🏹60〕─1─豊臣秀吉の唐入り。朝鮮は、日本を文明なき下等で野蛮と見下し軽蔑し油断していた。1585年~No.186No.187No.188 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 朝鮮は、文郄武低の国であり戦略戦術もなき無能無策ゆえに、秀吉の朝鮮出兵情報を得ても防衛策がとれなかった。
   ・   ・   ・   
 朝鮮は、日本を教養なき野蛮国と軽蔑し、庶民出の豊臣秀吉を獣の長として「平酋、ピョンチュ」と蔑称で見下していた。
   ・   ・   ・   
 朝鮮は何時の時代でも反日であり、日本に対して友好的ではなく、礼儀も教養もない最低の野蛮国と軽蔑し「倭奴(ウエノム)」と唾棄していた。
 朝鮮は、中華帝国から「東方礼儀の国」と褒められる事を喜んでいた。
 朝鮮は、事大主義と小中華主義から、日本に対して優越感に浸っていた。
   ・   ・   ・   
 相手に対する差別と偏見と蔑視は、日本人ではなく朝鮮人の方が強かった。
 朝鮮人は、日本人に親近感を憶える事はなく、下等な下劣と毛嫌いしていた。
   ・   ・   ・   
 日本は、朝鮮の高麗青磁高麗人参以外には興味がなく、朝鮮人とは深く親しくなろうとは思わなかった。
 日本人と朝鮮人は、長い歴史において友人ではなく、まあいて生死を共にする事はあり得なかった。
 日本人は、朝鮮に行きたいとは思わなかった。
   ・   ・   ・   
 寒冷地にある朝鮮では、日本の様に高温多湿地帯出自の米が作れず、中国北部同様に麦や雑穀が主食であった。
 米が生産できたのは、半島南部の一部であった。
 朝鮮は、何とかして日本同様に米を作ろうとしたが、ほとんどが失敗して凶作を招いた。
 秋から春にかけての寒波を防ぐべく山野の草木を燃やして暖を取った為に、平地は腐葉土の補給が得られず荒れ果て、山々は濫伐で禿げ山とり、半島全体で緑が極端に少なかった。
 儒教は、人の道を教えても自然の保護を教えなかった為に、中国でも朝鮮でも植林して自然環境を守ろうとはしなかった。
 朝鮮農法には、日本農法のような大規模潅漑がなく、原始的な天水頼みと焼き畑であった。その為に、食糧生産は天候次第で安定しなかった。
 世界文明で、植林による自然文化を持っているのは日本文明だけであると言われている。
 山岳の樹木が乏しかった為に、干ばつと洪水が頻繁に起きて凶作となった。
 日本にとって、朝鮮半島を占領し領土とするには魅力の乏し土地であった。
    ・   ・   ・   
 豊臣秀吉は、西洋がキリスト教を押し立てて各地を侵略して植民地としている事に危機感を抱き、仏教を共通認識とする日本と明国(中国)と天竺(インド)が提携して対抗しようという、荒唐無稽の夢物語を抱いた。
 その東洋連携構想は、朝鮮の存在が抜け落ちていた。
 豊臣秀吉は、朝鮮の内情を知るにつれて、朝鮮は明国に行く為の道でしかなく占領して領地にする価値の少ない土地みなしていた。
 豊臣秀吉の海賊停止令。
   ・   ・   ・   
 当時の明国は、「北捕南倭」と言う状況にあって、万里の長城を完成させ大兵力を派遣して北方騎馬民族の侵略を防ぎ、沿岸部では密貿易や倭寇(大半が中国人)の略奪を取り締まるなど、その膨大な出費で疲弊していた。
   ・   ・   ・   
 豊臣秀吉は、四国征伐九州征伐・東北仕置きを行った後、朝鮮征伐に乗り出した。
   ・   ・   ・   
 華県地震(かけんじしん)。死者83万人。
 ウィキペディア
 1556年1月23日(旧暦嘉靖34年12月12日)の朝、明の北部にある陝西省(現在の中華人民共和国陝西省)で巨大地震が発生した。近年の調査によると震源陝西省の華山(華県)付近で、規模はマグニチュード8.0と推定されている。特に被害が顕著だったのが、震源に近い陝西省とその東に隣接する山西省であった。
   ・   ・   ・   
 1585年7月 羽柴秀吉は、関白に就任し、豊臣性を得た。
 豊臣秀吉は、加藤光泰や一柳末安らに「日本だけではなく明国までも征服する」との書状を送っていた。
   ・   ・   ・   
 1586年 豊臣秀吉は、毛利輝元に対して、朝鮮への渡海を含んで14箇条の書簡を送った。
 さらに、イエズス会日本副管長ガスパール・コエリョに対して、明国討伐の為に朝鮮に渡る決意を伝え、武装した南蛮式大型船2隻の斡旋を要請した。
 6月 豊臣秀吉は、朝鮮領対馬の島主宗義調に、近く九州征伐を行うがその折りに朝鮮との交渉で指示を与えると手紙を出した。
 対馬島民は、念願としていた朝鮮支配を脱して日本復帰が叶うとして狂喜した。
   ・   ・   ・   
 1587年 豊臣秀吉は、九州征伐に備えて、諸大名を大坂城に集めて新年参賀を行った。
 豊臣秀吉は、服属してきた対馬の宗義調に領地安堵を許すと同時に、宗氏に対して「朝鮮国王が来日しなければ来年には征伐する」との書簡を渡した。
 宗氏は、両面服従として、朝鮮にも格下として友好関係を結んで日朝交易で細々と生計を立てていた。
 対馬の宗氏は、秀吉に知行安堵を認めて貰う引き換えに、旧主の朝鮮国王との折衝を引き受けた。
 対馬島民は、念願の日本復帰を果たした。
 豊臣秀吉は、琉球王国に対して島津を通じて服従するように命じ、ポルトガルのインド副王やスペインのフィリピン総督に対しても服属を要求した。
 宗義調は、秀吉の「朝鮮国王に朝貢させよ」との命に従って、家臣の柚谷(橘)康広を日本国王使と偽って朝鮮に送った。
 偽日本国王使は、秀吉が日本を統一して新たな国王になったので祝賀の通信使を派遣する様に要請した。
 朝鮮の良識は、秀吉が明国皇帝の承認を受けた正統な日本国王ではないし、秀吉は下賤の身から暴力で日本を支配した野蛮人と侮蔑した。
 儒教的価値観から、卑しい身分の秀吉がむしろ、中国皇帝から任命された朝鮮国王の前に伺候して挨拶するのが礼儀であるとして激怒した。
 さらに。ついこの間まで朝鮮の臣下であった対馬が、野蛮国日本の走狗となって朝鮮国王に秀吉の風上に立てと要求する事に激怒した。
 華夷秩序における上下関係からえあすれば、中華皇帝の次が朝鮮国王で、日本島主は朝鮮国王の下という認識が定まっていた。
 そう、朝鮮は信じていた。
 領土の一部であるはずの対馬が、日本国王使を送って来た事に不快に思い、航路の悪天候を理由にして拒否した。
 朝鮮には、伝統的に日本を下位国として蔑視していただけに、使者を送れという見下すような文面に激怒し、油谷康広を追い返した。
 宗義調から見れば、戦国時代を戦ってきた日本の軍事力に比べば朝鮮の軍事力は貧弱であり、攻められれば朝鮮に勝ち目がない事は分かっていた。
 薩摩の明国人医師許儀俊は、秀吉が明国侵略の意図があると手紙を明国に報告した。
 明国は、北方の騎馬民族による領土侵略に対する対応で忙しく、海の向こうの東夷である日本などは歯牙にもかけていなかった。
 島津は、南蛮貿易よりも明貿易に力を入れ、独自に呂宋などと交易を行っていた。
   ・   ・   ・   
 1589年3月 豊臣秀吉は、通信使を送ってこない朝鮮の態度に業を煮やして、対馬藩主宗義調の死亡で家督を継いだ宗義智に直に朝鮮に渡って説得する様に命じた。
 宗義智は、此の期を逃しては日本復帰は永久になくなるとして、自ら朝鮮に渡る事を承諾した。
 正使・仏僧の景轍玄蘇、副使・宗義智とする総勢25名の使節団が、朝鮮に渡った。
 キリシタン大名小西行長と博多商人鳥井宗室らは、腐敗した朝鮮王朝内に付け込み、交渉が上手く行く様に高官に多額の賄賂を送った。
 朝鮮側は、全羅南道珍島出身の倭寇一味の強制送還との引き換えに、その御礼として通信使を派遣する事を承諾した。
 朝鮮王家は、「臣下として明国皇帝から正統な国王と承認を受けているが、秀吉は承認なく日本国王を僭称している偽国王である」、との儒教的上下関係の筋目を守ろうとした。
 朝鮮の面子を守る為に、正当国王が偽国王に祝賀を述べる国使を送る事は明国皇帝への裏切り行為になる為に、倭寇一味の強制送還に対する御礼の使者とした。
 同時に。永年の朝鮮国王の恩を忘れて、朝鮮を裏切って日本に走ろうとしている対馬の真意を探ろうとした。
   ・   ・   ・   
 1590年豊臣秀吉小田原征伐
 成田氏の居城・忍城の留守を任された甲斐姫。指揮は成田長親。籠城兵力は約200騎。足軽や領民(百姓)兵は約2,000人。
 攻城軍指揮は石田三成、大谷刑部ら、総兵力は約2万3,000人。
 援軍は真田昌幸直江兼続ら、総兵力約2万5,000人。
 6月16日に攻城戦が始まり、7月16日に小田原城が降伏した事で開城して降伏した。
 豊臣秀吉は、来年の唐入りを宣言した。
 朝鮮の宣祖王は、豊臣秀吉が明への侵攻の為に朝鮮を通過するとの情報を得て、様子を探るべく使者を送った。
 7月 朝鮮通信使は、日本に上陸した。
 10月 秀吉は、上機嫌で、朝鮮通信使の正使黄允吉(西人派)、副使金誠一(東人派)を謁見した。
 朝鮮通信使は、当然の事ながら両国の友好の為の平和な使者ではなく、下位国日本の野蛮な支配者・豊臣秀吉を見下す使者であった。
 11月 秀吉は、聚楽第朝鮮通信使朝貢を受け、朝鮮を大名同様の臣下と見下して国書に返答した。
 通信使は、帰国して日本の状況を報告した。
 正使・黄允吉は秀吉は必ず朝鮮を侵略すると報告し、副使・金誠一は「秀吉は凡庸である。侵攻の恐れはない」と報告した。
 黄允吉は西人派で、金誠一は東人派であった。
 朝鮮は、猜疑的儒教原理主義から、血を流す不毛の政争を繰り返して混乱していた。
 当時も、西人派と東人派が激しい抗争を行っていた。
 同時に。支配階級の両班と被支配階級の庶民との格差は激しく、庶民は王朝政府の悪政に苦しめられていた。
 朝鮮の庶民は、日本の百姓と比べて遙かに地獄の様な悲惨な生活を強いられていたが、日本の百姓の様に一揆を起こして支配者を打倒しようという気力が無かった。
 朝鮮では、儒教的奴隷根性を奨励する非暴力無抵抗主義が徹底されていて、日本の百姓の様に武器を持ってムラの自治を守ろうという自主独立の凶暴さがなかった。
 戦国時代の日本の百姓は、面従腹背を常とし、日頃は従順に従う弱者であったが、何時狂犬に豹変して襲い掛かってくるか分からない恐ろしい存在であった。
 日本の百姓は、サムライ以上に大量の武器を隠匿して武装していた。
 明国皇帝から正式に認められた属国としての面子から、東夷の日本を見下し、知恵無き蛮族が徳多き朝鮮を侵略す事はないと結論を出した。
 宣祖王は、日本軍の侵攻に備えて軍隊を配置する事を命じなかった。
   ・   ・   ・   
 李氏朝鮮は、庶民が白い服ばかり着ている事が、宗主国中国の物笑いになっていうると知るや恥じ入り、白衣禁止令を出した。
 『文献撮録』 第14代宣祖。第18代顕宗。第19代粛宗。第21代英宗。
 朝鮮人が、白い服を着るのは白が好きだからではなく、服を染める顔料が少なかったからでありる。
 そして、新しい白服が購入できなかったので薄汚れた白服を着ていた。
 カラフルな服は高価であった為に、財力のあった王族や両班は購入できたが、一般庶民は手が出なかった。
 もし、庶民が無理して購入して着すると裕福と見なされて、悪徳役人から法外な税を徴収され、盗賊に襲われるか危険があった。
 白服は、朝鮮の厳しい身分差別の象徴であった。
 江戸幕府は、庶民がカラフルな衣服を自由に着ている事を禁止するべく、奢侈禁止令を度々出していた。
 庶民は、御上の贅沢禁令を受け入れながら、上手く誤魔化して色とりどりの服を着て楽しんでいた。
 各藩は、幕府の奢侈禁止令を知りながら、庶民の需要に応えるべく百姓に各種の染料作物の栽培を奨励し、特定の染物商に売っていた。
 百姓にとって、安定した現金収入が得られる為に多様な染料を生産していた。
 安定収入を得ていた百姓は、米生産だけではなく現金収入が見込める副業を持っていた。
 日本農業は、自然災害多発地帯であった為に、単一作物生産の稲作専業農家ではなく、創意工夫による多様な副業を持った兼業農家で支えられていた。
 朝鮮庶民の白服一色と日本庶民の多色服との違いは、こうして生まれた。
   ・   ・   ・   
 朝鮮は、中国を世界の中心とする中華思想に基づき、日本を教養なき野蛮国と差別し、豊臣秀吉を獣の長として「平酋、ピョンチュ」と蔑称で呼び捨てていた。
 明国の属国である朝鮮は、中国中心の華夷秩序を尊重して、独自の外交権を持っていなかった為に、下位国の日本には関心も興味も無かった。その為に、日本国内の政情変化を理解していなかった。
 朝鮮は、依然として足利氏が日本を支配していると信じ切っていた。
 日本は、朝鮮の対日蔑視観を聞き知っていただけに、日本人は朝鮮を明国の庇護を受けた半独立国と見下していた。
 両国の間には、友好関係は存在していなかった。
 友好関係がないのは、親日派百済高句麗が滅亡してから続いていた。
 明軍は、朝鮮を無能な臣下と見下し、朝鮮人を野蛮な獣と軽蔑していただけに、各地で日本軍以上の蛮行を繰り返していた。
   ・   ・   ・   
 1591年 秀吉は、明国への進軍の為の領土内通過と先導を要請するべく、柳川調信と景轍玄蘇を朝鮮に派遣した。
 1月 唐入りを自重させようとした弟・秀長がに急死した。
 2月 千利休は命じられたが、その原因は謎である。
 奥州で大規模な一揆が起きて唐入りどころではなくなった。
 景轍玄蘇は、秀吉の命をそのまま伝える事は危険であるとして、朝鮮側に秀吉は明との朝貢交易再開を希望しその仲介役を望んでいると伝えた。もし叶えられなければ、軍隊を派遣し朝鮮領内を通過して明国を攻める事になると脅した。
 朝鮮は、明国皇帝の臣下として日本の明国攻撃を見過ごす事は不忠となり、偽国王を僭称する東夷の要請を明国に取り次ぐはけにはいかないという文書を手渡した。
 両要求を受け入れる事は、朝鮮が日本の風下に立つ事になり、華夷秩序における面子が潰されるとして拒絶した。
 景轍玄蘇らは、朝鮮の書簡をそのまま秀吉に伝える事は好ましくないとして握りつぶし、秀吉が納得する様な穏当な表現で報告した。
 だが。秀吉は、臣下と見なしていた朝鮮が指示に従わない事に激怒して、全大名に朝鮮出兵を命じた。
 5月 鹿児島から帰国した中国人は、日本が朝鮮に出兵する事を明国に報せた。
 明国は、朝鮮侵攻しても中国までは進撃してこないと高を括っていたが、用心の為に遼東・山東両半島に防衛強化を命じた。
 8月 一人息子の鶴松が、に三歳で死亡した。
 秋 豊臣秀吉は、来年実施する唐入りの大号令を発した。
 ポルトガルやスペインの商人達は日本の大量の火薬を売り込み、宣教師らは朝鮮への布教準備に入った。
 日本の唐入りは極秘で準備されたわけではなく、誰でもが知っていた。
 日本国内が、唐入り準備に入った事という情報は朝鮮や明国にも伝えられた。
 朝鮮は、派兵準備をしはじめた日本からの情報を数多く得ていたにもかかわず、日本軍来襲に対する準備を一切とらなかった。
 もし、朝鮮が祖国存亡の危機として国挙げて日本軍の侵略に備えていれば、緒戦の惨敗は防げたはずであり、運が良ければ日本軍を水際で撃退できた。
 韓国は、豊臣秀吉・日本軍の侵略を非難する前に、1年もの間に数多くの日本情報を得ていながら祖国防衛準備をしなかった朝鮮王朝の失策を認めるべきである。
   ・   ・   ・   
 身分卑しい家出身の秀吉にとって、神の裔・天皇が存在する日本にいては出生への引け目が重く伸し掛かる為に、その重圧から逃れる為には天皇の存在を超える中華皇帝の権威が欲しかった。
 足利義満は、出生への絶対的自信から中華皇帝の家臣になる事に抵抗感はなかったし、皇室に近い貴種という家意識から天皇として即位する事を望んだ。
 豊臣秀吉は、下層民生まれという隠しようのない事実から、祭祀王・天皇を超える事も滅ぼす事もできなかった為に、明国を征服して新たな権力・権威を作って天皇と並ぼうとした。
 日本民族日本人は、日本人である限り、天皇の重苦しい伝統的権威の下にある。
 豊臣秀吉は、そうした硬直した身分制度から解放されたくて明国討伐を強引に実行し、自分の一族も天皇の権威という抑圧から解放する為に天皇を日本から北京に追放しようと目論んだ。
 つまり、日本を天皇精神支配から解放する、其れが秀吉の真の意図であって、領土拡大が目的ではなかった。
 豊臣秀吉を突き動かしていたのは、金銭欲や領地欲ではなく、下賤出身者として虐げられてきた天皇中心の身分制度への憎悪や復讐心であった。
 独占欲の強い豊臣秀吉は、西洋の絶対的価値観で、日本の領土をキリスト教会領として奪おうとするキリシタンと日本人を奴隷として儲ける南蛮人に弾圧の魔の手を伸ばし始めた。
 朝鮮は、日本が朝鮮への侵攻の為に北九州・名護屋で渡海準備を行っている事を知っていたが、蛮族の日本人が教養高き徳のある朝鮮に攻めてはこないと高を括っていた。
 侵攻する者にとって、相手が如何に徳があり教養を持ち戦う意思がなかろうとも関係なかった。
 儒教は、そうした仁・義を重んじて蛮族の侵略を許す者を最も嫌って軽蔑し、天命に背く者で滅びる定めの者としていた。




   ・   ・   ・