☰35〕36〕─1─征韓論。日朝修好条規(江華島条約)。華北の大旱魃。親日派の金玉均は開化派を旗揚げした。明治5年~No.95No.95No.96No.97 @ 

   ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 地獄の様な朝鮮王朝。朝鮮官吏は貪官汚吏で、賄賂と不正で私腹を肥やし、悲惨な庶民を救済せず、血にまみれた陰謀に明け暮れていた
   ・   ・   ・   
 明治神宮明治天皇松陰神社吉田松陰靖国神社)、南州神社の西郷隆盛、束荷神社の伊藤博文福沢諭吉らは、日本では人気のある歴史上の偉人ではあるが、韓国・北朝鮮では極悪人であった。
 日本でも、彼らを嫌う日本人がいる。
   ・   ・   ・   
 シャルル・ダレ(1829〜78)「朝鮮王国は、新しく交替するたびに、特使を遣わして皇帝にその即位の認証を求めねばならない。特使は、王家に関する事、朝鮮で発生した主要事件について、全て報告しなければならない。反対に、殆どの中国人使節が宮廷の品階では朝鮮国王より上位にいる為に、朝鮮国王は、使節を迎える時はソウル場外に出て謹んで敬礼をしなければならない」
「漢文で書かれた様々な朝鮮史の本は、それらを一読した人によると、誇張された朗読用のテキストに使われる為、多かれ少なかれ想像上の事実の雑多な寄せ集めに過ぎないと言う事である。朝鮮の学者たち自身も、これらの文献に何らの信用も置いておらず、また決して研究対象にする事もない、中国の歴史書だけを読む事にしている。……学者達はといえば、それ(朝鮮の歴史)を聞いて見る事さえ恥辱だと思っている」(『朝鮮事情』)
 儒教価値観の朝鮮人は、中国史や中国の古典を読んで中国に憧れ、国際語である中国語を覚え、野蛮な古代朝鮮姓を高度な文化的な中国姓に創氏改名した。
 朝鮮人に生まれた事を憎み、朝鮮の歴史には興味が無かった。
 中国人になる事を夢見て、中国への併呑を希望していた。
 中国歴代帝国は、周辺諸国を侵略して領土を拡大したが、朝鮮を領土とする事なく属国として見下していた。
   ・   ・   ・   
 日本は、大陸に領土を拡大する為に朝鮮半島を侵略する意思はなく、むしろ朝鮮がロシア帝国の侵略を食い止める緩衝地帯として独立国してくれる事を望んだ。
   ・   ・   ・   
*日朝修好条規(江華島条約)  
 1872(明治5)年 日本政府は、薩摩と清国との両属関係にあった琉球王国を日本領とする為に琉球藩を新設し、琉球王国尚泰王を強引に藩王として華族に列した。
 清国は、琉球に対する宗主権を主張して、日本領とする事に猛反対した。
 琉球の支配層や知的エリートも、宗主国清国への義理から、小国日本への編入ではなく軍事大国清国への帰属を希望した。
 琉球の庶民も、永年続いてきた薩摩・本土人の横暴な支配からの解放を願って、文化度の低い日本より同じ儒教価値観を共有する清国への編入を支持した。
 朝鮮人貧困層は、朝鮮族が多く住む満州・間島地域に移住した。
 清国は、朝鮮人満州人化する為に、定住するなら弁髪や易服を受け入れて帰化する事を強要した。
 朝鮮人移住者は、命じられるままに帰化して中国人の小作人になる者、帰化を拒否して朝鮮に帰国する者、帰化も帰国も嫌ってさらに奥地へ移り住む者等々、それぞれの選択をした。
 西郷隆盛は、日本の最大の脅威であるロシア帝国のアジア侵略状況を探るべく、部下達を極秘に清国や朝鮮に派遣した。
 西郷隆盛は、勝海舟と同じ、対露戦略としての日清朝3国提携論者であった。
 1月 明治新政府は、ロシア帝国に対抗するには隣国・朝鮮との善隣は不可欠であるとして、再度の正式使節を送った。
 朝鮮は、友好を求めるのに軍艦を派遣した事に激怒した。
 朝鮮の高官達は、目の前の日本しか見ず、背後に迫っているロシア帝国から目を逸らしていた。
 6月 日本の使節は、何の成果もなく、むなしく帰国した。
 朝鮮は、日本は目下の教養なき野蛮国と見下し、外交交渉の主導権は朝鮮側にあるとして、「大事は10年後、緊急は67年後」という日本を馬鹿にした返書を渡した。
 そして、旧例を墨守して対馬を通じてのみ外交交渉を受け付けるとした。
 朝鮮は、対馬を日本領と認めていた。
 8月 日本政府は、外交交渉は外務省に完全に移管され、対馬を通じて交渉は私交であり無効であると通告した。
 朝鮮は、対馬に立て替えてあった借入金の全額弁償を求めた。
 日本は、要求された金銭を支払う事を申し込んだ。
 朝鮮は、天皇の支配する政府からは受け取らないと態度を硬化させ、対馬もしくは幕府からなら受け取ると返答した。
 制裁処置として、外交館として利用している釜山の倭館への食糧や薪炭などの必需品の納入を止めた。
 日本は、朝鮮を刺激しないように配慮して、対馬通じて日用必需品を送り込んだ。
 朝鮮は、密輸入と激しく抗議し、倭館に「形を変え、俗をかえたのは日本人とは言えない。日本は不法の国だ。往来を許さない」という伝令書を交付し、倭館の沖合で水軍の調練と発砲で威嚇した。
 侮辱した伝令書が、日本にもたらされた。
 朝鮮の世界観には、中華世界しかなかった。
 朝鮮は、清国に代わって日本を中華思想に基ずく華夷秩序に組み伏せようとしていた。
 中華帝国が世界に中心で上位国とし、日本は世界の外れにある下位国とし、朝鮮は真ん中にある中位国とした。
 日本は、国際情勢を注視し、朝鮮の向こうに迫っているロシア帝国の脅威に警戒していた。
 朝鮮は、国際情勢が理解できず、後ろに迫っているロシア帝国より目の前に日本のみを見ていた。
 日本は、朝鮮は国力がない極貧国でありながら、時流を見ず面子に拘って虚勢を張り、思慮分別のない子供じみたこけおどしの策略を行っているとして嫌悪していた。
 幾度も礼を尽くして対話を呼び掛けても、そん都度非礼で返され、悪態を付かれ罵声を浴びせられるだけで、これ以上の配慮は無用であるとし、軍隊を派遣して武力で修好条約を結ぶべきだと訴えた。
 軍事的征韓論である。
   ・   ・   ・   
 日本と朝鮮の間には、友好関係など存在していなかった。
 李氏朝鮮は、儒教的価値観に基ずく上から目線で、下賤の出身で朝鮮を侵略した豊臣家を滅ぼしてくれた功績を称えて、徳川家康との限定的通信を許可した。
 儒教中華思想における世界観では、世界の中心に中華帝国があり、近くに臣下の礼をとる属国の朝鮮があり、遠くに文化度の低い野蛮な日本がある、とされていた。
 儒教を信奉する朝鮮は、野蛮な日本との対等な関係を拒絶し、中華思想に基ずく上下関係で見下していた。
 徳川家を滅ぼして日本を奪った日本天皇とその一味を忌むべき盗賊団と見なし、中華世界の絶対的華夷秩序を破壊するおぞましい獣として、日本人の顔も見たくなければ、日本天皇からの国書や書簡を受け取る事さえ汚らわしいと嫌悪した。
   ・   ・   ・   
 1873年 大院君は、王家の権威を高めるべく王宮の再建を断行し、庶民に重税を課して、両班の免税特権を撤廃した。
 特権を奪われる守旧派は、大院君の改革に猛反対した。
 閔妃は、大院君を失脚させて実権を握る為に陰謀めぐらした。
 王の副秘書官であった崔益鉉は、高宗が満20歳に達した事をきっかけに国王親政を始めるべきだとして、大院君弾劾上疏を提出した。
 先王妃の外戚であった趙氏一族は、要職を得る為に閔妃の企てに協力した。
 郄宗は、実権のないお飾り国王に嫌気をさして、大院君から実権を取り戻すべく親政を宣言した。
 大院君は、閔妃の宮中クーデターで失脚したが、息のかかった部下をそのまま役職にとどめて影響力を維持した。
 閔妃は、外戚による勢道政治を始め、政府や王宮から大院君派を追放し、秘かに殺害した。全土で、閔妃派による反対派に対する粛清が行われ大量の血が流された。
 閔妃による恐怖政治は王宮内にもおよび、高宗の側室の大半が不慮の死を遂げた。 
 守旧派は、祖先からの鎖国政策を維持する為に、朝鮮を西洋文明で近代化しようとする開化派と激しく対立していた。
   ・   ・   ・   
 近代軍隊として創設された別技軍は、待遇への不満から爆発し大規模な叛乱を起こした。
 失脚していた大院君は、これを復権の好機と捉えて兵士を扇動し、暴徒を従えて王宮に乗り込み、兄である李最応(イチェウン)を殺害した。
 郄宗は、事態を収拾するべく大院君を公務に稟決させる旨の命令を下した。
 大院君は、再び政権の座に就いた。
   ・   ・   ・   
 朝鮮国民の反日感情が異常なほどに高まっていた。
 朝鮮政府は、民意に従い対日強硬策を貫き、倭館に「日本は夷狄(いてき)に化す。禽獣と何と分かたん。我が国人にして、日本人と交わるものは刑に処す」とのお触れを張り、国際法を無視して出入り禁止の軟禁状態に起き食料の供給を遮断した。
 知日派朝鮮人官吏は、「ここにいたら、そのうち殺されてしまう。帰れ」と忠告した。
 日本政府の代表であり明治天皇の名代である日本人外交官は、命に代えても名誉と体面を守る為に踏み止まっていた。
 森山茂は、朝鮮政府の公布を持って急いで帰国し、報告した。
 勝海舟は、幕府時代から興宣大院君との繋がりを持っていた為に、両国の関係悪化を打開する道を模索していた。 
   ・   ・   ・   
 副島種臣は、南の護りとして台湾問題を解決するべく清国に赴いた談判した。
 清国は、騎馬民族として海の外には関心がなく、台湾は化外の地として突き放した。
 2月 副島種臣外務卿は、前々年に起きた宮古島島民遭難事件処理交渉の為に特命全権公使として北京に赴き、日清修好条規批准書の交換と同治帝成婚の賀を述べた国書を奉呈した。
 清国は、属国の使者に求める三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼を要求した。
 副島種臣外務卿は、日本と清国は対等国であり、自分は明治天皇に任命された日本の外務卿である以上、如何に慣例とはいえ屈辱的な礼はとれないとして拒絶した。
 清国は、アジアの大国としての面子を踏みにじられた。
 かって。イギリスの全権使節は、清国と国交を結び交易を希望しても、国家元首・イギリス国王の名誉を汚す事はできないとして帰国した。
 人間としての尊厳を守ろうとする大人は、理性的な行動として、利よりも名誉を重んじた。
 現実主義義者として、富・金の為に名誉を捨て去る者は教養なき人間として軽蔑された。
 貧しても誇りを捨てない、それが教養であった。
 9月 征韓論西郷隆盛は、持病に近い精神的病気の為に気弱となり「自殺願望」に取り憑かれていた。
 武士は、名誉ある死、有意義な死、後世に名を残す様な死に場所を求め、無意味な死、無駄な死、馬鹿な死、犬死にを嫌った。
 そうした納得できる死に方をするのであれば、死体を野に晒し、腐敗して朽ち果てようと、鳥や獣に食われようとも意に介さなかった。
 日本神話に描かれた黄泉国の情景から、類い希な絶世の美女・小野小町であっても死ねば、その骸からウジがわき、腐敗して崩れて白骨化する、という死生観を持っていた。
 どうせ捨てる命ならば、明治天皇の為御国の役に立つ死に方を望んで、朝鮮問題にのめり込んだ。
 明治維新の為に死んでいった仲間の事を想うとき、生きながらえた事への「申し訳ない」という忸怩たる想いがあった。
 朝鮮に使節として赴き、朝鮮人に殺されるか、交渉に失敗し帰国せずその責任で自決するか、その二つを考えていた。
 大久保利通は、西郷の死への願望が分かるが故に、西郷を殺さない為に猛反対した。
 毛利敏彦大阪市立大学名誉教授)「西郷が閣議などの公の場で征韓を主張した事を示す確実な史料は発見されていないし、これが士族の為に征韓をはかった事を直接に立証する史料も見あたらない。……
 この文書(明治6年10月15日の「始末書(意見書)」)で西郷は、朝鮮国に対する強硬態度や戦争準備を批判するとともに、使節を派遣して『是非交誼(こうぎ)を厚く成され候御趣意貫徹いたし候様』にすべきであると力説している。つまり、道義的・平和的交渉による朝鮮国との修好論であり、征韓論とは、正反対の主張と言えよう」
 10月 明治6年の政変。征韓論派の西郷隆盛(西郷神社)や板垣退助(自由民権派)は、大久保利通ら内政優先派に敗れて下野した。
 桐野利秋は、西郷隆盛の国防論を聞き書きし『東亜構兵論』にまとめた。
 西郷の征韓策とは、ロシア帝国に対抗する為の自衛で領土拡大ではなかった。
 朝鮮と満州を計略する為に、平壌に軍隊を送るべきだと。
 副島種臣は、北の護りとして朝鮮は重要であるとして、仁川に軍隊を上陸させ直接漢城を攻める事を献策した。
 西郷隆盛副島種臣の計略は、朝鮮戦争時のマッカーサーの戦術と同じであった。
 10月15日 西郷隆盛の意見書「派兵は決して決して宜しからず。公然と使節を派遣するべきだ。もし朝鮮側が戦(いくさ)をもって拒絶しても、相手の真意はっきりするまでは交渉を尽くさなければならない。使節に対し暴挙に及ぶのではとの疑念から戦争準備をしておいて使節を派遣するのは礼を失する。そんなことをせず、両国間の交誼(こうぎ)を厚くするという趣意を貫きたい」
 毛利敏彦「西郷お得意の紛争解決方式は、まず強硬態度を表明し、併せて実力行使への周到な準備をも整えながら、交渉による解決の可能性を徹底的にさぐり、土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるといったやり方」
 大久保利通は、内政重視で近代国家建設を優先しながらも、事なかれ主義的に李氏朝鮮の日本天皇への無礼を放置する事は国際的威信を損なうと考えていた。
 西郷隆盛板垣退助征韓論派が主張する武力とは、不平士族の事であった。
 大久保利通が考えていた武力とは、西洋列強の軍隊と同じ近代的な国民皆兵による軍隊であった。
 国際的に見て、近代軍事教練を受けない不平士族軍は私兵か暴徒の徒党と見なされる危険があった。
 つまり、外交交渉の一手段として天皇の軍隊・国軍を派遣する事にした。
 安藤優一觔「当時、西郷は明治天皇から医師を派遣されるほど体調が悪く、自身最後の仕事としてあくまでも平和的に外交問題を解決しようとしていたのです。しかし、留守政府において影響力と依存感を増していた西郷を、大久保利通岩倉具視らは面白く思っていなかった。彼らの強硬な反対に遭った西郷は、身体的・精神的に不安定だったこともあり、生来の血気盛んな性格が前面に出てしまい、西郷をはじめとする参議5人らが下野する政変へと追い込まれたのでしょう」
   ・   ・   ・   
 1874年 西郷隆盛は、鹿児島を訪れた旧庄内藩士に、今そこまで迫っている日本の危機を熱く語った。
 「今の情勢では、ロシアとの戦争は避けられないであろう。その軍略として、北海道を防衛するだけではロシアに対抗できない。むしろ朝鮮問題を解決し、日本が沿海州方面に進出して北地を防衛し、英国と提携して事に当たればロシア恐れるに足らず」
 西郷隆盛の対露戦略は、清国が満州を、朝鮮がロシア国境を、それぞれ武力で守る事を前提としていた。
 閔妃は、第二子の王子を生み、拓と名付けられた。最後の国王、純宗である。
 大院君は、復権を目論んで、第一王子の完和君を王世子に冊封してもらうべく、宗主国清国に根回しをした。
 閔妃は、対抗処置として、日本から清国に第二王子李拓を後継者として推薦する事を交換条件として、日本との修交交渉に応ずると内密に伝えた。
 日本は、台湾に漂着した沖縄漁民が現地人に惨殺された事に抗議して、自衛権の行使として台湾に軍隊を派遣した。
   ・   ・   ・   
 1875年9月20日 江華島事件。森山茂「韓国得意の外交手段に翻弄された我が内閣の迷夢はここにおいて始めて醒めた」
 日本軍艦雲揚は、朝鮮沿岸で測量した後に、飲料水を得る為に江華島に近づいた。江華島砲台は、接近する雲揚を砲撃した。雲揚は、反撃して砲台を破壊し、永宗城を占領した。
 国際法上。民間船でも軍艦でも、飲料水が欠乏した場合には最寄りの国の港に立ち寄り補給することが認められ、給水を求められた国は敵国でなければ飲料水を分ける事が義務付けられていた。
 朝鮮側の発砲は、国際法違反であった。
 イギリス、フランス、アメリカは、日本軍艦が行った水路測量は合法行為であり、朝鮮が砲撃して攻撃した事は不法行為で、日本軍艦の反撃は正当防衛と認めていた。
 アメリカの一部の専門家は、責任は朝鮮にある以上、朝鮮は日本に賠償するべきであると公言していた。
 閔妃派は、事件の責任を事大派(守旧派)に取らせるべく、政府や宮中内の大院君派を逮捕し、拷問の末に処刑するか流罪に処した。
 閔妃は、大院君が鎖国政策を推進したことに対抗して開国政策を採用した。
 中国至上主義の守旧派は、祖法に対する裏切り行為であると猛反対した。両班も、衛正斥邪論を支持し、侵略者・日本と戦っても不当要求を拒否すべきであると主張した。
 日本は、李氏朝鮮が自主独立国として外交権を持っている事を条件として江華島条約を結んで、朝鮮を強引に開国させた。
 日本が望んだのは、朝鮮を儒教華夷秩序から独立させ、中立を守らせる事であった。
 日朝修好条規「第一款。朝鮮国は自主の邦にして、日本国と平等の権を保有せり」
 アメリカ、イギリス、ロシアなども、朝鮮を中国の属国とは認めず、独立国と認めて条約を締結して半島に進出した。
 清国は、宗主国としての面子を潰された。朝鮮の自主独立を食い止める為に、政治・経済・軍事など多方面で内政干渉を強めた。
 朝鮮の一部の保守層は、日本の侵略を警戒し、同じ儒教価値観を共有する漢字文化圏の一員として中国への併合を希望していた。
 両国は、儒教をキーワードとして一体化しようとしていた。
 陸奥宗光朝鮮半島は常に朋党争闘、内訌暴動の淵叢にして事態のしばしば起きるは、全くその独立国たるの責守るを全うするの要素において欠くるあるに由ると確信せり」
   ・   ・   ・   
 日本と李氏朝鮮と交わした日鮮修好条規(江華島条約)は、日本側が武力で押しつけた明らかに不平等条約であった。
 しかし。不平等条約を持って日本を非難する者は、歴史を知らない、国際情勢が理解できない者である。
 重要なのは、李氏朝鮮は清国の半永久的属国であり、清国の意向を無視して独自の外交や国防ができなかった、という事実である。
 李氏朝鮮が清国と対等な立場・権利で外国と条約を結ぶ事はあり得ないし、清国が李氏朝鮮と同列に見られる様な事を絶対に認めなかった。
 日本が、清国と対等な立場で日清修好条規を結んだ以上、清国の属国として主権を持った独立国でない李氏朝鮮とは一段下がった条約を結ぶのが当たり前である。
 日本が李氏朝鮮不平等条約ではなく対等条約を結ぶには、李氏朝鮮が清国から独立し、清国が李氏朝鮮の独立を承認する必要があった。
 だが、李氏朝鮮は事大主義から独立を希望せず、清国は宗主国国として李氏朝鮮の独立を許す気はなかった。
   ・   ・   ・   
 朝鮮人の「恨」と「怨」は、中華帝国に対する超えられない羨望でも、漢民族の一員に迎え入れてもらえなかった悔しさでもなく、日本への嫉妬とコンプレックスから生まれたルサンチマンである。
 よって、それほど古い伝統的文化ではない。
 では、何時生まれたかと言えば、日朝修好条規からである。
 事大主義で、中華帝国の属国という安定した地位を、武力で強制的に独立国を認めさせられた事。
 小中華思想で、中華民族に次ぐ優秀な民族で文化度の低い倭族よりも上位にあるという差別的優越感を、対等な関係で条約を結ばさせられた事。
 つまり。中華世界の儒教価値観の華夷思想に基づき、日本と日本人に対して持っていた差別的優越感を踏みにじられたからである。
 「恨」と「怨」は、それだけの事でそれ以上でもなければそれ以下でもなく、奥が深そうに見えてもそれほど深くもない。
   ・   ・   ・   
 1876〜78年 華北の大旱魃。犠牲者は、900万人〜1,300万人。
 森有礼は、大久保内務卿の命を受けて天津領事館に救済業務所を設置し、7万人以上の被災者の救護に当たった。
 渋沢栄一岩崎弥太郎などの財界人は、明治天皇の大御心・御稜威に従って義捐金を出した。
 集められた多額の義捐金で、食糧などの多くの救援物資を購入し、中国人被災民の救済にあてるべく天津に送った。
   ・   ・   ・   
 1876年 アメリカは、日本同様に朝鮮が清国支配から独立する事を期待したが、朝鮮人による自主独立は不可能と判断するや、日本の対朝鮮政策を正当な外交と認め日韓合邦まで積極的に助言を与え全面的に協力した。
 明治新政府は、国際外交の現実を目の当たりにするにつれて、外交交渉とは表面的に二国間外交に見えても、裏では複雑な国際関係に基づく多国間交渉である事に気付いていた。
 木戸孝允は、法律外交顧問として、アメリ国務長官ウィリアム・スワードと昵懇の政治学者ペシャイン・スミスを招聘して国際法に則った日本外交を進めた。
 軍事力の弱い日本は、南下してくるロシア帝国の侵略から日本をどう守るかが緊急命題で、その線上に朝鮮独立問題があった。
 日本は、国をロシア帝国の侵略から守る為に多国間外交を展開するべく、アメリカに助言と協力を求めた。
 1月 明治政府は、朝鮮を独立させ対等な関係で条約を結ぶべく、清国と協議する為に森有礼特命全権公使として北京に派遣した。
 清国の李鴻章は、アジアの大国として小国日本を見下していたが、それ以上に、フランス人宣教師を虐殺したり外国船を砲撃したりと、国際法や国際条約を理解せず子供の様に分別なく暴れる朝鮮に手を焼いていた。
 森有礼公使は、江華島事件で日本側が受けた被害に対して朝鮮に代わって賠償を払う様に求めた。
 李鴻章は、属国・朝鮮の不法行為を認めて賠償金を払うと、フランスやロシア帝国が難癖を付けてくる可能性があるので、日本の真の目的である「朝鮮は自主独立国である」事を認めた。
 日本は、欧米世論を味方に付け、清国に朝鮮の独立を認めさせる事に成功した。
 清国は、対日・対露戦略から、何をするか分からない常識なき朝鮮をより強く管理・監督する為に、朝鮮国王の統治権を剥奪もしくは制限して直轄地化する事を考えていた。
 そして。東海の弱小国にすぎない日本が、中華帝国に対して対等に口を利きてた事で面子を潰されて激怒し、西洋の国際法を盾にして権利を行使してきた事に脅威を感じ何時かは滅ぼすべき仮想敵国とした。
 2月22日 日朝修好条約。朝鮮側の交渉担当の一人である呉慶錫は、国際情勢を見て現実的交渉にあたり、日本側の公文書に「皇」の文字があっても抗議せず、対立より親善を優先した。
 朝鮮は、開国した。
 呉慶錫は、朝鮮の近代化の為に有能な若者を集めて開化派を形成した。
 開化派に、金玉均や朴泳孝らが集まった。
 日本は、ロシア帝国の南下に備えて、両国の良好関係を強める必要から使節団の派遣を要請した。
 高宗は、保守派の反対を押し切って、112年ぶりに使節団の派遣を決めた。
 見物した日本人は、第一回修信使一行が江戸時代の通信使さながらの民族衣装で行進した為に、かって自分達が欧米人から嘲笑された事を忘れて思わず笑ってしまった。
 誇り高い朝鮮人は、面子が潰されたとして不快感を感じ、日本は文明開化の掛け声で夷狄の文化に毒された禽獣であると軽蔑した。儒教の聖人政治を理想とする保守的両班は、西欧の民主主義を取り入れた日本を倭夷と侮蔑した。
 清国は、日本が朝鮮侵略を企てる事を恐れて、朝鮮に対してアメリカやイギリスなどと同様の条約を結んで開国するように命じた。
 朝鮮は、国防を清国・中国に依存して軍事力を放棄していた為に、中国の属国となっていた。弱小国朝鮮は、外交も大国清国・中国の命令で決め、自主判断はなかった。
 軍事力を持たない国は、生殺与奪を大国に握られていた。
 儒教道徳を毒するものとして禁止され弾圧されてきた仏教とキリスト教が解禁され、国民は晴れて自由に信仰が許された。
 2月26日 日朝修好条規調印。両班や官吏登用試験(科挙)に合格した高級役人達は、中華帝国宗主国とし、中華皇帝に絶対服従し、中華世界の法律・暦・貨幣などを使用すべきとの立場から、中華から独立する事には猛反対した。
 修好条規・附録(付則)において、朝鮮国内における日本貨幣の使用。
 朝鮮の関税自主権を認めず、日本製品に輸入税をかける事を禁じた。
 8月24日 「朝鮮国議定諸港に於いて日本国人民貿易規則」の調印。
   ・   ・   ・   
 1877年 西郷隆盛は、篠原国幹への手紙で江華島事件を非難した。
 「朝鮮は日本が数百年来交際してきた国だ。維新以来、両国に葛藤が生じて5〜6年談判を続けている。なのに、全く交際のない同様に戦端を開いた事は誠に遺憾千万だ。」
 イギリス公使パークスは、アーネスト・サトウにに、日本国内にある民族差別を受けている朝鮮人部落の調査を命じた。結果、思った以上の被差別部落がある事がわかった。
 ゲットーに閉じ込めら差別されていたユダヤ人が、フランス革命によって解放され、社会に進出して金融資本家として成功した。
 明治維新によって、一部の野心的朝鮮人は、身分を詐称し日本人の名を名乗り、社会に出て、政治や経済などの分野に進出して成功を収めた。その才能がない朝鮮人は、被差別部落に取り残されて江戸時代以上の差別を受けた。
   ・   ・   ・   
 1879年 第二回修信使が、日本を訪問した。東京の清国公使館書記官であった黄遵憲は、正史金弘集に朝鮮が採用すべき外交政策についての助言を行った。それが、開化派と保守派の血みどろの抗争を生んだ『私擬朝鮮策略』である。
 朝鮮は、ロシアの侵略に備えて、清国と親しみ、日本と結び、アメリカと連携して国力を付けるべきであると訴えていた。
 守旧派は、依然として、儒教中華思想から「斥倭排洋」を訴え、反日運動を煽っていた。
 金玉均「日本の朝鮮に対する根本概念は開戦に非ず、侵略に非ず、征韓に非ず、唯だ提携し、協力し、以て支那の圧抑を排斥するに至を洞察し、又日本国民の親愛なる、信誼を尊重し、正義を好愛し、其の国と国民は現状打破を援護する唯一の友邦」
 日本は、朝鮮を中華思想による華夷秩序から分離して独立を与え、半島の中立を宣言させ、親日派政権と信義に基づく対等関係よる提携を望んだ。事大主義を打破し、朝鮮に近代的改革をもたらす為に開化派を支援した。
 閔妃派政権は、世道政治を初めて、政府や王宮に残っていた大院君派の粛清を始めた。
 官職を求める両班は、閔妃派有力者に賄賂を送る為に、支配地の常民から不当な搾取を行っていた。
 閔妃派は、連日連夜、贅を尽くした酒宴を開く為に国費を浪費し、さらに官職を高値で売った。役職がなくなるや、中立派役人を無実の罪で処刑し財産を奪って役所に空席を作った。
 若手を中心として有力官僚らは、朝鮮も日本を見習って近代化しなければ、世界から取り残され、西洋の植民地となり奴隷となるとの危機感から、開化党を組織した。
 儒教的価値観を共有する守旧派は、事大党として、中国を手本とし、中国と共に歩いてこそ朝鮮の未来があるとして譲らなかった。彼等のいう「大国」とは、欧米列強ではなく、中国のみを指していた。
 開化党と事大党の対立は深くなり、外交政策に深刻な混乱をもたらし、国際的に信用を無くす結果となった。
 日本政府は、琉球を日本領に組み込む為に軍隊を派遣し、廃藩置県を断行して沖縄県を設置した。日本領反対派を、武力を持って排除した。
 世に悪名高い、琉球処分である。
 琉球王国の全ての人が、日本との合併に賛成したわけではなかった。
 朝鮮は、日本の侵略政策に警戒した。
 清国は、アジアの盟主として琉球の宗主権を主張し、永年の慣例に従えば琉球は清国に帰属するが正当であり、日本領とする事は正義に反すると激しく抗議した。
 琉球の領有をめぐる日本と清国の激しい応酬が、新たな戦争のタネとして東アジアの平和を脅かし始めた。
 前アメリカ大統領のグラントは、両国の戦争を回避する為に調停に乗り出し、沖縄本島を日本領とし、宮古八重山先島諸島を清国領とする、分割案を提示した。
 清国は、日本に利があり清国に利がないとしてアメリカの調停案を拒否し、歴史的事実を踏まえて琉球全体の主権を主張して譲らなかった。
 琉球帰属問題は、日清戦争での日本軍の勝利で決着し、沖縄は正式に日本領とされた。
 日清戦争を日本の侵略とした場合、琉球=沖縄は中国領である事を認める事になる。
 同様に、下関条約を日本の横暴であるとして否定した場合も同様である。
   ・   ・   ・   
 1880年代終わり頃 G・W・ギルモア「朝鮮で疑う余地のない国家発展の障害物となっる伝統がある。それは言うまでもなく両班達である。たとえ自分の財産では暮らしを立てられないとしても、彼らは生計の為に肉体労働や生産活動をしてはいけない。両班は飢えて物乞いをするとしても、働く事はない。親戚の助けを受けるか妻が生計を立てる事があるとしても、両班は絶対にその手を土に付けてはならない」(『ソウル風物誌』)
   ・   ・   ・   
 1880年 清国は、対日戦略から、属国・朝鮮への宗主権の維持強化を図る防衛方針を打ち出した。
 日本の朝鮮進出を防ぐ為に、朝鮮に対して欧米列強との通商条約を結ぶ様に圧力を掛けた。
 外交と軍事を中国に頼る朝鮮は、攘夷運動で反日感情を盛り上げていただけに不満ではあったが、宗主国の命令とあっては逆らえず、鎖国から開国に国是を変更して欧米列強と通商条約を結んだ。
   ・   ・   ・   
 1881年 北洋大臣李鴻章は、新興国日本の大陸侵出に備える為に朝鮮への影響力を増大させた。 
 李載先事件。大院君は、政敵である閔妃の母親を爆殺した。
 朝鮮内の内紛は、周辺諸国を戦争に巻き込もうとしていた。
 王族である李戴先の部下が、閔妃を殺害し、宮中を占拠して父親の大院君を復権さる計画を立てた。計画は密告で露見して、李戴先ら関係者は逮捕され、拷問の末に反逆罪で処刑された。
 閔妃は、大院君の影響力の弱める為に、大院君派への弾圧を行い、惨たらしい拷問にかけておぞましい方法で処刑すか流罪とした。
 高宗は、閔妃の助言を聞いて大規模な軍制改革を命じた。
 閔妃派は、軍事を着服して私腹を肥やし、豪勢な宴会を連日行った。
 異常気象によって旱魃が発生して、農村部で大勢の餓死者が埋葬される事なく打ち捨てられ、都市部の米価が高騰して貧民は食べ物を失って餓えに苦しんだ。
 朝鮮政府は、庶民を小人と差別する儒教価値観から被災者の救済を本気で行わなかった。
 政府高官は、全国が疲弊し、国民が塗炭の苦しみにあろうとも、国庫から毎夜の宴会の為に大金を湯水の様に浪費していた。
 閔妃は、巫女信仰から、王世子の李拓の無病息災を祈って1万2,000の霊山に現金や食べ物を供えた。
 儒教的身分を強いられていた庶民は、政府の救済を当てにできず、両班や貪官汚吏に血の一滴まで搾取され続け、死ねば苦しみから救われるとして「これ天命」として受け入れた。
   ・   ・   ・   
 福沢諭吉らは、朝鮮を中国から独立させ、日本同様に近代化させるべく、有能な青年に学問を学ばせる為に奔走した。
 だが。自己中心の朝鮮人は、儒教価値観から横柄に構えて日本を下位者と見下し、両班の特権意識から無銭飲食や料金を払わずに商品を奪っていった。
 多くの日本人が、不法行為咎めると罪を認めず謝罪もせず、逆に半狂乱となって逆襲してくる異常さに辟易として朝鮮人嫌いとなった。
   ・   ・   ・   
 朝鮮は、日本人が鬱陵島竹島に不法に上陸して木材を伐採している事に対して抗議した。
 日本政府は、朝鮮との友好関係を悪化させかねないとして、朝鮮側の抗議を受けて3月1日に日本人の鬱陵島竹島への渡航禁止令を出した。
 朝鮮政府は、松島=竹島は日本領として黙認した。


   ・   ・   ・