☯16〕17〕─1─李氏朝鮮は、排他的儒教価値観の尊皇攘夷思想でキリスト教徒を大虐殺した。~No.39No.40No.41No.42No.43No.44 @ ⑥ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 拝金主義とシャーマニズムの異常な韓国キリスト教会。
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 A・グレブスト「この地球上にまだこんなところがあったこと事態、人類の恥」(『悲劇の朝鮮』)
 西洋人で、李氏朝鮮に好意的を抱き、良く言う者はあまりいなかった。
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 キリスト教徒にとって、中国や李氏朝鮮は日本以上に地獄であった。
 儒教は、祖先を崇拝しても、神や仏を断固として認めていない。
 現代韓国では、日本以上に、キリスト教徒が増加している。
 日本の神道は、世界宗教で極まれな部族信仰として、祖先を神として祀る神懸かり的氏神信仰であった。
 キリスト教会は、祖先崇拝の儒教は宗教性が乏しいと認め妥協し共存を希望したが、祖先神・氏神信仰の神道は宗教と断定して完全なる殲滅を図った。
 朝鮮国王は、宗教性を持たない、世俗の政治権力としての軍事的専制君主であった。
 日本天皇は、宗教性を持った、神聖な宗教権威としての祭祀王・最高位の神職であった。
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 李氏朝鮮キリスト教徒虐殺は日本以上におぞましい猟奇的処刑であった。
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 原始キリスト教のアジアへの伝播。
 535年 インド、スリランカに伝わる。
 635年 宣教師が中国を訪問する。
 676年以降 統一新羅に伝わる。
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 1590年代 朝鮮の人口は、約300万人。
 日本の人口は、約1,200万人。
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 儒教価値観が支配する中華世界におけるキリスト教価値観による近代化とは、天命思想による「徳」を否定し、文明・文化を破壊する野蛮な獣道であり、進化ではなく退化であった。
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 1593年 文禄の役イエズス会士セスペデス神父は、日本人修道士ハンカン・レオンを伴い、キリシタン大名小西行長軍に従軍司祭として参加した。目的は、戦争を行う日本人キリシタンの為に祈る事であって、朝鮮での布教ではなかった。
 和議が成立して日本軍が朝鮮から撤退するさい、少数の儒学者と多くの陶工などの身分低い職人を日本に連行した。
 日本の宣教師達は、朝鮮への布教の足掛かりとする為に、2,000人以上の朝鮮人に洗礼を授け信者として秘蹟を与えた。
 身分低い職人達は、姓を許されない下賤の身とされていただけに、現状での救いを求めて改宗した。
 身分高い儒学者らは、祖先崇拝を守る為に拒否した。
 後年。徳川家康と朝鮮王朝の外交交渉の結果、大半の身分高い儒学者と一部の職人が帰国した。その中に、若干の朝鮮人キリシタン(刷還キリシタン)が含まれていたが、帰国後の消息は全く存在しない。
 身分低い職人の大半は、働く事を下層民の罰として蔑視する朝鮮よりも、優れた職人を出自に関係なく職業神として崇める日本に残留する事を希望した。
 日本に留まった朝鮮人キリシタン205人は、江戸時代の禁教令に逆らって信仰を守った為に処刑された。
 李元淳(ソウル大学名誉教授)「(セスペデスが)朝鮮現地で瀕死状態の幼児達に洗礼を授けた事や日本に連行された朝鮮人少年の受洗に関係した事は韓国学界にもよく知られている事実である。それだけでなく、日本の地でキリスト教信者になった朝鮮人が彼ら以外に数千人いる事もよく知られている。ただ、我々韓国教会史学界では、彼ら朝鮮人キリシタン朝鮮民族である事は間違いないが、彼らのキリスト者としての生活と活躍は日本キリシタン史の範疇に属しているのであり、韓国教会史の一部ではないと認識している」(『韓国天主教会史研究』)
 朝鮮は、古代から現代に至るまで文化や知識や教養や技術の全てが、中国から朝鮮を経由して日本に至ったとして、日本から逆輸入された事はないと完全否定している。
 武士道や茶道や華道など日本文化や錦鯉や桜や和食など日本にある全てのモノが、朝鮮で生まれて日本に伝えられたと主張している。
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 朝鮮における拷問や処刑は、中国同様に猟奇的で陰惨なものであった。
 公正な裁きがないのも中国に似ていて、賄賂で無罪となった。
 朝鮮と中国の2ヶ国は、日本とは根本的に事なり似ている所はない。
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 キリスト教は、キドツキョ(基督教)。
 カトリックは、チョンジュギョ(天主教)。
 プロテスタントは、ケーシンギョ(改新教)。
 1637年 仁祖(1623〜49)は、王太子・昭顕世子と鳳林君ら三人の王子と世子妃姜濱を清朝に人質として差し出した。
 朝鮮国王は、琉球国王と同様に、中国皇帝の臣下として王位と統治権の承認を得て、朝鮮半島の正当な支配者となって君臨していた。
 それが。2000年以上続く、中国を中心とした華夷秩序による朝貢冊封体制である。
 朝鮮は「礼の国」として、国王や諸大臣が土下座に近い礼をとって中国から勅使を迎え、忠実な臣下として謝恩使を中国に派遣して忠誠を誓った。
 だが、朝鮮国王は琉球国王の下位に置かれていた。
 1644年 北京に移った昭顕世子は、イエズス会士ベルと親しくなり、キリスト教の教義書を漢訳した「天主実義」を送られた。
 昭顕世子は、天文や数学などの西洋科学に興味を持ったが、キリスト教・天主教には興味がなかった。
 妃の姜濱は、昭顕世子を助けて、貿易事業を行って金を稼ぎ滞在費とした。
 鳳林君ら二人の王子は、西学には興味がなく享楽に耽っていた。
 昭顕世子は、改革への希望を胸に抱いて帰国した。
 重臣等は、仁祖(1623〜49)に儒教的体制を守る為に殺害を懇願した。
 仁祖は、昭顕世子と世子妃姜濱の毒殺を命じた。
 昭顕世子は、帰国して70日で急死した。
 鳳林君は、第17代孝宗(1649〜59)に即位するや、重臣等の意見に従って昭顕世子が持ち込んだ全ての西学を焼きしてた。 
 イエズス会は、朝鮮をキリスト教化する為に北京を訪れた朝鮮使節団に接近し、洗礼を施す機会を窺っていた。そして、朝鮮の知識層を感化させる為に漢訳聖楽書を送り続けた。
 事大主義の朝鮮としては、中国で容認された西学と暦を作成する役所・欽天監に奉職する宣教師らを拒絶できなかった。
 知識欲旺盛な読書階級から、漢訳天主教教義を独自に解釈して信奉する者が増え始めた。
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 1773年 クレメンス14世は、イエズス会を解散させた。
 1784年2月 李承薫は、謝恩使の随員として北京に赴き、イエズス会士グラモン神父から洗礼(洗礼名ペテロ)を受け、公式な朝鮮人キリスト教徒と認定された。
 北京のイエズス会やパリ外国宣教会は、日本での布教を諦め、朝鮮への布教に力を入れていた。
 李承薫は、キリスト教を受け容れやすくする為に、儒教の概念とキリスト教の教義を合体させた。
 朝鮮には、ヨーロッパで正規の神学を修めた宣教師や厳しい戒律で修業を積んだ修道士もいなかった。
 儒学に造詣の深い両班階級は、キリスト教を西学とし儒教とは別物と見なしたが、中には単純に新たな儒教の教義として信奉する読書人もいた。
 身分卑しい庶民の間に信者を広まるが、正しい教義を教える宣教師がいなかった為に、土着信仰と結びついて独特のシャマニズム信仰となった。中には、凶暴的なカルト化するキリスト教徒もいた。
 キリスト教徒は、絶対神を天上と地上の唯一の支配者として、天帝の子である異教の中華皇帝に朝鮮支配を承認されている朝鮮王朝を否定した。
 1785年 朝鮮王朝は、国王の支配権を完全否定する、キリスト教を弾圧する事とした。
 朝鮮は、強気で、棄教を促す手間を省き、キリシタンの希望通りに即処刑した。ただし、身分が高い王族や両班は誓書を提出すれば助けた。
 日本は、気弱に、なるべく処刑を避ける為に「踏み絵」など精神的拷問で棄教を強要し、嘘でも棄教を誓えば助けた。
 宣教師は、満州から陸路で朝鮮に入国し、山岳地帯に潜みながら半島南部へと移動した為に、北部の貧しい庶民に信者を増やして行った。
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 1791年 辛亥教難。全羅道珍山の儒学者尹持忠と権尚然は、偶像崇拝を否定する教義に従って、祖先崇拝を廃し、異教的な位牌や墓など全てを破壊した。
 支配層の両班の中にも、キリスト教に改宗する者が徐々に植え始めていた。
 イエズス会は、日本での布教活動の失敗を教訓として、宗教性を伴わない儒教的祖先崇拝を容認した。
 絶対神の神性を守る為に、宗教としての神道的祖先神・氏神崇拝は異教として否定し、八百万の神々を祀る神社を邪教の施設として攻撃した。
 朝鮮王朝は、儒教に基ずく祖先崇拝を守る為に、仏教と共にキリスト教の弾圧を本格化させた。
 朝鮮と日本に於いては、キリスト教は反乱を引き起こす反体制宗教であった。
 中国においての反体制宗教は、弥勒菩薩の救済を信仰する仏教(白蓮教)と絶対神アッラーを信仰するイスラム教であった。
 1794年 キリスト教会は、朝鮮人信者を支援する為に中国人司祭周文謨を派遣した。
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 1801年 辛酉教難。朝鮮王朝は、朝鮮人キリスト教徒黄嗣永を逮捕した。黄嗣永は、北京にキリスト教会に対し、朝鮮のキリスト教徒の救済な為に清国・西洋連合軍で朝鮮を占領して欲しいとの文を書いた絹布を携えていた。黄嗣永帛書事件である。
 純祖の摂政・貞純王后は、党派抗争にける反対派潰しにキリスト教弾圧を利用すべく、禁邪教書を発布した。
 朝鮮は、古代から中国の古典書の解釈をめぐる不毛の激論が絶えず、丁丁発止と詭弁を労しても相手を完膚なきまでに言い負かす事を繰り返していた。
 激論に負けた者は、良くて地位名誉を剥奪されて庶民に落とされて流罪、悪くすると本人は反逆者として処刑された。
 いずれにしても、家族は全財産を没収され、人間以下の最下層民に突き落とされた。
 中国化した朝鮮は、中国同様に白を黒と言い負かさないと出世できない、強者の理論による苛酷な社会である。
 弱者の理論に基ずき、白黒をハッキリさせず曖昧に放置する、非中国化の日本とは正反対の社会である。
 朝鮮王朝は、キリスト教徒による反逆事件として大弾圧を断行した。反逆事件に関与した100人とそれ以外の約200人を処刑し、400人以上を済州島流刑地流罪とした。
 1811年 朝鮮人キリスト教徒は、北京司教とローマ教皇に、司祭派遣を要請する書簡を送った。
 1814年 ピウス7世は、イエズス会の復興を許可した。
 1827年9月 バチカンの布教聖省秘書長官カプラン司教は、朝鮮への宣教師派遣をイエズス会に要請した。
 イエズス会フォルティス総長は、組織の再建で手一杯で、海外布教の余裕がないと辞退した。
 1829年 ローターン神父が、イエズス会の新たな総長に就任するや、日本への布教活動再開に向けて準備に入った。
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 1831年 朝鮮人キリシタンは、弾圧から逃れて地方の山野に隠れ、朝鮮国王の弾圧からキリスト教を守る為にローマ教皇に司祭の派遣を要請した。
 9月9日  教皇グレゴリウス16世は、朝鮮のキリスト教徒を助ける為に朝鮮教区を新たに設けて中国教区や日本から独立させ、円滑な布教活動を行う為べくパリ外国宣教会に司牧権を委任した。
 パリ外国宣教会のブリュギエール神父が、朝鮮代牧に任命されたが、朝鮮に入る直前で急死した。
 1837年 パリ外国宣教会のモーバン神父が、鴨緑江を渡り、鎖国政策をとる朝鮮に入った。発見されて捕縛されれば死刑を覚悟し、約9,000人といわれる信者に秘蹟を与え新たに信者を増やすべく布教活動を行う為の来朝であった。
 宣教師らは、信仰を守る為ならば死ぬ事を恐れず、殉教すれば絶対神の王国である天国に召されるとして喜んだ。
 モーバン神父は、聡明な少年金大建(16歳)を、国法を破ってマカオの神学校に留学させた。
 1839年3月 己亥教難(〜40年末)。国王憲宗は、キリスト教を禁止する「斥邪綸音」を発布して、キリスト教への大弾圧を始めた。禁教令は、信者が下層民に多い事もあって漢文とハングル混合文で作成された。
 第二代朝鮮代牧アンベール神父、パリ外国宣教会のモーバン神父とシャスタン神父を含む113名が処刑された。
 儒教による厳格な身分制度下の朝鮮では、庶民は人権のない租税を搾り取るだけの下賤の生き物と差別していた。両班階級が、恣意的に庶民を殺害しても罪にはならなかった。
 よって、庶民のキリスト教徒は助ける事なく棄教を強要せず処刑した。
 キリシタン弾圧は、命軽視の民族性から、日本以上に苛酷で容赦なく行われた。
 殉教を恐れて棄教の誓書を提出し、キリスト教を非難中傷する告発文を書いても、後年処刑された。
 1845年8月 金大建は、上海で、成績優秀と敬虔な信仰が認められて朝鮮人として初めて司祭に叙階された。
 9月 第三代朝鮮代牧フェレオール神父は、金大建を伴って朝鮮に入った。
 朝鮮は、フェレオール神父と金大建神父と多くの朝鮮人信者を捕縛した。
 1846年 フランスは、フランス人神父を処刑したことに対する抗議の為に軍艦三隻を派遣した。
 9月 丙午教難。憲宗は、軍艦で脅迫するフランスの横暴に激怒し軍艦が立ち去るや、フェレオール神父と金大建神父ら朝鮮人信者を処刑した。
 1849年 新たに国王に即位した哲宗は、キリスト教に理解を示して弾圧政策を緩めた。
 この政策転換が、後の大惨事を招いた。
 第四代朝鮮代牧ベルヌー神父は、朝鮮布教の好機と捉えて、4名の宣教師を伴って朝鮮に入国した。持ち込んだ二台の印刷機で、ハングルによる宗教書を印刷して信者に配布した。
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 1863年 高宗が幼くして即位した為に、攘夷論者の実父大院君が実権を握った。
 1864年 東学の崔済愚は、邪教を広め内乱を煽った罪で処刑された。
 儒教は、如何なる宗教だっても、社会秩序を破壊し人の心を堕落させる悪として弾圧した。
 1866年9月 アメリカ船籍ゼネラル・シャーマン号が、朝鮮人暴徒によって焼き討ちされた。
 大院君は、西洋の船が来朝する目的はキリスト教の布教にあると警戒し、プロテスタント系宣教師イギリス人トーマス牧師を処刑した。
 アメリカは、抗議の為に軍艦を派遣した。
 10月 フランスは、キリスト教徒弾圧に抗議する為に軍艦を派遣し、武力を見せつけるべく放火と略奪を行った。
 丙寅教難。大院君は、欧米列強の横暴に激怒して、キリスト教の大弾圧を行い8,000人以上を処刑し、キリスト教関係の書籍を燃やした。
 女子供に関係なく処刑した。
 儒教は、身分低い庶民の人権を否定し、命への尊厳も持たず、死体はゴミのように捨てた。
 日本は、死を恐怖し血を流す事を忌み嫌うだけに、非情な朝鮮が理解できなかった。
 朝鮮は、王公や両班などの身分高き階級にとって満ちたるた天国の様な国であったが、身分卑しい庶民層にとって貧困に苦しむ地獄の様な国であった。
 1868年 フランス人のフェロン神父は、朝鮮儒教の最高徳目「孝行」を逆手にとって、朝鮮にキリスト教布教の許可を迫る手段とするべく、大院君の父親の骨を奪う為に、アメリカ人実業家ジェンキンスとドイツ人アーンスト・オッパート(エルンスト・オッペルト)に墓荒らしを依頼した。
 ジェンキンスはチャイナ号を、オッパートはゲレタ号を、それぞれ雇って忠清南道に上陸したが、もたつく間に朝鮮軍の反撃に遭って逃げ帰った。
 大院君は、外国船を撃退した事に自信を付けて「衛正斥邪」を訴え、攘夷運動を指導した。
 キリスト教徒は、異教徒の墓に対しての特別な感情を持っ事はない。 
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 1871年 辛未教難。アメリカは、ゼネラル・シャーマン号事件に対する報復として軍艦を派遣した。
 朝鮮王朝は、報復としてキリスト教徒を大弾圧し、棄教を誓てキリスト教を排斥する文書を提出した者をも容赦なく処刑した。
 ダレ神父は、身分卑しい下層民に対する苛酷で残酷な朝鮮の拷問や処刑を『朝鮮教会史』に書き記した。
 これ以降。国家によるキリスト教徒への大弾圧はなくなった。
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 1876年 日本は、朝鮮王朝に対して不平等条規を含む日朝修好条規(江華条約)を強要した。
 1877年 スコットランド出身のプロテスタント系宣教師ロス牧師は、貿易商の徐相崙らの協力を得て聖書のハングル訳を開始した。
 1882年5月 アメリカは、朝鮮と修交通商条約を結び、信教の自由の原則で条約文からキリスト教布教禁止条項を削除させた。
 朝鮮は、以前のように政府としてのキリスト教弾圧を行わなかったが、地方の役人は儒教的価値観から個人的にキリシタンを迫害していた。
 1883年4月 日本に渡っていた朝鮮使節団の李樹廷が、アメリカ人宣教師ノックス牧師から洗礼を受けた。
 日本に留学していた朝鮮人学生の多くは、李樹廷の改宗に倣って洗礼を受けた。
 ノックス牧師は、アメリカの教会に朝鮮における布教の可能性を報告した。
 長老派やメソジスト教団やバプティスト教団などのプロテスタント各派は、多くのアメリカ人宣教師を日本経由で朝鮮に送り込み始めた。
 大院君は、布教活動をしない事を条件で宣教師の入国を許可した。
 プロテスタント各派の宣教師は、ソウルのアメリカ公使館付きの医師や外交官の身分で入国した。
 高宗と閔妃は、大院君ら儒教的保守派に対抗する政治手段として、宣教師に医療や教育事業を行う許可を与えた。
 宣教師らは、医療や教育現場で隠れて絶対神の隣人愛信仰をそれとなく教えていた。
 キリスト教会は、世俗の法律よりも絶対神の戒律を優先し、世俗の法律で処罰される事を殉教として享受した。
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 1886年 高宗は、フランスと朝仏修好通商条約を結び、外国人の国内旅行と教誨(教え諭す)活動を保障した。
 5月 李樹廷は帰国するが、親日派の嫌疑をかけられ、反逆者として処刑された。
 朝鮮は、表面的にはキリスト教に理解を示し日本に友好を口にしていたが、本心は反キリストであり反日であった。
 アメリカ人ヘロン宣教師は、医学的知識が認められて、高宗の侍医に任命された。
 キリスト教に改宗すると個人的利益になると知れるや、意欲的な朝鮮人は先を争って洗礼を受けた。
 両班などの保守派は、祖先崇拝を容認するカトリック教の洗礼を受けた。
 下層階級は、悲惨な境遇から脱出する手段として、祖先崇拝を否定するプロテスタントの洗礼を受けた。
 アメリカのキリスト教会に続いて、イギリスやカナダのプロテスタント各派とロシア正教会も宣教師を送り込み始めた。
 カトリック教会とプロテスタント各派は、信者が少ないうちは医療や教育の現場で協力し合っていた。
 アメリカのプロテスタント各派は、儒教価値観で人間以下に扱われていた女性の解放を目指して啓蒙活動に力を入れた。
 保守派は、伝統的社会倫理を破壊する野蛮行為であるとして敵視した。
 キリスト教会は、祖国の治外法権の領域であるとして駆け込んできた女性を救済し、寄附された金は絶対神への浄財として納税の義務を拒絶した。
 朝鮮政府に納税されるはずであった金が、キリスト教会の資金として消えた。
 1887年 信者が急増するや、朝鮮人キリスト教徒は教義をめぐって激論を始め、激高すると自分の信仰を守る為に流血事件を起こした。
 伝統的党派抗争が、キリスト教における宗教党争に姿を変えて起き始めた。
 朝鮮の各キリスト教会は、軋轢を避けるべく、布教する地域を分担する為に半島を分割する協定を結んだ。
 だが。朝鮮人キリスト教徒達は、自由に国内を移動する為に他派への敵意を剥き出しにし、1900年頃には殺人事件まで起こすようになった。
 1888年4月 突然。朝鮮政府は、布教禁止令を出した。
 夏。外国人宣教師が秘密の儀式の為に子供を誘拐したというデマが広がった。
 保守派は、民衆を煽って暴徒化させてキリスト教会やミッション系学校を焼き討ちさせた。暴徒は、制止しようとする宣教師や朝鮮人キリスト教徒を負傷させ、金目になりそうなものを掠奪した。
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 1894年 東学農民戦争。東学党は、キリスト教は社会に毒を撒き散らす邪教であるとして、キリスト教会やミッション系学校を襲撃して破壊し放火した。
 保守派も、内戦を利用して、キリスト教排斥運動を展開した。
 一部の宣教師は、安全な日本に避難した。
 1899年 黄海道で、キリスト弾圧が起きた。
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 1900年 義和団は、キリスト教を滅ぼす為に、キリスト教会を襲撃して数万人のキリスト教徒を虐殺した。
 攘夷的政府高官や儒学関係者は、反キリスト教的気運を利用して、外国人宣教師と朝鮮人キリスト教徒の根絶やしを計画した。
 高宗は、キリスト教根絶計画の密告を受けて中止させた。
 1901年5月 辛丑民乱。済州島で、キリスト教に関する暴動が発生した。
 保守層が如何に儒教教義でキリスト教を非難しても、儒教価値観からの解放を求める民衆は進んでキリスト教に改宗した。
 保守層は、対日戦略としてキリスト教融和策を採用する高宗ら朝廷を見限り、同じ儒教価値観を共有する軍国日本に擦り寄っていった。
 中国や朝鮮にいた宣教師の多くが、日本に非難した。
 日本は、逃げてきた宣教師やキリスト教徒を受け入れて保護した。
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 アジア地域において、キリスト教が安全で安心できる国は日本だけであった。
 日本はキリスト教化しずらい国で、キリスト教徒の少ない国であった。
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 1906年頃 朝鮮の人口は、978万人。
 日本の人口は、約3,000万人。
 朝鮮の人口が、日本の人口より多かった時代はない。
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 1910年8月 105人事件。日韓併合によって初代朝鮮総督になった寺内正毅陸軍大将は、保守派の植民地支配への協力を得る事を条件として、キリスト教の知識人を逮捕した。
 軍人で単純な寺内総督は、反キリスト教派の両班にいい様に操られた。
 さらに、反キリスト教政策として、全ての学校に明治天皇への儀礼的敬礼を強要した。 
 朝鮮キリスト教会は、偶像崇拝であるとして反発し、宗教闘争と認識して反日朝鮮人を陰で支え、絶対神の隣人愛信仰を守る為に反天皇を掲げる日本人キリスト教徒と連絡を取った。
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 1920年 朝鮮キリスト教会は、反天皇反日闘争の為に、密かに不倶戴天の敵である共産主義勢力と手を結んだ。
 ミッション系学校は、日本人や朝鮮人共産主義者を教師や職員として雇い入れて、憲兵や警官の追求から庇った。
 敵の敵は、味方である。
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 1930年 朝鮮総督府は、朝鮮人全てに無宗教国家神道に於ける儀礼的神社参拝を強要した。
 バチカンは、日本政府の説明を了承し、神社行事は日本国民の義務であるとしてキリスト教徒の参列を許可した。
 朝鮮キリスト教会は、宗教施設である神社に宗教に関係なく敬意を持って頭を垂れる事は、紛れもなき宗教儀式であるとして猛反対した。
 カトリック教会は、バチカンの宗教判断を尊重して、神社参拝は絶対神への信仰とは無縁であるとして受け容れた。
 プロテスタント系の反日強硬派は、如何なる妥協も拒絶し、たとえ無宗教的な神社での御辞儀さえ拒絶した。
 朝鮮総督府は、神社参拝を拒否するアメリカ人宣教師を朝鮮からの退去を命じ、朝鮮人司祭を逮捕した。
 アメリカに帰国した宣教師らは、反日活動を本格化させ、各地の教会を回って日本を激しく非難して国民に反日行動に参加する様に訴えた。
 アメリカ世論は、宣教師らの精力的な活動によって反日色を強めた。
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 日本は、朝鮮人神道への改宗を要求したのではなく、2000年間受け継いできた民族宗教への敬意を求めたに過ぎない。
 日本人は、相手の宗教に敬意を表明する為に、相手の宗教施設で敬意をもって頭を垂れる事を好んで行う。
 朝鮮キリスト教会は、日本の植民地支配に反対する立場から、日本民族民族宗教を否定し、神社への敬意を偶像崇拝にあたるとして拒絶した。
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 呉善花「韓国にキリスト教が普及したのは、みじめな状態を喜び、恨を楽しむ韓国人の感情にうまく適合したからである」(『続スカートの風』)
 小倉紀蔵「(恨は)人生の長い旅路において、人間はどうしようもない運命に翻弄され、苛まれ、苦しむ、……いつの日か結ばれた心の結び目を解くことによって解消される」(『心で知る、韓国』)
 恨とは、2000年間中国の属国としての屈辱感を強いられている朝鮮人が、何時の日にか中国から独立したいと念じながら、経済・軍事・技術・教養などあらゆる面で敵わない事を見せ付けられて、無気力についてきた絶望的な溜息にすぎない。
 或いは。儒教的価値観で最下層に追いやられた庶民が、越える事が許されない上下関係による身分制度を目の前にして、救いのない貧困生活にある身の上を無力に歎き悲しむ心情にすぎない。
 強いていえば、「恨」は日本の「無常観」に多少なりとも通ずる所があるが、決して「恨」と「無常観」は同一のものではない。
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 小倉紀蔵「この国におけるキリスト教信者の類型は二つである。ひとつは、儒教的『理』(仁義)に代わる新しい水平的な『理』として理性的な信仰を生み、抗日運動や民主化運動の重要な部分を担った。社会のエリート層の信仰はこの類型である。これに対してもうひとつの類型は、シャーマニズムおよび仏教を吸収し、魂の救済の側面を強めながら膨張した。抑圧され、貧しい生活にあえぐ庶民の信仰はこれである」(『心で知る、韓国』)
 韓国キリスト教は、日本の植民地から独立しても、北朝鮮ソ連共産主義勢力との対決という冷戦状況下で信者を増やした。
 戦う事なくアメリカ軍によって中国や日本から独立を与えられたという後ろめたさの反動として、中国や日本人より優れているという民族的選民思想が生まれた。
 特に。アメリカから入ってきたプロテスタント各派で、カリスマ的宗教指導者を崇めるシャーマン的教団に選民思想が強い。
 民族的選民思想を心情的に支える精神的支柱として、キリスト教が選ばれて国教化した。
 韓国人は、奇跡的な経済発展を遂げた事を、国を持たずに世界経済で隠然とした影響力を持つユダヤの民と同じように、絶対神に選ばれた民族であると信じた。
 つまり。絶対神に愛され選ばれたという面で、韓国民族はユダヤ民族と相通じる所が多くあると。
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 韓国は、男尊女卑の儒教価値観で雁字搦め拘束されている為に、女性には人権が認められていなかった。
 韓国女性は、女性蔑視の儒教から解放される為にキリスト教に改宗した。
 韓国は、日本よりもキリスト教徒に改宗する者が多い。
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 現代の韓国キリスト教会の特徴は、献金優先主義で、「献金を捧げた人だけが救われて天国に行ける」と教えた。
 そして、拝金主義から、教団は集めた豊かな資金を利用して営利目的の企業を経営している。
 資金繰りが苦しくなった教会は、宗教新聞に教会と教会員をまとめて売り出した。
 教会に於けるミサは、シャーマニズムを取り入れ恍惚状態で執り行われた。
 教会は、献金してくれる教会員を増やす為に、韓国だけではなく日本でも熱心に布教を行っている。
 韓国のキリスト教会と日本のキリスト教会は、別物である。




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