🏹48〕─2─両班や儒学者は、ハングルを下層民用の卑しい文字として使用を拒否した。1446年~No.150No.151No.152 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国人と朝鮮人の海賊は、日本人に変装して大陸と半島で虐殺と略奪を行った。
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 京の西陣は、朝鮮から高級な白糸を購入して織物を織り上げたが、それ以外の色の糸は購入しなかった。
 朝鮮の色物糸は、中国から粗悪な顔料を購入して染めた物で良質とはいえなかった。
 それ以上に、色糸は王侯貴族の支配者の独占とされ、中流以下の両班や庶民には禁制品とされていた。
 五色の着物が着れるのは、朝鮮王宮の内でのみであった。
 朝鮮人庶民の服装は、日本では乞食が着る服に近かった。
 朝鮮の服装は、日本の服装とは違って色彩感がなく、白と黒のみであった。
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 東アジア世界の主役は、北方騎馬民族で、中国は絶えず侵略され、農耕民族漢族は防戦一方であった。
 中華帝国の大半が、漢族ではなく、北方騎馬民族であった。
 そして、漢族帝国に比べて北方騎馬民族帝国のほうが安定し繁栄を極めていた。
 漢族帝国は、北方騎馬民族の侵略を防ぐ為に、朝貢に来た褒美として高価な物から生活道具まで山のように与えた。
 財政難に陥った漢族帝国が褒美の品を減らすと、北方騎馬民族は侵略してきて金目の物よりも自分達では生産できない生活用品を奪って立ち去った。
 遊牧民のモンゴル民族は、奴隷を必要としなかった。
 定住して狩猟と農耕を行う女真族などの満州民族は、農奴にするために漢族や朝鮮人を強制連行していた。
 東アジア世界は、海洋の世界ではなく、大陸の世界である。
 そこは、日本は存在しないし、倭寇は東アジアに影響を与えてはいなかった。
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 1433年 第四代世宗(1418〜50年)は、女真族討伐の為に全兵力の1万5,000人動員して、無防備地帯を侵略して女子供の非戦闘員を大虐殺して大勝利を上げた。
 世宗「夷狄は禽獣で有り、その地は用いるに足らない。その人は民とするに足らない」
 1446年 世宗は、庶民に文字を持たせる為にチベット文字やパクパ文字を真似てハングル文字(訓民正音)を作って公布した。
 世宗「愚民は言いたい事があっても、その情を書けない事が多い。予はこれを哀れに思い、新たに28字を作った。人々が日常、役立ててくれるよう望む」
 ハングルは、完全鎖国状態にあった時代の朝鮮語を発音できるが、西洋や日本からの近代用語の発音を表記できない。
 朝鮮の識字率は、中国並みに低かった。
 両班層は、漢文の四書五経を読み書きし理解する事で特権意識を持っていた為に、ハングルは俗っぽう文字(諺文、オンモン)と軽蔑した
 李氏朝鮮王朝自体が、愚民化政策を祖法として、庶民に文字を与える事は叛乱の元になるとして猛反対した。
 世宗は、理解者を得られず、一人でハングルを広めようとしたが失敗した。
 行政命令書や布告文など全ての公文書には「真字」である漢字が使用され、ハングルは女子供が使いだけで社会的には通用しなかった。
 官吏登用試験である科挙において、ハングルではなく漢字が使用され、言語も中国語会話が重要視された。
 中華帝国の属国である朝鮮に於いて、公用語は国際語である中国語のみであった。
 中国人が理解できないハングルを普及させる事は、「中華皇帝に叛乱を企てている」あるいは「中国の悪口を言っている」と邪推されると恐怖したからである。
 日本の平仮名や片仮名が普及したのは、多民族の混血である日本人が島国で共に助け合って生きる為の意思疎通を図る為であった。
 日本人は、朝鮮人の様な中華帝国の属国人ではなく独立した人間としても自意識から、中国人や朝鮮人が読めない日本文字を作り出した。
 中華帝国からの独立意識の強い国は、早い時期に独自の文字を創作した。
 朝鮮は、永遠の属国としてそれができなかった。
 ハングルは、中華絶対主義の両班階層から弾圧に近い差別を受けた。
 ハングルが社会に普及したのは、井上角五郎が両班の猛反対を無視して近代的新聞「漢城旬報」を1986年に創刊してからである。
 近代的用語が中国古典になかった為に、日本生まれの和製漢字が使われた。
 現代漢字の7割近くが、日本語由来の漢字熟語である。
 2012年度の日本の大学入試センター試験・世界史B「19世紀末に朝鮮政府は、民衆世界に普及していた固有の文字ハングルと朝鮮語を公用文に採用する事を決定し、朝鮮語の書き言葉の形成を推進した。言文一致はこうして整備されたのである。言文一致は、近代的知識を広める重要な媒体と考えられ、このような動きは、日本統治期には危険視された」
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 首陽君は、12歳で即位した甥の第6代端宗(1452〜55)を補佐する為に摂政となって国事の相談を受けた。
 だが。国王への野心が強かった為に、端宗に忠誠を誓う重臣等を無実の罪で処刑して、手足として動く者を抜擢して王宮に配置した。
 成三問ら重臣は、端宗を助けるには、首陽君等を排除するべきだとしてクーデターを計画した。
 首陽君は、クーデター計画をするや反撃に出て成三問ら6名の重臣を捕らえて処刑した。彼らが死六臣である。
 他の6名の重臣は、首陽君の専横を嫌い、端宗を見捨てて野に下った。生六臣である。
 首陽君は、端宗に味方する者がいなくなったと見るや端宗を退位させて即位した。第7代世祖(1455〜68)である。
 世祖は、端素の復讐を恐れて、江原道に護送する途中で殺害し、亡骸を川に捨てた。
 配所の村長は、17歳で殺された端宗を哀れんで亡骸を丁重に埋葬した。
 世祖は、端宗の意志を継いだ者が復讐しに来るのを恐れて村長と村人全員を虐殺した。
 在位13年間は、強権政治によって国内は安定した。
 政庁の重臣等の力が削がれた分、後宮の宦官らの力が増した。
 宦官の長である内侍府長は、宮中にいる国王への取り次ぎとして賄賂を取って私腹を肥やし、王命を悪用して政治に干渉した。
 世祖の突然の死は、色々の憶測を呼んで暗殺説が囁かれた。
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 {2016年3月7日 産経ニュース「【科学〜歴史地震研究】先人の資料から解明された「享徳の大津波」 東日本大震災の教訓生かし…
 山梨県で寺の住職らが記した「王代記」(畑川匡氏所蔵、草下健夫撮影)
 想定外だった東日本大震災の教訓を生かそうと、地震学者らの間で歴史から学ぶ取り組みが広がっている。科学だけでは数百年の周期で襲う自然の脅威に立ち向かえない。先人が残した古文書や絵図を頼りに、文理融合で地震津波の解明に挑んでいる。(草下健夫)
 600年間隔を史料で裏付け
 発生当初は「千年に一度」といわれた東日本大震災の大津波平安時代の869年に起きた貞観(じょうがん)地震津波と浸水域がほぼ一致したためだ。しかし、その後の古文書の研究で、室町時代の享徳(きょうとく)3(1454)年にも同様の大津波が東北の太平洋岸を襲っていたことが明らかになった。
 甲斐国山梨県)で寺の住職らが記した「王代記」に次のような記述がある。「享徳3年11月23日に地震が発生し、奥州の山奥まで津波が襲い、多数の死者が出た」。奥州は現在の青森県から福島県にあたる。
 産業技術総合研究所の行谷(なめがや)佑一主任研究員(歴史地震学)らは、これに着目。王代記は他の史料と記述がよく整合し信頼性が高いとされることや、享徳3年の約70年後と比較的早い時期に書かれたことから、大津波が起きたことはほぼ間違いないとみる。
 産総研が2009年度までに宮城県沿岸などで行った調査でも、1500年ごろの津波堆積物が見つかっており、これが享徳の地震による大津波だったと結論付けた。
 政府の地震調査委員会は11年秋、東日本大震災タイプの巨大地震は平均約600年間隔で発生するとの評価をまとめた。貞観地震の585年後に享徳地震が起き、その557年後に大震災が発生したと考えると、発生間隔は調査委の評価とよく一致する。
 巨大地震の発生間隔を理解することは、発生メカニズムの解明に不可欠だ。中世の地震は史料が乏しく不明な点が多いが、行谷氏らの研究は発生時期を特定して“発掘”した成果として注目される。
 津波堆積物の調査は浸水域の把握に役立つが、発生時期を絞り込むのは難しい。一方、史料の記述は場所などの情報が不十分でも、発生日が明記されている場合がある。
 行谷氏は「歴史地震の研究は、両者を突き合わせて進めることが重要。限られた史料を、誤記や推測に基づく記述に注意しながら、丹念に読み解くことが大切だ」と話す。」}
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 1457年 コシャマインの叛乱。蝦夷地・北海道の先住民族であるアイヌ人と本州から流刑されて住んでいた和人の罪人は連合軍して、侵略してきた和人・日本人の横暴に激怒して反乱を起こした。
 アイヌ人と和人は混住する事で雑婚が進み混血化し、混血化は蝦夷地全体に広がっていった。
 和人は、アイヌ人化して行った。
 武田信広は、コシャマインを殺害し、重立った酋長を攻め滅ぼして反乱を鎮圧した。
 アイヌ人は日本民族ではなく、蝦夷地も日本の固有領土ではなかった。
 日本人は、アイヌ人の領土である蝦夷地を侵略し、武力で奪った。
 武田信広は、福井の名門武田家の出身であったが、内紛に敗れて、1450年代に陸奥守護大名南部氏を頼って移り、蛎崎の落ち着いた。
 隣接する安東氏と組んで叛旗を翻して、蝦夷地に移り住んで蛎崎季繁を頼った。
 武田信広は、蛎崎季繁の養子となって蝦夷地を引き継ぎ、各地で起きていたアイヌ人の叛乱を鎮圧して領地を拡大した。
 アイヌ人の中で恭順し忠誠を誓う者を家臣として取り立て、和人と混住の中で同化させた。
 混血児アイヌ人は、領地周囲のアイヌ人を郎党として軍事力を付け、武田家内での発言力を強めていった。
 アイヌ人と和人の混住は進み、相互補完共生で平和な時代を迎え、差別も虐殺もなかった。
 ただし。新たに本土から渡ってきた和人の商人は、商売になれていないアイヌ人を騙して暴利を得ていた。
 領主である武田家は、領民・アイヌ人の暴動を防ぐ為に、アイヌ人を保護するべく和人の商人と協議した。
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 日本人は、混血の雑種であって、朝鮮人の様な混じりけの無い純血種ではない。
 平々凡々とした、ありふれた、ごく普通の気の小さい人間に過ぎない。
 日本人など特別な存在でもないし、優れた選民でもないし、神聖な民でもない。
 当然の事ながら。
 日本人とユダヤ人は、似た所が少ないと、縁もゆかりもない赤の他人である。
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 1459年〜61年 寛正の大飢饉。都だけで8万人以上が餓死した。
 幕府による有力守護大名弾圧で主家を失った武士達は、乞食同然の牢人となって都に流れ込み、幕府の役人に為ったり盗賊となった。
 都近在の荘園領主や百姓や町人は、権利を守る為に徒党を組んで足軽となって暴れ回っていた。
 都は、武士崩れの牢人や食うや身分低い足軽などが闊歩する無法に近い都市となっていた。
 牢人や足軽達を、幕府や守護大名の統制を嫌う悪党と呼んでいた。
 悪党は、盗賊や追い剥ぎなどの犯罪者の事ではなかった。
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 1469年 琉球第一尚氏王朝が7代48年で絶えるや、尚円が国王となって第二尚氏王朝を建てた。
 1467年(〜77年)第103代後土御門天皇。応仁・文明の乱。
 1482年 足利義政は、絢爛豪華な金閣寺に関心を示さず、苔寺として有名な西芳寺に似せて寂れた感のある世を捨てた禅宗風の銀閣寺を造った。
 1485年 李氏朝鮮法律書である『経国大典』が第9代成宗の治世で完成したが、コネや賄賂が横行して法律が守られた事は少なかった。
 李氏王朝は、王族間の王位継承争いや政府高官らの権力争いが絶えず、不毛な激論と陰惨な暗殺が繰り返されていた。
 朝鮮で絶対に守るべき法が有るとすれば、儒教的上下関係としての分を弁える事であった。
 つまり、臣下として中華皇帝の命には絶対服従すると言う事である。
 朝鮮の人生訓は、「人はしょせん欲得の為に騙し合い足を引っ張り合う存在で、信義も誠意も役に立たない」と言う事に尽きていた。
 1491年 琉球第二尚氏王朝の尚真王は、王権基盤を強化する為に新たな身分制を導入し、叛乱を防ぐ為に刀狩りを行った。
 有力士族に対して、領地から王府首里への移住を命じ、土地を取り上げ家禄を与えた。
 本島民には、地割制を行い王家のみに従属させ、租税の徴収と諸役の負担を命じた。
 離島民は差別し、人頭税を課して本島民よりも3倍の重税を課した。
 明国への従属として朝貢し、琉球国王としての冊封を受けた。
 明国との朝貢貿易で豊かになるや、多くの中国人渡来人が移住してきた。
 首里湾入り口にある久米に多くの華僑が住み着き、王府の政務や経済を支配した。
 琉球第一尚氏王朝の最初国王は、沖縄に流れ着いた源為朝と豪族の娘との間に生まれた舜天とされていた。
 王国の公文書や実用文は和文が使用し、大陸への外交文書は漢文げ書き、日常的には琉球文字と日本語の姉妹語である琉球語を用いていた。
 明国との関係が強まるや、中国人渡来人の子孫が政府高官となり、琉球氏族は差別され下級役人として下働きを強要された。
 このまま中国人移住者が増加すれば、日本人に近い琉球人は少数派となり、琉球は明国の属国から領土になる恐れが出た。
 琉球人が、中国を礼賛し、高度な教養を持った中国人になる願望を抱き始めたのは自然な事であった。
 琉球王国が海洋国家として海外交易を行っていたのは、中国系琉球人であって日本系琉球人ではなかった。
 1498年 四大士禍の一つである戊午士禍が起き、論戦に敗れた両班は処刑されるか流罪にされた。
 8月 遠州灘で巨大地震が発生し、大津波が各地を襲って、甚大なる被害が出た。
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 成宗(1469〜94)の子供である燕山君(1494〜1506)は、実母が政争に巻き込まれて毒殺された事に激怒して、全ての政敵を無実の罪で殺害した。人を殺す事に狂喜してからは、無実の罪の人々を虐殺した。
 心ある忠臣らは、燕山君を放置しては王朝の滅亡につながるとして、王命に従って燕山君を捕らえて配流とした。 
 燕山君は、配流先で不可解な死を遂げた。
 李氏朝鮮王朝は、領民無視の王族や重臣等による権力闘争や観念理論闘争が絶えず、領民が安心できた平穏な時代は少なかった。
 朝鮮半島は、東アジアでも貧困地帯で有ったために、春と秋には飢餓が起きて多くの餓死者を出していた。
 両班から科挙で選ばれた官吏は、領民が餓死しようが病死しようが痛痒を感じず、賄賂を送ってより高い地位を求め、権力を手に入れるや私利私欲で私腹を肥やした。更なる、栄華を手にする為に派閥を作り、ライバルの派閥に対して空理空論的観念論で激論を挑んだ。
 朝鮮は、陰険な陰謀や陰惨な暗殺が絶えなかった。
 突然、国王が死亡するや王族内で謀殺説が囁かれた。
 党争に敗れた者は、敗者として身分や地位を剥奪されて奴卑に落とされた。
 朝鮮の身分制度は、日本以上に、インドのカースト制度に近く悲惨であった。
 儒教に従い、仕事をしない読書人である両班を頂点として、庶民を権力で支配する中下級の官吏である仲人、仕事して税を払う農民や漁師や商人などの常民、その下に医師・薬師、猟師、僧侶などの賤民、さらに下等な階層として旅役者や肉食業者や白丁などの極賤民、が、世襲化された身分制度である。
 朝鮮は、日本とは違って努力をしても報われる事がない硬直化した社会ゆえに、朝鮮人は無気力となって向上心がなく、社会を改善して発展させようという意欲がなかった。
 朝鮮における庶民の生活は、体を動かして行う仕事は教養なき下等な人間するものと蔑視する儒教の為に、悲惨なものであった。
 金を貯めた商人らは、家畜の様な境遇から抜け出す為に、李成桂の様に没落両班から系譜を購入し本貫を詐称して両班になろうとした。
 李氏朝鮮中期で、系譜がハッキリとした由緒正しき両班は総人口の7%であったと言われている。
 1490年 朝鮮は、女真族が明国と緊張関係にあって手薄とみるや、度々鴨緑江を渡って女真族を攻めて掠奪と虐殺を行っていた。
 そして、その責任は女真族にあると嘘を付いて恫喝した。
 「今もし武威を示さなければ、侮りの心ますます恣(ほしいまま)にする事だろう。堂々の大国が如何して坐して侮辱を受けられるだろうか」
 朝鮮人満州族女真族の対立の原因は、全てが朝鮮にあった。
 明国は、朝鮮の横暴には度々煮え湯を飲まされていたが、女真族対策から朝鮮を強く叱責する事を控えていた。
 「(女真族が)密かに朝鮮国王に拝謁し、褒美を貰って帰ったというのは伝聞だが、必ず形跡があって、疑うべきものだと思っている。朝鮮国王は、明廷の東藩である。先代から忠貞も篤く、礼儀作法も確かだったではないか。ひそかに部外者と交流する事はなかった。どうして王に至ってこんな事をするのか」
 1506年 燕山君は、李氏朝鮮国王のなかで最も血に飢えた残虐な暴君として有名である。
 家臣らのクーデターで廃位され、江華島に流されて哀れな最期を遂げたと言われている。
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 鎌倉時代。武士も百姓も、血縁的結束を強める為に、祖先からの土地を平等に分割相続を繰り返したが、結果的に土地は細分化されて全ての者が貧困化した。
 恩賞として土地の加増が得られなかった元寇で、分割相続制度は波乱した。
 室町時代。土地の細分化で貧困化を避ける為に、嫡子が全てを単独で相続する制度(嫡子相続)に切り替えられた。
 遺産相続が出来ないサムライは、武芸を磨くか学才を得るかして幕府や守護大名の家臣となるか、自由な身として半農半武士の国人となった。
 田畑を得られない百姓は、荒れ地を自力で開墾するか、他家の養子となるか、腕力のみで武家の下男となるか、職人か商人となった。
 国人同士は、地縁を頼りに、対等な関係で「心を一つにして共に行動する」(一味同心)を地元の神に誓って団結し、全ての問題を話し合いで解決した。
 国人は、守護大名に従ったが、理不尽な命令には一揆を起こして抵抗した。それが、国人一揆である。
 守護大名は、在地武士団や国人らの要求に答える事で、彼らの忠誠心を得て戦国大名に成長した。
 在地武士団や国人らの要求を私的に拒絶して強圧に出た守護大名は、地元の反発を受けて殺害されるか追放された。それが、下剋上である。
 百姓も、荘園領主守護大名などの支配力が低下するや、ムラ独自で解決する為に話し合い、決定事項はムラの神様に誓った。そして、理不尽な命令を出す荘園領主守護大名に対して泣き寝入りせず、一揆を行って懲らしめた。
 ムラの問題は、他を頼らず、ムラの中で話し合って決めて守った。
 それが、日本独自の自立した惣村である。
 ムラの神・地元の神とは、祖先の霊のことである。
 日本の宗教とは、祖先を神として祀る事である。
 日本は、身内としての血縁より他人との地縁を重視する。
 故に、ムラ人が従うのは「御上」ではなく祖先の「氏神」のみであった。
 多様性の強い日本は、絶対権力としての一元的支配は存在した事がない。
 荘園領主守護大名や在地武士団にとって、百姓が生産するコメを唯一の収入としていた為に、ムラの要求を無視できなかった。
 日本には、奴隷・農奴は存在しないし、労働不足を補う為に他国を侵略して庶民を強制連行した歴史はない。
 惣村は、封建領主の支配から独立し、上下の関係も貧富の格差もなかった。
 百姓は、安定した生活をおくり、ゆとりある日常から、公家や武士の非日常的文化とは違う生活に根ざした泥臭い土着の庶民芸能を生み出した。それが、現代の日本文化の原型である。
 土着芸能は、神社や仏閣での奉納芸能として自由闊達に発展し、宗教性を強める事で精神的な深みある文化として洗練された。
 日本の民芸は、宗教性をおび、神事と娯楽を兼ね備えていた。
 宗教と密接な関係を持たない日本芸能は、虚構である。
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 2017年5月3日「倭寇=Japanese Pirates!? 「高校の世界史」歴史学者ら英訳
 『英語で読む高校世界史』の翻訳監修を務めた本村凌二
 新石器時代(Neolithic Era)、大乗仏教(Mahayana Buddhism)、義和団戦争(Boxer Rebellion)−。外国人と歴史の話をする際、英語で何と言うか分からずに困ることは多い。講談社から4月に刊行された『英語で読む高校世界史』は、日本の高校世界史教科書を一冊丸ごと英訳。監修者として翻訳を主導した本村凌二早稲田大特任教授(古代ローマ史)は「学者でも自分の専門分野以外はなかなか英語で表現できない。学生はもちろん、外交や海外ビジネスの現場でも活用してもらえれば」と意義を語る。
 同書は東京書籍「世界史B」(2012年版)の全文英訳本。原書の地図などは極力そのままに、重要な人名・地名・歴史用語には日本語ルビを付けるなど日本人の利用を意識した構成になっている。
 翻訳は、原書の執筆者である本村氏と川島真東大教授(東アジア国際関係史)、福井憲彦学習院大前学長(ヨーロッパ近代史)らが中心となり、趣意賛同者の寄付金や学者仲間の協力、翻訳ボランティアの参加を得て、数年がかりで完成させた。学術的な正確性を期すため、翻訳作業は難航したという。「たとえば『倭寇』をどう訳すか。そのまま訳せば『Japanese Pirates(日本人海賊)』だが、実態は日本人以外も多数いた。日本史学者にも問い合わせるなど相当悩んだが、結局あえてそのままとした」
 日本の世界史教科書が英訳されるのは初めて。本村氏は「他国の教科書は世界史と銘打っていても自国中心になりがちだが、日本のものは実に公平。世界のどこに出しても恥ずかしくない」と胸を張る。
 今回の翻訳について、高校日本史教科書の執筆者でもある三谷博跡見学園女子大教授は「歴史について、日本語では理解していても英語で何というか分からないことは多い。海外に出る人にとっては、とても助かる本」と評価。「教科書にとどまらず、日本国内の優れた研究をもっと英語に翻訳しなくては」と、日本の人文科学の成果を英語で発信する流れの弾みになればと期待する。(磨井慎吾)」
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 2017年9月30日 朝日新聞「呉座勇一の交流の歴史学 ブックガイド編
 中世シナ海域、倭人の割拠
 村井章介
 大学での私の指導教員は村井章介先生だった。村井先生のご研究は多岐にわたるが、最大の研究テーマは東シナ海域の文化交流史であろう。私の専門は一揆研究なので、あまり村井先生の弟子と認知されていないように感じる。
 ただ、村井先生は若い頃、松浦一族という『海の武士』が結成した一揆を研究していた。そこから村井先生は、海賊(倭寇)、海民への興味関心を広げ、東シナ海域研究を牽引(けんいん)してきた。私は先生の松浦一族一揆研究から多くを学んだので、門下の末席に身を置いているつもりである。

 村井先生は多くの一般書を出しているので、お薦めの一冊を選ぶのは難しい。一番先生らしさが出ているのは、『中世倭人伝』(岩波書店)だと思う。この本は、朝鮮王朝(1392〜1910)の正史(公式の歴史書)である『朝鮮王朝実録』(以下『実録』と略す)を丁寧に読み解き、15〜16世紀の『倭人』の実態を明らかにした名著である。
 『実録』には、倭寇の大半は朝鮮の民衆だという朝鮮官僚の報告が収録されていた。このため、日韓の歴史学界で倭寇は日本人か朝鮮人かという論争が繰り広げられた。
 しかし村井先生は、倭寇は『日本の倭人にあらず』『言語・服飾は諸倭と異なる』と『実録』に記載されていることを指摘し、また済州島民が倭人の言語・衣服をまねて倭寇に加わっているという記述に注目した。そして、朝鮮海峡で交易や略奪を行った海民=『倭人』は、日本人でも朝鮮人でもなく、日本・朝鮮という国籍・民族に囚(とら)われないマージナル・マン(境界人)であると主張したのである。
 と、極めて魅力的な本なのだが、『実録』の記事を大量に引用しており、たぶん拙著『応仁の乱』より難解である。

 もう少し読みやすいものとしては『世界史のなかの戦国日本』(筑摩書房)がある。16世紀のシナ海域では、明帝国の衰退にともない、海禁政策(民間貿易禁止)が形骸化し、中国人商人たちによる密貿易が盛んになっていく(後期倭寇)。同時期、ポルトガルを先頭とするヨーロッパ勢力が東南アジアから華南に進出し、密貿易ルートに参入してくる。本書はシナ海域の〈倭寇的状況〉の中に鉄砲伝来、キリスト教伝来、石見(いわみ)銀、豊臣秀吉朝鮮出兵、島津氏の琉球征服などを位置づけ、『世界史のなかの日本』という視点を強く打ち出している。
 さらに平易なのが、東京大学教育学部での『日本史学入門講義』を基にした『中世日本の内と外』(筑摩書房)である。話し言葉で書いてあるので非常に読みやすい。第6章の『中世の倭人たち』は、『中世倭人伝』のダイジェストになっているので、この本から読むと良いかもしれない。
 ただし第5章で展開されている足利義満日本国王号に関する議論は、本書刊行後に大きく進展している。橋本雄氏の『〝日本国王〟と勘合貿易』(NHK出版)なども併読してほしい」
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