☰39〕40〕─1─壬牛軍乱。朝鮮人暴徒は、日本の外交官や民間人を惨殺し、女性は強姦してから虐殺した。甲申政変。清国軍の大虐殺。明治15年~No.102No.103No.104No.105 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 反日的保守派による親日的開化派への猟奇的な拷問と陰惨な虐殺。
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 1880年前後。朝鮮は、またしても大飢饉に襲われ、至る所に屍体が放置されていた。
 政府を支配していた閔妃派は、贅沢な生活にうつつを抜かして、被災者をどう救えば良いかその手立てがわからなかった。
 救済資金を捻出する為に、少数精鋭の新軍隊を創設して旧軍隊の下級兵士を大量に解雇するという、軍制改革を断行した。
 儒教は、戦争を嫌う理想的平和思想として、人殺しを職業とする軍人を正常な人間ではなく狂人と見なし、武器を持つ兵士は賤民扱いとした。
 当然、儒教国家の武官は文官より地位が低かった。
 もし、不満を持って訴えてれば不忠者として厳罰に処せられ、悪くすると家族諸共に処刑されるか、家族共々奴卑に落とされて売られた。
 閔妃派上官や給付担当官らの横領で、政府軍兵士への給与の遅配が起きていた。
 貧しい兵士達は、飢える家族の為に借金をしてでも食べ物を手に入れ、何とか食いつないで生きていた。
 王宮を警備する近衛部隊は、日本軍士官が教官として教練する別技軍同様に、一般の政府軍とは違って服装から給与まで待遇は良かった。
 上級将校は、出世の賄賂に使う為に近衛兵への俸給米を途中で横領していた。その為に、近衛兵も遅配で飢餓におちいっていた。
 近衛兵は、王族や閔妃派高官らが湯水のように国費を浪費して大宴会を行う王宮を警備していた。
 1880年代 ローレンツ・シュタイン「日本において、朝鮮を占領するに非ずして、各海陸戦闘国に対し、朝鮮の中立を必要とす。けだし朝鮮の中立は、日本の権勢境域(主権線)を保全するが為に生ずる所の、総ての利益を満たすものなり。もし一朝、朝鮮にして他国の占有にきする時は日本の危機というべからず」「ロシア清国又イギリスたるを論ぜず、いやしくも朝鮮を占領せんとする者は日本の敵と見なさざるべからず」(ウィーン大学政治経済学教授、『斯丁氏意見書』)
 小国日本は、南下してくるロシア帝国の大軍との戦争に備えて、朝鮮の自主独立と親日的政権下での中立を望んでいた。世界的軍事大国との戦争に備えて乏しい戦力を維持する為に、朝鮮を軍事占領し、植民地もしくは併呑して駐屯軍を置くという愚策は避けたかったのが、本音であった。
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*壬牛軍乱
 1882年5月22日 米朝通商修好条約。アメリカ海軍提督シューフェルトは、宗主国清国から派遣された馬建忠の立会の下で、朝鮮正使・申木憲、副使・金弘集との間で14ヶ条の条約に調印した。
 周旋条項。「第一条 第三国が締約国の一方を抑圧的に扱う時、締約国の他方は事態の通知を受けて、円満な解決のため周旋を行う」
 朝鮮は、親善使節団をワシントンに派遣した
 アメリカは、朝鮮は日本と違って国際法や国際外交の慣習に慣れていないとして、海軍士官フォークを使節団に付けた。
 朝鮮使節団は、第21代大統領。チェスター・アラン・アーサー大統領と面会した際、中華皇帝に行う最高の礼式である三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼を行った。
 アメリカは、朝鮮の近代化を支援するべく、カリフォルニアの法律家ルーシャス・ホートを駐朝鮮公使に任命して漢城に派遣した。
 だが。ホート公使は、朝鮮王朝内の腐敗と政府内の不毛な権力争いと両班ら特権階級の不正に幻滅を感じ、自力での近代化は不可能と判断した。
 そして。朝鮮の為に周旋条項を発動する事は、アメリカの国益を損ねる恐れがあるとして、周旋条項にこだわるべきではないと判断した。
 朝鮮国内は、乱れに乱れ、漢城以外では盗賊が暴れ回って治安は悪化していた。
 政府部内は、閔妃派と大院君派が、保守派と開化派が、国民の窮乏を余所に党派抗争を繰り返していた。
 6月 壬午軍乱。近衛兵は、処罰を覚悟で武衛営大将・李景夏に訴え、俸給米を支給を担当する閔謙鎬宅を襲って破壊と略奪をおこなった。
 一部の兵士は、賊徒として処罰される事を恐れて、大院君に顛末を報告して指示を仰いで。
 大院君は、政治犯として捉えられている支持者の救出と閔妃の殺害を示唆した。
 数万人の貧民は、日頃の鬱憤を晴らすべく反乱軍に参加して、暴動を拡大させた。
 反乱軍は、閔妃閔妃派高官を皆殺しにすべく王宮に流れ込んで、政府役人は見付けしだい殺害し、家具調度を破壊するか略奪した。
 混乱の中で、閔謙鎬は惨殺され、閔妃は辛うじて王宮から脱出した。
 暴徒は、閔妃派高官宅や日本公使館を襲撃した。花房義質公使らは、公使館に火を放って脱出した。
 高宗は、混乱を鎮める為に、大院君に大権を委ねた。
 大院君は、執政に返り咲くや、大院君派で政権を固め、閔妃派を政治犯として逮捕した。
 姿をくらました閔妃は、混乱の中で死亡したと判断して国葬を執り行った。
 閔妃は、清国の実力者李鴻章に、軍乱の首謀者は大院君であると報告し、軍乱鎮圧の為に清軍の出兵を請願した。
 軍事力を放棄していた平和国家・朝鮮の悲劇は、この時から始まった。
 7月23日 旧軍隊への給与が遅配した上に、配給された米に砂や糠などが混入していた為に、下級兵士の不満が爆発して暴動を起こした。
 解雇された旧兵士や市民は、閔妃派への憤りから兵士の暴動に参加した。
 暴徒は、数千人に膨れ上がり、各地で放火と略奪を起こし、閔妃閔妃派政府高官を殺害する為に王宮に侵入した。
 閔妃派は、暴動に参加しなかった政府軍に乱軍鎮圧の命じた。
 閔妃の義兄である軍事大臣閔謙鏑ら十数名が、惨たらしく惨殺された。
 閔妃は、王宮を脱出して助かった。
 乱軍は、日本公使館を襲撃し、新軍隊の教官を務めていた堀本少尉を殺害した。
 朝鮮在住の日本人達も、反日暴徒に襲われて犠牲者を出した。
 花房公使ら公使館員18名と公館警察10名は、公館に放火し銃を乱射しながら漢城に向かった。
 朝鮮政府は、乱軍に突入されて混乱し、正統政府として日本公使らの身の安全を保護する処ではなかった。
 花房公使らは、9名を殺害されながらも、自力で海上に脱出して助かった。
 武器を持たない日本人居留民が、朝鮮人兵士や暴徒によって惨殺された。
 大院君は、高宗の要請と乱軍側の期待を受けて、事態収集に乗り出した。
 閔妃派の失政が暴動を引き起こしたとして、大院君派を政府各所に配置し、閔妃派が行った開化政策を廃止した。
 閔妃は、北洋大臣の李鴻章に対して、高宗を通じて清国軍の軍事介入を要請した。
 李鴻章は、朝鮮が日本の策謀で独立国として認知される事を阻止する為に、朝鮮国王の正式要請を受けたとして軍隊派遣を即決で決断した。
 日本と清国は、朝鮮に居住する自国民を保護する名目で軍隊を派遣した。
 日本を威圧する為に、アジアで最大級の海軍といわれた北洋艦隊と南洋艦隊を朝鮮沖に集結させ、4,000人以上の大部隊を漢城に向かわせた。
 清国は、東アジアでの宗主権を回復と強化する為に、朝鮮に対して属国として宗属関係の再確認を求めた。
 8月26日 北洋大臣の李鴻章は、朝鮮の監督・指導権を行使して、朝鮮への発言力を強めてきた日本を押さえ込む為に、袁世凱(23)と4,000人の大軍を朝鮮に派遣した。
 高宗の父親である摂政・大院君を逮捕し、中国に強制連行して3年間抑留した。
 清国軍兵士3,000人以上は、漢城内の反乱軍を鎮圧し、女子供を含む300人以上を虐殺した。
 朝鮮は、清国の植民地となり果てた。
 宗主国にして勝利者の権利として、ソウル市内で略奪や暴行や強姦を繰り返した。 
 朝鮮人は、日本人とは違って事大に徹して、中国人の乱暴を政府に訴える事なく受け入れた。
 朝鮮における悲劇は、国内の混乱を自力で解決せず、安易に外国軍隊を引き込んだ事にある。
 外圧を権力闘争に利用して、自分に有利な様に混乱を鎮めた事による。
 外圧に弱い国は、早晩滅亡するのが、歴史的事実である。
 国を維持できるのは、外圧に屈する事なく、自助努力で問題を解決できる国家のみである。
 朝鮮の滅亡は、他国軍を導き入れたこの時から避けられない運命となり、それを招いたのは朝鮮人自身であった。
 その原因を生み出したのは、異常なまでに政治権力に執着心を抱いた閔妃であった。
 袁世凱は、清国の軍事力を背景にして傍若無人の態度を取り、内政干渉を行い、国王高宗を威圧し、高官を下僕のようにあしらった。
 そして、閔紀との密通の噂が流れるやその妹を妾とした。
 閔妃派は、政府中枢を掌握して大院君派を追放した。
 正統派儒教は、性差別を説き、女性を表社会に出して政治に参加させる事を忌み嫌っていた。 
 8月 清国軍は、漢城に入城するや、大院君を捕らえて本国に置くって幽閉した。
 閔妃派は、政権を奪取するや政府や王宮から大院君派を追放し、これまでの親日路線から親中路線に切り替えた。
 そして、清国軍の協力を得て、乱軍に参加した将兵や同調者を捕らえ、残忍な拷問で仲間の名前を吐かせて殺害し、家財を没収し、家族を奴卑として売り払った。
 閔妃は、清国の軍事力を利用して、大院君派などの反対派への大弾圧を行った。
 清国の干渉が強くなるにつれ、新たな勢力としてロシア帝国を引き込む為にロシア公使夫妻との交際を強めた。
 朝鮮は、主権国家としての自主独立を自力で守る為の軍事強化路線を採用せず、周辺諸国の軍事バランスを操作して生き残ろうとした。
 その非軍事的外交戦略が破綻した時、朝鮮は滅亡して地図上から消滅した。
 金玉均や朴泳孝ら開化独立派は、事大主義の守旧派が主導権を取ると朝鮮の近代化は後退すると恐れ、日本の支援を得てクーデターを計画した。
 8月30日 日本政府は、江華島条約で得た権益を守り、清国の朝鮮への宗主権回復を阻止する為に、数隻の軍艦と1,500人の一個大隊を送った。
 花房公使は、朝鮮政府に対し強硬な要求を突き付けて、「済物浦(仁川)条約」と「修好条約続約」を結んだ。
 日本は、日本公使館を警備する権利を得て部隊を駐留させた。
 賠償金50万円は、井上馨らの意向に従って、朝鮮政府の財政難を考慮して返済期限を5年から10年に延長した。
 清国軍は、この時点でまだ日本軍との戦争を望んではいなかった。
 日本の不平等な要求を受け入れる事に難色を示していた朝鮮政府に、不利とわかっていても日本側の要求を受け入れる様に圧力をかけた。
 自国の混乱を外国軍隊で解決しようとした朝鮮政府には、自主権を守る為に外圧を拒否する権利はなかった。
 庶民は、日本軍の進駐を秀吉の朝鮮侵略に重ね合わせて、日本の横暴に憤り感じ、日本人への憎しみを駆り立てた。
 対して、虐殺をした清国軍兵士には、歴史的な宗属関係から親しみを感じていた。
 保守派は、伝統的反日派として屈辱的条約と嫌悪した。
 金玉均ら開化派は、日本並みの近代化を目差し、専横政治を行う外戚閔妃派への怨嗟の声をあげた。
『清国朝鮮商民水陸貿易章程』(1882年9月)「古代から属国であるので、清国政府との全ての問題における交通の規範は固定されており、変更の必要はない」
 李鴻章は、朝鮮は中国の属国である事を明文化し、宗主権の回復を宣言した。朝鮮の外交権を制限する為に、中国人の馬建常とドイツ人のメレンドルフを外交顧問として送り込んだ。
 李氏朝鮮は、宗主国清国の仲介で アメリカと修好条約を締結した。
 アメリカ政府「朝鮮は清帝国の従属国家であり、半島における何世紀にもわたる封建的国家としての支配は、清国によって承認された」
 日本は、対ロシア戦略から、朝鮮を中国から切り離して独立させる必要があった。その為に、開化派を利用して、清国勢力と反日派を朝鮮から放逐しようとした。
 金玉均は、朝鮮の政治改革の為に、日本からの武器弾薬の貸与を依頼した。
 日本は、朝鮮での騒乱に関与した事が諸外国に知られる事を恐れて拒否したが、改革が成功した時の財政援助と軍事支援を約束した。
 閔妃派と守旧派は、朝鮮から日本の影響力を排除する為に、清国軍の軍事力を利用して日本との提携を模索する開化派への弾圧を開始した。
 日本は、貧弱な軍事力では清国軍には対抗できないと判断して、開化派への支援を控えた。
 開化派支持者の多くが、親日派を捨てて親清国派に転向して、閔妃を支持した。
 日本は、朝鮮での地盤を失い、影響力も後退した。
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 壬午事変で、朝鮮人暴徒の犠牲になった者は戦没者に準ずる扱いを受けて、靖国神社に祀られた。
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 金玉均科挙に合格した中人階級出身の開化派は、下級武士や身分低い庶民でも優秀であれば政府の中枢で活躍できる日本に憧れ、明治維新に倣って旧体制を壊そうとした。
 日本は、安全保障の目的で、朝鮮を中華帝国から独立させ、資金・人材・技術を提供して近代化に協力し、同じ近代国家として同盟を組んでロシア帝国の侵略に対抗しようとした。
 だが。朝鮮は、日本の要望を拒絶し、日本の敵である清国とロシア帝国を頼りとして、日本を滅ぼす為に両国の軍隊を引き入れた。
 日本は、自主独立を守る為に、朝鮮から外国勢力を完全排除するべく併呑し、日本国内のインフラ整備を遅らせて朝鮮にヒト・モノ・カネを注ぎ込んで強制的に大改革を断行した。
 中人以下の虐げられて来た貧しい下層民は、儒教の抑圧から解放する「平等と自由」の日本的大改革に賛同した。
 両班は、既得権益を奪われて没落させられ、搾取し差別し迫害してきた無学な下層民に命令される立場に追い遣られた事に激怒した。
 日本は、餓死と病死の恐怖に怯える下層民から不安を取り除き安らぎを与え、食糧増産を行って飢餓を克服し、医療と衛生を指導して疫病を撲滅し、全ての子供に近代教育を施し、有能で意欲有る青年に殖産興業を指導した。
 両班は、儒教的知識人としての面子以外は全て日本に奪われた。
 日本の七奪とは、特権階級の両班の言い分であった。
 下層民の中人、常民、賤民、奴婢にとって、両班から奪われていた物を取り返す事ができた七恩であった。
 両班反日派となり、下層民が親日派となった。
 日本の植民地支配に協力して権力を手に入れた下層民出身者は、積年の恨みを晴らす為に反日派の両班出身者を差別し迫害を加えた。
 貧しい下層民は、仕事を求めて日本に渡っていった。
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*甲申事変
 欧州で定められた「万国公法」は、地球を分割し植民地を拡大する為に、自主独立の国家像を規定した。
 キリスト教価値観を持ち、近代法を整備した主権国家を、文明を持った「自主の国」とした。異教徒の国である日本、中国、ペルシャオスマン・トルコなどは、半文明の「半主の国」とし、朝鮮や琉球などは独立国ではなく未開の「無主の国」とみなした。
 万国公法は、近代的国際秩序体制を維持する為に、自主の国の自由と平等の権利を認めたが、半主の国の生存の権利は制限し、無主の国の存在する権利を認めず自主の国が植民地化して自国領に編入する事を認めた。
 1884年 朝鮮政府は、諸外国と国交を開くと同時に、信者を猟奇的な極刑で弾圧していたキリスト教の布教を許可した。
 アメリカのホーレス・アレン宣教師が朝鮮入りして布教活動するや、常人や奴婢などの間に多くの信者を得た。
 常人や奴婢ら、姓を持つ事も、教育を受ける事も禁止された下層民は悲惨な生活を余儀なくされ、朝鮮官吏や両班から人間以下のクズとして虐げらていた為に、自分達を守る為に献身的な活動をしてくれる外国人宣教師に救いを求めて洗礼を受けた。
 朝鮮政府は、儒教的道徳が崩壊する恐れがあっても、西洋列強を刺激しない為に、白人宣教師が反権力の象徴に祭り上げられていくのを黙認した。
 6月 清仏戦争(〜85年)。フランス軍は、宣教師が殺害され所とを理由にして出兵した。
 宣教師の殺害や弾圧は、戦争の原因となった。
 フランス艦隊は、清国海軍の南洋艦隊の根拠地福州を攻撃して制海権を確保した。
 陸上においても、フランス軍は各地で清国軍を撃退した。
 清国は、戦局を挽回する為に、最精鋭である朝鮮駐屯部隊の半数1,500人を増援としてベトナムに急派した。
 清国は敗北して、藩属国・安南(ベトナム)は、フランスの植民地となった。
 「学校よりも多くの監獄を建て、容赦なく愛国者を殺害し、蜂起を血の川に溺れさせた」(1945年のホーチミン独立宣言)
 キリスト教の西欧列強が占領した植民地では、容赦ない弾圧と虐殺が行われ、キリスト教会を数多く建てたが非白人非キリスト教徒の子弟の学校を建てなかった。
 キリスト教徒の征服者は、叛乱の元凶になるとして、教育を禁止した。 
 日本は、清国軍の弱体化を利用して、清国の宗主権を弱めて朝鮮の自主独立を強化しようとした。
 この年、北日本で冷害と風水害が発生した凶作となる。
 11月 開化派は、政治を私する閔妃派と清国への忠誠を誓う守旧派を排除する為に、日本公使館内で密議を交わした。
 11月1日 開化独立派幹部朴泳孝は、日本の竹添進一郎公使を訪問して、国政改革による日本の協力を要請した。
 日本は、対清及び対露政策から、朝鮮を中国の軛から切り離し独立させ対等な同盟関係を望み、国内改革への援助を約束した。
 同盟は無理でも、中立だけは保って欲しかった。
 事大派は、極秘情報として、清国から大院君が帰国する事を竹添公使に打ち明け、その了承を求めた。
 11月2日 竹添公使は、高宗に拝謁して、壬午軍乱の賠償として受け取りが決まっていた50万円の内40万円を、国防費として使うようにと要請して返還した。
 さらに、朝鮮の反日感情に考慮して日本公使館の警備を一個中隊に減らした。
 反日守旧派は、日本が臆病風で弱腰になったと邪推し、開化派は日本の後ろ盾を失ったとみ、清国の軍事力を引き入れて政権を奪おうとした。
 高宗は、日本が賠償金の一部を返還すると申し込んだ事に謝意を表明した。だが、閔妃は返還された金をすべて軍事費に使う気はなかった。
 王宮と閔妃派政権は、大国依存の事大国防政策を基本方針として、軍備を強化し自力で国を守ろうとする意思はなかった。
 朝鮮は、他国との戦争を考えていなかった。
 その意味では、世界でも珍しい非武装平和国家であった。
 平和国家が自国のみの平和を維持しようとした時、周辺諸国を混乱に落とし入れて、周辺地域で戦争を引き越した。
 大陸史の事実として、平和を理念として戦争を考えない理想国家ほど、戦争の原因となった。
 故に、人類史は平和国家を諸悪の根源と嫌悪している。
 当時。朝鮮に駐留していた清国軍は1,500人で、日本軍は140人でしかなかった。
 金玉均や朴泳孝ら開化独立派は、イギリスやアメリカの理解を得る為にクーデター計画を打ち明けて廻った。
 袁世凱は、事大派からの突発事が起きる危険性があるとの情報から、全兵士に軍装を解かず待機するように命令を出した。
 竹添公使は、クーデター勃発に際して、甲案として開化独立派を支援して清国軍と戦うか、乙案として開化独立派を保護するに留めるかの判断を、東京に問い合わせた。
 伊藤博文参議や井上馨外務卿らは、今後の対朝鮮政策について協議し、清国軍と戦闘になる事は好ましくないとして乙案を採用するように訓示した。
 この時点で、開化独立派によるクーデターは失敗した。
 11月12日 漢城の日本公使竹添進一郎は、東京の伊藤博文井上馨に対して、改革派の金玉均ら日本党を保護するに留めるか、清国との戦争を覚悟して朝鮮改革の為に日本党と提携してクーデターを起こすかの、二つの提案を行った。そして、今回自重しても、保守派が日本的改革を嫌って清国に支援を要請して日本党を追い落とそうとするのは明らかで、窮地に追い詰められた日本党がテロ行為に暴走すると警告した。
 だが。日本側としては、清国との戦争準備が整わない現時点で日本党が暴走する事は不利益であるとして、金玉均親日派勢力の暴発を抑える様に命じた。
 11月29日 金玉均は、王宮に参内し、高宗にクーデター計画を上奏した。
 「今は絶対に清に依頼するべきときにあらず。……内に制度を革新して民力を要請し、外に独立を宣言して門戸を開放し、以て文明開化を摂取せらるれば幾年ならずして国力は増強せられん」
 高宗は、開化独立派の勢いに押されてクーデター実行を認める密勅を与えた。
 竹添公使は、不測の事態に備える為に弾薬を公使館内に運び込んだ。
 同時に、クーデター計画が事大派に洩れている可能性があり、決行は見合わせた方が良いと金玉均に伝えた。
 金玉均は、成功に自信を持っていた為に情勢変化への柔軟さを欠き、後戻りはできないとしてクーデターの実行を同志に伝えた。
 12月4日 甲申政変。クーデターが決行され、開化独立派は事大派高官や閔妃重臣らを惨殺した。
 王宮にいた金玉均や朴泳孝らは、高宗の許可を得て、クーデターに賛同した開化独立派幹部による改革政権を樹立した。
 高宗は、竹添公使に対して日本軍で王宮を警備するようにとの信書を送った。
 閔妃は、このまま開化独立派が全権を掌握する事に危機感を感じて、高宗の名を用いて清国軍に賊徒と日本軍の排除を要請した。
 12月5日 開化派は、謀略をもって閔妃派や守旧派の高官を殺害し、高宗と閔妃の身柄を拘束した。
 金玉均は、開化派による新政権を組織して、高宗の裁可を得て閣僚を発表した。
 閔妃は、清国軍(1,500人)に対して、日本軍と逆賊の手からの救出を要請した。
 大義名分を得た袁世凱は、清国軍に日本軍が守る王宮への総攻撃を命じた。
 兵力に劣る日本軍は、多勢の清国軍と政府軍に果敢に抵抗したがやむなく敗走した。 
 日本は、清国との全面戦争を恐れて、撤退を開始した。
 高宗は、日本軍が敗走した事を確認するや、金玉均ら開化独立派を逆賊と見なして討伐する様に政府軍に命じた。
 清国軍と朝鮮政府軍は、日本人を見付けるや殺害した。
 朝鮮人暴徒と清国軍兵士は、日本人住宅や日本人商店を襲撃して略奪を行い、逃げ遅れた日本人居留民約40名を見つけるやリンチを加え、女性であれば強姦し後に殺害された。
 朝鮮人が暴徒化すると、冷静さをなくして手が付けられないほどに凶暴化した。
 中華帝国が、朝鮮を領土としなかったのは、そうした凶暴化すると止めようがない朝鮮人の民族性ゆえであった。
 その惨殺現場は、阿鼻叫喚の巷となっていた。
 朝鮮人と中国人は、武器を持たない日本人の女性や子供を猟奇的に楽しんで虐殺した。
 中国人は、朝鮮人はもちろん日本人さえも人間とは認めず、虫けらのようにあしらい、踏みつけにして殺しても痛痒を感じなかった。
 中国軍が行く所では、虐殺と強奪と強姦は付きものであった。
 常識ある朝鮮人は、中国兵の残虐性を知っていただけに、中国軍に救援を要請する事に躊躇していた。
 日本に憎む朝鮮人は、中国人からどんな仕打ちを受けようとも、日本人を朝鮮半島から追い出す為に中国軍を引き込んだ。
 福沢諭吉「朝鮮国は実に厄介国である」
 福沢諭吉は、罪のない民間人を虐殺した清国に激怒し、日本人女性が受けた恥辱は晴らす為に、清国を懲らしめるべきと訴えた。
 時事新報は、清国の猟奇虐殺への報復として「暴支膺懲」を声高に叫んだ。
 金玉均や朴泳孝ら数人は、日本の裏切りをなじったが、撤退する日本軍と行動を共にした。
 逃げ遅れた開化派は、国賊として、清国軍や政府軍によって見るも無惨に惨殺された。
 朝鮮に駐屯していた日本部隊は二個小隊(200人未満)で、竹添公使と日本人居留民(約100名)を護衛しながら朝鮮を脱出した。
 竹添公使らは、仁川港に停泊していた千歳丸に命辛々避難した。
 金玉均ら9名は、日本艦船に乗船して日本に亡命する意思はなかったが、千歳丸の辻艦長のたっての要請でやむなく乗船した。
 朝鮮政府の外交顧問ドイツ人メンレンドルフは、竹添公使に、反逆者金玉均らの引き渡しを要求した。
 竹添公使は、これ以上の日朝関係の悪化を避ける為に、金玉均らの引き渡しに同意した。
 辻艦長は、引き渡しを拒否して、金玉均等を乗せたまま帰国した。
 清国軍と政府軍の攻撃で、40名以上の死傷者を出した。
 逃げ遅れた開化独立派は、清国軍と朝鮮政府軍によって見るも無惨に殺害され、その家族は三族に至るまで虐殺された。
 女子供に関係なく、全てが猟奇的に殺害され、殺されなかった者は奴隷として売られた。
 朝鮮社会とは、儒教価値観から賊に対する処罰は厳しかった。
 女性は、例外なく老女から少女まで強姦されてから殺された。
 正統派儒教は、敗れた敵に対する大虐殺を「是」として認め、徳をもって敗者に恩情をかける事を厳禁とした。よって、儒教世界では大虐殺が絶えなかった。
 さらに、その屍体は見るも無惨にバラバラに解体して辱めてから山野に捨て、その霊魂は尊厳が認められず汚された。
 東アジア世界は、権力者の正統な権威を誇示する為に、敵の死者に対して不寛容で容赦がなかった。それは、日本とは正反対の死生観である。
 袁世凱は、清国側を代表する朝鮮総理通商交渉事宜として漢城に残り、朝鮮を監視し、内政に深く干渉した。
 閔妃も大院君も、朝鮮から日本を追い出す為に清国・中国が保有する世界規模の軍事力に期待した。
 清国商人は、宗主国の人間として、朝鮮経済を支配し暴利を貪った。
 清国軍は、朝鮮人が清国人の商店を襲えば、自国民保護を理由にして暴徒を武力鎮圧し、朝鮮政府に圧力をかけて犯人を探索して拷問にかけて厳しい処罰を与えた。
 袁世凱は、自国民を朝鮮人暴徒から守る為に、清国居留民を漢城の明洞に集めた。
 12月7日 高宗は、日本との関係を修復する為に、日本に受けの好い穏健な開化中間派の金弘集を外務督弁に任命した。
 閔妃派と事大派は、日本との友好を重視しているように見せながら、その実、清国寄りの政策を推し進めて日本の影響力を排除した。
 金弘集は、死亡した日本人への慰謝料と消失した日本公使館の補償を定めた、漢城条約をまとめた。
 反日派は、屈辱的な条約と反発し、金弘集売国奴として非難した。
 閔妃派政権と袁世凱は、日本に亡命した金玉均ら開化独立派に対して、多額の賞金をかけ、刺客を送った。
 福沢諭吉らは、金玉均らを刺客から守る為に、日本国内を転々と移動させた。
 李鴻章と高宗は、自尊心が人一倍強い金玉均を殺害する為に、謀略をもって上海に誘き出して殺害した。
 閔妃派政府は、屍体を中国軍艦で朝鮮に運んでバラバラに解体し、肉塊と化した遺体を各地に巡回させ、街頭に晒した。そして、その霊魂が永遠に癒やされないように辱めた。
 金玉均の、父親は死刑、母親は自殺、弟は獄死、家族は全滅した。
 一家のうち、反抗しそうな男は殺害され、残った者は女子供に関係なく全て奴卑の身分におとされて売られた。
 それが、宗教を否定する儒教の実態であった。
 福沢諭吉は、植民地政策で迫り来る欧米列強に対抗する為に「日韓清三国同盟論」を唱えていたが、朝鮮の近代化に絶望して「脱亜論」に切り替えた。
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 1883年4月 日本海軍水路局は、イギリスやロシア帝国が「日本海」という名称を海図に記載している事を参考にして、『寰瀛(かんえい)水路誌』に採用した。
 1894年刊行の『朝鮮水路誌』にも、各国の地図や海図に「日本海」が明記されているとして、「日本海」を公式名称として踏襲した。
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