☰33〕34〕─1─李氏朝鮮王朝内紛が、極東アジアの戦争の原因となった。明治新政府の国書。~No91No.92No.93No.94 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 「雌鳥(めんどり)が鳴くと家が滅ぶ」
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 東アジアにける不安材料は、朝鮮半島内の権力闘争であった。
 日本の安全保障は、古代から現代に至るまで、朝鮮国内の権力闘争によって絶えず脅威に晒されていた。
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 朝鮮人は、南方系海洋系アジア人の日本人とは違って北方大陸系アジア人であり、日本人のような混血児による雑種民族ではない。
 韓国人・朝鮮人は、日本人とは違って、背が高くすらりとして、足が長く、顔は細面で美男美女が多い。
 朝鮮人の祖先は、北方系草原民で海を知らない。
 日本人の祖先は、南方系海洋民と北方系草原の民さらに南方系海洋民と揚子江流域民など幾つもの種族が混じり合った、雑種、混血である。
 日本の先祖は、殺し合いが絶えない地獄のような陰惨な中国大陸や朝鮮半島が怖くなって、日本列島に逃げ出した。
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 明治維新とは、ロシア帝国の侵略から日本を守る強力な軍隊を持つ為の国家改造であった。
 日本がロシア帝国の侵略から祖国を守る為には、朝鮮が事大主義と小中華思想を放棄し、中華帝国(清国・中国)の属国から独立して、自立国家として日本と攻守同盟を結ぶ事であった。
 日本の存亡は、朝鮮が親日国家として味方になってくれる事であり、反日として大国のロシア帝国や清国に走るのを是が非でも食い止める事であった。
 後のカイロ宣言は、日本の国家戦略を大陸侵略の口実であるとして完全否定した。
 明治時代の国家戦略は、ロシア帝国の侵略から如何に日本を守るかであった。
 大正時代と昭和時代前期は、ソ連共産主義から国家元首天皇と祖国を如何なる犠牲を払っても守る事であった。
 天皇を中心とした国體護持が、日本軍国主義の使命であった。
 天皇を中心とした国體は、2000年以上の長い歴史を持った、日本民族が守り受け継いできた伝統文化であり土着宗教であった。
 日本の伝統、文化、宗教、習慣、風習。良心。道徳、思いやりなどを守る為には、天皇を中心とした国體を、如何なる犠牲を払っても死守する必要があった。
 ヤルタ会議やポツダム会議は、天皇を中心とした国體を守ろうとした日本軍国主義を人類に対する戦争犯罪として完全否定した。
 軍国主義国家日本は、国際社会から自国を守る事を完全否定された。
 軍国日本には、天皇と祖国と民族を守るという自衛権は一切認められてはいなかった。
 それが、東京裁判である。
 全ての原因は、ロシア帝国の南下政策、日本侵略が元凶であった。
 日本の軍国主義は、領土を拡大する侵略戦争を行う為のものではなく、侵略軍から祖国を守る防衛戦争を行う為であった。
 サンフランシスコ講和条約は、日本の防衛戦争を理由の如何に問わず完全否定した。
 日本の安全を脅かすのは、朝鮮・中国・ロシアの三ヶ国であった。
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 1863年 第25代哲宗(1849〜)は、嗣子を定めず崩御した。
 後継者候補となる王族のほとんどが政争に巻き込まれて殺されて、次期国王となる王子がいなかった。
 第24代憲宗(1834〜49)の王母・趙大妃は、第21代英祖(1724〜76)の玄孫にあたる李昰応の子供である11歳の李命福を次期国王に任命した。
 保守派重臣等は、没落王族として極貧生活を送っている李昰応は扱いやすく、幼少の李命福は傀儡として操作できると判断して同意した。
 父親の李昰応は、第16代仁宗の三男から枝分かれした傍系で、国王を輩出する王族宗家から離れていて正統性が認められないなかった。
 李命福は、孝明世子の養子として新国王に即位した。第26代高宗(1863〜1897)である。
 孝明世子は、第23代純祖の王位継承者であったが早世した為に国王には即位できなかった。
 10月 李氏朝鮮は、清国皇帝の勅使を漢城に迎え、郄宗の冊封儀式を執り行い正式に朝鮮国王となった。
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 李昰応は、国王の父として大院君との称号が与えられた。
 大院君は、権力を手に入れるや、中国同様に能力主義実力主義を導入して、政治に絶大な権力を振るっていた安東金氏一派を追放した。
 私利私欲による、新たな勢道政治の始まりである。
 朝鮮は、最大の徳目を「忠」ではなく「孝」に置き、忠義より孝行を道徳の要としていた。
 国王は、実父の言う事には、政治に害を及ぼし、庶民を苦しめると分かっていても、「親孝行」として逆らわず従っていた。
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 1866(慶応2)年10月 北京駐在のフランス公使ペロネーは、フランス人宣教師を殺害した朝鮮を懲罰する為に艦隊を派遣した。第1回目は、軍艦3隻。第2回目は、7隻。
 朝鮮軍は、二度にわたって侵入してきたフランス艦隊を撃退した。
 朝鮮軍は、200年以上昔の武器と戦法で、近代的装備をしたフランス軍を撃退して完勝した。
 朝鮮は、フランスに大勝した自信から傲慢となり、日本の様に開国し近代化しないと西欧列強の植民地にされるという危機感を持つ事がなかった。
 後にその自信から、西洋文明を受け入れ、西洋列強の猿真似をして、朱子学に基ずく祖法を捨てた日本を下等な野蛮国と軽蔑した。
 朝鮮の近代化と近代的国民国家への発展ができなかったのは、フランスとの戦争に勝ったという成功体験に囚われ、世界史的潮流に順応して社会を変化させるという柔軟性を軽視したからである。
 摂政興宣大院君は、外国軍に勝利した事で自信を持ち、強硬な鎖国攘夷政策を徹底させた。
 全国民に鎖国攘夷思想を徹底する為に、朝鮮八道の主な町に「斥和碑」の石碑を建てた。
 朝鮮軍は、アメリカ船籍の民間商船ジェネラル・シャーマン号(大型帆船)が通商を求めて平壌に来航したところを、奇襲攻撃をして撃沈し、20名の乗務員全員を虐殺した。
 徳川幕府は、隣国の誼として、欧米列強と戦う事の危うさを忠告する為に使節を派遣した。
 大院君は、フランス艦隊に続いてアメリカ船籍も撃退した自信から、欧米列強に屈服した下位の日本を軽蔑した。西洋文化を受け入れた幕府からの使節を、受け入れる事は国土の汚れになるとして気乗りがしなかった。
 使節は、大政奉還で幕府が崩壊した為に途中で引き返した。
 大院君は、閔氏一族で両親を亡くし兄弟のいない14歳の娘を王妃として冊封、次男の高宗にあてがった。その娘が、閔妃である。
 高宗は、閔妃の一歳年下であったが、女好きで、若い時から女と酒で享楽の生活で堕落していた。父親の大院君に反発して、大院君が押し付けてきた閔妃を相手にせず、後宮の側室にうつつを抜かしていた。
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 朝鮮の「衛正斥邪」は、中華思想華夷秩序に基ずく中世的王朝中心体制の存続でり、民衆の福利厚生は問題外として排除されていた。よって、近代的な国民国家を目指すというよりは、民衆の権利を否定していた。
 日本の「尊皇攘夷」は、天皇中心の近代的国民国家の建設に向かった。
 朝鮮人人口の、半数が特権を持った両班で、残りが姓を持たない極貧生活を強要されている農民や奴卑であった。
 当然、姓のない農民や奴卑は族譜を持ってはいなかった。
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 1867年1月 第121代孝明天皇崩御して15歳の睦仁親王が即位し、元号が明治と改められる。長州を嫌う孝明天皇の突然の急死で、薩長倒幕派公家による暗殺説が流れた。
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 日本は、西洋列強の植民地にされる恐れがあった為に、自立した国家として発展し、自主独立を保とうとした。
 国内に於いては、富国強兵と殖産興業と教育の近代化の為に国内の反対派を押させた。
 国外に於いては、ロシア帝国の侵略に備えて、朝鮮と対等での同盟関係を築こうとした。
 西洋列強の侵略に晒されていた日本には、悠長に構えていられるほど時間的余裕はなかった。
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 1868年明治新政府は、朝鮮王朝に隣国として政権が代わった事を知らせる為の国書を送った。 
 李氏朝鮮は、国書の文言に「皇祖、皇上、皇室、奉勅」を使用している事に無礼であると激怒して、字句の訂正を要求した。
 朝鮮国王にとって、中華皇帝しか使用できない「皇と勅」のある国書を受理する事は、天皇の臣下である事を認める事になるので拒絶した。
 明治政府と清国政府は、日本天皇と中華皇帝の名で、対等関係で日清修好条規を結んだ。
 よって。日本が、清国の属国・臣下である李氏朝鮮に対して「皇」や「勅」の字を用いる事は何ら問題はなく、李氏朝鮮宗主国・清国に対する儀礼として当然の事であった。
 李氏朝鮮が、宗主国・清国への義理立てとして、「皇」や「勅」の文字がある外交文書は受け取らないとして突き返した事は、情勢判断ができない愚行であった。
 日本天皇を否定する事は、日本天皇と対等関係を認めた中華皇帝の権威を否定する事になる。
 清国の属国・臣下にすぎない李氏朝鮮が、中華皇帝と同格である日本天皇と格下と見下す事は、中華秩序の破壊を意味する。
 事実。極東アジアの戦乱は、この李氏朝鮮の現状を認識できない勘違いから始まった。
 儒教的高度な教養を持つ両班達も、宗主国への忠誠から、字句に関して神経質に意固地になっていた。
 日本政府は、西欧列強の侵略に対抗する為に、李氏朝鮮との国交正常化を切望した。
 李氏朝鮮は、西欧列強の侵略は自力で粉砕するという意志から鎖国政策を続け、西洋に屈した新生日本との国交回復は望まなかった。
 日本は、李氏朝鮮が、対等関係での修交通商条約に応じてくれるまで、焦らず、辛抱強く話し合いで解決するべく交渉を続けた。
 日本と朝鮮の不幸は、こうして始まった。
 正統派儒教における華夷秩序とは、上位が中国で、中位が朝鮮で、下位が日本であった。
 中国と朝鮮の面子は、日本との対等を認めない事であり、日本との平等を否認する事であった。
 側室の李尚君が高宗の第一王子を生み、大院君は初孫の完和君を溺愛した。
 オッパート(オッペルト)のゲレタ号事件。 フランス人宣教師フェロン神父は、大院君のキリスト教弾圧で上海に逃れた。
 フェロン神父は、朝鮮で安心して布教活動をするにはヨーロッパ人の租界を作るしかないととして、出資者や同行者を募った。
 フェロン神父の計画は、孝行を第一の徳目とする儒教価値観を逆手に取って、大院君の父親・南延君(ナミヨング)の墓所を暴いて遺骨を強奪して人質とし、遺骨を返す代わりに土地を要求するというものであった。
 ドイツ人オッペルトとアメリカ人メラーらが、キリスト教を広めるという神聖な使命に感動して参加し他国籍遠征隊が組織された。
 フェロン神父ら遠征隊は、二隻の帆船に乗船して朝鮮に向かった。
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 1869(明治2)年 朝鮮北部で大飢饉が発生し、大量の朝鮮人被災者が満州へ移住した。
 清国は、あまりの数の多さからやむなく朝鮮族自治区を設けた。
 地元の満州族は、自己中心的で傲慢な朝鮮人移住者を嫌って差別した為に、両者の間での紛争が絶えなかった。
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 1870(明治3)年7月 日本外務省は、清国人(中国人)が国内諸地方で貧民から小児を奴隷にする為に買い取っているとの情報を得て、各港に調査を命じた。
 神奈川や長崎から、そうした事実が報告された。
 岩波新書『人身売買』。
 10月 明治新政府は、朝鮮面子に配慮した新たな国書を持たせて遣韓使節を派遣した。
 朝鮮王朝は、徳川幕府との親善を希望し天皇中心の明治新政府との親善を拒否する為に、1年以上日本からの正式な使節団を放置した。
 森山茂は、国書に対する賛否を出さず外交使節団を放置するは、国家に対する侮辱であると激怒して帰国した。
 日本政府内に、侮辱に対する制裁を加えるべしと言う軍事的征韓論が沸き上がった。
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 1870(〜71)年 普仏戦争。フランス、ドイツ両軍は、下士官以上の者には夫人若しくは愛人同伴を認め、性の相手以外に兵士の洗濯や軍服修繕や治療・看病の為に売春婦を軍隊に帯同させていた。
 各国の軍隊では、戦闘による死傷者より性病患者が増えて作戦に支障をきたしていた為に、軍隊専用の売春婦を連れて転戦しなければならなかった。
 医学研究の成果として、1879年に淋病が、1889年に軟性下疳が、1905年に梅毒の菌がそれぞれ発見されたが、治療方法はまだ分からず、感染対策は感染しない事であった。
 1871年 プロイセン国王ヴィルヘルム1世は、カトリックバイエルン王国バヴァリア王国)など周辺の王国・公国とドイツ語を統合根拠としてドイツ帝国を建国した。
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 1871(明治4)年 閔妃は、男子を出産したが数日で死亡した。嫉妬に駆られた閔妃は、秘かに数人の側室を冤罪で逮捕して拷問にかけて高宗から遠ざけた。そして、政治力を付ける為に閔氏一族を政府や宮中の要職に送り込んだ。
 7月 辛未洋擾(シンミヤンヨ) アメリカは、朝鮮が起こしたアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号襲撃撃沈事件に対して、損害賠償と通商を求める為に5隻の軍艦を派遣した。
 朝鮮軍は、通商交渉で油断しているアメリカ軍艦を襲撃した。
 アメリカ軍は、報復として江華島を武力戦占領して朝鮮人兵士を殺害し、武力を見せ付けて開国を迫った。
 朝鮮軍被害は240人。アメリカ軍被害は怪我人だけであった。
 大院君は、ノラリクラリと交渉を引き延ばした。
 1ヶ月後。アメリカは、真面な外交交渉ができないと呆れ果て、開国させる事を諦めて撤退した。
 大院君は、アメリカとフランスの両国艦隊を撃退し両国上陸部隊を敗走させた事で、自国の防衛力に自信を強く持った。さらなる欧米列強の侵略に備えるべく、軍備を増強する為に全国民に大増税を行った。
 そして、王家の権威を高める為に焼失していた正宮・景福宮を再建した。
 地方役人や両班は、税金を不正に搾取して私腹を肥やして、困窮する庶民をさらに貧困に追い込んでいた。
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 1871年と72年にかけて、朝鮮半島を大旱魃が襲い、国土は荒廃し、不衛生な生活環境でコレラやペストなどの疫病が蔓延した。農業生産が低下し、飢饉となり貧困層から多くの餓死者が出た。
 王侯貴族や政府高官達は、庶民を救済するどころか重税を課して、贅沢三昧の生活を送っていた。
 何時の時代でも、王家や王族による浪費で国家財政は火の車であった。
 中央の高官から地方の役人までが、王朝の堕落に付け込んで、国家に納めるべき税金を横領して私腹を肥やしていた。
 農民層から税を取り立てる地主や両班は、自分達の取り分を多くする為に割り増しいて税金を集めた。払えない農民には、相手が生き様が死のうがお構いなしに、暴力的にむしり取っていった。
 朝鮮軍は、農民達が堪りかねて暴動を起こせば情け容赦なく鎮圧した。
 官憲は、暴徒に参加した農民や不平を漏らした者を逮捕し、拷問にかけ、見せしめに処刑した。
 地獄の様な貧困生活を強制された貧民にとって、王朝文化を満喫する支配層は人の生き血をすすり人の肉を喰らう鬼であった。
 正統派儒教を絶対価値観とする上流階級にとって、身分卑しい庶民は虫ケラと同等にしか見てをらず、幾ら死のうが気にもとめなかった。
 貧困に喘ぐ下層階級の地獄は、東アジアの避けられない宿命であった。
 シャルル・ダレ神父「朝鮮国王は、中国や日本からの食料買い入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ」(『朝鮮情報』)
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 山東省や河北省などの中国人が、仁川辺りを占領して清国租界を形成した。
 日韓併合によって、仁川チャイナタウンに移り住む華僑が急増して1万人以上となった。
 当時の朝鮮人と中国人は仲が悪く、トラブルが絶えず、朝鮮総督府の悩みの一つであった。
 韓国が、中国と国交断絶し華僑弾圧政策を行って、仁川チャイナタウンは衰退していった。


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福沢諭吉と日本人 (角川文庫)

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