☯30〕31〕─1─朝鮮通信使一行の素行の悪さや傲慢な態度は有名であった。1666年。~No.82No.83No.84No.85 @ ⑪ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 朝鮮通信使一行の素行の悪さや傲慢な態度は有名で、宿舎の食器や布団から置き物まで盗む為に高価な物は置かなかった。
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 李氏朝鮮では、高麗青磁などの焼き物が盛んに行われ、大量の薪を消費したが植林しなかった為に、山の木が乱伐されて禿げ山が増えた。
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 朝鮮は、中国同様に自然を大事にしないどころか破壊しても気にはしなかった。
 日本は、朝鮮や中国とは自然を恐れ敬い、愛おしく大事にしてきた。
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 サムライ日本にとって、両班が支配する儒教原理主義国家朝鮮は、古代中国を忠実に摸倣するだけで進歩の欠片がなく、興味もなければ関心もなかった。
 両国は、友好国ではなかった。
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 李氏朝鮮は、小中華主義から、対等関係での日本との友好を望んではいなかった。
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 韓国が起源とされるソメンヨシノは、江戸時代にオオシマザクラエドヒガンの交配で生まれた雑種で、染井吉野の村の植木屋が売り出し日本固有種である。
 韓国のウリナラ文化の大半は嘘である。
 中国のネット「自国に文化が無いからといって、他国の文化を奪うな」
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 日本の「和と誠」の文化と朝鮮の「恨と怨」の文化は、水と油のようにけっして交わる所のない、対極にある異文化である。
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 李氏朝鮮は、倭人館で日本人と密会している朝鮮人女性を見つけるや、「賢く優秀な朝鮮民族の清き血が野蛮で未開人の日本人の血で穢された」として、輪切りなど猟奇的残虐な手段で処刑した。
 上等民族・中国人男性と付き合う事は奨励したが、下等民族・日本人男性と付き合う事は如何なる理由があろうとも許さず、見つければ情け容赦なく処刑した。 
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 竹島は、日本の固有領土であって、朝鮮の領土ではない。
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 1666年 大谷家の漁師が、鬱陵島からの帰途で遭難して朝鮮半島に流れ着いたが、たいした問題にはならなかった。
 1667年 日本側の『隠州視聴合紀』は、鬱陵島竹島と松島=竹島の関する詳しい調査を書き記していた。
 1682年 水戸藩水戸光圀は、朝鮮通信使の無礼を看過する事は日本国家の恥になるとして、礼をもって無礼を正した。
 朝鮮通信使は、非礼を詫び、改めて礼を尽くして謝罪の手紙と金を御送った。
 光圀は、謝罪状と贈呈品を受け取ったが、金は賄賂となるとして返却した。
 1692年3月末 大谷家の漁師達が鬱陵島に上陸すると、朝鮮人漁民が浜でアワビを乾かしていた。
 日本人船頭は、朝鮮人漁師等に「竹島(実は鬱陵島)は日本のものだ。勝手にこの島に渡って漁をするな」と厳しく抗議した。
 1693年 村川家の漁師は、鬱陵島で漁をしていた朝鮮人の安龍福と朴於屯を捕らえ、漁場を守るべく身柄を鳥取藩に引き渡して裁きを求めた。
 鳥取藩は、捕縛された朝鮮人漁師の処分に困り、幕府に伺いを立てた。
 幕府としても、朝鮮との外交紛争を嫌い、二度と鬱陵島渡航しない様に言い含めて朝鮮に送り返す様に指示した。
 鳥取藩は、幕命に従って、朝鮮人漁師に今後の渡航を禁止すると厳命し、身柄を対馬藩に引き渡した。
 対馬藩は、幕命に従って、朝鮮に漁民を引き渡すと共に「鬱陵島への渡航禁止の厳守」を求める書簡の送った。
 安龍福は、国禁を犯した罪で処刑され掛けるが、生き残る為に、日本は朝鮮領である鬱陵島を奪おうとしていると虚実を交えて訴えた。
 朝鮮としても、対馬の次に鬱陵島まで奪われてはたまらないとして、対馬藩鬱陵島の領有を激しく主張した。
 3月 鳥取藩は、幕府に対し、前年同様に、無人島・鬱陵島竹島朝鮮人漁民が大挙して上陸して日本人漁民を追い返したことを報告し、朝鮮側に鬱陵島竹島へ出漁しない様に申し込む様に要請した。
 1695年 対馬藩主は、相手の話を聞かず一方的に捲し立ててくる騒々しい朝鮮人との交渉に辟易して、悲鳴を上げる様に幕府に対し「鬱陵島を朝鮮領と認めて帰属交渉を打ち切りたい」と嘆願した。
 1696年1月 幕府は、朝鮮との紛争を避ける為に、日本人漁民に対して鬱陵島竹島への渡航操業を禁止した。日本側は、鬱陵島竹島の権利を放棄して、朝鮮の領有を認めた。その代わり、松島=竹島は日本領とした。
 1699年 幕府も、事なかれ主義的に、相手の事を慮らない自己中心的な朝鮮とは深入りしたくない為に交渉の中止を決定した。
 1月 対馬藩は、朝鮮に対し、幕府が鳥取藩に鬱陵島への渡航禁止を命じた事を伝え、鬱陵島領有交渉の終了を申し込んだ。
 朝鮮も、これ以上の日本との外交問題を長引かせる事を嫌って申し込みを受け容れ、日本人漁師による鬱陵島での漁を黙認した。自国の漁民に対して、日本人漁師とのいざこざを避ける為に鬱陵島への上陸を再度禁止した。
 6月 安龍福は、国禁を破って鬱陵島に上陸し、日本人漁師と揉め事を起こした。
 日本人漁師は、安龍福を捕らえて鳥取藩に突きだした。
 安龍福は取り調べに、「松島(現在の竹島)も、朝鮮領として鳥取藩に認めさせる為に来た」と答えた。
 朝鮮は、中国同様に、相手が譲歩して弱音を見せればさらに難癖をつけて要求した。
 逆に、強く出る相手には尻尾を丸めて逃げ出した。
 鳥取藩は、傲岸不遜な朝鮮人を嫌悪し、果てしがない強欲を軽蔑して、関わり合うのを嫌って対馬藩に送った。
 対馬藩も、罪の意識がなく反省しない傲慢な朝鮮人との付き合い困り果てて、朝鮮へ追放した。
 安龍福は、朝鮮の取り調べに対し、「『松島は即ち于山島、此れまた我が国の地』と倭国で訴えたところ、相手は認めた」、さらに「隠岐島へ渡っていく途中の鬱陵島で、倭人が沢山いたので、『領土を侵犯するな』としかりつけた。鳥取藩主とも会い、『鬱陵島と松島は朝鮮王朝領とする書き付けを対馬藩主に奪われた』と幕府に抗議すると自分が告げると、藩主の父がそれは止めて欲しいと懇願した」と嘘を捲し立てた。
 朝鮮は、国禁を破った重罪人ではあったが国を憂う愛国者と認め、死罪を免じて流罪とした。
 安龍福は、日本から祖国を守った国士、英雄とされた。
 幕府は、鬱陵島は朝鮮領と認めたが、竹島は日本領と定めて、国境紛争を避ける為に鬱陵島への上陸を禁止した。
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 日本は、火事の多かった為に、江戸や京都・大阪などの武家屋敷や寺社仏閣はもちろん庶民の家でも防火用に瓦葺きか板葺きであった。
 朝鮮は、火事が少なかった為に、細かい事を気にしない性格から庶民の屋根は端を切り落としていないない自然のままの藁葺きであった。
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 1711年 新井白石は、朝鮮通信使への経費を削減すると共に、通信使の格下げの為に徳川将軍家李氏朝鮮王家を対等にするべく「日本国王」の称号を使った。
 朝鮮通信使は、日本を李氏朝鮮王家より格下に置く為に「大君」号の継続使用を求めた。
 白石は、「日本と朝鮮の関係を検討して、この儀礼通りに相違ない」と突っぱねた。
 将軍職が天皇・朝廷の任官である以上、徳川将軍家李氏朝鮮王家が対等となれば、自然と天皇・皇室はその上位の存在となった。
 明治初期における、両国の対立原因はこの時が元となっている。
 如何に政治力と軍事力と経済力を持った将軍といえども、天皇の勅命には逆らえなかった。
 幾度も日本に攻め込まれ滅亡寸前にまで追い詰められて人質を差し出し「倭の犬」になる事を誓った朝鮮が、徳川将軍家と対等を受け入れた以上、歴史的事実を踏め得て、中華皇帝と対等な日本天皇が「皇」と「勅」を用いて国書を送るのに不都合はない。
 そもそも朝鮮は、宮廷慰安婦と宦官を献上する中国の中級程度の属国であり、中華皇帝の命令を絶対命令として受け入れる臣下に過ぎない。
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 1719年 申維翰は、『海遊録』で、辛辣に、口汚く、唾棄するが如く日本人を罵倒していた。
 接遇に当たった役人に対して「信使一行が往来する途中で、太守や奉行をはじめとする仕侍の諸官を見ると、多くの場合、凡庸にして愚劣であり、礼儀さえわきまえない者がいる」
 幕閣に対して「みな一国の安危を一身に担うと言いながら、坐して富貴を享け、浅薄にして愚かな事、木偶の坊の様である」
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 1748年 第十回朝鮮通信使曹蘭谷は、自著書の『奉使日本自聞見録』で、対馬藩通訳が名古屋の宿泊所で「朝鮮人は、よく盗んで行くので知りおくように」と話したと、憤って書き記していた。
 朝鮮通信使一行の素行の悪さは、つとに有名であった。各地に用意された宿舎から、いつの間にか食器や布団や置き物がなくなる事が多くあった。
 指定された宿屋が、盗難を恐れて盗られてもいい様な安物にすれば、朝鮮通信使は侮辱されたとして騒ぎ立てる。各藩も、幕府の命令である以上は粗略には出来ず、宿屋に最上級の持て成しを厳命した。
 朝鮮通信使が、名誉を傷付けられたと騒ぎ立てれば、国費で迎える幕府の体面が傷付けられる事になる。
 幕府は、日本の統治者としての権威を守る為に、各藩に朝鮮通信使の機嫌をとる様に厳命し、朝鮮通信使が騒ぎ出せば各藩に国益を損ねたとして厳罰を科した。
 各藩は、朝鮮通信使の機嫌を損ねては改易か切腹の憂き目にあう恐れがて、各宿場や指定された宿屋に粗相のない様に厳命した。
 朝鮮通信使一行が不満を漏らせば、幕府や他藩に洩れない様に平身低頭して謝罪し、賄賂を送って機嫌をとり、穏便に事を隠した。
 問題を起こした宿屋はもちろんその宿場の責任者に対して、藩の体面を汚したとして叱り置くどころか厳罰に処した。
 宿場の責任者も、宿屋の家族や奉公人までも、行儀の悪い朝鮮通信使一行が好き放題に暴れ回り、持てるだけの家具調度を掠めようとも、不平不満から騒ぎ立てずに立ち去る事のみを神に祈るばかりであった。投宿の間はひたすら機嫌をとり、平身低頭して教えを請い、謙って扁額の書を願った。
 朝鮮通信使一行を接待する日本人にとって、「命」に関わる重大事であるだけに、朝鮮通信使一行は疫病神であり、有り難迷惑であった。
 昔の日本人は、「一期一会の縁」を大事にして、「立つ鳥跡を濁さず」を心懸けた。二度と会う事のない相手の心遣いに感謝し、騒がず、静かに、穏やかに、そして汚したり散らかしたり壊さない様に、一切の迷惑をかけない様に心懸けた。
 日本に来た朝鮮通信使には、中華思想にもとずく上位者という意識が旺盛であっただけに相手への配慮はなく、二度と来なければ、二度と会う事もないとなれば遣りたい放題の事して立ち去った。
 それ以上に、日本人への儒教差別意識が強く、日本人を儒教的教養のない獣に近い野蛮人と軽蔑していた。
 日本に文化を伝え、日本人に教養を教え、一人前の人に導いたのは自分達である自画自賛していた。
 ゆえに、朝鮮人を師匠として崇めかしずき接待するのは、弟子としての当然の義務、勤めであると。
 そうした、日本人観は今も変わらず、日本の文化や芸能や宗教など総べたが朝鮮が起源であると世界に向けた主張している。
 天皇・皇室も、朝鮮の奴隷的下層階級出身であると。
 朝鮮文化における礼儀作法とは、上位者と下位者という儒教的上下関係から、相手の迷惑を気にせず、相手の家に断りもなく上がり込んで自分の家の様に傲慢に振る舞い、相手の家のモノは全て自分のモノの様に使い荒らして立ち去る、嵐や暴風の様なものである。行く手を遮れば差別と騒ぎ出し、自由な行動を止めれば迫害と騒ぎ出した。
 儒教的教養とは、上下関係のケジメをハッキリさせた所から始まる。
 つまり、儒教は、平等ではなく、上下関係を定める学問である。
 「朝鮮聘礼使淀城着来図」
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 1764年 第11回朝鮮通信使・金仁謙「上陸の要請を受け 三使のお供をして 本願寺に向かう 道の両側には 人家や屏や軒をつらね その賑わいの程は 我が国の鐘路の万倍も上である 館所に入る 建物は宏壮雄大 わが国の宮殿よりも 大きく高く豪奢である……
 天下広しといえこもような眺め またいずこの地で見られよいか 北京を見たという訳官が 一行に加わっているが かの中国の壮麗さも この地には及ばないという……」
 金仁謙は、通信使の書記でとして来日したが、王命で将軍に拝謁する身ではないので江戸城に登城する事を拒否した。
 使節一行も、朝鮮は日本より上位者という華夷観から日本人を犬や豚にも等しい禽獣と軽蔑し、通信使の真の役目が隣国・倭国との善隣友好ではなく仮想敵国・倭国の敵情視察である以上、金仁謙の屁理屈をもっともであると認めて宿舎に残した。
 日本と朝鮮は、隣国として国書を手交しあっていても国交を開いてはいず、制限された交易をおこなっていたが、自由な往来を認めてはいなかった。
 日本は自由国としてキリスト教禁止の制限付き鎖国策を、朝鮮は中華帝国の従属国として完全な鎖国策を採用していた。
 『日東壮遊歌』「国書を奉じて行われる使臣方は 恥辱を痛憤されましても 王命とあれば 致し方なく行かれもしましょうが 一介の文士である私としては 行事を見る為に行き 犬に等しい倭人に 拝礼するのは苦痛です」
 日本人には、朝鮮に対する悪感情はなく、朝鮮人を軽蔑し差別する事はなかった。
 朝鮮人は、日本にたいする嫌悪感が病的に強く、日本人を侮蔑し忌み嫌っていた。
 日本と朝鮮との間での国家交流は、奈良時代から1000年近く途絶えていた。
 朝鮮通信使下役惨殺事件。対馬藩通訳鈴木伝蔵は、通信使崔天宗に衆目の中で杖で叩かれるという恥を明かされ、その遺恨を晴らす為に斬殺した。
 通信使の随行員は、儒教教養の高い正使に比べて、粗暴な者が多く、日本側の持てなしを下位者の卑屈な態度ととらえて尊大になり、日本人に悪態をつき唾を平気で吐きかけ、日本人のプライドを踏みにじっていた。
 朝鮮人通信使の下役は、日本人を野蛮人と見下し、質素ではあるが最上の持てなしで差し出した食事に難癖を付け、法外な要求を言い募り、そして食器や寝具など手当たり次第に物を盗んでいく事は知れ渡っていた。
 日本側は、善隣友好を心懸け、傲慢な朝鮮使一向への怒りを堪えていた。
 通信使一行は、日本側の低姿勢を好い事に、傲慢に掘る待っていた。
 所詮。朝鮮人には、日本人の客人への心遣いは理解できない。理解を求める事自体が、もともと不可能である。
 通信使は、飢饉対策として日本からサツマイモを持ち帰り、日本同様に栽培を行った。
 それ以前も、西洋の唐辛子が日本を経由して伝わって栽培されていた。
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 中山竹山(1730〜1804)は、朝鮮通信使に関する提言を松平定信に行った。
 「朝鮮は非情に小さい国であり、大歓迎する必要はない。対馬だけで歓迎すれば良いのではないか」(『草茅危言』) 
 松平定信も、幕府の威信を高める為に朝鮮通信使を利用する価値はなもうないと判断した。
 日本にとって、朝鮮はもはや重要視すべき友好国ではなく、付き合おうと付き合うまいとどうでもよい国であった。
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 1785年 清国は、朝鮮から満州へと不法越境する朝鮮人移住者を見付けしだい処刑した。
 朝鮮の正宗は、宗主国・清国との国境紛争が拡大する事を恐れて、越境禁止令を発し、国境地帯に警備兵を配置して、越境者を監視し、捕らえて重刑に処した。
 貧困に苦しむ朝鮮人は、両国の厳しい監視のかいくぐり、見つかれば死罪になる危険を承知で、肥沃な土地が広がる満州や中国本土へと移住した。
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 1811年 第12回 対馬聘礼。
 これ以降、朝鮮通信使は日本には訪れなかった。 
 日本の儒学者は、通信使との詩文ができなくなった事を残念がった。
 サムライは、儒教に凝り固まった朝鮮人が来なくなり、礼儀にうるさい形式張った朝鮮通信使を面倒をになくなった事に大歓迎した。
 江戸庶民も、朝鮮通信使が来日しなくなった事に関心がなかったし、再開して欲しいとも思わなかった。
 朝鮮人には、興味がなかったのである。
 朝鮮側は、日本の武力にはかなわなかったが、文学・教養では日本以上である事を見せ付けられなくなり悔しかった。
 日本としては、時代遅れとなっている朝鮮に学ぶ所は何もなく、これまでの模様に国交を維持する必要を感じてはいなかった。
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 朝鮮に於ける焼き肉料理は、裕福な両班のみに許された特権で、庶民には禁止されていた。
 日本人が朝鮮に移住し始めるいや、牛鍋やもつ鍋が庶民の間に広がった。
 李氏朝鮮政府は、牛馬は農耕に欠かせないとして屠殺禁止令を出し、牛肉の販売を取り締まった。
 日本伝来の焼き肉が朝鮮に普及し定着したのは、日本統治以降である。
 日本における肉食の始まりは1859年の横浜開港であったが、仏教では牛や馬などの四つ足の動物を食う事を禁止していた。
 マタギなど差別されていた山の民は、猪、兎、熊、鹿などを獲って食べていた。
 日本人が牛肉を食べ始めたのは、1862年に横浜に開店した「伊勢熊」とされている。
 和食の食材の多くは、外国から日本にもたらされたの農作物で、日本の在来種は少ない。
 日本の食文化は、海の外から持ち込まれた農産物で生まれた。
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 1836年 会津屋八右衛門による竹嶋渡海一件と間宮林蔵
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 1860年 ロシア帝国は、清国との国境画定交渉でウスリー川以東の沿海州を譲り受けて、朝鮮と国境を接した。
 大凶作となっていた朝鮮から、新たにロシア領となった沿海州に被災民が移住していった。
 白人至上主義のロシア人は、生死を彷徨うな虚ろな目をした朝鮮人移住者を獣の様に扱った。



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