🏹47〕─1─世宗大王は、対馬を侵略し、島民を虐殺したが、武士の反撃で惨めに敗走した。1409年~No.144No.145No.146 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 古代から、朝鮮半島(韓国半島)の反日派国家は、日本を侵略し、多くの日本人を虐殺していた。
 そして、多くの日本人を拉致し、奴隷として家畜の様に重労働を強いた。
 日本は、朝鮮半島を侵略した事がなかったし、虐殺もした事がないし、ましてや朝鮮人を強制連行して奴隷とした事はなかった。
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 明の永楽帝は、臣下の礼をとり冊封した日本を中国の一部と見なして九州の阿蘇山を台安鎮国山と名付けた。
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 南朝の残党は、明国の皇帝の臣下となり日本国王の称号を貰い、九州で第2日本王国を建国していた。
 九州は、南朝方によって中国に献上され中国の勢力圏に組み込まれた。
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朝鮮人キーセンを虐殺した永楽帝 = 『明実緑』
 1409年 明の永楽帝は、朝鮮人貢女が寵愛する朝鮮人の権賢妃を毒殺した事に激怒して、宮廷内の朝鮮人貢女全員を連帯責任として処刑した。
 永楽帝は、朝廷内に美人の朝鮮人貢女がいなくなった為に、朝鮮国王に新たな美女を差し出すように厳命した。
 満州の遼陽に置かれていた陵東都指揮使司は、李氏朝鮮に対して、北辺の守りの為に馬1万匹と処女数(若い娘)3,000人を提出するように命じた。
 朝鮮国王は、宗主国中国の恫喝・威圧・示唆に恐怖して、中国人の機嫌を損なわないようにする為に、選りすぐりの美女達を新たな宮廷慰安婦として中国皇帝に献上した。
 李氏朝鮮は、中華帝国の要求を叶えるべく、流刑地である済州島を丸ごと牧場として馬を飼育し、罪人を人間以下の卑しむべき馬飼いとして使役した。
 身分低い貧しい家庭の女性にとって、生活苦の朝鮮にいてはいつ親によって売春婦に売られるかわからず、さもなくても食うや食わずの悲惨な生涯を送る事が分かっていた為に、明国に行って下女として働いた方がマシとして応募に殺到した。
 朝鮮は、世界でも珍しい走火を改良して連射できる「火車」を完成させた。
 明国の大砲を参考にして、独自の大砲である三種類の「碗口」を完成させた。
 だが、朝鮮は中国同様に儒教価値観で文を重視し武を軽視した為に、武官の地位は役人の中でも格段に低く、如何に優秀な武器を作っても価値は認められなかった。
 その為に、秀吉の朝鮮出兵による日本軍の銃火器によって惨敗し、明国の援軍で辛うじて日本軍を追い出す事ができた。
 1414年 卓愼「倭寇が久しく朝鮮の島を襲撃しないため、武備が怠っている」
 1415年 古代に朝鮮系渡来人の多くが移住した伊勢で、北畠満雅が反乱を起こした。
 1416年 前関東管領上杉氏憲(禅秀)は、幕府の反義持派と組んで反乱を起こした。
 国内には、依然として旧南朝方の勢力が存在し、南朝の再興の好機をうかがっていた。
 1418年 大津を中心に馬借一揆が起き、全国の運送業者である馬借や車借も日陰の身分に不満を持って騒動を起こし始めた。
 足利義持は、弟の義嗣を秘かに暗殺して、幕府分裂の芽を摘んだ。
 永楽帝は、最大の礼を持って足利義持日本国王に任命し、日本の唯一の支配者であると事を承認した。
 足利義持は、反将軍派が各地で起こしているによる反乱で窮地に立たされていたが、日本国王の称号を拝受する事は天皇の権威を否定するものとして拒否した。属国である事を拒絶した為に、日明貿易は中止され、膨大な収益が入らなくなり幕府の財政は逼迫した。
 弱小国日本は、絶え、大陸との交易による収益か島国としての体面かの二者択一を迫られていた。
 永楽帝は、拒否された事で、皇帝としての面子を潰されて激怒し、恫喝する国書を日本に叩き付けた。
 太宗は、日本と明国の関係が悪化した為に、倭寇の襲来が増えると判断して、海岸防備の軍備強化に力を入れた。
 サムライは、中国の恫喝・脅迫・威嚇に屈することなく、戦いを覚悟で「日本の体面」を守った。
 サムライは、日本の主権を第一に考え、話しにならない相手との話し合いは拒否した。
 サムライでない日本人だけが、解決を話し合いに求め、話し合う事に固執した。
 『勅書(1418年)』「我が軍は、早くて強い。即ち、爾(なんじ)の国の険しさを恃んでも駄目である。如何に城を高くし、堀を深くしようとも、我が軍が攻め込んだ時に後悔してももう遅い」
 賀茂真淵「唐の国は、ことに人の心の悪しき国にして、よこしまにのみする」
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 永楽帝は、懲罰として日本侵略を命じようとした。
 重臣達は、元寇の失敗を教訓として日本侵略の中止を懇願した。
 永楽帝は、周囲の猛反対にあって日本侵略を断念した。
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李氏朝鮮の名君・第四代国王世宗による日本討伐。= 応永の外寇・己亥東征
 独自の軍隊を持たない足利氏の室町幕府は、源氏・北条氏の鎌倉幕府の様に大陸と半島の連合軍を撃退するだけの、神風的武力は所有していなかった。それ以上に、旧南朝方や幕府内の反義持派が強大な外敵と同盟を結んだ時、それに対抗するだけの軍事力を持っていなかった。
 孤独な日本は、国益・公益を考えない裏切り者によって内部から崩壊し、私益・個人益のみを優先する内通者によって、中国領か属国になる恐れが絶えずあった。日本を売る裏切り者は、話し合いによる平和的な解決を求めた。
 1417年 李氏朝鮮は、宗主国明国に倣って海禁陸禁を国是として、空島政策をとして鬱陵島への上陸を禁止していた。
 半島国家である朝鮮は、1000年近く大陸国中国の属国として中国と同様の大陸政策を取ってきた。つまり、中国に比べて文化度が低く裕福でない日本との海外交易には関心が薄かった。
 朝鮮の富は、朝貢貿易として、中華皇帝に臣下として冊封し、命じられた人数の妓生(宮廷慰安婦)と宦官(宮廷奴隷)を納めその見返りとして下賜される品物で得ていた。
 朝鮮にとって、海賊行為を行う未開に近い貧しい島国日本より、同じ儒教で世界中の富を集める大帝国である中国と交易した方が特であった。
 朝鮮は、中国同様に、鎖国政策から日本と国交を断絶していた。
 1418年 太宗は、退位して上王に退き、位を世宗に譲った。
 明の永楽帝は、属国李氏朝鮮に対して、東シナ海沿岸を荒らし回る倭寇の討伐と朝貢を拒否した日本の征討を命じた。 
 対馬守護代である宋貞茂が死亡し、子の貞盛が新たな島主となったでは島内仕置きが出来ず混乱した。
 倭寇の早田左衛門が実権を握り、好き放題の限を尽くした。
 1419年 明国皇帝は、李氏朝鮮国王世宗に、中国皇帝の権威を否定する第101代称光天皇が統治する逆賊日本を征服する様に示唆した。
 中国は、日本を含むアジア全体を、中華思想による華夷秩序で統一しようという大望を持ち、侵略戦争を繰り返していた。
 日本は、いつの時代でも、大陸からの侵略の脅威にさらされていた。
 日本にとって、朝鮮半島は敵であった。
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 李氏朝鮮は、日本領対馬を侵略するのは対馬倭寇を討伐する為であるという「対馬島を征伐する書」を作成した。 
 6月20日 応永の外寇。朝鮮の日本侵略。
 対馬壱岐を根城としていた倭寇が、朝鮮半島西海岸地域を襲撃した。
 太宗は、倭寇の襲撃から祖国を防衛するいう名分を得て、世宗に日本討伐を示唆した。
 李氏朝鮮は、臣下として皇帝の命に従って、神聖な華夷秩序を維持する為に懲罰軍を日本に派遣した。
 世宗大王(在位 1418〜50年)は、軍船227隻と兵力1万7,000人以上を率いて、対馬隠岐倭寇を殲滅する事を名目として日本征伐・東征を行った。
 短期的に問題を解決できる自信から、兵糧として65日分のみを持参した。
 当時、漢城には九州探題渋川氏の九州節度使が滞在し、事前に対馬討伐の説明を受けていたが、反対せずに日本に帰国した。
 朝鮮倭寇征伐軍は、不意を突いて対馬の尾崎浦付近に上陸し、女子供や老人などの島民114名を虐殺し、民家1,939戸を焼いた。
 朝鮮軍は、倭寇の拠点と指定した港町を攻撃して焼き払い、日本人であれば女子供関係なく虐殺し、町にいた朝鮮人や中国人は倭寇に捕らえられた被害者として保護した。
 多数の女性や子供を奴隷として強制連行して中国人人身売買業者に売り渡した。
 世宗は、「対馬は、朝鮮の領土であったが、日本人に占領された島である」と宣言し、生き残った島民に対してに朝鮮人になる事を拒否する者は「日本に帰れ!」と命じた。
 この勝利の日を、韓国では「対馬の日」として祝う。
 室町幕府は、明国・朝鮮との対外戦争を避ける為に、日本の固有の領土であった対馬を見捨て、平和を回復する為に朝鮮領である事を認めた。
 対馬の島民は、日本から見捨てられた為に、朝鮮人になる事を受け入れ、慶尚道観察使を新たな支配者として迎えた。島に残りながらも朝鮮支配を拒否する日本人は、朝鮮に帰属した日系朝鮮人の密告によって倭寇の一味として処刑された。
 6月26日 対馬守護代宗貞盛は600騎の手勢を率いて反撃し、123人の戦死者を出しながら、朝鮮人兵士3,700人を殺害して、朝鮮軍を上陸した港まで押し返した。
 朝鮮軍は、宗氏部隊の20倍に近い大軍であったが、見かけ上は威勢が良いが実態は弱兵の集団に過ぎず、サムライの強襲で甚大な被害を蒙り完全に怖じ気づいた。
 6月29日 朝鮮倭寇討伐軍は、大軍にものを言わせて、属州化を要求した。
 宗貞盛は、敵は大軍で味方は無勢で長期戦になれば不利と判断し、蒙古襲来における高麗軍の敗北をほのめかす手紙を送った。
「所期の目的を達成したのだから、帰国すべきある。間もなく、台風の季節に入る」
 サムライにとって、敵味方の兵力差や戦いの勝ち負けはもちろん、命を大事にして生き残る事よりも、武士としての体面を守る事に命を捨てた。
 対馬の島民による朝鮮人への差別、軽蔑、敵意は、憎んでも憎みきれない程に、癒やし尽くせない憎しみがあった。
 博多や京都は元寇の再来と恐れたが、渋川氏の「目的は対馬一島のみ」であるとの説明で安堵した。当時の日本人は、対馬の奪還よりも戦争の回避を選んだ。
 朝鮮軍対馬占領を抗議したのは対馬守護職の少弐氏のみで、他の大名は自分の領土に関係ないとした反対はしなかった。そればかりか、西国の有力大名は、朝鮮との交易で富を得る為に、対馬を朝鮮領であると認め、交易の許可を得る為に先を争って使者を送って媚びを売った。
 朝鮮を通じて中国との交易を行った大名は、繁栄し、軍備を強化して、政治的発言を強めた。
 7月3日 朝鮮軍は、台風を理由にして帰国し、占領支配の為の駐留部隊を残さなかった。
 宗氏としても、島民の一部が倭寇に加担し海賊行為を行った事実を認めて、追撃戦をせず見送った。
 7月22日 朝鮮王朝は、保護した中国人の帰国をしばらく許可しなかった。
 『朝鮮王朝実緑』は、帰国させるこどうかの議論の模様を書き残している。「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見た事から中国に返還できない」
 朝鮮は、戦争を避けようとする日本側の弱腰を見抜いて、西日本をも支配し領有したかの様に公文書に記載した。
 朝鮮の公文書の多くは、捏造され、真実は少ない。
 日本は、名よりも実を優先し、国防よりも中国・朝鮮との交易を第一と考えた。
 世宗は、日本のカナを真似てハングルを作って庶民に広めようとした。
 両班は、漢字こそ神聖であるとしてハングルの使用に猛反対し、ハングルを使用する者の弾圧を要請した。
 『朝鮮王朝実録』「7月22日 対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを見てしまったので中国に返すわけにはいかない」
 前期倭寇の時代とは、日本人による復讐戦であった。
 これ以降は、凶悪な後期倭寇の時代となり、日本人より中国人や朝鮮人が海賊が増えた。
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 室町幕府は、李氏朝鮮対馬慶尚道の一部とした事に抗議するべく使者を送り、「対馬は辺境といえども日本である。日本を相手に戦争をする気か」と談判した。
 李氏朝鮮は、日本側の強行姿勢に震え上がり、軍事及び経済などの国力差から日本に勝てない事を自覚していた為に、対馬を日本領と表記する事を約束した。 
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 1420年 鎌倉幕府に比べて弱体な室町幕府は、軍事大国明国との直接対決を避ける為に、李氏朝鮮と和議を結び、公式に対馬を朝鮮領と認めた。
 第101代称光天皇は、政治や外交や軍事の権を幕府に委譲していた為に、外敵の侵略から日本を守り、領土と領民を救助する様に日本の神々に祈る事しかできなかった。
 各地の守護大名は、男系天皇を政治利用する事は考えても、日本を守るという天皇の民族的希望を叶える気はなかった。そして、自分の領地から遠い対馬が朝鮮領になろうとも関心がなかく、義侠心で奪還の為の援軍を出す気もなかった。
 元寇を教訓とする武士は、寸土の土地を守る為に無謀な戦争をするよりも、朝鮮が対馬を欲しがるのならば呉れてやればよいと考えていた。
 対馬は、無益な戦争を嫌う無関心な日本人の為に見捨てられた。
 島民は、日本や天皇に期待しても助けてくれないと絶望して、進んで朝鮮人となった。
 日本民族を見捨てた足利幕府は、味方をしてくれるサムライも、同情をしてくれる庶民もなく、鎌倉幕府以上の惨めさの中で消滅した。
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 対馬島民は、朝鮮との交易で生活していた為に、交易を再開して貰う為に朝鮮軍によって被った被害を水に流して無かったものとした。
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 1420年 対馬から朝鮮に、対馬守護大名の使いと自称する日本人が訪れて「対馬を李氏王朝の領土の一部にして、貿易を再開したい」という提案を行った。
 李氏朝鮮は、提案を受け入れ、日本の正式な諒解もなく対馬を自国領に編入し、慶尚道に属する島として役職を定めて有頂天となった。
 程なくして、対馬の宗氏から正式な使者が李氏朝鮮を訪問して、朝鮮が主張するが様な「対馬慶尚道に属していた」という古文書はなく、対馬は神世の代から日本領であるとた激しき抗議した。
 李氏朝鮮の大臣達は、前に来た対馬の使者は、李王朝の領土に編入する事を懇願したと騒々しく反論した。
 サムライは、毅然として、その様な不心得な輩が何を世迷い言を云おうと対馬とは関係ないし、対馬は日本領である事には変わりなく、なおも朝鮮領と言い立てるのなら日本と戦争する気があるのかと恫喝した。
 李氏朝鮮は、自国軍が日本軍に敵わない事を痛感していただけに、対馬慶尚道に属していたとは云わなくなった。
 此の事実は、日本側に資料はないが、『朝鮮王朝実録』に記されているといわれている。
 対馬が日本領である事は、中国の古典でも記されている。
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 『朝鮮王朝実録』は、56ヶ所に「日本国対馬島」と表記している。






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