土拡張政策である。内政への不満を、外征で解消しようとしたのである。
 将軍達は、皇帝の不興を買って、家族諸共に殺害される事を恐れ、軍功をたてる為に他国領を攻め、各地で大虐殺を行った。
 死を恐れない獰猛な中国人兵士は、生き残る為に敵を惨殺し、資産を得る為に金目の物を略奪し、性欲を解消する為に女という女を強姦した。
 獣と化した中国軍は、血に飢え、いたる所で虐殺と略奪を繰り返していた。
 だが。何時の時代でも、中国は未開の蛮族を徳化し文明化する為の「必要悪」として、中国人の蛮行を正当化していた。
 中国には、「徳」はもちろん、「道徳」も存在しない。
 まともな判断ができる常識人は、中国の説明を鵜呑みにはしなかった。
 魯迅「中国人は、人を人と思わない」
 明軍は、抵抗する者は皆殺しにして全ての富を根刮ぎ略奪し、裏切って味方となった親明派のみを助けて見せ掛けの「徳」を示した。
 当時の明国の総人口は、約6,000万人とされているが、打ち続く内戦と遠征による戦乱の影響で人口は激減した。
 戦力不足を補う為に、占領地で原住民を兵士として強制連行し、明軍の前に立たせて殺される事を承知で敵陣に向けて追い立てた。
 大陸の軍隊は、多くの外人部隊を抱えていた。それは、戦死確実の死兵であり、人間とは見なしてはいなかった。
 永楽帝は、ベトナムを軍事占領するや、中華秩序の為に、儒教を押し付けて野蛮なベトナムの歴史、文化、宗教、伝統を徹底的に破壊して中国化を推し進めた。
 中国人は、自分達は悪をなしているのではなく、高度な最先端の教養を持って徳化しているのだと確信していた。
 中国に憧れるベトナム人は、ベトナム人を教養なき野蛮人でると信じて儒教を学び、ベトナムを文化度の低い未開地であると信じて中国を真似ようとして、ベトナムを捨てた。
 ベトナムに拘るベトナム人は、中国に協力するベトナム人を襲撃し、侵略してくる中国に対して抵抗を続けた。
 中国軍は、中国化に抵抗するベトナム人を捕らえるやその家族諸共に、地獄の様な拷問を行い、公開で猟奇的手段で数日掛けていたぶりながら殺した。
 中国による処刑ほど、身の毛もよだつ恐ろしい処刑は他にはなかった。
 中国人は、断末魔の悲鳴を上げてのたうち回る敵を眺めて喜び、死ぬまで酒のんで宴会を行った。
 漢書で中国人の蛮行を知る心ある日本人は、中国人の恐ろしい心底を見抜き、満面の笑顔で愛想の好い人懐っこい中国人を警戒して近づこうとしなかった。
 ただ。「儒教読みの儒教知らず」の中国礼賛の儒教家や漢学者は、中国に憧れて日本を軽蔑し、中華皇帝を唯一の天子として祭祀王・日本天皇を偽帝として否定し、本気で中国人になる為に日本人を捨てようとした。
   ・   ・   ・   
 1403年 足利義満は、体面よりも実を取り、日明貿易で巨万の利を得るべく、自らを中華皇帝の臣下とし国書を仏教僧に持たせて明国に派遣した。
 1404年 勘合貿易の開始。
 義満は、日本の名誉よりも交易の利益を優先し、明の永楽帝朝貢して臣下の礼をとった。
 足利義満は、明国に臣下として冊封し、中華皇帝の権威を借りて天皇を超える存在となって、臣下である自分の子供を足利系天皇にしようとした。
 永楽帝は、かって元の侵攻を食い止めた武勇の国・日本が臣下の礼をとって華夷秩序を受け入れた事に満足し、義満を臣下の列に加えて「日本国王源道義」の称号を与えて日本の支配を認めた。
    ・   ・   ・   
 明国皇帝は、臣下の礼をとる足利義満を唯一の正統な統治者と認めて「日本国王」に任命した。
 足利義満は、東アジア世界で日本の最高権力者と認められた。
 日本天皇は、日本国内でこそ主権者とされているが、一歩国外に出れば一介の宗教家に過ぎなかった。
 国際社会は、日本天皇ではなく足利義満を日本の元首と認めた。
 足利義満が、中華皇帝の承認を根拠に日本天皇と対等な位置にならんだ事を意味し、国内からの反対がなかった事を理由にして、中華皇帝の国際的権威を後ろ盾に「女系」を根拠にして自分の子供を天皇位に付けようと夢見た。
 男系相続か女系相続への転換であった。
 皇統は、神代から続く宗教的神聖で一子相伝として天皇家のみが継承するのか、中華皇帝もしくは国際社会が承認する非天皇家の他姓の人間が政治的経済的俗世で就任するか、であった。
 臣下の者が姓を棄てて天皇位に即位する事は、大陸の王朝同様に神代から続く皇統の断絶となる。
 もし。足利義満が中華皇帝の国際的権威で天皇に即位すれば、この後、非天皇家で足利氏以外の者も自由に天皇に即位できるようになる。
 一つの前例が、歴史全てを塗り替える。
 日本が内戦で混乱したとき、国際的権威の中華皇帝は、臣下の日本の安定と発展の為に総督を派遣する事も可能となる。
 そして、日本を従属国として存続させるか、領土に併呑して日本を消滅させるするかも、国際的権威の中華皇帝の意志一つとなる。
 日本が自主独立国として存続できるかどうかは、祭祀王・万世一系男系天皇(直系長子相続)の存続如何に拘わっていた。
 天皇制度廃止論者は、こうした歴史的事実を充分理解した上で、日本に変革をもたらし人に自由を与える為にもっと早い時期に廃止しておくべきであったとしている。
 足利義満は、経済力と軍事力で子供を親王並とし、天皇即位も実現できそうになった直前に急な病で死亡した。一説に、暗殺説もある。
 朝廷は、皇位を簒奪しようとした足利義満の不敬を一切問わず、その死を悼み、鹿苑院太上天皇上皇太上法皇)の称号を贈った。
 日本の宗教観は、世界の非常識として、味方以上に許しがたいほどの憎悪で嫌う敵を神として祀り、その神前で土下座してかしずく事を人の道としていた。
   ・   ・   ・   
 足利義満は、朝鮮国王とは同列として使者を送り交易を求めると同時に、寺院からの強い要請で高麗から伝わる大蔵経経文や仏像仏具を求めた。
 明国は、官製の朝貢貿易と半官半民の勘合貿易を認めていたが、海賊・倭寇を取り締まる為に自由な民間交易を禁止していた。
 義満は、朝貢の遣明船を送って日明貿易勘合貿易)を独占し、通貨流通を支配して多額の明銭を手に入れた。
   ・   ・   ・  
 明国は、朝鮮を自国領のように見なしていた。
 朝鮮は、明国が自国のように扱ってくれた事に感激し感謝した。
 だが。明国人は、朝鮮人を軽蔑し嫌っていた。 
   ・   ・   ・  
 永楽帝は、日本を冊封体制に組み込み、足利義満に臣下としの王号と明の暦である大統暦と明銭・永楽通宝を授ける国書を使節に持たせて日本に派遣した。
 中華皇帝と同格で、日本の最高統治者である日本天皇の権威を完全無視した。
 日本が統一され、農村での農産物生産の増加と手工業者の独立によって地方の産物が京都に集まり、商品流通が盛んになり経済が発展すると共に貨幣流通が必要になったが、全国で通用する統一通貨がなかった。
 足利幕府は、京都を中心とした畿内を支配していたが、地方は有力守護大名が支配していた。
 幕府が銭貨を鋳造しても、誰の信用しなかった。為に、中国の宋銭や明銭を大量に輸入する必要があった。
 こうした日本人の宗教性は、国際常識では理解されない。 
   ・   ・   ・   
 室町の北山文化は、こうして生まれた。
 日本人商人は、倭寇となって中国密貿易業者と裏取引する必要がなくなった。
 日本人主体の前期倭寇時代は終わった。
 中国は、中華を中心とした華夷秩序の完成の為にも、中華皇帝と対等を主張する夷族の天皇を消滅する事を期待した。
 歴代王朝は、周辺諸国の異民族侵入を警戒して海禁・陸禁政策をとり、国禁を破った者は死刑とし、国外に出た者は棄民として保護を与えず見捨てた。
 中国人は、中国政府はもちろん地元の政府の保護を充てにせず、独自に自衛する為に武装互助組織を作って団結した。
 それが、義兄弟の契りを交わした独立心旺盛な客家・華僑である。
 朝鮮の第二代国王太宗は、倭寇取り締まり依を日本に頼せねばならない立場から、友好国として交易を許し、譲れる範囲の仏教関係の物を回礼使に持たせた。
   ・   ・   ・   
 1405年 李氏朝鮮は、高麗が倭寇の襲来で疲弊していった事を教訓とし、元に協力した高麗を滅ぼした王朝である事を宣伝して、倭寇の懐柔を行った。
 朝鮮に帰化した日本人倭寇には、朝鮮姓を授け、役人に登用し、死亡すれば手厚く弔った。
 朝鮮に帰化する日本人漁師が急増して、倭寇の襲撃は下火となった。
   ・   ・   ・   
 1405年 宦官であるイスラム教徒鄭和に、兵5万人以上と武装大船団を預けて、海上からイスラム教圏への大遠征を命じた。
 鄭和は、永楽帝が死亡するまでの1407年から1431年までの間に7回の大遠征を実行した。
 明国は、アジアの盟主たらんとして、砲艦外交で戦わずに諸地域を属領化し、地元勢力に臣下の礼を強要した。
 鄭和は、スルランカ王に対して朝貢冊封体制に入る事を要求し、スリランカ王が拒否した為に武力を持って明国へ連れ去った。
 鄭和の航海は、平和的ではなく武力による恫喝であった。
 スリランカ王国にとって、鄭和は侵略者であった。
 東アジア史は、この南海遠征軍を領土拡大目的の侵略軍ではなく、親善友好目的の平和使節であったと、改竄した。
 中国史は、勝者が自己弁護的に絶えず嘘を並べ立てた為に、まともな歴史は数が少ない。
 中国人が行く先々で、中国を発生源とするペストやインフルエンザなどの疫病が蔓延して、多くの人々が犠牲となった。
 今も、昔も、中国は不衛生で汚染されていた為に伝染疾患が風土病の様にあった。
 永楽帝は、領土拡張政策のもとで海禁陸禁策を廃止し、侵略戦争を始めた。
 中国人密貿易業者は、自由に交易が出来る様になるや海賊行為を止め、鄭和の大航海計画に協力した。
 海外積極策に伴う巨額な出費で、蓄えてきた資産が浪費されて財政が苦しくなった。
   ・、   ・   ・   
足利義満の見果てぬ夢
 1407年 足利義満は、妻の日野康子を後小松天皇の准母として天皇の義理の父なった。
 1408(応永15)年春 後小松天皇は、日本国王足利義満の私邸に行幸した。法皇となった義満は、天皇と同格である事を天下に見せつける為に、自分の席を玉座同様に設えた。
 足利義満は、長子の第四代足利義持を嫌い、才気溢れた好男子の義嗣を溺愛していた。義嗣を、兄義持以上の位を与える為に、天皇になる資格を持つ親王扱いとした。
4月25日 足利義満は、溺愛していた義嗣を皇位継承権を持つ資格のある親王の格式に準拠して元服させた。
 意図は、日本天皇の重要な務めが神代からの血統を基にした祭祀ではなく、中華皇帝のような血筋・家柄に関係なく武力的暴力的実力による政治であるという、社会的大改革であった。
 つまり。中華思想易姓革命による神の裔という皇統の断絶である。
 足利義満は、神聖な祭祀に俗世の政治・経済・軍事を一体化させた足利天皇家を創設しようした。
 もし、足利天皇家が誕生すれば、中華世界のようにこの後、誰でも天皇に即位できたし、同時に複数の天皇が誕生すたかも知れないし、日本民族以外の中国人でも朝鮮人でもその他の外国人でも天皇に即知る事ができた。
 皇統は、女系を根拠に、皇室から臣下の足利氏に移ろうとしていた。
 臣下でありながら天皇位を求めた者は、蘇我入鹿弓削道鏡に次いで三人目であった。
 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)は危機に瀕していた。
 もし。義満かその子供が天皇となって足利系天皇家が誕生すれば、その他と有力大名も勝手に天皇に即位して、日本は分裂したであろう。
 そして。中国や朝鮮が、各地の天皇と盟約を組んで軍事介入した事は明らかである。
 その結果。日本は消滅したであろう。
 祭祀王・万世一系男系天皇(直系長子相続)が途絶える事なく続いたのは、神国日本を外敵の侵略を防ぎ自主独立を守る為の安全装置であった。
 5月6日 足利義満は、皇位簒奪を完成できずに急死した。
 神の血統を根拠とした皇室一統の日本天皇位独占がの残り、日本天皇の最優先職務は、政治・経済・軍事といった俗世を切り離した神聖な祭祀に限定された。
 神聖な祭祀と俗世の政治・経済・軍事がハッキリと切り離された事によって、日本では独裁者が現れる事は不可能になった。
 同時に、ホロコーストやジェノサイドのような非人道的大虐殺も起きなくなった。
 日本民族は日本天皇であり、日本天皇日本民族であった。
 日本天皇が存在しなければ、日本民族も存在しない。
 今谷明「非皇族の義嗣が立太子の礼で元服したわけで、義満の遠大な簒奪計画も大詰めに近づいたのである。残されるはただ最後の局面、後小松の禅譲あるのみであったが、そして全廷臣だれもが義嗣の践祚(せんそ)実現を疑わなかったが、天は義満父子に味方しなかった。親王元服のわずか3日後、義満は不治の病に倒れ、重大事の実現寸前で世を去ったのである」(『日本の歴史 9』 集英社)  
 朝廷は、臣下である法皇義満に太上天皇の称号を追贈しようとした。
 足利義持は、万世一系の貴い皇統を穢し、悪しき前例になるとして猛反対して、父義満への尊号宣下を辞退した。
   ・   ・   ・   
 

   ・   ・   ・